中津城

 所 在 地   大分県中津市二の町  別 名   扇城
 遺 構   櫓、石垣  形 式   平城
 築 城 者   黒田孝高  築 城 年   天正16年(1578)
 歴  史  天正15年(1577)、九州平定を終えた豊臣秀吉により、黒田孝高(如水)が中津に封じられ、築城を開始する。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦後、黒田長政は筑前福岡へ移封され、代わりに丹波宮津より、細川忠興が入る。細川忠興は、中津城を居城とし、弟の興元を小倉城に置く。
慶長7年(1602)、細川忠興は、本拠を小倉に移し、中津に嫡男忠利を入れる。
元和6年(1620)、細川忠興(三斎)は、家督を忠利に譲り、中津に戻って、中津城と城下の整備を本格的に行なう。
寛永9年(1632)、細川氏は肥後熊本に移封され、播磨龍野より、小笠原長次が入封する。
享保2年(1717)、小笠原長興は、播磨安志へ1万石で転封され、奥平昌成が、丹後宮津より入封する。以後、奥平氏が明治維新にまで至る。
歴 代 城 主 黒田氏(12万石)、細川氏2代(39.9万石)、小笠原氏6代(8万石→4万石)、奥平氏9代(10万石)


              五重天守と二重櫓
もともと中津城には天守はなく、天守がそびえる位置には本丸二重櫓が建っていた。昭和39年に天守復興ブームの一つとして、二重櫓とともに鉄筋コンクリートで新築されたもの。初層が石垣からはみ出し、二層目の大入母屋に三層以上が乗り、最上層に廻り縁を設けた望楼型天守であり、これは萩城天守を模したものといわれる。ただ、下見板張に変更している点が異なる。


中津城は、本丸、二の丸、三の丸からなるが、黒田氏のときは、まだ三の丸はなく、細川氏のときに最終的な形になった。
明治維新まで続く奥平氏は、長篠城を武田勝頼の攻撃から死守したことで有名な奥平信昌の家系である。


現地案内板より
本丸石垣。中央を斜め上下に横切る算木積によって、右側の石垣に、左側の石垣を付け足すように、補修されたことがわかる。右側が黒田孝高のもの、左側が細川忠興ものである。 中津城は、山国川河口の海を背にして、本丸の北と東を二の丸が、南を三の丸が囲む縄張りであり、その形から扇城とも呼ばれる。


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