富田城

所  在  地  島根県安来市広瀬町富田 別  名  
遺  構  曲輪 石垣 堀切 井戸 形  式  山城(標高197m、標高150m)
築  城  者  佐々木義清 築  城  年  鎌倉時代初期
歴 史 承久の変(1221)の後、佐々木美清が出雲守護として入り、月山の山麓に館を営んだのが、富田城の始まりとされる。一時、山名氏が出雲守護となるが、明徳2年(1391)の明徳の乱で山名氏は失脚し、佐々木(京極)高詮が守護に帰り咲く。京極高詮は本国の近江にあって、守護代として尼子持久を富田城に入れる。
応仁の乱のあと、尼子経久は京極守護家と対立し、文明18年(1486)、月山富田城主として独立する。尼子氏は経久ののち、政久、晴久と続き、この間、天文12年(1543)に大内義隆の大軍に攻められるが、撃退する。
永禄9年(1566)、尼子義久のとき、毛利元就の兵により包囲され、降参して開城する。毛利元就は、天野隆重などを城代として置く。
永禄12年(1569)、山中鹿之助は尼子を再興すべく、尼子勝久を擁して挙兵し、富田城に迫るが、撃退される。
天正19年(1591)、吉川広家、豊臣秀吉より出雲などを与えられ、富田城に入る。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、吉川広家は岩国へ転封され、堀尾吉晴が入城する。慶長16年(1611)、松江城が完成し、堀尾忠治は居城を移す。
元和元年(1615)の一国一城令により、この頃に富田城は廃城になる。
歴代城主 佐々木氏 山名氏 佐々木氏 尼子氏 毛利氏 吉川氏 堀尾氏


三の丸の石垣と虎口 石垣は三段の段状になっている


標高188mの月山の頂部に本丸、二の丸、三の丸を南から北へと連郭式に配置し、月山の南側の中腹に広い曲輪の山中御殿平を構える。さらにその南側の山麓に花の壇、奥書院、太鼓壇、千畳平の曲輪を設けた、広大な城郭であった。現在みられる富田城は、堀尾氏のときに大改修されたものであり、総石垣の曲輪群が築かれた。


山中御殿平の大手門跡 広大な敷地の山中御殿平 周囲の石垣は復元されたもの


三の丸の石垣 三の丸


二の丸の石垣 二の丸 建物が復元されている


本丸 堀切で二の丸と分断されている 本丸 幅は狭いが南北に長い


<アクセス>
安来市広瀬町の道の駅「広瀬・富田城」から徒歩で富田城へ行くことができる。道の駅には市立歴史資料館もある。また車では、道の駅の前の道を100mほど行くと三叉路があり、左の狭い道に入って800mほどで、山中御殿平の大手門跡に着く。ここに車を2〜3台置くことができるスペースがある。(2010.11.03)

日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む