小谷城

 所 在 地   滋賀県長浜市小谷郡上町  別 名   ―
 遺 構   郭・石垣・土塁  形 式   山城(標高495m、比高230m)
 築 城 者   浅井亮政  築 城 年   大永4年(1524)
 歴  史  大永3年(1523)、近江江北守護京極高清のとき、長男高延と次男高慶を立てて、跡目争いが起こる。このときに、浅井亮政は、高延を擁して対抗勢力を一掃する。翌、大永4年(1524)、浅井亮政は小谷山に城を築いて、京極父子を迎え、実権を掌握した。
永禄3年(1560)、三代目の長政が、16歳で家督を相続する。永禄10年(1567)、長政は、この頃、織田信長の妹、市を娶る。
元亀元年(1570)4月、長政が、越前朝倉義景攻めの織田信長を、攻撃する。同年6月、浅井・朝倉連合軍、織田・徳川連合軍と姉川で合戦し、敗退する。
天正元年(1573)9月1日 織田軍に攻められ、浅井久政・長政父子は自刃し、落城した。小谷攻めの功により、羽柴秀吉に小谷城が与えられる。
天正3年(1580)、小谷城は廃城となり、羽柴秀吉は、小谷城の資材を使って、今浜に長浜城を築いた。
歴 代 城 主 浅井亮政・久政・長政 羽柴秀吉


大手道跡
出丸跡
金吾丸跡

大永5年(1525)、六角定頼が小谷城に来攻した際、浅井亮政の応援に来た越前の朝倉金吾教景が造った砦の跡。
番所跡

峰幅が一番狭いところであり、城内への出入りを監視したところ
御馬屋跡・馬洗い池
大広間跡

城内で最も広いところで、3000平米ある。本丸御殿の礎石が残る
本丸(鐘ケ丸)跡

大広間の奥の一段高くなったところで、天守と目される櫓があった。
中丸・京極丸・小丸が秀吉によって落されたあと、信長に攻められる。本丸から討って出た長政は、本丸の下の赤尾屋敷に逃げ込み、自刃した。

中丸跡

本丸と京極丸の間にあり、重臣の浅井七郎、三田村左衛門尉、大野木茂俊らが守っていたが、秀吉に寝返り、秀吉軍を導き入れた。落城のきっかけとなる。
京極丸跡

京極高清・高延父子を住まわせていたところ。

中丸に入った秀吉軍によって最初に攻撃され、落ちた。
小丸跡

小谷城落城の際には、浅井久政が守っており、京極丸を落した秀吉軍により攻められた。
本丸の長政との間を破られたことを知った久政は自刃して果てた。
山王丸跡 

一番高いところにあり、日吉山王社を祀った詰の丸。
清水谷の屋敷跡

浅井氏の居館、寺院、重臣の屋敷が構えられたところ。
土佐屋敷、三田村屋敷、徳勝寺、山城屋敷などの跡が残る。


小谷城は、月山冨田城(出雲尼子氏)、七尾城(能登畠山氏)、春日山城(越後上杉氏)、観音寺城(近江六角氏)と並んで、戦国五大山城の一つに数えられる。
小谷山の山中に千を越す曲輪が築かれた巨大な難攻不落の山城であるが、信長軍の猛攻を受け、3年の籠城の後、重臣の寝返りもあって、落城した。


現地案内板


 姉川合戦場

元亀元年(1570)6月21日
織田信長軍2万、徳川家康の援軍5千の合計2万5千と、浅井長政の8千、朝倉義景援軍1万の合計1万8千とが、姉川を挟んで戦った。

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