山崎 烝 (やまざき すすむ)

生年不詳〜慶応4年(1868)1月13日
戒名 : 顕光院貫月義実居士
愛刀 : 井上和泉守国貞?

監察と言えばこの人!とまでに有名な新撰組諸士取調役並兼監察。ミントンは絶対にしていないと断言 できます。もちろん忍でもありません。
摂津大坂の鍼医の倅に生まれたらしいが、正しいことは不明(安房徳島出身という説も)。香取流棒術 の使い手とされるが、これも本当かどうかはわからない。道場での稽古ではよく長巻(柄の短い薙刀) を使っていたとも言われている。結構謎な人だったり。
新選組入隊は文久3年7月頃・又は同年末か同4年初めと推定されている。とりあえず初期からの隊員で 、京・大坂の地理に詳しい山崎は、関東出身者が主の新選組には貴重な存在だったようだ。
諸士取調役並兼監察、副長助勤を歴任しており、銀魂ファンには驚くべき事に、沖田とはほぼ同地位だ ったりする。銀魂においてはまず有り得ない。
背は高くて色黒、寡黙で仕事に忠実。しかも頭も良く、文武に優れと正に良いとこずくめ。よって口の 堅さと頭の良さが必要とされる探索や隊内の取り締まりをする監察の役目は適任で、近藤局長・土方副 長に絶大な信頼を寄せられていた。が、監察方は他の隊(一番隊とか)とは違い副長直属の部署なので 、土方さんの山崎への信頼っぷりと山崎の土方さんへの忠心っぷりはそりゃあもう素晴らしいものだっ たに違いない。と思わず妄想してみたりする。
かの有名な池田屋事件では薬屋に変装して数日前から潜入し、当日は内部から手引きしたという話が 有名であるが、事件後の報奨金リストに名前がない事から不参加だったのでは?との説も。しかし同じ く監察だった島田魁の日記には、山崎 も参加していたと記述されていたりするので、真偽の程は不明である。でも私的には是非参加していて 欲しいな〜と思ったり。
慶応元年に新撰組とは懇意だった医師の松本良順が屯所を訪れた際に、彼から救急治療法を習って「我 は新選組の医者なり」と笑って語ったという話も残っている。確かに実家が鍼医なんだからぴったりだ 。その調子で是非土方さんの健康診断をやってくれたりしたら堪らなく萌(強制終了)。
慶応4年の鳥羽伏見の戦いで銃弾を受けて重傷を負う。その後、大坂八軒屋の京屋忠兵衛方で死亡した とも、江戸へ行く軍艦の中で亡くなりそのまま水葬にされたとも言われている。最後まで謎な人。
生年が不明な為正しい年齢も分かっていないが、享年が33〜35歳と言われているので、土方さんよりは 数歳年上だろう。果たして銀魂ではどうなのか?気になるところである。

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島田 魁 (しまだ かい)

文政11年(1828)1月5日〜明治33年(1900)3月20日
戒名 : 威徳院釈教証
愛刀 : 奥州仙台住源兵衛国包

土方さんファンの方に尊敬されてやまない新撰組諸士調役兼観察で伍長。如月も例に漏れず尊敬してま す。例え観察方では山崎の陰に隠れて目立ってなくても。(←失礼だろ)
美濃大垣藩近藤伊右衛門の子として生まれる。父親の伊右衛門は木曽川奉行の任にあったが、木曽川の 氾濫により御用材木を流失した責任をとって自刃。自身は叔母の嫁ぎ先や母の実家を転々とし、江戸に 出て坪内主馬道場で
永倉新八と知り合 う。やがて京にて丹波屋の入り婿になるが、その後大垣藩島田家を継ぎ、島田の姓を名乗る。
新撰組がまだ壬生浪士組だったころからの古参隊士。諸士調役兼観察、伍長を歴任している。隊随一の 巨漢で、なんと6尺(約180cm)もあったとか。当時としては凄く大きい。つかそんなに大きいのによく 監察なんてできたな〜と思ったり。だって目立つって、絶対。でも優秀だったんだよね。そんなところ が凄い。土方さんの裏の仕事(こう書いたらなんだか淫靡(笑)な感じするけど、純粋に新撰組にお ける影の仕事)を手伝ってたらしいし。やっぱり優秀。
そんな彼は甘い物好きでも有名。鍋一杯の汁粉を自分で作って食べていたとか。しかも砂糖を糸が引く くらい大量に入れて・・・・・銀さんに張るよ、これ。
ちなみに島田さんも近藤局長増長時には永倉達と共に建白書に署名している一人だったり。そういえば 島田さんと土方さんの話はよく聞くけど、近藤さんとの話は余り聞いたことがないな〜。島田さんは近 藤さんのこと、どう思ってたのか?明治時代にある雑誌の取材を受けて、近藤さんの人柄について詳し く述べていたらしいけど・・・・。はて?私の調査不足か?知っている方、教えてください。
鳥羽伏見の戦いや近藤さんとの別れを経て、土方さんが各地を転戦する間も常に傍に居り、宇都宮城の 攻防戦では足に怪我をした土方さんを背中に背負って撤退したとか。・・・・も、萌える。(←おい)
もちろん函館にもついて行きます。 離れません。守衛新撰組の代表的存在(つか隊長) です。函館まで一緒に行った新撰組隊士の中では恐らく最古参隊士。土方さんもきっと凄く頼りにして たんだろうな〜。島田さん、土方さんより7歳も年上だし。土方さん末っ子だから絶対年上には弱い筈 だしね。
そんな彼も土方さんの死を看取ることはできず、弁天台場で土方さんの死を聞いた。
その後晩年は、京都西本願寺で守衛を勤めて過ごした。西本願寺は新選組が一時屯所としていたところ である。多くの元新撰組隊士が自分が新撰組の一員だったことを隠して過ごしている中、島田さんは 変名もせず、堂々と過ごしたらしい。
また彼は新撰組の様々な記録を日記として残しており、それは現在でも新撰組を知るうえでの貴重な資 料となっている。
明治33年3月20日に西本願寺の境内にて死去。享年72歳。彼は常に土方さんの戒名を懐に入れており、 それは死ぬ時も変わらなかったと言う。

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大鳥 圭介 (おおとり けいすけ)

天保3年(1832)〜明治44年(1911)6月15日

京時代の新撰組ファンの方にとって、そしてジャンプっ子にとっては尚更「は?大鳥・・・・誰それ? 」な陸軍奉行。一応、土方さんの上司です。・・・・・ええ、いちおう。
播州赤穂細念村小字石戸に生まれる。家は代々医者の家系。本人も勉学好きで、まず岡山池田藩の藩校 閑谷学校に入学して5年間儒学・漢学・東洋医学を学び、次に大阪に出て緒方洪庵の敵塾に入塾し、蘭 学・西洋医学を学ぶ。更に江戸へ出て坪井塾で蘭学を学び塾頭になり、工学・兵学へも手を出す。 それによって兵学の江川塾から教授として招かれ、ここで砲術・兵法・造船を学び、その上数学・フラ ンス語を習得したかと思えば横浜外人街に飛びこみ、英語・数学を直接学ぶ。・・・・と、アンタどん だけ勉強したら気ぃ済むねん!と言いたいくらいに勉学に励みまくる。アタイにはとても真似できない よ・・・・。
そんな学者肌な彼が何をどう考えてか、慶応2年幕府直臣になり、横浜でフランス士官による陸軍演習 に参加。ここでフランスの戦術を学んで伝習隊を組織する。
慶応4年の鳥羽伏見の戦いに幕府軍は惨敗する。が、大鳥は「幕府の為に忠誠を尽くす」と(手紙に書 いて)、下総鴻之台での旧幕府軍の集会に参加。ここで初めて(かどうかは知らんが)土方さんと出会 う。軍議の末に旧幕府軍の総督になった。ちなみにその時大鳥は土方さんを参謀に任命している。・・ ・・・惚れたか?
そんなこんなで総督になったはいいが、宇都宮・日光・今市・会津各所で敗戦等の駄目っぷりを披露。 宇都宮城なんて土方さんが折角手に入れてくれた(落としてくれた)城なのに、あっさり奪い返される し。しかもそれを馬鹿正直に自分の日記に綴ってるし。ちなみにこの日記はかなり笑える代物ですよ。 ホントに。土方さんが「常勝将軍」なら大鳥は「常敗将軍」って呼ばれるのも(注:誰も呼んでません )無理はない。・・・・あ、私、大鳥さん大好きですよ?弁解しときますと、大鳥は実戦向きじゃない だけなんです。自分で動くと負けるけど、人を動かすと勝てるタイプなんです(←見も蓋もねえ)。ち なみに土方さんはこの逆。自分で動かなきゃ気がすまないタイプ。
その後榎本武揚らの幕府艦隊に合流し箱館に渡る。そこで五稜郭に政府を作るが、実はこの五 稜郭って、大鳥が翻訳した「築城典刊」を元に武田斐三郎が設計したものだったり。因縁か?それとも 運命か?ちなみにここでの大鳥の役職は陸軍奉行。土方さんの直属の上司です(土方さんは陸軍奉行並 )。
明治2年の5月11日の新政府軍による箱舘総攻撃。この時の敵の総大将が黒田清隆で、これがなんと大鳥 の江川塾時代の教え子ってんだから笑える(←おい)。この攻撃で土方さんは戦死(涙!)。18日に五 稜郭も降伏するのだが、この時大鳥は「降伏と洒落込みましょうか」と言ったとか言ってないとか。 基本的に前向き思考の人だったらしい。
その後降伏した蝦夷政権幹部組(幹部で死んだのは土方さんだけ)は江戸で獄中生活を送るのだが、 実はその入れられた兵部省の監獄、大鳥自身が設計したものだったり。ここまできたらもういっそ哀れ を通り越して、誇れるんじゃなかろうか。・・・・・いや、やっぱり笑えるな。そしてここでもやはり 赤裸々に日記を綴る。
明治5年に釈放されるのだが、これが黒田清隆の執り成しだったり。よかったな、皮肉な運命で終わら なくて。後はその知識を明治政府に買われて活躍。工部大学(現東大工学部)の学長になったりも してます。
その後は明治22年(日清戦争の頃)には清国駐在特命全権公使、明治26年には朝鮮駐箚公使を兼任。外 交官として活躍した。
明治44年6月15日、別荘で死去。享年79歳。
ちなみに土方受け界では
守衛新撰組に虐められつつも、土方さんを想 うヘタレ奉行として名高い存在だったりする。そう、さながら再婚相手の美人未亡人(子連れ)の子供 達が新しい父親に懐かず、反抗し虐げるかのように・・・・。

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伊庭 八郎 (いば はちろう)

天保14年(1843)〜明治2年(1869)5月12日
本名 : 伊庭八郎秀穎
戒名 : 秀穎院清誉是一居士

実はるろうに●心にも登場してるんですよ、知ってました?・・・・つっても錦絵でだけどさ。な遊撃 隊隊長。知ってる人は知ってます。
心形刀流剣術宗家8代目伊庭軍兵衛秀業の長男として生まれる。父の死後は9代目秀俊の養嗣子となる。 どっちにしろ道場の跡取息子の立場は変わらない。伊庭道場と言えば江戸でも有名な道場で門人の数 も凄かったらしいので、かなりの御曹司と言えるのではなかろうか。
元々は小柄で病弱であったため剣術よりも学問派だったが、宮本武蔵も小柄であったという書を読ん で13歳で剣術を始める。すぐに才能を開花させ、15歳で代稽古を行うようになる。そして「伊庭の小天 狗」と呼ばれるまでに上達する。
土方さんと一緒に周斎先生(試衛館の先生。近藤さんの養父)に頼み込んでお金を貰って、新吉原なん かで遊んでいたのは18歳くらいか?伊庭と土方さんとの出会いは喧嘩の助太刀だとゆう噂だが、真偽の 程は明らかではなかったり。でも同じ江戸に住んでるんだし、その上試衛館に行ったことがあるのは事 実なんだから、知り合いでも可笑しくないよねぇ。どうでもいいが、自分の家金持ちなんだから貧乏 で有名な(←失礼)試衛館から金、貰うなよ。
元治元年、講武所剣術方として将軍上洛に随従。「征西日記」なるものを記す、がこれは日記と言うよ り観光・グルメ書だ。見事なまでに観光と食べたことしか書いてない。・・・・でも京に行ったってこ とは土方さんに会ってても可笑しくないよねぇ。(←さっきからこればっかりだな、自分)(だって伊 庭×土方好きなんだもん!)
江戸に戻った後は最年少で両御番役に番入りし、奥詰を拝命。そして慶応元年5月には第二次長州征 伐の為に上洛する将軍家茂を警護しながら、再び京へ。同年2年7月に家茂が大坂で死去した為に江戸に 戻る。奥詰、講武所の人達で新しく作られた遊撃隊の一番隊に配属される。
慶応3年、大政奉還で騒然となる京の対処の為に三度目の上京。その後12月に新選組と共に伏見に布陣 して、同4年の鳥羽伏見の戦いに参加するも敗北。江戸へ戻り色々あった末(端折るなよ)遊撃隊第二 軍の隊長となる。
慶応4年5月には箱根で官軍の分断を図るが敗走し、銃弾を受け左腕を斬られる。これが原因となり左腕 を失うことに。幕末でも有名な「隻腕の美剣士」の誕生である。同年8月、美嘉保丸に乗って蝦夷を目 指すも銚子沖で座礁し、自刃を望んで暴れるが本山・中根に説得され、横浜の尺振八の英語塾に匿わ れることに。同年11月25日には英国船サンライズ号で再び箱館に向かう。ちなみにこの時の乗船料は 伊庭の江戸での馴染みである吉原の太夫、小稲さんが工面したとか。
そして遂に明治元年11月28日、箱館に到着。やっと土方さんに会えましたよ。ここでの役職は第一連隊 第二大隊長の歩兵頭並。まあ要は遊撃隊隊長ってことです。
明治2年4月には上陸してきた官軍を松前口で防ぎ、20日の木古内戦では馬を飛ばして一連隊の出兵を 督促。片腕でも馬に乗れるって凄っ。しかしこの日に胸部に至る銃創を負い、函館病院に運ばれ、その 後五稜郭へ移る。
伊庭の最後については諸説があるだが、私的には5月12日に榎本の勧めるモルヒネを飲んでの服毒死を 希望。特に12日というのが譲れない。何故なら土方さんが死んだ翌日だから。田村銀之助(新撰組隊士 。土方さんの小姓)の証言によると12日ではなかったらしいのだが、それはもう無視の方向で。墓にだ って12日って書いてあるんだしさ。ちなみに墓はあるが、この人も土方さんと同じで埋葬場所はまだ確 定されておらず、遺骨は見つかっていない。どうやら土方さんの隣に埋葬されたらしい(も、萌え!) のだが・・・・。享年26歳。

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市村 鉄之助 (いちむら てつのすけ)

安政1年(1854)〜明治10年(1877)

某ピー●メーカーの主人公として一挙に有名になった新撰組両長召抱人。間違っても池田屋事件に参加 したりはしていませんのでご注意ください。
美濃国大垣生まれで、同じく新撰組隊士であった市村辰之助の弟。入隊は戊辰戦争が始まる前なので、 かなりの後期入隊。だから池田屋事件に参加したりしちゃってる、某ピー●メーカーは完全にパラレル だったりする。だってもしその頃に入隊してたら、鉄は実際の年齢より4歳は上とゆうことになってし まうのだ。だからと言って私は某ピー●メーカーを否定している訳ではない。寧ろ大好きだ。だって あの土方さん、超絶色っぺぇんだもん。(←おい)
創作においては沖田総司によく似ている、とされている少年ですが、実際似ているかどうかは 不明。でも似ていたら萌えるので似ていて欲しい。
兄である辰之助が新撰組を脱する時もついて行くことなく、函館までずっと土方さんに小姓としてお供 するが、二股口の攻防戦の後の5月3日に(攻防戦前の4月15日説も有り)に土方さんの使いと称して、 日野の佐藤彦五郎(土方さんの姉・ノブの旦那。土方さんの従兄弟でもある)の家へ届けるようにと 遺品と写真、金子を持たせ、函館から脱出させられた。最後まで土方さんと一緒に戦いたいと言い張り 、その命令を嫌がる鉄之助に土方さんは「命令違反は隊規に反する。斬られたくなかったら行け」と心 を鬼にして、半ば無理やり鉄之助を脱出させたと言う、この時の二人のやり取りは本当に涙なしでは語 れないものがある。
函館を脱出した彼は、官軍から身を隠す為に乞食の格好をして、日野の佐藤家に辿り着いた。その 後2年程佐藤家で世話になり、故郷に戻ったらしい。
彼のその後の消息は詳しくわからないが(単なる私の調査不足かと思われる)、西南戦争に薩摩側(西 郷側)の兵として参加し、戦死したらしい。もしこれが土方さんを殺した官軍に対する怒りからの参戦 だとしたら、なんと悲しいことだろうか。・・・・と、たまには真面目に締め括ってみる。 享年23・4歳。若すぎる死であった。

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