Recitativo (旧)

 
 
 このところネット・カンニングの報道が常軌を逸した状態でうっとうしい限り。日本のマスコミは60数年前は大本営の走狗だったが、今はアメリカの日本占領政策の道具として存在させられているのは無条件降伏したから仕方が無いとは言うものの、いい加減で日本国自体にプラスになることを主体にすべきだろうと言いたくもなる。実際、今の状態は北朝鮮の国営TVより遥かにタチが悪く、国民が選んだ政治家達の足を引張ることや、どうでも良い予備校生のカンニングをトップ記事にしたり愚民洗脳に明け暮れているのは情けない限り。ゴマメの歯軋りはそれくらいにして、このところTシャツに凝ってしまっていろいろあさったりしているのだけれど、バッハのTシャツが結構高値なのはやはり人気が一番であるせいなのであろうか。我がブルックナー先生のものがその点安価だけれど種類が少ないのは残念で、ショパン先生リスト先生などと比較してもかなり淋しいものがある。Tシャツショップも様々でデザインもやや違いがあったりする中で、ここのショップはかなり豊富な製品を扱っている。日本サイトより米国サイトで購入したほうが送料を含めても安いのは円高のおかげなのだろうけれどリピートの場合にさらに割引が付くのも見透かされているとは言え、やはりありがたい。しかしショパンのTシャツを着てバラードのピアノ練習をすると、なんとなく弾きやすく腕が上がったような感じがするのはプラセボ効果なのか、なかなか面白い発見とも言えるがパルティータの練習をするからと言ってバッハのに着替えるのも、この陽気では風邪の元以外の何者でもない。(2011/3/6)
 
 
 一気に冬型が強まって雪時雨状態の大晦日。ペン書き手紙に凝り始めて約一月でボトルインクが八種類になって封緘印用のスタンプ台もドロップ型とあわせて十二種類になってしまった。お気に入りのインクはDrヤンセンのショパン、これはエルバンのエンパイアグリーンとほぼ同色だが、ややショパンのほうが艶がある感じ。今のところこのグリーンが最高位に位置していて、グリーンブラックはBungBoxのダンディズムが定番の座を確保、ブルーブラック系はパイロット色彩雫「月夜」を抑えてヤンセンのダーウィンがおさまり、グリーンブルーはアンデンルセンが品切れの間を色彩雫「松露」が取り、ブラウンブラックは「山栗」がエルバンのティーブラウンを超えて定着と言う具合で、ほぼ底無し沼状態。しかもまだブルー系では「紺碧」に狙いを定めていたり、パープル系ではエルバンのムーンシャドウに触手を伸ばしているといった状態で、便箋のほうはパイロット、オキナ、エヌビーでどうやらオキナに落ち着きそうだが封緘印はまた候補が増えてこちらはどれもゆずらず群雄割拠。これらをツキネコスタンプの各色で組み合わせを思案し始めると無限ループに入り込み、BGMにブルックナーの交響曲をかけていても足りない。TVで久しぶりに第九「合唱付き」を楽しんだ。リリンクはまだ新進気鋭であった頃にマタイ受難曲を聴いてその溌剌さに驚いた印象そのままで、ここでも変な拡大解釈の無いきめの細かい爽やかな第九を新鮮に楽しめた。第三楽章では彼の最後のソナタ終楽章が聞こえたり、これほど同じメロディ断片を繰り返していたのかとあきれなおして正にブルックナーはここから誕生したのだなあとの感を深くしたり、終楽章の4人のソリストたちも美しいトーンでとても良い内容だった。その後の番組で庄司紗矢香のスプリングソナタではカシオーリのピアノの品の良さにこれまた驚き。実にくっきりしていて音色の色付が垢抜けていてヴァイオリンとのバランスが見事。またピアノソロでは小山実稚恵のショパンワルツはこれまた完成しきっていると言うか、これが音楽芸術のお手本演奏とでも言うか精緻な絵画のタッチを見るよう。そんなこんなで今年も暮れ果てる。(2010/12/31)
 
 
   先週の男子ゴルフ最終戦では応援していた藤田選手が優勝したし、フィギュアスケートでは安藤選手もフリー演技で会心のパフォマンスでとても良いものを楽しめたし、なかなか励みになるスポーツ選手の生き様を観させて頂けた。藤田プロの18番ホールのパットは物凄いものだったけれど、キャディーがあそこまで泣くかと事情を知らなかったとは言え非常に驚きではあった。音楽のほうはようやくバラード一番が掴める様になってきたというところで練習しながら、クラシック音楽は結局はお経なのかなと思うこのごろ。歴史の中で作り上げられてきてそのジャンルに分け入った人のみが感動できるものだし、一般的には文字通り馬の耳に念仏だし、精神生活にゆとりが無いと味わうことはかなわないし。「感動」は一回限りの出会いでCDなんかで再現できるものでもなく、ただ「感心」は何度でも味わえるものだからCDにして売れる演奏は結局は「感心できる演奏」なのだなと納得してみたり。このところ万年筆中毒がひどくなってきてボトルインクや便箋が増加の一途をたどり始め、封緘印スタンプ台まで版図が広がりつつある。こうしたものにちょっかいをかけていて思ったのだけれど、芸術家は人の評価ではなく自分の表現したいものにすべてをつぎ込んでいくだけなのに対し、技術屋は自分の作ったものを人に褒めてもらいたいが故にすべてをつぎこむという最終的な満足レベルが自分なのか他人なのかで、演奏も「技術屋演奏」と「芸術家演奏」の二通りがあるのかなと思ってみたりして。(2010/12/12)  
 
 
 このところ精神的に大きく成長した安藤美姫選手が優勝するし、ピアノでは萩原麻未さんが優勝するし、それはそれでめでたい上に私的にも嬉しいことがあったりして久し振りに挽きたてCoffeeなんぞを専門店で求めてみた。銘柄はグアテマラSHBウエウエテナンゴ・コンポステラとえらく長大な名前で、簡易ドリップで入れて見た所、ざらつきや雑味が皆無で純粋な丸い味と香りに驚愕してしまった。ヨーロピアンとは対極でスイーツやミルクも不要だし、一杯が缶コーヒー1本以下の価格でこれは極上品との出会い。それを味わいながら最近のピアノコンクールのコメントなどを見ていると芸術的感動をお金でやり取りする仕組みもそろそろ限界に来たのかなと言う感じもしてくる。美人コンテストみたいに美的センスも芸術的素養も乏しい人達による政治的多数決か、オリンピックみたいな「より早く、より正確に、より大音量で」などの誰にでもわかる物理的評価基準で「優勝者」を決めて、その優勝者を使い捨ててお金稼ぎをするこのシステムも、支持母体たる中産階級が消滅してしまっては成り立つはずも無く、パトロン次第ではあるけれど、これから本物の音楽芸術が小さい範囲ながら純粋に楽しめる環境になってくるのかもしれないと期待してみたり・・。今回めぐり合ったコーヒーのように地道に自分の感性で探していくと行き当たるものかもしれず、いずれにしても日本のマスコミがアメリカの占領政策を永続化させるツールとして民放TVは大衆愚民化策用、主要新聞やNHKは大本営改めホワイトハウス発表知識人洗脳用として60年以上を経て見事にその効果をあげて来ているなかで、そうしたルートを情報源としないことで本物探しも回り道することなく目標にアプローチできることもわかってきたわけだし、あとは協力し合って自分達を守る基本すら喪失させられた今のこの国では、妙な隣国が暴走しないことをただ祈るのみ。(2010/11/27)
 
 
 常緑樹をバックにカナディアン・メープルの深紅が黄金色のポプラ並木に交錯して、秋の絢爛絵巻がピークの今日此の頃・・・。仕事で知り合ったポーランド帰りの営業マンにボレスワヴィエツを紹介され、ネット視聴していたショパンコンクールの余韻もあって、ポーランドつながりでピーコック柄のマグカップをひとつ買ってみた。やや稚拙な模様だけど愛らしく、ベースの紺色に気品があって大ぶりな形もほっこりできで、コーヒーとミルク兼用でお気に入りのひとつに仲間入り。それと昔に凝ってみたステーショナリーにも気が戻ってフォルカンと同社のインク「色彩雫」の”月夜”、”松露”も入手してワープロ一辺倒から一転、自筆の楽しみに逆戻り。当時購入した万年筆もペン先の引掛かりが気に入らず長年放置してあってインク吸入器も作動しなかったものにDIY修理を敢行。ペンの引掛かりは#1500のサンドペーパーの上ですべりの悪い文字を選んで書き散らして適度に鋭部を磨耗させて改善、インク吸入ポンプもピストン軸の中空部分に古インクが固着しているのがわかってマチ針を差し込んで通気を確保し、エタノール水にて洗浄したところ見事に機能復活。だめだったらアスコルビン酸かシュウ酸の水溶液で酸化付着物の還元除去もやりたかったところ。あとはインクと便箋の相性の選択で、これがまた順列組合わせと好みの一致までが道の遠い作業となるので段々と追い込んでいくこととする。今頃はピアノの音色が安定するので、またいろいろ遊びなおしていたらモーツァルトのK310に嵌まってしまった。以前は第一楽章と終楽章の凄みに圧倒されていた曲だけど今回は特に叙情楽章の奥深さ。もともとモーツァルトの長調曲の叙情楽章は見事な溜め息の短調になっているのだけれど、主調が短調の曲の叙情楽章はさっぱりとした長調の楽想で構成される。ところがその中間部は短調が使われるわけで、そこの美しさがまた絶妙。以前、20番ニ短調コンチェルトの第二楽章の中間部に惚れ込んで、そこだけ繰り返し練習して悦に入っていたことも思い出しつつ、K310はオケパートの音なんかを補う必要も無く、シンプルに選び抜かれた一音一音を楽しむ練習は他では得られない喜び。(2010/11/14)
 
 
 常識外れの酷暑が2ヶ月以上続いているこの頃、地球の終わりと日本の終わりとどちらが先かなと、どうでもよい心配をしてみたりする。何とは無しにグルダの弾き振りのモーツァルト・ハ短調コンチェルトを聴いていると、この暑さも微塵に消し飛んでしまう見事な天空の世界で、いつぞやのアントルモンのコンサートを思い出したりしつつ、昨日はブルックナーの誕生日ながら流石に彼のシンフォニーはもう少し涼しくなるまでお預けの気分。逆にピアノの練習のほうは猛暑対策でアパショナタ終楽章と久しぶりに大格闘してみたが、以前より結構指が動くようになっていたのでちょっと驚き。やはりバラード1番とかの練習が有効になっているのか、難しい曲を練習するときはそれ以上に難しい曲をやってみれば良いと言う誰だったの教えが頭をよぎったりする。塩漬け状態の幻想即興曲のほうはだいぶそれらしい形になってきて愉しめるレベルになって来たのが嬉しいし、今日のゴルフ中継も石川遼君が流石のショットを見せて優勝してくれるし、女子のほうも先週の鬼沢プロの優勝と今週は茜ちゃんの優勝でこちらもとても楽しめる展開だったしでまずはメデタシ、メデタシ。モーツァルトで室内楽が聴きたくなりショルティのピアノの四重奏をかけてみる。購入して初めて聴いたときには、もったりし過ぎて緊張感に欠けるなどと思ったものだけれど、聴きなおしてみるとこれが本当のモーツアルトなのだなと勝手に宗旨替えしてしまっている自分に気がついてみたり。バブル期の商業主義CDの、より速く、よりハイ上がりの録音と言うものがいかに馬鹿げていたかがこうしてみるとよくわかる。レコード会社の太鼓持ち評論家達が内田光子などのドタバタ五月蝿いだけのモーツアルトを持ち上げて、ショルティは指揮者だからピアノ演奏はどうたらと愚劣なご託宣を唱えていたのが正に笑止千万。芸術は深くなるほど、それをわかる人間は少なくなっていくから愚昧な大衆の小金をかき集める商業主義とは相容れないのは当然なのだけれど・・。(2010/9/5)
 
 
 今年、ショパン年の頂点イベントと自分で位置づけて待ちに待った「ツィマーマンのショパンコンサート」を聴きに出かけた。チケット購入が遅かったせいで2F席ではあったけれど、噂に違わぬ最上級の内容で、一日たった今でも感動の余韻が残っている。オープニングの夜想曲のはじめの一音で別世界に入ったのは予想通りだったけれど、超満員の大ホールでありながらピアニッシモでは「シーンと言う音も聞こえないくらい完璧な静寂」の中でウナコルダの囁きが明瞭に楽しめたのはこれまでには無かった経験。さらに加えてツィマーマンの人間性に触れるハプニングが二つもあったこと。ひとつは舞台上にしつらえられた録音マイクについてと、その断り場内アナウンスに対して自分でお詫びを告げて、彼の謙虚な姿勢と肉声をも楽しめたこと。もうひとつはスケルツォの演奏で最初のほうの全休止のところで1F正面後方で、小さい音ながらまさかの拍手をした人がいて、彼はそのほうをちらりと見て、首を横に振りながら「ここは終わりじゃないよ」と言ったジェスチャーをしながらしっかり休符をとって演奏を続け、ご丁寧に後の同じくだりの繰り返しの部分の休止場所で、ポーズをとってまたその観客のほうを見やって「ここも同じ、終わりじゃないよ」と言わんばかりのアクションをして場内に温かいクスクス笑いを誘ったこと。普通なら神経質にギスギスしたり、音楽が不自然になったりするところを、日光東照宮の「逆さ柱」ではないけれど見事に逆手にとって正に完璧な正真正銘の「諧謔曲」を創り上げてしまった。素晴らしい演奏なのにキズにならずにむしろ聴衆をソフトに一体化させてしまうその技はプロ中のプロとしてただただ頭が下がる。ピアノソナタの二番と三番は、これまたもの凄い音楽で、「空前絶後」と言う言葉はこの演奏のためにあると言える。葬送の第三楽章は、どこまでも深く単音を響かせ、まるでチェリビダッケ演奏のブルックナーのアダージョを再現したような深遠さで圧倒されたし、続く終楽章はオクターブの羅列の中から「故人の噂話」とか「舞い散る枯葉」とかの解説文にそったようなメロディーラインを聴かせる演奏が一般的な中で、ツィマーマンの音楽は「五色の彩雲の中に時折輝く釈尊の光」とでも言える絶妙な音響空間で、これまた正に天上の音楽の再来であった。ソナタ第三番ではそこにさらにいくつもの物語が加えられて、随所にシューマンやリストとの会話が挿入されて素晴らしい味わいの世界になっていた。(2010/5/31)
 
 
 冬と春が日替わりで交代する妙なお天気もようやく落ち着いてきた様子。インストールしたDVD再生ソフトの調子が今ひとつながらいくつか入手しては鑑賞の此の頃。上野樹里さんが気になってきたので、「出口の無い海」と「僕達の戦争」DVDを入手。両方とも特攻兵器「回天」を扱った戦時物であり、前者はシリアスな映画版、後者はエンターテイン色の強いTVドラマもの。彼女の真骨頂は無論後者であるけれど「のだめ」なんぞよりはよっぽど上質な演技と思う。「スウィングガールズ」の初々しさを残しつつ、彼女の天然素材を磨き込んでいく過程を示すなかなかの佳作と見た。TV用とあって道具類、演技の軽さは仕方が無いながら、どうせならこうした重い史実を扱うのでは無く戦国自衛隊のノリ程度にしておくべきだったのではなかろうか。彼女の出番の少ない「出口の無い海」のほうもまた別の面で首肯しがたい部分もあり、やはりこうした題材は興行ものにすべきではないのかもしれないし彼女向きではないことも言える。(2010/5/1)
 
 
 ショパン生誕200年アンケートに応募した結果が見たくて数年ぶりに「音楽の友」を購入した。演奏批評であれ、特集記事であれコンサート予定であれ、今はネット検索データが充実していて、また音楽CDなども売れなくなって広告媒体としての意味もなくなっているこうした雑誌の存在意義は何だろうと思いつつ、アンケートはウェブでも受付けていながら結果発表は雑誌のみと言うのも理由のひとつかなぁ等と勘繰ったりしながら一読してみた。まずアンケートに応募している層がワルツやノクターンを弾く愛好家が八割を占めていることで、かなり偏りのあるアンケートデータとなってしまっているのはやはり無理からぬところであろうが、好きな曲のジャンルでエチュードがまったく挙がっていないのにまずは驚いた。確かにエチュードはその性格から、華やかだけれどバラードやマズルカを押しのけて深く感動させる曲は無いことを何となく感じていて、このあたりは自分もこうした層の一人であるなと微苦笑ながら納得した次第。日本人ピアニスト以外のショピニストではツィマーマン、ポリーニ、アルゲリッチがべスト3と言うのも順当と言うところでコルトーやユンディ・リと言った退廃的ショピニストも挙がってきているのは意外だった。日本人では小山実稚恵、横山幸雄、中村紘子についで仲道郁代が4位につけている。彼女が編集している絵本みたいな書籍「ショパン、鍵盤のミステリー」もCD付とのことで勢いあまって購入してしまい、ついでにエキエル版ワルツ楽譜も買ったりしてショパン年にふさわしい雰囲気がマイブームとしても連動してきたと言うべきか。それにしても仲道さんのショパンは妙なヒステリックなところがまったく無く、楽譜との距離感が程好くしっかりしっとりの、品の良い深い味わいになっているのが素晴らしい。この書物も200年狙いのショパン入門書の体ながら内容はなかなかのもので彼女の演奏技法、指使いなども織り交ぜて飽きさせない読み物となっている。なにより自分のお気に入りのショパン曲がかなり網羅されていて「ショパンのロ短調」の記述もあったりして、この仲道ワールドにすっかり魅入られてしまった。ピアノの音色が、使用する指に関係してくることは一般論として知っているつもりではあったが、実際の打鍵表現に必然的とも言える関連があることを最近になって思い知らされて、まずワルツからエキエル版の指使いを復習開始。(2010/3/26)
 
 
 フィギュアスケートは浅田真央選手がプルシェンコ選手と同じ憂き目にあってしまって今回は残念な判定になった。キム選手の技量が格段に優れていることと彼女の戦略が完璧だったことであれだけの開きとなったのもなかなかすごい。キム選手は荒川選手の金戦略を忠実に再現し、青色コスチューム、BGMも開催国に因んだものと細部まで金メダル獲得に絞り込んでいた。逆に浅田選手はトリノでの4回転にこだわったミキティの失敗の線をトレースしてしまった結果と言えそうで、競技と言ってもストップウォッチや巻尺で決まらない相対判定種目では仕方の無いことなのかもしれない。浅田選手が後半でジャンプ着地時に「ここで9点は稼げたと意識した瞬間にミスしてしまった。」と語っていたことと、ブーニンがショパンコンクールでの演奏終盤で「これで私が優勝だ。と思った瞬間に最後の音を間違えた。」と言うエピソードが重なった。彼のほうは優勝したのだけれど、ただなんとなくこのフィギュア演技はフィナーレで天を仰ぐスタイルではなく、観客に顔を向けてフィニッシュするほうが優勝するような気がする。次回こそラフマニノフが威力を発揮するはず。それはそれとして、鈴木選手はチャキリスからファンレターをもらって励みにしていたり、安藤選手も演技は衣装とは逆に無難路線を貫く形で精神的に大きく成長して、それぞれ入賞を果たしてこちらはなかなか充実していたと思う。現在のオリンピックは商業イベントだからと割り切って見ていれば良いのだろうが、いずれにしても4年間をひとつの事に集中して過ごして来たことには頭が下がる。(2010/3/2)
 
 
 3年前に練習を再開した幻想即興曲が仕上がらないままショパンイヤーになってしまった。昨年からはバラード第1番も追加したり、さらにエチュードOp25-11まで遊びに入れたりして譜面台だけは賑やかになってきて、こうした高嶺の花にも、いざ取り付いてみると不思議にそれなりに指が動くようになってきたりするのがまた面白い。もちろん粒揃いとか指定速度とかはピティナ等の方々に任せて、こちらは気に入った断片の響きなどをゆっくり味わう楽しみ。2月になってそこら中バンクーバー・オリンピックの文字が溢れかえってきているなかで、今日のTV番組での各務宗太郎君のドキュメントにはかなりショックを受けてしまった。昨年の安藤美姫さんのレクイエムによるフリーの演技で、表情にただならぬものが感じられて、彼女もステップアップしてきたなあと暢気に見ていたのだが、まさかこんなことがあったのだとは露知らなかった。この日本で公にボランタリなんかすると物心両面に貧しいリアクションに曝されたりするのだけれど、辻井伸行さんのような人生もあれば宗太郎君のような人生もある。何かで見たのだが「あなたが何となく過ごしてしまった今日と言う一日も、昨日亡くなった人が何をおしても生きたかった一日なのです。」と言うフレーズがこのところずっと頭の隅に残っていて、またあらためて頭をどやしつけられた心境。やはり真剣に練習しなくてはいけない。しかしこれからは美姫さんのレクイエムによる演技の日は文字通りラクリモーサになりそう。(2010/2/7)
 
 
 広末涼子さんが出演していると言うので、映画「ゼロの焦点」を観に出かけた。中谷美紀さんの強烈な役柄、木村多江さんの幸薄役も流石にそれぞれ素晴らしい存在感ある役作りで、黒子風というか進行係の広末さんと三者がバランスよく絡み合って全編を通して堪能することができた。場面描写がとても美しく、タンク機関車ながらSLの風景もなかなか懐かしく素敵で、時代考証の細かいことを言えば何かとあろうが、映画のベースとなっている背景映像は黒澤流、ヴィスコンティ流につながりそうな予感さえした。人物がらみでは木村多江さんの鵜原と再会したときのショットは絶品の美しさだったし、母子手帳のショットでは思わずこれはサスペンスなんだろ、泣かせるなよ!と抗議してみたくなったり。極めつけはラストで銀座の画廊のウィンドウから見据える佐知子の肖像のカットで、昭和を超えて凋落期に入った平成にこれで良いのかと言わんばかりの眼差しに参ってしまった。無条件降伏の敗北国家となったことで、日本の男が二通りの方向でぶざまになったことを見せつけるものでもあった。一方は煉瓦会社社長で示されたような、女子供を含む弱者を踏みつけにして我利私欲に狂奔するタイプ、企業の存在意義は女子供を庇護し、自国をより良くすることであろうがそうした志も欠落した支配欲のみの存在。これは敗戦によって日本の右派一流人が極東裁判で葬られ、左派一流人がレッドパージで葬られ、どっちつかず焼け跡闇市派の三流男達が日本のリーダーの座についてしまったことから始まった悲劇ではあるのだけれど、こうした三流リーダーの基本行動様式はひたすら他者の弱点を突くことで地位を確保しようとする。女性達が過去を隠蔽しなければならないように仕向けられたカルチャーもそこから醸成されてもいる。他方は鵜原憲一に示される、うわべの優しさだけで女性にぶら下がって男のプライドも喪失したタイプ。こうした男達が「鬼十則」などに煽られて手段と目的を履き違えた「仕事」に洗脳され、家庭を顧みることもせず女子供を犠牲にして殺伐たる日本にしてしまった。日本を「天皇制全体主義」から「衆愚制全体主義」に変えるべく推し進めたアメリカの占領政策が、60年余を過ぎて見事に結実した有様に、佐知子の肖像画は「この日本という国自体がアメリカのオンリーで「ジャパンパン」になっているじゃないのよ!」と叱責しているようで暗澹たる思いに疲労感が増した結果にもなった。架空のミステリーから現実に放つ松本清張先生のメッセージを新たに映像化した犬童監督にブラヴォ!をコールするものの、これ自体が「3S政策」の結実なので複雑な気持ちではある。 むしろ現実逃避の娯楽に徹して「のだめ」でも見ていたほうがよかったのかもしれない。(2009/11/24)
 
 
 久し振りにピアノ・リサイタルを聴きに出かけた。いまや巨匠のアンドレ・ワッツでリストとシューベルトのプログラム。60歳を超えて華麗な彼のピアノ芸術に人生の熟成度が加味されたまろやかな境地が繰り広げられて、まさにロマン派ピアノ芸術そのものの最高の演奏で、オープニングの「エステ荘の噴水」からその滑らかな繊細さに度肝を抜かれ、そのまま彼の世界に引き込まれてしまった。今回の日本ツアーではBプログラムにあたり、圧巻はやはりロ短調ピアノソナタとその創作の参考となったシューベルトの「さすらい人幻想曲」の二曲で、父方のアフリカ太古の音楽神が舞い降り母方のハンガリーの血をかき立てるのか彼独特のタップを踏んだり非常に小刻みで微妙なペダリングの右足とお釈迦様のように掌を上にかえす右手のしぐさで生み出される、とにかくケンが無くて奔放自在な豊饒の世界。ロ短調ソナタはブルックナーの交響曲に似て、fffの分厚い和音の進行部分とpppの瞑想的な一音成仏のメロディアスなパートが織り成していて、しかしながらラストでテーマを再現するブルックナーと違って一貫したテーマで統一感を保持して集中性が確保されている。前半の最後にこの曲が演奏されて十二分に充足しきって、後はもういらないと思っていたのだが後半の最初にやはりリストの「ため息」で正にため息が出るような緻密な優雅なひと時を描いた後にがらりと音色を変えて、即興曲でシューベルトに場面を移してそのままさすらい人の世界に入ってしまった。その見事さ。この曲はCD等でも多くの演奏家がバリバリ系の演奏となっているけれど、ワッツはとにかくマイルドでそれでいて起伏の要は鋭角をはずさない完璧な描写。昔のアナログLPからCDに至るまで音楽録音には販促用ウケ狙いなのか、刺激的な音作りになっていたり、演奏時間が不自然に速かったり実音との落差が大き過ぎることがままある。今回のような実演を聴くとCD等の録音がいかに音楽の一部分だけを切り取っただけでしかないことがよくわかる。それはさておき、アンコールは予想と違ってショパンの「エオリアンハープ」が演奏されてその「ため息」風の表現もまた新鮮で、そうかこの曲はこう言う表現の「練習」曲でもあったのかと、うれしい驚きのひとつでもあった。(2009/9/20)
 
 
 このあたりでもようやく封切られるようになってきたので観に出かけた。映画「愛の協奏曲」。以前に「敬愛なるベートーヴェン」を観て、その風景描写の美しさ、ベートーヴェンの音楽断片の深さ、写譜師の女優の美しさなどでとてもよい印象を得ていたので二匹目のドジョウを狙ってみた結果は残念ながら大誤算となってしまった。クララの描き方は昨今のアメリカ映画のそれに似て繊細な美しさとは無縁の粗野な力強さが前面に出ているし、画面の作り方にも風景などの美しさは乏しく、肝心の音楽の深みがシューマン、ブラームスの二人がかりなのにいかにも物足りない。最も残念だったのはクララのピアノ演奏の指の動きの映像。彼らのピアノ音楽のタッチとは程遠くあまりにもお粗末で、興ざめの極みであった。唯一の収穫は、晩年のシューマンの状況がそれとなく実感できたことなのだけれど、これもむしろ知らないほうが良いようなものかもしれないし。 090913)
 
 
 TV番組に庄司紗矢香さんが出ていた。音楽そのものも実に見事だったけれど、彼女のものの考え方、取り組む姿勢、表情から言葉使いに至るまで、その品性の高さと爽やかな真摯さに感動してしまった。楚々とした彼女の口から「国際コンクールに日の丸を背負って出るからには変な演奏はできない。」などと言う言葉が出てきたのにも心底驚いたし、リゲティなんぞにあれだけ熱心に向かい合っていくのも天才のみが知るところなのだろうか。おかげで司会をしていた男女2人の軽薄さ、薄汚さ、無教養が際立つ結果になって非常にアンバランスな番組になってしまったのが残念ではあった。彼らも今の日本にごく普通なキャラクターなのだろうが、世界を視野に一芸の頂点を極める人とは比較すべくも無い。やはり先日のTVで、石川遼選手とブレンダン・ジョーンズ選手のすばらしいゲームを見ていた中で、ブレンダン選手が要所のパットをはずしたときに拍手した者が居て、真に情けない思いをしたことを思い出したりした。世界のトップクラス才人も日本人なら、救いようの無いサル以下の言動を行っているのも日本人で、多様化の流れの中でも平均的中間部が多数派を占めていたものが、日本人の流れは経済品格逆比例の形で格差極大化へ明確に移行していると感じざるを得ない。スポーツの逸材も芸術の逸材も学術の逸材も日本では生活していけない現状だし、クラシック音楽に価値を置く人の比率は日本人では人口の1%以下であるから仕方の無いことと言ってしまえばそれまでなのだが、クラシック音楽番組だけでも視聴率などという愚昧な多数判断ではなく、少数派でも良いものは良いとする構成を貫いて、受信料を徴収していればこそ視聴率コンマ以下であっても迎合の無い、司会者人選などを含め質の高い啓蒙番組作りをすべきと思う。(090808)
 
 
 T4の予告画像を横目で見ながら優先選択で「劔岳 点の記」。このところ久しく山から遠ざかっていて山岳風景に飢餓状態でいることと、やはりこの不況の中でそろそろ馬鹿げたアメリカ映画にも決別すべきかもとの判断で、結果は予想をはるかに超えた充実したときを過ごせて大満足となった。全編の見事な景観描写はさすがに名画「八甲田山」の撮影をつとめた木村大作監督の作品。あと印象強く考えさせられたことは新田次郎のこの物語の主軸、「人は何を成したかではなく、何の為にそれを成したか」というところ。成果主義の蔓延の中で、成し遂げた事柄のみを評価することで失われてきている「志」を問い直す大きな視点。「八甲田山」では戦略、戦術の比較とその帰結が主軸だったけれど、ここではそれらを超えて、何のための戦略、戦術だったのかと、もう一段上に立ったところから人間行動を問いかけている。目的を見失った近視眼的競争主義と拡大再生産が行き着いた果ての今の日本に、正に必要な判断基準と言えるのではなかろうか。些細な行動では結果と目的の位置付けは明確なのだけれど、行動の事柄が大きくなるに従って「アラスカの犬ぞり状態」にならないようにするためには、最終目的とも言える「志」から見たプロセスのフィードバックに十分な吟味を行うことが肝要となってくる。60年余り昔は「お国のため」で狂走させられ、今は「お金のため」という価値基準のみで狂走させられている日本人の単細胞さ加減。とは言え日常の事柄すべてを商業主義として見てしまうと「現代では、要するに愚昧な大衆が所有する小金をどうやって短期的集中的にまき上げるか」に集約されてしまい、こうした映画の興行成績もその例外ではなく、志たるものも興行戦術に埋没させられてしまう。クラシック音楽CDなんかは常にそれに翻弄されてきた典型的なひとつであるし、パトロンと言う、お金とゆとりとセンスという三要素すべてを持ち合わせた存在が消滅した現時代の中の芸術のあり方の根源的問題ではある。
 
 
 辻井伸行さんがクライバーンコンクールに優勝したとのことでyoutubeでいくつか聴いてみた。実に鮮やかなタッチで、たまに和音の透明度が気になる事もあるけれど若き新進気鋭の鮮やかでストレートな表現には、久しぶりに嬉しくなってしまった。ピアノの特性を説明するくだりで「弦楽器などと違ってピアノは持続音を出せないのでメロディ表現性が貧弱云々」の記述を時折目にするけれど、ピアノ音楽の魅力のひとつは実は休符の部分にあって、音色の余韻をどのように楽しめるかというところが大きいのではないかと思うようになってきている。逆に持続音楽器での表現では、何か丁寧すぎて言わずもがなの深みで自由に遊ばしてくれる空き地が乏しいように思われてしまう。余韻を楽しむ空き地音楽のひとつがブルックナーの交響曲なら、余韻を楽しむ楽器はまさにピアノなんだと。このあたりを実感するにも表現するにも、少なくとも50年以上は人生をやってきて仏壇の御鈴の音色に何かを汲み取るようにならないと、その意味するところの表現はできてこないのかもしれない。シューベルトのピアノソナタとベートーヴェンのピアノソナタはそのあたりの頂点の音楽であるからして、彼がどのようにベートーヴェンのソナタをこなしていくのかはこれから大いに気になるところ。先日、ブルックナーの第七番と第五番をTVでやっていて、熱がこもっていながら爽やかさもあったけれど、何かブルックナーのアクのようなものが乏しい感じがする演奏だった。
 
 
 お彼岸も寒暖の大波に呑み込まれて過ぎ去った後、照葉樹の里山が灰黄緑色に盛り上って、いよいよ新緑のシーズン。先週、土日で慌しく沖縄を訪れる機会があって、鳥肌が立つほど透明な本当の海と、人や牛との長閑な触れ合いがひと時楽しめたのだがそれと同時に、今の日本には不況な人と、不況に無縁な人と、不況だと騒いでいる人の3種類が同居していることが改めて再確認できた旅でもあった。このところのオーディオ機器の見直しのなかで、なんとなくTVの音質が低下しているような気がしてきてラインのリフレッシュを試みた。ご本尊のブースターやアンテナ自体には手は出さず、壁面端子をシールドタイプに交換し、接続ケーブルも4CのSFBタイプにして、F端子も差込み型を止めてすべてネジ型コネクターに変更と言う末端部分の更新作業で、途中にレコーダーを介しているのでコネクターは全部で8箇所の変更工作となった。それらをすべて金メッキタイプにしたのはプラシボ効果のご愛嬌で、シールド部分の接触抵抗がどれだけ意味があるのか大いに疑問と言うか、まず無関係と見てよいはず。とは言え結果はネット上の関連記事にもあった通りに、TV映像と音質は明らかに改善の傾向が見られるようになった。ただブースターはムデンのP100と言う年代モノだしアンテナ自体も古く、方向もずれている可能性があるところに手が出せないのがこうなってくるといかにも残念ではある。いっそ光TVか有線TVにしてしまう手もあるのだが・・・。こうして映像画質も改善されると、いよいよ画面サイズの狭さが残された本丸となってきた。今のディスプレイはPCがつながるアナログTVなのだが、接続しているフナイのビデオレコーダーの内蔵アナログチューナーのほうがまだ性能が高いと言ったレベル。ぎりぎりまでアナログで引っ張るとは言いつつも次にディジタルへ向けて更新するとなると、同じくPCがつながるTV路線を継続するか、単機能モニターとしてPCにTVカードを入れるかレコーダーを更新するか、あるいはチューナー内蔵モニターとするかと実に悩ましい選択肢となる。ビデオ・レガシーを維持するためには、テープデータをすべてDVD変換しない限りコンポジット端子が不可欠で、PCとはDVI端子を基本に、となると両者を兼備したモニターは数少ない限られたものとなってしまう。しかもお気に入り会社の三菱電機で選定するとなるとほぼ一機種、MDT221WTFに白羽の矢を立てるしかなくなる。
 
 
 朝も明るくなるのが早くなり、太陽の位置もかなり高くなってきた。音楽は生に勝るものは無いと悟って以来まったく興味の外になっていたが、久しぶりにオーディオ機器の世界を訪れてみた。きっかけはPCサウンドの再生をもう少しレベルアップして見ようと、USBスピーカーを物色しつつFMラジオの兼用となるものを検討し始めたこと。最も簡単なのはラジカセでAUXなどの入力端子のあるもので用は足りるのだが、試聴してみると案の定いずれもいかにも音が良くない。PCの音楽ファイルは大部分が低音質なのでなまじ高性能機器で再生したりすると、低画素数の画像を拡大するのと同様、悲惨な結果となるのも先刻ご承知。とは言えスピーカーの前で耳を澄ましているとその昔、オーディオショップ巡りをしながら、廉価良品を探し回ったころの記憶が懐かしく甦ってきた。そのころは審美眼ならぬ審美耳もできておらず、また性能/価格の必然則も知らずに若気の完璧主義に任せて、あれこれデータを調べ回ったり、無責任な評論家の言に振り回されたりしながら、ありもしない理想のシステムを追い求めていた。オーディオも楽器レベルの音色でヴァーチャルコンサートクラスをめざすと最低でも¥500K以上の世界となることもその中で学んだし、¥50K以下の装置では¥5Kのラジオと大同小異であることもその頃に思い知った。メーカー選定は家中の電気機器類を見回して、不具合無く長く使えている製品のメーカーを主体に検討する中でLostDecade以降の栄枯盛衰が想い返されたりして、これもまたほろ苦いひと時。当時より価格vs性能の法則はさらに冷徹なものとなっているので価格帯で割り切りながら聴き比べていたところ、ミニコンポのクラスで聴き捨てならぬ良い雰囲気を持ったセットものがDENONとONKYOの2系統見つかった。昔のような、ヴァーチャルコンサートを求めるような上からの探し方ではなく、PCサウンドのレベルアップと言うような下からの選択であるからして話は早い。USB入力を持ったD-MX11をネットで価格比較して、早速手配する運びとなった。
 
 
 このところA.シフ講師によるTVピアノレッスン番組に魅入られている。ベートーヴェンの協奏曲のレッスンで、ブロードウェイミュージカルやローレル&ハーディまで出てきて、もちろんモーツァルトの音楽やベートーヴェンのソナタも引用されてはいるのだけれど、それらを使ってさまざまな表情の膨らまし方をレクチャーしているのがとても興味深い。なぜベートーヴェンの音楽解釈にブロードウェイと思ったのだけれど、考えてみれば現代の聴衆は現在の様々な音楽体験を経たりして、ベートーヴェンを聴きに来る訳だし、演奏者もまたしかりなのだから当然と言えば当然と納得。しかしそれよりもベートーヴェンに関しては、YouTubeで交響曲第五番「運命」のアカペラパロディを聴いていて、彼の偉大さに改めて感じ入ってしまったところによるのも大きい気もする。モーツアルトやショパンを超人的天才とするとベートーヴェンは超人的鬼才な訳で、作品の内容の深さはまったく底が知れない。ショパンがフレージングを理解していない生徒の演奏を、「外国語の演説を耳に聞こえる読みだけをただ丸暗記して棒読みしているようなもの」と例えたことや、1フレーズを聴いただけで、その演奏者が音楽詩人なのか単なる鍵盤打鍵者なのか判ってしまうと述べていることと、彼のベートーヴェンのソナタ演奏に対する、構築性が脆弱との批評に「私はデッサンするだけで、曲を完成させるのは聴衆のほうです」と答えたことなどが両者の相違点として何か判る気がする。瞬間の打鍵から発せられる音色の多様さは、それを奏し出せるピアニストとそれを感じ取れる聴き手との限られた世界であって、A.シフの魔術のような音色が惜しげもなく出てくるこの番組で、2月末の小菅優さんが生徒の「皇帝」のレッスンがとても楽しみ。
 
 
 あっと言う間に年末がやってきたと思ったら、もう2009年の幕開け。景気も落ち込んで来たこともあって、これからしばらくは冬篭りとなるわけで「行かない買わないモード」にギアチェンジ。創造活動以外で、お金を払うと言うことは受動的な虚像への対価か、自分の無能力部分への補填でしかない訳だから、これからしばらくは能動的なアクションを主体に、かつ無能力部分の封印をベースにやっていくことになりそう。礼節に差し障らない程度の最低限の衣食を足らせつつ、まずは仕事に集中ということなろうか。久しぶりのPC更新組み立ても、出来る限り中古部品でそれも上限価格を決めて取り揃えて質実剛健PCの実践となったし。さすがにグラフィックはオンボードでは済まなかったけれど。久しぶりに見たTVのピアノレッスンは、生徒に小菅優さんも入ったベートーヴェンシリーズに変わって、講師の先生がAndrás Schiffでスタートしている。高い水準の生徒さん達の中でも、彼のタッチが際立ってしまっているのはまさに驚嘆の極み。さりげない指の動きであれだけ深い音色を紡ぎ出すのだから音楽の世界は本当にすごい。スポーツの世界と違ってひとつのジャンルに金メダリストが何人も居ると言うところも音楽は幅があって楽しい。昔は、音楽評論家などと言う妙な人達がCD売上げのお先棒を担ぐために金メダリストを無理に一人に決め込もうとしていた頃もあったが、いまはコンペティションの結果でさえ金賞など、ほとんど無意味と言うことも実証されているし、コンサートも写真撮影と同じく、完璧を求めて出会いを探し回るのではなく、出会った事柄の中でその時にしかない完璧の一瞬を糧とするスタンスで行って見ることで今年は開始。
 
 
 久方ぶりにピアノ発表会を聴きに行った。表題は入賞者演奏会と銘打ってはいたものの、多くの若手は自分の技量を超えたチャレンジ選曲でピアノに立ち向かっていて、余裕を持ってピアノを操り音楽していたのは年長者の唯一人。有料なのだからコンペは止めて、ゆとりある音楽披露をしてくれよとは思ったものの、小学生から一般社会人まで幅広い世代の演奏者でバッハからラフマニノフに至る定番曲を主体としていて、あらためて興味深く納得できたこともいくつかあった。ベートーヴェンの中期ソナタは若年者の演奏であってもソツなく弾くと趣が出ることもあるのに対してショパンやラフマニノフなんかは感性を持った音色つくりが決め手になってくるようだし、同様にバッハではフーガの各声郡に音色の変化をはっきりと出せるか否かがやはり要で、全体をソツなく弾くだけでは今ひとつ説得力が出ない。F.リストは、決定的なところとして年齢的にも精神的にもピアノ技量的にも子供には弾けないものなのだと言うことが明確に認識できたこと。これは作曲者の子供時代のあり方とか成人してからの子供に対するかかわり方と関係するのかもしれない。芸術音楽は、一過性の大衆におもねる娯楽音楽とは違うわけだからそのバリエーションのひとつとも見えるけれど、いずれにしても円熟した人達だけの世界があっても良いし否定することも無い。またピアノ演奏で枕詞となっているミスタッチは、やはり音楽を紡ぎ出す演奏レベルではそれは曲の一部として溶かし込まれてしまうけれど、ピアノを弾いていますと言うレベルでは逆に際立ってしまうものなのだと言うこと。いずれも当たり前なのだろうけれど、今回は時間的にも経済的にも結構タフなコンディションの中でそれを超えた収穫の大きな、とても印象に残るものになった。それにしてもピアノ音楽の底は果てしなく深いし、そこで演奏者も様々な形で人生していて素晴らしい世界が繰り広げられている。スポーツと芸術のコンペの違いは、前者は具体的記録に基づいて頂点の金メダルが決まるけれど、芸術では或るレベル以上は個性の世界に入って皆平等で、頂点は一面的なものでしかないなと言うところ等も重ねて実感した次第。
 
 
 温暖化進行の影響で年毎に気象が様変わりし始めている。気温の継続的上昇の無かった頃は、夏はお決まりのように小笠原高気圧が南海に居座っていて、北の方から少しづつ大陸高気圧が下りてくると言うのが今ごろの気圧状況だったのだが・・・。一昨日のブルックナーの誕生日から一日置いて、昨日TVにてヤルヴィ/フランクフルト響の交響曲第七番を聴いた。とてもさっぱりして中性的なブルックナーで、柔和なタイプの曲とは言えスケルツォあたりは馬力が欲しかったところ。北欧系つながりと言うわけではないが、これで思い出したのがアンスネス弾くショパンのソナタ集。こちらはとても精緻で透明感のある清清しい極上品。最近、バラード第1番で遊び始めていて、幻想即興曲のときにも感じたのだけれど、プロのピアニスト達が弾き飛ばしている部分にとても魅力的で奥深い和音や、メロディ断片があることに驚かされる。こちらがプロの音楽のスピードに合わせて聴き取る能力が無いと言ってしまえばそれまでなのだが、そんななかでアラウの演奏に親しみを強くする昨今。この人は音の一つ一つを軽んずることなく十分に届けてくれる。昔は、のったりとしてメリハリの少ない演奏と思っていたのだが、実に味わい深く広大な音響の世界。プロと呼ばれる演奏家には自律タイプと他律タイプの二通りが交じり合っているように思う。前者は自分の音楽世界をひたすら極めて行くタイプで、後者はコンペ上がり型とでも言うか誰にも負けない、より正確で、より美しい音色で、より早い速度とかで他を圧倒しようとする型。基本的に若手は後者で、歳を経て前者の度合いが増していくのは当然と言えば当然だけれど現代のマスコミ的商業主義世界では、その過程でカリスマ的虚像が幅を利かせたりすることもある。TVのピアノレッスン番組でピレッシュがスカルラッティの指導をしていたが、これは宇宙人の世界で、彼女の助言している言葉は一般人にもまったく意味不明。生徒の方もかなり戸惑っているようで、カリスマ性に追従しているだけに見えたし、演奏も生徒のほうがはるかに内容があった。これはただ私がピレッシュが好きではないと言うだけのことかもしれないけれど、いずれにしてもクラシック音楽と言うレガシーが現社会で生きているベースが、小金を持った愚昧な大衆と言う構図である訳だから面妖になるのは致し方ないところかも。
 
 
 早めに梅雨が明けた途端、連日夏本番の猛暑日の到来。しばらく前からピアノの音色に不快な高音が混じり始め、低音部のいくつかの鍵盤にハンマーがロックされるような状態が出て、調律を依頼。あまり大きな音を使わず、またデリケートなタッチを重視した設定としてハンマーと弦の距離を接近させると起き易くなるものらしい。高温多湿で饗板やハンマー周りの膨張傾向の為か、いずれにしても部屋を年中、25℃/60%RHなんかで維持できない当家では仕方の無いところ。今回の調律ではピアノの足に敷いていた厚目のゴム製インシュレーターをシンプルなものに替えて、饗板にちょっとした細工を施した結果、これまでの騒がし気味から一転してとても落ち着いた音色になって大満足。調律が大体仕上がって、「ちょっと音の感じを見てください。」と馴染みの調律師さんに言われて試し彈き。そこで面白いことを発見。このところショパンのバラード第1番の練習を始めていて、試し彈きでこの出だしのユニゾンのところを弾いて首を傾げる様子を示すと、調律師さんは冷や汗を流すらしい。当方はここしか弾けないのだけれど、このレシタティーヴォ風の序奏の音色の深みはとても重要な割にただのオクターブの響きで、かつ3オクターブほど上昇するため基本部分の調律具合がたちどころに見えてしまうらしい。別の見方をすれば、ピアノ奏者の響き作りの技量もここですべて見えてしまうわけだけどそれはさておき、いつもの通りミケランジェリvs村上師を気取って何だかんだの大騒ぎをしながら調律は無事終了。真夏にはもったいないような、素敵な音色になって一件落着。

このところブームピークをはずしてジェロさんに嵌り気味。彼は誕生日がブルックナーと同じ9月4日、日本ではクラシック音楽の日なのだけど、それは別として彼の「海雪」を聴き込んでからは、自分のショパンの曲の味つけ方も幅が広がった感じ。正確なルバートと言う相矛盾する表現手法は、演歌の表現での彼の歌い方にも何かつながりがあるようにも思われる。バッハやブルックナーはこの世に男性しかいなかったとしても、同様にあれだけの曲を作っただろうけれど、ショパンの曲や演歌は、かなりのところ女性の存在抜きには成り立たなかったのではとも思うし、アッチェレランドは男同士の表現でルバートは男女間での表現ではと、考える今日この頃。バッハとジャズのように、ショパンのメロディと演歌についてが、ここしばらくの興味ジャンルとなりそう。

 
 
 実に久方ぶりにピアノリサイタルに出かけた。ゲルバーのベートーヴェン・ソナタ。大昔に聴いた「田園ソナタ」の寂寥感溢れる味わいがとても印象的だったピアニスト。ポピュラーな選曲だったせいもあってか、スタインウェイの音色がぴったり来る実にロマンティックでストレートな表現内容は、20年近く立って老成するどころか、内に秘めたパッションは、より骨太になっている様子。あの丸っこい指からどうしてこんな繊細で闊達な表現が出て来るのだろうかと驚きつつも、ラテン系の血なのか彼独特とも言える、間の取り方と言うか、溜めの造り方がにとても魅力的で潤いある音楽に感じられた。やっぱり生の音楽は、そこに至るプロセスも含め人生の一時を共有する時空間芸術として、他に替え難いものがある。花束を渡すわけでなく、サイン会を設けるわけでもなく、アンコールも無く、質実剛健と言うか、年齢と身体的ハンディキャップを乗り越えて、ベートーヴェン極上1本を引提げてこんなところまで来てくれたことにひたすら感謝。
 
 
 幻想即興曲の中間部を練習していたときにふと思い出したメロディが、なぜか「比叡おろし」。荒川静香選手や浅田真央選手が幻想即興曲を競技に使っていたのだけれど、ショパンのメロディと日本の歌との引き合いみたいなものは、時折話題になっていたりする。その昔、チェリッシュ盤で親しんでいたものと久しぶりに懐かしく、とりあえず聴き比べ。小林啓子安田祥子新六文銭と出て来た次第。日本昔話的メルヘンなところと、女と男の淵の深みの両面から眺めてみると、前者の路線ではやはりチェリッシュ、後者では小林啓子、安田さんは声は最上質、新六文銭のジャムセッション風は未だにとても新鮮。音楽の政治性や思想性は、鑑賞するときの味つけに留めるべきか、人生に織り込むべきか、も興味深いところ。先日、あるサイトで「ショパンの音楽は花畑に潜んだ大砲」の記述が話題になり、調べてみたところシューマンの音楽新報でショパンのピアノ協奏曲の記事中の一文だったことを再確認。リニューアルされた岩波文庫の「音楽と音楽家」では吉田秀和氏は「ショパンの作品は、花のかげに隠された大砲である。」と訳されている。シューマンの意図したところは、ショパンがポーランド人としてマズルカやポロネーズを通して自国の文化を主張した部分をロシアへの対抗と見た事と、彼の音楽の激情的な表現とメロディアスな甘美性の特徴的一対表現を指したわけだろうけれど、天国的な楽しさと切々とした深い悲しみの対比はモーツァルトのピアノ協奏曲で出尽くしたあと、ベートーヴェン以降はそれらはピアノ協奏曲の舞台から降りてしまって、大衆にアピールする華やかさが当然ながら主役の座に着いている。ショパンのコンチェルトもその路線ではあるものの、華麗なメロディと言うのが甘美性と激情性のブレンドを表に出して、それの裏支えがポーランド音楽と言うあたりをシューマンが喝破したのだろう。例によってふと窓の外を見るとすっかり緑になって正に「美しい五月に」なって行くこの頃、フォルケルの「バッハの生涯と芸術」なぞを読み返してみたり。
 
 
 春の到来を感じさせる陽気から一転、真冬の雪景色となって北西風が吹きつけた一日。このところのパルティータや組曲の見直しで、あれこれネットで聴いていてホルショフスキーに巡り合った。カザルスの伴奏者つながりからカザルスホールの柿落としで来日演奏し、CDも話題になり、TV番組も過去にあったのだそうだけれどまったく記憶に無かった。特集番組で演奏されていた音色がとても素直でまるいのにまず驚いてしまった。ホルショフスキーのピアノ演奏を聴いていると音の粒立ちがクリアなのに楽譜がまったく浮かんで来ずに、なにか立体感のある暖かい情景が湧き上がってくるような不思議な感覚におちいってしまう。世相の遷り変わりなのか、自分自身の年齢のせいなのか、こうした音楽に行き当ると本当に嬉しくなる。人類の歴史過程の中で哲学の時代、宗教の時代、芸術の時代は終ってしまって、現代の科学技術と経済算術の時代の中でアマチュアがクラシック音楽を追いかけたりすると、時によってこのような戸惑いのエアポケットに踏み込むことになるよう。ホルショフスキーはブルックナーが没した年に4歳になっていて、ポーランドではモーツァルトに匹敵する神童と騒がれていたとのこと。芸術が時代の主導から武力と金力によって脇に追いやられ始めた時代に、一本気にピアニストとして生きた人なのかもしれない。有形物であれ無形物であれ、全力でより良いものを創出している人は、創り上げたものを高値で売りさばく等と言う余力は無いわけだし、逆にいい加減な物を虚飾し、詐欺まがいなことに長けた者が主流として跋扈したりすることが当然視されている現在に、しかも日本でこのような遺産に出会うと言うのも皮肉なお話。ショパンの直系に近い筋にあってバッハとモーツァルトをこよなく愛したと言う。バッハの組曲のえもいわれぬ透明感のある、組立てのはっきりした音楽には、思わず襟を正してしまう。モーツアルトのソナタの味わいは、非の打ち所が無い等と言う表現がいかにも浅はかに聞こえるくらい、凝縮されきっている。一時期「健康なモーツァルト」等と喧伝されていた、幾人かのピアニストのソナタの演奏様式は私には筋骨隆々の筋肉マンのようでまったく肌に合わず、違和感を感じていたものだったが、ここにきて「これがモーツァルトのソナタ」とようやくホッとできた次第。
 
 
 水を替えるとメジロが水浴びしていた蹲もこのところの寒さで氷が張って固まっているけれど、竹箒のようになった落葉樹の中に木の芽、花の芽が目立つようになってきた。生活の中から「競い合い」、「ものの購入」の二つの行為を極力締め出して過ごすようになって、音楽がより深く迫ってくるようになってきたように思う。物理的、精神的に追い立てられることから時間が開放されたせいかもしれない。クリストファー・セイガーというピアニストにまた惚れ直してしまった。以前にパルティータ全集であまりにまろやかで、澄み切った世界を作り上げているので着目したアイルランド、ポーランド系の血を引く男性ピアニスト。ドビュッシーだけは軽快すぎて違和感があるけれどバッハやクレメンティは素晴らしい世界を繰り広げてくれる。十八番のパルティータはロザリン・テュレックと解釈は対極的だけれど、創り上げている世界の深みは甲乙つけがたい。去年の今ごろはグールドに夢中だったのだが。セイガーはスタインウェイにご執心とのことで、確かにチェンバロでは到底不可能な多彩で流麗な音楽を具現化してくれる。彼の弾く「フーガの技法」や「ゴールドベルク」を聴いてみたい気がする。
 
 
 ついこの間まで真っ赤なメープルや黄金色鮮やかなポプラに目を奪われていたのが、いつのまにか周りはすべて冬枯れの有様。生活面では、バブルの崩壊から失われた十年を経て、価値基準や行動様式も一転して、聴くだけとか見るだけという受動的行為につながるモノを買うと言うことをしなくなり、前にもましてコピーものに価値を置かなくなってきた。そして古典ピアノ音楽に対してもそうした感じを持ち始めるようになってきた昨今。つまり、以前にはコンクール優勝者の演奏が「最上の」芸術であって、CDやFMなどのコピー音であっても、それらに接することが良質な音楽鑑賞で、そこで得られる満足感が理想みたいなステレオタイプの価値基準を引きずった強迫観念があったものが、今は身近にある、ひたむきな生の名演奏のほうに強く感動を覚えるようになったこと。バックハウスにしてもホロヴィッツにしても彼らが演奏し、残したものはバックハウスやホロヴィッツであってベートヴェンでもショパンでもないことの意味を再認識しなおしているということ。また誰かの書いた文章で、「素晴らしいバッハであっても、自分が弾いている音楽ではないと言うことでそれは最高のものではない」と言う感じ。「ベートーヴェンに触れたければベートーヴェンを弾け」、上手下手、天才素人以前の基本原理に立ち返るようになってきた訳で、このところのピアノの練習でも、フレーズごとの起承転結を味わいながら遊ぶことが多くなった。悲愴の第三楽章なんかは、譜面は簡素なのだけれど、小節ごとの内容の深さは当然ながら半端ではなく、指の反射のみで弾き進むと正に「皮相」でしかなくなってしまうことが良く見えるようになってきて、演奏を鑑賞する場合でも、優れた感性や自己顕示に駆られて弾き飛ばすような達人の名演奏に自らを同期させてその解釈速度に合わせ、音楽の中身を100%掴み取ろうとすることにも疲れてしまうようになったこともあるし。要するに齢を重ねてきたと言うことかも。
 
 
 今年の夏は小笠原系ではなく三陸系高気圧が異常発達した晴天型猛暑が、季節をずれ込んで続いている。オホーツクタイプのため、湿度が比較的低めなのでエアコンベースではなく扇風機ベースで過ごしながら、海や山で夏を謳歌していた一昔前のパターンを懐かしんだり、かといってブルックナーで一夏を過ごすところにも戻れないまま。ピアノの調律も、除湿機の無い部屋ではパフォマンスが悪いですと調律師さんに断られてしまったし、ギレリスのベートーヴェン・ソナタを聴きなおすことで精神的栄養補給。ギレリスの演奏は自分に忠実と言うか、うけ狙いのハイスピードを排して、謡いと響きの透明さに徹して気持ちの良い世界を構築している。自分に忠実でありながら客観性を押し出しているギレリスを聴く合間に、ホロヴィッツがショパンのワルツを演奏しているヴィデオを見て、目から鱗だったこと。ベートーヴェンのソナタとは違って、もともとショパンのワルツは外向きではなく内向きなのだけれど、かと言ってマズルカほど深く切り込むことの無い「三時のおやつ」的演奏に耳慣れている中で、彼の鍵盤の語り口が人生集大成の吐露のような音を聴かせていたので驚愕した次第。ノクターンでもプレリュードでも出来ない、またリパッティやミケランジェリやアラウなども語らなかった世界。達人は譜面が平易な音楽であっても、そこにいくらでも広く深い世界を表現できる。もっとも平易な譜面と言ってもショパンが記したものだから。こういう演奏に生で接したら感動で立ち上れなくなってしまうのも、むべなるかな。
 
 
 梅雨空の下でギボシが薄紫の花をつけ始めている。TVで久しぶりにブルックナーの八番を楽しめた。指揮は尾高忠明氏。ベートーヴェンの交響曲を物語的、構築的とするとブルックナーのそれは逍遥的、対比的と言える。対比的であるがゆえに、緩と急、強と弱、世俗と教会等々でブルックナーの曲を演奏する指揮者は、そのどちらか一方に思いを入れている様子が時折見受けられる。尾高さんは、ハース版だからという訳でもないだろうけれど、急より緩に重点をおいていて、抒情さわやかな素晴らしい演奏だった。アダージョは、今回は聴けなかったスケルツォを引き立て役にしているだろう趣で、ティンパニ奏者と女性ホルン奏者も素敵だったけど、金管群のクリアな咆哮と弦のソロの妙味等が見事に発揮されていたりして、重たく泥臭くなりがちな八番がとても垢抜けた名演になっていた。抒情派がフィナーレの最後の3音をゆっくり締めくくるのも定石通りで、ホールで生で聴いていたらスタンディングオベイションもの。いつか全楽章をゆっくり拝聴してみたいもの。ブルックナーの交響曲は、最近また見直しているハンマークラビア・ソナタとその音楽世界の根源を一にしているみたいなところも感じられて、ピアノの和音の響きの心地よさを深めていることと相まって、逍遥の時空間としても非常に良いものを得た、ひと時だった。
 
 
 音楽愛好家を名乗る方からコメントを頂いた。原智惠子さんに関して、野村光一なる人物は結局、彼女の手を引張ったのか、足を引張ったのか、あるいは傍観していたのか。「伝説のピアニスト」著者の石川さんは彼こそが足を引張ったと断じているが、コメント投稿された方は、彼は原さんの足は引張っていないと主張されてるのだけれど。当該の彼の記述だけを読む限りでは傍観者風である。しかしながら原智惠子さんが日本に居たたまれずヨーロッパに活動を移した(梶原完さんも同じだったのだろうか)ことは事実だし、当時の日本のクラシック音楽レベルが低劣で野村氏等、幾人か評論家が権威、大御所と称され権勢を張っていたことも事実。これは誰が悪いとか言うことではなく日本の歴史的経緯でどうしようもないこと。強いて言えば、明治政府、これは薩長土肥の下級藩士達による軍事革命政権なわけで、上級武士のように美学として武士道を身に付けていた訳でもなく、江戸文化の爛熟した美術工芸に対する審美眼も無い人達、が国のリーダーとして居座り、西洋のクラシック音楽を単に外交上の見栄と軍隊行進のBGMの観点のみで、当時の民謡、謡の日本音楽文化の上に強引に移植した。ここが日本のクラシック音楽のボタンの掛け間違いの出発点なのだから。芸術的感性の乏しい者が使える手段は、高圧的な「権威」と数値化できる「技術的側面」な訳で、昭和初期に至る日本のクラシック音楽評論がそうした側面で留まるのは止むを得なかっただろう。原さんや梶原さんのように音楽芸術の真髄そのものを会得した人達と相容れなかったのは無理も無いことと思う。ネット検索しながら久しぶりに「加茂川洗耳」や「八田利一」等も懐かしく読み直した。そのついでにハンスリックを思い出してしまった。世の東西を問わず、芸術創造する作曲家や演奏家に対し、音楽的創造性の欠落した批評家と言う存在がなにゆえ、のさばるのだろうか。おそらく、政治家を見ればその国民の政治レベルがわかると言うように、音楽批評家を見ればその国の音楽ファンのレベルが分かると言うところじゃないだろうか。吉田秀和氏のブルックナーの評論を読み返してみた。演奏者をこき下ろすと言うことを一切せず、わかりやすい言葉で共感的に、謙虚に作品や演奏を語っている。手元にあったカラヤンでブルックナー第九番CDを聴いてみた。正に「権威」、「技術」、「算術」、「芸術」のからみの上ながら、ブルックナーの清浄な世界にひと時、身を委ねる事ができた。これはやはり実に素晴らしい。
 
 
 二月に入ってようやく冬らしく雪化粧した一日。このところTVばかりだけれど、小菅優さんのピアノ演奏とE.ヘフリガーさんのドイツ語による日本の歌のプログラムを聴いた。日本のクラシック音楽の歪みは、このところの著しい国全体の拝金主義化による精神的退廃と同様に、もう救い様が無いところに来ていると感じざるを得ない様相。そんなことを改めて思い起こさせるようなプログラムだった。小菅さんのピアノは日本人として自然でありながら、完璧に西洋音楽に一体化している様子。今の日本に暮らして居ては、決して身に着くことの無いだろう、たおやかで素直な感性。ヘフリガーさんの歌唱も、昔は日本にもこんな素晴らしい味わいがあったのだとの想いを強く思い起こさせてくれた。「雪の降る町を」や「荒城の月」なんかではショパンとシューベルトが日本を訪れて合作してくれたのかとでも思わせるような不思議な気分の中で、しっとりとした感動を与えてくれた。この国がこうした深く穏やかで情感溢れる雰囲気を、もう二度と取り戻すことは無いのだと思うと実に悲しいものがある。国家と言うものは総力戦の挙句の無条件降伏などは絶対にしてはいけなかった。特にアングロサクソン民族などには・・・。拝金主義の今の日本であるからこそ、手段と目的を履き違えた金儲けとは縁の薄い西洋古典音楽の技術を超越した演奏に救われるところが大なのかもしれない。
 
 
 暖冬で、今年は蹲の水もまだ凍らず、山茶花の蜜でお茶したメジロが、数回水浴びして帰って行く。冬景色に合わせたわけでもないけれど、久しぶりにグールドのDVDを観た。雪の上をそりに載せて運び込まれたスタインウェイに、コートにマフラー、ベレーで到着したグールドが鍵盤に向かう。バッハのパルティータ第6番ホ短調トッカータ。彼のバッハとグルダのモーツアルトは本当に音楽のピカソみたい。この曲ならいつも練習してるしトリルはさておき、こんな弾き方なら自分にもできるさ、とやってみてもやっぱり稚拙な落書きにしかならない。運指を見ていると、本当に変幻自在。さりげない打鍵でいて正確無比、多彩な音色を土台に溢れ出すイマジネーション。楽譜は、衣服で言えば型紙にあたるのだろうか。形どおりに切り抜いても、縫い合わせて仕立て上げて立体的なドレスにする段階で、天才達だけが可能な魔術が施される。先週はTVでコッソットのトラヴァトーレだったかのアリアを観たけれど年齢を超えて圧倒的な場面を作り出していた。グールドも60代あたりまで歳を重ねていたらどんな演奏をしたのだろうか。今年は古き極致を訪ねる旅でスタートした格好。
 
 
 巷はクリスマス。バブルの頃の若者達はブランド物のプレゼントと高級レストラン、一流ホテルでひと時を過ごしていたけれど、今の若者は自宅で鍋を作って二人でつつくのだとか。企業サラリーマンは現代の奴隷階級であることも、彼らは否応無くわからされている様子。生の音楽ではなくコピーではあるけれど久しぶりに音楽に接した。映画「敬愛なるベートーヴェン」。どうやら一部のクラシックファンの人達だけが、足を運ぶ映画のようで、シアタービルの中でも一番小さな劇場で上映されていた。それでも空席が散見、「硫黄島・・」等とはえらい違い。内容は第九と大フーガを中心に、いくつかのベートーヴェンの名曲をBGMに、若い女性の写譜師とのフィクション。「アマデウス」で晩年の天才が魔笛とレクイエムの間で両極を彷徨ったようにベートーヴェンが第九と大フーガの両極を時系列的に極めていく。「のだめ」で一般人気上昇中の第七番シンフォニーの抒情楽章の一節も絶妙な配置で顔を出す。「アマデウス」同様に、場面の時代考証を追及した描写の迫力の中で、とりわけ背景の自然の描き方が溜息が出るくらい美しい。聞こえる音も鳥の鳴き声や羽音、木々の葉のさざめき。映画館を一歩出た外の有様はそのまったく対極で、拝金礼賛の人工音の喧騒と、気品のかけらも無いどぎつい看板やイルミネーションの醜悪な景観破壊物の乱立。こんな低劣な耳目環境でクラシカル音楽が定着などできる訳も無いと、ぼやきつつもそれを感ずるプロセスが商業主義映画の鑑賞を通してなのだから、なんとも皮肉な現実。今の日本の様々な方面での節度の無い単純二極化は、ある意味で生き方の迷いを消し去ってくれている。本音と建前、セレブとワーキングプア、勝ち組と負け組、クラシックと非クラシック。情報過剰と過労の結果として促進される単脳化、精神のデジタル化、イエスかノウかの二者択一。映画の中でも美女か野獣か、第九か大フーガか、天才か凡人か等々。ピアノ協奏曲四番第二楽章がその単純二極対立を融合するかのように流される。また、これまでは32番ソナタ終楽章の旋律を聴くと、マタイの終曲合唱を耳にした時同様に涙目になってくるのだけれど、大フーガではそれは無かった。でも、これからはそうなりそう。実に味わい深い映画。
 
 
 朝夕の気温も15℃近くに下がり、金木犀の芳香に秋の気配も濃厚になった中で、冴えが出てきたピアノの音色に気持ちも弾んでいた矢先、八ヶ月ぶりにレッスンを受ける機会が訪れた。当の先生は前日に国際コンクールのファイナルに出場して大層お疲れだったのだけれど、目の前で弾かれる音色の変幻自在な表情と迫力の素晴らしさには、あらためて感動してしまった。男性のピアニストと違って女性特有の、霊が乗り移ったかのように変身して演奏するピアニストの純粋な集中力にも驚かされる。楽譜を鉛筆で指し示している時は小面だったのが、弾き始めた途端に夜叉か般若に変わったかの様とでも言うか。それと合わせて面白い体験をした。説明を聞いている間にはまったく聞こえていなかったのに、演奏が始まると、フォルティッシモのフレーズにもかかわらず部屋のエアコンの作動音がノイズとしてひどく耳障りになったこと。聴き入っているこちらも般若になっていたのかもしれない。ショパンのポロネーズ第11番も弾いて頂いたのだけれど、ショパン7歳作曲の作品が、往年の成熟した大家のそれのように豊かで優雅な音楽として響いたこと。15番の奏法や表情の付け方等、貴重な事柄も数々頂戴できたし、圧倒的な目の前の生演奏からも、モチベーションアップの糧のみならず、実際に真似てみようと思う部分も頂けた。ただひとつかえすがえすも残念だったのは、そこの楽器屋さんには、今月末に来日するアンジェラ・ヒューイットが使う予定との日本に一台しかないファツィオーリF308が置いてあったのだが、先生のフライトがタイトで、試弾していただく時間が無かったこと。最初にわかっていれば何とかなったのに・・・。とは言え、本当にリッチなひと時となった。
 
 
 GWの或る日、久方ぶりにオペラを楽しんだ。セヴィリアの理髪師。ロッシーニのオペラ・ブッファであればこそだけれど、現代日本風の味付けとの事で、ケータイでのやり取りを随所に織り込んだり、第一幕の終わりで伯爵が身分を明かす場面で、葵の印籠を見せ示したり、バジリオがウォークマンをいつも耳につけていたり、第二幕で追い返される場面では鳥インフルエンザにされたりと、かなりのノリになっていて、とても楽しめるものになっていた。釜洞祐子さんのロジーナも、とても良かったし、全体に変に脂ぎっていないところがなんとも言えない。いつかはこうしたオペラを、重唱の真髄を知り尽くした観衆の中で聴いて見たいものと思う。次回の魔笛も鑑賞したくなってきた。
 
 
 何度も季節遅れの寒気流入で、スプリング・コートを楽しむ週が多い今年の春。HPも開設5年を迎えたものの、当時のお仲間は、かなりアクセスが乏しくなって、自身も最近は寂寥感漂う小曲に気が向かうことが増えてしまった。とは言ってもブラームスのインテルメッツォやショパンのマズルカなんかではなくシューベルトの即興曲。これまで幾多の大ピアニストたちは何を最後に演奏して旅立っていったのかを確かめてみたくなったり。そんな中で、そうしたネガティブな気分を打ち消すように、このところショパンのバラード第三番が魅力的な練習曲となってきた。水の戯れと言うような名称はむしろこの曲にふさわしいのではないかと思われる、湧き上がるような透明な和音と滴り落ちるような旋律の数々。低音部のつぶやき、内声部の囁き。跳躍が確実に指で掴めるようになるには相当かかりそうだけれど、断片を楽しめる貴重な一曲。
 
 
 久方ぶりに、ブルックナーに関する書籍が出た。田代櫂氏著の「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」。読み進むうちに交響曲を聴き直したくなり、手にとったCDが朝比奈さん指揮のジァンジァン盤全集。彼と大阪フィルのこのシリーズがなぜか今、とても共感をおぼえる。荒削りだけれど集中度が高く率直な名演集。ブルックナーの交響曲の演奏では、何か妙に整えて聴かせようと言う作為と、譜面上の指示を単純に誇張したような表現との狭間で右往左往しながら音楽しているような風情がつきまとっている事がある。ピカソの抽象画を写実の観点から修正を施そうとするような愚かさ、そうでなければ楽譜にpと記されているから単に音を小さくするみたいな仕業、ピアノ曲なんかでも「同じ旋律の繰り返しでは表情を変える」を実践しているだけみたいな教条的な演奏とか、逆に楽譜に書いてないから何もしてはいけない、と言う実音楽から外れた楽譜至上主義・・・、聴き手や評論家にそういう人たちが多いのだろうか、そう言った類とは無縁で、自由に呼吸しているのが朝比奈さんのブルックナー。敗戦後の日本で、志を喪失し、手段に過ぎない経済と言うものを目的化して弱者を喰い物にしながら人生している連中が寄ってたかって狂わしてしまった社会の中に居て、朝比奈さんの音楽は何か救いにすらなってしまう。
 
 
 生活ペースのギアチェンジから、早や一年が立とうとしている。満開の桜並木が新緑となって、万緑濃くなったと思ったらすでに真っ赤になって散り始めてしまった。コンサートに出かけるゆとりもなくなったけれど音楽に対しては、むしろ人間活動として深く感じ取ることができるようになったような気もする。以前なら、TVで「スウィング・ガールズ」の映画にこれほど引き込まれる事は無かっただろうに。

 ふと思い立ってモーツァルトのK310ソナタの練習を再開した。スピーカーから発せられるCDやFM等のコピー音源は如何に名演でも聴きたいと言う気になれず、下手でも実楽器の音を自分で発する方が充実した時間となってきている。モーツァルトのソナタを快速に弾き飛ばす演奏を聴くと、何か演奏者の自意識過剰か或いはレコード会社の商算が鼻につくか、そうでなければ通り一遍のアカデミズムの形式美を押し付けられているように感じられて、モーツァルトが共有したかった歌の余韻が相当量無視されている空虚さを感じてしまう。旋律は聴き手が共感できる共有物を作り上げるだけの時間を必要とするのだから、ゆとりを与えて語りかけなきゃ。初めて楽譜を開き、音取りをするときにメロディや和音から受ける鮮烈な感動を、練習を重ねる中に保ちつづけることは無理なのだろうか。こちらがそれだけ歳とって、ピックアップ感度が低下し、また反芻に時間を必要とするようになっただけなのかもしれないけれど。演奏家は、十二分に練習して、曲の真髄をプロとしてあらゆる聴き手に満足を与えなければならないのだし。ソナタを一曲弾く中で、抒情派にはアダージョで深みを、うるさ型にはプレストを破綻無い名人技として示し、初心者にはアレグロやスケルツォをリズム良く親しみ易く共感させるという弾き分けを演じなければいけないわけだから大変といえば大変なのだけれど。

 昔、平均律曲集を聴いたとき、あたかも宝物殿に踏み込んでしまったような気持ちになったものが、今フランス組曲にそれを感じる。バッハは本当に素晴らしい。

 
 
 ブルックナーのピアノ曲のことが新聞記事で目にとまり・・・。神戸学院大学定期演奏会の正規プログラムの前に、彼の「想い出」が追悼曲として奏されたと言う。ト長調幻想曲や「秋の夕べの静かな想い」と並んで穏やかで清浄な小曲だけれど、「想い出」は交響曲第七番のアダージョのイメージ・エッセンスみたいなところもあって、無数にある、さまざまな作曲家になるピアノソロの穏やかな曲中から、この曲をJR事故犠牲者の追悼曲として選曲し、演奏されたところにひとしお感じ入ってしまった。大昔はSL撮影に日参したこともあったり、最近では大阪への足として使いはじめた路線の大事故にはひとごとならぬものでもあったし。知名度が高くなく、魂に静かに触れる小曲として「想い出」を選んだ、当日のベートーヴェン弦楽四重奏曲の原曲ピアノソナタOp14-1の紹介演奏で参加されていたと言う、この若いピアニストのファンになってしまいそう。
 
 
 シュベスター繋がりから、斎藤友子さんのCD「Back to Bach」を入手して聴いた。日本人が作るピアノのCDはとても音色が美しい。このアルバムはその上に、バッハのソフトなメロディをジャズピアノソロの形で穏やかに独りごちている。やはりマタイ受難曲からの「主よ、憐れみたまえ」が白眉・・・、次いでゴールドベルク。バッハのジャズ化と言うとJ.ルーシェが刷り込みになっているのだけれども、斎藤さんのアルバムは全曲すべてが瞑想的ムーディBGM風にまとめられていて、オリジナルメロディーから大きく離れることも無く、ルーシェの奔放で緩急自在な味とは対極的。深夜、窓の外に満開となった大きな山桜を月明かりに眺めつつ聴いているとリストラウマが昇華されて行く気分。ネットで若いピアニストの卵の少女が弾くクープランの墓を鑑賞して、サーチ・サーフィンをしていると、明日ヒューイットが大阪でコンサートを開く予定となっていることを告げるページに行き当たった。魅力的なプログラムなのだが残念ながら時間が割けない。すべてが縁のものと天命にゆだねるようになりつつある今日このごろ・・・・・。
 
 
 暖かく包み込まれるような演奏に強く惹かれる今日この頃。ケンプ弾く「悲愴」、ブーニン弾くショパンのエチュードなど。それと、150枚ほどのLPレコードを処分して感じたのは、音楽はやはり一回限りの生演奏に軍配が上がると・・・。未来に期待しつつ、現在を物質で満たすような生き方から、一瞬一瞬の精神的充足を重視する生き方に変わってきたことによるのだろうか。たまたまラジオで戦国武将の話が語られていた際に、武士としてつき合わないほうが良い友人の例として、笛や三味線の達者な者が挙げられていた、と言うくだりを聞いた。そう言えば日本では、プロは別として、クラシック音楽を趣味とする人が排斥されるカルチャーがけっこうあると言うのも聞いたような気がする。確かに体育会系カルチャーとは水と油かもしれないけれど。このふたつが今年のテーマかもしれない。とは言いながらCDでラローチャ弾くモーツァルトの奥行きの豊かさに溜息をついていたりするのだから・・・。
 
 
 ミュンヘン郊外の山あいの湖畔にある古い村の保養地で、バッハの時代をはるかに遡る1111年建立とかのカソリック教会内部のキリスト像や小型パイプオルガンの存在感に圧倒されて帰国後、バッハ・プログラムのオルガンコンサートを聴いた。演奏者はマリー・クレール・アラン、怪我から奇跡的に復帰してはるばる日本まで足を伸ばしてくれて、出し物はコラールをはじめ、定番の前奏曲とフーガ、そしてフーガの技法から5曲。BWV541の前奏曲とフーガの間にBWV528のアンダンテをはさんだものに続いて、コラールを三曲。コラールがこれほど心安らぐものとして聴けたのは初めての体験。リコーダをしっかり大きくしたような音色が奏でる旋律の心地良さはやはりスピーカーからのものとは相当に違う。彼女は当初予定されていた、間の休憩時間を省略してしまって前奏曲とフーガBWV544ロ短調を弾き終えると、すぐに楽譜を譜面台においてフーガの技法を弾き始めた。他の曲もそうなのだけれど、曲想をはっきり性格分けして対比的な弾き方をされるようで、こうしたバッハのオルガン曲では重要なのかもしれない。フーガの技法も、そうした起伏を造り出すような選曲で、パイプオルガンの多彩な音色を十分使い分けて、プログラムのコラール、プレリュード、フーガの組み分けをそのまま反映したような流れで、しかも最後はバッハテーマを持つ未完の終曲フーガ。ふっと流れが途切れて永遠の静寂をしばし楽しみたかったのだが、例によって東京特有のフライング拍手するものが一人いて、ちょっと残念。コラールをひとつ入れて、最後は圧巻のトッカータとフーガBWV565ニ短調。全身全霊で大バッハ礼賛、とでも形容できる圧倒的絢爛豪華な演奏。鍵盤楽器は、その外観、形からなんとなく整然とした機械的にも見える演奏が先入観として前提に入りがちなのだけれど、今回の演奏は何か手作り感覚が余韻の中に漂う、暖かいものだった。これが彼女の魅力のひとつなのかもしれない。
 
 
 ブルックナー生誕180年の記念日は、バッハのフランス風序曲を聴きながら、PCのメモリー増設と言う無粋な過ごし方となってしまった。規格遅れの古メモリーを装着したらウインドウズもおかしくなって、デバッグモードなどで修復。それにしてもこの曲、パルティータ七番とも言われているように実に格調高い名曲。チェンバロでは二段鍵盤を総動員する壮麗な内容とのことだが、ピアノで弾く場合はあまり抑揚をつけないほうがバッハの意図に沿うのかもしれない。テユレックの表現はその点でも、孤高の境地にあるような控えめをベースにしながらも壮麗さを要求するところに絞ってピア二スティックな技法を味付けに用いている秀逸な演奏。ヒューイットもそうなのだけれどバッハの装飾の味付けの見事さは恐ろしいほどの完璧さを有する。このあたりは自分で楽譜を弾いてみて初めてそのすごさがわかる。とは言えロ短調でもあるし、自分の練習曲に加えるべく、まずEchoから譜読み開始。リヒテルの名盤があるとのことらしいのでこれも聴いてみなければいけない。彼の平均律と同じ傾向の演奏だとするとなかなか興味深い。TV番組で、廃部寸前を新入生の確保でかろうじて部活継続した吹奏楽部の女子中学生が、名門習志野高校の演奏を直に聴いて感動と落差に泣いてしまう場面があったが、そのストレートさと感受性の豊かさに驚いてしまった。歳と共に失うものも多い。
 
 
 久し振りにPCのサウンドフォントを入れ替えてみた。あちらこちらのサイトにアップされているMIDIをいろいろフォントを変えたりして聴いていると、感心する出来栄えのものも幾つか見つけることができ、特にリストやショパンの難曲なんかは作者の努力に頭の下がる思いを深くした次第。ところがバッハのMIDIを幾通りか聴いた後、ヒューイットのフランス組曲のCDをかけてみると、まったく次元が違うと言うかあまりの落差に驚嘆してしまった。一音一音から、それらすべての曲としての構造体から、息遣い、血の通い等、MIDIとは別世界。確かに草野球を自分で体を動かして楽しむことと、イチローや松井の技を見て楽しむこととは180度違うことなのだけれど、音楽についてでも同じ状況があることの認識がなかなか切り分けられない時がある。ヒューイットのCDがある限り、バッハのMIDIを作成することは全く時間とエネルギーの無駄使いと断じることもたやすいのだけれど、アマチュアがピアノを練習する事と同様に、創造する楽しみは、鑑賞する側からの視点では価値を量ることは出来ないのもまた事実。などと書き連ねていると、ファジル・サイのモーツァルトがFMから聞こえてきた。キラキラ星変奏曲が、何と言うか、「綺羅っ綺羅っ星」とでも形容したいような弾け切った躍動美と神出鬼没の変奏曲の演奏。こうした天才演奏家が次々と出てくるのだからクラシックは止められない。グルダのモーツアルトは古典的モダンジャズ的楽しさだったけれど、ファジルのはアバンギャルド的。じきに飽きられてしまわないような変容を見せるだろうか、楽しみ。今、練習しているK488のイ長調協奏曲第二楽章なんかは、彼はやはり、思いっきり極細の筆で描くのだろうか。アパショナタも縦横無尽の味付けの演奏だったけれど、モーツアルトやバッハと違ってベートーヴェンの場合は表現の許容度は狭いように思う。端正に弾けば弾くほど深みを増すのがベートヴェンのソナタ。
 
 
 久し振りでオーケストラを聴いた。35年の歴史を有するアマ・オケで、ブルックナーも手がけている実力派。出し物はフランス特集で、デュカス、ルーセルにフランク。最初の「魔法使いの弟子」では出だしの弦の美しさがとても印象的で、クライマックスの破天荒はややスケール感に今一歩だったもののクオリティの高い内容で、じっくり楽しめた。次のバッカスとアリアーヌ第一組曲は、楽団自体がチャレンジングと述べているように、こちらはやや消化不良の感じで、確かに色彩的ではあるものの、やっている当人達は楽しかろうなあ、と言う印象しか持てなかった。昨日のミーハーTVのモーツァルト特集に与する訳ではないけれど、歴史の篩にかけられて唯一無二の存在となっている大作曲家達の名曲の数々と、それらからはずれたものとの間には、やはり決定的に普遍的な要素が違うように思われる。人類の歴史の中で「音楽芸術の時代」は「宗教の時代」、「哲学の時代」と共に、とっくに終わっていて、現代人はその大伽藍に寄生して生きているに過ぎないとの持論に収斂する中で、音楽ファンからクラシックファンになってしまったわけだけれど、知性的に音楽に関わって行くとそうなってしまうような気がする。それによって、純粋に感覚的に関われば価値のある音楽の多くを切り捨てる結果になっていることは否めないけれども。最後のフランクの交響曲ニ短調は第二楽章メインテーマのイングリッシュ・ホルンのソロの女性が素晴らしかった。もともとおいしいところだけれど、実に説得力ある演奏で印象的。全体として、集中力の切れない良い音楽会になっていた。
 
 
 何年ぶりかの時差ボケ生活。相変わらず非クラシックが席捲する米国ゆえ、早朝のオランド空港コンコースのBGMで聴いたショパンのワルツと、帰りの機内でのベートーヴェンのトリプルコンチェルトくらいが受動的に入ってきたクラシックのすべて。しかしながらMGMのシアター・オブ・ザ・スターズで見たBeauty & the Beastのミュージカルライブに最も感激してしまったのだから、世の中わからないもの。獲得技術なのか天性なのか、表現力ある豊かな発声やら、見事なリズム感やら、音楽を通した感情表現やら、それらすべてが実像として生で接した時に伝わる実感とでもいうか。リアリティによるイマジネーションの追求と言う二律背反を考えさせてくれた点ではディズニー・ワールドも意味のあるものだったかもしれない。ドナルド・ダックの最新立体映画や、電飾を凝らしたナイト・パレードの行列のように映像やイルミネーションで描けば描くほど、リアルなイミテーションとして印象つけられるばかりなのに対して、ミュージカルの生身の人間の能力範囲での演技や歌唱による抽象的表現の方が、自分の中であれこれ思い巡らすゆとりを持てるが故に、かえって充実したイマジネーションの世界を満喫できる結果となる。オペラでよく言われるように、筋書きは凝ったものより単純で荒唐無稽なものの方が芸術として深みあるものとなっているのは、これも同じなのかもしれない等と思いつつ帰宅したらアランのオルガン演奏会のチケットが届いていた。ピナ・バウシュのバンドネオン公演の案内が同封されていて、以前ならば一顧だにしないところだけれども、これにも非常に興味をそそられてしまった。これも邂逅の悪戯とでも言うべきか。浅薄な価値基準に縛られた視野狭窄と、自信欠如の自己愛から来る安直な衆愚への迎合は、若い頃だけにしておきたいところ。ただ、その原動力が怠惰であるところはちょっと問題があるかも。
 
 
 このところ、ゆっくりと音楽するゆとりが無い中で、Schwesterに触れる機会があった。魅力的な音色のピアノだとは、なんとなくどこかで聞いていたが、実際に触れてみて流石に驚いてしまった。形容しようがないのだけれどオーストリアを感じさせる香りを漂わせた、芯のとおった混じりっ気の無い上質の音色とでも言うか、ベートーヴェンのソナタにぴったり来る音色と言うか、要は一和音で惚れ込んでしまった。リニューアル品の探索開始しているところへ郵便物が二つ。片方はメーカーに依頼していたカタログ、もうひとつは日本文化財団からの「マリー・クレール・アラン」のオルガン演奏会の予約案内。フーガの技法から5曲が曲目に入っていて、早速購入依頼。これは楽しみ。最近は、あらゆるコピー物に興味を失ってきて音楽で言えば、演奏会に行くか自分で弾くか、実際の一回限りの「現場体験」に惹かれるようになってしまった。今の日本の子供達は、これと全く正反対の商業的エレクトロニクスが作り出す虚構の中で現実との区別が希薄になって生かされているのでは、と傷ましいニュースを見て考えてしまった。インタネット内の虚構と現実の区別は、それらに慣れた大人でもなかなか難しいのだが。
 
 
ピアノによるバッハは、アメリカ・カナダ流とロシア流、それと欧州流の流れがあるように思う。米加流はスタインウェイ等の能力を目一杯使って豊かに幅広く、しかしながら速度やリズムはあくまで保守的にバッハ像を追及している感じ。若干学究的過ぎる過大評価なところや舶来崇拝的なところもあったりするけれどそれらが良い方向に集約されている。ロシア流は繊細華奢な音色をベースに細く深く切り込んで真正面から原楽器の音響世界を具現しようとしている感じ。そして本家、欧州流は「ピアノで弾いたものはバッハではない」と言う呪縛が原罪感として底辺に潜んだような、開き直ってエキセントリックになって音色、速度、表現すべてに反チェンバロ指向のような趣があるかと思うと、逆に「ピアノで弾いてすみません」と言うような卑屈なほど、チェンバロ世界を摸倣しようと辛苦しているような世界。どのバッハも実に素晴らしく、バッハ音楽の懐の深さに和まされる演奏だけれど、今回のヒューイットはテューレック以来の米価流の頂点の一人。聴きに言った座席も2列の18番。目の前にスタインウェイの金文字が輝くもののアンジェラ女史の手首から先は全く見えない。しかし表情から身のこなし、ペダリングまではすべて目と鼻の先、音色も残響比率の低い直接音で臨場感は満点。舞台に登場した彼女は、ポスターのいでたちを見事に裏切って鮮やかな朱色一色で、ゴルトベルクを聴くまでもなく目の醒めるような緋縅装束がライトに照り映える。オープニングはBWV992,カプリッチォ。大ホールと聞いて、聴衆ノイズを心配していたのだけれど、完璧な静寂の中に、 あの問いかけるようなメロディがとても生き生きとした語り口で、バッハの世界へ誘い込んでくれた。この曲を聴くとなぜかベートーヴェンの「告別ソナタ」を連想してしまう。磐石のバッハの世界に安心して浸りこめるのも完璧な演奏者の彼女だからなのだろう。二曲目も特にお気に入りのイギリス組曲第六番。プレリュードの、荘重かつ深遠な無伴奏チェロ組曲のような世界作りがたまらない。アルマンド、クーラント、サラバンドと共通する寂寥感のような諦観漂う世界は彼女の演奏では若干、即物的で身近なものに描かれていた。そして待望のガヴォット、ジーグ。ガヴォットの左右の例えようも無く優雅で且つ現世を超越したような魅惑的なメロディの弾き分けの鮮やかさ。余分な装飾や妙な唄いまわしは一切無い率直な美しさ。そして終曲のジーグ。ここでは彼女ならではの、舞踏の神化の世界が創り出される。これらだけでも聴きに来た甲斐があったというもの。素晴しい。半は、ゴルトベルク変奏曲、BWV988。バッハの作品で、パッサカリア、シャコンヌ、ゴルトベルク、マタイ、などはこれらの文字を目にしただけで胸が躍るような締め付けられるような一種独特な興奮におそわれる。ゴルトベルクの、最後にアリアを再現させる構造は、第一楽章メインテーマを第四運楽章で再現させるブルックナーの交響曲世界にも似て、終わりが始まりとして無限ループに入るような、かつ「化転の内は夢幻」を語り六道輪廻を説くが如き音楽内容を実に象徴的に印象つける役割を果たしているように思う。普通は、変奏曲の変幻自在な組み合わせを聴くと、演奏者が一番楽しいのだろうな等と思ってしまうのだけれど、この曲に限っては演奏者は重労働で、聴く側のほうが最も充実した時間を味わえるような気がする。
 人生を残り時間で考えるようになってきたせいか、ひと時を十二分に味わうことに重きを置きだしたのかもしれない。「音楽は音色だけで勝負!」みたいな偏狭な姿勢は、やはり時間が無限にあって、自己主張で人生を塗り替えていける若者の特権なのだろう。若い頃の、あら探しみたいな聴き方や、多数決に迎合するような聴き方も、対象の理解を深める過程としてはそれなりの意義もあるのかもしれないが、それよりも巡り会えた機会の中に価値造りをすることにエネルギーを注ぐ方がはるかに楽しい。価値探しといえば、最近ではショパンのプレリュードの一曲一曲に、「ピアノの詩人」等と言われる意味を感じとれる事が増えてきた。この教科書的表現は好きではなかったのだけれど、彼がプレリュードの中で語っていることは、正に純然たる抽象的な意思の発露としての詩そのもののよう。

 ショパンといえば、原智恵子さんの遺品の中のピアノ協奏曲第二番の楽譜の間から、バッハの結婚カンタータの原譜が見つかったとか。夫のカサド氏が手に入れたものらしく、世界的に見てもとても貴重なものらしい。名ピアニストの彼女が日本で不遇だった原因は、当時の日本音楽界を牛耳っていた男の求婚を断ったためとかの話をどこかで読んだことなども思い出して「結婚」のキーワードにネットワークの多様な一面に想いをはせてみたりしながら、ショパンとバッハの結びつきにもプレリュードを眺めながらあらためて感じ入った次第。

 
 
今回は、これに衝撃が入ってしまった。第七変奏だっただろうか、最後部の方の席で「ケータイ」を鳴らした馬鹿が一人出た。アンジェラ女史の表情は一瞬凍りつき、なんとも言えない無念な表情から諦観の眼差しに変わった。さすがに歴戦のプロだけにまた音楽に集中した表情に戻っていったけれど、こちらはそうは行かない。何千万人に一人と言う天才が、何十年も研鑚を積んできた音楽芸術を極東の片隅で披露するという貴重な時空間で、それを共有しようと万端準備を整え、固唾を飲んでいる中である。大きなクロークもあってバッグでも小物でも預かってくれる体制も整っている。なにゆえ、よりによってケータイをコンサート会場内に持ち込むのか。会場にケータイを持ち込む人間を心の底から軽蔑する。いったい、演奏者がケータイをポケットに入れて舞台に立つだろうか。聴衆の側も同じ立場だと思う。音楽の最中、呼び出しノイズが微かに響き、アンジェラ女史の表情の変化を見た瞬間、怒髪天を衝くと言うか、殺気立ってしまった。あの手のノイズは決して許される過失ではないと決め込んでいるゆえ、気持ちの平静を取り戻すのに数変奏分、かかってしまった。意に介さず演奏する彼女の名人芸と曲の偉大さのおかげで、それからは再びゴルトベルクの多彩な世界に没入し、圧倒的な最終変奏、これはマタイの最終合唱「我ら涙しつつ跪き」にも共通する締め括りとしての充足感を満たして、アリアの再現で終着した。まさに魔界転生であった。こうした素晴らしいエンディングのあとの拍手は本当に難しい。いつまでも称えたいのであって決してアンコールが欲しい訳ではない。第一、この上さらに何を望めようか。しかし彼女は一曲で完璧な解答を示してくれた。「主よ人の望みの喜びよ」。
 
 

 演奏の3通りの視点、ひとつは若手に一般的な「自分を主にアピールしているもの」、二つ目、これは円熟期の奏者の傾向だろうか「作曲者の語りを伝えようとしているもの」、そして三つ目は、その順で言うと大家の境地だろうか「すべてを超越して音楽世界そのものを語っているもの」。曲自体にしても、ベートーヴェンのソナタのように、初期は自分のオリジナリティを主張しようとしているような作品、ミューズに命じられるままに創り出したような中期の作品群、そして人生哲学のような後期のもの。さらに、聴く側の年齢や気持ちにもそのどれかが強くあったりするとコンサートなどでの出会いの組み合わせによっては奇妙なミスマッチを誘ったりすることになる。とは言え競技会で、高校生位の年齢の演奏者がベートーヴェンの30番ソナタなんかを弾いていて、それが枯淡の境地を醸し出していたりすると、あっけにとられて恐れ入ってしまう。「毎日音楽コンクール」の番組を見たけれど、若き挑戦者達はそれぞれ自分のすべてを出し切るべく集中した演奏で、自らの能力を精一杯アピールしているわけで、やはり否応無しに自らの主張が主流を占めていたように思う。それがまた人生経験の多寡を超えた素晴らしい音楽世界になっている部分があったりする。演奏行為はこれらが渾然一体になっている部分もある訳だから、競技会でも審査員の評価が分かれるのは派閥意識以外に、これらの要素の重み付けの違いによることもあるのだろう。

 このところ幻想即興曲に浸りきりで、運指の滑らかなスピードアップが出来ないことで暗礁に乗り上げ。この曲を軽やか、かつ高速に弾けなかったら意味も無いなあと一人ごちつつ、仲道郁代弾く「幻想即興曲」CDを聴く。15年近く前の録音だけれど、日本人のピアノCDの例に漏れず音質がとても上質で、彼女の音創りの鮮やかさがストレートに伝わってくる。初稿と決定稿の二つの幻想即興曲が収められていて、やはり後者の方が馥郁として味わいの深いものになっている。ご当人はアシュケナージが理想と言いつつ、演奏は何かサムソン・フランソアと似た雰囲気があったりする。この曲を使って自分をアピールする風の演奏は良くあるけれど、このようにショパンの音楽世界を深く語る演奏を聴くのは久し振り。

 
 
 あまりポジティブではない音楽体験が続いた。ひとつはウィーンフィルのブルックナー第七番のTV放映。予告版はなかなか良さそうだったものが、いざ始まってみるとあまりに平板で、ただ演奏していますと言うような雰囲気で、大いに失望。もうひとつはFMでのバッハのフルートのパルティータ。これもうまく吹いているのだけれど、音ひとつひとつに味わいが薄いような感じで突き刺さってこない。一流の演奏でも訴えてくるものが乏しいのは、こちらの感受性に問題があるのかと疑ってしまいたくなる。しかしアラウ弾くショパンのワルツのCD等を聴いてみるとやはり素晴らしいものは素晴らしい。ショパンの音楽には日本の演歌に似通った「未練の唄いまわし」があるような気がする。ポーランドの国民性も陽よりは陰だし、動よりは静の感じで日本と似通っているし。普段は抑制していて、暴発したりする傾向も似ていなくも無い。気分を変えて、2月のA・ヒューイットのコンサートチケットを購入。オペラシティでのゴールドベルク、イギリス組曲第六番。とても楽しみ。
 
 
 これまた久し振りに、九番の4楽章付きを聴く。ヨハネス・ヴィルトナー指揮。清々しさと素直さが感じられる歌謡性を重視した解釈を基調としていて、ブルックナーを慈しむような雰囲気が好ましい。スケルツォでは一転、荒々しい味付けをしていることで、両端楽章がよりいっそう引き立ち、全体として硬軟際立たせて立体感を深めた好演となっている。第三楽章の浄化された崇高さの表現は各声部をそれぞれに唄わせる手法が功を奏していると言えるのだろうか、ウィーン風とドイツ風のミックスされたようなブルックナー。そして、未完草稿。つぎはぎ細工の印象だけが残ったり、一人よがりの違和感に終始することになったりしがちな第四楽章も、ヴィルトナーは叙情性を大切しながらオーソドックスな音作りでメリハリを利かせて纏め上げている。同じニ短調だからか第三交響曲のニュアンスを意識させながらも、なにかブル爺があれこれ旋律断片を試行錯誤して、楽章つくりに苦吟しているような雰囲気が伝わってくる不思議な演奏。ただ個人的な想いとしては、この楽章はやはり、第八番や第五番と同様に破天荒で、スケルツォの気分を引き継ぎつつ第一楽章の再現をベースに全楽章を飲み込んだような強烈巨大なモニュメントを求めてしまう。最もこれは指揮者ではなく復元構成研究者の問題だけれども、コーダのスコアを見ても空白ばかりで彼の意志の探り様が無い訳で、アーノンクールのようにコーダへ向けて残された僅かな断片のみを提示して想像に任すのも悪くないけれど、出世作でもあり彼が生涯大切にしていた第三交響曲のイメージで九番の第一楽章メインテーマを加工して締め括るのも悪くないと思う。タルミ、ロジェストヴィンスキー、アイヒホルン、インバルとある中で、アイヒホルンのものと共に浸りこめる貴重な第四楽章が得られたことになる。
 
 
 久し振りに充実したベートーヴェンの第九を聴いた。バーメルト/N響。N響の音楽はなんとなく模範的で、まるっこく感じることが多いのだけれど、この第九はそれを生かしつつ芯をしっかりさせてしなやかに音楽を創り上げていた。ソプラノがそれにぴったりはまっていて、鋭角的になったり華美になったりせず堅実に謳い上げ、他のパートもバランスが良く、さらに女声合唱が厚味のある世界作りを果たしていたように思う。全篇を通して、隠し味のようにピアノソナタの断片が聴こえてきたり、第一楽章はブルックナーの五番を、第二楽章は三番を、そして第三楽章は七番を思い浮かべるようなイマジネーション豊かで自由な広がりを持ちながら、ドイツ・オーストリア音楽の基本線を外れない抑制の効いたものであった。第四楽章の合唱は、ブッシュに票を投じる連中にこの音楽の真髄が伝わることが無いのがいかにも無念の感を深くするような昂揚感ある説得性を持ったものであった。作曲家の思いとは裏腹に後年、ヒトラー・ナチスが誕生し、今はそれと同類のユダヤ・WASPが世界を席捲するようになってしまったのを見るにつけ、音楽の無力さなども合わせて考えさせられてしまった。「戦場のピアニスト」や「ワルシャワの秋」が印象強く残るようになったのも、戦争への道を歩み始めたような昨今の日本の動きと無関係では無いかもしれない。
 
 

 白神典子シュナイダー:念願の白神典子さんのリサイタルに出かけた。我がブルックナーのピアノ曲のみならず交響曲第7番のアダージョのピアノ原譜をもCD化される言う快挙に感動したのも今は昔。ドイツ在住で御活躍とのことで日本で聴けるチャンスは、なかなかあるまいと思っていたところ、たまたま新聞にコンサートの記事が目に入り、カザルス・ホールへ駆けつけた次第。ショパンのピアノ協奏曲の室内楽版などのCDも聴く範囲では、彼女のスタイルは若い頃の内田光子風というか、挫折とは無縁の才能に裏打ちされた健康優良児的屈託の無いまっすぐな世界。しかし今回の 曲目がベートーヴェンの第30番ソナタ、ブラームスのインテルメッツォ等のOp118、そしてクライスレリアーナと言うことで、「これはちょっと・・」と思いながらも典子ファンの一員として怖いもの見たさを道連れに当日券の列に並んだ。ベートーヴェン、ブラームスの晩年作といえば、美の女神、運命の女神を始めとする女性すべてに裏切られ、自分の人生にも裏切られた中高年の諦観の嘆き節的達人芸で、旬真っ盛りの女性ピアニストには「ちょっと骨で は?」と断じつつ、そうは言うもののピアノ音楽の極致には浸りたいと言う思い。その意味では裏切られることは無かった。30番は晩年三部作の中では最も表向きな曲想であることもあって彼女の特長であるスタインウェィの絢爛豪華な色彩を有効に使って拡がりある世界が描き出された。ブラームスも見事だったけれど、やはり圧巻はクライスレリアーナ。何か二大Bはこのためのお膳立てだったのではないかと勘繰りたくなる位の見事なシューマンだった。超弩級のクライスレリアーナ。終曲では涙が出そうになりました、と購入したモーツァルトのCD表紙にサインを頂きながら、つい口走ってしまい、彼女の「シューマン、大好きです」との返答にもその思い入れの深さがしっかりと定まっているようで、流石と感じ入った次第。シューベルトのソナタやショパンのポロネーズなんかを聴いてみたい。今回のアンコールピースにブルックナーは取り上げられなかったのがちょっと残念。

 
 
 お宝鑑定で古美術・骨董の真贋をその道のプロが見抜き、金銭価値を付与していく様子を見ていると、音楽と言うのはいかにも因果な芸術創造であると思わざるを得ない。このような一過性で機会均等で非物質的な芸術、正に歌は世につれ、世は歌につれ。音楽では客観的に確立されたデータ比較と言う手法が無効なゆえに、後から後からCDが発売され、その何倍もの評論・批評が巻き散らかされていく。評論・批評は所詮、鑑賞力のみを神から与えられ、創造性は与えられなかった人々の怨み節でしかないのだけれど、それゆえに厄介な力学構造を作り出す。日本での西洋古典音楽は、音楽の前にまず御託ありき、から抜け出ることが出来ないのだろうか。ペライア弾くショパンのエチュード、コリン・デヴィスのブルックナー第六番、いずれもしなやかで豊かな表現で、気持ちが落ち着く。こう言う御託は無害だと思うけれど。
 
 

ポリーニ弾くショパンのプレリュードをFMで聴く。こうした比類のないプロの創造に対して、良いの悪いの、好きの嫌いのと御託を並べるのは実に非創造的、と言ってしまうと自己矛盾になってしまうのだけれど。対巨人最終戦終了後の星野監督から原監督への花束贈呈シーンにプロ根性を感じた人も少なくなかっただろうが、野球を極めた二人の立場は、一般人が抱くそれとは次元の違うものだったに違いない。しかし、このセレモニーに対して予想通り評論家だかの、わかったようなネガティヴな意見がいくつか散見された。もっとも巨人ファンでも野球ファンでもない「常勝」ファンにとっては面白い訳では無かっただろうが。ポリーニの演奏に対しても、プレリュード全曲を弾けもしないだろう者達があれこれ批判的なことを述べているのも、また同じ。自らは提案もせず、行動も出来ない者に限って、人の提案や行動にケチをつけ、またそれに迎合する者が結構居たりする。音楽の世界もスポーツの世界も、サラリーマンと言う現代の奴隷階級の姑息なマインドがはびこりつつあるのはどうしようもないのだろうか。        

 

速水御舟の言「存在するものは美でもなく醜でもなく、真実である。」実に言い得て妙。 


 地球と火星が大接近したせいなのか、阪神タイガースが優勝することになり誠に慶賀に堪えない。今年は久し振りに内容の濃い充実したゲームを数多く楽しめた。「六甲颪」、颪(しらみでも、かわらでもない、おろし。)の作曲者が、モスラの主題歌やジャイアンツの応援歌も作曲しているとは知らなかったが、先日行われたと言う、岩城宏之がコンサートのアンコールでオーケストラ編曲版を演奏したのは是非とも聴いてみたかった。このところ妙なウイルスがPCに入ってきて、その対策としてOS更新等が必要となり、作業能率向上の必要もあってADSL化したのだけれど、久し振りにハード、ソフトの両方にあれこれといじりまわすPC三昧の日々となった。おりしも冷夏からピントはずれの真夏がやってきたりして気分も散漫になって、なんとなく音楽に親しむ感性が減退気味でコンサートからも遠ざかってしまい、そろそろ巻き返しを図らないといけないと反省する次第。ショパンのバラード第1番の楽譜を見つけて遊んでいたら、その深い味わいが垣間見えてきて、いくつかのCDを聴き比べてしまった。結論はアラウ・・・。この悠揚せまらぬ大地のような表現はこの曲の魅力を十二分に伝えてくれる。ピアノ演奏でかなり明瞭に感じられる演奏者の三要素・・、技巧、感性、経験のブレンド具合の好みは、聴き手サイドの音楽経験、人生経験で変わってくるものと実感される今日この頃。BGMとして聴いていると何も引っかからないものが本当は究極の名演奏であるという端的なケースがアラウなのではないだろうか。

 FMをつけると、モーツァルトの27番変ロ長調のピアノコンチェルトが聴こえてきた。例によって夢空間に浮揚するような豊かで洗練された音楽。ピアノも強靭な和音と繊細な旋律にメリハリをつけた中に伸びやかさとウイットが感じられる演奏。最近は、番組表を見る事無くFMをつけて、聴こえてくる音楽をそのまま先入観無く鑑賞することが楽しみとなっている。とは言え、やはり素晴らしい演奏に接するとこれは誰が弾いているのだろうとあれこれ推測する分析的嗜好が湧き上がってくるのも抑えがたく、ついつい名演も分類的に聴いてしまう。オーケストラも木管がまろやかで気持ちよく合わせている。ピアノは華美に響き渡るものではなくオーソドックス。日本の女性ピアニストはモーツァルトのピアノソナタを健康優良児みたいに豪快に弾ききるのが標準になっているようだけれど、あれはコンチェルトには良いけれどソナタには全くそぐわないと常々感じている。この演奏もそれに近いけれど、強靭さが女性のそれでは無さそう。しかしながらなんとも言えない安定感があって、若手でも無さそうだが、中堅の脂ぎったものでもなく老成したものでもない。ギレリスだろうか等とあれこれ想像しながら最後まで聴いてしまった。バックハウスだった。ベーム・ウィーンフィル。なるほど若いときから晩年まで一貫して変わらない演奏スタイル。極上の音楽を集中して鑑賞できて感謝感謝。

 グルダを聴いた。NHK−TVの過去の名演奏会録画。バッハの平均律ハ長調、ベートーヴェンのOp110ソナタ。程よく冷やされた厳選品大吟醸のような繊細で精緻、極上の世界。衝撃的でもあった。P.スコダ、J.デムスと並んで「ウィーンの三羽烏」と称されながらも、デムスがシューマンやシューベルトで正統的演奏を深め、スコダが学術面に実績を築いて行った中で、即興性を前面に押し出したグルダの芸術には偏見がつきまとったと言う。アメリカ文化のジャズへの傾倒や伝統を破壊するようなモーツァルトへの装飾演奏はウィーン人には許し難かったのだろうか。伝統を重んじつつも現代のサウンドを自分に忠実に表現する愚直さ、ここにブルックナーに対するそれと共通したものを感じ取った。自ら屈託無くマイクを取って曲目を紹介した後、瑞々しくも研ぎ澄まされた音楽を楽々と創り出す毛むくじゃらの両腕。外見の邪気の無さと対照的な芸術面での大胆不敵さ、しかも音楽創造の完璧さ。ナイーヴな感性はまさにブルックナーと同一線上である。いずれにしてもグルダのベートーヴェン・ピアノソナタ全集は聴かねばならない。

 「戦場のピアニスト」を観た。ナチスのユダヤ人迫害で、毎度ながら思うことはユダヤ人は何ゆえそれほどまでにヨーロッパ人に嫌われてきたのだろうと言うこと。「ヴェニスの商人」が氷山の一角であろうことはともかく、今回のイラク戦争で結局、ヒスパニックや黒人を兵隊に借り出して血を流させ、ユダヤの武器商人と石油商人が大儲けしていることと符号するとしても、マタイ受難曲を世に出したのは金持ちユダヤ人だったわけなのだし。いずれにしても気の重い映画ではあった。ひたすら働いて蓄積した小市民の財産が一方的に収奪され、強制労働に追い立てられ、能率の落ちた者から容赦なく切り捨てていく。日本の中高年サラリーマンの現状が二重映しになり、やりきれない思いとなった。救いは、ピアノが心情表現には最適な楽器なのだと、今更ながら再認識できたことか。心象風景を紡ぎ出す楽器としてピアノはやっぱり素晴らしい。
 ショパンの音楽は病的なサロンの優雅さ、と言うような先入観もそれはそれで一面を喝破しているのだろうが、人間の極限状況を救う「強靭さ」のようなものがショパンの音楽には秘められているようにも思う。バッハとショパンは密接に結びついているけれども、バッハが「悟りの諦観、反骨」とすれば、ショパンは「超克に至る憤懣」なのかもしれない。シュピルマンのロマン的な表現も、あのような背景では恐ろしく凄みを見せる。
 
 

 生の「九番」についても、それほど回数を聴いたわけではないけれど大町さんのコンサートは予想に違わず素晴らしいものだった。曲の運びも強音部での金管浴も弦の表情も見事で、聴衆のマナーに至るまで大満足のひと時となった。一級のものに直に接する体験の価値・・、しかも一回限りの機会。こうした出会いにめぐり合ったりすると、録音音楽の「邪道牲」に思いが及んだりしてしまう。可能性の数を後悔の数が上回る年代になって、回りを見直すとCD、TV、組織といったヴァーチャルな邪道に囲まれていて、日常での実体との交流は下手なピアノと下手なゴルフの結果のみと言うのもお粗末なお話。良い音楽に浸りたいがために、オーディオ技術に血道を上げるも良し、演奏会に通いつめるも良し、楽器を練習するも良し・・・で、効率と確率のはざまで過ごす時間の積み重ねが人生として残るのも悪くないのかもしれない。あれこれと考えさせられたり触発させられたり、この曲が語りかける抽象的で不思議な実体には、毎度ながら魅せられてしまう。

 
 
 今日は、伊藤恵さん弾くショパンのエチュード、ワイセンベルクのショパンピアノ協奏曲、それとC.デヴィス指揮のブルックナー交響曲六番の3枚のCD購入。伊藤恵さんのは、若干の先入観込みでやはりシューマンの残り香が微かに漂う鮮やかなエチュード。アタックのソフトさとか、ふと思い惑うような節回し、拡張的に打ち放つことなく丸く締まった和音の出し方なんかが正にシューマンのそれ。実に素晴らしい。クララが弾いたらこんな感じだったのだろうか。ワイセンベルクの極彩色での金属味のある豊潤なピアノで聴きたかったショパンのコンチェルト。音質もさることながら、テンポもひけらかしの無い、余韻の空間的拡がりを十分に鑑賞させてくれる音楽つくり。これは指揮者のスクロバチェフスキによるところも大きいのだろうか、オーケストラが実に幅広く、分厚く大きな建物を創り上げている。その中でピアニストが自由に泳ぎまわっている。この曲はピアノが自由に振舞って、オケが平板に添え物的なつくりがよくあるだけに、なかなか嬉しい驚き。両者が溶け合ったようなツィンマーマンのCDとも少し違った充実感がある。C.デヴィス/ロンドンSOの六番は実に端正。この曲はメロディの息が比較的短く、対比的に作られているので、ブルックナー的な脂ぎった劇的な演奏にすると詩情が損なわれうるさくなってしまう。その意味ではこの指揮者、オケは理想的かもしれない。第一楽章から味わい深く、実に良く歌っている。控えめでよく膨らませた金管、伸びやかな表現は田園交響曲のよう。いい六番だ。
 
 
  先日の買物は、ブライロフスキーのショパン名曲集のCD、ロマンティックな演奏の「幻想即興曲」が聴きたくなったから。それと大町さん指揮のブルックナー九番のチケット、これは3月後半の東京公演。さらにネット上で、ピアニストの先生にけしかけられて「革命」を練習することにして、ショパンの練習曲Op10の楽譜、ウィーン原典版。国内印刷版だけれど朱色の表紙が鮮やかで譜めくりもやりやすく、昔、購入した春秋社版より親しみやすそう。P.スコダ氏の監修で、昔に読んだ彼の「モーツァルトの装飾音奏法」に関する著作がとても魅力的だった記憶がよみがえった。これらの買物の取合せは、何か今年の方向を暗示しているような気もする。バッハの組曲の装飾音符を簡略化すると易しくなるように、ショパンには速度を落とすと易しくなる傾向の曲があるようで、初心者にもそれなりに楽しませてもらえるのは有り難い。そこへいくと、モーツァルトやリスト、ブラームスなんかはどうしようもなくむつかしい曲ばかり。ブライロフスキーのショパンは、武骨のようでいて例え様も無くロマンティックなところが他には無い魅力と言える。サムソン・フランソアと似通った雰囲気もあるけれど、こちらのほうが豪快さと繊細さの落差があってゾクッとしてしまうところがたまらない。「弟子から見たショパン」とか言う本の中に、ショパンが「フォルテ」について語った比喩として面白いものがあった。「大声で告げられようと、耳元でささやかれようと、大事件を知らされた時に、驚きのあまり口がきけなくなるのは同じでしょう」と。音楽では、伝える内容が重要で、それはショパンでは音量ではない、しかし高速度は必要、と言うところかもしれないが。彼はどのように「革命」を弾いたのだろうか。楽譜を指で、たどってみると左手の跳躍はとても高速道路には出られない。 「フェアレディ・Z」を買って一般道を40Kmで走行する気分とでも言うか・・・。
 
 
 あっという間に年の瀬。今年もインターネットのおかげで音楽の幅を広げることが出来た。ピアノ演奏家やピアノの先生との交流で学ぶものは実に貴重なものがある。創造する人だけが持つ自律的なパワーと媚の無い存在感は実に魅力的。それに触れることよって自分の練習や音楽との接し方が、より深くなって、またそれをHPに記録することでさらに確実な把握ができる。これもまた素晴らしい楽しみ。ヴァーチャル特有の主観的な客観牲と言う、一見矛盾したコミュニケーションが固定記録される形が、音楽と言う時系列に消え去るものを相補的に結び付けているのかもしれない。目に見える今年の収穫の一つは「幻想即興曲」を暗譜できたこと、「悲愴」の第三楽章が少しは音楽らしくなってきたことか。ヴェルディの「レクイエム」の魅力が全体を通して認識できる様になったのも嬉しいこと。ソプラノと木管楽器の駆け合いと言うのが実にスリリングな美しさであることもヴェルディが教えてくれた。音楽以外ではギガヘルツのCPUを使ってPCを2号機にしたことだろうか。山への蝶々の撮影旅行が今年もかなわなかったのは、阪神が夏場から失速したことと並んで少し残念ではあった。
 
 
 12月も間近かになって、落ち着いた音楽が恋しくなる。先日、TVで耳にした梯さんの染み透るような独特なピアノの音色がまだ印象に残っている。久し振りにヒューイットでバッハのニ短調ソナタを聴いてみた。テュレックと同じような音楽つくりとの感想を持っていたのだけれど、やはりこれはこれで個性を滲ませた魅力的な世界。フランス組曲の1番、2番も聴きなおすと、これまた例え様も無く美しい高貴で優雅な表現。実世界の日常のルーチンが愚劣であればあるほど、バッハの世界は救いになることが実感される。バッハを好きになっておいてつくづく良かったと思う今日この頃。ブルックナーを聴くパワーが乏しいときの唯一の助けかもしれない。と考えつつ、今度はショパンのピアノ協奏曲の聴き比べを密かに目論んでいたりもする。この曲の計り知れない魅力にもあらためてアプローチしてみるのも一興か。
 
 
 TVで五嶋龍君の密着取材番組と、姉のみどりさんの演奏会録画を観た。龍君の手指の柔らかさにも驚かされたが、みどりさんの運指のターミネータ-のような完璧な動きは、その音楽とともに感動ものだった。今年は20周年記念で色々素晴らしい仕事をされてきた様子。音楽は聴き入るものだけど視覚的なものもヴィルトゥオーゾの場合は重要な因子だし、CDでは特に聴こうとは思わなくとも、実演であれば出かけようと言う気にさせるのも凄いこと。ベートーヴェンの父親の話がどこまで本当か知らないが、五嶋家の二人の子供達への母親のパッションにも尋常ならざるものがある。スパルタ教育などと言う言葉が軽薄に用いられることが多いけれど。たまたま週刊誌で「ピアノレッスン・トラウマ」の記事が出ていた。表面だけを一瞥した浅薄な記事と言ってしまえばそれまでだが、親達が自らを磨くのではなく、子供に自分の夢を代行させようとして狂奔する奇妙さ。映画「シャイン」を思い出したり、そう言えばフジコ・ヘミングの幼少期も同様だったそうだし、某ジュニアゴルファーの両親のケースでも同じような物語があった。親がその道のプロか経験者の場合はともかく、別の世界だった場合はやはり子とともに学んでいるかどうかが分かれ道になるようだ。様々な人生を犠牲に貪り食って現出するプロの妙技の数々。何事にも存在する光と陰、そうしたところに思いをはせながら、名演奏に耳を傾け、プロスポーツのスーパープレイを眺める時の複雑な気分。CDやTVと言った加工された限定情報コピーをうんぬんするのは確かに本質を外れているのだが・・・・。それにつけてもみどりさんのチャイコフスキーは素晴らしかった。
 
 
 児玉桃さんのピアノでパルティータ2番のFM放送があった。ロココ風と言うのだろうか繊細華奢でロマンティックな演奏。このハ短調シンフォニアは「悲愴」に合い通じる雰囲気で弾かれる表現を標準にしてしまうのだが、それとはむしろ正反対のなんとも軽妙で魅力的な音楽になっていた。パルティータの内省的な世界はピアノの表現力を制限して創り上げていることが多いようだけど、チェンバロのストレートな、華やかでいてクールな音色を指のすさびで脚色してバランスされた世界にはなかなか太刀打ちできない。児玉さんの演奏はそこに見事に切り込んでいる感じ。スカルラッティのクリスタルな香りもわずかに漂う。パルティータはこのところずっとクリストファ・セイガーの柔和で粋な世界に浸っていたのだが、レオンハルトのオーソドックスなところを聴きなおしてしまった。インヴェンションなどは「クラヴィア学習者のために」と記しているが、パルティータでは「クラヴィア愛好家のために」と副題に記しているとか。台風一過で涼しくなって秋の夜長の風情を先取りした格好。バッハの鍵盤曲はピアノでもチェンバロでも楽しめて、ブルックナーの複数ヴァージョンの交響曲を楽しむのと少し似ている。
 
 

 先日のFMで近藤嘉宏さん弾くショパンのバラードの絢爛芳醇な音楽に惹かれてCDを一枚購入。それと石川康子さんの「原智恵子 伝説のピアニスト」を一冊。原さんも近藤さんもルービンシュタインへの共感で共通点を有している。彼女もこの国の明治以後のねじれたクラシック音楽歴史の犠牲者。現在であれば、ピアノも弾けない音楽批評家が下す評価などをまともに聞くクラシックファンは少数派なのだろうが・・・。第一、商業主義で金縛りになった評論家達のご託宣よりも自分自身の耳による判断に素直に従う姿勢が一般化しているだろうし。原さんの演奏をけなしたと言う野村光一とか言う人物、彼はどんな音楽創造をしたのだろう、百歩譲って彼の評論は西洋でどう評価されているのだろう。

芸術の追求と食べていく手段としての音楽とのバランスについてFM番組の中で近藤さんが問いかけられていた。彼のクラシックピースとポピュラー編曲が交互に入ったCDを聴いていると、これが一つの回答なのかもしれないと、音色の明るさともあいまって楽しい気分になってくる。ショパンが大塚博堂  や井上陽水との重なりの中で主張が躍動し、気持ちをほぐしてくれる。原智恵子を読むには最高のミュージック。

他にHaensslerCDを2つ。F.ライトナー指揮のブルックナー第九交響曲、とC.Sagerのピアノでバッハのパルティータ集。重厚かつ高貴で、媚びるところの無い圧倒的な高密度の九番。期待通りの名演奏。フレーズごとに溜めが少なく、自然でシームレスな感じで深く謳い込んでくる表現に、思わず目頭が熱くなったり・・・。弦、木管、金管それぞれのパートが、ブルックナーが求めた役割を十二分に我が物として溶け合っている。第一楽章にはシュバルツヴァルトの深い朝もやを、第三楽章では樹々を渡る涼風を味わうような瞬間もあったりして、純粋に凝縮させた精神性指向にとどまらないところも、もう最高。

他方、Sagerのピアノは、実にゆったりと、しっとりとしていながら、確実にパルティータの内的世界に導いてくれる素晴らしい演奏。ちょっと気を持たす節回しが実に魅力的。

 

 
 

 音楽と楽譜・・・・、チャイコフスキー・コンクールで優勝した上原さんのお話に「楽譜から作曲者の意図を汲み取って、どう表現するかをいつも考えています。」と言うのがあった。

優れた演奏家達の多くが共通して述べているのは「自分を捨ててひたすら楽譜に忠実に演奏する」と。リヒテルでしたかミケランジェリでしたか「どうしてそのような素晴らしい演奏ができるのですか?」と尋ねられて「すべて楽譜に書いてあります。私は楽譜どおりに弾いただけです。」と応じたとか。

しかしそれらは、それぞれにとても個性的で・・・、リズムも揺らしているしメロディの表情のつけ方も千差万別で・・・。優れた演奏者が、楽譜に忠実に演奏すればするほど、個性的であるがゆえに、その自我が強いゆえに強烈な個性の演奏として具現化される矛盾。それが演奏の面白さではありますが、レッスンの場ではそれが軋轢の種にもなるようで・・・。一般に、優秀な先生は個性的だし、他方、優秀な生徒もまた十分に個性的で。幸か不幸か、生徒のほうは若さゆえに表現は、よりストレートだし。人生経験の差やら、既成勢力の系列やら、権威主義やらも入り乱れて面妖なことになってしまう。人間行為であるがゆえに、当然と言えば当然のことなのだが。 

楽譜の元になっていた音楽自体はどんなものだったか、曲によっては歴史の中で語り継がれているものもあるけれども、クラシック音楽の場合はかなりのものは作曲者から既に断絶している。バッハやモーツァルトのかなりの曲は一時期、完全に忘れ去られていたし、楽器や奏法も変遷を経ているし。死後に楽譜が発見されて、作曲者がどう弾いたかは誰も知らず、そもそも現在の楽譜自体の正確性も作曲者当人が校正したものは例外的に属するし。

各楽器の優秀な学生達を集めてオーケストラを組んでベートーヴェンの交響曲等を楽譜どおりに演奏させると、最初は、流布しているものとはまったく違った耳慣れない音楽として奏されるとか。

現代では、楽譜に最も忠実な演奏と言うのがPC-MIDIであったりする矛盾。晩年のグールドが、完璧な音楽はレコードでしか聴衆に供給できないと宣言した矛盾。楽譜と言う不完全な記録情報に基づくクラシック音楽が、録音加工技術と言ういい加減なものに遭遇した現代のコピー文化の矛盾。

楽譜の翻訳行為にしても、楽譜を介した自己表現にしても「演奏行為」には人を感動させる因子は幾通りも含まれている。完璧な技術と卓抜した音楽性では説明できないものが・・・。

逆境を克服して自己表現を確立し、ひたむきに演奏している人自身への共感・・・。曲自体あるいは音楽自体への共感から来る演奏者への感謝の念。その音楽への自分の思いや人生観と同じ方向性を持った演奏への共感とか。

 
 
 コリーの弾くパルティータCDの音色の美しさにひかれてショップに入ってしまった。そしてブルックナー3番のオルガン編曲版、クナッパーツブッシュ指揮のウィーンフィルで5番、ロスバウト指揮で7番と8番を購入。気に入ったのはクナッパーツブッシュのCDとロスバウトの7番。前者はLPから愛聴していたものであるから当然と言えば当然か。オルガンのシュテンダーは7番も納得できなかったがこれもいただけず、彼のブルックナー世界はどうにも共感できない。ロスバウトは7番の演奏が夢を膨らませる味わい。帰りの車のFMで聴いた、小山実稚恵さんの半音階的幻想曲とフーガの素晴らしくロマンティックな美しさは、例え様も無かった。今度、聴きに行こう。DVDではレオンハルトのバッハ役で「アンア・マクダレーナ・バッハの年代記」が発売されたとのこと。これもぜひ見たい。
 
 

 昨日、ショパンのピアノ協奏曲室内楽版をフジ子ヘミングさんが弾くコンサートを聴きに行った。

1000人以上は収容出来るであろう大ホールが満員、もうピアノリサイタルではなくフジコ・ブームイベントとしか言い様の無い状態。満員とは言え80%は中高年女性達で、絶えず何らかのライブノイズ、各楽章ごとに拍手、CDや自作絵画等の販売コーナーがいくつもあって、そこも超満員。フジコ欧州ツアーの呼び込み?まであった。
演奏内容は、定番の「鐘」や「溜息」は絶品、「喜びの島」も素晴らしかったがノクターンなんかは音量が大ホール向け、或いは聴力の影響か、大味の表現で、室内楽版コンチェルトは合わせ物だから当然と言えばそれまでだが縦横無人とは対極のシンプルな曲つくりになっていた。もともとオケとは対立的位置を基本とするロマン派の協奏曲を、室内楽として合奏的に創るのは本質的に矛盾する話だけど、ピアノが本来のオケ相手とも思われるほどに大きく存在する場面が気になった。ピアノを聴きに来ている人向けと開き直って鑑賞していればよかったのかも。とは言え、ここまで彼女一人で築き上げてきた偉大さには頭が下がるし、これだけの動員力は実力以外の何ものでもない。

 共演したアルティス・カルテットによる「ドン・ジョバンニ」の四重奏用編曲版も素敵だった。

オペラの見せ所、聴かせ所の音楽を弦四つで描き出す世界は見事で実に小粋でもあった。
 開演には早すぎたので、隣の西洋美術館を覗いてみた。素晴らしい事に「プラド美術館展」をやっていて、しかも「本日は夜8時まで開館」との案内表示が出ており、即、入ってみた。

久しぶりのエル・グレコ、ティツィアーノ、そして相変わらず圧倒的な筆致のルーベンス・・・、どれを観ても溜息しか出ない。写真等と言うものが無かったが故にか、リアリティ追及への天才達の凄さが生み出す、圧倒的な世界。どれだけ写真技術が追求されてもこの感動は生み出せまい。

鮮やかな新緑と夕刻のひんやりした空気のなかで、今回も実に有意義な時間になった。

美術館が隣り合せと言うのは重要なファクターか・・・、プラド展のような豪華なものが一緒だったのも幸運だったが・・・。

 
 
 

  朝比奈隆翁、2001年12月29日ご逝去。

 

 

 

 ブルックナー生誕150年にあたる1974年11月28日に大阪フェスティバルホールで行われた交響曲第九番をメインとする大阪フィル第120回定期演奏会が、朝比奈ブルックナーとの最初の接点だった。この翌年、1975年10月12日にあの聖フロリアンの鐘の音入りの第七番の素晴らしい演奏があって、レコード録音されたものを聴き、そして1976/7年にかけて録音されたジァンジァン盤のブルックナー全集はずっと後になってCD復刻盤で聴き入った。

彼が述べているブックナー観・・・・、

 

時折、頁をめくることがあっても単調で生硬なその総譜は何も語りかけてこなかった。

ベートーヴェンのように激しく迫るものも無く、

モーツァルトのそれのように美しく流れもしなかった。・・・・、

突如、中断される楽節や長い休止、弱奏と全合奏とのぎこちない連結と限りない反復、

それらが純真で深々とした美しさとなって浮かび上がってくる。

・・・・・、

続いてそのための努力が、演奏者に課せられた大きな責務が、はじめられた。

幾年も幾年も。

それはオーケストラの一人一人とそれに聴衆も含めて長い忍耐と修練の年月であった。

 或る夜、突如として客席に歓声が沸き起こり楽員の顔が晴れ晴れと輝く。

ブルックナーはその心を開いたのである。

 

 これは正にブルックナー音楽の本質と、彼らの積み重ねてきた歴史を端的に語っている。

同時に、ブルックナーファンである私自身の聴衆側の一人としての音楽蓄積にも、ある程度あてはまる。ブルックナーの交響曲は一連の物語ではなく、各楽章がいわば幻想小曲集のようなものとも言えるかもしれない。旋律断片の繰り返しが続くところは,アフリカ音楽の癒し系にも通じるようだし、大掛かりな万華鏡のようなオムニバスのような音響世界は、ドイツクラシックを経典として育ってきた奏者の多い当時の日本のオーケストラにとっては本質をつかむのは大変だったに違いない。この年末年始の朝比奈さんの鬼籍入りと小澤さんの新年ウィーン・フィルコンサートの大成功を、「日本人指揮者の歴史の光と影」として評したコメントもあったが、日本のよき精神性が閉塞社会で窒息しないためにも欧州との文化的結びつきに価値を置く和魂洋才の芸術家が増えて欲しいと思う。

 

 
 

 ヴェルディ「レクイエム」:

 G.ヴァントも鬼籍に入られたからと言う訳でもないが、身近な演奏会で聴く機会に恵まれた。この曲は壮麗なオーケストラを前提としていたが、今回のは2台のピアノ伴奏によるもの。

むしろヴェルディ特有の脂っこいオペラ臭さが払拭されて簡素ながら端正なレクイエムに仕上がっていた。合唱団は人生の酸いも甘いも噛み分けた方々が多いようでいながら、重厚な迫力で上質なハーモニーだった上に、リード役のピアニストが優れていたせいもあって、密度の高い伴奏で、「怒りの日」の金管の咆哮も戦慄的な迫力を醸し出していた。合唱自体もオーケストラのサウンドに逃げ込むことができない分だけ気合が入っていたような感もあり、この曲全体の魅力も伝えてくれた演奏となった。ソリストの魅力も十分に味わうことができたのも収穫。興味深かった演出は、メンバーが黒装束で客席側から登場し、舞台で正面に各々祈りを捧げ、指揮者、ピアノ奏者を含む全員が黙祷を捧げた後、演奏に入る形で、その一連の宗教的作法の過程で観客を含む一同すべての人々の集中度が高まったような気がした。オペラ合唱団だからの演出とはいえ、実に秀逸で聴衆も大部分が一心に聞き入って、マナーも良く、実に味わいのあるコンサート。

ホールもとてもすばらしい。帰りにCD屋さんで、この曲のCDを買ってしまった。

アバド/BPO、2001/1/25&27ライヴ盤。