年齢;127歳
在位;79年(前660年〜)

甲寅の年に兄の五瀬命らとともに日向高千穂宮を出発し、瀬 戸内海を経て河内に上陸。 大和に向かうが、地元豪族の抵抗に合い、紀伊熊野を迂回して、ようやく大和地方を制圧。  辛酉の年の元旦(太陽暦の2月11日)橿原宮で即位を宣して初代天皇になった。『日本書紀』



宮 殿 畝傍橿原宮

所在地 橿原市大久保町
東征を果たし大和を平定した神武天皇は橿原の宮で即位した。古事記に「畝傍の白檮宮(かしはらのみや) 坐しまして、天の下治らしめしき」とあり、今はその宮跡伝承地に橿原神宮(橿原市久米町)が建っている。

御陵名 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)

所在地;奈良県橿原市大久保町
陵 形;円丘  『陵墓要覧』(宮内省諸陵寮発行)では「円墳」としている
『古事記』には畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、 『日本書紀』には畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者 を送って挙兵を報告したという記事がある。
神武天皇陵は中世には神武陵の所在も分からなくなっていたが、江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起り、 文久3年(1863年)にミサンザイに神武天皇陵に治定された。

高天原伝説 高天原の伝承地〜大和葛城(奈良県御所市高天)

奈良県南部の御所市高天。古くは葛城といわれた地域で金剛山の麓に広がる台地上が高天原の伝承地として伝えられており、 伝承地参道の両側には杉の古木が立ち並び、付近は天上の神々が住んだ高天原の神さびた雰囲気を漂わせている。
『蜻蛉日記』には、『夢ばかり見てしばかりにまどひつつ明くるぞ遅き天の戸ざしは』という和歌があり、さらにこれに続く和歌として 『さもこそは葛城山に馴れたらめただ一言や限りなりける』とあることから、天岩戸が葛城山にあったとする理解は 遅くとも平安時代まで遡ることが出来ます。
事績(史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る)
神武東征・出立

神日本磐余彦天皇(神武天皇)は庚午年に日向国で生まれた。 甲寅年、45才のとき塩土老翁が云う、青山が四方をめぐり、その中に天磐船に乗って天降った神がいるという、東方の美しい地(大和国、奈良盆地)を 「この地こそ都をつくり天下を治めるのに適した場所だろう」兄の五瀬命・稲飯命・三毛入野命や諸臣を集め東征を提案した。
諸皇子と舟師(水軍)を帥(ひき)いて東征に出発。進んでいくと潮の流れの速い速吸の門で船が前に進めなくなった。 難儀していると国神の珍彦と出会い、これを舟に引き入れて海導者(水先案内)とすることで無事に筑紫国の菟狭へ上陸することができた。 菟狭からさらに崗水門、安芸国を経た彦火火出見尊は、乙卯年3月吉備国に着き、三年間軍兵を整えた。
神武東征・試練

戊午年2月、皇師(官軍、彦火火出見尊たち)は吉備国から東へ向かい難波の碕に至った。3月に河内国草香邑の青雲白肩津楯津で泊り、楯津(東大阪市日下)に上陸した。 東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(大和国)へ入ろうとし、この地を支配する長髄彦と孔舎衛坂で戦った。 戦いに利なく、長兄の五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。そして日の神の子孫の自分たちが日に向かって(東に向かって)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟ることとなった。 彦火火出見尊は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。
5月、五瀬命の矢傷が悪化し茅渟(和歌山市近辺)で亡くなった。船が熊野にさしかかると、海は大嵐になり高波に船は木の葉のように揉まれ海は荒れ狂ったので、 次兄、三兄の稲飯命と三毛入野命が「私の母は海神である」と言い自ら海に入ると、波も静かになり嵐は去った。
熊野に上陸したものの土地の神の毒気を受け軍衆は倒れたが、熊野高倉下が天神から授かった神剣韴霊(ふつのみたま)を奉り剣の霊力により軍衆は起き上がることができた。 軍衆は山をいくつも越えたところで道がわからなくなってしまったが、天照大神が夢に現れて八咫烏を遣わし、その案内で軍勢は菟田下県に行きつくことができた。
神武東征・決戦

国見丘に八十梟帥を討ち、磯城を支配する兄磯城を討伐し、弟磯城が恭順。長髄彦と遂に決戦となり、連戦するが勝てなかった。 すると急に黒雲が空を覆い、あたりも暗くなり、叩きつけるように雹が降ってきた。 そして一筋の光が差したかと思うと金色の霊鵄が現れ彦火火出見尊の弓の先に止まり稲光のような瑞光を発した。 長髄彦の軍はまぶしくて目も開けられず、ついに降参してしまった。 己未年2月、彦火火出見尊は精鋭を選んで土蜘蛛を討ち破り、その場所を磐余と改めた。 3月、中洲(大和国)の平定が終わったので畝傍山のほとりに全軍を招集し奠都の詔を高らかに宣言した(八紘為宇)。 そして畝傍山の東南橿原の地に宮殿をつくらせた。そこが今の橿原神宮である。庚申年9月、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。
神武東征・即位

橿原宮にて辛酉年1月1日に即位して初代天皇に成る。即位日はグレゴリオ暦(西暦)だと紀元前660年2月11日であり、日本の「建国記念の日」(旧:紀元節)となっている。 即位4年2月23日、天下をすでに平定し終わり海内無事である旨を詔し、鳥見山中に皇祖天神をまつった。 即位31年4月1日、巡幸して腋上の嗛間丘に登り、蜻蛉の臀呫(あきつ の となめ。トンボの交尾するさま)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇76年3月11日、橿原宮にて崩御。127歳。
翌年(丁丑年)9月12日、畝傍山東北陵に葬られた。





年齢;84歳
在位;33年(前581年〜)

神武天皇(初代天皇)の皇子。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績
の記述は少なくいわゆ る「欠史八代」の1人に数えられる。



宮殿 葛城高丘宮(かつらぎたかおかのみや)

所在地 御所市森脇
宮都の伝説地は『和名類聚抄』に見える大和国葛上郡高宮郷と見られ、奈良県御所市森脇周辺と推定されています。 御所市森脇にある一言主神社の山麗小道を少し北に行くと視界が大きく開ける台地の一角に「綏靖天皇葛城高丘宮跡」 と記する石柱が杉林を背景にポツンと建っています。

御陵名 桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)

所在地;奈良県橿原市四条町
陵形;円丘   公式形式は円丘。
『日本書紀』では「桃花鳥田丘上陵」、『古事記』では「衝田岡(つきだのおか)」の所在となっているが、 中世には荒廃して所在が失われた。元禄の探陵の際には諸説が生じ、慈明寺町のスイセン塚古墳(前方後円墳、墳丘長55m) に綏靖天皇陵が比定されて、現陵(桃花鳥田丘上陵)は神武天皇陵と比定された。しかし幕末修陵に際して改められ、明治11年(1878年)に現陵が 綏靖天皇陵に治定された。





年齢;57歳
在位;38年(前548年〜)
綏靖天皇(第二代天皇)の第二皇子。 『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。



宮殿 片塩浮孔宮(かたしおうきあなのみや)

 宮の伝説地については、次の3説がある
1.奈良県橿原市四条町付近。『帝王編年記』『和州旧跡幽考』
2.奈良県大和高田市三倉堂・片塩町。『大和志』『古都略紀図』
3.大阪府柏原市。『古事記伝』『大日本地名辞書』
安寧天皇前後の諸宮が全て奈良盆地の中に位置することから、第1・2説が有力視される。 大和高田市片塩町の石園座多久虫玉神社境内に「片塩浮孔宮阯」碑が建てられている。

御陵名 畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさのみほどのいのえのみささぎ)

所在地;奈良県橿原市四条町
陵形;円丘   公式形式は円丘。
『日本書紀』では「畝傍山西南御陰井上陵」、『古事記』では「畝火山の美富登(みほと)」の所在とあるほか、 『延喜式』諸陵寮では「畝傍山西南御陰井上陵」として兆域は東西3町・南北2町、守戸5烟で遠陵としている。 しかし後世に所伝は失われ、元禄修陵では所在を誤ったが、幕末修陵に際して現陵に治定された。





年齢;77歳
在位;35年(前510年〜)

懿徳天皇は『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。 治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、 宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。



宮 殿 軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)

伝説地は現在の奈良県橿原市大軽町周辺と伝承される。同地付近の白橿町では「軽曲峡宮跡伝承地」碑が建てられている。

畝傍山南纖沙溪上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)

所在地;奈良県橿原市西池尻町
陵 形;山形。俗称は「マナゴ山」(山形墳)
『日本書紀』では「畝傍山南纖沙溪上陵」『古事記』では「畝火山の真名子谷の上」『延喜式』諸陵寮では「畝傍山南繊沙渓上陵」とあるが、 後世に所伝は失われ、幕末修陵に際して現陵に治定された。 なお、橿原市畝傍町のイトクノモリ古墳はその名から懿徳陵とされることもあったが、一説に皇后陵だともいわれる。

イトクノモリ古墳
橿原神宮外苑内の池田神社にあるイトクノモリ古墳はその名から懿徳陵とされることもありましたが、 一説に皇后陵だともいわれています。小型の前方後円墳で推定で全長約30m。前方部は明治末期に削られ消滅し、 後円部のわずかな高まりが残存してます。









年齢;113歳
在位;83年(前475年〜)
第4代懿徳天皇の皇子。
『日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載は記述はなく、「欠史八代」の1人に数えられる。 初代神武から第4代懿徳までの陵墓は畝傍山周辺に作られているが、孝昭天皇の宮は陵墓は葛城地方に造営された。



宮 殿 掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや)

所在地;御所市蛇穴・玉手の御所実業高校正門の横の民家の畑の隅に「掖上池心宮」の石碑が立っている。 この説は『日本書紀』推古天皇21年(613年)11月条に造られた「掖上池」の所在地を付近に想定したことによる。 掖上池心宮は碑の建つ場所より、もう少し西の方に在ったようだ。

御陵名 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)

所在地;奈良県御所市大字三室
陵形;公式形式は山形。俗称「博多山」。
ご陵は奈良県立青翔高等学校の東南方向、近鉄御所駅から北に10分の丘陵(古墳)にあり、横には同じ読名の孝照神社がある。 『日本書紀』では「掖上博多山上陵」、『古事記』では「掖上博多山上」、 『延喜式』諸陵寮では「掖上博多山上陵」の名称で大和国葛上郡にあるとしている。しかし後世に所伝は失われ、 元禄の探陵で現陵に治定された。






年齢;137歳
在位;102年(前392年〜) 
第5代孝昭天皇の皇子。
『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。
初代神武から第4代懿徳までの陵墓は畝傍山周辺に作られているが、第6代孝安天皇の宮も陵墓も葛城地方に造営される。



宮 殿 室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)

所在地 御所市室
宮の伝説地は『和名類聚抄』の大和国葛上郡牟婁郷と見られ、現在の奈良県御所市室周辺と伝承される。 同地では八幡神社境内に「室秋津島宮阯」碑が建てられている。

橿考研が室秋津島宮跡と見られる古代遺跡発見

2010年10月橿原考古学研究所は、御所市で古墳時代前期の遺跡で「秋津遺跡」を発見、内部から「神殿」と考えられる 大型建物跡や計画的に配置された大規模は祭祀集落跡が見られた。
また、2015年8月には秋津遺跡に隣接した中西遺跡でも古墳時代前期の竪穴式建物群が発見された。 同研究所は秋津遺跡は祭祀地区、周辺(中西遺跡)地区は住居地区と考えられ、さらに範囲は広がるとみられる。 (2017.3.28付毎日新聞)


御陵名 玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)

所在地;奈良県御所市大字玉手
陵形;公式形式は円丘。玉手丘陵上に所在する。
『日本書紀』では「玉手丘上陵」、『古事記』では「玉手崗上」の所在とあるが、 中世に陵の所在が失われた。『歴帝陵』の一本および『大和志』が現在の地を推して以来、定説となった。




年齢;128歳
在位;76年(前290年〜)
第6代孝安天皇の皇子。
『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。 一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、 磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある。



宮殿 黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)

所在地は奈良県磯城郡田原本町黒田周辺の地に遷都されたと伝えられる。 なお、所在地については、孝霊天皇以前の皇宮の多くが奈良県山間部に置かれたと伝わるのに対して、 奈良県中央に位置する大和盆地に遷都されたことで、大和国から河内国への進出、吉備国平定など黎明期の大和政権の支配域拡大に つながったものとみられている。

桃太郎伝説発祥の地

伝承地黒田廬戸宮(法楽寺)には桃太郎伝承のお話があります。
日本書紀の崇神記によると、四道将軍の一人、彦五十狭彦命(吉備津彦命)は朝廷から遣わされ て西海を平らげ、その後、出雲振根を誅したと伝えられています。 後世の桃太郎の話は、その吉備津彦命をモデルにして成立したと考えられ、田原本町は川上から男子が流れてきて 神様になったという伝説を残し万葉集に詠まれたように桃の名所でもあったようです。



御陵名 片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)

所在地;奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目
陵 形;公式形式は山形
『日本書紀』では「片丘馬坂陵」『古事記』では「片岡馬坂上」の所在とある。 後世に所在は失われ江戸時代の元禄の探陵で現陵に治定された。 自然の丘を利用して作られた陵墓で、25代武烈天皇の「傍丘磐坏丘北陵」に治定の傍丘磐坏丘北陵古墳と、 23代顕宗天皇の「傍丘磐坏丘南陵」に治定の傍丘磐坏丘南陵古墳(いずれも奈良県・香芝市)と共に「片岡三陵」と呼ばれている。



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