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Brugada’s Worldブルガダ症候群のオッサンがくりひろげるお気楽ホームページ
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私の体験談重篤な状態からの生還それは忘れもしない2000年問題で世間は右往左往している1999年の11月に仕事での極度のストレスや過労、睡眠不足が重なり明け方の自宅ベッドで不整脈が起こりのたうちまわって2回目の時には家内もついに電話に飛びついて救急車を呼んでいました。 その間には自然と意識も戻っており救急隊員が二階の寝室に3人も上がりこみ色々な記録を取っていましたが私は意識も戻っていて「もう大丈夫だからお引き取りください」と言うのを隊員の人が念の為にも病院で検査をした方がいいと言われて救急車に乗り込み近所の救急指定S病院に担ぎ込まれてからが地獄の経験をしてしまいました。 その病院は交通事故などの外科的な救急患者が担ぎこまれる病院のようなので当直医の先生は外科で、救急処置室で度重なる不整脈発症の度に「○○さんしっかり!」と呼ぶだけでDCも薬物治療もなく数時間がたち当直医は内科医に緊急電話を数度となくして指示を仰いでいましたがその表情が何とも心細そうにしていたのが妙に印象的でした。 結局CT検査を取ることになったのですがまた不整脈が出て自宅で2回、救急処置室で3回、CT検査室で1回起こり内科医が病院に出てくるまで6回の苦しみを経験しました。(当然、何の治療もなく自力で意識が戻ったのです) その後2階の内科処置室に移動し心電図を撮りながら薬物注射を行い経過を見ていましたが全く不整脈が出なくなるどころかドッカンドッカンと出る出る、ついに医師達が30分間隔で出ていると言っている言葉を耳にしてから絶え間なく時計を見つめながら心細い思いで都合6回のDCショックを行い何とか整脈に戻りましたが何の解決にもならず先生方も困られていました。 しかし今この体験談を書きながら当時から3年以上経過していますがDCショックをかける時の会話は今でも鮮明に記憶しています。 心電図を見ている先生が「オッ!来た来た!」の叫び声にそれまで緊張をほぐすように色んな会話をしていましたが「先生!早よドーンとやって!」と無意識のうちに私は叫んでいました。もう何度もDCショックをかけていて胸はクッキリとアイロン型のような焼け焦げた跡がついていてヒリヒリ、ジンジンとした痛みがありましたがDCショックをかけずに意識が戻る時の何とも言えない苦しさ、息が詰まるような辛さに比べればDCショックの痛みなどは屁の河童ではありませんが我慢が出来ました。 その事を先生に話すと何とも言えない顔で「DCショックをかける医師の方が躊躇してしまうのにたいしたもんだ」と感心するやらでこちらの方が複雑な心境になっていました。 そうこうしている間にK大出身の先生が偶然に入ってこられ長い間担当医の先生と協議をされ、その後私のベッド横で「貴方は本当ならこの二階のベッドではなく地下のベッドにいるはずだったのが奇跡的に助かったんだよ!」と神妙な顔で話をされ、また現状のこの病院ではこれ以上の治療は不可能で自分の出身大学病院に不整脈の専門医がいるので転院した方が治療の可能性はあるし、DCショックばかりでは体力の限界もあるよの言葉が耳に入ってくるのです。 勿論私は藁をもつかむ思いで頷いていました。 家内はその間、処置室には入れてもらえずに外で待っていましたが看護師の声や私のうめき声でそれはたいそう心細い思いをしていたのでしょう。何度目かの発作の後に「重篤な状態なので親族を集めてください」と先生から告げられると眩暈はするは腰は抜かすはでついには車椅子に座らされていたそうです。(今となっては笑い話ですが・・) その後、親戚や子供の学校に連絡が行き続々と病院に身内が集まりだし子供達がベッドの横で只、泣いているばかりで思わず「心配するな!必ず帰ってくるから!」と言いながら自分もウルウルとしていました。 転院の手配が済んで出発までに12回目の発作、6回目の覚醒時のDCショックを受けてからさあ出発で担当医のT先生と救急車に乗り込み「K大病院まで30分で行って!」の声で隊員の方は飛ばすは飛ばすは本来ならゆうに40分はかかろうかと言う距離をなんと25分で行ってしまったのですが到着するまでは生きた心地ではなかったです。 到着すると病院の入り口には先生らしき白衣の人が20人以上は待っていたと記憶しています。(皆さん知っていますか?昔のテレビドラマで田宮次郎が主演でした病院ものでタイトル「白い巨塔」そのものの雰囲気なのです)その病院は救急救命センターも併設していてCCUに運び込まれ私のベッドの周りは騒然としていて生まれてこの方病気とかケガにトンと縁が無いのでこの異様な情景で「ああ、俺はこれからどうなるのだ?」と先生に聞いても「大丈夫ですから心配しないで」と答えるばかりでした。 しばらく落ち着いて朝から何も食べていないので少し食べたあとでふと最後に発作が起きてからもう3時間半も経っているのに気が付き、もう発作のパターンから開放されたと自分で勝手に思っていました。 翌日からは早速、検査が始まり心臓カテーテル検査、トレッドミル検査などを行いましたが入院当時命名?された病名「致死的特発性心室細動」の兆候は見られず国立J病院に転院するまで一度もDCショックのお世話にならずに済みました。 その病名の後に実はブルガダ症候群と言って原因不明の心臓病であり心電図での特異的な波形でしか判明しない摩訶不思議な病気であるのが判りこの病気は絶対に治らないと言われ目の前が真っ暗になり一生病院生活ですか?と思わず聞き返していました。 色々とお世話になったK先生からこの病気は現在、研究段階でまだまだ解明されていない部分が多く根治療はありませんが植え込み型除細動器の説明を受けて同病気の専門的な研究と植え込み手術を受ける前提で転院準備に入り12月中旬に国立J病院へ無事大過無く移りました。 そこで入院のしおりなるパンフレットに「当院は全館禁煙施設です」の言葉で初めて倒れてから3週間もの間、1日4〜50本は吸っていたヘビースモーカーが1本も吸っていなかったのに気が付いた次第です(禁煙をするならCCUに3週間入院しましょう!) K病院当時は点滴や心電図をを撮るやらで猿回しの猿みたいにベッドにつながれていましたがJ病院では1歩進み、階のフロアまでは自由に動けるようになり気分も少しは晴れてきましたが同部屋の他の3人は全館自由に動けるらしく喫茶店や食堂に行ったりしているのをただ眺める日々が続き手術を受ける儀式ではありませんがカテーテル検査などを受けて翌1月にICD手術を無事に受けることができました。 手術後の3日ほどは安静にとのことで大人しくしていましたが4日目からはもうリハビリに励んでいました。 ゆっくりと左腕を廻したり運動不足で既に体重も入院前から5kgも増えてこのままでは退院後の着る服の心配もしなくてはいけなくなったからです。 手術前にICDを入れると運動などの制限はあるのかと聞いていて特にリード線の問題で腕を廻すスポーツは出来るのかと趣味であるゴルフなどの為、真剣に聞いていましたがアメリカのプロゴルファーもICDを入れた選手が活躍している話を聞いて一安心をしてICDを植え込み無事退院もしました。 そして入院時から作動すると馬に蹴られた感じでビックリすると言われながらも一度も作動経験も無く現在に至っています。 私の場合、血管や心筋などに疾患がある為に不整脈が出る訳ではありませんが今日の医学の進歩は凄いスピードで進んでいるので今後、自分の病気の原因解明がされ根治療が見出される事を祈っています。 そして今は左胸のポケットに若干重めのお守りを肌身はなさず持ち歩く事で人生の折り返しをし、これからの人生が不安なく過ごせるような精神状態にまで盛り返せたのは本当に度重なる強運と巡り合えた先生達、そして入院中に私のバカな長話に付き合ってくれた看護師達、また昨今突然死とかで巷のマスコミなどで一躍有名になったICDと共に長生きをする事で本当にお世話になった方々に厚く御礼をしたく思います。 Copyright(C) Brugada's World All Rights Reserved. |