堺事件について
慶応4年2月15日、大阪天保山沖に確泊中のフランス軍艦より水平百余人がボートに乗り堺浦に上陸、物珍し、神社仏閣に侵入し、驚き怖れる婦女子を追い廻す等、傍若無人の振舞いをしました。時恰も堺警備隊として妙國寺に駐屯していた土佐藩はこの訴えを聞き直ちに鎮撫のため現場に至り応対したのですが、何分にも言葉が通じない却って警備隊を愚弄し隊旗を奪われると云う事態に至りました。事こ々に至り隠忍自重の警備隊も遂に発砲を決意し、彼我小銃拳銃応酬の末、フランス水兵は13名の死傷を残し退去しました。
此の事件は当然国際問題となり、内には旧幕臣各地に策動し、外にはフランス圧迫を受け余儀なくフランスの条件受託賠償金を支払うと共に警備隊長箕浦猪之吉、西村左平次等20名に切腹を命じ、2月23日妙國寺本堂前に於いて日仏立会い役人の目前で堂々と割腹自刃しました。その凄絶の様は言語に絶え見るに忍びないものがありました。11人の切腹を終え、12人目にかゝると日は既に沈み暮色漸く濃く鬼気人に迫るものがありましたので、立会い検視のフランス人は俄に退場してしまったので残りの9名は切腹を中止し大阪藩邸に移送し朝議の末土佐へ流刑となりました。
 11人が切腹された妙國境内
維新草創の際、若くして国事に倒れし志士尠なからず、この土佐藩士も潔よく国に殉じた精神はいつまでも語り伝えられることゝ信じます。
尚当山は勅願寺であった為埋葬を許可されず止む得ず向かいの宝珠院に埋葬されたのであります。

■1914年森鴎外は「堺事件」を教材に同名の小説を書いた。
殉死者11人の埋葬地(宝珠院)

妙國寺は霊木とも言われる大蘇鉄があります。
この蘇鉄は樹齢1000年余りと言われ、これにまつわる神秘的な伝説を残し、妙國寺の大蘇鉄として全国に知られています。
戦国時代天下統一を志した織田信長は、その権力を以て天正7年この蘇鉄を安土城に移植したのですが、毎夜「妙國寺へ帰ろう」と云う怪しげな声が城中に聞こえ霊気が城中悩ますに至り、激怒した信長は士卒に命じ蘇鉄を切らせたところ、鮮血切口より流れ悶絶の様は恰も大蛇の如く見え、さしも強気の信長も怖れ即座にこの木を当山へ返し届けたといわれています。
枯死寸前の蘇鉄を、日b上人は憐れに思われた法華経1千分を誦し、鉄屑を与えられたところ上人の夢枕に、人面蛇身の神が現れ、「供養忝なし報恩のため3つの誓いを立てん、女には産みの苦しみを和らげ、苦難いはその災難を逃れしめ福運の乏しきものには福徳を授く可し」と誓願し、上人はこの所に御堂を建て当山の守護神として、宇賀徳正竜神と申し今日に至っている。
(大正13年12月国天然記念物指定)
妙國寺
霊木大蘇鉄(そてつ)
■この文章は妙國寺拝観のしおりから複製、公開したものです。
       
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