年齢 70歳
在位 25年間(781年〜) 
光仁天皇の長男(第一皇子)として天平9年(737年)に産まれた
★先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
★践祚と日を隔てて即位した初めての天皇であり、桓武平氏の始祖となる
★天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻った



宮殿  長岡京(ながおかきょう)

所在地;京都府向日市、長岡京市、京都市西京区
784年平城京から遷都され、794年に平安京に遷都されるまで機能した。 長岡京は桓武天皇の勅命により、平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。 長岡京の近くには桂川や宇治川など、3本の大きな川が淀川となる合流点があり、 全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替え、そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。 しかし、桓武天皇の皇太弟早良親王が叛逆に与したとされ幽閉・配流となり、親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま死去する。 親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や、皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起り、 その後2ヵ月後の2度の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害を蒙ったことから長岡京への遷都からわずか10年後となる翌794年に平安京へ遷都することになる。、

宮殿 平安京(へいあんきょう)

所在地;奈良県奈良市の西部の一部
桓武天皇により、長岡京に代わる都として山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の洛陽城や長安城を模して793年から建設され、 翌794年に遷都。北部中央に宮城・平安宮(大内裏)が建設され、以降歴代の皇居が置かれた。 遷都以来、平清盛により断行された福原遷都(1180年)の期間を除いて、東京奠都まで1100年近くに亘って都であり、形式的には1869年(明治2年)まで続いた。 今日の京都市街が形成されるに至る。

治世
平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。 初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、 わずか10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。
文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされ、また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらした

蝦夷征討
蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行。 789年に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、2度目の遠征で征夷大将軍の大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、 801年の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した。803年に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。 しかし晩年のには、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣の建言を容れて、いずれも中断している。

天皇明仁の発言
2001年12月18日、天皇明仁は翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。 武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。 また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」との発言を行った。 この発言は、テレビ各社のニュースでは重ねて報じら、日本の新聞各紙の報道は簡素だったが、韓国では大きな反響を呼び、 「皇室は韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」「日王が秘められた事実を暴露」などの発言意図から逸脱した報道も多く行われたほか、 当時の金大中大統領が年頭記者会見で歓迎の意を表するほどだった。 なお、天皇明仁は平城遷都1300年記念祝典の挨拶でも、百済とのゆかりについて同様の趣旨を発言している。

御陵名 柏原陵(かしわばらのみささぎ)

所在地;京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎
陵 形;宮内庁上の形式は円丘。
在世中に宇多野への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって伏見の地が選ばれ柏原陵が営まれた。 柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、深草・伏見の間とのみ知られていた。 元禄年間の修陵で深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳が考定され、その後幕末に改めて桃山町の現陵の場所に定められた。 もっともその根拠は乏しいと見られ、別に桃山丘陵の頂き付近に真陵の位置を求める説もあるため確かな場所は不明とするほかない。 上記とは別に、伏見区深草大亀谷古御香町にある宮内庁の大亀谷陵墓参考地では桓武天皇が被葬候補者に想定されている


     まほろばの宮殿と御陵(終)

Copyright(c) 2013 Mihon volunteer center. All Rights Reserved.Design by http://f-tpl.com