岡 城

 所 在 地   大分県竹田市大字竹田  別 名   竹田城 臥牛城
 遺 構   石垣、曲輪  形 式   山城(標高325m、比高100m)
 築 城 者   中川秀成  築 城 年   文禄3年(1594)
 歴  史  岡城の起源は、文治元年(1185)、緒方惟栄が源頼朝と対立した義経を迎えるために、城を構えたことによると伝えられる。また南北朝の頃、大友氏の一族の志賀貞朝が岡城を修築して北朝方と戦ったとされる。
文禄3年(1594)、文禄の役での失態により大友氏が改易されると同時に志賀親次は城を去り、中川秀成が入城する。
以来、中川氏は関ヶ原合戦を乗り切って、明治に至るまで在封する。
明和8年(1771)に、城下の出火からの飛び火により、城内の建物の大半が焼失する。
享和3年(1803)、この頃までに、城の再建が完成する。
歴 代 城 主 緒方氏、志賀氏、中川氏12代(7万石)


            三の丸北面の高石垣
建物は総て失われているが、石垣が累々と連なる様は圧巻。特に三の丸北面のこの高石垣は、勾配が急であり、見どころのひとつとして有名。三の丸は藩主の執務が行なわれた曲輪であったと考えられている。
岡城の石垣は総じて打込ハギであるが、間詰石が殆ど必要がない程に、切込ハギに近いものであり、完成度が高い。


岡城は、中川氏によって中世的城郭から近世的城郭へと大改修されたものであり、東西に延びる台地の上に展開される山城。本丸、二の丸、三の丸、廟所、西の丸などの曲輪からなり、城郭の中心部の本丸・二の丸・三の丸は中仕切門によって区画されている。
初代中川秀成は、賤ケ岳の合戦で戦死した中川清秀の子である。


大手道 大手門跡
太鼓櫓跡
中枢の本丸・二の丸・三の丸への関門
清水谷を挟んで配置された家老屋敷跡
        本丸南面の櫓台
天守代用の三階櫓があがっていた。明和6年(1769)に地震で倒壊したが、安永3年(1774)に再建され、明治維新以降も残っていた。
        本丸東面の石垣
右端の算木積が二重に重なっており、補修されたことがうかがえる。
      二の丸北面の高石垣
二の丸には、月見櫓や数奇屋があり、遊興的な曲輪であったとされる。
          西の丸の石垣
3代藩主久清によって隠居後の居住地として寛文4年(1664)に普請されたが、元禄2年(1689)以後、公式行事にも使用されるようになり、江戸後期には藩政の中心にもなった。


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