鎌掛城

 所 在 地   滋賀県蒲生郡日野町鎌掛  別 名    ―
 遺 構   曲輪・土塁・横堀  形 式   山城(標高374m)
 築 城 者   蒲生秀行  築 城 年   十六世紀初頭
 歴  史  建武2年(1335)、中野左衛門尉清信が砦を築いたと伝えられるが、城郭としては、文亀2年(1502)、蒲生秀行が築城したのが始まり。
大永3年(1523)、蒲生秀紀が、叔父の蒲生高郷と抗争して破れ、音羽城を出て鎌掛(かいがけ)城へ入る。蒲生秀紀は大永5年(1525)に毒殺される。
天正10年(1582)、本能寺の変に際して、蒲生賢秀が織田信長の妻子を日野城に匿った際に、織田信雄が来援して一時、鎌掛城に入る。
天正13年(1585)、蒲生氏郷が伊勢松ケ島に国替えになった後、豊臣秀次の命で廃城になる。
歴 代 城 主 蒲生氏


伝本丸と西面の土塁。土塁というよりも、岩盤を削った石塁となっている。 主郭の中央部の西面に開いた虎口。山屋敷の伝大手道に繋がっていたと考えられる。


伝二の丸と、西面の土塁。 伝二の丸の虎口


井戸跡。直径約2m、深さ2mほどであり、周囲が石で完全に囲まれており、保存状態が良い。 鎌掛城の城山


城は、城山の山頂から北東、北、南西の三方向にのびる尾根上に、東西約400m、南北約250mの範囲で設けられている。曲輪と考えられる約20の削平地からなっている。比高155mの山頂に伝本丸跡がある。この伝本丸跡から北に延びるのが主郭の北郭群である。この北郭群の中程に、西北麓にある山屋敷の伝大手道と通じると考えられる虎口が開いている。


<アクセス>
県道182号線を正法寺から西へ約1km走ると、南側へ入る林道(堰堤が見える)がある。この林道に入って100mほど、堰堤を越えて直ぐ右側に、山の傾斜面へと上る山道がある。ここから山に入って、約20分ほどで、北東郭群に到達する。山道らしい道もなく、案内板の類は一切ないので、非常にわかり難い。北東郭群から主郭の北郭群へと巡ることになるが、これらの郭群に入っても、道らしきものはないので、どこを歩いているのかわかり難い。大げさでなく、山中をさまよう結果になるおそれがあるので、一人で入山することはお勧めできない。(2008.11.23)

日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む