堺と電車 鉄砲から自転車 堺の橋 堺の女性 ゆやの町  きせる(煙管)
大和川物語 堺の戦火 モメンの生活 「くるわ」の変遷  汐干狩 茶の湯の堺

南海本線が蒸気機関車から電車に切り替えたのは明治四十年八月、難波浜寺間の複線工事が竣工した機会であって、一時は食堂車や冷房車までついて頗る豪華であった。高野線も初めは蒸気車が走っていたが、大正元年十月に電車を併用することになった。阪堺線は初め阪堺電気軌道云ったが、明治四十二年恵美須から浜寺に至る免許を受け、四十五年四月浜寺公園迄開通し同時に宿院より大浜海岸までの支線を開通した。勿論初めから電車を走らせたのであるが、何分この電車は堺の街の中央を貫通するで、その通り筋が問題になった。昔の紀州街道即ち今日の大道筋を通るか、これを避けて五貫屋筋、山の口筋、或いは東六間又は西六間筋を通るか、お互いにその予定路線に当たる家の人々はこれを避けるために猛運動を開始した。当時の市会議員や有力者たちはそれぞれの地盤関係もあって互いに暗中活躍をした。乳守遊廓の業者たちは美妓を動員して盛んに活躍したものであって、どこもかしこも紅燈緑酒の港は大いに景気づきいたと当時の新聞が報じている。そしてヤッサモッサの末、大道筋を走ることに決定した。その頃大道筋は幅四間半(約九米)しかなかったので大道の西側を削ることにした。
歌人与謝野晶子女史の生家が削られたのもその頃である。
雀が海中に入って蛤となり山ノ芋が鰻に変ずるなど他愛のない話は昔から聞くが、鉄砲が自転車に変わったと云う話は嘘から出た真実である。堺が天分年間に我が国で最も早く鉄砲を作り出し、戦国時代の戦術に一大変革をもたらすと共に、莫大な利益を収め、いわゆる驚くべき経済成長を見せたことは既に史実に明らかなことであるが、この鉄砲製造の技術は徳川幕府の終幕と共に平和産業への転用されることになり、ここに新時代の花形としての自転車及び、これが部品の製造が始められ、堺は鉄砲経済から自転車への舞台を一転せしめたのである。
 自転車は一八一五年フランスで発明され、それ以来急速に発達し、我国へも明治三年ごろ早くも輸入され、佐藤という人が使用したのが我国に於ける自転車普及の始まりであると云われている。明治二八年、九月ごろ堺へも舶来の自転車が姿を見せた。当時大阪川口あらりに居住する宣教師が米国製の自転車の販売の斡旋をしたというから、そうした手蔓から入ってきたのかも知れない。堺で一番早くこれに目をつけたのは北川清吉という人で、自らこれを乗り廻し世界をアッと云わし、さらに友人と組んで双輪商会というのを創設し、貸自転車業を始め、一時間三〇分乃至五〇銭貸したが、時の好みに適し大変な人気であった。しかし世間の分別臭い人達は自転車に乗る人間は阿呆であるというので自転車のことをアホー車と悪口を云ったものである。それでもスピードを喜ぶのは何時の時代でもおなじで、当時の青壮年の間に自転車熱は猛烈に高まり、次第にこれを購入するものが殖えたが、それにつれてこれが修繕、修理が必要となり、計らずもここで伝統の鉄砲製造の優秀な技術が大いに役立つ事となり、殆どの鉄砲鍛冶は自転車修理に転向した。そして修理から自然に部品の製造に発展し、さらに完成車の製造へと伸展し、遂に堺自転車の名は海外へ宣伝されるに至った訳で、これこそ全く鉄砲が自転車に生まれ変わったという話。
王将の唄ではないが大阪には八百八つの橋があったと云われているが、堺市にも旧市街に六十余りの橋が架かっていた。これなの橋はいずれも四百年ほど歴史を持っており、それぞれに堺人の古い思い出が秘められている。まず北からいくと「北の橋」であるが、これは堺の街を南北に貫いている紀州街道の北端の橋で、昔はこの袂に門を設け、夜間の防衛に当たったという。この東にある稲荷橋は昔、大阪からの道がここに通じ、旅人はこの端を渡って山ノ口筋を南へ通り抜け紀州へ云ったのである。
東部の土居川に架かる極楽橋は、オジガウエの墓地へ行く葬列の必ず渡る橋で、この橋を渡ると極楽へ行けると信じられていた。石の欄干に美しい彫刻がある。これと並ぶ三蔵橋は三蔵法師からとったもので、仏の聖典は経、律、輪の三つから成り、これを総称して三蔵といい、これに精通する坊さんを三蔵法師といった。この付近に本願寺、妙国寺など多数の寺が集まっていたので、かく命名したとみえる。これに隣りあってツンボ井戸橋があった。袂に井戸があり清泉が湧くので秀吉はこの水を常に利用していたので、番人がついていた。ところが番人はツンボであったと伝えられている。この南の花田口橋は長尾街道の堺の街へ入り口にあり、橋の西袂に商店街が並び、近郷近在の人々は日用品を買いに集まり、終日賑わったものである。大小路橋は堺の中央道路大小路の東端に架かった橋でここに関門があり、河内や大和へ行く人々はこの橋をスタートラインとした。これに隣る目口橋の西詰にも商店街があり、田舎からの買い物客で橋を渡る足音が絶えなかったという。少し南へ行くと魚荷橋がある。鎌倉時代から堺の魚が河内や大和珍重され、堺の魚行商人達は魚荷担ついでこの橋を渡って行ったのである。
 旧市の南端に山ノ口橋がある。この橋の袂に乳遊廓があり、北の稲荷橋の袂にあった高須廓と共に毎日弦歌さんざめく享楽の港であった。百年ほど昔はこうした幾つもの橋の下には美しい水が流れ、魚も棲み船も通い、堺の人々は夏の夕、橋上で涼を入れたものである。西の川にも多くの橋があり、それぞれに物語りもあるが紙面が許さない。
 堺は昔から養子天国だといわれている。それほどに昔から富豪や上流商家では他家から養子を迎えて家を嗣がし、商売を継承さすのが通例となっていた。それは必ずしも家に人材がなかったからではないが、良果を得るためにツギ木をするのうに、他家から優秀な人を迎え、血液の更新を図り、商売に新風を吹き込んでその健全と繁栄を願ったのであろう。
しかしその養子を巧みに操従し、その目的を果たせしめるには家付の女性は聡明でそしてしっかり者でなければならなかった。堺には相した女性が多かった。その例をあげると際限がないが、ここで歴史的に名を挙げた女性を少し拾って「堺の女」を語ることにする。
 古いところでは天平の昔、大衆の教化に偉大な貢献をした一代の傑僧行基を立派に育てあげた峰田薬師女がある。医者の心得もあった頭のいい賢母であった。豊臣秀吉に仕え、大々名となった小西行長の母は、若いころにキリシタン信者となり、マグダレナという教名を受けたが、非常に敬虔な立派な人物であった。行長が後年キリシタン大名となり、勇気と智恵才覚に傑れ、理財のことにも明るい人物に仕上げた母の偉大さは今日でも高く評価されている。
 宝歴年間堺奉行所に上條という与力がおったが、その妻はアサといって典型的な温良貞淑なそしてシンの強い人であった。夫の両親につかえて孝養の限りを尽くすと共に、早く失った実子の代わりに養子を迎えこれが教育に精魂を打ち込み、遂に上條柳慮という学者に仕あげた。この柳慮の妻となった多鶴という女性も立派な人で子供の薫陶よろしく後年「陵墓図考」という名著を出した上條柳居という学者を育てあげた母の常子も貧しい中に苦闘した人である。
 賢くてシンの強い堺の女性は他にも沢山あるが、歌人与謝野晶子もその一人で若し晶子が文学を志ささず養子に迎え駿河屋をついでいたら、もっともっと立派な菓子屋を造りあげていたに違いない。
堺市と大阪市の境界線となり、堺市上水道の水源となっている大和川は、開されてから二百七十年になる。
 大和川は大和の奥にその源をもち、河内柏原市で石川と合している。始めは柏原市から北へ八尾、久宝寺を経て、大阪城のところで淀川に注いでいたのであるが、柏原以北でしばしば氾らんするので、柏原から西へ大阪湾に流すことになったのが今日の大和川である。この川の付け替えの話は寛文年間(一六六〇)から起こっていたが、遂に中河内の農民川中九兵衛その他二名が計画して出願した。最初の計画は瓜破野を経て住吉浦へ流す案と、阿部川を利用して難波浦へ流す案の2案であったが、その予定地に当たる二十九か村の農民は、農地を失うとの理由で訴状を提出して猛烈な反対をした。そのころ堺人は対岸の火災視して何の反対もしなかったのである。後年、大和川から流出する土砂で堺の港が駄目になり、延いては街の繁栄が奪われるとは夢にも思い至らなかったのである。
幕府は天和3年(一六八三)に河村瑞軒などの土木事業家を現地に派遣して実施調査をした上で、元禄十一年に川普しんに異議あるものは申し出よと堺へも通達しているが、当時の堺人は何の意志表示もしなかったという。どこで幕府は遂に元禄十六年に新大和川開さくに踏み切ったのである。そして翌年宝永元年三月に起工、十月十三日に工事が完工している。僅か七か月に柏原から堺まで7千九百八十間、川幅百間の川を切り開いたのである。それに従事した人足百四十五万人。これに要した工費は銀で三千六百六十貫匁(金にして七万九千百七十五両ー府全志)この費用に内、政府(幕府)は一万二千九百三十三両を負担し、残りは岸和田、明石、高取、柏原などの城主の大名が負担したのである。
大和川の開さくによって利益したのは堺の水道で明治三十三年から十年かかって工事が完成し四十三年四月に通水している。また江戸末期ごろこの大和川によって堺の浜で獲られる鰯を干してこれを河内長野方面の綿作用肥料として剣先船または平田船数十艘で輸送されたのも大和川のお蔭である。しかし、享保三年大和川の水が溢れて堺の北部が水侵しになったほか、十数回の被害を受けている。
 昭和20年1月2日、まるで戦火のまえぶれとも言うべき大火災が発生しました。午前四時10分ごろ、南旅篭町西五丁付近から出火し風速12メートルの烈風にあふられて、たちまち付近に延焼しました。出火と同時に堺消防署は全機能を出動して消火に努めたが火勢はなかなか衰えず、大阪市からもポンプ8台が応援にかけつけ、さらに市内に駐屯している軍隊まで出て消火にあたり、ようやく午前7時30分85戸を全半焼して鎮火しました。
 昭和20年3月14日、前日の午後9時20分頃から大阪に焼夷弾を降らせていたB29の後続機がこの日の午前1時10分ごろ堺へ侵入し、錦綾町東部・香ケ丘町・浅香山一帯焼夷弾が投下され、続いて2時ごろ北・南花田口町に油脂焼夷弾を落しました。これによって、全焼148戸、半焼37と、罹災者798人、死者4人、負傷者23人の被害を受けました。
 6月15日午前9時20分、新町・瓦町/戎之町・熊野町東部、1条〜6条通り一帯に焼夷弾が投下され、続いて10〜20分の間に第2・3波の攻撃があり北部の工業地域が焼かれました。しかし白昼であったため、比較的早く鎮火させることができました。被害は全焼295戸、半焼、136戸、罹災者1,325人、死者8人、重傷者29人、軽傷者28人でした。
 第3次空襲は6月26日の白昼350キロ爆弾を戎島2丁・櫛屋町西3丁に投下しました。33戸lの全・半焼、100人の罹災者、2人の重傷者、8人の軽傷者、即死4人その他爆風によって屋根・ガラス障子・窓・格子などが破壊されたものが100戸におよびました。
 7月9日午後10時30分空襲警報が発せられたが、和歌山方面が焼夷弾攻撃を受けていました。翌10日1時ごろになり、米機があいついで南方洋上に退去したラジオ放送に市民は安堵の胸をなでました。ところが1時30分ごろ、突如としてB29が大阪湾上から堺に侵入し、西南から東北方へ通過しながら焼夷弾をの雨を降らし、たちまち大浜・龍神・宿院一帯が猛火に包まれました。それから1時間半にわたって、約100機が数機ずつに分かれ、執拗な波状攻撃を加えて、油脂・黄焼燐夷弾を雨のように投下したので、旧市内は完全に火の海となりました。
 市民は猛火をくぐり、猛煙にむせびながら、右に左に危地から脱出はかったが、なかにも4方を火に包まれて逃げ場を失い、土居川・内川や貯水槽などに浸って九死に一生を得たもの、避難の途中に直撃をうけて倒れるもの、全身に黄燐の飛抹を浴びて生不動となって悲惨な最期を遂げる人も少なくなかったようです。
 次いで、8月10日、午前9時30分ごろ、小型艦載機が低空より耳原町付近に機銃掃射をし、福助足袋工場、久保田鉄工所と付近の民家6戸の壁や屋根に損傷を与えました。
羅災面積は当時の市域の14%にあたり、旧市域だけで62.1%にあたり、840人が亡くなりました、
1,020人が方向不明となり、16,892戸が全焼し、60,702人が羅災しました。
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 泉州堺の包丁の切れ味が素晴らしかったのは堺の水が焼刄によく合ったからだと伝えられている。また堺が灘や伊丹に先んじて銘酒の産地として名を挙げ、江戸時代に江戸や北海道方面にまで販路を拡大したが、これは堺の水が酒醸造に適合して酒の味が美味しかったからであるとも言われている。
 今日上水道が1時間とまっても吾々の生活は狂ってしまう。1日停水したら生命にかかわるが、古代でも水源を失うことは生命にかかわる事としてその確保と、水源の発見に血眼となって、絶えず良水を求めて苦労した。しかしそれだけに良水を見つけるすぐれた本能を持っていてあちこちに井戸を掘り、その井戸を中心として集落が営まれ、それが都市に発展して行ったのである。しかし吾々の祖先が苦労して掘った多数の井戸は、今日殆ど姿を消してしまった。そして色々の伝説だけが残されている。行基が奈良時代に掘ったと伝える宿院の塩井、向泉寺の井戸、八田壮の薬井戸や、上神谷片蔵の桜井、深井の地名となった香林寺の井戸など、この水でどれほど多くの人の生命が守られたことか。
 昔は社寺にはそれぞれ神仏に供する水を得るため井戸が掘られたが、それは神仏に供えるというのは名目だけであって、事実は多数住民の生命の水として重要な役目を果たしたのであって、社寺を中心としての集落が営まれ、それが堺という街のこそとなったことは歴史が示している。後世になって社寺の井戸に次いで一般民家でも井戸が掘られ、個人で掘れない者は何軒もの家が共同で井戸を掘って生活するようになった。しかし近代になると衛生思想が発達し良水の選定がやかましくなり、その選定された井戸水を各戸に頒ち合うことになって、これを業とする「水屋」と称するものが水の配達に回ったのである。そして明治43年4月になって大和川に水源を求めて上水道の敷設となった訳である。
 吾々は今日残っている井戸だけでも大切に保存して水の尊さといったものを忘れないようにしたいものである。
 近ごろ若い人達の中には、自分の身につけてある衣類が何によって造られているのか知らない者が多い。第一モメンという言葉、モメン織りという言葉さへ知らない者が多い。
 堺を含み泉州河内の国は、昔はモメンの産地で堺はその集散地として有名であった。約180万反から200万反が集まってきた。堺市史によりと明治4年の株仲間の調べでは問屋49軒、仲買92軒あったという。そしてその後次第に減少し明治10年には問屋24軒、仲買60戸となっている。明治20年ごろ堺の生産物調べによると、帆モメン260貫、モメン織物7,800反もあったらしい。このモメン織物は綿から作られたもので主として和泉の村々で綿の木、即ち木綿(きわた)が栽培され綿の実から綿をとり出し、それから糸をつむぎ各農家に持ち帰りハタ織りにかけてモメンを織った。
 その生産額1ヵ年100万反から400万反になったらしい。農家では6っ半(午後7時)から男も女も夜なべ(夜業)にかかり4っ半(11時)迄、女達はハタ織りに精を出した。大体1日に2丈(約12米)織った。こうしてできたモメンは和泉モメンとか泉州モメン、また河内の村々で作られたものは河内モメンといわれた。
 明治初年の統計によると明治6年1月の大鳥郡14ヵ村に於ける白木綿は19,218反(約150キロ)縞木綿1,800反の生産額があったようである。元禄年間の農業生産表を見ると木わたは菱木村で5分、百済村4分、舳松村では4分、大庭寺村5分、釜室村4分、和田村4分、畑村3分、大鳥村5分などと出ている。全農産物の5分とか4分とかいう意味らしい。綿つくりがどれ位重要な位置を占めていたかが判る。堺周辺の村々がこれによって現金収入ができて大いに生活にゆとりができた訳である。しかもその上綿でモメンを織りそれでまた収入が増えた。全くモメンさまさまであった。その綿なりモメンは堺に流れ込んで堺から諸国に売り出されて堺商人はしこたま利益をあげたものである。
 遊廓などと言っても今日の若い人達には一寸理解しがたいものになったが、昨今明治百年などといって古いものを懐かしみ事が流行っているで、歴史の一辺として堺の遊廓をふり返ってみよう。
 大体遊廓というものは主として船着場とか街道の宿場とか、旅人の集まるところに発生したもので、住ノ江の船着場に遊廓的なものがあったことは既に万葉に現れている。この住ノ江の対岸の船着場は堺の七道浜であった。従ってここにもそうしたものがあったわけで、室町時代にできた高須廓はその流れを汲むものである。場処は今日の高須神社付近で昔はこの辺りにも七道の浜の一部で「たかす」とも呼ばれていた。
 これに対抗してできたのが南高須廓で、後に北の高須廓と紛らわしいので乳守廓と改称した。
 初めは北の高須廓の方が盛大であったが、江戸中期には乳守の方が盛んになり、元禄8年には高須は15軒の遊女屋に97人の遊女がおり、乳守の方には24軒に167人の女達が居た。遊女は江戸時代に傾城と名を変えている。この乳守が繁昌していたことは和泉名所絵図に「南荘乳守里は当津の傾城廓にて常に酣歌の声舞曲の音たえず」と記されている。これに対抗してできたのは戎島の歓楽街で遊女の居る家が40余軒、女が60人余り、それに劇場飲食店なども加わり一大歓楽地となった。処が天保年間に戎島の南に水路を企てる隔てて新しい埋立地ができて、ここにも茶屋などが続々と集まり、これを俗に新地と称えていた。水路を挟んで戎島と新地の廓が互いに妍を競ったのは壮観であったという。この新地の方は地の利を得て次第に発展し、遂に龍神廓と栄橋遊廓となった。今日の南海本線堺駅の東、内川迄の一帯であった。そして戎島の方は廃止されるに至った。大正9年の調整によると、龍神廓は貸座敷108軒、ここに芸妓395、娼妓20、栄橋遊廓は60軒、素紺働く娼婦は645、府下でも有数の遊廓となったのである。余りほめた事ではないが、こんな施設も過去にあったということは記憶しておいてもよかろう。
 熊野町にある熊野小学校を学校では「ゆや小学校」とよばしている。町名が「くまの」であるのに校名を「ゆや」と呼ぶのはおかしいと、近ごろ問題となっているらしい。熊野町をゆや町と呼んでいたことは、元禄以降のどの絵図にも「湯屋町」と記されていることでも明らかである。しかし6番小学校を明治8年に熊野小学校と改め、ゆや校と呼ばしめていることを見ると、明治初年に町名を湯屋から熊野に書き改められ、唱え方は従来通り「ゆや」を踏襲したものと見える。何故「ゆや」という音に執着したのか明らかではないが、熊野町大道付近に熊野神社があって「ゆや神」と唱えていたからである。謡曲にも熊野(ゆや)がある。熊野神社は今日王子ガ上と呼ばれている昔の熊野道にあった99王子社の一つ、堺王子社を、永禄年間に熊野町に移したものである。
 そんな因縁で町名をつける時、熊野と書いてゆや」と読みにくかろうとの親心から「湯屋」の字を当てることにしたのであろう。熊野神社は明治41年菅原神社は合祀された。処が湯屋町は常楽寺(今日の菅原神社)の風呂からきているとする説もある。まだ風呂が一般に普及していないころ、常楽寺では風呂をたいて一般庶民に施湯をしたので、その辺りを湯屋町と称えるようになったというのである。常楽寺の風呂はどのよなうなものであったのかも明らかではないが、大永5年の「風呂屋敷定制条」という文章が残っているから相当なものであったらしい。
 しかし当時既に行基の開いた有名な塩風呂を初めて、数少ないがあちこちに風呂があったから、ここだけを湯屋町と称えたかどうか疑わしい。堺の風呂といえば文化14年の主鑑によると湯屋株九、温泉株五、風呂株一が挙げられている。当時の風呂屋は男女混浴であったし、階上には湯女(ゆな)垢かきと称する女達が抱えられていて、お客の背を流したり、酒の相手をしたりして随分と風紀を紊していたようである。小船に据え風呂をのせ、堺の港内を漕いで廻り、船頭たちに浴びせしめたのもこの頃である。
タバコが日本へ伝わり一般に流行しだしたのは、秀吉の朝鮮出兵ごろと言われている。初めはタバコの葉を刻んで、適当の長さにまとめて、これを紙に巻いて吸っていた。このタバコの葉を刻むのに小刀を用いたが、後に剃刀(かみそり)を堺の鍛冶屋が造って、これで刻んでいた。さらに後には専用の包丁を同じく堺の鍛冶屋が造った。これがいわゆるタバコ庖丁で全国に宣伝されたことは既に庖丁の処で紹介したが、これに次いで今度は喫煙具が堺で作り出された。これがキセルである。
 キセルという言葉は外来語らしいが何語からきたのか明らかでなく、煙管、気世留など色々の文字を当てている。最初は細い竹の節の処で短く切り火皿を作り、この火皿の横腹に穴をあけ、これに細い竹を差し込み、これをキセルとして用いていた。処が堺の鍛冶職人は鉄砲や庖丁作りに鍛えた技術を用いて、雁首や吸口を金属で作り、中身に細い竹を用い、いわゆる「ラオ」をつくって売り出した。これが好評を博し広く流行した。江戸神明町の柳屋で売り出された梅忠張と称するキセルも堺の鍛冶や職人が江戸へ移って作り出したものである。このことは「町方書上」というものに書かれている。
「喜世留渡世家号柳屋、清兵衛
 右祖先の儀は泉州堺にて鉄砲鍛冶仕っていたが、御入国前、当  地へまかり越したが、鉄砲鍛冶はできないので、 その後、キセル 張をやりだした。そして江戸張りキセルの元祖と書いた看板が出し た。世上にてタバコのみ、初め たころ、梅忠張と申すキセル張り。このことは江戸鹿之古という古本にもある」
 兎に角堺の鍛冶屋が、タバコ庖丁やキセルの製造に一役を買ってタバコ流行に大いに寄与したという事は喫煙史上面白いことである。
 万葉に「住之江の行かう道にきのふみし恋いわすれ貝ことに有けり」という一首がある。住之江から堺にかけての海岸は、大昔から遠浅の海でそこには貝類が豊富に生息していた人々はそれを拾って生活していた。
 それは生きた貝のみならず、その貝殻はたくさん海岸の白砂に打ち上げられ、桜色に輝いていてそれを拾うことも楽しみとしていた。堺の浜は大和川が300年ほど昔にできて以来、川から吐き出される土砂がたい積して自然に造成されたところであるから、貝類の繁殖に最も適した処であった。中でも大和川の河口に近い北波止、今日セントラルガラス工場のある辺りは貝類の宝庫でもあった。だから昔から北波止の海岸は汐干狩の名所として知られ、京阪神大和河内辺りからも続々として人が集まってきた。明治32年刊行の「南海鉄道案内」には[茶肆酒店などあり・・・・・南公園に劣らぬ盛況、殊に陰暦の上己の日は大汐と唱へて潮水が遠く退いて数里の間、干潟になりますので来って潮干狩する者多く、年中第一の一大熱閙を極めます」と書いているが、全く旧3月の節分のころには4キロ余りも干上った海上に人が群がり、陸上に並んだ掛茶屋では酒宴が開かれて賑やかであった。人々は蛤、汐吹き、あて貝、アサリ、サルボ、モチ貝、赤貝などを拾った。バケツ一杯位は1時間もかからなかった。子供たちは貝を拾うよりハゼ、ウシノシタ、カレイなどの稚魚を捕らえようと走り回り、少し大きな子供らは砂上に点々とあいている小さい穴を見つけるとそこへ塩を一つまみ入れ、これを塩の満ちてきたと勘ちがいして穴から飛び出すマテ貝を捕らえることに夢中になっていた。全く大人も子供も男女も浮世のことを一切忘れ、清々しい空気を吸いながら春の一日を楽しく過ごしたのであった。
滄海変じて桑田となるとか、雀海中にはいって蛤になるとか、昔の人はよくこんなことを言ったものだが、この潮干狩りの場は埋立地となり、貝にあらず工業製品が続々と造り出されている。「海恋し潮の遠鳴りかぞへつつ乙女となりし父母の家」与謝野晶子の歌った海が恋しい。
 堺といえば茶の湯、茶の湯といえば利休を連想せないものはない。それは千利休が堺の出身地であるからである。利休は我国に茶道を確立した人であることは今更らいう迄もないが、それだけに利休に教えを受けた茶人が実に多く、人々は堺に住み町人に茶の湯を教えたから、堺は茶の湯の街として栄えた訳である。
 利休は始め北向道陳に茶の湯の手ほどきを受け、後に武野紹鴎に師事して遂に当代第一の茶の湯となり、秀吉に仕えて勢威並びなかったが、その利休の住んだ屋敷は宿院町の堺病院の東側にあった。今日料亭「エラサ」の庭に利休の使った椿井戸が残っている。材木町東二丁の竹屋町にも利休の数寄屋があったが数年前に姿を消してしまった。利休の先生の北向道陳の屋敷は中ノ町の市立図書館の西にあったが今日記念の石のみ残っている。墓は中ノ町寺町の妙法寺に現存する。紹鴎の墓は南旅篭町東二丁臨江寺にまた供養塔は南宗寺境内にある。墓に耳を当てると湯の沸る音がするというので、江戸時代から有名であった。この塔の横に利休一門の供養碑が数基並んでいる。
 利休と津田宗及と今井宗久は同じ時代の三大茶人として天下に名を挙げたのだが、宗及の墓も南宗寺にある。もと大通庵(今日の熊野町小学校のこと)なあったのを移したものである。宗久の墓は臨江寺にある。これももと向泉寺にあったのを移したのである。
 利休に茶を習い後に茶人として名を挙げた人は多いが、織田信益(信長の弟)もその一人で有楽斉と称した。彼の屋敷のあった宿院町東二丁を今でもオーラク(有楽)と呼んでいる。南坊宗啓は利休の弟子中の第一人者として嘱目されていたが、彼の居った集雲庵は南宗寺の東端にあったが、明治初年廃寺となった。山岡宗無、山上宗二など錚々たる利休の門下生も堺に住んでいたのだが遺跡として見るべきものはない。
 それほどに茶の湯の栄えた堺に今日茶室として見るべきものの残っていないのは惜しいことで、辛うじて南宗寺に近年再興された実相庵茶室に昔を偲ぶだけである。南宗寺に利休と紹鴎の木像のあることを附記しておく。
■この文章は堺商工会議所資料からコピーしたものです。
       
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