銀魂から入ったから「真選組」はわかるけど、その元である史実の「新撰組」はさっぱり知りません。 とゆう方向けの誤った新撰組+αの紹介ページです。
かなり偏った内容(土方さんとか副長とか土方さんとかに)となっていますので、そのまま鵜呑みに したり、ましてや参考には絶対にしないようご注意ください。
ちなみに人物紹介は如月の独断と偏見による人選(&順番)となっております。





「新撰組」って何?

局中法度書

函館新撰組と守衛新撰組



― 隊士紹介 ―

近藤勇   土方歳三   沖田総司   斎藤一   永倉新八

原田左之助   山南敬助   山崎烝   島田魁   井上源三郎

藤堂平助   伊東甲子太郎   市村鉄之助   野村利三郎

相馬主計   中島登   安富才輔   芹沢鴨   新見錦



― その他の人々 ―

大鳥圭介   伊庭八郎   坂本竜馬   桂小五郎   高杉晋作



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「新撰組」って何?


反乱分子を即時処分する対テロ用特殊部隊・・・・・・・・では勿論ない。
1863年に壬生浪士組(隊)として発足後、その功績から新選組という名を貰い受け幕末の動乱の中 活躍した武装集団のことである。
身分としては京都守護職を勤める会津藩お抱えで、主に京都市中の治安維持等を仕事にしていた。
元々は京都の治安の悪さに頭を抱えていた幕府が、清河八郎の発案で江戸近郊に徘徊する武芸に自信の ある浪士を集めて14代将軍・徳川家茂が京都へ上洛する際の警備にあたらせようと画策し、「浪士隊」 を公募したのが始まり。近藤・土方ら試衛館一同もこれに参加した。
ところが京都に着いた途端、清河八郎がこの浪士隊が実は幕府の為ではなく、尊皇攘夷活動をする為 に集めた朝廷の私軍であると全員に告げ、これに慌てた幕府は浪士隊全員に江戸に引き上げるよう命 じることに。それに反対したのが近藤ら試衛館一同と、芹沢鴨を中心とする水戸脱藩一同。
その後京都残留を決意した彼らは、芹沢の兄のコネもあって、京都守護職であった会津藩お抱えの 身分となるのである。ちなみにこの頃はまだ「壬生浪士組」。屯所が壬生にあったから、とゆうのが由 来らしい。
そして文久3年の「八月十八日の政変」にて会津藩公認の初陣を飾り、その功績から「新撰組」の名を 貰い受け、その後「池田屋事件」にてその名を一気に広めることになる。
その後は幕臣に取り入れられたりしたが、鳥羽・伏見の戦いの敗戦、局長である近藤勇の死、会津戦争 の敗戦などを経て、新撰組は解散することになる。
結局、新撰組が存在したのは幕末の僅か6年間だけだった。


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局中法度書


新撰組内での決まりごとのこと。これを破れば切腹です。以下その内容。


   一、士道ニ背キ間敷事
   一、局ヲ脱スルヲ不許
   一、勝手ニ金策致不許
   一、勝手ニ訴訟取扱不可
   一、私ノ闘争ヲ不可

   右条々相背候者
   切腹申付ベク候也


これじゃあ何のことだかさっぱり。って方の為に、以下優しい訳文です。


   一.相手に背を向けたり敗走しちゃあダメ
   一.新選組から抜けてはダメ
   一.勝手にお金をつくっちゃダメ
   一.勝手に自分たちだけで裁判するのはダメ
   一.私的な争いをしちゃあダメ

   以上のことを守れなかった者には
   切腹していただきます


厳しいですね。でもこれは単なる基本です。
これに更に細かい決まりごとが付いています。例えば「無断外泊はダメ」とかもその一部。 有名なので言えば、「背中に傷をつけられてはいけない」とかもあります(これはイコール敵に背を向 けたからってことらしい)。
でもこれらの決まりの基本思念は全て「武士道に背くべからず」に通ずるそうです。
これらを破れば例え幹部でも切腹は免れません。(一部例外もありましたが)
ただし正当な理由があれば、それなりに融通は利いたよう。例えば「勝手に組から抜けてはいけない」 ってゆうのも、勝手に脱走せずに(この場合は追跡後切腹)ちゃんと申し立てて、きちんとした理由 を言って、それが納得できるものであれば大丈夫だったみたいです。
要は人によっての気持ちの持ちようですね。


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豊玉発句集


土方さんの趣味である俳句が記された、土方さん自作発句集。ちなみに俳号(俳句を詠む上でのペンネ ームみたいなもの)は「豊玉(ほうぎょく)」です。
さすがに春と梅が好きなだけあって、その二つを詠んだものが多く、その率直に思ったままを詠んで いるところが何とも言えず可愛い。あの土方さんが、一体どんな顔して俳句を詠んでいたのかが気に なって仕方がない今日この頃。以下のその一覧。(コメントは気まぐれに追加します)



差し向かう心は清き水鏡
→ 俳句集の先頭にある歌。沖田総司を詠んだものともっぱらの噂。

裏表なきは君子の扇かな

水音に添えてききけり川千鳥

手のひらを硯にやせん春の山

白牡丹月夜月夜に染めてほし

願うことあるかも知らす火取虫

露のふる先にのほるや稲の花

おもしろき夜着の列や今朝の雪

菜の花のすたれに登る朝日かな

しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道
→ 恐らく一番有名な歌。「し」を「知」と読むか「志」読むかはお好みで。

しれば迷いしらねば迷ふ法の道

人の世のものとは見へぬ桜の花

我年も花に咲れて尚古し

年々に折られて梅のすかた哉

朧ともいはて春立つ年の内

春の草五色までは覚えけり

朝茶呑てそちこちすれば霞けり

春の夜はむつかしからぬ噺かな

三日月の水の底照る春の雨

水の北山の南や春の月
→ 山南さんを詠んだ歌ともっぱらの噂。仲、良かったのかな。

横に行き足跡はなし朝の雪

山門を見こして見ゆる春の月

大切な雪は解けけり松の庭

二三輪はつ花たけはとりはやす

玉川に鮎つり来るやひかんかな
→ 釣りをする土方さん・・・・・想像できんような、可愛いような。(なんだそりゃ)

春雨や客を返して客に行

来た人にもらひあくひや春の雨

咲ふりに寒けは見へず梅の花

朝雪の盛りを知らす伝馬町

岡に居て呑むのも今日の花見哉

梅の花一輪咲てもうめはうめ
→ やべっ!可愛すぎるってばさ ・・・・!!確かに梅は梅だよね。うん。・・・・可愛い。

(井伊公)ふりなからきゆる雪あり上巳こそ
→ 桜田門外の変での井伊直弼の死を詠んだ歌。

年礼に出て行空やとんひたこ

春ははるきのふの雪も今日は解

公用に出て行みちや春の月

あはら屋に寝て居てさむし春の月

暖かなかき根のそはやいかとほり

今日もきょうたこのうなりや夕けせん

うくひすやはたきの音もつひやめる
→ 思わずはたき持って掃除してる土方さんの姿を想像。・・・・奥さん!!

武蔵野やつよふ出て来る花見酒

梅の花咲るしたけにさいてちる


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函館新撰組と守衛新撰組


函館新撰組とはその名の通り、函館での新撰組のことです。(←見も蓋もねぇ)  もうちょっと言うと、函館まで土方さんについて来た、愛しく可愛い奴らのこと。新撰組と言っても 、京からの古参メンバーは十数名しかおらず、その大部分は仙台などで新しく加わった桑名・唐津・松 前脱藩士で構成されている。
そして守衛新撰組というのは、その函館新撰組の中でも特に選ばれた者のこと(つまりは土方さんの側 近的存在)で、別名・土方副長親衛隊。合言葉は副長には指一本触れさせませんでどうですか? な、函館新撰組の平隊士にとっての憧れ的存在(かどうかは知らんが、たぶんそうだと思われ)。
ちなみに守衛のメンバーは島田魁を隊 長に、中島登、沢忠輔、松沢乙蔵、畠山芳次郎、漢一郎、大庭久輔、 赤羽音吉、関清介などなど。函館で陸軍奉行添役(陸軍奉行並の土方さんの側近)だっ た相馬主計野村利三郎安富才輔、 それに土方さんの小姓だった市村鉄之助や田村銀之助、玉置良蔵もこ れの一員と見てよいだろう。(つか如月の調査不測で、誰が守衛かそうじゃないかの分別が詳しく分か らない)(←へたれ)
豆知識としては、同人創作では守衛新撰組に虐められる大鳥圭介の姿 が良く目撃されることか。ちなみに虐めてるメンバーとしては、野村・中島を筆頭に、相馬や市村 (時々島田さんも)なんかが有名どころだったりする。
ところがこの函館新撰組(守衛の一部含む)の隊士達が、尊敬する土方さんの死に立ち会うことはな かった。それどころか土方さんは、弁天台場に取り残され、官軍に包囲された新撰組を助ける為に 出陣し、弁天台場に辿り着くことなく戦死したのである。そしてそのことを弁天台場の連中が知った のは土方さんが亡くなってから数日経ってからで、その時の様子を 新撰組隊士・石井勇次郎は 『砲台(箱館弁天台場)ニ在ル新選組、其長(土方さんのこと)死スヲ聞 キ、赤子ノ慈母ヲ失フカ如ク悲嘆シテ止マズ。アア、惜シムベキ将也』 と書き残している。 新撰組隊士達にとって、土方さんがどのような存在だったかが察せられる一文である。なんたって慈母 だしね。慈母。


△モドル