ブルックナーあれこれ

 

 

 

L.ヴィスコンティ

 ブルックナー第七番の、主にアダージョを全編のBGMに用いているヴィスコンティの代表作映画「夏の嵐」を有楽町朝日ホールの「ヴィスコンティ映画祭」でようやく観る事ができた。何しろ1954年のイタリア作品で、アメリカの占領地政策以降、ハリウッド映画ばかり撒き散らされている現在の日本では、こうした質の高い欧州映画はなかなか一般には鑑賞する機会は無いのではなかろうか。ヴィスコンティは映画を娯楽消耗品としてではなく、オペラなどと同じく芸術時空間として製作しているので、久しぶりになかなか充実したひと時となった。なぜか大昔に見たローレンス・オリヴィエ主演の映画「オセロ」を思い出してしまった。最初の引用は第七番の第一楽章冒頭からだけれど、それ以降はほとんどアダージョからの旋律引用で、なかでもこの楽章のクライマックスの部分をどこに使うかと思っていたら、預かった革命資金の大金を敵の将校である恋人に渡してしまう裏切りの場面に用いているところは、流石、と思わず頬が緩んでしまった。ここまで七番を料理しきって使う映画監督は、まさに空前絶後とでもいうほかは無い。画面もバルビゾン派の絵画のような景色の撮り方や、ダヴィッドを思わせるような華やかな伯爵邸の場面描写は、冒頭のトラヴァトーレのオペラ劇場場面とシームレスにつながっていて、筋書きもまさに古典的オペラそのものと言える。愛憎、貧富、恋と戦争、こうした対極をテーマにしている点は、ブルックナーのpppとfffの対比や、世俗舞曲テーマと教会音楽テーマが並行する彼の音楽の特徴に正に完璧に重ね合わされていたように思う。なにかブルックナーが製作したオペラを見ているような気にさえなったりした。イタリアが古典絵画の保存と同様に、総力を挙げてこうした映画フィルムを修復し、色彩、音響を作製当時そのままに再現し、永久保存しようとしているのは至極当然であるけれど、こうした欧州先進国の芸術に対する懐の深さには毎度のことながら本当に頭が下がる。

 

ブルックナーのピアノ曲

 20代から40代にかけて作曲されたピアノ小品がいくつかあり、Quadrilleと言う舞曲では二手のみならず、四手用の作品もある。彼の交響曲のスケルツォやアダージョには教会音楽と世俗舞曲の娯楽音楽が同時進行しているような部分が結構あるが、前者については優れたミサ曲を残しており、交響曲への用い方を探ることができる。しかし彼の興味を引いた娯楽音楽の旋律はほとんど残っておらず、想いを寄せた娘さんに捧げた小品が主とは言え、彼の世俗音楽のサンプルとしてもこのピアノ曲集の価値は大きい。「秋の夕べの静かな想い」や「思い出」はとても叙情的でメンデルスゾーンとシューベルトを足して割ったような音楽で、シンフォニストのブルックナーのイメージとは程遠く、まったく対極に近い。しかし面白いのは「幻想曲ト長調」で、さざめく伴奏の上にソロテーマを唄ったり、アルペジョとともにテーマを高揚させて行く、交響曲で用いている彼の常套手段の萌芽というか断片が顔を見せている。残念なのは単一楽章だけの、ピアノソナタト短調第一楽章・・・、シューベルトにクレメンティをちょっと混ぜたような感じで、決然たる第一主題がなかなか素敵なだけに全楽章が完成していたら魅力的なものになったにちがいない。CDはブルンナーとショッパーが年代物のベーゼンドルファーで弾いているもの(999256-2)が昔からあるが、一昨年リリースされた白神典子がスタインウェイで演奏しているものBIS-CD1297)が綺麗な音色でダイナミックかつあか抜けていてすばらしい。彼女は交響曲第七番のアダージョのピアノ編曲版をも弾いているが、素直に真正面からスタインウェイを使ってオーケストラを指向している。この楽章の葬送楽曲の色彩を尊重して、瞑想的なニュアンスを終始保っているのは見事だと思う。ただ、色彩感を意図しているとは言えピアノソロなので、もう少し動きをつけたほうがメリハリが効いたのではないかと言う気もする。いずれにしてもとても貴重な音像で、CDにしてくれた白神さんに感謝。

 

交響曲第一番のニックネーム

 ブルックナーが、das kecke Beserl、と呼んだと言う。

「これは何語なのでしょうか?」との疑問が呈されて、オーストリア人の奥様を持ちウイーンで暮らしておられる日本人男性の方と、またウイーンのドイツ語会話学校の人に問い合わせた結果は以下の通りでした。

「Beserl」は Besen(ほうき)の小さいもの、小ほうき、のこと(ちょうどソナタの小規模なものをソナチネと呼ぶようなものでしょうか。)で、口語表現との事。

また「子供」と言う意味もあるがそれは説明のしようがないと。(日本語で、子供のことを「ジャリ」と言うような感じかもしれない。)

keckeは「生意気な」と言う意味で、直訳的には「生意気なチビほうき」となります。

.大ほうきは一人前の掃除女が使って、小ほうきは見習娘が使うようなものであれば「オキャンな掃除ねーちゃん」かもしれないし、単に「生意気な若造」ではソフトなイメージが不足するようでもある。

脈絡も無くディズニーの映画「ファンタジア」の「魔法使いの弟子」でほうきを擬人化していたのを思い出した。

いずれにしてもブルックナーは第1交響曲を、未成熟ではあるが野心的な世に逆らうツッパリ作品であると認めていたのではないだろうか。

そうしてみれば、第四楽章なんかは、大向こうをうならせようとする意図がやや空回りしているような気もしないでもない・・・・か。

会話学校の方からの返事は下記の通り。

Subject: Re: Contact Email

Although I have to admit I do not know Bruckner's first symphony I can guess at the title. I would say he meant "the cheeky broom". Beserl is a diminutive of "der Besen", which means broom. The expression is rather colloquial. I hope this has been helpful for you.

Best regards

 

出版物では、以下のようでした。

朝比奈/大阪フィル:「小生意気なあまっちょ」 土田英三郎

ヨッフム/BPO渡辺譲:「厚かましい娘」(オーストリアの方言)

デルンベルク/和田旦:「生意気な腕白小僧」

張源祥:「悪童」

ヴォルフ/喜多尾冬道・仲間雄三:「生意気な腕白小僧」、「大箒」?

門馬直美:「生意気な浮浪児」

金子建志:「無鉄砲な新参者」

土田英三郎:「快活な腕白小僧」

 

 
 

 

コリン・ウィルソン

 ブルックナーの作品を愛する彼の表現に共感することがよくあります。

以下は彼のSF「賢者の石」より。

 

 偉大な音楽 − 例えばフルトヴェングラーによるブルックナーの交響曲の演奏 − 

が惹き起こす静穏と洞察の気分を考えてみたまえ。それは広大な地平の感じであり、

生の信じがたいほどの美しさと多様さの感じである。

 

 音楽を聴く人は物語の発展に聴き入るのと同じように音楽の発展に聴き入る。

ところがフルトヴェングラーの説明によると、

ブルックナーは、発展を期待する通常のこころがまえを中断させて、

心がもっと緩慢なリズムで動くようになったときにのみ表現することのできる

何かを言おうとしたのである。

 

 ブルックナーの音楽は自然を描写するものではない.。

自然に近づこう − 自然そのものになりきろう − とする試みなのだ。

 

 彼にとっては、交響曲はいつも同じ精神状態 − 

自分の人間性から離脱してどっしりとそびえたつ山々や

原子の生へと入っていく感じ − 

を起こさせるための呪文に他ならなかったからだ.。

 

 「賢者の石」 著:コリン・ウィルソン 訳:中村保男 創元推理文庫 641-1