安富 才輔 (やすとみ さいすけ)

天保10(1839)年〜明治3年(1870)?

土方副長命!な函館新撰組陸軍奉行添役で新撰組伍長で勘定方。その 他馬術師範をしたり監察方をやったりと、多才なお人でもあります。
備中足守藩出身で武蔵生まれな足守脱藩者。江戸で浪人をしていたところ、元治元年10月に江戸で近藤 さんが隊士募集をしていたので入隊。ちなみにあの伊東甲子太郎と 同期だったり。入隊直後は斎藤率いる3番隊に配属される。
その後慶応元年には大坪流馬術を修めていたことから、馬術師範に抜擢される。他にも伍長、 監察方、勘定方を務めるなど有能っぷりを披露。きっと土方さんの覚えも良かっただろうことが推測 される。
慶応4年に江戸帰還後は甲陽鎮撫隊(新撰組の仮名部隊)にて小荷駄方を務め、流山で近藤さんが投降 してからは、近藤さんの助命のため江戸に向かった土方さんとは暫し別行動。土方さんの言い付けどお り会津へ向かう(そしてその後無事合流)。そして土方さんが宇都宮城の攻防戦で足を負傷して戦線離 脱してからは、臨時の新撰組隊長であった山口次郎こと斎藤一の下で、これまた臨時で副長を務める。 やっぱり有能だったんだ〜。
その後は会津を離れた土方さんを追って、仙台へ。共に蝦夷地に渡ります。
そして運命の明治2年5月11日、弁天台場に配属されず五稜郭に残っていた彼は、弁天台場救出に向かう 土方さんに同行。一本木で土方さんが撃たれたとき(涙!)も傍にいたらしい。土方さんの戦死を五稜 郭に伝えた。
5月15日に弁天台場降伏が降伏した翌日、16日に土方さんの戦死を記した書簡を、同じく新撰組隊士だ った立川主税に託し、土方さんの実家である日野へ届けさせている。どんな気持ちでこの書簡を書いた のか・・・・と考えると・・・・うう、泣けるっす。この時、討ち死に覚悟の決意と土方さん追悼の 句、「早き瀬に 力足らぬや 下り鮎」も一緒に送ったそうな。 そして彼自身は5月18日に五稜郭降伏がした後は青森・弘前の耕春院に送られた。
明治3年1月に釈放され、その後ほどなくして東京で死亡したと言われている。高台寺党(伊東派の生 き残り)の残党、阿部十郎に殺害されたらしい。詳しいことはわかっていないが、明治3年に殺害さ れたとすると、享年は31歳。戦争後に殺害されるなんて・・・・・かっし〜の呪いか。

△モドル