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年齢 61歳
在位 18年間(707年〜)
天智天皇の皇女。草壁皇子の正妃。文武天皇と元正天皇の母。
★息子の文武天皇が25歳で崩御し、孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位した。
★710年、藤原京から平城京に遷都した。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。。
★和同開珎を鋳造させ、大宝律令を整備し実務に長けていた藤原不比等を重用した
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宮都 藤原宮(ふじわらのみや) |
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所在地;奈良県橿原市
藤原京は日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。
『日本書紀』などの正史には「新たに増した京」という意味の新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)などの名で表記されている。
藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が『藤原京考証』という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したもので、
当時の皇居が『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に名づけられた学術用語である。
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宮都 平城京(へいじょうきょう) |
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所在地;奈良県奈良市の西部の一部、中心部及び大和郡山市北部に位置
藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中(707年)に審議が始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。
しかし、遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は山城国の長岡京に遷都するまでの間に、
段階的に造営されていったと考えられている。恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には、再び平城京に遷都され、
その後784年長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
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女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例 |
715年自身の老いを理由に譲位することとなり、孫の首皇子はまだ若かったため、娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。
女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例となっている。721年に発病し、娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託し、さらに遺詔として葬送の簡素化を命じて崩御した。
和銅発見の地、埼玉県秩父市黒谷に鎮座する聖神社には、元明天皇下賜と伝えられる和銅製蜈蚣雌雄一対が神宝として納められている。
また、722年に元明金命(げんみょう こがねの みこと)として合祀され今日に至る。
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御陵名 奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ) |
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所在地;奈良県奈良市奈良阪町
陵 形;宮内庁上の形式は山形。
崩御にさきだって、「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山雍良岑に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」等、いういわゆる葬儀の簡素化の詔を出したので、崩御後の12月13日、喪儀を用いず、椎山陵に葬った。
遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊を見て田間に落ちていたのを発掘し、文久年間の修陵の際にこれを陵側に移し、明治29年藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑を作り、かたわらに建てた。
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年齢 69歳
在位 9年間(715年〜)
父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。
★ 歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われた。
★ 「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。
★ 養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。
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宮都 平城京(へいじょうきょう) |
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所在地;奈良県奈良市の西部の一部、中心部及び大和郡山市北部に位置
藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中(707年)に審議が始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。
しかし、遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は山城国の長岡京に遷都するまでの間に、
段階的に造営されていったと考えられている。恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には、再び平城京に遷都され、
その後784年長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
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元正天皇の治世 |
720年、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなった。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。
長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫であった。
723年、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。これにより律令制は崩れ始めていく。
724年、皇太子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となる。譲位の詔では新帝を「我子」と呼んで譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。
聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。
晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。
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御陵名 奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ) |
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所在地;奈良県奈良市奈良阪町
陵 形;宮内庁上の形式は山形
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年齢 56歳
文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
在位 25年間(724年〜)
★文武天皇の第一皇子として生まれたが、7歳で父と死別、母・宮子も心的障害に陥ったため、707年父方の祖母・元明天皇が中継ぎの天皇として即位。
★首皇子の元服し正式に立太子されるも、皇親勢力と藤原氏との対立から元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになり、24歳のときに即位する。
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宮都 平城京(へいじょうきょう) |
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所在地;奈良県奈良市の西部の一部、中心部及び大和郡山市北部に位置
藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中(707年)に審議が始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。
しかし、遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は山城国の長岡京に遷都するまでの間に、
段階的に造営されていったと考えられている。恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には、再び平城京に遷都され、
その後784年長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
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聖武天皇の治世 |
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 聖武天皇の治世の初期は藤原氏は自家出身の光明子の立后を願っていたが、皇親勢力を代表する長屋王は光明子の立后に反対していた。
長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が反対勢力を取り除き、光明子は非皇族として初めて立后された。
聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者である。
天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、
急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。
藤原広嗣の乱
 天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。
代って政治を担った橘諸兄は唐から帰国した吉備真備と玄靴重用されるようになり、藤原氏勢力は大きく後退した。
天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、広嗣はこれを左遷と感じ強い不満を抱いた。
新羅に派遣した遣新羅使が追い返される形で帰国した事に憤った広嗣は政治を批判し吉備真備と玄靴旅硬海魑瓩瓩訃緝修鯀った。
同時に筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して太宰府管内諸国の兵を徴集した。
災害や疫病(天然痘)が多発
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。
これに加えて度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。
天平15年(743年)には耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。
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 平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会った。
天平勝宝8年(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。
聖武の七七忌に際し、光明皇后は東大寺盧舎那仏(大仏)に聖武遺愛の品を追善供養のため奉献した。その一部は正倉院に伝存している。
だ刺霤傾弔遷都した順番
ゞ蛙竜 京都府木津川市加茂町 740年12月から744年2月(4年間)
難波宮 大阪市中央区 744年01月から745年1月(1年間)
紫香楽宮 滋賀県甲賀市信楽町 745年01月から745年5月(4月間)
な唇袖
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御陵名 佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ) |
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光明皇后 |

光明皇后は仏教の庇護者として様々な伝説が語り継がれている。
施薬院にて千人の垢を洗い落とすことを発願した皇后がその通りに人々を世話していたところ、最後の千人目に重症の癩病患者が現れ、
皇后に膿を口で吸い出すよう要望し、彼女がその通りにすると、病人は正体を現し阿閦如来となったという話が特によく知られている。
国立ハンセン病療養所である邑久光明園はこの逸話から名付けられている。
夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
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年齢 53歳
在位 9年間(749年〜)
父は聖武天皇、母は光明皇后(光明子)。
★孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう。
★史上6人目の女性天皇で、天武系からの最後の天皇である。
★当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、その次の皇位継承の見通しが立たず、彼女に代わる天皇を求める動きが彼女の崩御後まで続くことになった。
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宮都 平城京(へいじょうきょう) |
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所在地;奈良県奈良市の西部の一部
藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中(707年)に審議が始まり、翌年には元明天皇により遷都の詔が出された。
しかし、遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。
唐の都長安城を模倣して建造された都城であり、現在の奈良県奈良市の西部の一部、中心部及び大和郡山市北部に位置し東西8坊 (約 4.3km) の面積をもち、
全域 72坊に区画設定されていた。中央北域に大内裏を置き、中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分され、さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画されていた。
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宮都 由義宮(ゆげのみや) |
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所在地;八尾市八尾木北5丁目174(由義神社)
由義神社境内に由義宮旧址の碑がある。弓削道鏡が、称徳天皇の信任をえて、その郷里に設けられた行宮で、のちこれを由義宮となし、
神護景雲年3年(769)天皇再度行幸にあってここを西京とした。
宮域は大県、若江、高安の3郡にわたる広大なものであった。
また。八つ尾の鶯の名所であったと聞いている。今に大門の字名がある。
【出典:八尾の史跡より抜粋】
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孝謙天皇としての治世 |
天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。治世の前期は皇太后(光明皇后)が後見し、皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。
強まる仲麻呂の権勢に、橘奈良麻呂や大伴古麻呂らは孝謙天皇を廃して新帝を擁立するクーデターを計画した(橘奈良麻呂の乱)。
天平宝字2年(758年)8月1日、孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となる。
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太上天皇時代 |
天平宝字2年(758年)孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となり、
平宝字4年(760年)光明皇太后が崩御すると、同年8月に孝謙上皇・淳仁天皇らは小治田宮に移り、天平宝字5年(761年)には保良宮に移った。ここで病に伏せった孝謙上皇は、
看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになった。
天平宝字6年(762年)に淳仁天皇は平城宮に戻ったが、孝謙は平城京に入らず法華寺に住居を定めた。ここに「高野天皇、帝と隙あり」と続日本紀が記す孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の不和が表面化した。
不和の原因には道鏡を除くよう淳仁天皇と仲麻呂が働きかけた事や、天皇の軍事指揮権の象徴である鈴印が光明皇太后の崩御後、直接淳仁天皇に引き渡されたことは
皇統の正嫡意識を持つ孝謙上皇が淳仁天皇に不満を持ったことなどがあげられている。
天平宝字7年(763年)から天平宝字8年(764年)には道鏡や吉備真備といった孝謙派が要職に就く一方で、
仲麻呂の子達が軍事的要職に就くなど、孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の勢力争いが水面下で続いた。
反対に孝謙上皇の不満を強めて皇統嫡流を争い始めたとする見方もある。
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藤原仲麻呂の乱 |
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂が軍事準備を始めた事を察知した孝謙上皇は、山村王を派遣して淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収させた。
これを奪還しようとした仲麻呂側との間で戦闘が起きたが、結局鈴印は孝謙上皇の元に渡り、仲麻呂は朝敵となった。
仲麻呂は太政官印を奪取して、近江国に逃走したが、9月13日に殺害された。
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重祚:称徳天皇としての治世 |

淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は事実上、皇位に復帰、称徳天皇と呼ばれる。
日本史上唯一の、出家のままで即位した天皇である。以降、称徳天皇と道鏡による政権運営が6年間にわたって続く。
同年10月に称徳天皇は道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸し、由義宮の建設を開始している。
天平神護2年(766年)10月には海龍王寺で仏舎利が出現したとして、道鏡を法王とし称徳天皇=道鏡の二頭体制が確立された。
神護景雲3年(769年)、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じたとされ、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送ったが、
清麻呂はこの託宣は虚偽であると復命した。これに怒った称徳天皇と天皇の地位を狙っていた道鏡は清麻呂を改名した上で因幡員外介として左遷し、さらに大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。
行幸翌月の3月なかばに発病し、 8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。
道鏡の権力はたちまち衰え失脚して下野国薬師寺別当に左遷された。
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御陵名 高野陵(たかののみささぎ) |
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所在地;奈良県奈良市山陵町
陵 形;宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「佐紀高塚古墳」
孝謙天皇陵は奈良時代の古墳としては考えにくい「前方後円墳」となっているのみならず、その築造自体は「5世紀前半頃」であるとも言われ史実と一致せず、
実際の孝謙(称徳)天皇陵は、西大寺の西側に位置している鷹塚山地蔵尊周辺などであるとする見解も示されている。
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年齢 33歳
在位 6年間(753年〜)
天武天皇の皇子・舎人親王の七男。
★天武天皇の第三皇子の父舎人親王の母である新田部皇女は天智天皇の娘であり、天智・天武の両天皇の血筋を引く。
★孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。
★漢風諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝または淡路廃帝と呼ばれる
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宮都 平城京(へいじょうきょう) |
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所在地;奈良県奈良市の西部の一部
藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中(707年)に審議が始まり、翌年には元明天皇により遷都の詔が出された。
しかし、遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。
唐の都長安城を模倣して建造された都城であり、現在の奈良県奈良市の西部の一部、中心部及び大和郡山市北部に位置し東西8坊 (約 4.3km) の面積をもち、
全域 72坊に区画設定されていた。中央北域に大内裏を置き、中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分され、さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画されていた。
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践祚 |
天平宝字2年(758年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。
天皇と上皇の対立は、天武天皇皇統でも傍流(舎人親王系)の天皇を自己の「臣」とみなす上皇と自己を孝謙天皇の皇太子ではなく
「聖武天皇乃皇太子」として即位したとみなす天皇の間に発生した王統及び皇位継承に関する認識の差として捉え(佐藤長門記)、一方
聖武上皇の崩御後に御璽と駅鈴を保持し続けた光明皇太后が、御璽と駅鈴を孝謙天皇(上皇)に渡さず淳仁天皇に直接渡したことは、
皇太后が草壁親王系から舎人親王系への皇統の変更を認めたと評価し、
反対に在位中も退位後も御璽と駅鈴を保持することが出来なかった孝謙上皇は草壁嫡流を維持するために最終的には天皇から御璽と駅鈴を「奪う」しかなかったとしている
(木本好信記)
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追放 |
天平宝字8年(764年)、上皇が天皇が居住する中宮院にあった駅鈴と御璽を接収したことを契機に恵美押勝の乱が発生、仲麻呂の乱が失敗に終り天皇は最大の後見人を失った。
乱の翌月、「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、親王の待遇をもって淡路国に流される。
淳仁天皇は廃位、太上天皇は追号されず、上皇は重祚して称徳天皇となったが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力が残っていた。
このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、この年の10月、逃亡を図り捕まった廃帝は翌日に院中で亡くなった。
公式には病死と伝えられているが、実際には暗殺されたと推定され、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない。
敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていたが、「天炊天皇」と記されて歴代に加えられている。
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御陵名 淡路陵(あわじのみささぎ) |
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所在地;兵庫県南あわじ市賀集
陵 形;宮内庁上の形式は山形。
陵(みささぎ)は、淡路国三原郡(現在の兵庫県南あわじ市の天王森丘とされる)に造営されたという。
宝亀3年(772年)光仁天皇は僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めた。宝亀9年3月23日(778年4月24日)に山陵扱いとされた。
そのほか、滋賀県長浜市西浅井町菅浦一帯では淳仁天皇伝説が分布し、淳仁天皇の営んだ保良宮伝承地(現・須賀神社)、淳仁天皇陵伝承地などが存在する。
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年齢 73歳
在位 11年間(770年〜)
天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6皇子
★藤原仲麻呂の乱鎮圧に功績を挙げ、称徳天皇の信任を得る、
★8歳で父が薨去して後ろ盾を失くしたためか、初叙(天平9年(737年)従四位下)が29歳と当時の皇族としては非常に遅かった。
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宮都 平城京(へいじょうきょう) |
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所在地;奈良県奈良市の西部の一部
藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中(707年)に審議が始まり、翌年には元明天皇により遷都の詔が出された。
しかし、遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。
唐の都長安城を模倣して建造された都城であり、現在の奈良県奈良市の西部の一部、中心部及び大和郡山市北部に位置し東西8坊 (約 4.3km) の面積をもち、
全域 72坊に区画設定されていた。中央北域に大内裏を置き、中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分され、さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画されていた。
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皇位の譲位 |
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧に功績を挙げ、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の信任を得て、天平神護2年(766年)には大納言に昇進した。
だが度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、白壁王は専ら酒を飲んで日々を過ごす事により、凡庸・暗愚を装って難を逃れたと言われている。
称徳天皇は生涯独身で後継者はなく、また度重なる政変による粛清によって天武天皇の嫡流にあたる男系皇族が少なくなっていた。
しかし妃の井上内親王は聖武天皇の皇女であり、白壁王との間に生まれた他戸王(他戸親王)は女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族の一人であった
ことから天皇の遺宣(遺言)に基づいて立太子が行われ、同年10月1日、62歳の白壁王は大極殿で即位する。
その後、皇后の井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃され、高野新笠所生の山部親王が皇太子に立てられた(のちの桓武天皇)。
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御陵名 田原東陵(たはらのひがしのみささぎ) |
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所在地;奈良県奈良市日笠町
陵 形;宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「田原塚ノ本古墳」
崩御の翌年、広岡山陵に葬られ、延暦5年(786年)、田原陵に改葬された。桓武天皇が文武百官を伴い、
先帝光仁天皇の一周忌の齋会法要を営んだとされる「続日本紀」の故事に因んで、奈良市大安寺では、毎年1月23日「光仁会」という祭事が開催されている。
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