漢書地理志 粤地(越地)


 

漢書地理志粤地(越地)


粤地牽牛婺女之分壄也 今之蒼梧鬱林合浦交阯九眞南海日南皆粤分也
「越地は牽牛、婺女の分野なり。今の蒼梧、鬱林、合浦、交阯、九眞、南海、日南はみな越の分なり。」

「越地は牽牛と婺女(中国星宿)の分野である。今の蒼梧、鬱林、合浦、交阯、九真、南海、日南郡はことごとく越の領域である。」


其君禹後帝少康之庶子云封於会稽文身斷髪避㠯蛟龍之害 後二十世至句踐稱王與呉王闔廬戦敗之雋李 夫差立 句踐乗勝復伐呉 呉大破之棲會稽臣服請平 後用范蠡大夫種計遂伐滅呉幷其地 度淮與齊晋諸侯會致貢於周 周元王使使賜命為伯 諸侯畢賀 後五世為楚所滅 子孫分散君服於楚
「その君は、禹の後なり。帝少康の庶子が会稽に封ぜられ、文身断髪し、以って蛟龍の害を避くと云う。後二十世、勾踐に至る。王を称し、呉王、闔廬と戦ひ、これを雋李に敗る。夫差立つ。勾踐は勝ちに乗じてまた呉を伐つ。呉はこれを大破す。会稽に棲み臣服して平を請ふ。後、范蠡、大夫種を用ひて計り、遂に呉を伐ち滅ぼし、その地を并す。淮を度り、斉、晋、諸侯と会し、周に貢ぎを致す。周、元王は使を使わし、賜い命じて伯と為す。諸侯はことごとく賀す。後、五世、楚の滅ぼす所と為る。子孫は分散し、君となり楚に服す。」

「その主君は禹の後裔で、(夏の)帝少康の庶子が会稽に封じられ、入れ墨して、髪を切り、蛟龍の害を避けたという。後、二十世、句踐に至って王を称し、呉王、闔廬と戦い、これを雋李に破った。(闔廬の子)夫差が立ち、句踐は勝ちに乗じて再び呉を伐った。呉はこれを大破し、(句踐は)会稽山に追い詰められ、臣服して和平を求めた。後、范蠡と大夫、種の計略を用い、遂に呉を伐ち滅ぼして、その地を併せた。淮水を渡り、斉や晋、諸侯と会し、周に貢を届けた。周の元王は使者を出し、命じて伯の位を賜った。諸侯はことごとく祝賀した。後五世で楚が滅ぼすところとなる。子孫は分散し、君になって楚に服従した。」

 越王勾踐や呉王夫差が活躍したのは会稽より北で、この地理志の分類では呉地に当たるが、越ということで、無関係にここに記してある。


後十世至閩君搖佐諸侯平秦 漢興復立搖為粤王 是時秦南海尉趙佗亦自王傳國 至武帝時盡滅㠯為郡 云處近海多犀象毒冒珠璣銀銅果布之湊 中國往商賈者多取富焉 番禺其一都會也
「後十世、閩君搖に至り、諸侯を佐け秦を平らぐ。漢、興り、また搖を立て越王と為す。この時、秦の南海尉、趙佗はまた、自ら王して国を傳ふ。武帝の時に至り、盡くを滅ぼし、以って郡と為す。云う所の近海は犀、象、毒冒、珠、璣、銀、銅、果、布の湊多し。中国の商賈に往く者、多くは富を取る。番禺はその一都会なり。」

「後十代で、閩君(騶)搖に至り、諸侯を助けて秦を平らげた。漢が興り、搖を復活して立て越王と為した。この時、秦の南海郡の尉、趙佗はまた自ら王となって国を伝えた。武帝の時に至り、ことごとく滅ぼして郡と為した。言う所の近海は犀、象、タイマイ、丸い真珠、丸くない真珠、銀、銅、果物、布の集積が多い。中国人で商売に行った者の多くは財産をつかんでいる。番禺はその一都会である。」

 閩越も漢書地理志の分類では呉地に入る。秦の官吏、趙佗が建てた南越とその西・南方が粤地の領域である。南越王の陵墓が発掘されており、そこから出土した玉璧は、日本の串間市、王の山古墳出土と伝えられる玉璧(前田育徳会藏)のパターンに酷似している。その解説は「王の山古墳出土の玉璧」へ。


自合浦徐聞南入海得大州 東西南北方千里 武帝元封元年略為儋耳珠厓郡 民皆服布如單被穿中央為貫頭 男子耕農種禾稻紵麻 女子桑蠶織績 亡馬與虎 民有五畜 山多麈麖 兵則矛盾刀木弓弩竹矢或骨鏃 自初為郡縣吏卒中國人多侵陵之故率數歳壹反 元帝時遂罷弃之
「合浦、徐聞より、南、海に入り大州を得る。東西南北方千里なり。武帝元封元年、略して儋耳珠崖郡と為す。民はみな単被の如き布の中央を穿ち、貫頭を為し服す。男子は耕農し、禾稲、紵麻を種ふ。女子は桑蚕し織績す。馬と虎無し。民は五畜あり。山は麈麖多し。兵は則ち矛、盾、刀、木弓、弩、竹矢は或いは骨鏃なり。初め、郡県となりてより、吏卒の中国人これを侵陵すること多し。故に、率は数歳に一で反す。元帝の時、遂にこれを罷弃す。」

「合浦の徐聞から南、海に入り、大きな島を得た。東西南北は方千里。武帝の元封元年、領有して、儋耳、朱崖郡と為した。住民は、皆、被り布団のような布の中央に穴をあけ、頭を入れて着ている。男子は稲類やカラムシを種まいて農耕する。女子は桑で蚕を飼い布を織る。馬と虎はいない。住民には五種(牛、羊、豚、ニワトリ、犬)の家畜がいる。山は大鹿や小鹿が多い。兵器には矛、盾、刀、木の弓、弩、竹の矢とか骨の鏃がある。初めて郡県と為して以来、官吏や兵卒の中国人の領域荒らしが多かったため、数年に一度の割合で叛いた。元帝の時、遂にこの島を放棄した。」


自日南障塞徐聞合浦船行可五月有都元國 又船行可四月有邑盧沒國 又船行可二十餘日有諶離國 歩行可十餘日有夫甘都盧國 自夫甘都盧國船行二月餘有黄支國 民俗略與珠厓相類 其州廣大戸口多 多異物 自武帝㠯來皆獻見
「日南、障塞、徐聞、合浦より、船行およそ五月にして都元国あり。また、船行およそ四月にして邑盧没国あり。また、船行およそ二十余日にして諶離国あり。歩行およそ十余日にして夫甘都盧国あり。夫甘都盧国より船行二月余にして黄支国あり。民俗はほぼ珠崖と相類す。その州は広大にして戸口が多く、異物多し。武帝より以来、みな献見す。」

「日南、障塞、徐聞、合浦から船でおよそ五ヶ月行くと都元国がある。また船で四ヶ月ほど行くと邑盧没国がある。また船で二十余日ほど行くと諶離国がある。歩いて十余日ほど行くと夫甘都盧国がある。夫甘都盧国から船で二ヶ月あまりで黄支国がある。風俗はほぼ朱崖と同じようなものである。その島は広大で、戸数が多く、変わったものが多い。武帝より以来、皆、貢いで姿を見せている。」


有譯長屬黄門與應募者倶入海市明珠璧流離奇石異物齎黄金雜繪而往 所至國皆稟食為耦 蠻夷賈船轉送致之 亦利交易剽殺人又苦逢風波溺死 不者數年來還 大珠至圍二寸㠯下
「黄門に属す訳長と応募者ありて、倶に海に入り、明珠、璧、流離、奇石、異物を市し、黄金、雑絵を齎(もたら)して往く。国に至る所はみな食を稟(さず)け、耦を為す。蛮夷賈船が転送してこれを致す。また利、交易は人を剽殺す。また風波に逢い苦しみ溺死す。不者は数年にして還り来たる。大珠は囲二寸に至りて、以って下とす。」

「黄門(官名、所属者は宦官)に属す通訳の長と応募者があり、ともに海に入って明珠、璧、瑠璃、奇石、異物を交易し、黄金やさまざまな絵を持って行った。国に至ったところは、みな、食料を供給し、女性を配偶させ、蛮夷の商船が転送してこれを届けた。また、利と交易は人を脅かし殺しもする。また風波にあい苦しみ溺死したりする。そうでない者は數年で帰り来た。大珠は周囲二寸に至っても下級品である。」


平帝元始中 王莽輔政 欲燿威徳 厚遺黄支王 令遣使獻生犀牛 自黄支船行可八月到皮宗 船行可八月到日南象林界云 黄支之南有已程不國 漢之譯使自此還矣
「平帝、元始中、王莽が政を輔す。威徳を耀かしめんと欲し、黄支王に厚遺し、遣使せしめ、生犀牛を献ぜしむ。黄支より船行八月ほどで皮宗に到る。船行八月ばかりで日南、象林界へ到ると云ふ。黄支の南に已程不国あり。漢の訳使はここより還る。」

「平帝の元始中、王莽が政治を補佐した。威徳を輝かさんと欲し、黄支王に手厚く贈り物し、遣使を求め、生きた犀と牛を献じさせた。黄支より船で八ヶ月ほど行くと皮宗に到る。船で八ヶ月ほど行くと日南、象林の境界へ到るという。黄支の南に已程不国がある。漢の通訳、使者はここから引き返した。」