斎藤 一 (さいとう はじめ)

天保15年(1844)1月2日〜大正4年(1915)9月28日
愛刀 : 摂州住池田鬼神丸国重

某るろうに●心のお陰で結構有名な新撰組三番隊組長。もちろん牙突はやりません。
江戸で幕臣の家に生まれる。三人兄弟の末っ子で次男。実は沖田より(沖田が天保13年生説だと)年下 だったりする。恐らく新撰組幹部の中で は藤堂平助と並んで最年少組。
安政5年に元服。この頃から、会津藩江戸屋敷にある道場で一刀流を学んだと言われる。18・9歳の頃 から試衛館にも出入りしていたらしい。ちなみにこの時はまだ、山口一と名乗っていた。
しかし19歳の時に誤って人を斬り殺してしまい、江戸にいられなくなったため、父の知り合いである京 都の吉田の道場に匿われた。この時に斎藤一と名を変えている。
その後文久3年に壬生浪士組に参加し、即幹部となる。が、ここら辺は諸説があって、一度は京に逃げ たが、再び江戸に戻って試衛館の連中と共に浪士組に参加したという説も。また、実は会津藩の間諜 としての入隊だったという説もあるが、この説は最近では信憑性が低いとされている。
真面目で口数が少なく、仕事にも忠実、しかも新撰組でも一二を争うほどの剣の使い手だったこともあ り、かなり土方さんにも信頼されていた模様。しかし近藤さんの信も厚かったにも拘らず、 永倉原田が会津に近藤さんの増長に対 する建白書を提出した際、一緒に署名していたりと、行動に謎が多いところも。 酒には強いが、酔うと人を斬りたくなるとゆう性癖は有名。あとよく左利きとされていたりするが、 真偽のほうは不明だったり。
伊東派が新選組から分離した際は、土 方から命じられて(この事から土方さんがどれだけ斎藤を買っていたかが分かる)、間者として共に新 撰組を離れる。この時の斎藤の間者ぶりは余程見事だったようで、伊東派を一掃した油小路事件後も、 その生き残りである阿部十郎は斎藤は間者ではない。と、「史談会速記録」に残している。ちなみにこ の後再び新撰組に戻る際には、山口次郎と名を変えていたりする。そして鳥羽伏見の戦いの後には一 戸伝八と再び改名。ややこしい事この上ない。
戊辰戦争時は、会津が落城しそうになった為、 仙台へ撤退しようとする大鳥と土方に 反対して会津に残った。これが斎藤と土方の別れとなる。・・・と、なっているが何故か新撰組の創作 小説の中には土方さんと共に函館まで行っちゃう話があったりなかったり。(とゆうより創作小説 (not 同人)では 、斎藤が土方さんをかなり慕っているものが殆どである。寧ろ嫌っている設定のものを探す方が難しい 。それゆえか斎土は土受けCPの中でも人気が高かったりする)
その後彼は、会津郊外の如来堂に布陣していたところを新政府によって奇襲され、何とか逃げ延びたも のの同士たちと散り散りになった。
そして会津戦争が終結した後は謹慎生活を送ることになる。
明治に入ってからは藤田五郎と名乗り、警視局の警部補として働いた。警視局では剣術師範もしていた らしい。ちなみに時尾さんという女性と結婚している。
西南戦争にも参加し、警視局退職後は東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)の事務員をしていた。
そして大正4年9月28日永眠。享年72歳。 この時彼は切腹を思わすように、正座したまま息を引き取ったらしい。

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永倉 新八 (ながくら しんぱち)

天保10年(1839)〜大正5年(1916)
戒名 : 憲徳院義衛良行居士・釈義潤
愛刀 : 播州住手柄山氏繁

地味に有名だったりする(←失礼)新撰組二番隊組長。志村ではなく、永倉です。メガネも勿論かけて ません。ましてや軍曹なんて・・・・(しつこいので強制終了)。
松前藩江戸定府取次役の永倉勘次の次男として生まれる。が、他異説ありで定かではない。
18歳で神道無念流本免許皆伝、そして19歳で脱藩後、4年間は剣技を磨く為に修行、江戸に戻った頃か ら試衛館に出入りするようになる。 ちなみに
島田魁とは、坪内道場で知 り合ったらく、仲が良かった。 また原田左之助とは創作でもよくセッ ト扱いされているが、実際良く気が合って、仲が良かったらしい。
試衛館の一員として浪士組に参加した後は、副長助勤他幹部に名を連ね、池田屋事件でも活躍。まっす ぐな性格で正義感が強く、近藤局長が増長した時には切腹覚悟で会津藩に建白書を出したりもした。
また剣の腕前も素晴らしく、一・二・三番隊組長(一は沖田、三は斎藤)は新撰組でも随一の剣客 と恐れられていた。
新選組末期には原田と共に崩壊寸前の隊を再編成するのに力を尽くすも、近藤さんの不用意な一言(な にやら「家来にしてやってもよい」みたいな事を言ってしまったらしい。同士として共に戦っていた永 倉にとっては許せなかったようだ)に腹を立て、原田と共に新撰組との決別を決意する。 その後は江戸へ帰還して、原田と共に靖兵隊を結成し、各地を転戦の後に再び江戸へ戻った。
そして維新後は旧松前藩藩医、杉村松柏の婿養子となり明治8年に家督を相続、北海道樺戸集治監の剣 術師範を勤める。そして新撰組の生き残りとして同士の鎮魂の為に、函館や東京等、新選組に関連した 慰霊碑などを建立する。ちなみに『新選組顛末記』という回想録も記しており、これは新撰組に関する 重要な資料となっている。
最後は小樽にて病没。享年77歳。

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原田 左之助 (はらだ さのすけ)

天保11年(1840)〜慶応4年(1868)5月17日
戒名 : 正誉円入居士
愛刀 : 江府住興友

似たような名前の方がるろうに剣●にもでてきますよね、な新撰組十番隊組長。斬馬刀じゃなくて槍 を使います。無論、喧嘩士でもありません。
伊予・松山藩の中間の長男として生まれる。そして15・6歳の頃、江戸中屋敷で従者として働いてい たらしい。
とある武士と口論になって、「切腹の作法も知らぬ下郎め」と罵られて「ならやってやる」と言い放ち 、一気に腹を斬ったのは有名な話。以来この切腹未遂の傷は彼の自慢になった。
万延元年の頃に大坂へ出て、谷三十郎の道場で種田流槍を学んだ後、江戸へ下り試衛館へ出入りするよ うになった。
そしてその後試衛館の一員として浪士組に参加。副長助勤等幹部として活躍し、それは新選組の関わっ た主な事件には殆ど参加しているほどだった。
屯所が西本願寺に移転してすぐ、町人の娘まさと恋仲になり結婚。慶応2年には男子が生まれている。 ちなみに新撰組の幹部(もしかしたら平隊士も含めて)の中でも京にいる間に所帯を持ったのは、彼く らいだったりするらしい。
そんな原田は新撰組の中でも美男子として有名。性格はかなり気が短いが、人情に溢れ、部下の面倒見 も良かったらしい。しかもその上愛妻家・・・・・惚れるね。男前だよ。
永倉新八と共に甲州勝沼で新撰組を離 れた後は、永倉と靖共隊を組織する。しかし会津に向かう途中の宿で彼と別れ、突然江戸へ帰ってしま う。永倉は、「妻子への愛着にひかされた」と言っているが、結局京都へは戻らなかったらしい。
その後は彰義隊に加わり、慶応4年5月15日に重傷を負ってしまう。 そして17日に命を落としたと言われている。享年28歳。
余談だが、彼は実は死んではおらず、生き延びて中国大陸に渡り馬賊の頭目になったという話しがあっ たりする。が、信憑性が薄く、半ば伝説みたいなものである。

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山南 敬助 (やまなみ けいすけ)

天保4年(1833)〜慶応1年(1865)2月23日
本名 : 山南敬助知信
愛刀 : 摂州住人赤心沖光

ピスメのお陰でメガネにソロバンのイメージが、大河のお陰で笑顔大魔人(腹黒)のイメージが定着し た(かもしれない)新撰組副長で総長。 ジャンプっ子には知名度は低いかもしれない人その1。
陸奥仙台の剣術師範山南某の次男として生まれる。千葉道場にて北辰一刀流を修め、免許皆伝。試衛館 に訪れた際に近藤さんと手合わせするが負けてしまい、その後天然理心流に入門。そのまま試衛館の一 員として浪士組に参加する。
最初は土方さんと同じく副長の地位にあった。土方さんが「鬼の副長」なら山南さんは「仏の副長」。 温和で優しい性格だった為、隊士達からはかなり慕われていた。
その後副長から総長になるが、その地位は副長より格上にもかかわらず隊士に対する指揮権はなく、 局長の相談役としての職であった。
池田屋事件にはその少し前から健康を害し臥せていた為、参加せず留守番。この頃から次第に攘夷派で ありながら佐幕の先鋒とゆう新撰組のあり方に、疑問と不満を抱いていたようだ。
慶応1年2月、彼は隊を脱走。だがすぐに追跡した沖田によって大津で捕らえられている。残していった 置き手紙に行き先を書いた上で脱走したらしい。これには様々な説があるが、一説にはその手紙に、 「局長は土方の言うことばかり聞いて、自分の意見を容れてくれない」やら「土方の奸媚に迷って云々 」とも書いていたとか。・・・・・つか奸媚て。土方さんはアンタにとって一体どんな風に見えてたん デスカ?
そして2月23日壬生屯所にて隊規違反により、沖田の介錯にて切腹する。ちなみにこの時彼は土方さん に向かって「九尾の狐」と罵ったとか・・・・。九尾の狐と言えば、殷の紂王の愛姫の妲妃、天竺 で斑足王の華陽夫人、周の幽王の寵姫の褒ジ、そして日本でも鳥羽院の愛妾の玉藻前が有名で、絶世の 美女に化けて権力者に取り入り、傾国に陥れる妖怪として・・・・ってあれ?土方さんは確か男性だ ったような・・・・あれ〜?
とまあ色々ありますが、山南さんは土方さんと日頃から対立することが多く、脱走の少し前にも屯所を 西本願寺に移すことについて土方さんと対立しており、隊士の中には総長の脱走はその事に原因がある のではないか。と考える者が大半だったようで、彼の切腹は隊士達の土方副長に対する反感を一層強め ることになった。
享年33歳。余談だが、彼の恋人である明里が彼の切腹の際、屯所の出窓(だったかな?)に縋り付いて 泣き叫んで別れを惜しんだ、という話も残っている。

△モドル