
国見丘に八十梟帥を討ち、磯城を支配する兄磯城を討伐し、弟磯城が恭順。長髄彦と遂に決戦となり、連戦するが勝てなかった。
すると急に黒雲が空を覆い、あたりも暗くなり、叩きつけるように雹が降ってきた。
そして一筋の光が差したかと思うと金色の霊鵄が現れ彦火火出見尊の弓の先に止まり稲光のような瑞光を発した。
長髄彦の軍はまぶしくて目も開けられず、ついに降参してしまった。
己未年2月、彦火火出見尊は精鋭を選んで土蜘蛛を討ち破り、その場所を磐余と改めた。
3月、中洲(大和国)の平定が終わったので畝傍山のほとりに全軍を招集し奠都の詔を高らかに宣言した(八紘為宇)。
そして畝傍山の東南橿原の地に宮殿をつくらせた。そこが今の橿原神宮である。庚申年9月、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。
神武東征・即位 |

橿原宮にて辛酉年1月1日に即位して初代天皇に成る。即位日はグレゴリオ暦(西暦)だと紀元前660年2月11日であり、日本の「建国記念の日」(旧:紀元節)となっている。
即位4年2月23日、天下をすでに平定し終わり海内無事である旨を詔し、鳥見山中に皇祖天神をまつった。
即位31年4月1日、巡幸して腋上の嗛間丘に登り、蜻蛉の臀呫(あきつ の となめ。トンボの交尾するさま)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇76年3月11日、橿原宮にて崩御。127歳。
翌年(丁丑年)9月12日、畝傍山東北陵に葬られた。
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年齢;84歳
在位;33年(前581年〜)
神武天皇(初代天皇)の皇子。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績
の記述は少なくいわゆ る「欠史八代」の1人に数えられる。
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宮殿 葛城高丘宮(かつらぎたかおかのみや) |

所在地 御所市森脇
宮都の伝説地は『和名類聚抄』に見える大和国葛上郡高宮郷と見られ、奈良県御所市森脇周辺と推定されています。
御所市森脇にある一言主神社の山麗小道を少し北に行くと視界が大きく開ける台地の一角に「綏靖天皇葛城高丘宮跡」
と記する石柱が杉林を背景にポツンと建っています。
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御陵名 桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ) |
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年齢;57歳
在位;38年(前548年〜)
綏靖天皇(第二代天皇)の第二皇子。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。
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宮殿 片塩浮孔宮(かたしおうきあなのみや) |

宮の伝説地については、次の3説がある
1.奈良県橿原市四条町付近。『帝王編年記』『和州旧跡幽考』
2.奈良県大和高田市三倉堂・片塩町。『大和志』『古都略紀図』
3.大阪府柏原市。『古事記伝』『大日本地名辞書』
安寧天皇前後の諸宮が全て奈良盆地の中に位置することから、第1・2説が有力視される。
大和高田市片塩町の石園座多久虫玉神社境内に「片塩浮孔宮阯」碑が建てられている。
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御陵名 畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさのみほどのいのえのみささぎ) |
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年齢;77歳
在位;35年(前510年〜)
懿徳天皇は『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。
治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、
宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。
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宮 殿 軽曲峡宮(かるのまがりおのみや) |
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畝傍山南纖沙溪上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ) |
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イトクノモリ古墳 |

橿原神宮外苑内の池田神社にあるイトクノモリ古墳はその名から懿徳陵とされることもありましたが、
一説に皇后陵だともいわれています。小型の前方後円墳で推定で全長約30m。前方部は明治末期に削られ消滅し、
後円部のわずかな高まりが残存してます。
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年齢;113歳
在位;83年(前475年〜)
第4代懿徳天皇の皇子。
『日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載は記述はなく、「欠史八代」の1人に数えられる。
初代神武から第4代懿徳までの陵墓は畝傍山周辺に作られているが、孝昭天皇の宮は陵墓は葛城地方に造営された。
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宮 殿 掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや) |
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御陵名 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ) |
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年齢;137歳
在位;102年(前392年〜)
第5代孝昭天皇の皇子。
『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。
初代神武から第4代懿徳までの陵墓は畝傍山周辺に作られているが、第6代孝安天皇の宮も陵墓も葛城地方に造営される。
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宮 殿 室秋津島宮(むろのあきつしまのみや) |

所在地 御所市室
宮の伝説地は『和名類聚抄』の大和国葛上郡牟婁郷と見られ、現在の奈良県御所市室周辺と伝承される。
同地では八幡神社境内に「室秋津島宮阯」碑が建てられている。
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橿考研が室秋津島宮跡と見られる古代遺跡発見 |

2010年10月橿原考古学研究所は、御所市で古墳時代前期の遺跡で「秋津遺跡」を発見、内部から「神殿」と考えられる
大型建物跡や計画的に配置された大規模は祭祀集落跡が見られた。
また、2015年8月には秋津遺跡に隣接した中西遺跡でも古墳時代前期の竪穴式建物群が発見された。
同研究所は秋津遺跡は祭祀地区、周辺(中西遺跡)地区は住居地区と考えられ、さらに範囲は広がるとみられる。
(2017.3.28付毎日新聞)
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御陵名 玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ) |
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