井上 源三郎 (いのうえ げんざぶろう)

文政12年(1829)3月1日〜慶応4年(1868)1月5日
戒名 : 誠願元忠居士
愛刀 : 奥州白河住兼常

何故かお爺さんキャラとして定着されつつある新撰組6番隊組長。実際は近藤さんより5歳程年上なだけ なのに・・・・。何故だろう?
武蔵国多摩郡日野宿北原に井上藤左衛門の三男として生まれる。天然理心流の門下生としては、近藤・ 土方・沖田よりもだいぶ先輩。万延元年には免許皆伝となっている。よく源さんはそんなに腕の立つ人 物ではないように描かれていることが多いが、天然理心流の免許皆伝なんだから、実際は結構強かった のではと思ったり。大河みたいな感じでさ(大河の源さんはカッコ良いよね〜)。
試衛館の一員として浪士組に参加し、その後は副長助勤などの幹部に名を連ねていた。同じ多摩出身で 天然理心流ということもあり、近藤・土方・沖田との絆は強く、鬼の副長と呼ばれていた土方さんも 源さんには弱かった(つまりそれだけ気を許していた)ようだ。3人にとっては兄のような存在だった のだろうと推測される。また、無口だが温厚な性格で、平隊士達にはかなり慕われていた。
そんな源さんも鳥羽伏見の戦いのさなか、掟千両松の激戦で戦死。その時源さんの首と刀は、甥で同じ く新撰組隊士であった井上泰助が近くの寺院の門前の田圃に埋めたらしい。が、現在もその場所は不明 である。享年39歳。

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藤堂 平助 (とうどう へいすけ)

弘化元年(1844)〜慶応3年(1867)11月18日
本名 : 藤堂平助藤原宜虎
愛刀 : 上総介兼重

ピスメのお陰で可愛いもの好きな三馬鹿の一員的イメージが定着した(かもしれない)新撰組8番隊組 長。ジャンプっ子には知名度は低いかもしれない人その2。
武蔵国江戸出身とされているが、伊勢・津藩主藤堂和泉守の落胤という噂もある。北辰一刀流でありな がらも試衛館に出入りするようになり、そのまま試衛館の一員として浪士組に参加。副長助勤等の幹部 としては
斎藤一と並んで最年少組。
新撰組の中でも美男として有名な彼ではあるが、見かけとは裏腹に血気さかんな若者で、その勇猛果敢 な姿は「魁(さきがけ)先生」と呼ばれるほどだったとか。
池田屋事件では近藤さん達と共に突入し、活躍。その際額を割られる大怪我をしたが、命は取り留め た。
そんな彼も慶応3年3月に伊東派の一員 として新撰組から分離。新撰組とは敵同士となる。兄とも慕っていた同じ北辰一刀流であっ た山南敬助の切腹が、彼を分離に走ら せた大きな要因と言われているが、詳しい原因は不明。
慶応3年11月、油小路事件(伊東一派を新撰組が一掃した事件)にて死亡。この 時、永倉などは「藤堂は助けてやりた い」と言って逃がそうとしたが、事情を知らない新入隊士(三浦常次郎とされている)が斬りつけて しまい、帰らぬ人となったらしい。享年23歳。

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伊東 甲子太郎 (いとう かしたろう)

天保6年(1835)〜慶応3年(1867)11月18日
本名 : 鈴木大蔵
愛刀 : 濃州住志津三郎兼氏

某ピスメや某少女漫画風●るのお陰ですっかり土方さん狙いのオカマのような変態キャラになってしま った新撰組参謀。実際はどうだったのか不明だが・・・・とりあえず変態ではなかっただろうに。
常陸国志筑に生まれる。この時はまだ鈴木大蔵。神道無念流の剣術と尊皇攘夷思想の水戸学を学んだ 後江戸に出て、深川佐賀町に北辰一刀流の道場を開く伊東誠一郎に入門。その師である伊東誠一郎 が病死したため、遺言によって一人娘であるうめの婿となり道場の跡目を継ぎ、伊東大蔵と名乗る。 ちなみにこの時教えていた門下生の中 に
藤堂平助がいたとかいないとか。
元治元年の8月にその藤堂平助より新選組加盟の誘いがあり、近藤さんと対面しその場で同志7名を連 れての入隊を約束。そして元治元年10月に新選組に入隊し、その際その年の干支にちなんで名を甲子太 郎に改めた。
入隊後は参謀という新しく作られた地位につき、隊規を犯した者に対する助命の進言、尊皇攘夷思想の 水戸学を学んだ知性などで隊士達の羨望・信頼を集めながらも、尊皇攘夷とは名ばかりで佐幕の先鋒と も言える新撰組のあり方に不満を募らせていった。
そんな彼の容貌は色白の優男風の美男で、頭が良く、道場主なだけあって剣客としても申し分の無い腕 前をしており、それが一層隊士達の羨望を集める要因となっていた。だが熱烈な尊王攘夷思想派であっ た為、近藤さんが彼を参謀として重宝している傍ら(近藤さんは教養のある才子を重宝する傾向があっ た)、土方さんはかなり警戒していたようだ。
新選組に在隊して約2年、慶応3年3月に伊東ら13人は、孝明天皇の御陵衛士となり新選組を外部より応 援するという口実で 、局中法度である「局ヲ脱スルヲ不許 (隊を抜けることは許さない)」に触れることなく、隊を脱する事に成功した。
晴れて自由に勤王運動を展開出来るようになった伊東だが、新選組の幹部を2年も務めていた事もあっ て、勤王方の中には新選組の回し者ではないか、と疑う者が多く、その嫌疑をはらす為に近藤局長の 暗殺を計画するも、新撰組の間者として御陵衛士に参加してい た斎藤一によって情報が洩れてしまう 。そして逆に近藤・土方によって近藤さんの妾宅まで誘き出され、酒で酔わされたうえで帰り道で襲 撃され、死亡した。享年33歳。
そしてその後、伊東の死体は油小路事件(伊東一派を新撰組が一掃した事件)にて伊東一派を呼び寄せ る為に利用されてしまう事になる。(伊東一派は伊東の死体を引き取りに来たところを新撰組に襲撃さ れた)

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野村 利三郎 (のむら りさぶろう)

弘化元年(1844)〜明治2年(1869)3月25日
本名 : 野村利三郎義時
戒名 : 勇山義剣居士

土方副長命!な
函館新撰組陸軍奉行添 役で新撰組局長附人数。土方ママにとっての問題児その1(笑)。
美濃国大垣出身で、新撰組に入隊したのは結構後半。新撰組の話の中で名前が出てくるのは、近藤局長 が流山で投降してから。この時彼は投降する近藤さんに従って行く。当然そのまま捕縛され、近藤さん が処刑されてから、近藤さんの助命嘆願書を持ってきて捕まってしまっ た相馬主計と一緒に釈放される。
その後は新撰組に合流しようにも、当の新撰組は土方さんと共に奥州へ発った後。しかも周りは 敵だらけ。仕方なく上野彰義隊の生き残りである春日佐衛門が兵を引き連れ蝦夷に向かうと聞き、 一緒に連れて行って貰うことに。そして無事仙台で新撰組に合流を果たす。
合流したからには当然新撰組に復隊したいと願うのだが、この時彼は春日佐衛門率いる陸軍隊の幹部 。そう簡単には我侭は許されない・・・・のに強引に陸軍隊を離脱し、新撰組に復隊。それ以来春日と の関係は(当然)険悪に。事あるごとに喧嘩しまくり、土方さんに迷惑をかけた・・・・かもしれな い。新撰組に復帰した後は陸軍奉行添役として、土方さんの下で活躍。
実直で短気で喧嘩っ早く、勇猛果敢な性格だったらしく、それは彼の最後にも如実に表れている。
明治2年3月25日の宮古湾海戦。自軍軍艦・回天で新政府軍軍艦・甲鉄をアボルダージュ(相手の船に横 付け、乗り込んで船を奪取する戦略)を仕掛けるも、様々な悪因が重なり失敗。本来なら飛び移れる距 離ではなかったのに野村他数名は甲鉄に飛び移り敵に斬り込んで行き、野村は致命傷を負ってそのまま 海に落ちてしまう。享年25歳。

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相馬 主計 (そうま かずえ)

天保14年(1843)〜?

土方副長命!な
函館新撰組陸軍奉行添 役で新撰組隊長附組頭。そして新撰組最後の隊長でもあります。
常陸国笠間藩士出身で常陸国笠間藩士船橋平八郎の子。新撰組入隊自体は早い方で、 慶応3年6月以降12月以前に入隊した。ちなみにこの時の名前は相馬肇(そうまはじめ)。 しかし新撰組の話の中で名前が出てくるのは、近藤 局長が流山で投降してから。助命嘆願のために土方さんと共に勝海舟を訪ね、書状を託され単身引き返 すが逆に捕らえられてしまう。その後近藤さんが処刑されてから、近藤さんに従って来て捕まってしま った野村利三郎と一緒に釈放される。
その後は新撰組に合流しようにも、当の新撰組は土方さんと共に奥州へ発った後。しかも周りは 敵だらけ。仕方なく上野彰義隊の生き残りである春日佐衛門が兵を引き連れ蝦夷に向かうと聞き、 一緒に連れて行って貰うことに。この時に相馬主計に改名し、無事仙台で新撰組に合流を果たす。
合流したからには当然新撰組に復隊したいと願うのだが、この時彼は春日佐衛門率いる陸軍隊の幹部 。そう簡単には我侭は許されない・・・・ので、ちゃんと時期を見て陸軍隊を離脱し、新撰組に復隊 したいと申し出る。ここが野村と違うところ。これには春日も筋が通ってるとして、あっさり許可し ます。新撰組に復帰した後は陸軍奉行添役として、土方さんの下で活躍。
温和で真面目で世話役な性格だったらしく、正反対な野村のフォロー役だった可能性大。
明治2年3月25日の宮古湾海戦にも参加するが、運良く傷は負ったものの、大事には至らなかった。 同年5月15日、五稜郭に先立って新撰組が守備していた弁天台場が降伏。この時相馬は新撰組最後の隊 長として隊を取りまとめた。ちなみにまたまたここで相馬主殿(そうまとのも)と改名している。
投降後は終身流罪で新島に流され、そこで島民に読み書きを教えながら、島に住んでいた女性・マツと 結婚しささやかながら穏やかな生活を送っていたと思われる。しかし明治5年、終身流罪の筈の彼に 釈放の命が下され、妻と共に東京へ移る。そしてその後彼は、突然切腹をして果てたらしい。 新撰組最後の隊長であった彼が、新しい生活の中、何を思って切腹に至ったのだろうか。詳しいことは 一切分かっていない。

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中島 登 (なかじま のぼり)

天保9年(1838)2月2日〜明治20(1887)年4月2日
戒名 : 隆慶院孝庵義忠居士

土方副長命!な
函館新撰組局長附人数で新撰組の絵描きさん。地味に 如月のお気に入りだったりします。絵描きなとこが。
武蔵国八王子宿小野田出身で中島又吉の長男として生まれる。天然理心流ということで近藤・土方・沖 田・井上とは同門。元治元年に近藤さんが東下した際に入隊を申し出 たが近国の状況視察を命じられた為江戸に残り、新撰組隊士の身分を隠して活動していたという。 そして慶応4年の春に新撰組が江戸に撤退し、甲陽鎮撫隊(新撰組の仮名部隊)として出陣する辺りで 正式に入隊したらしい。
鳥羽伏見の戦いを経て、近藤局長の投降の後は土方さんに従い旧幕軍に参加。勿論、宇都宮戦争にも 参加してます。そして会津の母成峠での戦いに敗れた後は、土方さんと共に蝦夷へ。どこまででもつ いていきます。立派な守衛新撰組の一員です。
明治2年5月15日に弁天台場で降伏。降伏後は亡き隊士の姿絵を描き、「戦友絵姿」「中島登覚書」を 残した。そこの土方さんの姿絵に添えられた文の一部である 『温和ニシテ人ノ帰スル事、赤子ノ 母ヲ慕フカ如シ』 (簡単に言うと、「(仙台以降・・・くらいか?の)土方副長の隊士からの慕われ っぷりと言ったら、そりゃあもう赤ん坊が母親を慕うかのようである」と言う意味・・・・たぶん) は、函館での土方さんの母っぷりを見事に伝えている。
明治維新後は静岡県の浜松市に居を構え、洋蘭の栽培、鉄砲店の経営など、事業家として成功。器用 で頭の切れる御人だったようだ。
明治20年4月2日没。享年50歳。

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