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★ 第2日目6/12(土) ラスベガス → グランドキャニオン ★ 1/2 |
午前6時過ぎ起床、ぐっすり眠れて時差ボケも感じさせない爽快な気分だ。 さあ、今日はグランドキャニオンまで今回のドライブで最長距離を走る日なので、早い目に出発しようと朝食も取らずに午前7時フラミンゴ・ホテルをチェックアウト。 昨日バレーパーキングした正面玄関で係員にチケットの半券を渡すと何処かに電話、4,5分して白いトヨタカムリがすっーと現われ、運転してきたおニイサンに2ドルのチップを渡す、昨日と違い早朝なので正面玄関もガラガラだ。 |
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スーツケースをトランクに積み込みもう一度操作・機器の点検をしてさぁ出発進行! ラスベガスから抜け出す道順についてはこの町を取り囲む3つのフリーウェイI-15、I-215、I-515のどこかの入口から入ってフリーウェイに乗りUS-93へ繋げなければならないが、その中でもトロピカーナ通りを東へ走り右折してI-515に合流するのが一番単純明快?かなと思われた。左の地図を見ればフラミンゴ通りを東に行ってI-515に進入すれば簡単にみえるが、その進入口が曲りくねっているのでやめた。 このためホテルからストリップ側には出ず反対方向に裏道を少し走り左折→フラミンゴ通りを東進、右折して→パラダイス通りを南へ→トロピカーナ通りを左折して東進という道順で走り、思っていたより簡単にフリーウェイ I-515 に合流出来た。この I-515 はUS-93 とも繋がっているので、I-515 に乗れたら後はフーバーダムまで一直線だ。 午前7時過ぎに出発としたのは朝の通勤ラッシュアワー前に、ラスベガスの町を出たかったからだが良く考えれば今日は土曜日、道理で通行量の多いとされるフラミンゴ、トロピカーナ通りもフリーウェイもガラガラでスイスイと走れた訳だ。朝食も取らずに走りだしたがこれならもう少し遅く出発してもよかったかな、家内には内緒だ。 |
![]() 今日のコース、ラスベガスからグランドキャニオン国立公園へ |
ラスベガスのホテルを出て、フリーウェイ I-515 US-93 に乗り南東へ走り、まず目指すはフーバーダム。 途中でフリーウェイもいつも間にか一般道となり、ボゥルダーシティで間違えるハズのない一本道で何を勘違いしたのか違う道に入って少しウロウロしたが標識を見て軌道修正。 ここから少し走ると直ぐに美しいミード湖Lake Meadの湖面が顔を覗かせてくれ、そして今度はフーバーダムHoover Damの巨大な姿が見えてくる。ここまで一時間もかからなかった、ここで小休止。 |
実はミード湖はフーバーダムによって出来た人造湖なのだ。 広さは琵琶湖の約2倍。貯水量は350億dといわれ、日本の全ての湖沼、ダムなどの合計貯水量をはるかに上回る。大きさは現在世界第27位だが、総貯水量は依然第1位と言われている。 |
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フーバーダムの名前は中学の地理か社会で習って知ったと思うがやはり現物を見ると感慨もひとしおだ。ところがこのダムは現在大型車通行禁止で厳重な監視の下に置かれている。 そうあの世界貿易センタービルと同じくアメリカを象徴するダムだからテロリストの標的になり易い訳だ。乗用車はフリーパスだったがトラック等は銃を持った軍服姿の男が荷物をチェックしていた。 このダムは、1929年10月のニューヨーク証券取引所の株価大暴落が引き金となって、アメリカ経済は大恐慌に陥り、これによって失業者は1200万人以上にも達し、社会不安が強まった。 |
この大恐慌からアメリカ経済を再生するために、当時の政権を担っていたフーバーに対して、1932年の大統領選に乗り出したのがルーズベルトである。彼は「ニューディール(新規まきなおし)」政策の実施を約束して国民の支持を集め当選した。 公共事業を不況対策の最重要施策に取り上げ、コロラド川の洪水防止と電力供給、治水、灌漑を目的として山岳と砂漠の境界地帯に、1931年建設を許可・着工。予定より2年早い1936年に完成し、ルーズベルト大統領の臨席を以て完成式典が執り行われた。毎日平均3,500人、最盛期には5,000 人の労働者が建設に従事し、96人の犠牲者のうえに完成したダムである。 ラスベガスは、元々インディアンの土地であったが、彼らを追い出してこのフーバーダムの建設工事で集められた労働者向けの町が作られ、そしてあまりの過酷な労働のため逃げ出すのを繋ぎ止めるため、酒、賭博、売春を解禁したのがラスベガスであったという。ダム完成後は豊富な電気と水のおかげで砂漠のど真中に不夜城のごとくネオン煌く華やかなラスベガスの町が出現したのである。 |
フーバー・ダムの上は US-93 の道路、通り過ぎればもうアリゾナ州。赤茶けた山道を下り平地になれば片側2車線の立派な道路になる。周りは荒地でその中を
US-93 は一直線に延々とキングマンまで続く道となっている。 車も少なく前後の視野に一台の車の姿も映らないときが多く、何か別世界に紛れ込んだような感じ、日本では想像すらできないような光景だ。 トヨタ・カムリにはオートクルーズ(自動巡航装置)が付いているので早速オンにして制限速度の65マイル(約105Km)に設定する。日本では聞いたことはあっても見たことも触ったこともない機器だが、要は速度を一定に設定すると、アクセルペダルを放していても山道でも坂道でも自動的に設定した速度で走ってくれる優れものの機器である。 |
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この装置はその後あちこちで活用したが、広いアメリカでは車に必須のものであることがよくわかった。 フーバーダムからキングマンまで約1時間10分。キングマンで朝食の予定だったがこのカムリの乗り心地の良さ、安定性、高速走行時の静かさに、疲れも感じずこのままセリグマンまで一気に行くことにした。 キングマンでフリーウェイ I-40 に合流し東進、セリグマンまで約70マイル、 I-40 の制限速度が時速75マイル(120Km)だから約1時間だ。途中の風景も代わり映えしない赤茶けた殺風景な荒野の連続だが、アメリカの国土の広さをつくづく見せつけられているようだ。 |
セリグマンまでオートクルーズを制限速度の75マイルに設定して走り続けるが、殆どの車はそれ以上のスピードで追い越していく。日本では時速120Km以上で走ることなんか滅多にないがフリーウェイの道路事情の良さ、車の少なさ、周りの単調な風景に120Kmで走っていても、全然スピード感がなく時速75マイルが時速70〜80Kmぐらいにしか感じない。 午前10時半ごろインターステート I-40 を出口121で降りてセリグマンの町へ向かう、と言っても4、5分ほどで着く。 1926年11月、ロスアンゼルスとシカゴを結ぶ全長2448マイル(約3920km)の大陸横断道路ルート66が開通した。東西を結ぶ一大幹線道路として発展The Mother Road、The Main Street of America などとも呼ばれていた。50年代にはこのフリーウェイを舞台としたTVドラマ“ルート66”が大流行。日本でも放映されナットキングコールが歌う主題歌の”Get your kicks on Route 66” と共に大ヒットとなった。ルート66は我々の世代には郷愁を感じさせる名前だ。 現在はインターステートが発達したためこのルート66も分断され、廃道になったり地方道として辛うじて生き残っている。その中でもキングマンからセリグマンの間には旧ルート66が往時のまま残っておりヒストリックルート66として親しまれている。 セリグマンの町もルート66と同様寂れた、良く言えば落ち着いた静かな田舎町だ。古びたキャデラック、レストラン、ガソリンスタンド、看板、モーテルなど旧ルート66当時のまま保存・展示されている。 |
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午前11時前このセリグマンの町のちょっと古びたレストランで朝食兼昼食を取る。 注文はメニューの目立つところに書いていた“Famous Route 66 Copper Cart Sizzler 1/2 Ib Broiled Black Angus Beef steak”。どんな料理が出てくるのかと思ってたら「おいおい!何の変哲もないただのビーフステーキじゃないか!」。この他“ROUTE 66 SPECIAL BREAKFAST”“ROUTE 66 BURGER”とやたらRoute 66 が付いた料理の名前が目立つ。 |
![]() セリグマンの町の東の外れの旧ルート66 |
食事後ルート66グッズを求めてギフトショップで買い物、そしてセリグマンの町とも別れヒストリックルート66を東へ30分ほど走る。セリグマンの町を出ると別段これといったものは何もなく左の写真のようなごく普通のうねうねとした田舎道が続く。 写真前方にサンタフェ鉄道の線路があり貨物列車が貨車を連結して走っていたがその100台ぐらいはあろうかという長い長い貨物列車であった。 元のフリーウェイ I-40 に近づいた入口139で再びインターステートに合流、一路ウイリアムズを目指してまた制限速度の75マイルで走行。 |
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