近藤 勇 (こんどう いさみ)

天保5年(1834)10月9日〜慶応4年(1868)4月25日
本名 : 近藤勇昌宜
幼名 : 宮川勝五郎
戒名 : 貫天院殿純忠誠義大居士
愛刀 : 長曾祢虎鉄、陸奥大掾三善長道 等

言わずと知れた新撰組局長。ケツ毛が濃いかどうかは知りません。
生まれは武蔵国多摩郡上石原村、宮川久次郎の三男。 嘉永元年11月15歳の時に兄二人とともに天然理心流に入門し、嘉永2年6月、入門後8ヶ月で目録に。剣 の腕前は相当だったと思われる。さすが局長。 そして近藤家に養子に入り、宮川勝五郎→島崎勝太→島崎勇と名前を変 え、文久元年4代天然理心流宗家を継ぎ近藤勇となる。
貧乏道場だったくせに食客を何人も抱えていた、懐の深いお人である。ちなみにツネさんという奥さん がいる。瓊子ちゃんという娘もいる。
試衛館の仲間とともに浪士隊に参加し、京に上る。そして清河八郎らに反発して芹沢一派と共に京都に 残留を決め、壬生浪士組(後の新撰組)を結成。芹沢鴨、新見錦と共に局長となり、後に芹沢・新見両 局長を静粛後は新選組の頂点に立つことになる。
かの有名な池田屋事件では、自ら先頭にたって戦い活躍している。そんな立派な局長の特技は拳骨を 口に入れること。それと髑髏の絵を描くこと。では果たして銀魂の近藤さんの特技はなんだろうか。 ・・・・ストーカー、とか?(←おい!)
京ではかなり女遊び(になるのだろうか?)が激しく、妾宅を幾つも持っていたとか。有名なのでは太 夫とその妹の姉妹両方に手をつけた話があったり。英雄色を好むとはこの事か。
銀魂ではお妙さん一筋なのにねぇ〜。
一時期ちょっと増長しちゃっ て永倉原田たちに会津に建白書を出さ れたりしたこともあったようだが、カリスマ性に溢れて隊士からは慕われていたようだ。じゃなきゃあ 局長なんてなれないか。うん。
慶応3年、高台寺党(伊東派の生き残り)の残党に襲撃され右肩に銃創 を負い、鳥羽伏見の戦いには参加できず。治療の為大阪から江戸へと帰る。
帰東後は、新選組残党などで甲陽鎮撫隊を結成し出陣するも敗走。 下総流山で官軍に投降し、土方さんが勝海舟に頼んで書いてもらった助命嘆願書の効果もなく、板橋で 斬首の刑に処せられる。投降した理由は様々言われているが、私的に は土方さん達を逃がす為だったのではないかと思ったり。実際、このお陰で土方さん達は無事逃げる ことができているし。
享年35歳。若い・・・・・。

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土方 歳三 (ひじかた としぞう)

天保6年(1835)5月5日〜明治2年(1869)5月11日
本名 : 土方歳三義豊
戒名 : 歳進院殿誠山義豊大居士
愛刀 : 和泉守兼定、堀川国広 等

我が愛しの新撰組副長です。常に瞳孔は開いてないと思います。
武蔵国多摩郡桑田村石田土方隼人の六人兄弟の末っ子。 父親は誕生前に他界。母親も6歳の時に結核で他界。 長男・為次郎、次男・喜六、三男・大作、長女・周(16歳で他界)、次女・ノブで、長男の為次郎は盲 目だった為、次男の喜六が家督を継いでます。
ちなみに土方さんはその次男夫婦に育てられたらしい。でも一番懐いてたのは自分に甘い次女のノブさ ん。しょっちゅうノブさんの嫁ぎ先の家に入り浸っていたとか。このお姉ちゃんっ子め・・・・カワイ イだろ!そんな実家は「お大尽」と呼ばれるほどの有力農家だった。
11歳の時に江戸上野の伊藤松坂屋呉服店に奉公に出されるも、番頭とそりが合わずに出奔。なんと一晩 で約40キロの道のりを歩いて帰ったとか・・・・・。そんな健脚ぶりにも驚かされるが、ここだけの話 (というにはかなり知られているが)出奔した理由は番頭や店の者に手篭めにされそうになった(もし くはされた)からでは・・・・・とゆうのがもっぱらの噂である。
二度目の奉公は17の時。江戸大伝馬町の呉服屋だったのだが、今回は店の女中と関係してしまい暇を出 された。そうか、今度は女の人にまで襲われたの(強制終了)。
結局奉公は2回とも失敗に終わっているのだが、何故その2回ともが呉服屋なのだろうかと疑問が・・・ ・。そのお陰で土方さんはかなり裁縫が得意になったとか言うし・・・・ってもしや花嫁修業? 是非嫁に欲しいよ。
その後は家伝薬の石田散薬の行商をしながら、道場破り紛いなことをして剣術を学んだ。その所為 か25歳で天然理心流に正式入門するも「自己流の癖が強すぎる」と目録止まりに。だがその剣は実戦 向けで、かなり強かったそう。
27歳の時に重病を患いあの世へ片足突っ込みかけたらしいが、そこは我らが土方さん、当然回復で す。・・・・・意外と体弱かったりするのかな?そう言えば土方さん労咳(肺結核)説ってのも あるし・・・・(実は土方さんには転戦中に謎の数ヶ月に渡る療養期間が存在しており、その原因が労 咳を患っていたからだったのでは、とゆう説。理由としては、土方さんの父・母・長姉も労咳で死亡し ているからだとか)。
趣味は俳句で「豊玉発句集」という俳 句集も作ってたり。よく新撰組の創作で沖田にからかわれるネタになっている。その内容の方は・・・ ・・・私は好きですよ!いいじゃん可愛くて!
その他、和歌とかも詠んでいたみたい。意外と風流好き。あと三味線も弾けるとか。書道も習ってたみ たいだし。確かに字、上手いよね・・・・。
好物は親戚の橋本家で漬けた沢庵。好きな花は梅で、好きな色は赤。試衛館時代は赤い面紐を付けてい た為、出稽古先で女に間違えられることもあったとかなかったとか。やっぱり可愛い・・・・。
ところで世間一般(史実新撰組ファンは除く)には何故か知られていないのだが、土方さんは色白美人 さんである。土方さんの容貌については数多くの証言が残されているが、それをまとめると「色が白い 」「役者のような(綺麗な)顔」「色男」である。しかもちゃんと筋肉はついているものの結構華奢で 、その上撫肩だったそうな。実年齢より3・4歳は若く見え、身長も5尺5寸(約167cm)と当時にしては 高めだったにも拘らず、何故か小柄な方に見られていたようだ。 ・・・・周りが厳つい連中ばかりだ ったからか?萌え。
そんな土方さんはバラガキ(今で言う不良)と呼ばれ、よ く伊庭八郎と一緒に周斎先生(試衛館の先生。近藤さんの養父)に頼 み込んでお金を貰って、新吉原なんかで遊んでいたとか。でも実際はお金が無くても女の人の方から 寄ってきたらしい。そのお陰で「ひってん敦盛」という呼び名があったとか。ちなみに生涯独身で通し たが、実は江戸にお琴さんという許婚がいたりする。
そんな土方さんも京に上がるとすっかり変わって、鬼の副長と呼ばれるようになる。
局中法度書が実際は誰が起草したか は分かっていないが、土方さんが考えたとの見方が強いのも、それを忠実に実行していた所為だろう。 その所為で敵からは愚か、味方からも冷酷な鬼と恨み、恐れられていたようだ。それは総長であ る山南敬助の切腹の後、一層強まっ た。
しかしそれもこれも烏合の衆で結成された新撰組では必要な楔であり、土方さんは近藤さんは局長 として皆に好かれなくてはならない。と、自分一人で汚れ役を引き受けていたようだ。
だがそれも近藤さんの死後変化する。
鳥羽伏見の戦いでは、近藤局長に代わって指揮を執るが敗北し、江戸へ撤退。この頃から洋装を着始め たようだ。甲陽鎮撫隊(新撰組の仮名部隊)が敗走した後官軍に投降する近藤局長と分かれ、再び江戸 へ行き勝海舟に近藤さんの助命嘆願をする。願いは聞き入れられるも、暫く後に結局近藤さんは斬首に 。その間土方さんは下総鴻之台での旧幕府軍の集会に参加して各地を転戦し、宇都宮城の攻防戦で足を 負傷した為、会津若松の清水屋にて療養。ここで自分に面会に来たいけ好かない幕臣に枕を投げつけた りしつつ(か・わ・い・い)、傷を癒す。
その後会津にて斎藤一と別れ、榎本武 揚らの幕府艦隊に合流し箱館に渡る。その時の土方さんの役職は陸軍奉行並(正確には陸軍奉行並箱 館市中取締裁判局頭取)。 大鳥圭介の部下である。
ここでの土方さんの慕われっぷりは凄まじく、それこそ慈母のように慕われていた(冗談ではなく、 実際にそういう証言が残っている)。ところで何故父ではなく母なのかが気になるところではある。 違和感は全く無いが。寧ろ似合ってるな。
そんな蝦夷地で唯一無敗を誇った土方さんだが、ついに明治2年5月11日、弁天台場に取り残され た函館新撰組を救出すべく出撃。その 途中、腹に銃弾を浴び死亡。享年35歳。
その出撃の前(5月3日)(4月15日説もある)に小姓であ る市村鉄之助に郷里日野に遺品を届け るよう命じ、函館から脱出させたのは、これを予見していたからであろうか。
ちなみに未だ埋葬されたとされる正確な場所は特定されておらず(そう思われている場所はあるが)遺 骨は発見されていない。

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沖田 総司 (おきた そうじ)

天保13年(1842)〜慶応4年(1868)5月30日
本名 : 沖田総司藤原房良
幼名 : 沖田惣次郎藤原春政
戒名 : 賢光院仁誉明道居士
愛刀 : 加州金沢住長兵衛藤原清光、山城守国広 等

恐らく新撰組でもっとも有名であろう、新撰組一番隊組長。総梧じゃなくて、総司です。
奥州白河藩士沖田勝次郎の子として江戸で生まれる。ちなみに生年については、天保13年説と15年説が あるが、私的に13年説を押してます。そっちの方が有力らしいし、何より土方さんと歳が近い。
両親共に幼い時に亡くし、姉のミツとキンに育てられるが、8・9歳くらいの時に試衛館に内弟子として 入門。実家がお世辞にも裕福とは言えなかったので、口減らしの意味もあったのではないかと推測され ていたりするが、実際のところは不明である。
幼い頃から剣の才能を見せ始め、十代のうちに免許皆伝に達し、文久元年には塾頭になっている 。 ただ天才ゆえ人に教えるのは下手だったらしく、その指導は乱暴なものだったとも言われている。 ここら辺になんとなく腹黒さを感じさせるところがなくもないような気がしないでもない(どっちだ) 。
京都へ行く際も、近藤が行くなら自分も・・・という感が強く、政治や思想などには興味が無かった模 様。副長助勤にして一番隊組長という幹部の地位にありながらも、近所の子供達と遊んだりと、明るく 愛嬌のある性格だった。
そんな彼は何故か巷では薄幸の美剣士扱いされていたりするが、実際は背が高く、色黒でヒラメ顔だっ たらしい。だがその人好きのする性格と絶えぬ笑顔の為か、結構女性にはモテていたようだ。実際江戸 にいたころ、試衛館の手伝いをしていた女性に告白されるも「まだ未熟者だから」と断り、その後振ら れたその女性が自殺未遂したという話も残っている。
土方さんとの絡み話しとしては、芹沢鴨暗殺の時、芹沢に斬りかかろうとした土方さんを押しのけて 「歳さん退いてろ、俺がやる」と言ったとか言ってないとか。あと、一緒に囲碁やったりとか。(暗殺 と囲碁が同列か)
新撰組でも一二を争う剣客として名を馳せるも、労咳(肺結核)に侵され、慶応3年秋には戦闘不能の 状態にあったようだ。ちなみに池田屋事件で喀血して労咳が発覚する話は有名であるが、実際のところ この時期に労咳でこの症状が出ているとすればもっと早くに亡くなっている筈で、時間の経過が合わな いらしい。喀血は真実かもしれないが、していたとすれば又別の原因があったのではないか・・・とい う見方が強いようだ。・・・・・とは言っても書いている私自身、医学なんてさっぱりなので本当か どうかわかりませんが。
鳥羽伏見の戦いの際はその病の為、負傷した近藤とともに大阪におり戦闘に参加していない。その後 新選組が江戸に引き上げた後は、千駄ヶ谷の植木屋の離れで一人隠れるようにして療養生活に入った。
そしてそのまま病が癒えることもなく、慶応4年5月30日に亡くなった。享年25歳。 この時の黒猫の話は有名。
余談だが、沖田総司の愛刀は菊一文字と有名であるが、実際のところはその可能性はかなり低いらしい 。菊一文字自体かなりの年代物で、所持していたとしても使い物にならず(斬れない)、そして何より 値段が半端じゃなく高い。とてもじゃないが手に入れることの出来るものじゃなかったようだ。だけど 私的には、是非沖田には菊一文字を使っていて貰いたいな〜と思ってみたりする。

△モドル