宗学研鑽
安居会読論題
令和四年 綜理
本講 普賢保之 『選択本願念仏集』
副講 宗乗 井上善幸 『末灯鈔』
副講 余乗 東光爾英 『勝鬘獅子吼一乗大方便方広経』
典議 武田晋
論題 ①正定滅度 ②本願一乗 ③廃助傍義
令和三年 綜理
本講 武田宏道 『往生要集』
副講 宗乗 殿内了恒 『尊号真像銘文』
副講 余乗 藤丸了要 『華厳法界義鏡』
典議 松尾宣昭
論題 ①報化二土 ②称名報恩 ③輪廻転生
令和二年 安居中止
令和元年 綜理
本講 相馬一意 『仏説無量寿経』
副講 宗乗 川添泰信 『選択集解鈔』
副講 余乗 楠淳證 『唯識論尋思鈔』
典議 佐々木義英
論題 ①行一念義 ②十二光義 ③信心仏性
平成三十年 綜理 内藤知康
本講 大田利生 『仏説阿弥陀経』
副講 宗乗 福井智行 『三部経大意』
副講 余乗 能仁正顕 『般舟三昧経』
典議 安藤光慈
論題 ①往還分斉 ②准知隠顕 ③一心五念
平成二十九年 綜理 内藤知康
本講 森田真円 『観経玄義分』
副講 宗乗 殿内了恒 『浄土三経往生文類』
副講 余乗 内藤昭文 『大乗荘厳経論無量章』
典議 満井秀城
論題 ①六字釈義 ②三往生義 ③是報非化
平成二十八年 綜理 内藤知康
本講 浅田恵真 『般舟三昧行道往生讃』
副講 宗乗 松尾宣昭 『浄土真要鈔』
副講 余乗 宇野恵教 『大智度論釈発趣品』
典議 普賢保之
論題 ①念仏為本 ②不来迎義 ③聖道権実
平成二十七年 綜理 浅田恵真
本講 深川宣暢 『浄土文類聚鈔』
副講 宗乗 森田眞円 『観経疏序分義』
副講 余乗 東光 『不増不減経』
典議 武田正晋
論題 ①歓喜初後 ②法界身義 ③三法四法
平成二十六年 綜理
本講 内藤知康 『顕浄土真実信文類』
副講 宗乗 佐々木義英 『入出二門偈頌』
副講 余乗 藤丸了要 『華厳宗要義』
典議 殿内了恒
論題 ①信一念義 ②十八願体 ③聖浄二門 ④
平成二十五年 綜理
本講 相馬一意 『往生論註』
副講 宗乗 武田正晋 『選択本願念仏集』
副講 余乗 武田宏道 『入阿毘達磨論』
典議 安藤光慈
論題 ①十念誓意 ②起観生信 ③選択本願 ④
平成二十四年 綜理 徳永一道
本講 大田利生 『観経正宗分散善義』
副講 宗乗 深川宣暢 『一念多念文意』
副講 余乗 本多至成 『雑宝蔵経』
典議 佐々木義英
論題 ①正定滅度 ②読経意趣 ③発遣招喚 ④
平成二十三年 綜理
本講 林 智康 『顕浄土真実信文類』
副講 宗乗 安藤光慈 『唯信鈔文意』
副講 余乗 相馬一意 『大乗起信論』
典議 満井秀城
論題 ①信心正因 ②転教口称 ③悉有仏性 ④
平成二十二年 綜理 霊山勝海
本講 北塔晃陞 『仏説観無量寿経』
副講 宗乗 川添泰信 『高僧和讃』
副講 余乗 楠 淳證 『心要鈔』
典議 大田利生
論題 ①二種深信 ②三経隠顕 ③難易二道 ④
平成二十一年 綜理 霊山勝海
本講 内藤知康 『顕浄土真実行文類』
副講 宗乗 満井秀城 『安心決定鈔』
副講 余乗 内藤昭文 『大乗荘厳経論菩提品』
典議 普賢保之
論題 ①機法一体 ②大行名体 ③本願一乗 ④
平成二十年 綜理 北畠典生
本講 淺田恵真 『往生要集』
副講 宗乗 深川宣暢 『往生論註』
副講 余乗 宇野恵教 『華厳経』
典議 森田真円
論題 ①称名報恩 ②要集三例 ③広略相入 ④
平成十九年 綜理 北畠典生
本講 梯 實圓 『化身土文類』
副講 宗乗 大田利生 『仏説無量寿経』
副講 余乗 武田宏道 『倶舎論』
典議 林 智康
論題 ①三心一心 ②出世本懐 ③正助二業 ④仏教と平和
平成十八年 綜理 深川倫雄
本講 北畠利親 『阿弥陀経』
副講 宗乗 普賢保之 『尊号真像銘文』
副講 余乗 本田至成 『法句譬喩経』
典議 高田慈昭
論題 ①念仏為本 ②執持名号 ③逆謗除取 ④仏教と平和
平成十七年 綜理 深川倫雄
本講 中西智海 『真仏土文類』
副講 宗乗 森田眞円 『観念法門』
副講 余乗 相馬一意 『究竟一乗宝性論』
典議 五十嵐大策
論題 ①六字釈義 ②報化二土 ③願海真仮 ④安楽死
平成十六年 綜理 普賢晃寿
本講 宇野順治 『讃阿弥陀仏偈』
副講 宗乗 林 智康 『愚禿鈔』
副講 余乗 北塔晃陞 『菩薩戒経』
典議 深川宣暢
論題 ①機法一体 ②十劫久遠 ③覈求其本 ④脳死・臓器移植
平成十五年 綜理 普賢晃寿
本講 徳永一道 『浄土文類聚鈔』
副講 宗乗 高田慈昭 『三経往生文類』
副講 余乗 淺田恵真 『天台四教儀』
典議 内藤知康
論題 ①往還分斉 ②三法四法 ③三往生義 ④脳死・臓器移植
平成十四年 綜理 普賢晃寿
本講 渡邊隆生 『安楽集』
副講 宗乗 五十嵐大策 『御消息』
副講 余乗 北塔晃陞 『菩薩戒義疏』
典議 中西智海
論題 ①指方立相 ②平生業成 ③一念多念 ④念仏観仏
平成十三年 綜理 武内紹晃
本講 稲城選恵 『正信念仏偈』
副講 宗乗 林 智康 『歎異抄』
副講 余乗 五十嵐明寶 『五会念仏法事讃』
典議 紅楳英顕
論題 ①信疑決判 ②聖浄二門 ③正定滅度 ④願海真仮
平成十二年 綜理 武内紹晃
本講 霊山勝海 『末灯鈔』
副講 宗乗 五十嵐大策 『尊号真像銘文』
副講 余乗 宇野順治 『大智度論』
典議 内藤知康
論題 ①行一念義 ②選択本願 ③悪人正機 ④真如法性
平成十一年 綜理 武邑尚邦
本講 浅野教信 『行文類』
副講 宗乗 内藤知康 『安楽集』
副講 余乗 淺田恵真 『末法灯明記』
典議 中西智海
論題 ①信心正因 ②大行名体 ③光号因縁 ④追善回向
平成十年 綜理 武邑尚邦
本講 梯 實圓 『一念多念証文』
副講 宗乗 藤澤桂珠 『浄土文類聚鈔』
副講 余乗 渡邊隆生 『唯識論』
典議 徳永一道
論題 ①信一念義 ②称名破満 ③機法一体 ④逆謗除取
平成九年 綜理 武邑尚邦
本講 秀野大衍 『教文類』
副講 宗乗 中西智海 『唯信鈔文意』
副講 余乗 北塔晃陞 『優婆塞戒経』
典議 山田行雄
論題 ①聞信義相 ②平生業成 ③出世本懐 ④他力義趣
平成八年 綜理 赤山得誓
本講 北畠利親 『観無量寿経』
副講 宗乗 徳永一道 『正像末和讃』
副講 余乗 宇野順治 『大般涅槃経』
典議 紅楳英顕
論題 ①正定業義 ②往還回向 ③発遣招喚 ④勘決邪偽
平成七年 綜理 赤山得誓
本講 渡邊顯正 『正信念仏偈』
副講 宗乗 紅楳英顕 『三経往生文類』
副講 余乗 渡邊隆生 『唯識三十論頌』
典議 霊山勝海
論題 ①信疑決判 ②即得往生 ③三往生義 ④悪人正機
平成六年 綜理 赤山得誓
本講 深川倫雄 『散善義』
副講 宗乗 山田行雄 『六要鈔信巻』
副講 余乗 梯 實圓 『玄義分抄』
典議 浅野教信
論題 ①二種深信 ②転教口称 ③古今楷定 ④宗名義趣
平成五年 綜理 赤山得誓
本講 中尾俊博 『玄義分』
副講 宗乗 霊山勝海 『西方指南抄』
副講 余乗 浅野教信 『西方要決』
典議 山田行雄
論題 ①彼此三業 ②指方立相 ③正助二業 ④所帰人法
平成四年 綜理 赤山得誓
本講 北畠典生 『往生要集』
副講 宗乗 山田行雄 『入出二門偈』
副講 余乗 五十嵐明寶 『十住毘婆沙論』
典議 梯 實圓
論題 ①信願交際 ②要集三例 ③一心五念 ④往生意義
平成三年 綜理 石田充之
本講 普賢晃寿 『証文類』
副講 宗乗 寺山文融 『御消息』
副講 余乗 北畠利親 『中論頌』
典議 霊山勝海
論題 ①信一念義 ②正定滅度 ③広略相入 ④一益法門
平成二年 綜理 石田充之
本講 加茂仰順 『信文類』
副講 宗乗 浅野教信 『法事讃』
副講 余乗 北畠典生 『華厳法界義鏡』
典議 日野振作
論題 ①三心一心 ②十念誓意 ③三願転入 ④真如法性
平成元年 綜理 瓜生津隆雄
本講 灘本愛慈 『行文類』
副講 宗乗 深川倫雄 『序分義』
副講 余乗 渡辺文麿 『遊行経』
典議 普賢晃寿
論題 ①六字釈義 ②即得往生 ③顕彰隠密 ④罪悪意義
令和元年 判決
【行一念義】 判決 令和元年
一、題 意
初一声の称名に大利を得るという意をうかがい、選択本願の念仏は、諸行に比して至易最勝の法であることを明らかにする。
二、出 拠
「行文類」行一念釈の文、『一念多念文意』付属釈の文、「親鸞聖人御消息」の文等。
三、釈 名
行一念の行とは、造作・進趣の意である。行とは、衆生の往生・成仏のための万行円備の造作の徳を具し、仏果に至らしめる進趣のはたらき、すなわち法体名号を指す。
また、行一念の一は、遍数の意で初一をあらわし、行一念の念は、称念の意で声をあらわす。したがって、一念とは、名号を信受し、それが声となってあらわれた初一声を指す。
なお、一念には、専一をあらわす行相の意もあるが、本論題では遍数の意を主とする。
四、義 相
一、『大経』所説の「一念」の分斉
『大経』所説の往因に関する「一念」は、本願成就文(以下「成就文」と略称)、三輩段の文、付属の文にある。源空聖人は『選択集』利益章で付属の一念について、
いまこの一念といふは、これ上の念仏の願成就のなかにいふところの一念と下輩のなかに
明かすところの一念とを指すなり。(一・一二八一)
等と示し、三ヶ所をすべて行の一念とみられる。
宗祖は、成就文の「一念」を、
あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめた
まへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(二・六八)
と読まれ、それは受法得益同時の唯信独達の宗義をあらわしているとして、信の一念であると みられる。また、三輩段の「一念」は、真仮分判の立場から「化身土文類」に第十九願成就文 とされている。一方で「信文類」菩提心釈に「みな無上菩提の心を発せざるはなし」(二・九 二)と引かれて他力の信心の意とみられるなど、真仮に通じる釈を施されるから一文両義であ る。そして、付属の「一念」は、
当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもって哀愍して、特にこの経を留めて止住するこ
と百歳せん。(一・六九)
とある経意を承けて、行の一念とみられる。
この他、歴代では、覚如上人は『口伝鈔』第二十一条に信の一念の出拠として成就文並びに 付属の文を挙げ、また、蓮如上人は、付属の文を『御文章』第五帖第六通に挙げ、「正像末和 讃」に「五濁悪世の有情の選択本願信ずれば」とある句を示して信の一念とみられる。
このように、三輩段を除いて、成就文と付属の文の「一念」は、行信いずれにも通じる。し かしながら、それぞれの特徴を挙げて論ずれば、成就文の「一念」は、受法得益同時の初帰の 相状をあらわしているから、信の一念とみる方が親しく、付属の「一念」は、「歓喜踊躍」と 相続の行相を示し、行行相対して廃立の意をあらわしているから、行の一念とみる方が親しい。
二、遍数の一念の意
行一念釈には「称名の遍数について選択易行の至極を顕開す」(二・四九)とある。先ず、遍数の意について窺うと、『安楽集』の十念相続釈では、十念の十にとらわれる必要はないとして、初一声のところで業道成弁せしめられる意をあらわし、第二声以後のすべてに名号の全徳がそなわると示されている。また『選択集』の利益章では、「すでに一念をもって一無上となす」「また千念をもって千無上となす」(一・一二八一)とあり、初一声のところで無上大利を得る意をあらわし、「かくのごとく展転して少より多に至る」(同)と示される。これらは一多に執じてはならないことをあらわし、「乃至一念」の「乃至」に即した従少向多の意である。したがって「一念」は、初一声から第二声以後にかかるから、初後を選ばない。しかしながら、行一念釈に、
大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知ん
ぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。(二
・五〇)
と示し、また「化身土文類」の門余の釈に、
門余といふは、門はすなはち八万四千の仮門なり、余はすなはち本願一乗海なり。(二・ 一九六)
と示されるのは、行行相対の経意を承けた釈であり、それは諸善を積み重ねる小利有上の仮門すなわち聖道門・要門、ならびに真門の法を廃し、初一声のところに無上大利の益を得るという誓願一仏乗の意を立てることにある。したがって、就顕の意は、初一声に「ついて」、「選択易行の至極」すなわち衆生の造作を必要としない法体名号の独用を「顕開」するということである。
次に、衆生の造作を必要としないという点から窺うと、行一念釈で「乃至」に一多包容の釈を施して一念も多念も信相続の行業として包み容れると釈し、称功を募るものではないと示される。また『一多文意』の付属釈には「乃至は、称名の遍数の定まりなきことをあらはす」(二・六六八)とあり、
自然にさまざまのさとりをすなはちひらく法則なり。法則といふは、はじめて行者のはか
らひにあらず、もとより不可思議の利益にあづかること、自然のありさまと申すことをし
らしむるを法則とはいふなり、一念信心をうるひとのありさまの自然なることをあらはす
を、法則とは申すなり。(二・六六九)
と示される。すなわち「もとより不可思議の利益」を得しめる「自然」の「法則」とは法体名号の独用であり、「はじめて行者のはからひにあらず」と釈される。したがって、ここに機受無作の易行の意を窺うことができる。
そして、法体名号の独用という点から窺うと、『往生礼讃』には「この経住すること百年せん。その時聞きて一念せんに、みなまさにかしこに生ずることを得べし」(一 ・九二七)と釈して、初一声のところに往生・成仏の功徳がそなわると示されている。また『一多文意』には、
一念は功徳のきはまり、一念に万徳ことごとくそなはる、よろづの善みなをさまるなり。
当知此人といふは、信心のひとをあらはす御のりなり。為得大利といふは、無上涅槃をさ
とるゆゑに、則是具足無上功徳とものたまへるなり。則といふは、すなはちといふ、のり
と申すことばなり。如来の本願を信じて一念するに、かならずもとめざるに無上の功徳を
得しめ、しらざるに広大の利益を得るなり。(二・六六八)
とある。その意は、初一声のところに万徳がそなわっているということであり、それは「かならずもとめざるに無上の功徳を得しめ」「しらざるに広大の利益を得」しめるはたらきがそなわっているということである。したがって、ここに法体名号の独用で無上大利を得しめられるという至極最勝の意を窺うことができる。
三、行相の一念の意
行一念釈には、遍数の釈に続いて、
釈に専心といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。専念といへるはすなは
ち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一
声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行
すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなは
ちこれ南無阿弥陀仏なり。(二・五〇)
と釈し、行相の一念を示されている。このうち「専心」とは無二心の意で心相をあらわし、「専念」とは、無二行の意で行相をあらわしている。続いて「一声・一念・一行・正行・正業」と転釈して、付属の一念は余行をまじえない無二の行業であることをあらわし、また「正念・念仏・南無阿弥陀仏」と転釈して、それは信相続の行業であり、法体名号の活動相であることをあらわされる。すなわち、行信不離不二の意を示されるのである。
四、信の一念と行の一念の関係
行相の釈に行信不離不二の意を示されているが、「親鸞聖人御消息」には、
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信
の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すこ
とをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、
疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこ
ゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行
なしとおぼしめすぺし。(二・七四七、七九三)
とあり、信相・行相を釈して、行信不離の意を示される。しかしながら、時を語れば、時剋の釈では、信の一念は、信楽開発の即時に仏因円満するという唯信独達の宗義をあらわし、遍数の釈では、行の一念は、初一声のところで為得大利の徳用を示して法体名号の至易・最勝なることをあらわすから、法体名号が衆生心中に領受された最初の時を信の一念といい、それが初一声となるところを行の一念というのである。したがって、信の一念は前、行の一念は後であり、前後不離の関係となる。
[十二光義] 令和元年 判決
一、題 意
阿弥陀仏の果徳である十二光の意をうかがい、これらは無碍光を中心とする衆生摂化のはたら き、すなわち名号の徳義を表したものであることを明らかにする。
二、出 拠
第十二願成就文、『讃阿弥陀仏偈』・『述文賛』・『弥陀如来名号徳』・『正信偈大意』の釈文等。
三、釈 名
十二光の十二とは、数の意であり、『大経』(魏訳)所説の光明の徳義の数をあらわす。なお「真 仏土文類」では、異訳大経『如来会』(唐訳)の文を挙げ十五を数える。この他『荘厳経』(宋訳)では十三を挙げる。しかしながら、光明の徳義は無数であり、それをあらわす数には開合があるか ら、今は正依大経の数に依る。また十二光の光とは、阿弥陀仏の光明の意である。
したがって、十二光とは光明の徳義を十二として示したものであるが、それらは一つの光明の 徳用であり、十二の光があるという意ではない。そして、十二光は衆生済度の本源である弥陀の 覚体であり、衆生をして往生・成仏せしめる「真実功徳」であるから、「誓願の尊号」すなわち 名号の徳義を十二の異名であらわしたものという意である。
四、義 相
一、光寿二無量の意
光寿二無量は「真仏土文類」の標挙に光明無量・寿命無量の願名を挙げ、真仏土釈に「すな はち光明・寿命の願これなり」(二・一五五)と示して以下に二願を引証されるように、弥陀 の覚体をあらわす。すなわち、光明無量は横超十方の徳用を示し、寿命無量はそのはたらきが 三世竪徹することを示す。また『仏説阿弥陀経』(以下『小経』と略称)の名義段には、
舎利弗、なんぢが意においていかん。かの仏をなんがゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、か
の仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥
陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祗劫なり。ゆゑに阿弥
陀と名づく。(一・一〇七)
と説かれる。このうち、「十方の国を照らすに障碍するところなし」とは、往生の因をなす徳 用をあらわし、「かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祗劫なり」とは、往生の果をな す徳用をあらわす。同じく『往生礼讃』には、『小経』と『仏説観無量寿経』の真身観の「一 々の光明は、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らし、摂取して捨てたまはず」(一・八七) の文を合して、
かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障碍するところなし。ただ念仏の衆生を観そ
なはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。かの仏の寿命お
よびその人民も無量無辺阿僧祗劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。(一・九一七)
と示されている。すなわち、光寿二無量の弥陀正覚の果体は、そのまま衆生済度の本源となるという意をあらわされているのである。さらに「玄義分」には、
法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへ
り。一々の願にのたまはく、もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわ
が国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。(一・六七
四)
とあり、阿弥陀仏は、総じて四十八願に酬報した仏身であるが、第十八願に帰結させて示されている。また「親鸞聖人御消息」には、
第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましま
さぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。(二・七四四、七七
一、七八〇、七八二)
とあり、本願成就の果体は阿弥陀仏であるといわれるのであるから、光寿二無量の弥陀正覚の果体は、そのまま衆生摂化の徳用となっているという意である。その衆生摂化の徳用を「尽十方無碍光如来」であると示されるのは、『浄土論』の帰敬頌に「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」(一 ・四三三)とある意を承け、願心荘厳の「真実功徳」を「尽十方無碍光如来」と示し、その徳用を無碍光に摂められているからである。
二、光明と名号の関係
真仏土釈には「仏はすなはちこれ不可思議光如来」(二・一五五)とあり、寿命の体を光明の用に摂して弥陀の覚体を「不可思議光」と示し、「行文類」には「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」(二・一五)とあり、衆生をして往生・成仏せしめる名号を「無碍光」と示される。これらは一つの光明の徳義をあらわしたものであるから、弥陀の覚体をあらわす光明は、そのまま衆生をして往生・成仏せしめる名号の徳義をあらわすということである。この光明と名号の関係を窺うと、『往生論註』の讃嘆門釈には、
この光明は十方世界を照らしたまふに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除
く(中略)かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願
を満てたまふ。(一 ・四八九)
と釈し、光明の破徳と名号の破闇満願の徳用を併せて示されている。また「行文類」両重因縁釈には『往生礼讃』の光号摂化の文意を承け、
徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。
能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信
の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和
合して報土の真身を得証す。(二・四九)
とある。その意は、「能生の因」としての「徳号の慈父」も、「所生の縁」としての「光明の悲母」も、ともに仏果である「報土の真身を得証」せしめる徳用があるということである。
このうち、光明については、第十二願成就文に「この光に遇ふものは、三垢消滅し身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず」「至心不断なれば」「その国に生ずることを得」(一 ・三四)とあり、信心を開発・相続して得生せしめる徳用があると示される。また、名号については、第十八願成就文に「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」「かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」(一・四三)と、受法・得益同時を示し、「行文類」には「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」(二・一九)と釈し、所称の名号に破闇満願の徳用があると示されている。したがって、光明と名号は不二であり、弥陀の覚体をあらわす光明は、そのまま衆生をして往生・成仏せしめる名号の徳義をあらわすということである。
三、十二光の徳用
先ず、十二光の徳用を概観すると、はじめの無量光から無称光までは光徳の直顕であり、超日 月光は光徳の譬顕である。光徳の直顕の内、無量光と無辺光は衆生摂化の体徳をあらわし、無碍 光は以下の八光の総相として衆生摂化の徳用をあらわす。なお、徳用をあらわす無碍光は、体徳 をあらわす無量光と無辺光を摂して十二光の総相ともなる。そして、衆生摂化の徳用の内、無対 光と光炎王は迷いの因果を破す破徳をあらわし、清浄光・歓喜光・智慧光・不断光と、難思光・
無称光は、さとりの因果となる満徳をあらわす。このうち、清浄光・歓喜光・智慧光・不断光は 信心を開発し相続する徳用をあらわし、難思光・無称光は往生・成仏せしめる徳用をあらわす。
次に、それぞれの徳用について簡潔に窺うと、一、無量光とは『讃弥陀偈』(一・五三五)に 「智慧の光明量るべからず」「有量の諸相光暁を蒙る」とあり、『大意』(五・八)に「利益の長 遠なることをあらはす、過現未来にわたりてその限量なし」と釈されるように、無明の闇を破す 無量の智徳をあらわし、その照益が三世竪徹する意をあらわす。
二、無辺光とは『讃弥陀偈』に「解脱の光輪限斉なし」「光触を蒙るもの有無を離る」とあり、 『大意』に「照用の広大なる徳をあらはす、十方世界を尽してさらに辺際なし」と釈されるよう に、有無の邪見を離れしめる断徳をあらわし、その照用が横超十方にわたる意をあらわす。
三、無碍光とは『讃弥陀偈』に「光雲無碍にして虚空のごとし」「一切の有碍光沢を蒙る」と あり、『名号徳』(二・七三一)に「ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふ」「有情
の煩悩悪業のこころにさへられずまします」と釈されるように、智断の二徳を体として一切を自 在に潤す恩徳をあらわし、迷いの因果を破してさとりの因果となる徳用をあらわす。
四、無対光とは『大経』(一 ・三三)に「諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり」とあ り、『讃弥陀偈』に「清浄の光明対あることなし」「この光に遇ふもの業繋除こる」と釈されるよ うに、迷いの因を滅する破徳をあらわし、その徳用に対する光明はないという意をあらわす。
五、光炎王とは『大経』に「三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息 を得てまた苦悩なし」とあり、『讃弥陀偈』に「仏光照曜すること最第一なり」「三塗の黒闇光啓 を蒙る」と釈されるように、迷いの果を滅する徳用をあらわし、その光明は無上であるという意 をあらわす。
六、清浄光とは、『讃弥陀偈』に「一たび光照を蒙れば、罪垢除こりてみな解脱を得」と釈さ れるように、信心を開発し転迷開悟せしめる徳用をあらわし、第十二願成就文に「この光に遇ふ ものは、三垢消滅し身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず」とある「三垢消滅」の意である。な お『述文賛』(二・一七八引)等には、この清浄光と歓喜光と智慧光は、三大煩悩を治する徳用 があると釈されている。
七、歓喜光とは、『讃弥陀偈』に「安楽を施したまふ」「光の至るところの処法喜を得」と釈さ れるように、信心を開発し法喜を得しめるという徳相をあらわし、本願成就文の「歓喜」、第十 二願成就文の「身意柔軟」「歓喜踊躍」の意である。
八、智慧光とは、『讃弥陀偈』に「仏光よく無明の闇を破す」と釈されるように、本願疑惑の 闇を破し、信心の智慧を生ぜしめる断惑生信の光徳をあらわし、第十二願成就文の「善心生ず」 の意である。
九、不断光とは『讃弥陀偈』に「光力を聞くがゆゑに心断えずしてみな往生を得」とあり、『述文賛』に「仏の常光つねに照益をなす」と釈されるように、信心を相続せしめる光照不断の徳用をあらわし、信心不断であるから得生するという意をあらわす。第十二願成就文の「その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得」の意である。
十、難思光とは『讃弥陀偈』に「その光仏を除きてはよく測るものなし」「十方諸仏往生を歎じその功徳を称したまへり」とあり、『名号徳』に「釈迦如来も御こころおよばず」と釈されるように、信心不断の衆生をして得生せしめる徳用をあらわし、その光徳は釈迦・諸仏にとって不可思議である意をあらわす。
十一、無称光とは『讃弥陀偈』に「神光相を離れたれば名づくべからず」「光によりて成仏したまへば光赫然たり」とあり、『浄土和讃』の無称光讃の「因光成仏」に「光きはなからんと誓ひたまひて、無碍光仏となりておはしますとしるべし」(二・三四二)と左訓を施されていることから、衆生をして成仏せしめる徳用をあらわし、その身にそなわる果徳は光明無量の願成就の無碍光仏と同体のさとりを得しめられるという意である。
十二、超日月光とは『讃弥陀偈』に「光明照曜すること日月に過ぎたり」「釈迦仏歎じたまふもなほ尽きず」と釈されるように、譬喩をもって光徳をあらわす。
四、十二光の総相
総じて、無碍光の所顕を窺うと、「親鸞聖人御消息」には、
ひとびとの仰せられて候ふ十二光仏の御ことのやう、書きしるしてくだしまゐらせ候ふ。く
はしく書きまゐらせ候ふべきやうも候はず。おろおろ書きしるして候ふ。詮ずるところは、
無碍光仏と申しまゐらせ候ふことを本とせさせたまふべく候ふ。無碍光仏は、よろづのもの
のあさましきわるきことにはさはりなくたすけさせたまはん料に、無碍光仏と申すとしらせ
たまふべく候ふ。(二・八四八)
と示されている。無碍光は、智断二徳を体として自在無碍のはたらきをあらわす光明であり、それは迷いの因果を破してさとりの因果となるという衆生摂化の徳用であるから、十二光の総相となるという意である。また、第十二願成就文と第十八願成就文の意は同じであり、『尊号真像銘文』に「真実功徳は誓願の尊号なり」(二・六一九)と釈されるように、無碍光を総相とする「真実功徳」は、そのまま衆生をして信心開発して得生せしめるという威神功徳の名号の徳義をあらわしているということである。
また、不可思議光の所顕を窺うと、『讃弥陀偈』では、難思光と無称光の釈意を合し、結讃に 「不可思議光に南無し、一心に帰命し稽首して礼したてまつる」(一・五四八)と示されるように、願心荘厳の「真実功徳」を不可思議光に摂められている。その意は『名号徳』に、
難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きた
まへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり。つぎに無称光と申すは、これもこの
不可思議光仏の功徳は説き尽しがたしと釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆ
ゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば曇鸞和尚の讃阿弥陀仏の偈には、難思光仏と無称
光仏とを合して、南無不可思議光仏とのたまへり。(二・七三四)
と示されている。その内実は、第十二願成就文に「それしかうして後、仏道を得る時に至り」とあり、本願に「もし生ぜずは、正覚を取らじ」と誓われる意と同じである。したがって、衆生をして往生・成仏せしめるという難思・無称の不可思議光の徳用は、弥陀同体のさとりを得しめるという名号の徳義をあらわしているということである。
【信心仏性】 令和元年 判決
一、題 意
『涅槃経』所説の「一切衆生悉有仏性」の意を窺い、浄土真宗の法義においては、他力回向の信心をもって仏性とし、仏果を開く因種とする意を明らかにする。
二、出 拠
「信文類」法義釈所引の『涅槃経』「師子吼品」の文、『唯信鈔文意』所引の『法事讃』「極楽無為涅槃界」の釈文等。
三、釈 名
信心仏性の信心とは、本願所誓の至心・信楽・欲生の三心であるが、それは疑蓋無雑の一心であり、本願成就文に信心歓喜とある信心を指し、往生・成仏の正因である。
仏性の仏とは、『玄義分』の釈名門(一 ・六五八)に釈されるように、自覚・覚他、覚行窮満の仏果を指す。また、仏性の性とは、『往生論註』の性功徳釈(一・四五八)にあるように、本性・本分・本質などの意である。したがって、仏性とは、仏果の本質という意である。宗祖は、これを因果にわたって釈されている。一つは「信文類」所詮の信心にそなわる徳として、もう一つは「真仏土文類」所詮の得生後に開覚する仏果の本質として示される。このうち、本論題では、因位の仏性義を主とする。
四、義 相
一、一切衆生悉有仏性の所顕
『安楽集』の聖浄二門釈(一・六一二)には「一切衆生みな仏性あり」と示し、「遠劫よりこのかた多仏に値ひたてまつるべし。何によりてか今に至るまで、なほみづから生死に輪廻して火宅を出でざる」と発問して、二種の勝法として聖浄二門を挙げられる。そして「当今は末法にして現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」と判じ、本願合糅の文を引用される。その意は『涅槃経』の悉有仏性の経意を承けながら、自らの仏性の開覚を期する聖道門を廃し、本願他力の信心をもって往生・成仏し、浄土で仏性を開覚するという往生浄土の法門を立てることにある。
また「観経玄義分」の序題門の真如釈(一・六五六)には「無塵の法界は凡聖斉しく円かに、両垢の如々すなはちあまねく含識を該ね、恒沙の功徳寂用湛然なり」と示し、「ただ垢障覆ふこと深きをもって、浄体顕照するに由なし」として、釈尊が「長劫の苦因を開示し、永生の楽果に悟入せしむ」と説かれている。その意は『観念法門』にも釈されているが、仏果の本質は煩悩に覆われ決して現れることはないと示し、浄土に往生してはじめて開覚するということである。同じように『般舟讃』の後述には。
行者等知れ、自の身心空際と同時にありてすなはち今身今日に至るまで、悪を断じ貪を除
くことあたはず。一切の煩悩ただ増多なることを覚るべし。また釈迦・諸仏同じく勧めて、
もつぱら弥陀を念ぜしめ極楽を想観せしめて、この一身を尽して命断えてすなはち安楽国
に生ぜしめたまふ。(一・一〇〇七)
とある。すなわち、聖浄二門判の意を承け、自身は空際と同時にありながら煩悩が増多であると示し、往生浄土の法門に依らなければならないと説かれているのである。したがって、悉有仏性といっても、それは浄土で開覚するということである。
二、名号と仏性について
先ず、一乗海釈(二・五四)を窺うと、行一念釈の「大利無上は一乗真実の利益なり」(二・五〇)の文を承け、一切衆生を運載して究竟仏果に至らしめる唯一無二の誓願一仏乗は名号であると明らかにされる。そして、この意を『涅槃経』の師子吼品の文によって助顕される。すなわち、
またのたまはく、善男子、畢竟に二種あり。一つには荘厳畢竟、二つには究竟畢竟なり。
一つには世間畢竟、二つには出世畢竟なり。荘厳畢竟は六波羅蜜なり。究竟畢竟は一切衆
生得るところの一乗なり。一乗は名づけて仏性とす。この義をもつてのゆゑに、われ一切
衆生悉有仏性と説くなり。一切衆生ことごとく一乗あり。無明覆へるをもつてのゆゑに、
見ることを得ることあたはずと。(二・五五)
とある。畢竟とは仏性の異名であり、これに荘厳畢竟と究竟畢竟のあることを示し、それぞれ行徳と性徳を表している。その意は、名号は荘厳畢竟と究竟畢竟を円具する一乗法すなわち誓願一仏乗であることを表し、これを聞信するところに信心の徳として仏性がそなわっているということである。
次に、名号と仏性の関係について窺うと、至心釈に至心の出体を示して、
この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(二・八一)
と生仏相望し、至心の本質は「至徳の尊号」であるといわれる。この「至徳」とは『一念多念文意』(以下『一多文意』と略称)に「一実真如の妙理円満」(二・六七四)といわれる「真実功徳」であり、また『尊号真像銘文』に「真実功徳は誓願の尊号なり」(二・六一九)と釈されるように、弥陀の果徳をあらわしている。したがって、至心の体である名号には阿弥陀仏によって開覚された仏性が成就されているのであり、これを領受する衆生の信心には、その徳がそなわっているということである。
三、信心と仏性について
先ず、法義釈の至心釈を窺うと、
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、
虚仮諂偽にして真実の心なし。(中略)如来、清浄の真心をもって、円融無碍不可思議不可
称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生
海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。(二・八〇)
とある。衆生には真実心がないから、如来が衆生に代わって至徳の尊号を体とする至心を成就し、それが衆生に回施されて、疑蓋無雑の一心すなわち信心となるという機無・円成・回施・成一の論理を展開されている。そして、「真実」について追釈を施し『涅槃経』の聖行品に「真実はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ真実なり」とある文を引いて(二・八二)、如来の至心(真実)は衆生の信心(仏性)となるという意をあらわし、信心の徳として仏性が具有されているという信心仏性の意を示される。
次に、同信楽釈を窺うと、
信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑
あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもって信楽の体とするな
り。(中略)この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまへり。これ
を利他真実の信心と名づく。(二・八二)
とある。このうち、「如来の満足大悲円融無碍の信心海なり」とは、本願の信楽は衆生を済度せんとする無疑決定心(信心海)であり、それは悲智円具(満足大悲円融無碍)の他力の信心であると示される。また、出体釈の「利他回向の至心をもって信楽の体とするなり」とは、信楽の本質は如来回向の至心であるという意をあらわし、それは「報土の正定の因」となるということである。
この意を助顕する文証として『涅槃経』の「師子吼品」を依用される(二・八四)。そのなか、四無量心は、如来の大慈悲心であるとし、大慈悲心(至心)は衆生の仏性(信心)となるという意を示される。また「大信心」は、機受の相であるとし、如来の修徳がそなわっているから「報土の正定の因」となるという信心仏性の意を示される。そして「一子地」は、信心所得の当益であるとし、得生の後、一子地の位に至って仏性を開覚するから、因中果説して信心仏性であると示される。なお、この意は別して「真仏土文類」の結釈に示される。
そして『唯信鈔文意』の「極楽無為涅槃界」の釈文(二・七〇〇)を窺うと、先ず「極楽」
は「無為」「涅槃界」であるとし、弥陀の浄土の往生は「無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり」と釈して無上涅槃の仏果を得ると示し、往生即成仏の宗義をあらわされる。そして、涅槃の異名を挙げて「仏性すなはち如来なり」と釈し、此土で現れることのない仏性が浄土で開覚したところを「如来」と示される。この如来とは、涅槃の転釈にある
「法性」「法身」である。そして、この法身の体性が法界に遍満している相状を「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり」と釈し、悉有仏性の意を示されているのである。しかしながら、その仏性は惑染の衆生の上に現れることはないから「この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり」と釈し、仏性の開覚は他力回向の信心による他はないと示される。信心が仏性であるといわれるのは、弥陀の修顕にかかる全性修起の果徳が名号として成就され、それが衆生心中に回施されて信心すなわち仏因となるからである。ここに信心仏性の意を窺うことができる。
四、証果と仏性
信楽釈所引の『涅槃経』「師子吼品」の一子地の釈意を承け、信心所得の当益として得生後 に開覚する仏性を明らかにされるのが真仏土結釈である。すなわち、
しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕
す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。経(涅槃
経)には、われ十住の菩薩、少分、仏性を見ると説くとのたまへり。ゆゑに知んぬ、安楽
仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。また経(涅
槃経)には、衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得とのたまへり。(二
・一七九)
とある。また『浄土和讃』の諸経讃には「如来すなはち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり凡地にしてはさとられず 安養にいたりて証すべし」(二・三八五)と讃じられている。その意は、惑染の凡夫は煩悩に隠蔽されているので、仏性を見ることはないと示し、ただ他力の信心をもって、得生の後、仏性を開覚するということである。
平成三十年 判決
平成二十九年 判決
二〇一七 (平成二十九)年度 安居
六字釈義 判決
【題意】
南無阿弥陀仏の六字のいわれについて、名号南無阿弥陀仏のはたらき一つによって救いが成立することを明かす。これについて、善導大師、親鸞聖人、蓮如上人のそれぞれの釈義をうかがい、三師独自の所顕を明らかにする。なお、覚如上人の『執持鈔』にも見られるが、今は扱わないこととする。
【出拠】
「玄義分」、
「行文類」、
『尊号真像銘文』、
「御文章」、
など。
【釈名】
「六字」とは、南無阿弥陀仏の名号を指し、
「釈義」という。分釈すれば、「釈」は解釈、
この六字のいわれ(義)を釈することを、
「義」は義趣・義意のことである。
【義相】
(1)善導大師の六字釈
① 摂論学派の別時意説
「別時意」とは、無著菩薩の著された『摂大乗論』に出る語で、同書に根拠を置く学派を摂論学派という。『摂大乗論』『摂大乗論釈』によれば、本来は遠い未来(別時)に可能であることを、そう言ってしまうと、懶堕な衆生は最初からあきらめ、投げ出してしまうので、彼らを励ます意図で、本来は別時であるのに、さも即時に往生できるかのように説いた釈尊の説法の形態を「別時意」とする。これに基づいた摂論学派の見方は、『観経』下々品に説かれる十声称仏を「唯願無行」の別時意であるとしている。
② 道綽禅師の会通
摂論学派の別時意説に対し、道綽禅師は、次のように会適する。
『安楽集』第二大門において、まず「論云、如以一金銭貿得千金銭、非一日即得」(聖典全書一・五九八)と、摂論学派の根拠とする『摂大乗論釈』の比喩の文を挙げる。摂論学派は、この文から、念仏は千分の一の功徳にはなるが、念仏だけでは即時に往生できない(別時意)と主張した。道綽禅師も、この一金銭の道理自体は容認する。しかし、摂論学派が、念仏は一金銭の功徳に過ぎず、さらに九百九十九金銭の功徳が必要であると主張したのに対し、禅師は、「世尊隠始顕終、没因談果、名作別時意語」(同)と述べ、「没因」が「別時」であるとし、釈尊の「別時意」の内実を、未来の果から過去の因へと入れ替え、再規定し直したのである。つまり、九百九十九金銭は、すでに過去の因としてなされ、念仏は、最後の千金銭目の完成であるとした。なぜならば、「若彼過去无因者、善知識 尚不可逢遇(聖典全書二五九九)と、善知識に遇えたのも過去世に宿因があればこそと見るのである。
③ 善導大師の論理
○随順仏語と六字釈
道綽禅師においても、「凡菩薩作論釈経、皆欲遠扶仏意契会 聖情。若有論文違経者、无有是処」(聖典全書二五九八)とあるように、経意よりも菩薩の論を優先するのは本末転倒であると示されていたが、善導大師は、これを、さらに徹底する。
大師は、「玄義分」和会門において、摂論学派の別時意説を、次のように批判する。
「今時一切行者不知何意、凡小之論乃加信受、諸仏誠言返将妄語。苦哉、奈劇能出如此不忍之言。(中略)寧傷今世錯信仏語。不可執菩薩論、以為指南。若依此執者、即是自失悞他也」(聖典全書二六七二)として、仏の経典を無視して菩薩の論に固執し、あまつさえ、論を自分勝手に解釈する態度を激烈に批判し、「随順仏語」の姿勢に徹するのである。引文の『阿弥陀経』「修因段」は「念仏往生」の『観経』以外の経典の文証としてであり、また「六方段」は同じく経典の文証とともに、「諸仏の誠言」は釈尊だけの「別時意」ではないことの明証だからでもある。されらによって、摂論学派の立論はほぼ完全に論破されたが、大師はさらに、彼らの言う「唯願無行」に対し、「願行具足」の道理を六字釈によって明示された。
すなわち、「南無阿弥陀仏」の六字を、「南無」と「阿弥陀仏」とに分釈し、「言南無者、即是帰命、亦是発願廻向之義」(聖典全書一・六七三)として「願」があり、「言阿弥陀仏者、即是其行」(同)として「行」があるとし、願も行も「南無阿弥陀仏」の六字にすでに具足していることを明確にされた。『観経』の十声の称仏には、十願十行が具足しているから「必得往生」なのである。
○順彼仏願と称名正定業
善導大師の、仏の論理に徹底した姿勢は、「順彼仏願」としても表される。すなわち、「散善義」就行立信釈では、「一心専念弥陀名号、行住座臥不問時節久近念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」(聖典全書一・七六七)として、称名が正定業たりうるのは、「順彼仏願」のゆえ、つまり、本願に誓われているからという、仏の論理に徹底した姿勢が明確である。因みに、この文によって法然聖人が念仏の教えに帰入されたことは、あまりにも有名である。
(2)親鸞聖人の六字釈
① 「行文類」の六字釈
親鸞聖人は、「行文類」において、先の善導大師の六字釈を引文された後、この文を釈される。善導大師は、「南無」の二字と、「阿弥陀仏」の四字とに分釈されたが、親鸞聖人は、二字と四字に分釈する形は取らず、善導大師の六字釈によって導き出された、「帰命」、「発願回向」、「即是其行」の三義を通して、六字の義意を示された。
そこでは、きわめて精密な語釈によって、「帰命」が、「本願招喚之勅命」(聖典全書二・三五)、すなわち、如来からのよび声であることを導き出される。「帰命」は、本来、衆生の持ち分であるが、衆生の「帰命」は、実は如来からのよび声によることを見出された画期的発揮である。「発願回向」は、如来からの「回施」としての大悲であり、「即是其行」は「選択本願」と表され、衆生を浄土へ生まれさせる力、万行円備の智徳であることを明かされた。
このように、善導大師の六字釈が当時の摂論学派からの論難に反論する対外的論理であったのに対し、親鸞聖人の「行文類」における六字釈は、すべて約仏で解釈され、悲智円具という本質論的究明を施されたのが特長である。
② 『尊号真像銘文』の六字釈
『銘文』においては、「帰命」を「釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて、めしにかなふとまふすことばなり」(聖典全書二・六二五)と、衆生の信楽と解釈され、「発願回向」を「安楽浄土にむまれむとねがふこころなり」(同)と、信楽の義別としての欲生として、何れも約生で解釈されている。「即是其行」について、「法蔵菩薩の選択本願也」(同)は、「行文類」と同じく約仏と見ることも可能だが、「安養浄土の正定の業因なり」(同)の句は、同じ『銘文』の、「正定の業因はすなわちこれ仏名をとなふる也」(聖典全書二・六四一)と併せ考えると、体を名号とする称名と見ておく。何れにしても、親鸞聖人の六字釈には、約仏・約生両様の説示があり、そのことによって、仏辺成就の名号と衆生の信心・称名とが別のものではないことがうかがわれるのである。
(3)蓮如上人の六字釈
①「御文章」の所顕
蓮如上人は、彩しい数の六字名号を門弟に書き与えられ、各地の講中では、その六字名号を掲げて、法義讃嘆の集いが営まれた。おそらくはそのために、名号六字のいわれを示した「御文章」が多いと考えられる。
出拠で見たように、蓮如上人の六字釈は、「機法一体」の義が特長的だが、蓮如上人における六字釈は一様ではなく、時系列で整理しておく。
出拠で挙げた「御文章」の三帖第七通(文明七年二月二十三日)は、「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字とを分釈し、タノム機とタスクル法とが、「南無阿弥陀仏」の六字の中に、すでに一体として具わっていることを「機法一体」の名目として表された初出であり、以後、「機法一体」の御文章は頻出する。しかしながら、それ以前の、例えば、二帖第十五通(文明六年七月九日)や、三帖第五通(文明六年九月六日)などでは、同じように二字と四字に分釈しながら、「機法一体」の語はなく、摂取不捨の光明のはたらきで示されている。このように、文明六年と七年とが、何らかの転換点と考えられるが、この「機法一体」の語は、もともと西山派の用語であったことに起因するかと思われる。
② 蓮如上人の「機法一体」義の所顕
○西山義や『安心決定砂』の「機法一体」
西山義に言う「機法一体」や生仏の関係は、例えば証空の『安心鈔』に、「仏の御心と我心と一に成りあひたる処を云ひけるなり」(『西山上人短篇鈔物集』一八五)とあるような「一つに成りあう」関係性である。
『安心決定鈔』は、西山系の聖教とも考えられているが、蓮如上人が同書を尊重されたことは良く知られている。同書における「機法一体」は、「往生正覚一体」、「色心功徳一体」、「彼此三業一体」の三様に整理される。
○「御文章」の「機法一体」
蓮如上人の用いられる「機法一体」は、これらと同じではない。
『安心決定鈔』との比較で言えば、「御文章」の「機法一体」には、「色心功徳一体」や、「彼此三業一体」の内容は見られない。
また、西山義が、「一つに成りあう」という関係であったのに対し、①で見たように、蓮如上人の「機法一体」は、タノム機とタスクル法とが、名号六字の上に、すでに「一つである」ところに特長がある。そして、蓮如上人の「機法一体」は、すべて、名号六字の上でのみ語られていることは、西山義とも『安心決定鈔』とも異なる、大きな相違点である。
蓮如上人は、文明七年頃を画期として、当時良く知られていた「機法一体」という他流の用語を用いながら、その内実を、浄土真宗の法義に、すっかり入れ替えられたのである。
いずれにしても、南無阿弥陀仏のはたらき一つで救いが成立することが明らかである。
二〇一七 (平成二十九年) 安居
三往生義 判決
【題意】
親鸞聖人における「三往生」の説示について、その所顕を明らかにし、併せて、これによって何を明らかにしようとされたかの祖意をうかがう。
【出拠】
「証文類」標挙、
「化身土文類」標挙、
『愚禿鈔』上、
『三経往生文類』(広本・略本)、
など。
なお、『愚禿鈔』の説示のように、「三往生」の名目は、善導大師の『法事讃』(聖典全書一・八〇五)にある。
【釈名】
「三」は、数の三であり、「往生」に三種あることを示す。
「往生」は、たとえば、法然聖人の『漢語灯録』(『往生要集大綱』)に、「言往生者、(中略)得生西方極楽世界」(真宗聖教全書四・三九三)とあるように、一般には、阿弥陀仏の西方極楽浄土に生まれることを言うが、親鸞聖人は、生因の三願に真仮を見抜かれ、「往生」にも真仮を分別し、「難思議往生」という真実のあり方に対し、「双樹林下往生」と「難思往生」とを方便として簡別された。それを「三往生」という。その「難思議往生」の「往生」のあり方は、『往生論註』に顕される「生即無生」(聖典全書一・五〇四意)である。
【義相】
(1)親鸞聖人の「三往生」の説示
親鸞聖人は、第十八・第十九・第二十の生因三顧を、それぞれ「至心信楽之願」(聖典全書二・六六)、「至心発願之願」(聖典全書二・一八二)、「至心回向之願」(同)と名づけられた。そして、この三願について、真実と方便との真仮を簡別し、「至心信楽之願」を真実を顕す「信文類」に置き、「至心発願之願」と「至心回向之願」とを「化身土文類」に置いて、これらを方便として峻別された。さらに、その三願を「大経」「観経」「弥陀経」の三経の法義に配当された。
「因」に三種あれば、「果」に三種あるのは必然の道理であり、「生因」の三願に対する「果」として「三往生」ありと見込まれ、『法事讃』における「三往生」の名目、すなわち「難思議往生」「双樹林下往生」「難思往生」の三種を第十八・第十九・第二十の三願に対応する「三往生」として規定されたのである。
「難思議往生」の「難思議」とは、「不可思議」と同義であり、人間の理性分別を超えた名号の不可思議威神功徳によって、凡夫が涅槃の妙果を得ることのできるという「往生即成仏」の「往生」が「難思議往生」である。
「双樹林下往生」は、釈尊入滅の場所にちなんでの名称で、仏の入滅を見るせいう意味で化土往生とする。
「難思往生」の「難思」とは、語義そのものは、「難思議」と同義で用いられるのが一般的である。例えば「総序」の「難思弘誓」(聖典全書二・六)などである。しかし、「難思往生」の「難思」は、『三経往生文類』(広本)では、「徳号によるがゆへに難思往生とまふすなり。不可思議の誓願、疑惑するつみによりて難思議往生とはまふさずとしるべきなり」(聖典全書二・五九二)と示されるように、仏智不思議を疑う罪によって、「難思議」より「議」の一字が省かれるとされている。
(2)『法事讃』 の「三往生」との同異
『法事讃』における「三往生」は、当来の浄土を願生する表現として同義の扱いであり、必ずしも真仮に分けられているようには見えない。善導大師においては、阿弥陀仏の浄土を「報土」と論定され、一報土中における「報中化」の区別はなされておらず、『法事讃』 の「三往生」はすべて真実義でうかがうべきであろう。
しかしながら、親鸞聖人は、『法事讃』の文意を全く無視して、「三往生」に真仮を分配されたのでもないと考える。
『法事讃』にあっては、「乃由弥陀因地、世餞王仏所捨位出家、即起悲智之心広弘四十八願(中略)誘法闡提廻心皆往」(聖典全書一・八〇八)と、弥陀の法義として『大経』の義が述べられ、これに続く「復因韋提致請、(中略)即説定散両門、三福九章 広作未開之益」(同)は、釈迦の開説として『観経』の法義が述べられ、さらに続いて「十方恒沙諸仏、(中略)証得往生非謬」(同)は、諸仏の証誠として『弥陀経』の法義が述べられており、弥陀・釈迦・諸仏を三経に配当する説示が見受けられる。さらに、『観経疏』に示される要弘廃立と併せ考えると、「三往生」に真仮を見る親鸞聖人の見方は、決して突飛なものではなく、むしろ大局を見渡す周到な眼力に、あらためて驚嘆させられる。
(3)「生因三願」と「三往生」と「三定聚」
○親鸞聖人における「生因三願」の見方と「三往生」
親鸞聖人が「生因の願」と受け取られた、第十八・第十九・第二十の三願は、何れも「十方衆生」と対機を定め、三願何れにも行と信があり、また、三願何れにも浄土往生をねがう「欲生」がある。この三顧に真仮を見抜き、第十八願を他力念仏の真実の願と定め、第十九・第二十の両願を自力諸行・自力念仏の方便の願とされ、その「生因三願」の果を「三往生」として三願に対応されたのである。
○「三定聚」との関係
「信文類」の標挙に、「至心信楽之願 正定聚之機」(聖典全書二・六六)とあり、第十八願の機類を「正定聚之機」と明示されている。また、出拠で見たように、「化身土文類」の標挙では、第十九願の機類を「邪定聚機」、第二十願の機類を「不定聚機」と示され、親鸞聖人の三顧に対応する機類分別は「三定聚」であったことが知られる。
浄土教における機類分別は、三輩・九品とするのが通例であるが、親鸞聖人において、三輩・九品は、第十九願成就文として位置づけられ(「化身土文類」要門釈参照(聖典全書二二八四))、自力の内容とされる。善悪の多寡によって分類する三輩・九品の論理は取らず、本願を信受するか否かを基軸とした機類分別として「三定聚」を当てられたとうかがわれる。
これら「生因三願」・「三往生」・「三定聚」は、本願の信疑を基軸として、「生因」・「証果」・「機類」、それぞれの次元における論理体系であり、これは「真仏土文類」の「由不知真仮、迷失如来広大恩徳(聖典全書二二八〇)の具体化とうかがわれる。
(4)現代における「難思議往生」の意義
現代における科学の恩恵は甚大なものがあり、医療の進歩もその一つである。かつては不治の病とされた難病も劇的に治癒が可能となった。しかし、医療がどれだけ進歩しても、人間に「死」は避けられない。そして、医療の目的が治癒であるために、「死」は敗北としか受け止められなくなる。さらに、昨今の風潮のごとく、死が単なる終焉であるならば、「死」は絶望や敗北にしかならないであろう。そうだからこそ、「死」は敗北ではなく「難思議往生」という、真のさとりであることの意義を発信していく必要がある。
さらには、現代は「生死出づべき道」が課題になりにくい時代でもある。少なくとも物質的には便利で快適であるために、信心や念仏などなくても何の不自由もないと考える人も多い。「生死出づべき道」が課題にならない人には、「さとり」も「浄土」も響かないであろう。今こそ、浄土に往生して、さとりに至るという「難思議往生」の意義を、正しく伝えていくべき必要性は、ますます増大していると言えよう。
また、現世における意義を強調しようとするあまり、現生での往生を主張する人も見られる。しかしながら、親鸞聖人の「凡地にしてはさとられず、安養にいたりて証すべし」(聖典全書二・三八五)とのお示しに違わぬよう、現生の意義は「正定聚」で語るべき祖意を、あらためて再確認しておかねばならない。
二〇一七 (平成二十九) 年安居
是報非化判決
【題意】
善導大師が、阿弥陀仏の浄土を、化土ではなく報土であると論定された釈義をうかがい、もって、古今楷定の釈功の一端をあきらかにする。
【出拠】
「玄義分」 和会門
【釈名】
文法的には、「是」は強意の助辞、
「非」は否定の助辞であるが、二律背反として対比されていることから、「是」は「顕是」、「非」は「簡非」である。
「報・化」とは、三身・三土の分別における「報身・報土」及び「化身・化土」を指す。報身とは有始無終の仏身を言い、報土とはその仏土を言う。「化身」とは有始有終の仏身を言い、「化土」とはその仏土を言うが、ここでは阿弥陀仏の浄土が「報土」であるか「化土」であるかを論じるのである。なお、源信和尚の「報化二土」とはその所顕が異なるが、これについては義相に譲る。
【義相】
(1)聖道諸師による阿弥陀仏の浄土の見方
たとえば、浄影寺慧遠の『観無量寿経義疏』では、「真如虚空畢寛無尽。応身寿命有長有短」(大正蔵三七・一七三下)と述べ、阿弥陀仏の寿命に長短があるとして、その仏土を「応土」としている。また、天台大師智顗の作とされる『仏説観無量寿経疏』では、有相の浄土を「凡聖同居」(大正蔵三七・一八八中)の浄土として低位の仏土と判じている。
(2)道綽禅師の見方
道綽禅師は、これら諸師の見方に対し、明確に「報身・報土」と断じている。まず、「未審、如来報身更依何土」(聖典全書一・五八〇)と述べ、阿弥陀仏が化身であるなら、何らかの報身から身を垂れるべきであり、どの報身から身を垂れたか全く特定できないということは、阿弥陀仏自身を報身と見ざるをえないとの理証を述べる。
さらに文証として、『大乗同性経』を挙げ、そこでは「阿弥陀如来(中略)等諸如来、清浄仏刹現得道者、当得道者、如是一切皆是報身仏也」(同)として、浄土中の成仏は「報身」としている。
次に、諸師が阿弥陀仏を応身とする根拠としていた『観音授記経』に説かれる阿弥陀仏の大涅槃について、これは「示現隠没相」(同)であって、真の入滅ではないとする。この「隠没相」については、『宝性論』に名目が見えることをその証左としている。
(3)善導大師の見方
出拠で見たように、善導大師は、阿弥陀仏の浄土が「報土」であって「化土」ではないと明示されているが、「玄義分」和会門では、その理由を以下に詳述されている。
まず、道綽禅師と同じく『大乗同性経』を引く。すなわち「西方安楽阿弥陀仏是報仏報土 」(聖典全書一・六七四)と、阿弥陀仏の浄土が「報土」であると明示する経典があることを強調する。そして『大乗同性経』の引用の後、『無量寿経』を取意して、第十八願を四十八願すべての願意と扱う引用を施し、この願が成就されたことをもって「即是酬因之身」(同)と示し、「因願酬報」のゆえに「報土」であるとの論理を立てる。さらに『観無量寿経』上品の来迎相の引用によって、阿弥陀仏は化身をともなった「報身仏」であることを論証されている。
このように経典の明証があるにも拘わらず、諸師が『観音授記経』をもって、阿弥陀仏の浄土を「化土」としていることについては、次のように反論する。
『観音授記経』に説く阿弥陀仏の大涅槃は、真の大涅槃ではないことを「入・不入義者唯是諸仏境界」(聖典全書一・六七五)とするが、その根拠として『大品般若経』の「涅槃非化品」(「如化品」)を挙げる。そこでは、本性が空であるのが即ち涅槃なのであるから、「涅槃亦皆如化」(聖典全書一・六七六)と説く。よって、阿弥陀仏の入滅の相も涅槃如化の一相に過ぎないとして、諸師の論難を不当とする。
(4)源信和尚の「報化二土」との相違
この論題の中心課題が前項にあることは言うまでもないが、善導大師の「是報非化」の「報化」と、源信和尚が明かされる「報化二土」の「報化」との同異についても触れないわけにはいかない。
源信和尚の「報化二土」における「化土」とは、「執心不牢固」なる雑修の者が往生する世界として、『菩薩処胎経』に説かれる「懈慢国」のことであり、これを「化の浄土」(聖典全書一・一二一三)と称している。宗祖(聖典全書二・一八三)は、この「懈慢界」を『大経』の「疑城胎宮」として扱われているが、これが道綽・善導両師によって論じられた「三身・三土」の「化土」と同じであるとは考えがたく、古来、先哲は「報中化」と解釈している。
なお、源信和尚は、従来の「報化」の釈義を全く無視して、新たな概念を持ち出したのかと言うと、決してそうではなかろう。たとえば、道綽禅師が「休息隠没相」の名目を出される時に「若報身有隠没休息相者、亦可浄土有成壊事」(聖典全書一・五八二)との問いを出し、「体非 成壊、随衆生所見有成有壊」(同)と述べるように、衆生の所見に随って成壊の種々の相を見るのが報土の特色でもあるのだから、一報土中に「報化」が弁立される礎地はすでに存在すると言える。
(5)『愚禿鈔』における仏土の所顕
宗祖は「真仏土文類」(聖典全書二・一七四)に、善導大師の「玄義分」和会門の文を引き、阿弥陀仏の浄土が「報土」である義を明らかにされている。
一方『愚禿鈔』の次の文は、一見、奇異に映るが、その所顕をうかがっておく必要があろう。すなわち、
就報身有三種
一弥陀 二釈迦 三十方
就応・化有三種
一弥陀 二釈迦 三十方 (聖典全書二・二八六)
と、「報身」「応身(化身)」の何れも弥陀・釈迦・十方と記されており、今は、その祖意をうかがう。
「弥陀」が「報身」であることは既に明白であるが、「釈迦」を「報身」と見る文証も存在する。例えば、『安楽集』第一大門には「釈迦如来、浄土中 成其報仏」(聖典全書一・五八一)の語があり、また『般舟讃』の「釈迦如来真報土、清浄荘厳無勝是」(聖典全書一・九六七)とあるのは「釈迦」の「報身」を彰している。また「為度婆婆分化入、八相成仏度衆生」(同)は「釈迦」の「応身(化身)」を彰している。「十方諸仏」の「報身」・「応化身」も「釈迦」に準ずる。また、「弥陀」の「応身」については、『安楽集』で引かれた『鼓音声経』の清泰国の阿弥陀仏がそれに当たるであろう。「証文類」では、「然者、弥陀如来従如来生、示現 報・応・化種種身也」(聖典全書二・一三三)とも示されている。
これらを承けて、この『愚禿鈔』では、二双四重の教判で聖浄二門のそれぞれに権実を客観的に配当されていたのと同じように、「報身・報土」、「化身・化土」についても、客観的に体系化された風格と考えられるのである。
平成二十八年 判決
平成二十七年 判決
歓喜初後 判決 平成二十七年
【題意】
第十八願成就文の「歓喜」は、信心の初起一念と後続に存在するが、初起一念の歓喜は三業の造作にあらわれるものでないことを明確にする。
【出拠】
『大経』第十八願成就文「聞其名号信心歓喜乃至一念」(聖典全書一・四三頁)
【釈名】
第十八願成就文にある「信心歓喜」とは、第十八願文の「信楽」にあたる。したがって、成就文の「歓喜」は、第十八願文にいわれる「信楽」の「楽」の意味である。『信文類』三一問答の字訓釈においては、「楽」の字訓に「欲願愛悦の心」「歓喜賀慶の心」(聖典全書二・八○頁)と釈される。ここでは「よろこぶ」、「たのしむ」という意味において「歓喜」と同意になる。すなわち、「信楽」の「楽」とは「歓喜」であり、「歓喜」は「楽」という意味である。
「初後」の「初」とは、第十八願成就文に「乃至一念」とある「一念」のことで、信楽開発の時、すなわち時剋の極促という信心の初一念をいう。これを「初起」、「初発」、 「初際」ともいい、「信一念」ともいう。
また、「後」とは、「乃至一念」の「乃至」のことをいい、初起一念の後、すなわち二念以後に問発した信心が生涯相続してゆくところをいうものである。これを「後続」という。
【義相】
宗祖は、『信文類』の信一念釈に、
信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰 すなり。 (聖典全書二・九三頁)
といわれるが、その一念とは、信心をいただいた初起の一念のことで、往生・成仏の因が決定し、現生で正定席不退の身となる時剋の極促を示されたものである。
しかし、その初起一念に歓喜の思いがあるとして、その歓喜が行者の意業であるとすれば、行者の意業が往生の決定に関与することになり、そこに「歓喜正因」や「意業安心」、「一念覚知」等といわれるような誤解をはらむことになる。
しかし一方で、信心相続のあらわれである後続の念仏生活には歓喜があるが、初起一念に歓喜がないとすれば、その初起一念は「信楽」の一念とはいえなくなり、同じ意味の「信心歓喜」の一念であるともいえないことになる。そうすれば、この「歓喜」とは何であるのかが問題となるのである。
ひとたび開発した信心とは、「金剛の真心」(聖典全書二・九〇頁)といわれ、「破壊すべからず」(同上)等といわれるように、生涯に一貫するのであるから、「信楽」の「楽」の義である「歓喜」も初起から後続まで途切れる事なく続いてゆくはずである。 「信楽開発の時剋の極促」と釈される信楽開発の初際とは、長さのない時剋の極促なのであるから、口業や身業はもとより、意業に思いをかけて生じる歓喜ではあり得ない。初起一念の歓喜とは、願力の摂受に対して、疑いの晴れた無疑の心相であり、阿弥陀如来の勅命が聞こえたままの当初の心相、往生決定に安堵した当初の心相であって、宗祖が『信文類』に、「歓喜といふは、身心の悦予の貌を形すなり」(聖典全書二・九四頁)と述べられ、また、『一念多念文意』に、
「歓喜」といふは、「歓」はみをよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばし むるなり。うべきことをえてむずとかねてさきよりよろこぶこころなり。
(聖典全書二・六六二頁)
と、言われているのは、初起の歓喜が身心にあらわれたところでいわれる二念以後の後続の歓喜である。
第十八願成就文の「歓喜」は、下の「乃至一念」の「一念」と組むならば初起の歓喜となり、「乃至」と組めば後続の歓喜となって、初起と後続とに通ずるのであるが、宗祖が第十八願成就文の「信心歓喜」を身心のよろこびとして釈されたのは、相続にあらわれる顕著な後続の歓喜の相をもって示されたもので、初起一念に身心にわたる歓喜があらわれるという意味ではない。
なお、「信楽」の字訓釈に「欲願愛悦の心」とか「歓喜賀慶の心」といわれ、また『正信偈』に「能発一念喜愛心」(聖典全書二・六一頁)と、また「曇鸞讃」に「一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ」(聖典全書二・四二三頁)といわれるように、「信心」の異名として「歓喜」の語を用いられることがあるが、だからといって「信心正因」をいいかえて「歓喜正因」とはいうべきではない。名号聞信の「信心」こそが往生・成仏の因であるという意味で「信心正因」というのであり、身・口・意の三業にあらわれる「歓喜」が因となるのではないことに留意しなければならない。
第十八願成就文に「信心歓喜」といわれる「信心」と「歓喜」とは別ものではない。そして、信心が初後一貫するのであるから、歓喜も初後一貫する。ただし、初起の歓喜は仏勅に対して疑い晴れた無疑愛楽の心が開発する相であって、行者の三業にあらわれたものをいうのではない。三業にあらわれるのは第二念以後の後続の歓喜である。
法界身義 判決 平成二十七年
【題意】
法界身の義をうかがい、宗祖の義では、「是心作仏是心是仏」が衆生の事理の観ではないことを明らかにする。
【出拠】
『観経』第八像観に「諸仏如来是法界身…是心作仏是心是仏」(聖典全書一・八六頁)等とある文。
【釈名】
「法界」とは、事理に通じる名にして、通仏教においては諸法の真実の体性である真如を意味する場合、一切諸法を呼ぶ名にして諸法の事別なるを意味する場合、また、その法界を生ずる心に随えて衆生の心を法界という場合などがある。この中、聖道諸師は、理に約して法界即身の義ともするが、浄土門では大慈悲が遍満する衆生界とする。「身」とは集成・あつまりの義である。「義」とは意義をいう。
宗祖は、通仏教に順じる用例も示されるが、いまは、「法界」とは、仏が化益する所化の境界である衆生界、「身」とは、能化の仏身である阿弥陀如来をいう。
【義相】
『仏説観無量寿経』の第八像観に、「諸仏如来是法界身……是心作仏是心是仏」とある法界身の義をめぐって種々の理解がある。
浄影寺慧遠は、『大乗義章』(大正四四・八三九頁中)に、衆生の心には一切の法を生み出す如来蔵があるので、相好の仏も生み出すことができるとし、『観無量寿経義疏』(大正三七・一ハ○頁上)には、「是心作仏」は始学についていうもので、修行する段階より仏果をみて「作」といい、「是心是仏」は仏果からみたもので、諸仏の法身は「是心」と同体という。慧遠は『観経』全体を応身観とし、衆生にある如来蔵義の立場から、衆生の自性は清浄の仏性で、その仏性を観ずるという意味の「自性清浄仏性の観」という理観の立場で法界身という。
天台大師智顗は、『観経』を「心観為宗実相為体」(大正三七・一八六頁下)とし、始覚の妙解と本覚法性の理が相応し冥会するところに法界身が現れるとする。「是心作仏」は、法身が能応の仏(応身)として衆生心中に現れ、また始覚の三昧心により、本覚の理の法身が現れ、自己当果の仏を成ずることとし、「是心是仏」は、この心がそのまま仏であると心因と仏果の体一不二とした(大正三七・一九二頁中)。
また、嘉祥大師吉蔵は、『観無量寿経義疏』(大正三七・二四三頁下)に、観仏に法身仏を観想する観と、如来(応身)の三十二相等を念ずる観との二種を示し、法身すなわち法界と捉えている。また、「是心三十二相八十種好」を応身、「是心是仏」を法身、「是心作仏」は二身の因を明かす釈とする。すなわち、『観経』像観は、法身を観ずることのできない鈍根の者の観法で応身観とし、法身観とは異なる観法と捉え、阿弥陀仏を観ずるは化仏身を観ずるところに限定され、「諸仏如来」は阿弥陀仏ではなく無色無心の法身とする。この観法理解も「自性清浄仏性の観」と見られよう。
また、唯識法身観について、『釈浄土群疑論』(大正四七・六六頁上)に、「是心作仏是心是仏」を唯識所変で釈し、心の外に別法なく、万法はすべて心の変現で、この心によって仏を観ずるとした。見分(主観)の力が相分(客観)を現ずるを「是心作仏」、相分かそのまま自証分の心で別体がないことを「是心是仏」という。
一方で、浄土門において曇鸞大師は、『往生論註』巻上の身業功徳釈(聖典全書一・四七四~四七五頁)に、「法界」を「衆生の心法」、「心を名づけて法界」と述べ、心は世間・出世間のもろもろの事象を生起し、「色」等の眼識を生ずるように、諸々の如来の相好身を生起する。「身」は、諸仏如来の仏身とし、衆生の能観の意識の上に相好の仏身を縁じる「法界所生の身」という義で法界身を釈される。「是心作仏」は、心よく仏を作るということで、衆生能観の心が仏の相好仏身を生じ、「是心是仏」は、心のほかに仏ましまさずとして、能観の心の上へ弥陀の相好仏身が現じたこととする。衆生心と法界身とは能所の違いがあるから不一であるが、能観の心に仏が顕現した時、心の外に仏身はないから不異である。これを木と火の替をもって、「火」を所観の仏身・仏の相好身、「木」を衆生の能観の心と替えて、木が火のために焼かれて火となるのは、心外無仏のことで、能観の心と所観の仏が体一となることを「是心是仏」とする。
また、善導大師は「定善義」(聖典全書一・七四三~七四四頁)に、「法界」とは所化の境で、諸仏の大悲が心に応じて現ずる(応心即現)世界とする。それは、大慈悲が遍満し(心遍)、仏身が形をとって顕現し(身遍)、何時でも何処でも誰の上にも現れる(無障礙)世界である。したがって、「法界」とは所化の境界の衆生界で、「身」とは、大慈悲心に随う能化の仏身すなわち阿弥陀仏である。「是心作仏」は、自らの信心によりて相を縁ずるは作のごとしとし、「是心是仏」は、心よく仏を想へば、想によりて仏身現ずと釈し、報身の阿弥陀仏は法界身で、大悲が所化の衆生界に常に応じる相好身であると見ている。
このように、浄土門では不二を全うじ而二の立場、凡夫を対象にした差別の立場から法門が建立されることから、事仏身より法界身を見ていく。
宗祖においては、直説的には「法界身」に関する解釈はないが、『唯信鈔文意』(聖典全書二・七〇一~七〇二頁)には、如来は微塵世界にみちみち、それが一切群生海の心であると述べられて、誓願を信楽するが故に、この信心すなわち仏性なりとされる。また、存覚上人は『六要鈔』に「弥陀法界身の故に、帰命の心を発せば機法不離にして必ず往生を得」(真聖全二・二九九頁)と示される。
『信文類』一念転釈(聖典全書二・九五~九六頁)では、信一念は願力回向の真実信心で、聞名一念に真実信心が成就する事は、阿弥陀仏の金剛心、願作仏心度衆生心、あるいは大菩提心、大慈悲心が、無量光明慧たる弥陀の智慧によって衆生に成就するとされる。またその後に、曇鸞大師と善導大師の「是心作仏是心是仏」の釈文が引用されている。
「是心作仏」の「是心」とは、願力回向の信心であり、「作仏」とは、「仏となる」と読めば、その信心が往生成仏の正因であるから仏に成るという意となり、「仏をなす」と読めば、その信心は名号の力用によって仏心と凡心が一体となったという意となる。前者の意では、「是心是仏」は、願力回向の真実信心以外には成仏の因がないという義となり、信心が仏道の正因であるのは、それが大菩提心であることによると示される。よって、木と火の譬は、「火」である大慈悲心・仏心のはたらきを離れては、「木」である凡夫の心に信心は生ぜず、木は火に焼かれて火となるように、他力の大菩提心によって、凡夫は仏とならしめられることを譬えている。
法界身とは、迷いの衆生界にはたらく仏身をいい、具体的には光明・名号となって活動する仏身、すなわち阿弥陀仏をいう。宗祖は、「是心作仏是心是仏」の文についても、名号聞信の一念において、願力回向の信心こそが仏道の正因であることを釈されたものと見られる。
三法四法 判決 平成二十七年
【題意】
三法と四法について、その関係を検討し、浄土真宗の教済体系の特色を明らかにする。
【出拠】
『本典』の題号および尾題に、「顕浄土真実教行証文類」とあり、『教文類』真宗大綱の文には、「往相の回向について真実の教行信証あり」(聖典全書二・九頁)とある。
【釈名】
「三法」とは、『六要鈔』教巻釈に、「教・行・証の三は常途の教相なり」(真聖全二・二一二頁)とあるように、教・行・証の三法をいう。「四法」とは、『教行信証大意』を「四法大意」とも言い伝えてきたように、教・行・信・証の四法をいう。「法」とは、いまは法門をさしていう。
「教」とは『法華玄義』に「仏、下に被らしむるの言」(大正三三・八一二頁下)などとあるが、衆生を転迷開悟せしめる仏の教えのこと、具体的には釈尊の言教・教説をいう。「行」とは造作・進趣の義、仏教の通途においては、衆生が身口意の三業を造作し、涅槃の妙果に進趣するをいい、証果の因となる行業をいうが、真宗において「行」とは、『行文類』に説かれた大行すなわち名号のことである。「信」には、心澄浄、信解、深信などの意味があるが、ここでは第十八願の信心すなわち信楽のことであり、無疑の心、他力回向の信心のことである。「証」とはさとりのこと、行信の因によってもたらされる無上涅槃の証果をいう。
【義相】
宗祖は、『本典』を「顕浄土真実教行証文類」と題され、総序には「真宗の教行証を教信して」(聖典全書二・七頁)と三法をもって教義の綱格を示される。また『略典』も仏教通途の教相である「教・行・証」の三法門で構成されている。
一方で、『本典』の前四巻の構成や『教文類』冒頭の二相四法の文、『証文類』の四法結釈の文等においては、「教・行・信・証」の四法をもって示されている。
「三法」で示される場合は、仏教通途の仏道体系に順じ、法然聖人が三経一論によって念仏往生の法義を開闡された「往生之業・念仏為先(本)」(聖典全書一・一二五三頁)を立場とする教相である。法然聖人は、聖道門に対して浄土門の独立を意図し、行行相対して称名を選択本願の念仏であると示して、諸行に対し正定業としての念仏の超勝性を明確にされた。
宗祖は、その本願念仏とは、無信単称の念仏ではなく、信を具した念仏であることを、行より信を開き、「三法」を「四法」と開いて示され、他力回向の信心正因の法義を明らかにされた。すなわち自力の称名念仏を廃して、「教」に明かされる「行」(名号)の功徳・力用を信受する「信」によって「証」(証果)を得るという、他力の念仏の法義を明確にして、唯信独達の法義を示されたのである。
この三法門・四法門の説示については、聖道門に対する対外的意義と、浄土門内に対する対内的意義を示されたものだといわれてきた。
その対外的意義とは、「教・行・証」三法門での説示は、仏教通途の教相における名目をもって、聖道門の三法に対して浄土真宗の立場を顕彰されるというものである。
『化身土文類』には、
聖道の諸教は、在世・正法のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず。す
でに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法、像末・法滅、濁悪の群萌、
斉しく悲引したまふをや。 (聖典全書二・二一○頁)
と述べられ、『本典』後序には「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり」(聖典全書二・二五三頁)と、正像末の三時にわたっては通用しない聖道門に対して、浄土真宗は、三時にひとしく証果に通入する教法であることを、仏教通途の教相である教・行・証の三法の体系に順じて示されている。
以上のように、他力回向の救済法を浄土真宗の教・行・証の三法で説示されているのであるが、「教」とは、第十七願によって咨嗟称された釈尊の言教である『大経』を真実の教といい、「行」とは、第十七願に「咨嗟称我名」とある「我名」、すなわち名号をいう。すなわち因位の万行、果上の万徳が円備され、行者に聞信されて称名となるように活動しつつある名号大行である。三法門においては、この「行」が衆生を難思議往生の滅度に進趣せしめるという「証」(証果)に直接して示されていることになる。
また対内的意義を示すとは、「教・行・信・証」の四法門での説示によって、願力回向の名号大行を聞信するところに、往生即成仏の証果が決定するのであるから、その「行」より「信」を別開して四法に展開し、信心正因の浄土真宗の法義が開顕されることになる。願力成就した名号大行は衆生に領納されて信となり、「真実信心必具名号」(聖典全書二・九〇頁)の称名となる。宗祖が第十九願、第二十願に簡んで第十八願の三心即一の疑蓋無雑の信楽、すなわち他力の信心こそが真実の証果の因であることを「涅槃の真因はただ信心をもってす」(聖典全書二・七九頁)と示されるように、四法門においては、「信」と「証」とを直接して信心正因の宗義が顕彰されることになる。
以上、三法と四法は、それぞれ対外・対内相まって、第十八願の他力回向の真宗の教義を開顕されたものといえるのである。
平成二十六年 判決
信一念義 判決
平成二六年安居
【題意】
第十八願成就文の「一念」についての宗祖の釈により、信の一念に 往生成仏が決定する受法得益同時の義をうかがい、唯信正因の宗義を明確にする。
【出拠】
宗祖は『本典』「信文類」に、信の一念を「按真実信楽、信楽有一念。一念者斯顕信楽開発時剋之極促、彰広大難思慶心也(真実信楽を按ずるに、信楽に一念あり。一念はこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり)」(聖典全書二・九三)と釈され、『大経』下巻の第十八願成就文に示された「聞其名号信心歓喜乃至一念」(聖典全書一・四三)の「一念」は、その信の一念であるとされ、また「言一念者、信心無二心故日一念。是名一心。一心則清浄報土真因也(一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり)」(聖典全書二・九四)と釈されている。
【釈名】
「信」とは疑蓋無雑、すなわち如来の本願に対して疑いがないという意味であり、三心即一の信楽のことをいう。「一念」とは時剋の極促、すなわち信心獲得の最初の時をいい、信相においては無二心、すなわち本願を信じて疑いのない一心をいう。
【義相】
宗祖の釈義において、衆生の往生成仏の因は真実の信心すなわち「信楽」のほかにないとされるが、そのことを、「信文類」三一問答の法義釈下に、第十八願成就文の「一念」を信の一念とする釈を通して鮮明にされたのが、信一念釈である。
そこではまず、「真実信楽」に「一念」があると示され、その「一念」について「一念はこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰す」と釈されている。続いて引かれる第十八願成就文では、「信心歓喜乃至一念」が「信心歓喜せんこと、乃至一念せん」(聖典全書二・九三)と訓まれ、この「一念」が信の一念であるとして、「信楽開発の時剋の極促を顕」すものとされているのである。
この、時剋釈においては、「時剋の極促」の意味が問題となる。「極促」の「促」について、延促対の「促」とするのと、奢促対の「促」とするのとのこ説がある。延促対とは、「促」を「延」に対する語、すなわち「のびる」に対する「ちぢまる」を意味する語とするのであり、奢促対とは、「促」を「奢」に対する語、すなわち「おそい」に対する「はやい」を意味する語とするのである。つまり、延促対では、獲信の後、行者の命が延びてゆくにしたがって信心も延びてゆくその時間がちぢまりきった極限を信の一念とするのであり、それは時間的に延びてゆく信心を、信心の始まる最初の時に無限に近づけていった結果が信心獲得の「最初の時」そのものとなるということを意味する。一方、奢促対でははやくなればなるほど時間の経過は短くなるのであり、はやさの極限である、時間の経過を要しない「最短の時」を信の一念とするのである。
この二説について、延促対の文証は『略典』の「就獲得往生心行時節延促、言乃至一念也(往生の心行を獲得する時節の延促について、乃至一念といふなり)」(聖典全書二・二六三)が、奢促対の文証は「行文類」二機対の「奢促対」(聖典全書二・五八)、『銘文』の「機に奢促あり」(聖典全書二・上六四四~六四五)などが挙げられるが、『略典』の文は「行文類」・『銘文』の文と異なり「乃至一念」についての釈であることが、延促対を取る説の有力な根拠とされる。一方、当該の「時剋の極促」の「促」に、西本願寺本・高田本に共通して「はやい」を意味する「トシ」の左訓が付され、また「行文類」六字釈(聖
典全書二・三六)に示される「時剋之極促(時剋の極促)」の「極促」にも、高田本に「キワメテトキナリ」の左訓が付されており、これらは奢促対を取る説の根拠となる。
しかしながら、現存する唯一の真蹟本であり、宗祖が晩年に至るまで推敲を加えられた坂東本には如上の左訓は付されていず、「信楽開発の時剋の極促」を、信心を獲得する最初の時と理解するのが妥当である。
なお、ちぢまりきった極限とは時間の幅はゼロであるということであり、時間の経過を要しない最短の時と意味は変わらない。
そこで、あらためて第十八願成就文をみると、「乃至一念」の「一念」とは「聞其名号信心歓喜」と、名号法を領受する時、すなわち受法の時を意味する。続く、「至心回向」は獲信の構造であり、「願生彼国」は獲られた信心歓喜すなわち信楽の義別としての欲生であるから、「一念」は「即得往生、住不退転」に直接する。そして、宗祖が『一念多念文意』や『唯信妙文意』に「即得往生」の「即」を同時即と示され、また、「行文類」六字釈に「即言由聞願力光闡報士真因決定時剋之極促也(即の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時弧の極促を光闡するなり)」と、一念即時に往生決定すると示されることから、受法と得益とは同時ということになる。獲信は阿弥陀如来の回向によるのであり、受法得益同時の義とは、獲信による往生成仏決定の時、如来回向のほかに衆生による三業の造作がまったく関与しないことをあらわすのである。
続いて示される聞信一念釈には、「一念」とは「無二心」「一心」、すなわち疑蓋無雑の信であると示され、この釈は無疑の信相をあらわす信相釈とされる。そして、この無疑心が「清浄報土の真因」すなわち真実報土に往生して成仏する真実の因とも示されている。この「一念」の「信心」とは、衆生の三業が関わることなく、如来の回向によってのみ成るものであり、時剋釈に「信楽開発の時剋の極促を顕し」に続いて示されていた「広大難思の慶心を彰す」とは、こうした如来回向による「信楽」のあり方を示すものといえる。初一念は衆生の意業にかからないものではあるが、無念無想ではない。広大難思の法によって与えられる利益、すなわち無始己来迷界を流転してきた身が往生成仏決定の身となるという「広大難思」の事態、慶嘆するべき事態を信知するという「慶心」なのである。
「一念」の釈義に対して、信心獲得のその時を認識・記憶する必要があるとする一念覚知の説や、信心は獲得されたその時に衆生の意業に現れるとする意業安心の説があるが、一念覚知の説は、獲得した「信楽」とその時を認識・記憶する心とが別立することになり「無二心」とはいえず、また意業安心の説は、獲得に時間の経過を要しない往生成仏の唯一の因である「信楽」への衆生の三業の関わりを認めることになり、これらはともに「一念」の釈義を正しく理解した説とはいえない。宗祖の説かれた信一念釈とは、衆生の三業は関与せず、阿弥陀如来の回向のみによる信心獲得の即時に往生成仏が決定するという、唯信正因の義を明確に示す釈なのである。
十八願体 判決
平成二六年 安居
【題意】
第十八願所誓の内容をうかがい、その中心が「乃至十念」の称名念仏ではなく「至心信楽欲生我国」の三心にあることを明らかにする。
【出拠】
『大経』第十八願文には、「設我得仏、十方衆生、至心信楽欲生我国、乃至十念。若不生者、不取正覚。唯除五逆誹誇正法(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじと.ただ五逆と誹誇正法を除く)」(聖典全書一・二五、二・六七~六八)とある。宗祖は『本典』「信文類」に、第十八願の願名として五名を挙げ、標挙には「至心信楽之願(至心信楽の願)」(聖典全書二・六六)と示され、また『銘文』(聖典全書二・上六○三~六○六)に第十八願文を釈されている。
【釈名】
「十八願」とは、『大経』上巻に説かれた法蔵菩薩の四十八願の中、第十八願のことである。「体」とは、名に対する体、相に対する体ではなく主要という意味であり、中心となる内容をいう。
【義相】
第十八願所誓の内容、すなわち願事としては、願文に「十方衆生」と示される願の対象、「至心信楽欲生我国」と示される三心すなわち信心、「乃至十念」と示される称名念仏の行、「若不生者」と示される往生、「不取正覚」と示される仏の正覚などがあるが、衆生にとっての肝要は信心・念仏・往生であり、これらの願事の中で最も主要なるもの、すなわち願体をどこにみるべきかが、特に源空聖人による釈義との関連の中、「十八願体」において問題とされるところである。
源空聖人に先立つ相承においては、行・信・証のいずれを願体とみるべきか、必ずしも定かではない。だが、宗祖は「信文類」に、「無上妙果不難成、真実信楽実難獲(無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し)」(聖典全書二・六七)と、往生即成仏の果は獲信によって必然的に得られるのであり、獲信こそが肝要であると示されるので、往生を願体とみるのは妥当とはいえない。よって、善導大師が『散善義』の就行立信釈に称名正定業の根拠として示される「順彼仏願故」の「仏願」や、源空聖人が三選の文に「称名必得生」の根拠として示される「依仏本願故」の「本願」が第十八願を指すこと、また第十八願が「念仏往生之願」と名づけられることから、「乃至十念」の称名念仏を願体とするのか、あるいは第十八願が「至心信楽之願」と名づけられ、「信文類」に第十八願の意について「涅槃真因唯以信心(涅槃の真因はただ信心をもってす)」(聖典全書二・七九)と示されることから、「至心信楽欲生我国」の三心、すなわち信心を願体とするのかが、この論題の眼目となる。
善導大師も源空聖人も教行証の三法組織によって、衆生の業作としての称名において業因を示され、就中源空聖人は浄土宗独立のため行行相対されたのであるが、両師ともに称名念仏を無信単行とされたのではないことは、両師の三心釈をみれば明らかである。特に源空聖人が、「生死之家以疑為所止、涅槃之城以信為能入(生死の家には疑をもって所止となし、涅槃の城には信をもって能入となす)」(聖典全書一・一二九八)と、さとりへの道には「信」が不可欠であるとする、信疑決判を示されたことは、重要である。
「信文類」に示された願名は、源空聖人から相承された願名である「念仏往生之願(念仏往生の願)」「選択本願」(聖典全書二・六七)の二名と、宗祖己証の願名である「本願三心之願(本願三心の願)」「至心信楽之願(至心信楽の願)」「往相信心之願(往相信心の願)」(同)の三名との五名である。ここでは、源空聖人の念仏往生義が第十八願を根拠とすることを示す「念仏往生之願」の願名から始まり、往生の因が選択されている願であることを示す「選択本願」の願名が続けられ、それを承けて往生の因とは信心であることを示す「本願三心之願」の願名が続けられ、その「三心」が、「至心信楽之願」と「至心信楽」の二心とされ、そして最終的には、「往相信心之願」の一心に結帰してゆかれるのである。
そして、続いて引かれる第十八願成就文では、「聞其名号信心歓喜、乃至一念(その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん)」(聖典全書二・六八)と「一念」の語が信の一念とされ、ここには願文の「乃至十念」にあたる称名念仏は見られない。宗祖による第十八願文自体の唯一の釈である『銘文』冒頭の釈文には、「わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる」と、三心を「信楽」におさめて勧める釈義と、「如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふ」と、「名号をとなえ」る称名念仏を勧める釈義との両方が説かれているが、後者は、その続きに「遍数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへる」とあるように、一多不定の称名念仏を勧めるのであり、また、同じく『銘文』に善導大師の『観念法門』の「下至十声」の「下至」を「〈下至〉といふは、十声にあまれるものも聞名のものおも、往生にもらさずきらはいことをあらはししめすと也」(聖典全書二・上六二七)と釈されるものと併せ考えれば、一多不定のみならず有無不定ということにもなる。有無不定の称名念仏を願体とすることはできない。『銘文』の第十八願の釈は、「乃至十念」の釈の後に、「ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしと也。この真実信心をえむとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定緊のくらゐにさだまるとみえたり」と、再び信をすすめられ、「若不生者、不取正覚」を、「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしむまれずは、仏にならじとちかひたまへる御のり也」と釈されることから、宗祖は、「至心信楽欲生我国」の三心を最も肝要とみておられたことは明らかである。
宗祖においても、『銘文』に、三選の文について、「〈称名必得生依仏本願故〉といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生をうる也、仏の本願によるがゆへなりとのたまへり」(聖典全書二・上六四二)との釈はあるが、これは、衆生をして信ぜしめ、称せしめ、往生を得しめる本願力について述べられたものであり、それは本願力であるところの名号を、その活動相である称名において示されたものなのである。
宗祖は、善導大師・源空聖人の念仏往生の法義を、名号法の活動相である称名において名号独用の法義を顕されたものであると領解されたと窺うことができる。第十八願の「乃至十念」は、「乃至」の語に示されるように回数や時節を問題にしない称名念仏であり、三心が獲得された後の信相続の行としての称名念仏を意味するのであり、乃至十念を名号の活動相と位置づけた時には正定業の相続となり、衆生の行為として位置づけた時には、往生の因に関与しない報恩行の相続となる。
阿弥陀如来の救済は、衆生の機功を要しない名号願力の独用によるものであり、救済の力用である名号法が衆生の心に至り届いた時、すなわち信楽開発の初一念に往生成仏が決定する。それゆえ宗祖は、唯信正因の法義を闡揚されたのであり、宗祖においては「十八願体」は「至心信楽欲生我国」の三心、すなわち信心であるとされるのである。
平成二十五年 判決
十念誓意 判決 平成二十五年
【題意】
本願文には、「至心信楽欲生我国乃至十念」と想われている。往生の正因は「至心信楽欲生我国」すなわち信心であるのに、なぜ本願に「乃至十念」と称名念仏が誓われているのか、願意をうかがう。
【出拠】
第十八願の「乃至十念」(真聖全一-九)。
【釈名】
「十念」とは、『大経』第十八願文に示された「乃至十念」の語を指す。
「乃至」とは、「乃」は上を承けて下を起こす語であるから、多くの用例においては「A乃至B」の形で「AからBに至るまで」と訓み、起点Aから終点Bに至るまでの意であり、その間に含まれる中間点を略することにおいて用いられる。
いま、『大経』第十八願文には「乃至十念」とあり、起点が示されていない。よって、起点を「十念」より多いものと考えれば従多向少の義であり、起点を「十念」より少ないものと考えれば従少向多の義となるl。あるいは起点を「十念」より多いものとも少ないものとも定めないのであれば、その両義ともに示されたものとなり、「十念」は中間の一点ということになる。
「十念」とは、善導大師が、『観念法門』(真聖全一-六三五)や『往生礼讃』(真生全一-六八三)において、『大経』第十八願の「乃至十念」を「称我名字下至十声(わが名字を称せんこと下十声に至るまで)」あるいは「称我名号下至十声(わが名号を称せんこと下十声に至るまで)」と言い換えておられ、また源空聖人が『選択集』(真聖全一-九四六) に、
問日。『経』云「十念」、『釈』云「十声」。念・声之義如何。答日。念・声是一。
問ひていはく。『経』に「十念」といひ、『釈』に「十声」といふ。念・声の義いかん。答へていはく。念・声は是一なり。
と示されているように、「十声の念仏」のことである。
宗祖は、この釈義を承けて、『尊号真像銘文』(真聖全二ー五六〇)に
「乃至十念」とまふすは、如来のちかひの名号をとなえむことをすゝめたまふに、遍数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。
と述べられ、また、『一念多念文意』(真聖全二-六一二)にも、
本願の文に「乃至十念」と誓ひたまへり、すでに十念とちかひたまへるにてしるペし、一念にかぎらずといふことを、いはむや乃至とちかひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを。
と示されている。
すなわち、「十念」の「十」とは遍数であり、「念」とは称名念仏ということである。
この宗祖の釈義からも明らかなように、『大経』第十八願文に示された「乃至十念」の語は、称名の数に定まりのないことを示している。
道綽禅師の『安楽集』(真聖全一-四〇一)には、
又云十念相続者、是聖者一数之名耳。
また十念相続といふは、これ聖者の一の数の名なるのみ。
とあり、これは『観経』の「十念」について他想が間雑しないことについて述べられているものであるが、「十」という数自体に特別の意味があるものではないことを示すものである。よって善導大師が『往生礼讃』(真聖全一-六五一 において
上尽一形下至十声・一声等
上一形を尽し下十声・一声等に至るまで
と示されるように、「乃至十念」の語は念仏相続の意を示している。
また、「誓意」とは、誓願の意図という意味である。
すなわち、「十念誓意」とは、阿弥陀仏が第十八顧において「乃至十念」すなわち念仏の相続を誓われた意図を窺うということである。
ちなみに、宗祖は四箇所で「乃至」の語意を示されている。
一つは「行文類」(真聖全二-三四)に、
経言乃至、釈日下至。乃下其言経典、其意惟一也。
経に乃至といひ、釈に下至といへり。乃下その言は異なりといへども、その意これ一なり。
とある。これは源空聖人の釈をうけて、「乃至」と「下至」とは同じ意味であると示すものであり、「乃下合釈」という。
二つには、『浄土文類聚鈔』(真聖全二-四四四) に、
経言「乃至」者、兼上下略中之言
経に「乃至といふは、上下を兼ねて中を略するの言なり
とある。これは「乃至という言葉そのものの意味として、上すなわち多数と下すなわち少数とを兼ねて、中間を略する語であることを示すものであり、「兼両略中」という。
以上の二義は、「乃至」という言葉そのものの意味を明らかにされたものである。
三つには、「行文類」(真聖全二ー三四) に、
復乃至者、一多包容之言。
また乃至とは、一多包容の言なり。
とある。これは『大経』流通分の文を引かれた後、その中「乃至一念」の語について、「乃下合釈」の義を示し、その後、「乃至」の意を『大経』第十八願文の「乃至十念」の立場より明らかにされたものであり、「一多包容」 という。
四つには、「信文頼」(真聖全二-七二) に
言乃至者、摂多少之言也。
乃至といふは、多少の言を摂するなり。
『一念多念文意』(真聖全二ー六〇五)に
乃至は、おはきおも、すくなきおも、ひさしきおも、ちかきおも、さきおも、のちおも、みなかねおさむることばなり。
とある。これらは、『大経』第十八願成就文の「乃至一念」の「乃至」の語を、同じく『大経』第十八願文の「乃至十念」の立場より明らかにされたものであり、「総摂多少」という。
以上の二義は、「乃至」という言葉について、『大経』第十八願文の「十念」の上に置かれている意味を明らかにされたものであるから、当然、意味としては変わるものではない。いずれも、回数の多少や相続の長短に関わらないことを述べられたものである。
いずれにしても宗祖は、先に引いた『尊号真像銘文』『一念多念文意』において、「遍数の定まりなきほどをあらはし」「称名の遍数さだまらずといふことを」と述べられているように、「乃至十念」とは、念仏の回数が定まっていないということを示しており、つまりは念仏の相続を示すものなのである。
【義相】
【釈名】に示した『一念多念文意』 の文の後には、
易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり。
と結ばれている。すなわち称名の遍数に定まりがないということは、数をたのみ機功を要しない念仏ということであり、機功の不要はそのまま易行易修のものであることに他ならない。また、機功の不要はそのまま、名号そのものに阿弥陀仏の万徳が円備せられているということであるから、念仏は易往の道なのである。このように易行であり易往であるということは、すべて阿弥陀仏の本願のはたらきの上に成立しているものであるから、「大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり」と述べられているのである。
すでに第十八願すなわち本願において「至心信楽欲生」の三心が誓われ、衆生の往生は信の一念において決定している。その信心とは阿弥陀仏の本願の領受に他ならないが、その本願のはたらきは衆生の上に生涯相続するものである。衆生の称名念仏は、衆生の上に相続する本願のはたらきのすがたであり、「乃至十念」と誓われた念仏の相続はそのまま、他力の信心がたもたれているすがたに他ならない。時処諸縁をきらわず、行住坐臥をえらばず、老若男女にかかわらず、称名の遍数のさだまりなき他力の念仏は、生涯相続する信心のすがたなのである。すなわち「乃至十念」とは、信相続の易行をあらわすものであり、それこそが「乃至十念」と本願に誓われた願意なのである。
この「乃至十念」の他力念仏について、善導大師は、『観経疏』「散善義」(真聖全一 -五三八)において
行住座臥、不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業。順彼仏願故。
行住坐臥、時節の久近を問はず、念念に捨てざるは、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに。
と示されている。称名念仏が易往であり易行であるのは、本願のはたらきの上に成立するものであるから、このように、称名を正定業と示されるのは、法の徳においていわれているのであり、「行住坐臥、時節の久近を問は」ぬということは、如来の本願のはたらきが衆生の上に生涯はたらき続けていることをあらわしている。この称名念仏を報恩行とされるのは、信心決定し、往生の因が決定した衆生の生活は報恩の他はなく、如来の本願をよろこび、その感謝の思いから衆生の口に出るのが称名念仏だからである。そしてこの称名念仏が報恩行となるのは、善導大師が「かの仏の願に順ずるがゆゑに」と示されるように、称名念仏こそ本願に誓われた浄土往生の正定業であるからに他ならない。すなわち如来の本願に順じた正定業であるからこそ、その如来の本願のはたらきに対する報恩の行となるのである。
このように、本願に「乃至十念」と誓われているのは、他力の信心の相続がそのまま念仏の相続となってたもち続けられることを示し、それは阿弥陀仏の本願が衆生の生涯の上にたもち続けられていることを示されたものである。
起観生信 判決 平成二十五年
【題意】
『浄土論』に説かれる「云何観云何生信心(いかんが観じ、いかんが信心を生ずる)」 について、五念門行と信心の関係を明らかにし、信心相続の義を窺う。
【出拠】
『論註』巻下
起観生信者、此分中又有二重。一者示五念力、二者出五念門。示 五念力者、
云何観云何生信心。若善男子・善女人、修五念門行成就、畢竟
得生安楽国士見彼阿弥陀仏。
起観生信とは、この分のなかにまた二重あり。一には五念力 を示す。二には五念門を出す。五念力を示すとは、
いかんが観じ、いかんが信心を生ずる。もし善男子・善女
人、五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に
生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得。
(真聖全一-三一二・七祖註釈版一〇〇)
『浄土論』
云何観云何生信心。
いかんが観じ、いかんが信心を生ずる。
(責聖金一-二七〇・七祖註釈版三二)
【釈名】
「起観」について、「起」は起行の意であるが、今は『浄土論』の「云何観(いかんが観じ)」とあるうちの「観」を承けて「起観」と示されたものであるから、「起観」 は 「云何観(いかんが観じ)」 の「観」 と同意である。
次に 「生信」 について、「生」 には、「発生」 「生長」等の意があるが、今は『浄土論』の 「云何生信心 (いかんが信心を生ずる)」とあるうちの 「生信心 (信心を生ずる)」 を承けて 「生信」 と示されたものである。
よって、「起観生信」 とは、『浄土論』に示された 「云何観云何生信心 (いかんが観じ、いかんが信心を生ずる)」 について、その義を窺う御論題である。
【義相】
『論註』において示された 「起観生信」 の語について、『浄土論』の 「云何観云何生信心 (いかんが観じ、いかんが信心を生ずる)」を離れて論じるのであれば、「起観」 と 「生信」 の意味するところを窺い、両者の関係を明らかにしていくことになるが、従来このことについてはさまざまな釈義がなされており、大きくは 「起観」 の示す観察行を方便と見る場合と真実と見る場合の二つに分かれる。
前者の場合、「生信」 の 「生」 は 「発生」 の義であり、方便自力の観察行が弘願他力の信心を生じることとなる。自力行によって往生の正因たる信心を生じるのであれば、自力行に往生の因を生じさせる功を認めるものであるから、今はこの義をとらない。
後者の場合、主に次の三つの義がある。
一つには、弘樹の観察(『浄土論』の三厳二十九種荘厳功徳の観察、あるいは仏の本願力を観ずる二と) が衆生の信心を生ぜしめるという義である。この場合の 「生」 は 「発生」 の義であり、基本的には初起の信心についていう。 (観行発生信心)
二つには、信心獲得後の弘願の観察が、衆生の信心を相続させるという義である。 二の場合、「生」 は 「生長」 の義であり、後続の信心についていう。(観行生長信心)
三つには、起観を観見もしくは観知の義とし、信を願生心として、起観と生信とを一と見る義である。(起観即生信)
この三義において、「起観」 を五念門の一つである観察門と見るのか、あるいは観察門を五念門を代表しているものとして 「起観」を五念門行を修めることと見るのか、あるいは偈頌に示される「観仏本願力 (仏の本願力を観ずるに)」 等の 「観」 と見るのかで、その釈義の内容も異なるものとなり、また、能観の衆生に 「生信」 の功を認めるのか、所観の仏智(仏徳・仏力・本願力) がよく「生信」 せしむると見るのかによっても、釈義の内容が異なってくる。
しかし、いずれにしても、基本的には、「起観」 は行者の意業であって、「生」 を 「発生」 「生長」 いずれの義と取るにしても、行者の意業が 「生信」という事態に関与するというのであれば、その釈義の領解には相応の注意が必要である。今は【釈名】 において窺ったように、「起観生信」 とは、『浄土論』 の 「云何観云何生信心 (いかんが観じ、いかんが信心を生ずる)」 の文を承けて示された言葉として、その義を窺う。
まず、『浄土論』において、「云何観云何生信心 (いかんが観じ、いかんが信心を生ずる)」 とある中、信心について述べられている箇所は、偈頌・長行を通じて、帰敬序の 「世尊我一心」 (真聖全一-二六九・七祖註釈版二九) より外 (ほか) にはない。よって、「生信心(信心を生ずるご とは、『論註』に自督と示された、偈頌の 「我一心」 を生じることである。「云何生信心 (いかんが信心を生ずる)」の信心が偈頌において述べられた 「我一心」 であれば、同様の文脈で「云何観 (いかんが観じ)」とあるのであるから、「観じ」 とある内容も偈頌において示された内容に他ならない。『浄土論』に 「云何観察。智慧観察、正念観彼(いかんが観察する。智慧をもって観察し、正念にかしこを観ず)」 (真聖全一-二七一・七祖註釈版三三)とあるように、具体的には五念門行によって観察された内容が偈頌の「観」、すなわち偈頌において讃嘆されるところの浄土の相となるのである。このことは、『浄土論』自体が長行に示される三厳二十九種荘厳の一々を偈頌のそれぞれの句と対応させていることからも明らか
である。
その対応について一例を示せば、
荘厳清浄功徳成就者、偈言 「観彼世界相勝過三界道」 故。
荘厳清浄功徳成就とは、偈に 「観彼世界相 勝過三界道」 とい
へるがゆゑなり。 (真聖全一-二七二・七祖註釈版三四)
とあるように、五念門行中の観察された内容が、偈頌のそれぞれの句の内容となっているということである。ここで観察された内容はすべて 「功徳成就」 と示されているように、法蔵菩薩所修の行によって成就したところの果相に他ならない。すなわち法蔵菩薩所修の行によって成就したところの果徳を、偈頌はその内容としているということである。このことが、「云何観 (いかんが観じ)」 の示すところに他ならない。
また、三厳二十九種荘厳の成就を観察するということは、『浄土論』に、「此三種成就願心荘厳(この三種の成就は、願心をもって荘厳せり)」 (真聖全一-二七五・七祖註釈版三八) とあるように、法蔵所修の四十八願の成就を観察することであり、願成就せるところの仏果すなわち阿弥陀仏に対する観察に他ならない。よって『浄土論』は続いて、
略説入一法句故。一法句者謂清浄句。清浄句者謂真実智慧無為法
身故。
略して一法句に入ることを説くがゆゑなり。一法句といふはい
はく、清浄句なり。清浄句といふはいはく、真実智慧無為法身
なるがゆゑなり。 (真聖全一-二七五・七祖註釈版三八)
と、法身について述べるのである。曇鸞大師が『論註』において、この箇所について二種法身説を示されるのは、三厳二十九種荘厳成就の観察こそ、阿弥陀仏そのものの観察に他ならないということを明示されたものである。
つまり、「畢竟得生安楽国土見彼阿弥陀仏 (畢竟じて安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得)」 (真聖全一-二七〇・七祖註釈版三二) とあるように、本来であれば菩薩道を行じた結果として、浄土に往生し阿弥陀仏に見えることになるのであるが、浄土願生者においては、すでに偈頌に示される願生の讃嘆において、阿弥陀仏に見える徳を領受していることになる。そのことを示しているのが、願生偈末尾の
我作論説偈 願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国
われ論を作り偈を説く。願はくは弥陀仏を見たてまつり、
あまねくもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん。
(真望全一-二七〇・七祖註釈版三二)
の四句であり、また、長行冒頭の、
此願偈明何義。示現観彼安楽世界見阿弥陀仏願生彼国故。
この願偈はなんの義をか明かす。かの安楽世界を観じて阿弥陀
仏を見たてまつることを示現す。かの国に生ぜんと願ずるがゆ
ゑなり。 (真聖全一-二七〇・七祖註釈版三二)
の文である。すなわちここでは、往生に先立ちて、阿弥陀仏に見える徳を具することが示されているのである。この阿弥陀仏に見える徳を具するがゆえに、「速得成就阿耨多羅三藐三菩提(速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得る)」 (真聖全一-二七七・七祖註釈版四二) のである。
曇鸞大師は、『浄土論』において偈頌の 「観彼世界相」 から「示仏法如仏」までが五念門行の観察に対応させられていることを承け、第二句から第四句までの、「帰命」が礼拝門、「尽十方無礙光如来」が讃嘆門、「願生安楽国」が作願門であるとし、また末後の四句すなわちち 「我作論説偈 願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国」 が回向門であるとされる。ここにおいて願生偈は、その第一句を除いてすべて五念門行に対応することが明示されたのである。すなわち五念門の行徳の全体は第一句を除いた偈頌の全体におさまる。
そして第二句以降の偈頌の全体が、第一句の 「世尊我一心」 という天親菩薩自督の詞におさまることは明らかであるから、長行に示される五念門の行徳は、願生偈第二句以降の内容となり、それは畢竟じて阿弥陀仏に見える徳として 「我一心」 の信心におさまることになる。
『浄土論』においては、
若善男子・善女人修五念門行成就畢竟得生安楽国土見彼阿弥陀
仏。
もし善男子・善女人、五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じ
て安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得。
(真聖全一ー二七〇・七祖註釈版三二)
とあるように、善男子・善女人が五念門行を修めれば浄土に往生すると説いているが、しかしながら、以下、五念門行を修めるものは、
如是菩薩、奢摩他毘婆舎那広略修行成就柔軟心、如実知広略諸法。
かくのごとく菩薩は、奢摩他と毘婆舎那を広略に修行して柔軟
心を成就し、如実に広略の諸法を知る。
(真聖全一ー二七五・七阻註釈版三九)
菩薩如是修五門行自利利他速得成就阿耨多羅三藐三菩提故。
菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他す。速やかに阿
耨多羅三藐三菩提を成就することを得るゆゑなり。
(真空全一-二七七・七祖註釈版四二)
等とあるように菩薩に他ならない。このことはこの五念門の行道が大乗菩薩道に他ならないことを示していると同時に、浄土を願生する善男子・善女人が、そのまま大乗の菩薩の行徳たる五念門の行徳を 「我一心」 の信心において領受し、その信心の内徳として持つことを示している。
さらに、『浄土論』においては、観察門について述べた後、その奢摩他・毘婆舎那の広略修行において巧方便回向が成就することを説く。この菩薩の巧方便回向は五念門行の回向門に他ならないが、ここに説かれる三種の菩提門相違の法を遠離し、三種の菩提門随順の法を満足することこそ大乗の菩薩道に他ならず、それは自身が菩提へと向かう自利の道であると同時に、一切衆生をして菩提へと向かわしめる利他の道でもある。
この菩提に随順する法を説きおわるにあたり、「如是菩薩智慧心方便心無障心勝真心能生清浄仏国土。応知。(かくのごとく菩薩は智慧心・方便心・無障心・勝真心をもってよく清浄の仏国土に生ず、知るべし)」 (真聖全一-二七七・七祖註釈版四二) とあるのは、大乗菩薩道は帰結として浄土へ往生する道であることを示すものであるから、菩薩の修める五念門の行道はそのまま、浄土往生の道に他ならない。
そのことを示しているのが、続く五功徳門の説示である。五念門行は一対一の対応において五種の功徳を成就し、その五種の功徳とは、浄土に往生し、衆生の利益へと向かう自利利他の徳である。よって、菩薩の修める五念門の行は、浄土に往生し、衆生の利益へと向かう自利利他の徳を成就し、浄土願生者は「我一心」の信心において、それを領受する。すなわち衆生の信心は浄土に往生し、衆生の利益へと向かう自利利他の徳をすべて具えたものとして成立している。「云何生信(いかんが信心を生ずる)」とは、どのように信心が成立しているか、ということであり、それは長行の説く内容の全体を示すものなのである。
この『浄土論』に示される入出二門の大乗菩薩道について親鸞聖人の讃嘆された偈頌が『入出二門偈頌』であるが、ここでは、この五念門行を修めるものを法蔵菩薩であると示されている。すなわち、
願力成就名五念 仏而言宜言利他 衆生而言言他別 当知今将談
仏力
願力成就を五念と名づく、仏をしていはばよろしく利他といふ
べし、衆生をしていはば他利といふべし。まさに知るべし、い
ままさに仏力を談ぜんとす。 (真聖全二-四八二)
とあるように、法蔵菩薩は五念門の行を修めて入出の功徳を成就し、衆生に回向するのであって、衆生は 「我一心」 の信心において入出二門の徳のすべてを領受することになる。
そして、
如実修行相応者 随順名義与光明 以斯信心名一心
如実修行相応は、名義と光明と随順するなり。 この信心をもっ
て一心と名づく。 (同前)
と示された後、淤泥華の誓えを示して、
斯示如来本弘暫 不可思議力即是 入出二門名他力
これは如来の本弘誓不可思議力を示す。すなはちこれ入出二門
を他力と名づくとのたまへり。 (真聖全二-四八三)
と、この信心は、如来の本弘誓不可思議力たる入出二門の徳を具えた他力の信心であることを示されるのである。
『入出二門偈頒』 の末尾には、「具足煩悩凡夫人 由仏願力獲摂取(煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す)」 (真聖全ニー四八四) とあるように、信心の獲得も本願他力のはたらきによるのであり、五功徳門の説示に示されるとおり、その他力に住持せられた信心は浄土往生に向かって生涯を通して相続し失われることがない。
よって、『論註』に 「起観生信」 と示され、『浄土論』に 「云何観云何生信心」と示されるところの意義は、他力に住持せられた、往生の正因たる信心の相続の義を明かすものに他ならない。
選択本願 判決
【題意】
「選択本願」の名義を窺い、真実願である第十八願に称名の一行を選取された意義を明らかにする。
【出拠】
もとより源空聖人の主著は「選択本願念仏集」という題号で示され、
同書の「本願章」には、
選択者、即是取捨義也。(中略)第十八念仏往生願者(中略)即今選捨前布施・持戒乃至孝養父母等諸行、選取専称仏号。故云選択也。
選択といふは、すなはちこれ取捨の義なり。(中略)第十八の
念仏往生の願とは(中略)すなはちいま前の布施・持戒乃至孝
養父母等の諸行を、選び捨てて、専称仏号を選び取る。ゆゑに
選択といふなり。 (真聖全一-九四一~九四三)
と釈されており、「慇勤付属章」にも、
一選択本願者、念仏是法蔵比丘、於二百一十億之中、所選択往生之行也。細旨見上。故云選択本願也。
一に選択本願といふは、念仏はこれ法蔵比丘、二百一十億のな
かにおいて、選択するところの往生の行なり。細しき旨上に見
えたり。ゆゑに選択本願といふなり (真聖全一-九八八)
と示されている。
また親鸞聖人は、『本典』「信文類」に、
斯心即是出於念仏往生之願。斯大願名選択本願
この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく (真聖全二ー四八)
と示されている。
【釈名】
「選択」の語は、『大阿弥陀経』に出ており、正依『大経』には出ていない。『大阿弥陀経』では、
選択二百一十億仏国土中諸天・人民之善悪、国土之好醜、為選択心中所欲願。
二百一十億の仏国土の中の諸天・人民の善悪、国土の好醜を選択して、ために心中所欲の願を選択せしむ。
(真聖全一-二三八)
と説かれ、一方、正依『大経』では、
摂取二百一十億諸仏妙土清浄之行。
二百一十億の諸仏妙土の清浄の行を摂取す。(真聖全一-七)
と説かれている。源空聖人は、この点について、
此中選択者、即是取捨義也。謂於二百一十億諸仏浄土中、捨人天之悪、取人天之善、捨同上之醜、取国士之好也。『大阿弥陀経』選択義如是。『双観経』意、亦有選択義。謂云「摂取二百一十億諸仏妙土清浄之行」是也。選択与摂取、其言雖異其意是同。然者
捨不清浄行、取清浄之行也。
このなかに「選択」といふは、すなはちこれ取捨の義なり。い
はく二百一十億の諸仏の浄土のなかにおいて、人天の悪を捨て
て、人天の善を取り、国土の醜を捨てて、国土の好を取るなり。
『大阿弥陀経』の選択の義かくのごとし。『双巻経』の意、ま
た選択の義あり。いはく「二百一十億の諸仏の妙土清浄の行を
摂取す」といへるこれなり。選択と摂取と、その言異なりとい
へどもその意これ同じ。しかれば不清浄の行を捨てて、清浄の
行を取るなり。 (真聖全一-九四一)
と述べ、「選択」と「摂取」とを同意とされる。しかるに、正依『大経』の「摂取」を用いず、「選択」の語を用いられるのは、意は同じであっても、「選択」の語には、選取・選捨の両義がより明示されるからに他ならない。
「本願」の語には、困本の願・根本の願の両義がある。因本の願とは、因位の菩薩の誓願の意であり、阿弥陀仏については、正依『大経』に示される四十八願全体を指す。
根本の願とは、因位の誓願の中、衆生救済の願意を表す根本となる誓願のことであり、阿弥陀仏については、衆生の浄土往生の因が誓われている生因願を指す。
広く見れば四十八願全体が衆生救済の願であるため、源空聖人は、「凡四十八願皆雖本願(おほよそ四十八願みな本願なりといへども)」(真聖全一-九五五) といわれているが、「往生の本願」としては念仏が誓われた第十八願の願意をもって「本願」の語を用いられている。特に「選択本願」の語について、源空聖人は念仏に関してのみ用いられるのであり、それは往生の行として諸行を選捨し、念仏の一行を選取されたところの本願、すなわち第十八願を指す。このことについて、親驚聖人の用例においても、「選択本願」の語は第十八願を示すものであり、『末灯鈔』において「選択本願は浄土真宗なり」(真聖全二ー六五八)と示されているのは、往生浄土の教えを真仮に分け、第十九願・第二十願の仮に対して第十八願を真と示したものである。
よって、「選択本願」とは、諸行を選捨し、念仏一行を選取した、阿弥陀仏の根本となる誓願の意であり、第十八願を示すものである。
【義相】
源空聖人の『選択集』「本願章」 (真聖全一-九四二頁・九四三頁)には、四十八願中の無三悪趣の願、不更悪趣の願等について、選取・選捨が示されている。第十八願に関しては、
即今選捨前布施持戒乃至孝養父母等諸行、選取専称仏号。故云選択也。
すなはちいま前の布施・持戒乃至孝養父母等の諸行を選び捨て
て、専称仏号を選び取る。ゆゑに選択といふなり。
とあり、往生の行について、法蔵菩薩が諸行を選捨し、称名念仏を選取したと述べられている。この諸行を選捨して称名念仏を選取された理由について、『選択集』「本願章」(真聖全一-九四三頁~九四五頁)に勝劣・難易の二義の比較で示される。勝劣の比較とは、万徳の所帰たる名号であるから念仏を勝とし、それに対しておのおの一隅を守るのみの諸行を劣とするものである。また、難易の比較とは、一切の機に通じる易行である念仏が、諸機に通じない難行である諸行に対して、一切衆生を往生せしめんとする法蔵発願の願意が全うされたものであることを示している。
つまり、念仏を勝とするのは、衆生を往生せしめるすべての徳が阿弥陀仏の名号に摂在せるためであり、念仏を易とするのは、一切諸機に通じる行だからであり、すなわち称名念仏が機功を要しない往生行だからである。もとより、法蔵菩薩の発願、すなわち仏願の生起とは出離の縁なき衆生の存在であり、清浄・真実なきゆえに自力をもっては生死を出離できない衆生を度脱せしめる為なのであって、そのため、衆生を往生せしめる弥陀一仏の万徳を名号に摂め、衆生の機功を必要としない他力の念仏が選び取られたのである。よって衆生の往生は、「当知、生死之家以疑為所止、涅槃之城以信為能入(まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもって能入となす)」(真聖全一-九六七)とあるとおり、その名号を領受するところの信心において決定するのである。
「選択本願」の選択とは、二百一十億の諸仏の刹土を観見した後の法蔵菩薩による選取・選捨であるが、今、第十八願の称名念仏は、諸仏の刹土における諸仏の称名のいずれかを選取したものではない。なぜなら、諸仏の称名はすべて、機功を必要とする自力の称名であるから、選捨された諸行に属するものである。よって第十八願の称名念仏は、すべての自力の諸仏称名を選捨して、いずれも選取しなかったことにおいては無選択であり、ただ法蔵菩薩の心中において選び取られた他力の称名念仏なのである。
また、親鸞聖人は『唯信鈔文意』において、
この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす、その御すが
たに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこ
しあらはしたまふなり。 (真聖全ニー六三〇頁)
と述べられており、法蔵菩薩は一如法界よりかたちをあらわした方便法身とされる。一切諸仏の性徳もまた一如法界のうちに摂在せるのであれば、一切の諸行、すべての徳はすでに法蔵菩薩の心中にあるといわねばならない。ここにおいて称名一行をもって往生の行とされるのであるから、第十八願の称名念仏は、ただ法蔵心中より選取されたものであり、選捨することをまたぬ無選択の行である。よって、経に二百一十億の諸仏土よりの選択が示されるのは、無選択の上に選択の相を示して、念仏が一切の諸行に対し易徳最勝のものであることを示現されたものである。
すなわち、勝徳において、阿弥陀仏の内証・外用の功徳をすべて具え、往因の円成せることを明らかにし、易徳において、機功不要のゆえに、一切衆生を摂取する如来の平等の慈悲を明らかにされるのであって、選択本願の念仏は、一切の諸行を超過する易徳最勝のものであることを示されるのである。
平成二十四年 判決
正定滅度 判決
【題 意】
浄土真宗の法義において、此土では現生正定聚の益を得、彼土では滅度の益を得ると説かれている。したがって、此土の益と彼土の益とは明確に区別されるので、此土では一分たりとも滅度の利益を得ることはないということを明らかにする。
【出 拠】
『仏説無量寿経 (大経)』 の第十一願文には、「たとひわれ仏を得たらんに、国の中の人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずば、正覚を取らじ」(『真聖全』一・九)とあり、第十一願成就文には、「それ衆生ありて、かの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの聚聚および不定聚なければなり」(『真聖全』一・二四)とある。また、『教行信証』 「証文類」 の大証釈には、「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」(『真聖全』 二・一〇三、『聖典全書』二・一三三)とある。
【駅 名】
「正定滅度」 の 「正定」 は、願文上では 「定聚」 であり、「正定」 の語は 『御文章』 (一帖目第四通)(『真聖全』 三・四〇七)に拠る。定聚及び正定は、正定聚の略であり、不退の意、必定の意をあらわす。したがって、正定とは、必ず往生・成仏することが決定している聚類を意味し、邪定聚及び不定聚に簡ぶ呼称である。
また、滅度とは、煩悩を滅して生死海を渡るという意であり、仏果を得るということをあらわす。
【義 相】
『大経』の第十一願文では、得生のものは正定聚に住して、必ず滅度に至るという意であり、成就文では、得生のものは正定聚に住すると述べて、滅度については示されていない。したがって、滅度も正定聚も彼土の益と窺われる。
ところが、宗祖は、第十八願において、悲智円具の名号を聞信する時、仏因円満すると誓われているから、現生正定聚とされる。それは、
『如来会』の第十一願成就文の意を受けて、邪定聚・不定聚は、不可得生の此土の聚類であることから、正定聚についても此土の聚類であると看取されているのである。また、「易行品」 には、阿弥陀仏の本願について、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」 (『真聖全』一・二五九)と示し、「仏の無量力功徳を念ずれば、即の時に必定に入る」 (『真聖全』一・二六〇)として、信方便易行の現生不退を説いていることから、この意を受けて、信心を得ると同時に、仏果に至る身と定まるので、正定聚は現生の益であることが明らかとなる。
宗祖の聖教から窺うと、「信文類」 の信一念釈には、本願成就文を釈して、「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超へ、かならず現生に十種の益を獲」(『真聖全』二・七二『聖典全書』二・九四)とあり、先に当益を示して、後に現益をあげられている。また、追釈においても、横超断四流釈において滅度の益を示し、次いで、真仏弟子釈を展開される。これらは、浄土真宗における得益が、彼土の証果を本とし、此土では当果決定する正定聚に住することであると窺う。同様に、『一念多念文意』 の第十一願及び成就文の釈には、第十一願の中心は必至滅度であることを明らかにするために、「定聚にも住して」(『真聖全』二・六〇六、『聖典全書』 二・六六三)とあり、正定聚は現生の益であることを明らかにするために、「かのくににむまれむとするものは」(『真聖全』 二・六〇六、『聖典全書』 二・六六四)とある。
また、現生正定聚について、『大経』 に 「次如弥勒」(『真聖全』一・四四)とある意を承け、真仏弟子釈には便同弥勒釈を施し、『御消息』その他には、「弥勒におなじ」 「如来とひとし」「諸仏とひとし」等と示される。これらは、他力信心のものは、此土において不退の位に定まり、得生後に仏果を得るということをあらわしている。そして、仏果を得るという当益については、「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」(『真聖全』一一・七九、『聖典全書』二・一〇三)とあるように、命終と同時の事態であると示されている。
したがって、正定聚とは、「証文類」 大証釈に、「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」 とあるように、聞信の一念に摂取の光益を蒙り、名号大行が衆生心中に領受されて仏因円満するから、得生後に仏果を証得するということであって、此土における果徳顕現ということでは決してない。
また、『大経』の第十一願文及び成就文上では、彼土正定聚であり、『往生論註 (論註)』 の妙声功徳釈には、「剋念して生ぜむと願ずれば、亦往生を得て、則ち正定聚に入ると」(『原典版』 七祖篇、一三五)とあり、『一念多念文意』にも、「またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり」(『真聖全』 二・六〇七、『聖典全書』二・六六五)とある。これらは、究竟仏果を得た後の、因相示現の果後の広門相を顕したものである。すなわち、彼土正定聚は、正定即滅度であるから、従果降因の示現相ということである。
読経意趣 判決
【題 意】
浄土真宗の法義において、往因は、他力回向の信心であり、その他の一切の衆生の造作は関与しない。したがって、読経は、往生・成仏のための追善・供養の行業ではなく、信後相続の行業である本願所誓の称名に随伴するものであり、仏徳讃嘆と報恩の意から行うものであることを明らかにする。
【出 拠】
『仏説無量寿経(大経)』の流通分には、「たとひ大火の三千大千世界に充満せるあらんも、かならずまさにこれを過ぎてこの経法を聞き、歓喜信楽し、受持読誦して、説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん、多く菩薩ありて、この経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありて、この経を聞かんものは、無上道において、つひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し持誦し説行すべし」(『真聖全』 一 ・四六)とあり、『如来会』には、「経巻を読誦し受持し書写して、乃至、須臾の頃においても他のために開示し、勧めて聴聞して、憂悩を生ぜざらしむべし」(『真聖全』一・ニ一二)とある。この他、『仏説観無量寿経(観経)』の散善顕行縁には、「三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す」(『真聖全』一・五一)とある。
【釈 名】
「読経意趣」の「読経」は、経釈には「読誦」とあり、経典の文言の見・不見に拘わらず、音読するという意である。「経」は、弘願真実の法をあらわす仏説であるが、広義においては本願の意を明らかにする疏釈等も含む。「意趣」は、心持ち・心延えという意である。したがって、「読経意趣」とは、読誦における念仏者の意許という意である。
【義 相】
仏教の通義において、読経とは、『観経』の散善顕行縁に、散善三福の行福として読経を挙げるように、三世諸仏の浄業であり、それは、上求菩提・下化衆生であって、証果を得るための行業である。また、 追善供養とは、己の善根を他に回向することであるがヽそれは、自他 円融の妙理に達することにおいて、はじめて追善の道理を生じ、可能となるものである。
宗祖は、『恵信尼消息』等から窺えるように、追善回向のための読誦経典を廃して、名号を勧められる。しかしながら、阿弥陀仏の本願力回向によって、往生・成仏せしめられる念仏者において、読経は相続行であり、名号を称する略讃を開いた広讃の意であると窺う。
これを経釈から窺うと、『大経』には、「この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし」とあり、『如来会』には。 「経巻を読誦し受持し書写して、乃至、須臾の頃においても他のために開示し、勧めて聴聞して、憂悩を生ぜざらしむべし」とあって、自行化他の意が示されているが、これらは、信後相続の行業であると窺う。
『往生論註』の讃嘆門釈では、略讃の称名を中心とするが、「讃とは讃揚なり。嘆とは歌嘆なり」(『真聖全』一・三一四)とあって、阿弥陀仏の徳を歌い讃えるという広讃の意も存する。
また、『往生礼讃』前序「口業讃歎門」の釈には、略讃の称名は、讃歎門から外して深心釈における所信の行とし、口業讃歎門は、三種荘厳に対する広讃として、安心の三心にもとづく起行相続行という位置づけである。
さらに、「散善義」の就行立信釈における第四の称名は、行体としては、本願所誓の正定業であって、他の所聞となって任運に弘通するものであるという意である。読誦を合む前三後一の助業も、安心を起行においてあらわしたものであるから、称名に随伴するものであると窺う。
この他、『尊号真像銘文』には、「即嘆仏といふは、すなわち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになると也」(『真聖全』二・五八七・『聖典全書』二・六二四)とあり、称名には阿弥陀仏の徳を讃える広讃の意もあると示されている。
したがって、読経とは、名号を称する略讃を開いた広讃であり、信後相続の行業である称名に随伴するものとして、仏徳讃嘆と報恩の意から行われるものである。それは、自信教人信の姿であり、また、弥陀の大悲を伝えて衆生を化するという仏化助成ともなるものである。
発遣招喚 判決
【題 意】
「散善義」回向発願心釈の二河譬に説かれている発遣と招喚の関係について窺い、発遣の意は、要門を廃して弘願の法を勧めることであって、二尊一致して、弘願の法を勧められていることを明らかにする。
「出 拠」
「玄義分」の序題門には、「仰いでおもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎す。かしこに喚びここに遣はす、あに去かざるべけんや」(『真聖全』一・四四三)とあり、「散善義」の回向発願心釈には、「仰いで釈迦発遣して指へて西方に向へたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命已後かの国に生るることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんと喩ふるなり」(『真聖全』一 ・五四一)とある。また、『浄土文類聚鈔』には、「仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚によりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」(『真聖全』二・四五二、『聖典全書』二・二七四)とある。
「釈 名」
「発遣招喚」の語は、「玄義分」序題門の文、及び「散善義」回向発願心釈の「釈迦発遣して指へて西方に向へたまふ」「弥陀の悲心招喚したまふ」等に拠る。このうち、「発遣」とは、釈尊が阿弥陀仏の願力の道を行けと勧め遣わす意であり、釈尊の教法である。また、「招喚」とは、阿弥陀仏が浄土に来たれと招き喚ぶ意であり、本願招喚の勅命である。
【義 相】
「玄義分」の序題門(『真聖全』一 ・四四三)には、「娑婆の化主その請によるがゆゑに、すなはち広く浄土の要門を開く、安楽の能人は別意の弘願を顕彰す」とあり、二尊二教の意であるが、続いて、「阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざることなし」との経意を示して、阿弥陀仏の弘願他力による往生を明らかにし、「仰いでおもん みれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎す。かしこに喚びここに遣はす、あに去かざるべけんや」と述べて、発遣・招喚を説いていることから、釈迦・弥陀二尊は、一致して弘願の法を勧めていると窺う。
その意を二河譬から窺うに、それは、先の「玄義分」の序題門並びに「散善義」の回向発願心の第二釈を受けて、広く喩顕されたものである。すなわち、「散善義」には、「また回向発願して生ぜむと願ずる者は、必ず須く決定真実心の中に回向し願じて、得生の想を作すべし。此の心深信せること金剛のごとくなるに由りて」(『原典版』七祖篇・五二六)とあり、「信文類」では、「また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ」(『真聖全』二・五四、『聖典全書』二・七四)と示して、回向発願心は、深心の義別であり、弘願の信相をあらわしたものであると明らかにされる。したがって、二河譬は、総じては三心、別しては深心の相を喩顕するものである。
また、譬喩の文のはじめには、「いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん」(『真聖全』一 ・五三九)とあり、合法の文の終わりには、「仰いで釈迦発遣して指へて西方に向へたまふことを蒙り、また弥陀の悲心をもって招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて」とある。したがって、釈尊の発遣は、弥陀の招喚と同じく、弘願の法を勧められるのであり、また、異学・異見・別解・別行の人等に惑わされない金剛不壊の信相を示すものであって、仮に通じる義はない。
この他、『大経』の流通分には、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この一人は大利を得とす、すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」(『真聖全』一・四六)とある。すなわち、出世本懐の経である『大経』は、本願名号のはたらきによって大利を得ると開示しているので、釈尊の発遣は弥陀の招喚と一致する。また、『観経』の華座観においても、釈尊は「除苦悩法」(『真聖全』一 ・五四)と説いて黙し、応声即現に譲られていることから、要門の法を廃して弘願の法をあらわしていると窺う。
宗祖は、「散善義」の第五深信について、『愚禿鈔』に註釈を施し、利他信心をあらわすものであるとし、三随順をもって、真仏弟子であると示される。すなわち、『観経』所説の釈尊の教と『小経』所説の諸仏の意に随順することは、『大経』所説の弥陀の本願に随順するものであると示し、三経一致して、弘願他力の法を説き勧めていると明らかにされるのである。
平成二十三年 判決
信心正因 判決 平成二十三年
【題意】
本願には「三心」と「十念」とが誓われてあるが、往生成仏の正因は、「三心即一」の「信心」であり、もって唯信独達の法義であることを明らかにする。
【出拠】
「信文類」冒頭十二嘆徳中、「大信心」を「証大涅槃之真因」(『真聖全』二・四八、『聖典全書』二・六七)と的示され、「三一問答」では、「涅槃真因唯以信心」(『真聖全』二・五九、『聖典全書』二・七九)や「斯心者即如来大悲心故、必成報土正定之因」(『真聖全』二・六二、『聖典全書』二・八三)などと示される。さらに「信一念釈」を結んで「一心則清浄報土真因也」(『真聖全』二・七二、『聖典全書』二・九四)と示され、続く「真仏弟子釈」においても「金剛心行人(中略)必可超証人涅槃故」(『真聖全』二・七五、『聖典全書』二・九八)とあり、この真仏弟子たる他力信心の行者は、「窮横超金剛心故、臨終一念之夕、超証大般涅槃、故曰便同也」(『真聖全』二・七九、『聖典全書』二・一〇三)として「弥勒とおなじ」と高らかに宣言されている。さらに「信文類」には最後に長大な「逆謗摂取釈」が置かれるが、そこでも、一闡提について、『涅槃経』の引文や、「謗法闡提、回心皆往」(『真聖全』二・一〇一、『聖典全書』二・一二九)の『法事讃』の文などによって、他力信心による一闡提成仏が示されるのも、「信心正因」の義と窺われ、このように見れば「信文類」全体が、「信心正因」を明らかにされたものと見ることができる。そのゆえにこそ「信文類」別序に、当巻全体を統括して、「一心華文」 (『真聖全』二・四七、『聖典全書』二・六五)と強調されるのである。
この他、宗祖の著述には、随所に「信心正因」の義が示されており、何れも大切であるが、今は略す。
なお、歴代においても、覚如上人の『口伝鈔』(『真聖全』三・二八)や「聖人一流章」(『真聖全』三・五〇七)を始めとする蓮如上人の『御文章』などに「信心正因」が述べられ、爾来、今日に至るまで、この「信心正因」義は、浄土真宗の安心の綱格として脈々と受け継がれている。
【釈名】
「信心」とは、本願成就文に「信心歓喜、乃至一念。(中略)、即得往生、住不退転」(『真聖全』一 ・二四)と、信益同時として示される「信心」を指し、三心即一の「信楽」のことである。
この「信心」について、宗祖の釈義を窺うと、まず「信文類」信楽釈に「疑蓋無有間雑、故名信楽」(『真聖全』二・六二、『聖典全書』二・八三)として「無疑心」のことと示される。また同じく「信文類」では字訓釈に、「信楽」の「信」を釈して「真也、実也」(『真聖全』二・五九、『聖典全書』二・七九)等として、「真実心」のことと示されてある。覚如上人が、『最要鈔』に、「この信心をば、まことのこころとよむうへは」(『真聖全』三・五〇)と述べられるのは、この義を受けたものである。さらに宗祖は、『唯信鈔文意』に、「信はうたがふこころなきなり。(中略)本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ。」(『真聖全』二・六二一、『聖典全書』二・六八三)と、「無疑」の信心を「たのむ」と示されている。この義を受けて、蓮如上人が、「たすけたまへ」を、「たのむ」と直結することによって、信順許諾の義へと規定し直されたのである。
「正」は「正当」・「正定」の義。「因」は「因種」の義である。ゆえに「正因」とは、「まさしきたね」という意である。宗祖の釈例を窺えば、『尊号真像銘文』に「正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねとまふす也。」(『真聖全』二・五九六、『聖典全書』二・六四二)と示されてある。
【義相】
①信心が正因となる根拠
第十八願因願文には、機受の全相として「三心」と「十念」が誓われてあるが、この内、「十念」には「乃至」の字が冠せられている。
「乃至」とは、一多不定の意をあらわす。数が限定されないことは、必然的に能称無功の他力の称名であることを意味し、また、一多不定であれば、往因の決定が確定できず、「十念」では「正因」が語れないこととなる。さらには、信行次第であることからも、「信心」が正因であると見込まれる。
右のように、因願文では、機受の全相として、正因の「三心」と、信相続易行の「十念」が誓われているが、成就文においては、往因決定が端的に示されている。第十八願成就文の「乃至一念」を、宗祖は、「信一念釈」において「信の一念」と釈される。聞信の極促の一念に、「即得往生住不退転」と、信益同時の義が示されるのである。信心と利益との間に、何の介在する余地もないからこそ、正因は信心にきわまる。
また、宗祖は、「信文類」の随所において、さまざまに信心の具徳をあらわされている。一例を挙げれば、「是心即是大菩提心、是心即是大慈悲心、是心即是由無量光明慧生故」(『真聖全』二・七二、『聖典全書』二・九五)と、「信心」は、「願作仏心、度衆生心」の横超の「大菩提心」であり、また「大慈悲心」であり、「智慧」の心でもある。『和讃』に「信心の智慧なかりせば」(『真聖全』二・五二〇、『聖典全書』二・四八六)とあるのは、信心についての智慧の徳義を讃えているのである。また、「信文類」には、『涅槃経』の「大信心者即是仏性」(『真聖全』二・六三、『聖典全書』二・八四)等の文を引き、このこころを、『和讃』に「大信心は仏性なり」(『真聖全』二・四九七、『聖典全書』二・三八五)と示される。これらの具徳によって知られるように、万徳の所帰であり、悲智円具である名号を領受したところが信心であるから、信心が正因となるのである。
②往生の正因と成仏の正因
第十八願では、「若不生者」と誓われ、「往生」の因として示されているが、宗祖は、現生正定聚・往生即成仏の義を示され、この点から、「信心」は、ただ、「往生」の正因としてだけでなく、「成仏」の正因でもある。だからこそ、「涅槃之真因唯以信心」と述べられるのである。
③信心正因の所顕
まず、第十八願に「三心」と「十念」が誓われてある内、「信心」が正因であり、「称名」は正因でないことが明らかにされる。正因でもない「称名」が誓われた理由は、機受の全相として信相続易行をあらわすためであり、行者の意許からいえば、報恩としてである。また、第十九願・第二十願の、自力の行信に対して、報土の真因は、他力弘願の信心ひとってあることが明らかにされる。
④信心正因と念仏為本・称名正定業
法然聖人の「念仏為本」の法義は、聖道の諸行に対して、念仏一行を立てる行々相対の法門である。法然聖人が、「為本」とされる「念仏」とは、「三心」と「十念」とを分けて、「十念」を為本とする「念仏為本」ではなく、三心具足の他力の念仏を「為本」とされるのである。『選択集』深心釈に、「生死之家以疑為所止、涅槃之城以信為能入」(『真聖全』一 ・九六七)とある信疑決判の文によっても知られるように、法然聖人の「念仏為本」と、「信心正因」の法義とは矛盾しない。
また、善導・法然両師の示される「称名正定業」は、称名の体徳としての名号の功徳によせて語っている。善導大師が、「称名正定業」の義を示されるにあたって、「不問時節久近」(『真聖全』一・五三八)と述べられるように、能称の功をつのるものではない。 ⑤信心正因と絶対他力
時に、「絶対他力」なら、何故「信心正因」という条件があるのか、という疑問が呈せられることがあるが、無因無果は仏教ではない。自らの仏果には、自らに「仏因」がなければならない。そのまさしき仏因としての「正因」が、他力廻向の信心であるというのが、「信心正因」である。仏因としては、自らの側において語らねばならないが、衆生の業作としては、まったくの他力無作、本願の独用である。
転教口称 判決 平成二十三年
[題意]
『観経』下々品についての善導大師の釈義をうかがい、さらに宗祖の釈義を通して、「口称」とあるも他力の念仏であって、自力の称名を策励するものではないことを明らかにする。
【出拠】
「散善義」下品下生釈に、
従「如此愚人」下至「生死之罪」已来、正明聞法念仏得蒙現益。
即有其十。一明重牒造悪之人。二明命延不久。三明臨終遇善知識。
四明善人安慰、教令念仏。五明罪人死苦来逼、無由得念仏名。六
明善友知苦失念、転教口称弥陀名号。(『真聖全』一・五五五)
とあるを、まさしき出拠とする。宗祖には、今の箇所について『唯信鈔文意』に釈義があり、
「汝若不能念」といふは、五逆十悪の罪人、不浄説法のもの、や
まうのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらず
は、ただくちに南無阿弥陀仏ととなえよとすすめたまへる御のり
なり。これは称名を本願とちかひたまへることをあらわさむとな
り。(『真聖全』二・六五三、『聖典全書』二・七一四)
と示されている。但し「正嘉本」では「称名」のところが「口称」(『真聖全』二・六三七)となっている。
【釈名】
「転」とは「回転」・「転換」・「転向」の義。説意や方向・性質を転換すること。なお、一般に「転度」の義として、「転教」を仏の教えを弟子にわたし、仏に代わって弟子や善知識に教えを説かしめることとする義がある。その義では、善知識が仏に代わって「口称」の教えを説く意となろうが、経説の事態と合致せず、『観経』下々品において、この義は取れない。
「教」とは「教法」・「教諭」の義で、「教化」の言説のこと。 「口称」とは口に弥陀の名号を称えることで、「観念」・「心念」に簡ぶ。
【義相】
①聖道諸師の釈義と善導大師の釈義
まず、当該の九品段を、聖道諸師は「他生観」(慧遠『観無量寿経義疏』大正三七・一八二a)などのように、定善観法の一部と見るのに対して、善導大師は、この一段を凡夫不堪の定善に対する散善と見て、「但是仏自開」(『真聖全』一 ・四四八)としている点は、以下に義相をうかがう上で、押さえておかねばならない一点である。
その上で、今の「転教□称」の部分について聖道諸師の見解が見られるものとしては、例えば元照の『観無量寿経義疏』では、転教前の 「令念仏」を「作観想」として「観念」と見、転教後の説示を「口誦為称十念謂十声也」として「口称」と見ている(大正三七・三〇四b)。
②『伝通記』・『楷定記』の釈義
鎮西派良忠の『伝通記』では、どちらも「称名念仏」としつつも、転教前の念仏を、「彼仏十力光明神力五分法身」を説く「広教」とするのに対し、転教後の念仏は、「略教」の「称名」としている(『浄全』二・四三〇)。
西山派顕意の『指定記』では、転教の前後法について、「心意」と「口称」、「難」と「易」とに分配して対比している(『西全』七・六一四)。
③宗祖の釈例
すでに出拠で見たように、宗祖には、この『観経』下々品について、『唯信鈔文意』において釈義が見られる。それによると、「汝若不能念」の句に、「転教」の契機と必然を見ておられることが知られ、転教の前後については、「こころに弥陀を念」ずることと、「くちに南無阿弥陀仏ととなえ」ることとを対比しておられ、転教の前後に明確な相違を見ておられることがわかる。
④「転教」・「口称」の物体
転教前後の相違をうかがうには、まず転教後の「口称」について押さえておく必要がある。「称名(口称)を本願とちかひたまへることをあらわさむ」とあるように、ここにいう「口称」とは、第十八願所誓の「乃至十念」であり、他力の念仏のことである。臨終苦逼の悪人における「至心」の念仏とは、他力の念仏以外にはありえない。だからこそ善導大師は、この下々品の念仏を願行具足の念仏と見られたのである。転教後の「口称」が他力の念仏であるならば、転教前の「教令念仏」は、それに対比される異質の内容でなければならないことになるであろう。これについて、聖道諸師や浄土異流の釈義は、右に見たように、「口称」に対して「観念」や「心念」と見たのである。
宗祖においても、「くちにとなえる」ことと「こころに弥陀を念」ずることとを対比される文脈からすれば、一見すると、「口称」と「心念」とが対比されているように見える。さすれば、転教前の教法は「心念」となるのであろうか。しかし、口称本願の伝統は善導大師を受けるもので、大師は、この散善全体を釈尊自問の本意と見ているからには、いまの下々品において臨終の悪人への「為説妙法」が、凡夫不堪の観念や心念であるはずはない。さらには、曇鸞大師の『論註』八番問答において、「善知識方便安慰、聞実相法」(『真聖全』 一 ・三・〇)と述べてあるのは、転教前の「種種安慰、為説妙法」(『真聖全』一・六五)を指すもので、それが名号の実相法であるならば、他力弘願の法以外にはない。これらの点からすれば、転教前の教法も、転教後の「口称」も、ともに他力弘願の念仏ということになる。宗祖はさきに、「くちにとなえる」ことと「こころに弥陀を念」ずることとを対比されていたが、そこには、同時に「やまうのくるしみにとぢられて」とも述べておられる。つまり、機の側のありようを問題とされているのである。転教の前後ともに他力念仏の教法を説き示しているのであるが、機の側の事情によって、「こころに弥陀を念」ずると取り違えたり、「やまうのくるしみにとぢられて」いるのである。この様子を見て取った善知識が、誤解の起きないように「口称」と的示したのである。
⑤称名策励と称名報恩
「口称」の称名を勧めるにあたっては、自力の称名を策励してはならない。蓮如上人が、勧修寺村の道徳に対して、「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏申さるべし」(『蓮如上人御一代聞書』、『真聖全』三・五三一)と、いきなり称名を勧めておられるのは、自力の念仏を策励されたものではない。その直後に、自力の念仏と他力の念仏との相違を懇切に説示しておられることからも明らかである。如来が先手であるからには、行者にとって、念仏は常に報恩・報謝でしかありえない。
最近特に「お念仏が出ない」とも言われるが、信心となり、称名となってはたらいてくださる仏力・他力に対して、私たちの自力で邪魔をしないことが大切である。
悉有仏性 判決 平成二十三年
【題意】
「悉有仏性」の語義をうかがい、「無有出離之縁」の身にあつて、「仏性」はいかに語りうるかを論じる。
【出拠】
『本典』には、随所に『涅槃経』の引文がなされ、至るところに「仏性」の語が見られるが、「悉有仏性」の句については、
「行文類」の『涅槃経』引文
我説一切衆生悉有仏性。一切衆生悉有一乗、以無明覆故、不能得見。 (『真聖全』二・三九、『聖典全書』二・五五)
「信文類」の『涅槃経』引文
是故説言一切衆生悉有仏性。大信心者即是仏性、仏性者即是如来。仏性者名一子地。(『真聖全』二・六三、『聖典全書』二・八四)
「真仏土文類」の『涅槃経』引文
常宣説一切衆生悉有仏性、是名随自意説。(中略) 一切衆生悉有仏性、煩悩覆故不能得見。
(『真聖全』二・一三一、『聖典全書』二・一六八)
などに見られる。これらを受けて、「真仏土文類」御自釈には、
故知、到安楽仏国、即必顕仏性。由本願力回向故。
(『真聖全』二・一四〇、『聖典全書』二・一七九)
とも述べられている。
また、『安楽集』にも、多くの『涅槃経』の引文が見られるが、この経の意を、第一大門「宗旨不同」に、「若依涅槃経、仏性為宗」(『真聖全』一・三八一)と的示し、この経意として、第三大門の「聖浄二門判」に「一切衆生皆有仏性」(同、一・四一〇)と述べられている。
【釈名】
「仏」、とは、覚者のこと。「玄義分」釈名門には、「自覚・覚他、覚行窮満、名之為仏」(『真聖全』一・四四三)とある。
「性」とは、本性・本質・性質の義。
したがって、「仏性」とは、仏の本質を意味する。これには因果両様の所顕があり、宗祖にも両様の説示がなされてあるが、一般に論じられる「悉有仏性」は、因仏性の義を中心としており、その場合は、仏になる可能性の意である。
【義相】
①『涅槃経』の所顕
『如来蔵経』や『宝性論』によれば「如来蔵の三義」としてまとめられている考えがある。①仏の智慧と慈悲が無限に遍満していること、②真如は無差別平等であること、③果を引くべき因として一切の衆生に存在していること、の三義である。この如来蔵はそのまま「仏性」の語と同意であるから、『涅槃経』は、この如来蔵を仏性の語で表現して、悉有仏性等の教説を示しているのである。
右を受けて、あらためて宗祖の引用された『涅槃経』の所顕をうかがうと、「言ー切衆生悉有仏性。大慈大悲者名為仏性。仏性者名為如来」(「信文類」引用、『真聖全』二・六二、『聖典全書』二・八四)とあるように、「仏性」とは、仏の大悲心であり、如より来生するという仏の側での言説であることに気付く。つまり「一切衆生悉有仏性」とは、仏の側から見た、約仏の語であり、仏のさとりの目から見れば、全ての衆生に、自他一如として、「仏の本質」「仏のいのち」を見るという意であると言える。すなわち、客観的に、衆生の上での「仏性」の有無について客体視した語ではないと思われるのである。勿論「仏性」は、如来の大慈悲の展開であるからには、仏の上でも、衆生の上でも、生仏両様に語りうるものに違いないが、「約仏」の言説を、「約生」に取り込み、衆生の仏性の有無のみを実体的に論じると、迷路に入り込む危険がある。『正法眼蔵』の「現成公案」で、「狗に仏性が有るや否や」を問題にしたのは、この辺りの迷路に注意したからでもあろう。
②『安楽集』の意図
右に見たように、『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」は、全ての衆生が平等に救われていく大乗の核心を表した言辞であったことから、その後の大乗仏教において、根幹を成した。
『安楽集』も、この基本命題を継承し、その上で第三大門(『真聖全』一 ・四一〇)に、「それなら、何故、現に迷っている者が存在するのか」との問いを起こし、この徴起から、末法の時代における聖道の証し難いことを「聖浄二門判」として展開されるのである。
また、第二大門では、「菩提心」の義について、「此心広大、遍周法界。此心究竟等、若虚空、此心長遠尽未来際」(同、一・三八九)と釈してあるが、これは、『涅槃経』の文意と同一である。これに続けて、法・報・応の三身に対応させ、「法身菩提」「報身菩提」「応身菩提」の三身菩提の義を詳述していくのである。
③『往生要集』の菩提心釈
日本天台では、「仏性」の義について、「正因仏性」「了因仏性」「縁因仏性」の三因仏性を語り、この三因円具して仏果を開覚する義を立てる。この義では、「一切衆生悉有仏性」は「正因仏性」のみを指す。源信和尚は、この天台の三因仏性説と、先の道綽禅師の三身菩提の義を合糅し、これを四弘誓願に配当する菩提心釈を展開する。ここで注意すべきは、この四弘誓願の成就も、此土ではなく、浄土を願生するものであり、また、この菩提心釈が、「正修念仏」作願門釈下(『真型全』一 ・七八三)にあることは、『浄土論』当面が、作願門を「止観」の「止」(奢摩他、定心)とするのに対し、『要集』では、菩提心と見ていることを示し、これは、道綽・善導両師の義を受けたものである。また、源信和尚においては、下々品の機に菩提心を見ず、十念往生の義を示すと見られ、いわゆる「菩提心正因説」とは、明らかに一線を画すと言える。
④宗祖の「仏性」の用例と菩提心釈
宗祖の「仏性」の釈例を見ると、一般に論じられてきた因仏性の義だけに偏らず、果仏性の義も両様に見られる。これは、『涅槃経』の経意を忠実に受けられたからであろう。因仏性の義と見られる文は、
「諸経讃」に、
大信心は仏性なり。 (『真聖全』二・四九七、『聖典全書』二・三八五)
と示される文や、『唯信鈔文意』にも、
この信心すなはち仏性なり。
(『真聖全』二・六三〇、六三三、『聖典全書』二・七〇二、七〇六)
など、「信心」を「仏性」とみる「信心仏性」の義は、因仏性の用例である。一方、果仏性の例としては、同じ「諸経讃」に、
仏性すなはち如来なり。
と述べられ、また同じく「諸経讃」に、
涅槃を仏性と名づけたり。や、
一子地は仏性なり。
とも示される。これらが果仏性であることは、「安養にいたりてさとるべし」とあることから知られる。「真仏土文類」の「故知、到安楽仏国、即必顕仏性」(『真聖全』二・一四〇、『聖典全書』二・一七九)も果仏性の義であり、『唯信鈔文意』に、「涅槃」の異名として「仏性」を挙げられる(『真聖全』二・六三〇、『聖典全書』二・七〇一)のも果仏性である。これら、因仏性と果仏性の用例が、多くは連続した文脈の中で示されていることは、まさしく仏の大慈悲心の顕現相として、両者が相即不二であることを表している。
「仏性」は、多く「菩提心」として論じられてきたが、宗祖は、「信文類」菩提心釈において、二双四重の教判をなされ、横超他力の大菩提心を他力廻向の金剛の信心と的示される。この菩提心釈に「信不具足之金言」とあるのは、信楽釈引用の『涅槃経』の文を指し、これも、「信心仏性」の義とうかがえる。
⑤真宗における「仏性論」
真宗における「仏性論」には、主なものとして、本具仏性説・遍満仏性説・無自性仏性説などが提示されてきた。大乗仏教の通則とされてきた「悉有仏性」を順守しながら、「無有出離之縁」の機の深信に違背せぬよう、また本願独用に違背する助縁他力にならぬよう、過去の先哲は、慎重に配慮しながら義を立てて来られた。また近年では。
「仏性」が実我的だとの批判がなされたこともあった。これらに留意しながら、一人ひとりが「学仏大悲心」において「仏性論」を真摯に研鑽せねばならない。
平成二十二年 判決
二種深信 判決 平成二十二年
【題意】
二種深信の釈義をうかがい、他力の信の相状が、捨機託法の二種一具をもって示される旨を明らかにする。
「出拠」
「散善義」深心釈(『原典版七祖篇』五一八、『真聖全』一・五三四)
言深心者、即是深信之心也。亦有二種 一者決定深信自身現
是罪悪生死凡夫、曠劫已来、常没常流転、無有出離之縁
二者決定深信彼阿弥陀仏四十八願、摂受衆生、無疑無慮、
乗彼願カ定得往生。
『往生礼讃』前序(『原典版七祖篇』七三六、『真聖全』一・六四九)
二者深心、即是真実信心。信知自身是具足煩悩凡夫、善根
薄少流転三界不出火宅。今信知弥陀本弘誓願、及
称名号、下至十声・一声等、定得往生乃至一念無有
疑心、故名深心
また、『愚禿鈔』(『原典版』六五五、『真聖全』二・四六七)には以下のように釈されている。
今斯深信者他力至極之金剛心 一乗無上之真実信海也
「釈名」
「二種」とは善導大師が『観経』の三心中、第二の深心を釈されて、二種有りといわれた機と法のことである。機とは私たち衆生のことで、「無有出離之縁」の性得の機のことをいう。法とはその性得の機を摂受して救う如来の本願力を「法」というのである。「深信」とは善導大師が『観経』の「深心」を「深信之心」と釈されたもので、この深信はすなわち第十八願文の信楽のことであり、二種深信とは信楽、つまり他力の信心のすがたを示したものである。
【義相】
①二種の開由
他力の信心である深信を機と法の二種に開き示されることで、いかなる罪悪生死の凡夫であっても、如来の本願力はその凡夫を摂受し、凡夫は願力乗託により必ず往生の大益を得るということが明かされる。『六要鈔』(『真聖全』二・二八一)に、無有等者、正明不論有善・無善不仮自功一、出離偏在他力上。聖道諸教盛談生仏一如之理、今教依知自力無功偏帰仏力と釈されるのはこの意である。また、法然聖人は『選択集』(『原典版七祖篇』一三八七、『真聖全』一・九六七)に深心を釈して。
深心者、謂深信之心。当知、生死之家以疑為所止 涅槃之城
以信為能入。故今建立二種信心、決定九品往生者也。
と、往生は九品の善悪の有無に関わるのではなく、自力では救われ難いこの身を如来の本願力は救い給うことを示し、それは信をもって能入とし、疑をもって所止とする旨を明かされている。
また、先哲は本願文によって「十方衆生」は機の深信、三信十念若不生者等は法の深信を顕しているとして、機と法の深信の二種は本願文に準じて開き示されたといわれる。あるいは『観経』を自力聖道門の教えとする諸師に対して、九品唯凡であり、願力乗託によってこそ凡夫は救われる旨を示すために深信が二種に開かれたとされる。
②機の深信の意義
機の深信(信機)とは私たちは本来救われがたい性得の機であることを信知することである。それは名号が至り届き、法に照らされることで自身が「無有出離之縁」の存在であること、自力無功であることが知らされることである。つまり、信機とは即捨機であり、三世を貫いて救われ難い身であることを信知すると同時に、自らの力をあてにする心、はからいを捨て去ることを意味するのである。
③法の深信の意義
法の深信(信法)とは、救われ難いこの身を摂受する如来の本願力の救いを信知することである。それは如来の本願力は性得の機を摂受して必ず救い給うと知らせていただくことである。これはすなわち自身が救われるには、願力に乗託するほかはないと信知することであり、つまり他力全託をいう。信法とは即託法であり、それはそのまま他力全託を意味するのである。
④二種一具の相状
機の深信とは自力無功と信知して自力を捨て去ることであり(捨自、捨機)、それはそのまま如来の本願力に乗託すること(帰他、託法)である。「信巻」(『原典版』三一五、『真聖全』二・七二)に、
言聞者衆生聞仏願生起本末無有疑心、是曰聞也。
と示されるが、仏願の「生起」とは「無有出離之縁」の機をいい、「本」とは法蔵因位の願行、「末」とはその結果の願成就、つまり「本末」とは法を指す。この内容を聞いて「無有疑心」であることが真実信心であり、真実信心には信機信法が二種一具として具わっていることが顕されている。つまり、二種深信は捨自即帰他、捨機即託法の関係にあり、この深信は本願力に無義信順する信楽1心にほかならないのである。
⑤二種深信の意義
「化身土文類」(『原典版』四九六、『真聖全』二・一五四)に、
然者濁世能化釈迦善逝、宣説 至心信楽之願心 報土真因信
楽為正故也。是以大経言信楽 如来誓願疑蓋無雑故言信也。観経説深心 対諸機浅信 故言深也。
と示されるように、深信とはそのまま『大経』の信楽のことである。
信楽は真実信心であり、その真実信心の二つの相を「散善義」に「機の深信」と「法の深信」として二種一具で明かされたものが二種深信である。二種深信とは自らが救われ難い身であり、自力無功であることと、如来の本願は救われ難いこの身を救い給う法であることを信知することであり、それがそのまま捨機即託法の一つの真実信心であることを顕している。
⑥二種深信の異義
一、二種の深信に時間的前後をみる異義
機の深信を法の深信の前に置き、入信の過程とすると、そこでは深信が真実信心の相として語られず、二種深信が真実信心の二種の相である義が成り立だない。二種深信が説かれる時、機の深信と法の深信とが次第して説かれることは「説必次第(説くに必ず次第す)」によるのであって、そこに時間的前後があるのではない。古来、二種深信は「闇去明来」の譬喩を以て説明される。暗い部屋が明るくなることは、闇が去ることと明かりが来ることが別々に起こるのではなく、一つのことである。二種の深信の関係もまたそのようであり、二種深信は前後起でも二心並起でもない。
二、罪悪感や絶望を信機とする異義
宗祖は『愚禿鈔』(『原典版』六五五、『真聖全』二・四六七)に七深信を挙げられ、「第一深信、決定深信自身 即是自利信心也」と、第一と第二とが一具ではない要門義の「自利信心」を自力の信として挙げておられる。これは例えば二河譬で三定死として語られる絶望感や、単に自らの強い罪悪感というものは二種一具の信ではなく、自力の信であることを顕している。法の深信を伴わない信は、二種一具の真実信心ではない。
三、信機信法を表裏一体の関係とする異義
表裏一体であれば、表が出ている時には裏が見えず、裏が出ている時には表が見えない。二種深信は捨機即託法の二種一具であり、真実信心の二つの相を開き示されているのである。一具である限り表裏の関係とはいえない。
四、救われ難いと信じることと、救い給う法を信じることは矛盾するとする異義
矛盾とはそもそも二つの事柄についていうものである。機法二種一具とは、別々の信心が並起したり合したものではない。二種深信とは如来の本願を信じる1心を、機と法の二種の相として示したものであるからそこに矛盾はない。
五、信機を初起のみとする異義
二種深信は二種一具であって、初起後続に一貫するものである。凡夫は信後に正定聚の機であっても、その自性は変わることはない。信機と信法は一具であり、それは初起から後続にかけて全く変わることはない。
六、「信」を「たのむ」と訓じて、「機をたのむ」という義を立てる異義
機の深信と法の深信とは二種一具である。その一具である深信の一方の相のみを切り取り、「機をたのむ」と論じることは二種一具の深信の義より成り立たない。二種深信とはあくまで真実信心の二つの相であり、他力全託を顕している。
三経隠顕 判決 平成二十二年
【題意】
宗祖の隠顕釈をとおして、三経の説相に差別あるも、意は弘願をあらわすにあることを明かにする。
【出拠】
『教行証文類』「化身土文類」(『真聖全』二、一四七)
問。大本三心、与観経三心、一異云何。
答。依釈家之意、按無量寿仏観経者、有顕彰隠蜜義。言顕者、即顕定散諸善、開三輩・三心。然二善・三福、非報土真因。諸機三心、自利各別而非利他一心。如来異方便、忻慕浄土善根。是此経之意、即是顕義也。言彰者、彰如来弘願、演暢利他通入一心。縁達多・闍世悪逆、彰釈迦微笑素懐、因韋提別選正意、開闡弥陀大悲本願。斯乃此経隠彰義也。
『教行証文類』「化身土文類」(『真聖全』二、一五六)
又問。大本・観経三心、与小本一心 一異云何。
答。今就方便真門誓願、有行有信、亦有真実有方便。願者、即植諸徳本之願是也。 行者此有二種、一者善本、二者徳本也。信者、即至心回向欲生之心是也。二十願也 就機有定有散。往生者此難思往生是也。仏者即化身。土者即疑城胎宮是也。准知観経、此経亦応有顕彰隠蜜之義。言顕者、経家嫌貶一切諸行少善、開示善本徳本真門、励自利一心勧難思往生。是以経説多善根多功徳多福徳因縁、釈云九品倶回得不退、或云無過念仏往西方、三念五念仏来迎。此是此経示顕義也、此乃真門中之方便也。言彰者彰真実難信之法。斯乃光闡不可思議願海、欲令帰無礙大信心海。良勧既恒沙勧、信亦恒沙信、故言甚難也。釈云直為弥陀弘誓重致使凡失念即生。斯是開隠彰義也。
また、『浄土文類聚鈔』(『真聖全』二、四五三)にも同様の趣旨の文がある。
【釈名】
「三経」とは『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』のことである。
「隠」とは「隠彰」の意で、その経に隠微に説かれている法のことであり、『観経』『小経』の「隠彰」は他力念仏による往生法である。
「顕」とは「顕説」の意で、その経に顕著に説かれている法のことである。『観経』の顕説は自力諸行の往生法であり、『小経』の顕説は自力念仏の往生法である。
そして「顕彰隠密」とは、『観経』『小経』に顕説と隠彰があり、このような説相をあえて用いられたのは釈尊の深い密意であると示したものである。
宗祖は、標には顕彰隠密として、釈には「是顕義也」と「顕」を釈し、彰については「斯乃此経隠彰義也」と「隠」と「彰」を出しておられる。この顕彰隠密の分釈については、諸説あるが、宗祖の釈には「顕」と「彰(隠彰)」の釈のみであり、それ以上の分類は根拠を見いだせない。よって顕説(顕)は要門義、隠彰(彰)は弘願義と見るのが妥当であろう。これらは一経の説相について言うものである。
【義相】
①『観経』の隠顕
『観経』は余経と異なり、教主に二尊があり、教義に要・弘があり、仏意に随自・随他があり、機根に熟・未熟がおり、宗旨に念・観があるなど、混然としており、たやすく窺うことはできない。善導大師・法然聖人は、念観廃立の釈義によって『観経』を理解されるが、それでは経末に至らなければ廃立が判然としない。よって、宗祖は隠顕釈を設けてその時々に廃立を示すのである。そのことを「化身土文類」(『真聖全』二、一四七)に、
依釈家之意、按無量寿仏観経者、有顕彰隠蜜義。
と述べ、『観経』の隠顕を示された。これは、善導大師の『観経疏』「玄義分」
(『真聖全』一、四四六)の、
今此観経即以観仏三昧為宗、亦以念仏三昧為宗。一心廻願往生浄土為体。
また、『観経疏』「散善義」(『真聖全』一、五五八)の、
上来雖説定散両門之益、望仏本願意、在衆生一向専称弥陀仏名。
などの文に依ったものである。顕説とは要門のことを指し、隠彰とは弘願を指すものである。それは「化身土文類」(『真聖全』二、一四七)に以下のように示される。
言顕者、即顕定散諸善、開三輩・三心。然二善・三福、非報土真因。諸機三心、自利各別而非利他一心。如来異方便、忻慕浄土善根。是此経之意、即是顕義也。言彰者、彰如来弘願、演暢利他通入一心。縁達多・闍世悪逆、彰釈迦微笑素懐、因韋提別選正意、開闡弥陀大悲本願。斯乃此経隠彰義也。
『観経』の顕説の義は、定散二善すなわち自力諸行による往生が説かれた法門である。しかし、この法門は自力諸行による化土往生の法門であって、真実報土の往生をあらわす法門ではない。『観経』にこのような方便の法門を顕著に説かれたのは、真実を方便で隠し、方便をさも真実のごとく説くことによって、聖道に執する者をして浄土願生を勧めようとされる、特別な従仮入真の仏意があることを明かそうとされたものである。
宗祖は次いで「斯乃此経隠彰義也」と、『観経』が隠顕の両義を持つ経典であることを示し、以下に十三文例を挙げる。『六要鈔』(『真聖全』二、三八六)には「此一段者今師聖人己心領解、隠彰意也」と言われており、隠彰の例文を挙げたものと見ている。そうして最後に、(『真聖全』二、一四八)
良知、此乃此経有顕彰隠蜜之義。二経三心、将談一異、応善思量也。大経・観経依顕義異、依彰義一也。可知。
と問答を結ばれる。『大経』の三心と『観経』の三心を対比してみると、経の「顕」の義からいえば異なっているが、「彰」の義からいえば二経ともに選択本願を宗としているから一つであると、二経の三心の一異という問いに答えたのである。
②『小経』の准知隠顕
『小経』は、その顕の義からいえば、『観経』に説かれたような定散諸行を少善根と嫌貶して、大善根である名号を開示されるものの、なおその称念の功徳にとらわれ、自力の心を励まし、難思往生といわれるような化土の往生を勧める真門自力念仏の教説である。しかし、隠彰の義からいえば、諸仏から証誠護念されるような、如来廻向の真実心を極難信の法として勧められており、その一心不乱の信心は三心即一の一心であるとあらわされ
ているというのである。宗祖は「化身土文類」(『真聖全』二、一五六)に
准知観経、此経亦応有顕彰隠蜜之義。
と『小経』の隠顕を示された。『小経』を見るだけでは、『小経』に隠顕のあることを知りがたいが、『観経』に准じて『小経』を見るならば、この経にも隠顕があることが知られる。それは「化身土文類」によると、『小経』の顕説の義は、善本徳本、つまり自力念仏による往生が説かれた法門であり、隠彰とは弘願、他力念仏による往生が説かれた法門である。しかし、『観経』は隠顕が一経全体にかかるが、『小経』は正宗分のうち、依正段と証誠段は弘願真実の義意をあらわしており、修因段にのみ隠顕がかかるのである。
③三経一致と差別
『大経』と『観経』・『小経』の顕説とを組み合わせれば、『大経』所説の法義は弘願法、『観経』所説の法義は要門法、『小経』所説の法義は真門法となり、三経所説の法義は相違する。しかし、『大経』と『観経』・『小経』の隠彰とを組み合わせれば、三経所説の法義はいずれも弘願法として一致する。
なお、先哲に『大経』の隠顕の義の有無が論じられる。これは胎化得失や流通分に見られる自力往生の説示と関連するものであろう。しかし、そもそも隠顕は説相についていうことであるから、真仮と同視してはならない。あくまで『大経』は顕露彰灼の経であり、弘願法のみがあらわされている。
難易二道 判決 平成二十二年
【題意】
『易行品』『往生論註』に用いられている難易二道の意をうかがい、『易行品』の当面では諸仏、菩薩の易行に通ずるが、龍樹菩薩の本意につけば弥陀易行であること、並びに易行の物体を明らかにする。
【出拠】
『易行品』(『真聖全』一、二五四)
仏法有無量門、如世間道有難有易、陸道歩行則苦、水道乗船則
楽。菩薩道亦如是。或有勤行精進、或有以信方便易行疾至阿惟越
致地者。如偈説。
『往生論註』(『真聖全』一、二七九)
謹案龍樹菩薩十住毘婆沙云。菩薩求阿毘跋致有二種道。一者難行
道、二者易行道。難行道者、謂於五濁之世於無仏時求阿毘跋致
為難。此難乃有多途、粗言五三以示義意。一者外道相善乱菩薩法、
二者声聞自利障大慈悲、三者無顧悪人破他勝徳、四者顛倒善果能
壊梵行、五者唯是自力無他力持。如斯等事触目皆是。譬如陸路歩
行刑苦。易行道者、謂但以信仏因縁願生浄土。乗仏願力便得往生
彼清浄土。仏力住持即入大乗正定之聚、正定即是阿毘跋致。譬如
水路乗船則楽。此無量寿経優波提舎蓋上行之極致不退之風航者也。
【釈名】
「難」とは困難という意であり、また「易」とは容易という意である。「難」について『易行品』(『真聖全』一、二五三)では、
間日、是阿惟越致菩薩初事如先説。至阿惟越致地者、行諸難行、
久乃可得。或堕声聞辟支仏地。若爾者是大哀患。
と示され、諸・久・堕の三難をもって、「難」の理由としている。「易」については「難」の理由から推し量ると一・速・不退ということになる。「二道」の「二」とは数をあらわし、「道」とは行道という意である。したがって「二道」とは難行道と易行道という二つの成仏道をあらわしている。
【義相】
①易行の所期
難易の二道は成仏について立てているのか、あるいは不退について立てているのかを問題にする。『易行品』(『真聖全』一、二五四)には、
或有以信方便易行疾至阿惟越致地者
とあり、当分は不退を所期としていることがわかる。しかし、不退までの難易であるなら、それは難も難ではなく、易もまた易ではない。仏教の目的はどこまでも「成仏」を望むものであるため、「成仏」までの難易とみるべきであろう。それは次の文によって知ることができる。『十住毘婆沙論』(大正二六、一〇三中)に、
若発願言我当作仏 是為希有甚難
といい、成仏の難しいことを示している。難行はすでに成仏までの難であるので、易行もまた成仏までの易である。また、『易行品』(『真聖全』 一、二五五)に、
欲於此身得至阿惟越致地成阿耨多羅三貌三菩提
とあり、また、
即入必定得阿耨多羅三貌三菩提(『真聖全』一、二五九)
と示されるように、成仏について難易を語っている義もあるので、易行の所期は成仏について立てているといえる。
宗祖はこれに基づき、「化身土巻」(『真聖全』二、一五四)に、
凡就一代教、於此界中入聖得果、名聖道門、云難行道。就此門中、
有大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・蜜、竪出・
竪超。則是自力、利他教化地、方便権門之道路也。於安養浄刹入
聖証果、名浄土門、云易行道。
と示される。
②易行の通局
『易行品』には易行が明かされているが、その易行は諸仏・諸菩薩の易行に通じるのか、それとも弥陀に局るのかという問題である。『易行品』当面からいえば、易行は諸仏に通じるが、龍樹菩薩の本意からみれば、弥陀に局るといえる。
『易行品』では、信方便易行によって阿惟越致に至ることが説かれた後に、十方十仏の易行道が説かれ、次いで弥陀仏・過去八仏・東方八仏・三世諸仏・諸大菩薩の易行道が説かれている。つまり、文相からいえば、易行は諸仏に通じているといえる。しかし、龍樹菩薩の本意に望めば、一、総讃別讃の異。二、広讃略讃の異。三、本願有無の異。四、往生有無の異。五、常念有無の異。六、回向有無の異などの理由により、易行は弥陀に局るといえる。
③易行の物体
弥陀易行の物体は称名とするのか、あるいは信心とするのかという問題がある。「信方便易行」の解釈によると、信心即易行とする説と信心の上での称名を易行とする説がある。前者においては、「信方便易行」の五字を信即方便即易行と捉える。信心の体である名号が易行の徳を有していることから、信心を易行と捉えている。後者においては、「方便」を力用と捉え、「信方便易行」を信心の力用による易の行とみている。つまり、信心の力用によってもたらされる易行であるため、称名を易行とするのである。称名が易中の易であることは信方便の信心から成り立っていることを理由としているのである。
このように、「信方便易行」に二説あるが、『易行品』においては、難行易行と行々相対しているため、称名を易行と捉えるべきであるといえる。宗祖も「行巻」(『真聖全』二、三四)に。
言行之一念者、謂就称名遍数顕開選択易行至極。
と述べ、称名において易行をあらわしている。
④二道判と曇鸞大師の釈義の交渉
二道判と曇鸞大師の釈義の交渉について、次の点に注意しなければならない。
一つには、「難」について『易行品』では諸・久・堕の三難をもって示し、『往生論註』では、自力をもって示している。この差異に関して、『易行品』は行相について「難」を示しており、『往生論註』では「難」の理由を「唯是自力無他力持」(『真聖全』一・二七九)といい、行の体について「難」を示しているといえる。
二つには、『易行品』(『真聖全』 一、二六〇)では、
人能念是仏無量力功徳即時入必定
と示し、現生即時に不退転に至るという現生正定聚が説かれている。
それに対して、『往生論註』(『真聖全』一、二七九)では
乗仏願力便得往生彼清浄土。仏力住持即入大乗正定之聚
と示し、浄土に往生して不退転に至るという彼土正定聚を示しているが、これは、彼土において仏のさとりを開いた者が示現する相、すなわち広門示現相である。
三つには、『易行品』(『真聖全』一、二五四)に「陸道歩行」「水道乗船」とあり、『往生論註』(『真聖全』一、二七九)では、「陸路歩行」「水路乗船」とある。『易行品』では「道」となっていたものが、『往生論註』では「路」となっているのである。しかし、両祖の上では特に区別する意図はないものと思われる。
なお、宗祖は、これを承けて「信巻」(『真聖全』二・六七)に
道之言対路。道者則是本願一実之直道、大般涅槃無上之大道也。
路者則是二乗三乗万善諸行之小路也
と示し、易行に対しては「道」、難行に対しては「路」を用いていることがわかる。
平成二十一年 判決
機法一体 判決 平成二十一年安居
【題意】
『御文章』に用いられている機法一体の意味を明らかにする。衆生の信心は如来のはたらきを領受したものであり、衆生の信心(機)と衆生を救う力・はたらき(法)とが別々のものではないことを明らかにする。
【出拠】
『御文章』三帖目第七通・四帖目第八通・同第十一通・同第十四通等に機法一体の語が出る。
【釈名】
「機」とは南無帰命の信心をいい、「法」とは阿弥陀仏の救いの法、すなわち摂取不捨の願力をいう。「一体」とは体は一つということである。つまり機法一体とは、衆生の信心(機)と阿弥陀如来の衆生救済の力用(法)とは、別々のものではなく、一つのものであることを意味している。
同じく機法の語を用いる「二種深信」において、「法」とは、機法一体の法と同じく摂受衆生の法を指しているが、「機」は、救われるべき衆生、性得の機、すなわち無有出縁の機を指している。よって、二種深信の機の語義は、機法一体の機の語義と異なっている。
【義相】
①機法一体の用例(『願願鈔』・『六要鈔』・『存覚法話』・『安心決定鈔』等)
機法一体という語は、衆生の何か(機)と如来の何か(法)とが一つであることを意味する語であり、種々の意味で用いられている。
(一)覚如上人の機法一体
覚如上人の機法一体は、『願願鈔』に見られるが、『改邪鈔』第十九条の説意からすれば、仏心と凡心との一体の意味で解することができる。
(二)『安心決定鈔』に見られる機法一体
『安心決定鈔』に見られる機法一体には、三種が見られる。すなわち、往生正覚一体の機法一体と、色心功徳の機法一体と、彼此三業不離一体の機法一体とである。
まず、「往生正覚一体の機法一体」とは、第十八願の「若不生者不取正覚」の誓いにより、衆生の往生(機)と阿弥陀如来の正覚(法)とが一つであるという意味で機法一体という。
次に、「色心功徳の機法一体」とは、機とは衆生の身心をさし、法とは仏の果体の功徳のことである。この仏の功徳が衆生の身心に入り満ち、ひとつになっている状態、つまり如来の功徳と凡心とが一体になっている状態をさして機法一体という。『御文章』の仏凡
一体と同一の意味である。
最後に、「彼此三業不離一体の機法一体」とは、阿弥陀如来の身口意の三業によって成就された名号が衆生に領受されるのであるから、衆生の称名(口業)・礼拝(身業)・憶念(意業)は、阿弥陀仏と離れないという意味で機法一体という。
(三)存覚上人の機法一体
存覚上人の機法一体は、『存覚法話』と『六要鈔』とに見られる。
『存覚法語』の機法一体は、『安心決定鈔』と同じく往生正覚機法一体であるが、『存覚法話』では、浄土往生後の仏凡の寿命の一体と転用されている。
『六要鈔』に見られる機法一体は、基本的には、第十八願の信(機)と第十七願の行(法)とが不離であることを機法一体と示されている。存覚上人においては、第十七願の行とは念仏であるから、信心と念仏との不離一体を機法一体と示されたと見ることができる。
②機法一体の釈相
『御文章』における機法一体は、まず南無の二字と阿弥陀仏の四字とに分釈されている。本来、南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま衆生の信心(機)であり、また南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま阿弥陀如来の救済の力用(法)であるが、「南無」の語は、もともと衆生の信をあらわす語と見ることができ、「阿弥陀仏」の語は、衆生救済の仏を意味しているので、拠勝為論して二字と四字とに分釈されたものである。『御文章』三帖目の第七通には、「しかれば、南無の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに阿弥陀仏と
いふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり」と、「南無」の二字を衆生の信心(機)、「阿弥陀仏」の四字を阿弥陀如来の救済の力用(法)として示される。すなわち、衆生の信心(機)である「南無」と阿弥陀如来の救済の力用(法)である「阿弥陀仏」とが一つの南無阿弥陀仏として成立していることを機法一体と示すのである。
しかし剋実通論すれば、南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま衆生の信心(機)であり、また南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま阿弥陀如来の救済の力用(法)であるので、『御文章』三帖目第二通に「さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ
南無阿弥陀仏なり」と六字皆機が示され、一帖目第十五通には、「南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり」と六字皆法が示される。
③仏凡一体との同異
機法一体の「一体」が、本来一つであることを意味するのに対して、仏凡一体の「一体」とは、本来は別のものが一つになることを意味する。仏凡一体の「仏」とは仏心を指し、『御文章』二帖目第十通に「如来のよき御こころ」といわれているもので、仏智・清浄
真実の心等ということもできる。「凡」とは凡心のことであり、同じく『御文章』二帖目第十通に「行者のわろきこころ」といわれているものである。これは、煩悩罪濁の心・虚仮不実の心等ということもできる。このような仏心と凡心とが一つになることを仏凡一体
という。
どのように一つになるかについては、『御文章』二帖目第十通に、「行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふ」とあり、『蓮如上人御一代記聞書』本第六十四条に「衆生のこころをそのままおきて、よきこころを御くはへ候ひて、よくめされ候ふ」と示されている。つまり、仏凡一体というのは、衆生の煩悩罪濁の心が、仏智によって転じられ、仏の清浄真実の心と一つになるという事態をいうのであって、『蓮如上人御一代記聞書』本第六十四条に「衆生のこころをみなとりかへて、仏智ばかりにて、別に御みたて候ふことにてはなく候ふ」といわれている。
【結び】
機法一体という語そのものは西山派でよく用いられる語であるが、『御文章』の中で蓮如上人は、機法一体の語を用いて浄土真宗の法義を明らかにされている。
機法一体の義そのものは、宗祖や善導大師の上にすでに存する。すなわち、「信文類」の三重出体の釈には、「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」とあり、至心の体は名号と示され、衆生の信心とは名号願力によって成立している信心であると示されている。また「信文類」に引用される善導大師の「散善義」の二河譬においても、「中間の白道四五寸といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ」と、白道とは信心を喩えたものであると示し、後に「かの願力の道に乗じて」と、白道とは願力のことであると示されるところに、衆生の信心(機)がそのまま阿弥陀如来の願力(法)であるということが示されている。
衆生の信心(機)と阿弥陀如来の救済の力用(法)とは、本来一つのものであり、衆生の信心は仏のはたらきによっておこるものであって、衆生自らがおこすものではない。
大行名体 判決 平成二十一年安居
【題意】
親鸞聖人が釈顕された大行の名義と物体をうかがい真実大行の義を明らかにする。
【出拠】
本典 「行文類」・『浄土文類聚鈔』等。文は省略する。
【釈名】
①大行の「大」には大・多・勝の三義がある。
「行文類」に大行とされる所以を「摂諸善法、具諸徳本」と明かされたのは、無量の徳をあらわしており多の義にあたり、「極速円満」は勝れた用徳をあらわし勝の義にあたり、「真如一実功徳宝海」は、広大無辺な真如にかなう性徳をあらわして大の義にあたる。
また、「行」とは、仏果に至るための行業をいう。『法界次第初門』には「造作の心よく果に趣くを名づけて行と為す」とあり、『法華玄義』には「それ行は進趣に名づく」とあり、「行」は造作進趣をその義とする。
【義相】
①大行の物体
大行の体は名号であり、名号は、衆生を運載し、往生成仏せしめる。この衆生運載を造作の義とし、往生成仏せしめる力用を進趣の義とする。
「行文類」の標挙に「諸仏称名之願」と第十七願をかかげてあるのは、十方世界の無量の諸仏によって讃嘆されている名号をもって大行とされる意である。第十七願は諸仏が弥陀の名号を称揚讃嘆されるという能讃の側に就けば、教が所誓であるが、諸仏によって讃嘆される「我名」すなわち所讃に就いて名号を所誓とし、行の願として出されているのである。
細註に「浄土真実之行」とあるのは、「化身土文類」に説かれる浄土方便の行、すなわち自力諸行・自力念仏との区別を示し、他力の称名をあらわしているとうかがう。「選択本願之行」の選択本願とは、第十八願の別目であるから、「選択本願之行」とは「乃至十念」の称名である。標願は法体の名号をあらわし、細註は衆生の能行をあらわしていることになり、法体の名号は固然たるものではなく、常に法界に流行して衆生の「称名」となって活動していることを示している。続く出体釈に「大行者則称無碍光如来名」とあるのも同意である。
この出体釈は、『論註』下巻の讃嘆門釈を承けているので、如実の称名を意味する。『高僧和讃』には、「如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり」と示され、また、「称」を「はかり」と釈する『一念多念文意』には、「疑ふこころ一念もなければ」と続けられるので、「称無碍光如来名」は、信後の称名、すなわち他力信心から流出した他力の称名である。出体釈は、他力の称名において、名号の活動が語られているのである。
続く称名破満釈や行一念釈等においても、称名で大行が語られているが、これらも法体の名号が衆生の上において、如実の称名となって活動していることを明らかにしているのである。
②本典における「行文類」の地位
本典における「行文類」の地位は、上「教文類」を承け、下「信文類」を導く。「教文類」には真実教たる『大経』の体を名号と示され、「信文類」の信は「聞其名号」の信であり、また名号を体とする信である。
すなわち、名号とは諸仏の所讃であり、衆生の所信であるが、釈尊の言教となって活動している名号が、そのまま衆生の信心の体となるのである。
なお、「行文類」の地位について、本典が「顕浄土真実教行証文類」と三法で立題されていることから、教・行・証の三法組織の中の「行文類」と位置づける義がある。これは、行中摂信した行をもって往因を語り、行とは真実信心を具した弘願の称名として、外聖道諸行に対し行行相対して念仏往生の法義を明らかにするのが「行文類」の所顕であるとする義である。
しかしながら、『本典』の構成自体は四法組織であり、「行文類」には、また「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」といわれる等、行信が並べ挙げられている文も多く、行中摂信の説相とはうかがいがたい。よって、この義はとらない。
③第十七願の我名と第十八願の乃至十念の関係
第十七願に誓われた「我名」、すなわち法体名号は固然としたものではなく、常に回向法として法界に流行し、衆生を往生成仏せしめるべくはたらき続けている。その名号を衆生が領受した相が第十八願の「至心信楽欲生」の信心であり、「乃至十念」の称名である。この名号を領受した信の一念に往因円満するから、それを信心正因という。
名号が「乃至十念」と衆生の口業にあらわれるのは第二念後のことであり、正因決定後の相続行としてである。
信後の行である「乃至十念」の称名には、二つの意味がある。一は称名の体徳よりいえば、名号全顕の称名であるから、称名即名号であって正定業である。二は称える者の意許からいえば報恩行である。第午七願に誓われた名号と第十八願の「乃至十念」の称名とは相即不二である。
④行信の関係
本典では大行、大信と行信次第で法義が明かされている。もし大信に先行する大行が称名であるとするならば、その称名は末信位の称名であり不如実の行ということになる。信心に先行する行としては、本願成就文に「聞其名号信心歓喜」とあるように、所聞所信の第十七願位の名号でなければならない。それを「本願名号正定業」といわれたのである。たとえ称名で所信の法が語られたとしても、常に称即名と名号について立信するのである。能称について立信するならば、明らかに自力に堕し能称正因となる。
「行文類」では信心、称名の全てが名号大行の活動相であり、衆生の往生成仏は名号の独用であることがあらわされている。「信文類」ではこの名号大行が衆生の上ではたらいて大信となり、衆生の往生成仏の正因となるという機受の極要が顕されている。よって行と信とは法と機との関係にあるというべきである。
本願一乗 判決 平成二十一年安居
【題意】
成仏の法は本願一乗のみであって、聖道門及び浄土門内の要門・真門を権仮方便として、本願の一法のみが真実の法門であることを明らかにする。
【出拠】
「行文類」一乗海釈、『愚禿鈔』、『一念多念文意』文は省略する。
【釈名】
「本願」とは、第十八願のことである。
「一乗」の「一」とは、唯一無二の意である。
「乗」とは、運載の意で衆生を大菩提に運載する意味である。
つまり、「本願一乗」とは、第十八願法、すなわち弘願法のみが衆生を大菩提に運載する唯一無二の法であるという意味である。
【義相】
(一)一乗の義を明かす
①所至の究竟
一乗法とは、究竟の仏果を所至とするものでなくてはならない。何故なら、究竟を所至としない乗は、究竟に至るためには、他の乗を必要とし、これでは一乗といえないからである。弘願法の所至は、「証文類」に「利他円満の妙位、無上涅槃の極果」と示され、それは第十一願所誓の滅度である。宗祖は滅度の転釈の中、「無為法身」を出されるが、これが一乗海釈中の「究竟法身」に他ならない。これはまた、『唯信鈔文意』に、「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」と釈される、いわゆる法性法身である。宗祖は、滅度の転釈を「一如」で結ばれ、「しかれば、弥陀如来は如より来生して」と、主伴同証すなわち衆生の所証と弥陀の所証とが一つであることを示される。そして、「行文類」引用の『往生礼讃』に、「諸仏の所証は平等にしてこれ一」と説示されるように、究竟の仏果は、一切の仏において平等であり、一である。これが、一乗海釈の「異の如来ましまさず、異の法身ましまさず」と釈される意である。
なお、一乗とは大乗であると示されるが、大乗に対する小乗とは声聞乗・緑覚乗の二乗を意味し、その所至は阿羅漢・辟支仏であり、究竟の仏果ではないからである。その大乗とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗の四乗の中の仏乗のことである。
後に二乗・三乗と出されるが、聖道法を菩薩乗として二乗に加え、三乗とする。二乗の所至が究竟の仏果でないのは当然であるが、極重の悪人にとっては、聖道法によっては究竟の仏果に至ることはできず、結局、一切衆生を善悪賢愚の隔てなく運載し、真実報土に往生せしめ、究竟の仏果を得せしめるのは弘願法のみであり、これを誓願一仏乗という。すなわち、
大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
と釈される意なのである。
②本願の力用
一乗法は、一切の機を運載するものでなければならない。何故なら、その法によって運載されない機が存在すれば、その機のために他の乗を必要とするからである。弘願法の所被の機は、偈前の文に、「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」と示される。海の釈に「凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる」、「願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや」と、本願一乗海は、凡夫・聖者、逆謗闡提の雑善・無明を転ずるといわれ、それゆえ、そこには二乗の雑善、人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の自力行・自力心の存在が許されないと説かれるのは、一切の機を運載する法であることを示しているのである。
(二)念仏と諸善との比較
一乗海釈では、『大経』所詮の教法である第十八願法を念仏であらわし、八万四千の法門を『観経』顕説の要門法に摂めて諸善であらわし、念仏と諸善とが比挍対論されている。また、弘願法に運載される他力の機と、要門法によって成仏道を歩む自力の機とが比挍対論されている。
すなわち、教について念仏と諸善、機について自力の機と他力の機とを比挍対論することによって、誓願一仏乗があらゆる法門に超え勝れた唯一無二の法であることが明らかにされているのである。なお、教について「絶対不二の教」といわれるが、これは、相対を絶した絶対ではなく、他の教法から抜きん出て、比肩するものがないほど勝れた唯一の教法であるとの意である。機について「絶対不二」がいわれるのも同じ意趣である。
平成二十年 判決
称名報恩 判決 平成二十年
「題意」
本願文には、「至心信楽欲生」の三心すなわち信心と、「乃至十念」の称名とが誓われてあるが、信心こそが往生成仏の正因であって、称名という行者の行為そのものは正因ではないことを示し、称名は、称える心持ちから言えば、報恩の営みであることを明らかにする論題である。
【出拠】
「正信偈」龍樹章に
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
とあり、御本典「化身土文類」には、
爰久入願海 深知仏恩 為報謝至徳 摭真宗簡要 恒常称念不可思議徳海
と示されている。
また、覚如上人の『最要鈔』や『口伝鈔』にも見られ、蓮如上人の『御文章』には、
正信偈にはすでに「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」とあれば、いよいよ行
住坐臥時処諸縁をきらはず、仏恩報尽のためにただ称名念仏すべきものなり。
と示され、あるいはまた
そのうへの称名念仏は如来わが往生をさだめたまひし御恩報尽の念仏とこころ
うべきなり。
等々、諸処に示される。
【釈名】
「称名」とは、仏名を称することであるが、ここでの称名は、第十八願文に「乃至十念」と示されている「真実信心の称名」のことである。
「報恩」とは、恵みに報いるという意であるが、ここでいう報恩とは、報謝仏恩の義である。如来の広大な恩徳を喜ぶ感謝の想いのことであり、第十八願の行者が念仏を称える心持ちをいうのである。
【義相】
① 本願文における称名の義
第十八願の「乃至十念」の称名は、信受した如来の名号がそのまま行者の口に現れたものであるから、称名の体徳から言えば、名号の全顕であって、往生成仏の証果を得しめる力・はたらきを具している正定業である。しかしながら、証果を得しめる力・はたらきは、本願の名号にこそ具わっており、称名するという行者の行為によるものではない。それゆえ、本願の名号を信受した聞信の一念に、往生成仏の因が満足して、衆生の救済が決定するのである。
このことは、「本願成就文」において、「聞其名号信心歓喜乃至一念」と機受の極要が示され、信心獲得の一念に「即得往生住不退転」の利益を得るという信益同時が説かれることから窺える。すなわち、往生成仏の因が決定することについて、信心は示されているが、称名は示されていないのである。
したがって、第十八願には、「至心信楽欲生」の信心と「乃至十念」の称名が誓われてはいるが、信心こそが往生成仏の正しき因であって、称名するという行者の行為そのものは往生成仏の因には関係しない。これは、「十念」の称名に「乃至」の言が冠せられ、称名の多少不定が示されていることからも窺える。すなわち、不定というような限定されない行業によって往生が決定するとはいえないからである。また、称名の多少を問わない、さらに言えば称名の有無を問わないということは、称えるという行者の行為に功を見ないことであり、往生のためと思って称えることではないことを示す。したがって、往生決定後の信相続の行業である「乃至十念」の称名は、行者が称える心持ちから言えば、往生の因が決定された広大な仏恩に感謝する想いでしかないのである。
② 称名報恩の伝統
称名報恩が示される「正信偈」龍樹章の根拠となったのは、龍樹菩薩の作とされる 『易行品』と『大智度論』の文である。『易行品』の「人能念是仏 無量力功徳 即時入必定 是故我常念」の文は、「即時入必定」までが、機受の極要を示した「本願成就文」にあたり、「是故我常念」が、信心決定後の報恩の念仏を意味すると考えられる。
また、『大智度論』(道綽禅師『安楽集』引用の)の文には、まず、仏を法王、菩薩を法臣とし、次に「為報恩故常願近仏」と述べている。すなわち、念仏の意義について、王の恩寵を蒙った臣下がつねに王を念ふように、仏に対して報恩の想いをもつことが示されるのである。これらの文によって、「正信偈」龍樹章の文が作成されたと考えられる。
また曇鸞大師の『往生論註』では、天親菩薩『浄土論』の「世尊我一心」の解釈において、菩薩が仏に帰すことを「如孝子之帰父母忠臣之帰君后」と譬え、「動静非己出没必由知恩報徳理宜先啓」と述べて報恩の義を顕している。直接的には称名が示されてはいないが、仏に帰依したものは、そのすべての行いを知恩報徳の行いとするのであるから、称名も報恩の行いであると窺える。
次に善導大師においては、『四帖疏』「定善義」や『般舟讃』等にも仏恩を報ずる意義について示されるが、中でも『往生礼讃』において雑業の行者の十三失を挙げ、「又不相続念報彼仏恩故」と述べられる。宗祖は、この文を「化身土文類」に引用され、自力諸行・自力念仏の行者は仏恩を念報せずとして、弘願他力の念仏の報恩の義を反顕されている。
さらに源信和尚の『往生要集』では、『西方要決』の文を引用して「当念仏恩報尽為期心恒計念」と述べられる。また、源空聖人の『選択集』では、上記の『往生礼讃』十三失の文や『西方要決』の文が引用されて、あるいは『黒谷伝』にも「基親六万遍の念仏は報恩のためと心得て然るかと尋ねられしとき、御返答に、全く愚意に違わず候」と記されるように、称名報恩の義が示されている。
以上のように、七高僧の上においても、称名報恩の義は窺えるのであって、これらの意向を受けながら、他力念仏の意義を明らかにされたのが称名報恩であると言える。そして、その伝統は、覚如上人、存覚上人、蓮如上人へと受け継がれていくのである。
③ 称名が報恩の義となる理由
弘願他力の称名、真実信心の称名は、仏恩を慶喜し仏恩に感謝する想いが口から溢れ出たものである。行者が仏恩を喜ぶことは、何よりも仏の喜びであって、仏意にかなうことである。また、仏徳を讃嘆し仏恩に感謝するようになったことも、迷いの凡夫をなんとしても覚りに至らしめたいという仏の意にかなうことである。
さらに、弘願他力の称名には、常行大悲の徳がある。
無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ
と述べられるように、信後の称名は凡夫が意識しなくても、大悲の徳を流伝し、
「尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候ふをききては、人が信をとる」
とも示されるように、伝法利生、利生化他をすることとなり、それこそが仏意にかなうこととなる。
弘願他力の称名は、仏恩を喜び仏恩に感謝する想いが口から出たものであって、それがそのまま大悲を流伝していることになり、いずれも仏意にかなっているからこそ報恩となると言える。
④ 称名策励の可否
称える行為を救いに役立だせようと称名念仏を励むことは、弘願他力の称名ではない。しかしながら、
仏法のこと、わがこころにまかせずたしなめと御掟なり。こころにまかせては、
さてなり。すなはちこころにまかせずたしなむ心は他力なり。
と示されるように、懈怠しがちな自らの心にまかせるのではなく、他力の称名念仏を心がけてこそ、如来の救いにあずかるものの喜びの念仏、報恩の念仏といえる。
「正信偈」に「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」と示されてあるが、「唯能」とは称える行為を救いに役立たせるものではない他力の称名であることを示し、「常称」とは懈怠しがちな自らの心にまかせず他力の称名念仏を心がけることが示されていると言えよう。
「結び」
称名念仏という行者の行為は、往生成仏の因として役立たせるものではなく、ただ仏恩を喜び仏恩に感謝する想いが口から溢れ出た報恩の営みでしかない。
要集三例 判決 平成二十年
【題意】
源信和尚の『往生要集』の法義を理解するために、源空聖人が『往生要集釈』に立てられた広・略・要の三つの釈例の意図を窺い、源信和尚の本意は要例の称名念仏一行専修にあったと述べられたことを明らかにする。
「出拠」
『往生要集釈』(古本『漢語灯録』所収)に「此の往生要集に就いて、広と略と要とあり」と示される「広」と「略」と「要」であり、これによって『往生要集』を詳しく解釈された内容を指す。
【釈名】
「要集」とは、『往生要集』のことである。
「三」とは、『往生要集釈』に示される広・略・要の三種のことである。
「例」とは、標準や拠り処となる釈例の意味である。
「広例」「略例」「要例」「三例」の語については、いずれも源空聖人の法語類には見えず、宗学で用いられる用語であり、「広例」「略例」「要例」とは、『要集釈』に示される広略要の三種の釈例に従って『要集』を解釈するという意である。
まず、「広」とは、はば広いといった意味で、「広例」とは、『要集釈』に
広とは、この一部三巻に序・正・流通あり、厭離等の十門を束ね
て以て広と名づく
と定義されるように、『要集』一部に広博に、はば広く説かれている法義の内容を全体的に解釈する釈例である。
次に、「略」とは、簡ぶ・はぶくといった意味で、「略例」とは、『要集釈』に
また略とは、助念方法の中の総結要行の七法これなり
と定義されるように、『要集』大文第五「助念方法」の総結要行釈下において、上来所説の種々の往生行の中から、重要な行業である七法を選び取り他を省いて、『要集』一部の法義を念仏を中心とした七法として略説されたと解釈する釈例である。
最後に、「要」とは、かなめといった意味で、「要例」とは、『要集釈』に
三に要とは、念仏の一行に約して勧進する文これなり
と定義されるように、念仏の一行を専らに勧進する文を『要集』の中で最も重要な要となる法義と解釈する釈例である。
「義相」
① 広例の義
広例とは「厭離等の十門を束ねて」とあるように、『要集』大文第一 「厭離穢土」から大文第十「問答料簡」に至る全体を通観する法義であり、広例の見方からすれば、穢土を厭離することも浄土を欣求することも、大文第四「正修念仏」で示される観念も称名も、あるいは大文第九「往生諸行」で示される諸行も、『要集』一部三巻に説かれている限り、いずれも往生極楽のために表わされたものとしての意味が認められる。
しかしながら、全体を通して顕されるのは、主として観念の念仏であって、『要集』一部の中心は大文第四「正修念仏」にあり、中でも作願門・観察門に力点があるものと見られる。その場合、行業の中心は観察門に示される別相観・総相観・雑略観等の観相の念仏にあり、称名は「不堪観念相好」の機に対して勧められた観念に劣るもの(観勝称劣)として提示されている。そのことは、大文第八「念仏証拠」において、「ただ名号を念ずるを以て往生の業とせり、何に況んや相好功徳を観念せんをや」と示されることよりも窺える。
こうした広例の見方では、大文第五「助念方法」冒頭に「一目の羅、鳥を得ること能はず、万術をもって観念を助けて、往生の大事を成ず」とあるように、あらゆる手段を用いて観念を成就することが『要集』の目指すところとなる。称名もまた観念の助業としての性格を帯びることとなる。
② 略例の義
略例とは、念仏を中心とした「七法」と示されるものに、『要集』一部の法義があるとする見方である。すなわち、『要集』大文第五「助念方法」の「総結要行」では、大文第一「厭離穢土」から大文第五「助念方法」までに説かれた往生の行業のなかで、いずれの業を「往生の要」とするかという総括的な問いが立てられ、「大菩提心と、三業を護ると、深く信じ、誠を至して、常に仏を念ずとは、願に随ひて決定して極楽に生ず」と示される。
この「総結要行」の文に示された往生の要行を、「七法」(大菩提心・護三業・深信・至誠・常・念仏・随願)と数え、この「七法」によって『要集』の意を捉えるのが略例である。
この中、「念仏」は大文第四「正修念仏」の第四観察門に示される念仏によるものであり、「大菩提心」は同じく「正修念仏」第三作願門に示される菩提心により、「至誠」「深信」「随願」は、大文第五「助念方法」第二修行相貌に明かす至誠心・深心・回向発願心によるものである。
「常」は同じく第二修行相貌に明かす四修の一つ無間修によるものであり、護三業は同じく第四止悪修善によるものである。
そして、往生を遂げようとするものは、大菩提心を発し戒を保って三業を護り至誠心・深信・回向発願心の三心を具足して、常に弥陀の名号を称することによって往生が決定すると述べられる。このことから、七法のうち念仏が中心であって、他の六法は念仏を扶助する助念仏の法義であることが知られる。よって「往生の業は念仏をもって本とす」とい
われたとする。
その念仏については、『要集』大文第四「正修念仏」の観察門には観念と称名の両方が説かれているが、『要集釈』では「二行の中においては、称名を要となす」と称名に限定されている。さらに、その称名念仏について「但念仏」と「助念仏」を示し、略例の念仏とは、他の六法の助けをかりる「助念仏」を意味するものとされ、略例の助念仏は善導大
師の専修念仏ではないことを示される。そして、この但念仏こそが次の要例で示す専修念仏となるのである。
③ 要例の義
要例とは、念仏の一行を専らに勧進する文を中心とした見方である。そこでまず、大文第四「正修念仏」観察門の冒頭から引用し、「云々」と略して「別相観」「総相観」「雑略観」の名目だけを出し、それに続いて、三想一心の称名を説くいわゆる「極略観」のみが全文にわたって引用される。これは「観念不堪の機」に称名念仏を勧める極略観の文を、
念仏一行を専らに勧進する文と見られたことを顕す。つまり、広例では観勝称劣を示すと見られた文を、ここでは往生の要行として称名を勧めた文と見るのである。この見方は、『要集』冒頭において、「予が如き頑魯の者」と表白し、行じ易い「念仏の一門に依りて聊か経論の要文を集む」と示される立場によったものである。すなわち、凡夫の機に約して、難行を廃して易行の念仏を勧めることこそが、『要集』所説の肝要とするのである。
次に大文第八「念仏証拠」がほぼ全文にわたって引用され、その後に三番の問答について私釈を設けて、称名念仏こそが「この集の本意なり」と決している。それは、諸行と念仏、観念と称名とを、難行易行対、少分多分対、因明直弁対、自説不自説対、摂取不摂取対 如来随機四依理尽対によって対比し、称名こそが『要集』の本意であり、肝要であることを証明されるのである。
さらに、大文第十「問答料簡」の「往生階位」の問答を引用し、称名念仏は道綽・善導流の専修念仏であり、百即百生する報土往生の因であることを示して、『要集』の本意は善導大師の専修念仏に帰するとされる。
したがって、この要例の念仏は、略例の如き助念仏ではなく、別発一願たる第十八願の「乃至十念」の称名念仏である。それは、「如説に念仏せば必ずしも持戒等を具すべからず」と示されるように、他の助けをかりない如実の称名であり、「但念仏」に他ならない。
よって集主の本意は、広例・略例で示す法義ではなく、この要例の称名念仏専修を勧めることにあったというのが『要集釈』の結論なのである。
④ 要集三例と『無量寿経釈』三輩段の但念仏往生・助念仏往生・但諸行往生との関係
『無量寿経釈』では、三輩段において念仏以外に諸行が説かれることについて、「諸行を廃して、念仏に帰せしめんがために」「念仏を助成せんがために」「念仏・諸行の二門に約して、おのおの三品を立てんがために」という三つの理由が示され、「三輩の文には但念仏の義あり、助念仏の義あり、また諸行往生の義あり」と三つの往生の義が出されている。この往生の三義と広略要の三例とを対比すると、まず、但念仏は要例にあたることは明白である。次に助念仏については、「同類の善根」 「異類の善根」が念仏を助成すると釈され、その中「異類の善根とは、これ往生要集の意なり」とし、「かの集の意、念仏を助くるをもって決定往生の業とす」と示されている。したがって、この助念仏は略例にあたると言える。次の諸行往生は直ちに広例にあたるように見えない。それは、広例の主となる大文第四「正修念仏」とは別に大文第九「諸行往生」が立てられているからである。しかし、「正修念仏」に示す定善観法は所廃の行たる諸行往生を示すものであるから、諸行往生を広例にあてることができるのである。
『無量寿経釈』には、「助念・諸行の二門を廃し、但念仏往生を明かす」ことが示されるが、これは広略要の三例が明かさんとすることとまったく同じである。
⑤ 要集三例と『選択集』三輩章の廃立・助正・傍正との関係
『選択集』三輩章には、「なんぞ余行を棄ててただ念仏といふや」と問いを出し、その答えとして、『無量寿経釈』三輩段の廃立・助正・各立三品の三義と同じ内容を示し、それを廃立・助正・傍正の三義と釈す。この三義と広略要の三例とを対比すると、まず廃立と要例は同致する。次に助正については、「異類の助成」は『要集』に依られたものであるから、直ちに略例にあたるともいえる。そして傍正の「正」は念仏、「傍」は諸行往生であるから、「傍正」は諸行と念仏とをあわせ説く広例にあたるといえる。ただし『選択集』においては、「おけよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり」と述べられるごとく、廃立の念仏だけでなく、助正・傍正に説かれる念仏も専修念仏の立場から承諾されていると見られることも注意されねばならない。
広略相入 判決 平成二十年
【題意】
『往生論註』「浄入願心章」に示される「広略相入」の義意を窺うことによって、三厳二十九種の浄土の荘厳相と一法句との関係を論義し、また広略相入を二種法身で明かす意義を検討して、願心荘厳の浄土の構造を明らかにする。
【出拠】
『往生論註』「浄入願心章」の文
「釈名」
「広」とは、種々の相を広く排するといった意であり、一つのものがさまざまに展開し排列されたありようといえる。ここでは、浄土の荘厳功徳の徳相が三厳二十九種にわたって、さまざまに広く詳らかに開示されることをいう。
「略」とは、かなめといった意で、要略、総略の義である。それは、さまざまにあるものが、その本質からいえば一つにおさまるといった意である。ここでは、『浄土論』に「略説入一法句故」と示され、『往生論註』に「入一法句為略」と示されるように、略とは(入)一法句のことである。
「相入」とは、「広」と「略」との関係性を示す言葉で、略は広に入り、広は略に入るというように、三厳二十九種の浄土荘厳相と一法句とが相入る関係であることを明らかにするのである。
「義相」
広略相入の義は、『往生論註』巻下「浄入願心章」に示されるのである。「浄入願心」とは、浄土の三厳二十九種の荘厳が法蔵願心によって荘厳されたものである故に、浄(三厳二十九種の荘厳相)を一願心に摂め入れてしまうことを明かすのである。
その「荘厳が願心に摂め入れられる」とはどういうことかを示すために、「略して一法句に入るを説く」のである。それゆえ『浄土論』には、「略説入一法句故」と「故」が添えられ、一法句を明かすのは願心荘厳の所由を説く法門であることを示している。
この「略説入一法句故」を解釈するに、『往生論註』では広略相入の法義が示されるのである。
① 広(三厳二十九種荘厳相)の義
まず、広とは、『論註』に「上の国土荘厳十七句と、如来荘厳八句と、菩薩荘厳四句とを広となす」とあるように、浄土の国土についての荘厳相である十七句と如来についての荘厳相である八句と浄土の菩薩についての荘厳相である四句とを合わせた三厳二十九種の浄土の荘厳相を指すのである。さらにまた、三厳二十九種とは荘厳の代表的なものであって、経論に示されるすべての荘厳を広相ということができる。
② 略(一法句)の義
次に略とは、『論註』に「入一法句為略」とあるように、一法句のことである。一法句が略であるとは、一法句が浄土の本質ということを意味している。その一法句とは、直接的には「観彼世界相」等の清浄功徳の句と見ることもできるが、『六要鈔』に「一法の二字は所詮の法体、句の一字は能詮の名字」と釈するように、一法句とは法体をあらわすものであって、さとりそのもの、即ち真如法性を指す。したがって、略が一法句であるとは、浄土の本質は真如法性であることを意味しているのである。真如法性は、言亡慮絶であって表現しようのない真理であるから、仮に「句」と名づけたのである。
この一法句は、『浄土論』に「一法句といふはは清浄句なり。清浄句といふは真実智慧無為法身なるが故なり」とあるように、「清浄句」「真実智慧無為法身」と転釈される。「清浄句」とは、『涅槃経』に「純浄をもってのゆえに、大涅槃と名づく」とあるように、煩悩を断絶した涅槃清浄を示すものである。下の文に「一法句に二種の清浄を摂す」と説かれ、二種に開けば器世間清浄と衆生世間清浄となるが合すれば一法句となるのである。
「真実智慧無為法身」の無為法身とは、『論註』に「百非の譬へざるところ」とあるごとく、言語で表現できない真如法性そのものを指し、真実智慧とは、その真如法性をさとる「実相の智慧」のことである。一法句が清浄句であり真実智慧無為法身であるとされることは、阿弥陀仏がさとった真如の法は、清浄なる浄土の荘厳相となって展開し、阿弥陀仏の真実智慧となってはたらくことを示しているのである。
③ 相入の意義
『浄土論』では、広の三厳二十九種荘厳が略の一法句に入る面が述べられているが、『論註』では、それを相入と釈すのである。この相入とは広と略とが互いに摂めあう関係にあることを示す。略の一法句たる真如法性は無相平等であるが、阿弥陀仏がさとった法であるため、衆生救済の目的をもって、具体的な広相を展開する。したがって、その具体的な広相の一々は、真如法性を本質としているのである。すなわち、広はそのままが略であり、略は広となって現れているのである。相入とはそのような広略の関係性をいうのであり、これがさとりの世界、浄土のありようなのである。
④ 広略相入を二種法身で明かす意義
『論註』では、この広略相入を二種法身で釈する。すなわち、法性法身が略であり、方便法身が広である。このように浄土の広と略との関係を法身で解釈するのは、まず『浄土論』において、一法句を清浄句として器世間清浄・衆生世間清浄の浄土のありさまを示し、それを真実智慧無為法身と仏身で釈すことに基づいている。これは浄土と仏身が不二の関係にあることを示す。そこで『論註』では、浄土の本質を示すにあたって、法性法身と方便法身という仏身の構造において釈するのである。
法性は真如法性のことであって、相対的な分別を越えた言亡慮絶のさとりそのもののことであり、その真如法性の全体をさとり顕したところを法性法身という。
方便は善巧方便であって、衆生救済のために真如法性が具体的な仏の相を顕したところを方便法身という。
この二種法身は、由生由出の関係にある。すなわち、法性法身の性を全うじて方便法身を生ずといい、方便法身を全うじて法性法身の性を全顕する。略の一法句である法性法身が広の方便法身の徳相を生起し、相好荘厳の方便法身の広がその本質である法性法身を顕出するのである。したがって、二種の法身は別々のものではなく、阿弥陀仏のはたらきがさとりの本質をはなれるものではないという面と、阿弥陀仏のさとりはさとりである以上、具体的なはたらきとして相を顕すという面を示すものであり、これを「異にして分かつべからず、一にして同ずべからず」と述べるのである。両者が「法身」という言葉で結ばれ、また「このゆえに広略相入して統ぶるに法の名をもってす」と述べるのは、阿弥陀仏の仏身の構造全体がさとりのはたらきを示すことを顕している。
このように、広と略との関係を仏身において明らかにすることによって、仏土は仏身を離れてはありえないことを示し、浄土とは阿弥陀仏がそのさとりのはたらきによって衆生救済を行う具体的な世界であることを顕さんとするのである。
⑤ 「証文類」引用の広略相入の所顕
「証文類」「還相回向」釈下に、「浄入願心章」の文が引用される。これは、浄土の荘厳は法蔵菩薩の願心によって成就していることを示し、国土・仏・菩薩の三種荘厳の広は、さとりそのものである略の展開相であること、すなわち浄土の広門相はすべて真如にかなっていることを示すために引用されている。したがって、菩薩の四種荘厳も真如にかなっていて、さとりそのものの展開であるから、浄土の菩薩は、「従因至果の菩薩」ではなく、すでに仏果を開いていながら菩薩の相に還っている「従果還因の菩薩」であると示される。つまり、自利利他の活動を自在に行う還相の菩薩は、内に滅度を証しながら、外に菩薩相を現ずる広門示現相であることを明らかにせんとして、「証文類」に広略相入の文が引用されるのである。
平成十九年 判決
三心一心 判決 平成十九年
【題意】
第十八願には往生の信心を至心、信楽、欲生と三心として誓われているが、『無量寿経』に相応してその経意を釈された『浄土論』には、論主自督の信心を一心と表白されている。この本願の三心と『論』の一心との関係を論じて、本願の信心の義意を明らかにする論題である。
【出拠】
『大経』第十八願の「至心、信楽、欲生」の文と、『浄土論』の「世尊我一心」等の文によって、「信文類」に問答を施し、「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく」等と結ばれた文をはじめ、『浄土文類聚鈔』等に示された三心1心に関する文が出拠になる。
「釈名」
三心とは、至心、信楽、欲生の三心をいう。至心とは真実心であり、信楽は無疑心であり、欲生は決定要期心である。一心とは、三心の三に対すれば一つの心と言うことであり、一心を心相と見れば、「ふたごころのない」無疑心を言うから、信楽と同義語になる。
【義相】
「信文類」三一問答の初めに第十八願には至心信楽欲生と三心が誓われているのに、論主は何故一心と言われたのかと問い、涅槃の真因は信楽一心であることを、愚鈍の衆生に知らせるために論主は合三為一されたというのである。それを三心の字訓に寄せて知らせるのが字訓釈である。
①字訓釈
先ず至心の五訓を集めて真実誠種の心といわれる。如来が成就された真実誠である仏心は衆生に回向され、衆生が疑いをまじえずに領受した時、衆生の成仏の因種となることを表している。それは真実を覆い隠す疑蓋が雑じらない状態で初めて衆生の上にあり得る心であるから「ゆえに疑蓋雑じわることなし」といわれたのである。
つぎに信楽の信に十二訓、楽に八訓が挙げられ、それによって信楽に五句が造られている。まず信から立てた三句のなか、「真実誠満の心」とは、信楽は、本願を疑いなく受け容れることによって真実誠といわれる如来回向の仏心が衆生に満入している心であるということを表している。「極成用重の心」とは、至極成就された本願を疑いなく信用し、尊重する心ということを表している。「審験宣忠の心」とは、つまびらかに明言された如来のおおせを、私心を差しはさまず受け容れている心が信楽であるということを表している。 つぎの楽から立てた二句のなか、「欲願愛悦の心」とは、往生成仏の志願を満たされて愛で悦ぶ心でもあることを表している。「歓喜賀慶の心」とは、必ず浄土に往生できることを喜び、遇いがたく、聞き難い本願に遇わせていただいていることを慶ぶ心であることを表している。いずれにせよ信楽とは疑蓋のまじらない状況を表していることがわかる。
つぎに欲生の欲に四訓、生にも四訓、合わせて八訓を挙げ、それを二句にまとめ、そのほかに字訓とは関係なく「大悲回向の心」という一句を挙げられている。「願楽覚知の心」とは、本願招喚の勅命を疑いなく聞き受けた信心には、必ず往生できると明瞭に知って喜び、浄土を一定と期する心が与えられていることをいう。これを信楽の「欲願愛悦の心」とを対望すると、明らかに共通する心相を見ることができ、欲生が、信楽に摂まるという道理を表そうとされていることがわかる。「成作為興の心」とは、真実報土に往生して悲智を完成し、仏に作ったものは、仏果の必然として大悲を興して衆生救済の活動を為すようになる。すなわち、往生を願うことは、大悲還相を期する心でもあると表された字訓である。さらに字訓からではないが、欲生には「大悲回向の心」という意味があるといわれる。この一句を欲生の字訓釈の最後に出すのは、一つには、欲生心には衆生救済に向かう回向心の意味かあるが、その根源は如来の大悲回向心であることを明らかにする。二つには、欲生はもちろん三心全体が如来の大悲によって回向された心であるから機受は疑いなく領受する信楽一心の他にないことが明らかになるのである。
こうして三心といってもそれが衆生に受け容れられている機受の心相をいえばただ疑蓋無雑の一心であることを顕わしている。疑蓋無雑の心とは信楽の異名であるから、本願の三心は信楽一心に収まることが分かる。それを天親論主は『浄土論』の初めに「一心」といわれたのであるといわれるのである。
こうして本願の三心は本来信楽一心に即一する心であったから、天親論主は、そのいわれを愚鈍の衆生に解らせるために本願の三心を合して、一心といわれたのである。古来三心即一は本願の固有であり、合三為一は論主の勲功であると言われる所以である。
②法義釈
第一問答は、本願の三心を以て、『浄土論』の一心のいわれを問い、三心と誓われているが、機受は疑蓋無雑の信楽の一心に摂まるということを字訓を通して明かされていた。それにひきかえ第二問答は、論の一心を以て、本願の三心の義意を問い、本願の三心は、本来三心を発すことのできない衆生に代わって如来が成就して回向された心であることを三心の道理によって示されるから法義釈と呼んでいる。すなわち本願の信楽の本体は、一乗大智願海である至心と、大悲廻向心である欲生心を統合している如来の決定摂取の無疑心である信楽が衆生に回向されたものである。それゆえ衆生の上に現れている信相は、如来の決定摂取の勅命を疑いなく受け容れている信楽一心の外にはないが、その一心には仏心であるような三心の徳が具わっているから無上涅槃の真因となるという信心正因の道理があると明らかにされるのである。
法義釈では、三心を通じて、機無、円成、回施、成一という釈相がなされている。「機無」とは、仏の救済の目当てになっている私どもには、もともと成仏の因となるような清浄真実な三心は決して発し得なかったし、これからも自力で発すことは決してできないと説かれたことをいう。
「円成」とは、阿弥陀仏がこのような衆生を哀れんで、清浄真実な三心を円満成就されたことをいう。すなわち如来が「円融無碍不可思議不可称不可説の至徳」を成就されたことが、衆生の至心を成就されたことであり、「満足大悲円融無碍の信心海」を成就されたことが、衆生の信楽を成就されたことであり、大悲廻向心を成就されたことが衆生の欲生心を成就されたことであった。それは如来の徳であると同時に衆生の徳となるよう生仏一如に成就された功徳であった。それゆえ必然的に衆生に回施される。
「回施」とは、如来は生仏一如に完成された三心を本願の名号、すなわち招喚の勅命として一切の衆生に施し与えて行かれることをいう。
ゆえに衆生はただ疑いなく勅命を聞き受けるばかりで如来所成の三心を、往生成仏の正因として領受することになる。このように如来所成の三心が、無疑の一心となって煩悩具足の衆生の上に実現することを「成一」という。
こうして信楽一心には如来所成の三心の徳が円満していて、凡夫が仏になることを可能ならしめていることを明らかにするために本願には三心と誓われたと言われるのである。
③三重出体
法義釈には、名号と三心の関係について三重出体の釈が示されている。まず至心釈では、「この至心は、すなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」といわれていた。名号は清浄真実なる仏心すなわち至心そのものであるが、本願力回向の信心の構造を表すために、回向する如来の側の名号を根本とし、回向される衆生の側の至心を枝末として、本末相望して、「衆生に与えられている信心の本体である至心は如来の尊号である」といわれたのである。これによって、名号が衆生に届いて本体は仏心であるような信楽が成立しているという道理が明らかになるのである。
信楽釈では、「利他回向の至心をもって信楽の体とするなり」といわれている。これは本願の名号を疑いなく受け容れている信楽の本体は清浄真実な至心であり、信楽はその信相であると信体と心相を相望し、信心は凡心ではなく仏心であること明らかにされたのである。
欲生釈では「すなはち真実の信楽をもって欲生の体とするなり」といわれている。すでに述べたように、信楽は、至徳の尊号を疑いなく聞き受けている信相を表す言葉であり、欲生もまた浄土を一定と期する信相を表している。しかし信楽が、「我が国に生まれんと欲へ」という現前の仏勅を領受している無疑の信相を表しているのに対して、欲生は、その信楽に具わっている当来の「往生を一定と期する想い」を別開したものである。したがって信楽の外に別に浄土に往生したいと願う心を発すのではないということを表すために「欲生の体は信楽である」といわれたのである。この場合体とは信楽そのものと言うことであり、義とは信楽に具わっている義(いわれ)をいう。これを古来欲生は信楽に具わっている義を別開した義別であるといっている。すなわち体義相望して信楽を体とし、欲生を義別とする釈である。
こうして、本願の名号が、衆生に受け容れられたとき、至心、信楽、欲生の三心として衆生の上に実現していくが、それは信楽の体徳と、信相と、その義別という在り方をしていることがわかる。また、至心は体として信楽に摂まり、欲生は信楽の義別として信楽に摂まっているから、名号領受の信相は、疑蓋無雑の信楽一心の外にないという三心即一の構造が明らかになるのである。
「結 論」
このように本願の三心と、『浄土論』の一心を対望することによって、本願には三心と誓われているが、名号領受の心相は無疑の信楽一心であるという三心即一心の義を明らかすると同時に、その一心には如来所成の悲智円満の徳が、往生成仏の正因として円満しているという信心正因の法理を明らかにされたのが「信文類」の三一問答の所顕であった。
以上
出世本懐 判決 平成十九年
【題意】
「教文類」等に『大経』の出世本懐を論じられた祖意を明らかにする論題である。
「出拠」
『大経』の発起序(『真聖全』一・四頁)の
如来、無蓋の大悲をもって三界を衿哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光
闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。
という経文を親鸞聖人が「教文類」(『真聖全』二・二頁)に出世の大事(本懐)を顕わされた言葉であるといわれたのが出世本懐論の根本出拠である。その他多くの文を 挙げることができるが略する。
「釈名」
出世本懐の「出」というのは「出現」であり、「世」は世間のことで、今は迷いの境界である三界をさす。如来が、大悲を発して三界に出現されることをいう。
本懐の「本」とは「根本」の義、「懐」は「心に思うこと」「意趣」の意味で、根本意趣、本意のことである。つまり、釈尊のみならず三世の諸仏が、迷いの境界に出現される本懐・本意をいう。『大経』を説いて、誓願一仏乗を顕示する為であるということを「出世本懐」という。
【義相】
一、『大経』を出世本懐経と見る文証
①「恵以真実之利」の意味
先ず、『大経』を出世本懐経とする文証は、「教文類」等に示されているように、「発起序」の文である。『大経』を説こうとされた釈尊は五徳の瑞相を示現し、その所以を尋ねた阿難尊者に、「如来、無蓋の大悲をもって三界を衿哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり」と答えられたお言葉によって『大経』が出世本懐の経であることを知ることができる。なお『尊号真像銘文』には、その如来を釈して「如来と申すは諸仏と申すなり」といわれているから、釈尊のみならず一切諸仏の出世の本意を開顕する経典と見られていたのである。
ところでこの経を説いて衆生に与えようとされているのは、「真実之利」であると言われているが、それを『尊号真像銘文』には「仏の世に出でたまふゆゑは、弥陀の御ちかひを説きてよろづの衆生をたすけすくはんとおぼしめすとしるべし」といい、弥陀の本願を指しているといわれている。それは、『大経』所説の法義の肝要を付属する付属流通分の教説と対望されたからである。そこには。
仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して
乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこ
れ無上の功徳を具足するなり。
といわれていた。すなわち衆生は第十七願成就の諸仏讃嘆の名号、すなわち『大経』の説法を聞いて、第十八願成就の名号を信受奉行し、往生即成仏の大利を得ると言われているのである。それは序分に、「真実之利」を恵むといわれたものと首尾照応しているとしなければならない。
その大利について、胎化段では、仏智不思議を疑って、諸行、もしくは自力念仏を行ずる疑心の善人は、胎生して「大利を失う」と誡め、仏智不思議の本願を信じて化生の利益を獲よと勧められていたものである。要するに「真実之利」とは、仏智不思議の本願を信受して獲る大利無上の功徳を指していたのである。こうして『大経』は、一切の衆生を平等に利益するために第十七願に乗じて本願の名号を説かれた経であって、釈迦、諸仏は、この経を説くことを出世の本懐とされていると親鸞聖人はいわれたのであった。
②光闡道教の意味
ところで『大経』の出世本懐の文の中に、「光闡道教」という言葉があるが、『尊号真像銘文』末(広銘文、『真聖全』ニー六〇一頁)にも、『一念多念文意』にも、いずれも「光闡道教」を省略して「如来所為、興出於世、欲拯群萌、恵以真実之利」という文章にして出世本懐が論じられている。そこから見れば、「光闡道教」という言葉は、出世本懐の申には入らない言葉であるとみなければならない。そのことについて、 『六要鈔』一 (『真聖全』二・二二一頁)には、
「光闡」等とは、教法人を利するを名て道教と為す、理を証して物を益するを以
て真実と為す。光は廣也、闡は暢也、恵は施也。諸師意今宗義に依に「道教」と言
は、光く一代を指す、益五乗に亘る。「真実之利」とは、此の名号を指す。
と釈されている。まず光闡道教とは成仏道を説くことをいい、その教えを実践して自利利他することを真実之利というと見る諸師の釈を挙げ、後に真宗の宗義による釈として、光闡道教は聖道一代の教法を指し、「真実之利」とは、本願名号の法門、すなわち『大経』の法門を指すといわれている。道教を聖道教とする理由については明らかにされていないが、親鸞聖人が、光闡道教を省略して出世本懐を論じておられる意を承けて釈顕されたものにちがいない。
先哲は、さらにその祖意を探って「欲」の字のあり場所から見込まれている。もし「光闡道教」も出世本懐をあらわしているとすれば、諸仏の能欲を顕わす「欲」の文字が、所欲を顕わす「光闡道教」の前に置かれていなければならない。しかるに経文は「欲拯群萌恵以真実之利」といわれている。これによって諸仏の所欲は光闡道教にはなくて、「拯群萌恵以真実之利」にあったといわねばならないといわれている。
なお先哲は『大経』には、「道教」の用例がこの他に三ヵ所(『真聖全』一・三頁、二八頁、三四頁)あり、経末には法滅の時に滅する「経道」という言葉もあるが、何れも「三乗法」をあらわす言葉として用いられているという指摘もある。ただし、阿弥陀仏の浄土での説法を道教といわれた場合は、三乗であっても三一融即しているから三乗のままが一乗であるような教法で、穢土の隔歴不融の三乗とは違っているといわれている。いずれにせよ『大経』では道教を三乗教の意味で用いられているといわれている。
二、『大経』が出世本懐経と見る理証
第一に、釈尊を初め、十方の諸仏が『大経』を説かれるのは、第十七願に応ずるからである。諸仏は自力成仏の法門をさしおいて、阿弥陀仏の本願他力の法門に帰し、本願を讃嘆することを本意とされているのである。
第二に、『大経』上巻の最後に説かれた華光出仏の経意からいえば、十方諸仏は、浄土の蓮華の光が十方の世界にいたって、無数の仏陀となって、十方の衆生に仏道を説くといわれている。浄土から来現された諸仏の出世の本意が『大経』にあることはいうまでもない。
第三には、親鸞聖人は、「諸経和讃」に、釈尊を久遠実成の阿弥陀仏の応化身と判定されている。それは釈尊のみならず、三世にわたる一切の諸仏に通ずることであるから、諸仏は本仏弥陀の本願を説くことを本懐とされていることになる。この説は『口伝鈔』の開出三身章において極成されていく。
三、『六要鈔』の「教の権実」と「機の利鈍」
日蓮宗徒と対論して論破された存覚上人は、『六要鈔』一に、「教の権実」と「機の利鈍」に約して出世本懐を論じられている。「教の権実」の教とは教法のことであり、権実とは権仮方便教と真実教のことをいう。三乗は権、一乗は実という天台宗系の教判論によれば、一乗仏教を説くという『法華経』を出世本懐と見なして真実教とし、三乗法を説く爾前の諸経を権仮方便と判定し、非本懐と見ているのを挙げたものである。それゆえ「これ法華の意なり」といわれている。しかしこれは聖道門内の教判であって、聖道門外に独立している『大経』の法門とはかかわりのないことであった。何故ならば『大経』の法門は機の利鈍に依って説かれている教であって、教の権実に依って判すべきものではないからである。
「機の利鈍」の、利根とは、仏法に鋭敏に反応し、深い理解能力を持つものをいい、鈍根とは仏教について鈍感で浅薄な理解能力しか持たず、自力修行に適していないものをいう。ところで一切衆生の中には、利根のものは極めて少なく、鈍根無智のものは圧倒的に多く、従って権教であれ、実教であれ、自力聖道の法門で救われる機は極めて少なかった。それゆえ阿弥陀仏は、平等の大悲に催されて、一切の衆生を平等に救って涅槃の浄土へ往生させ成仏させようと誓願し、鈍根無智の凡夫の救いに焦点を合わせて、本願力廻向の本願の名号を成就されたのであった。こうして自力聖道門に比べて、阿弥陀仏の本願他力に救われるものは圧倒的に多いことは明かである。
ところで全ての如来のさとりの本質は自他一如の真如に契った悲智円満の心であるから、その本意は、善悪、賢愚の隔てなく、一切の衆生を平等に救って、涅槃の領域にいたらしめようという一点にあった。それゆえ阿弥陀仏の本願こそ一切諸仏の本意に契った法門であると言わねばならない。諸仏が第十七願に乗じて本願の名号を同心に咨嗟される所以である。それが一切の諸仏の本意に契った、出世本懐の法門だったからであると言うのが存覚上人の説であった。
こうして存覚上人は巧みに「教の権実」という与門と、「機の利鈍」という奪門という、与奪の法門を建てて、『大経』の出世本懐論を確立して行かれたのであった。
「結論」
そもそも出世本懐の教であるということは、仏の随自意の教であるということを意味していた。仏の随自意の教を真実教と言い、随他意の教を方便教というのであるから、これによって『大経』が真実教であることが確定する。それゆえ「教文類」は、 「しかればすなはち、これ真実の教を顕す明証なり」と引文を結ばれているのである。
なお「化身土文類」には、『観経』と『小経』には隠顕があるが、その隠彰の実義から云えば、『観経』は釈迦微笑の素懐を彰わし、『小経』は無間自説という説法形式をもって、それぞれ、『大経』と同じく本願他力の法義を説かれた出世本懐の教であり、真実教であるといわれている。
以上
「正助二業」 判決 平成十九年
「題意」
善導大師にはじまり、法然聖人、親鸞聖人と伝承されてきた浄土真宗の行業論において、正助二業論がしめる位置とその意義について論究する。
「出拠」
①『散善義』 就行立信釈
②『選択集』 二行章、三輩章、三選の文
③「化身土文類」 要門釈
④『愚禿鈔』下巻
その他
【釈名と物体】
正助二業の正とは正定業の略称、助とは助業の略称である。正定業とは、正は正当、正直の義、定とは決定の義、業とは行業の義で、正定業とは正当なる決定往生の因となる行業ということである。しかし助に対して正と言う場合は、補佐に対して君、長、主の義になる。
助とは扶助、資助、補佐の意味で、主なる者を助けて事業を成就させるはたらきを持つものをいう。したがって主であり、君長である称名を扶助し、資助する行業を助業という。しかし助を随伴の意味で解釈する人もある。もっとも助に随伴の義は直接には出てこないから、宗義によって与えた釈名といえよう。
なお正定業の行体は、五正行中の第四の称名をいい、助業の行体は読誦、観察、礼拝、讃嘆供養の四行をいう。ただし讃嘆と供養を分ければ五行となる。
【義相】
① 善導大師の正助二業説
『散善義』の深心釈下に就行立信釈を施し、所信の行法を簡択して、一切の往生行を正行と雑行に分判し、雑行を捨てて正行に帰すべきことを明かし、さらに正行について正定業と助業とを分別して、所信の行業は称名一行であるといわれている。称名のみを正定業とするのはそれが第十八願所誓の行であり、決定往生の行業であるからである。
なお正行とは正当な往生行ということで、阿弥陀仏とその浄土を所対とした本来の往生行をいい、雑行とは、本来は此土入聖の行であったのを往生行に転換したもので、非往生行を往生行とした、邪雑の行であるから雑行という。またその行体は諸善万行と言われるように雑多であり、また人天乗、三乗の行が雑った雑遝の行であるから雑行といわれるのである。詳細は正雑二行論に譲る。
なお就行立信釈では、正定業を主として正助二業を修する者には、親、近、憶念不断(無間)の徳があって、決定往生の果を得るが、雑行は疎、遠であり、憶念間断するから、決定業ではないとされている。
『往生礼讃』前序には、安心と起行と作業という三門をもって浄土教の信行を顕し、六時礼讃といわれるような浄土教儀礼を教義的に位置付けられていた。安心門とは往生の因である信心を安立する法門ということで、『観経』の三心で示されている。その三心は深心に帰し、深心は煩悩具足の凡夫が本願の称名を決定往生の行と信ずるという二種深信としてあらわされているが、それは称名一行を正定業とする「散善義」の就行立信釈と同じであった。起行門とは安心門において確立した念仏往生の信心が相続して行を起こしていくありさまを示したもので、『浄土論』によって礼拝、讃嘆、観察、作願、回向の五念門として示される。しかし作願・観察二門の順序を変えて止観中心の行業体系と区別し、また讃嘆門下の称名を安心門にくりあげて広讃とし、五念門全体を念仏往生の信心の相続相としての浄土教儀礼を意味付けられたのであった。作業門とは、起行における能修の心得と修相を四修として示したものである。
こうして安心門では念仏往生の正因決定を二種深信を中心に明かし、起行門と作業門とでは仏恩を念報し自行化他する相続行としての儀礼を中心に明かされていた。その両者の関係を『往生礼讃』「日中讃」には「五門相続して三因を助く」(『註釈版聖典』七祖篇・七〇四頁)といい、『法事讃』土には「三因・五念畢命を期となし、正助・四修すなはち刹那も間なく」(『同右』五〇九頁)等といわれているように両者は所助と能助のあり方をしていると見られていた。それと合わせると「散善義」の称名正定業は、安心門から立つ往生の業因をあらわす名であり、助業は浄土願生者として相応しい相続起行を顕わす宗教儀礼等の行業の実践を勧励する名目であったことがわかる。すなわち正定業と助業とは業因門における対目ではなかったことがわかる。ただし起行門では、正定業たる念仏を中心に五念門行が相続していくから、両者の間に主伴の関係が成立する。それを正業と助業といわれたのであろう。
②法然聖人の正助二業説
法然聖人は、「散善義」の就行立信釈をうけて、二行章では正雑二行を廃立するために五番の得失を判定されている。その場合、五番の得を正助二業の得として顕わされているが、しかしそれは助業が持っていた得ではなくて称名の得を助業に及ぼしたものであった。それは不廻向廻向対を論証するのに六字釈を引用し、名号の徳義として廻向があるから、機の廻向は不用であるといわれていることで明らかである。また正定業と助業とでは、本願行と非本願行の違いがあると明言し、また三輩章では廃立・助正・傍正の三義の中では、善導大師によって廃立の一義によって業因を決着されていた。特に三選の文では、聖浄二門、正雑二行の取捨を明らかにし、最後に正助二業について、「なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし」といい、正助二業の選択を明かして「称名必得生、依仏本願故」と断定されていた。これによって、法然聖人が、選択本願によって往生の業因を顕わされる時には、雑行は勿論、助業も廃して、ただ称名一行による報土往生を主張されたことがわかる。それをまた「諸人伝説の詞」には「本願の念仏は、ひとりだちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。」(『真宗聖教全書』四・六八二頁)といわれたのであった。
③親鸞聖人の正助二業説
親鸞聖人は、法然聖人の意を受けて、『尊号真像銘文』に、三選の文の「なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし」を「正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。選応専正定といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり」と釈されていた。「助業を傍らにせよ」を「さしおくべし」と言い替えることによって、助業と正定業の廃立の関係が決定的になる。また「二心なく」とは一心 を顕わしているから、三選の文は、行は称名一行、信は無疑の一心という一行一心を顕わすと領解されていたことが分かる。
『教行証文類』でもこの筆格は変わらない。真実の行信を顕わす「行文類」では、助正の分別はされず、専ら念仏一行についてその徳を讃嘆し一乗の行法を顕わし、「信文類」でも、助正の沙汰はされず、三心を一心に収めて機受の相を顕わされていた。真実の行信は、五正行でも助正でもなく、無疑の一心をもって、名号の一行を受行するという一行一心の法門として顕わされていたのである。
それに対して雑行はもちろん五正行、助正二業、専雑二修等はすべて「化身土文類」で詳細に明かされていく。「化身土文類」要門釈に第十九願を釈して「この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出せり」(『註釈版聖典』・三九二頁)といわれていた。「正助雑の三行」は要門から出た方便仮門の行であると言われるのである。それを釈して「正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり」といわれている。ここで除かれた「名号」とはいうまでもなく正定業である弘願他力の称名であって、それは要門から出た行ではなく選択本願から出た本願力廻向の行であったから除かれたのである。「行文類」では、五願開示の上で「然るにこの行は大悲の願より出でたり」と言い、第十七願によって回向された行であると言われていた。それを称名と言わずに敢えて名号と言われたのは、称名即名号であるような真実大行であったからである。「化身土文類」では、この後すぐに、「すでに真実行のなかに顕わしをはんぬ」といわれた横超の大行を指していた。
それに対してここで「五種の正行」とは、五正行の一々を専修する自力の「五専」を指していたといわねばならない。また「助とは名号を除きて以外の五種これなり」といわれたのは、四種の助業に、機執によって万行随一の位に落在している要門位の称名を加えて、五正行全体を助業の分斉であるといわれたのである。それは『愚禿鈔』下に、弥陀念仏に定心念仏(観察)と散心念仏(称名)をわけ、正行の散行を読誦、礼拝、讃嘆、供養の四種に分類し、それらをまとめて、「上よりこのかた定散六種兼行するがゆゑに雑修といふ、これを助業と名づく。名づけて方便仮門となす。また浄土の要門と名づくるなり」(『註釈版聖典』・五三〇頁)といわれた釈と照応しているからである。それは助正兼行している五正行は、五行全体が助業並みの要門位の行になっているからである。この場合の助業は行体ではなく分斉を顕わしていた。
なお親鸞聖人は、正定業と助業とに、本願行と非本願行との区別を付けずに並列して修しているありさまを助正兼行といい、雑修とも名付けられていた。「善導和讃」に
助正ならべて修するをば すなはち雑修となづけたり
一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし
(『註釈版聖典』・六九〇頁)
といわれたとおりである。
こうして親鸞聖人が助正法門を論じられるのは方便の行信を簡別される時に限り、真実の行信を助正で論じられることはなかった。
平成十八年 判決
念仏為本 判決 平成十八年
〔題意〕
法然上人は往生之業念仏為本と標示し、第十八願を念仏往生の願と示された。宗祖もその法義を継承された。ここに念仏往生の本義をうかがい、さらに、信心正因と矛盾せず、称名正因と異なる義を明らかにする。
〔出拠〕
『選択集』標宗の文「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」、
『往生要集』(『真聖全』一、八四七)「助念方法」総結要行の文、
『本典』「行文類」に、『選択集』標宗の文と総結三選の文を引いて、『選択集』全体を総括して念仏為本の法義を示される。
『銘文』広(『真聖全』二、五九五)同略(『同』二、五七一)に『選択集』標宗の文を釈して「〈南無阿弥陀仏往生之業念仏為本〉といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり」と。
『唯信鈔文意』(『同』二、六二五)には「すでに称名の本願は選択の正因たること悲願にあらはれたり」等と。
その他、「念仏為本」に関する類文は多い。
〔釈名〕
「念仏」とは称念仏名である。一般に念仏といえば、観念仏体、憶念仏徳、実相念仏等、種々あるが、今は、弥陀の仏名を称念する口称である。
「為本」とは、「本」は根本、宗本の義である。余なしという意味で、往生の因は念仏を根本として余他をみない意である。異本に「念仏為先」とあるが、同義である。
〔義相〕
一、『選択集』と『往生要集』の念仏為本
「往生之業念仏為本」は、もと『往生要集』中末、第五「助念方法」総結要行の文である。『選択集』標宗の文はこの文に拠るが、『要集』と文は同じであっても、義は少しく異なる。『往生要集』の念仏は、一往、要門中の念仏とみられる。法然上人は『要集』を三例をもって見、結論として弘願他力念仏と同じとした。宗祖は『末灯鈔』に「恵心院の和尚は、『往生要集』には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、〈行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず〉と仰せられたり」とある。
さて、『選択集』の語は、まず「南無阿弥陀仏」と名号をかかけ、次に「往生之業念仏為本」の八字を挙げてある。六字の標挙は、第十八願、選択本願の念仏であり、称名正定業である。法然上人は念仏一行によって万人が往生をとげる浄土教を独立された。その根拠は善導大師の称名正定業義であり、選択本願の念仏と開顕されたのである。即ち「本願章」には一切の諸行を選捨し、念仏一行を選取されたのは凡夫悪人を救う如来大悲の選択にもとづくものであった。念仏一行こそ、如来随自意の行法と判じ、さらに勝劣難易の分別をして、念仏は勝易の二徳を具すると示された。更に称名正定業を明かし、善導大師の六字釈を引証し、他力による念仏義を開顕され、極悪最下の人のために極善最上の法たる念仏は、他力念仏義であることを顕された。それは三心具足の念仏であり、信疑決判して、信心をもって能入すと示された。念仏は名号を信受して称える他力の念仏である義を明確にされたのである。
二、念仏の物体について
念仏為本という念仏の物体は名号である。念仏とは三心より出でた他力の称名である。法然上人の念仏為本の念仏は、衆生の能称の功をみない、名号の徳用から称名正定業という、称即名の他力行である。
宗祖は、「行文類」に『択集』の標宗と総結三選の文を引用して、『選択集』の始終全体を総括して引用されている。法然上人の念仏往生義をそのまま継承して、第十八願名を「念仏往生之願」「選択本願」と出され、随処にその言を用いられている。ただ宗祖は法然上人の一願建立の立場に対して五願開示して機法の分斉を鮮明にされ、称名行を第十七願所誓の大行として法体名号の活動相と展開されている。
衆生の称名はその体名号であって、名号は名声と立誓なされた通り、称となる徳をもっている。それは名号に内蔵する讃嘆門功徳である。従って、衆生の能称のまま、仏の法体名号の活動相である。これは能称所称不二の故に宗祖は「念仏則是南無阿弥陀仏」と「行文類」に示されている。称名は名号を領受した信心より露現するものであって「真実信心必具名号」と釈されるものである。声でない名号はないのである。即ち他力の称名は信心より必然的に露現したものである。
三、称名正因と称名正定業
次に善導・法然二師は称名正定業を立てて、念仏往生の一義をもって勧化されたが、宗祖は、信心正因と示された。この称名正定業と信心正因の法義は、一見相違するようである。称名正定業は、称名の体、名号の立場から業因を定め、信心正因は往生成仏の因が決定するのは、信受機受であると顕すのである。この場合は、称名は信後相続の作業となるから、信心正因称名報恩の法門となる。したがって称名について行徳の側から正定業を成じ、機の用心からいえば報恩となる。元祖と宗祖の間に化風が異なるのであって、元祖は、外聖道門の諸行に対して行々相対し、浄土門の行体を確定されたのであるが、宗祖は、対内的に浄土門内に機受の極要を示して、信心正因の義を確立されるのである。両者は矛盾せず、当然両立する。宗祖にあっても、対外的に聖道諸行に比対するときは、念仏諸善比挍対論と、念仏往生の法門をかかげられている。
更に称名正定業義が称名正因義にならないかとの疑問がある。
称名正因とは、第二十願真門自力念仏の立場であって、衆生の能称の功を積集して、己が功徳として、浄土へ回向願求する自力の念仏である。自力心を以て能称の功をつのり、己が善根と励んで往生の業因に擬する自力念仏が称名正因説である。これに対して称名正定業は、所称の名号の徳用から正決定の業因とする。所謂、称名即名号という他力念仏を顕すのであるから、混同してはならない。
『銘文』には「安養浄土の往生の正因は念仏を本とす」と仰せられているが、この文は『選択集』標宗の文を釈されたものであって、南無阿弥陀仏の標挙をかかげて法体名号にもとづく念仏一行を往生の因とされたものである。正因とあっても、衆生の能称の功徳を因とされたものでない。
また念仏往生の法目は、宗祖も用いられているが、元祖の念仏往生は第十八願の「乃至十念」をもって一願建立の立場から行々相対して浄土の行体を発揚されたものであるが、宗祖の場合は、同じ念仏往生の宗義であっても五願開示して法体と機受を分明にされ、念仏即ち衆生の称名を法体にまきあげて、第十七願所誓の我名を大行と示されたのである。
「行文類」には大行を出体して「称無礙光如来名」として衆生の称名となる名号即ち名声という義を大行として開顕されたのである。即ち能称所称不二の大行である。故に念仏往生といっても称即名に帰し法体名号の活動相を衆生の称名のところで顕されたものである。したがって念仏と云うときは、法体・信心・称名の三法相即の念仏である。
四、信心正因と念仏為本
以上のごとく、念仏為本の念仏は、他力行としての正定業であり、衆生の能称の功をみるものではない。また、称名正定業義も、能称の功をつのって往生の業因に擬する称名正因説ではなく、信心正因の法義と相違するものではない。よって念仏為本は決して信心正因と矛盾するものではなく、往生の正因については、元祖も『選択集』の「三心章」に「生死之家以疑為所止涅槃之城以信為能入」と述べられるとおり、信疑をもって迷悟の岐路とされているのである。 以上
執持名号 判決 平成十八年
〔題意〕
『小経』修因段について宗祖は准知隠顕の釈をなされた。隠顕釈による執持名号の釈意を明らかにする。
〔出拠〕
・『阿弥陀経』修因段「聞説阿弥陀仏 執持名号 若一日(中略)若七日一心不乱」(『真
聖全一、六九』等。
・『本典』「化身土文類」本、「経言執持亦言一心 執言彰心堅牢而不移転也 持言
名不散不失也 一之言者名無二之言也 心之言者名真実」(『同』二、一五七)等。
・『略典』(『同』二、四五三)
・「化身土文類」本、孤山『疏』の文(『同』二、一六二)
・(関連文)「易行品」(『同』一、二五八)、
『往生礼讃』後序(『同』一、六八三)、
『法事讃』(『同』一、五九七)、
『往生要集』下末の往生階位(『同』一、八九八)、
『漢語灯録』(小経釈)(『同』四、三六六)、
『唯信紗文意』(『同』二、六四九)
〔釈名〕
「化身土文類」に「執は心堅牢にして移転せず、持は不散不失に名づく」とあり、『略文類』もほぼ同じ。孤山智円の『阿弥陀経義疏』には「執は執受、信力の故に執受にして心に在り。持は住持、念力の故に住持して忘れず」と釈す。
要するに、執持の「執」とは堅固如実に名号を領受し、「持」とは憶持して忘れず相続するの義である。「名号」は南無阿弥陀仏、本願成就の果名であり、所聞所信所称の法体をあらわす。
〔義相〕
一、化身土文類の釈
『小経』所説の執持名号を、宗祖は『本典』「化身土文類」真門釈に解釈されている。そこには、准知隠顕、嫌貶開示の釈がなされてある。よって、執持名号義をも隠・顕の二釈をもって解釈するのである。
二、准知隠顕の釈義
准知隠顕とは、「『観経』に准知するに、この『経』にまた顕彰隠密の義あるべし」と示し、 「顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む」等とし、「彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無礙の大信心海に帰せしめんと欲す」とお示しである。『観経』に隠顕釈がみられるように、『阿弥陀経』も『観経』に准知して、この修因段に隠顕釈を用いられる。直接的には『観経』の下三品の念仏と付属の持名に准知する。即ち『小経』の修因段に
「不可以少善根」は『観経』の諸行を指し、『小経』は多善根多福徳の念仏を説くとするが、受持する機に熟未熟があり、熟機は直ちに他力仏願の念仏に入るが、未熟の機は諸行を廃しても自力心の機執をもって名号を修する故に自力称名となる。これが顕説の真門自力念仏である。『観経』の定散心に准知して顕説真門を見てゆくのである。『小経』に説く依正二報は真実であるが、この修因段のみ隠顕がみられるのは、多善根の念仏をすすめ、一日七日の念仏の功を策励する行業と、臨終来迎の益が説かれているからである。
三、嫌貶開示の釈義
嫌貶開示とは、顕説の所談で、一切諸行の少善根を嫌貶して善本徳本の真門を開示すと述べられてある。宗祖が真門念仏とみられる根拠は『小経』の『襄陽石碑経』の「多善根多功徳多福徳因縁」の文である。一切諸行少善根を往生不可と嫌貶し、真門念仏を開示するについて疑難が生じる。即ち、諸行少善の不可得生は、真実の報土に対していわれるならば、真門自力念仏も不可得生といわねばならない。もし真門念仏は化土得生というならば諸行もまた化土得生である。化土に対すれば諸行を不可得生とはいえないからである。要するに、諸行は真土にのぞめて不可得生と説かれたものである。ただし、真門は真土にのぞめて開示するのではなく、名号は元来、頓教であるが、自力定散の機は、多善根功徳と執じて自力策励する漸機である。機の側から自力称名としている。仏はこの機執に関せず、信疑廃立もいわずして来迎の益をあらわす。故に真門と判ずる。これを世尊の意として「真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む」と判ぜられたのである。
四、顕説の執持名号義
執持名号の意義について、多く孤山の釈を基本に釈してある。要するに、執持を心念ととれば心に名号を憶念して忘れず、称名ととれば誦念して忘れず、若一日等はその行時を示すと、善導大師の『法事讃』(「化身土文類」引文)、『往生礼讃』及び源空上人の『小経釈』等、総じて執持名号は称名行として釈されている。
宗祖は修因段に隠顕釈を用いて、執持名号にも隠顕の両釈がみられる。
顕説の釈意によれば、執持名号とは第二十願の植諸徳本と同じく、自力心をもって名号を称念する意である。「化身土文類」に引かれる元照師の『義疏』に「もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なり」と、自力の信は多善根多功徳の名号を憶持して忘れず、一日七日と策励していく相をいう。執持は口業に持つの義であり、顕説自力の信は起行の一心であって下の一心不乱と同じ。念々策励して、修する一心なるが故に「自利の一心を励まして難思往生を勧む」と示されたのである。
五、隠彰の執持名号義
次に隠顕の釈義は宗祖は真実難信之法、無碍の大信海と示してすべて信心に約して明かされる。故に執持と一心と同義とし、執は心、堅牢にして移転せず。持は不散不失に名づく。一は無二、心は真実と解釈される。宗祖が「化身土文類」や『略典』に信に約されたのは信心為本の宗義を開顕するについて執持を即一心と釈顕されたのである。信行は本来不離であって『往生要集』の釈は能修の心より「執心牢固なれば定んで極楽国に生ず」と示された。
要するに、信に約すれば一心に同じ。若一日若七日は信相続というべく、七日に限らない。行に約すれば若一日乃至七日の称名をあらわす。ただし、上の「聞説」は名号を領受したる執持の一心なりと顕す隠顕釈に明示されている。 以上
「逆謗除取」 判決 平成十八年
〔題意〕
『大経』第十八願の抑止の文には逆謗が除かれるが、『観経』下々品には五逆が摂取される。この相異について逆謗の意義を問い、除取の意趣についてその所顕をたずね、悪人正機の源意を明らかにする。
〔出拠〕
・『大経』第十八願、及び同成就文
・『観経』下々品
・『往生論註』八番問答
・「散善義」下々品釈、『法事讃』上
・『本典』「信文類」(末)逆謗摂取釈、『尊号真像銘文』
「唯除」の釈等の文
〔釈名〕
逆謗の「逆」とは、「さからう」「反逆」の意で、ここでは恩田・福田に背く五つの反逆罪のこと。五逆とは、殺父・殺母・殺羅漢・出仏身血・破和合僧である。宗祖はこの三乗共通の五逆罪と『薩遮尼乾子経』にある大乗の五逆罪を引かれてある。大乗の五逆罪の中には謗法がおさめられている。
「謗」とは、「誹謗」のことで、「そしる」「非難する」 「否定する」「破傷する」の意である。今は誹謗正法のことで、『論註』には、無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法と自ら解し、他からそのように受けて決定することをいう。
「除取」の「除」とは、「除外」「除去」「とりのぞく」 「はずす」の意をいう。
「取」は摂取で「おさめとる」「すてない」との意である。したがって「逆謗除取」とは五逆や謗法の罪を犯した者は、本願の救いから除かれるのか、あるいは摂取されるのかということである。
〔義相〕
一、『往生論註』の釈
先づ『論註』の釈意から窺うと、八番問答中に、『大経』の第十八願成就文を引いて、五逆謗法以外の一切の凡夫が皆往生をうると釈し、『観経』下々品の文を引いて、五逆罪の者が摂取されていることを示して、二経の相違について問答されている。
二、「除取」の意義
第一釈は罪の単複について、『大経』は五逆と謗法との両罪であるが、『観経』は五逆の一罪である。即ち『大経』は二罪故、往生から除外されるが、『観経』は五逆の一罪故に往生を得るとする。
それでは一罪二罪の相異ならば、謗法の一罪では摂取されるかというと、それは不可である。
その理由として第二釈に謗法の一罪で余罪なくとも往生できない。それは一つには謗法は極重罪であり、二つには仏法を謗り否定する者に願生の理がないからである。たとい為楽願生しても理に合わないからである。
ただし、『論註』下の如来の口業功徳釈には如来の名号説法音声を聞けば、謗法の罪が滅せられると釈してある。つまり謗法の者も回心して如来の口業功徳の名号を信受すれば、往生が認められるとする。『論註』の釈は謗法は願生の理がないから救われないという意義と、回心して名号を信ずれば摂取されるという。「除く」の裏に摂取の大悲をあらわされる釈である。
三、「散善義」の釈
次に「散善義」の釈を窺うと、『観経』下々品に五逆罪が摂取して往生を得ているが、『大経』には五逆謗法共に除かれている矛盾について、已造と未造に約して二経を通釈されている。
四、摂抑二門と逆謗除取
即ち未造の者に抑止、已造の者には摂取という義意である。未造抑止はまだ罪を造らない者に対して、造れば堕地獄という極重罪を知らしめ、逆謗の二過を誠しめて、方便して止めて往生を得ずと抑止されたのである。抑止とは、おさえとどめることである。已造摂取とは『観経』の如く、五逆の悪人、已にその罪を造った者を、仏これを哀愍して捨てず、大悲をおこして摂取して往生せしめる。『観経』では謗法が除かれてあるのは謗法は未造の故に説かれていないが、五逆と同様に已に造らば、摂取して往生を得しめるという法義が、一方を略して互いにあらわしている。未造・已造というが未造の者には抑止しても已造の者を摂取するならば、結局罪を造っても摂取されるならば抑止の意味がなくなるのではないかという疑問が生ずる。それについて『法事讃』に「仏願力をもって五逆と十悪と罪滅して生ずることを得、謗法と闡提、回心してみな往く」と示される。已造業とは単に逆謗を造っただけでなく、罪を慚愧し廻心している者を意味する。故に未造業が単に造っていないというだけでなく、廻心懺悔していない未廻心の者をさしていることになる。故に未造抑止とは重罪を犯さないよう誠め、罪を認めない未廻心の者に慚愧して廻心に導く意味を持つ。已造業の者は罪を懺悔して、廻心して本願を聞信している者というべきで、そこに未造抑止と已造摂取の仏意を示されたのである。
五、唯除の所顕
宗祖は「信文類」末の終わりに『涅槃経』を用いて、難化の三機が本願醍醐の妙薬によって救われていくことを示し、『論註』と「散善義」の文を引用してある。この二文の意を要約して、『銘文』に「唯除」の釈を示されてある。
それによると、五逆と謗法は仏が嫌い斥けられる極重罪であることを知らしめ、廻心して法を信受するよう導き、みなもれず往生せしめようとする大悲の善巧のことばであるといわれる。唯除逆謗とは逆謗の機に慚愧廻心せしめて一人ももらさず信を与えて救うということであるから、「除く」という語をもって救いを実現されたとみられている。
「唯除」という「除」の意義は、廻心しなければ摂取されないから、実除であって仮除ではなく、廻心すれば摂取されるから、暫除であって永除ではない。
更に「唯除」は弥陀の抑止か、または釈迦の抑止かの議論があるが、『銘文』に「十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」といわれて、弥陀の願意であると顕されたのである。
本願の「十方衆生」の中には未熟の機がある。自力作善にとらわれる善人には第十九・二十願によって従仮入真せしめ、因果を否定し罪悪流転する悪人を哀みて、因果の理法をとき、深悔を生ぜしめて聞法の器を成ぜしめんが為に「唯除」の抑止門を誓われたのである。かくて十方衆生万機普益の誓願のおもむくところ逆謗の悪人こそ本願救済の正所被であると、悪人正機の仏意をあらわされたものである。
※平成十八年八月三十日付にて宗門内においては、源空 (法然)聖人の尊称は、「聖人」と表記することとなりました。
平成十七年 判決
「六字釈義」判決 平成十七年
[題意]
南無阿弥陀仏の六字の名号の義を窺い、その名号の義は願行具足の六字、悲智円具の六字、機法一体の六字であることを解明し、他力救済の根本である名号南無阿弥陀仏の意味を明らかにする。六字の名号が衆生をよく往生成仏せしめる行体であることのいわれを明らかにする。
[出拠]
『観経四帖疏』の「玄義分」。『本典』の「行巻」。『尊号真像銘文』。『執持鈔』。『御文章』などの文。ここでは「玄義分]と「行巻」と『尊号真像銘文』の文を典拠とする。
・『玄義分』(真聖全一・四五七頁)
今此『観経』中十声称仏、即有十願・十行具足。云何具足。言南無者即是帰命、亦是発願回向之義、言阿弥陀仏者、即是其行。以斯義故必得往生。
・「行巻」(真聖全二・二二頁)
しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、[至なり、]また帰説なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]「命」の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。] ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。「即是其行」といふは、すなはち選択本願これなり。「必得往生」といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり
・『尊号真像銘文』(広本・真聖全二・五八八頁。略本・同上五六七頁)
「言南無者]といふは、すなはち帰命と申すみことばなり。帰命は、すなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり。このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて、安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。
[釈名]
「六字」とは南無阿弥陀仏の名号六字のことである。
「釈義」とは善導大師や親鸞聖人等のご解釈の意義ということである。
[義相]
最初に別時意趣と善導大師の六字釈について述べる。
別時意趣とは無着の『摂大乗論』にもとづく摂論学派 (通論家)の徒が、『観経』下下品の十念念仏往生は、唯願無行であって、往生別時意説であるとして、浄土教を批判したのである。これに対して、道綽禅師は、摂論学派が『観経』の下下品の臨終の十念は、遠生の因にはなるがいまだ往生を得ることはできないと主張したのに対して、道綽禅師は十念成就は過去の宿因によったものであるから、臨終の十念成就は即生の因となるのであると会通したのである。それが「これ世尊始めを隠して終りを顕し、因を没して果を談ずる」(「隠始顕終、没因談果」)といわれて、浄土教の立場を擁護なされた。又、善導大師は道綽禅師の義をうけて、更に下下品の十声の称名には願行を具足しているから順次の往生ができるのであることを明かしたのである。こうして摂論学派の浄土教批判を論破なされたのである。「玄義分」の六字釈には、即ち「南無」は「帰命」であり、それは衆生の信心である。又「発願回向」の義もあり、「阿弥陀仏」は即ちその行であって、「発願回向」の願と「即是其行」の行とが所称の名号に具しているから、願行具足であるとした。即ち名号南無阿弥陀仏の中に願と行とが具足していると明かしたのである。『観経』の十声称仏には十願十行が具足しているから即時に往生を得ることができるのであると示された。
次に、宗祖の六字釈を窺う。善導大師が唯願無行の批判に対しての対外的な意義をもっていたが、宗祖は六字の本質論の立場から論じられている。「行巻」の六字は三義とも約仏で釈されている。これによって悲智円具の南無阿弥陀仏の義をあらわされている。「帰命」とは本願招喚の勅命である。「必ず救うわれにまかせよ」の喚び声である。「発願回向」は、阿弥陀如来がすでに発願して衆生のものとして廻施されているのであって、如来
果上の大悲心であり、ここには弥陀の悲徳がこめられている。又、「即是其行」は選択本願であって第十八願のことであり、浄土へ生まれさせる力、はたらきのことであり、ここには万行円備の智徳がこめられている。「必得往生」は不退の義であり、現益の意味として語られている。
これに対して、『尊号真像銘文』の六字釈は約生で釈されている。「帰命」は衆生の信心であり、本願招喚の勅命に「おまかせします」ということである。「発願回向」とは信楽の義別のことであり、決定要期の上での願生心である。「即是其行」は正定の業因としての相続の称名であり、その体徳は悲智円具である。
最後に覚如上人の『執持鈔』と蓮如上人の『御文章』の六字釈について窺う。『執持鈔』の「帰命」は信心の義であり、信楽のことである。「発願回向」は「発願」を機相とし、これは作得生想の義であり、信楽の義別である。「回向」は法徳で釈してあり、仏の悲徳のことである。「即是其行」は智徳のことであり、往生成仏の行体となっている名号のことを指している。又、蓮如上人は『御文章』に「玄義分」の六字釈の「南無」から「必得往生」まで引文している四帖の十四通目と五帖の十三通目等によって述べると、「帰命」は衆生の信心であり、たのむ機のことである。「発願回向」(仏の大善大功徳)と「即是其行」は、たすけたまうかたの法である。機と法とが一名号の上に成就されているのである。機法門の上での六字釈である。なお、「必得往生」の義は覚如上人も蓮如上人も現益の意味であり、平生業成・入正定聚の義を示している。
以上、六字釈義によって、名号南無阿弥陀仏の六字がわれわれ衆生をよく往生成仏せしめる行体であることの義が知らされたのである。」
「報化二土」判決 平成十七年
[題意]
宗祖は浄土には報土(真土)と化土とがあると判別されたのであるが、その報化二土弁立の教義の特色を明らかにする。
[出拠]
・『往生要集』巻下末(真聖全一・八九〇頁)
衆生の起行にすでに千殊あれば、往生して土を見ることまた万別あるなり。もしこの解を作さば、諸経論のなかに、あるいは判じて報となし、あるいは判じて化となすこと、みな妨難なし。ただ諸仏の修行、つぶさに報化の二土を感ずることを知れ。
・「行巻」(真聖全二・四五頁)
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
・「真仏土巻」(真聖全二・一四一頁)
それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもってまた仏土について真あり仮あり。(中略)すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。
その他、『往生要集』巻下末「報化得失」、「真仏土巻」、「化身土巻」、『浄土文類聚鈔』、『愚禿鈔』、『三帖和讃』等の文。
[釈名]
「報」とは報いるの意であり、選択本願によって酬報した真実報土のことである。
「化」とは化現の意 であって、未熟の機の感見に応じた方便化身土のことである。
「二土」とは真実報土と方便化土の二つの土(真土・化土)のことである。
[義相]
先ず、『浄土三部経』と真宗七祖の浄土から述べる。『大経』の胎化得失の中には、明信仏智の者は自然に化生するが、疑惑仏智の者はかの宮殿に生まれて、寿五百歳つねに三宝を見たてまつらず等と詳しく説かれて、仏智を信じて浄土往生を願うべきことがすすめられている。又『観経』は阿弥陀仏の九品の浄土が詳しく説かれている。これらをうけて宗祖は三経差別門と三経一致門とを示され、『観経』と『小経』にそれぞれ顕彰隠密の義が示されるということになるのである。
又、真宗七祖の浄土については「真仏土巻」の中に引文されているものによって示すと『浄土論』の中に「観彼世界相、勝過三界道、究竟如虚空、広大無辺際」等の文とか『論註』巻上の「この性のなかにおいて四十八の大願を発して、この土を修起したまへり。すなはち安楽浄土といふ」等の文が引文されている。又「玄義分」の 「是報非化」の語や「西方の安楽阿弥陀仏はこれ報仏報土なり」等の文や「定善義」の「西方寂静無為楽」等の文や『法事讃』巻下の「極楽無為涅槃界」等の文が引文されているが、ここでは七祖の仏身仏土論を述べるところではないのでこれ以上はふれない。ただ「報化二土」の語は『往生要集』巻下末に出てくる語であり、ここに源信僧都の釈功があることは明らかである。
さて次に、宗祖の報化二土について述べる。宗祖の報化の義は『往生要集』巻下末の報化二土や報化得失からの教示によって、「化身土巻」要門釈に報化得失の文が引文されている。又『高僧和讃』などでも讃じられている。そこで先ず、真実報土からいうと、「行巻」に「往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり」といい、「真仏土巻」に「つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち、大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願これなり」といわれている。又「しかれば、如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す」といい、「それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。(中略)選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり」等と述べられている。真仏は無辺光仏・無礙光仏・諸仏中の王・光明中の極尊・帰命尽十方無礙光如来等と示されている。又真土は無量光明土・究竟如虚空広大無辺際・真仏真土等と示されている。真仏真土は身土不二であり、第十二・十三願の両願によって酬報された国土であり、それは方即無方・辺即無辺・数即無数の絶対界である。
又、「化巻」のはじめに「化身化土」を定義して「つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり」といわれている。又、小経隠顕の箇所に「仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり」といわれている。あるいは「真仏土巻」の真仮対弁の箇所に「まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく」ともいわれてあり、衆生の自力の行業がさまざまであるから、うけとるところの浄土の果もさまざまである。
最後に化土存在の理由について述べる。化土は種々の名で呼ばれている。含華・胎生・胎宮・辺地・疑城・懈慢界等とも呼ばれている。すべて化土の異名である。名の異なった別の願土があるということではない。この中、含華は華の中につつまれて一定の間、真実の三宝を見聞することができないのである。胎生は含華の状態が母の胎内に子を宿している様なものである。胎宮は宮殿の想に住している様な状態。辺地(辺界)は化土を貶した名であり、浄土の中から離れた土地である。そしてここまでは果の上の名称である。また、疑城は仏智を疑う者の行く浄土である。懈慢界(懈慢国土)は信機信法の二種深信の欠けた人がいく浄土であって、この疑城も懈慢界も共に衆生の因の上からいったものである。疑惑仏智や信罪信福を誡めて明信仏智や信機信法を勧めているのである。第十八願の他力信心のない人が、ただちに真実報土に往生することは不可能である。そこで阿弥陀仏の悲願のてだてとして、この土で自力信にとどまっている人を化土に往生させ、そこで仏智疑惑を誡めさせ、化土から離れしめて真実報土に往生させようとする如来の慈悲心がはたらいているのである。結局は不純な願生者をして真実報土に帰入せしめんがための弥陀のてだてというべきであり、これによって真仮の分斉を明らかにしようとしているのである。
「願海真仮」判決 平成十七年
[題意]
『本典』の中に、阿弥陀仏の四十八願には真実の願と方便の願とがあると釈 されているのであるが、その真仮の分別の意義を窺い、浄土真宗は絶対他力 の法門であることを明らかにする。
[出拠]
・「真仏土巻」(『真聖全』二・一四一頁)
しかるに願海について真あり仮あり。ここをもってまた仏土について真
あり仮あり。(中略)すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。
・「真仏土巻」(『真聖全』二・一四一頁)
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
・「化身土巻」(『真聖全』二・一五三頁)
これによりて方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。
願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。
・「化身土巻」(『真聖全』二・一五六頁)
いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。
願とはすなはち植諸徳本の願これなり。
その他、「行巻」偈前の文、『浄土和讃』等の文。
[釈名]
「願海」とは、総じては阿弥陀仏の四十八願海のことであるが、別しては生因三願のことである。今は生因三願の第十八願、第十九願、第二十願について考える。
「真」とは真実ということであり、阿弥陀仏の随自意のことである。真は仮に対し偽に対する。
「仮」とは方便という意味であり、随他意のことである。随他意とは阿弥陀仏の真意ではなく、衆生の機類に合わせるという意味である。第十九願・第二十願がそれにあたる。方便は善巧方便と権仮方便とがあるが、ここでは権仮方便のことをいう。
【義相】
「相承の釈」から述べる。
従来から宗祖の三願真仮の判釈に用いられたと考えられるものに、『観念法門』の摂生縁の箇所に本願加減文と第十九願と第二十願等の文があげられている。
又『法事讃』巻上に「難思議 往生楽 双樹林下 往生楽 難思 往生楽」という語が度々用いられている。又『漢語灯録』巻一 「大経釈」に但念仏・助念仏・但諸行の三往生が述べてあり、更には「上の本願願成就文の文に但念仏を明かすといえども、上の来迎の願等」と述べられていて、この中に生因三願の意味をくみ取ることができる。
次に宗祖の釈について述べる。宗祖には顕説(願相)と隠彰(願底)の見方がある。願相は第十八願が「行巻」偈前の文に、
その真実の行の願は、諸仏称名の願なり。その真実の信の願は、至心信楽の
願なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小
凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。
(『真聖全』二・四二~四三頁)
と釈されている。又第十九願については、観経隠顕の箇所に、
願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善な
り。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。(中略)二種の往生と
は、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺
地、双樹林下の往生なり。(『真聖全』二・一五四頁)
と釈されている。又第二十願については、小経隠顕の箇所に、
願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには
善本、二つには徳本なり。信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。
二十願なり 機について定あり散あり。往生とはこれ難思往生これなり。
仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり。(『真聖全』二
・一五六頁)
と述べられている。いわゆる第十八願の他力念仏往生と、第十九願の自力諸行往生と、第二十願の自力念仏往生はそれぞれが三願各生ということになる。このことは『浄土和讃』の中にも「本願のこころ 第十八願の選択本願なり」「十九の願のこころなり 諸行往生なり」「二十の願のこころなり 自力の念仏を願じたまへり」と和讃に註記されて、生因三願の和讃が作成されているのである。又願底については、「これによりて方便の願を案ずるに、仮あり真あり」の真であり、「いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり」の真実であって、願底は第十八願の選択本願に通じているのである。
次に「権実真仮と三願真仮」について述べる。『浄土和讃』の「念仏成仏これ真宗、万行諸善これ仮門、権実真仮をわかずして、自然の浄土をえぞしらぬ」と讃じられている。又、『愚禿鈔』の巻上に「ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これ浄土回向発願自力方便の仮門といふなり」といっている。二双四重の教判にあてはめると、二出(竪出・横出)二超(竪超・横超)に当り、三権(竪出・竪超・横出) 一実(横超)ということになる。この中、後者の三権一実の面をいえば、横超の第十八願だけが実であり、他の三は権であり、権を廃して実を取るという立場が権実真仮ということになる。第十八願だけが真であり実ということである。又、三願真仮は第十八願を真(真実)とし第十九願・第二十願を仮(方便)とするのである。
次に簡非(真仮廃立)と権用(従仮入真)について述べる。簡非とは真実の第十八願を顕是とし、方便の第十九願・第二十願を簡非とする。生因三願の特色としては、信行前後の異、信楽有無の異等に分けられる。これに対して、権用は暫用還廃ということになる。方便願より真実願に入れさせる誘引のはたらきである。「化身土巻」の宗祖自喜の段(三願転入の段)には、
久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真
門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるにいまことに方便の
真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、
難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、まことに由あるかな。ここに久しく
願海に入りて、深く仏恩を知れり。
とされるが、深く味得すべきである。これは弘誓の仏地に立った上での、悲願の願功のことをいったものである。
最後に真仮判釈の意義について述べる。「真仏土巻」に「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」といわれている。第十八願と第十九願・第二十願との間で、はっきりとした真仮廃立がなされていないと、第十八願の信前行後や信因称報の真宗義が正しく知らされないことになる。要するに願海真仮を通して、如来の広大なる恩徳を知らされていくのである。
平成十六年 判決
「機法一体」判決 平成十六年
[題意]
衆生の信心(機)と如来の救済の力・はたらき(法)とが別々のものではないことを、蓮如上人の教意を中心にうかがい、明らかにするものである。
[出拠]
『御文章』三帖目第七通に、
しかれば、南無の二字は衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。次に阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆへに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこふろなり。
とあり、また『同』四帖目第一四通に、
このゆへに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆへに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏とまふすこふろなり。
とある。その他『御文章』には四帖目第八通、同帖第一一通にも出るところである。
[釈名]
「機」とは機教、機法と熟語にされるように、広くは仏と衆生とを相望めて、仏の教法・教化に対してその対象となるもの、仏の教法を被るべき対象をいうが、この論題でいう「機」とは、「受法の機」をいうのであって、衆生のタノム機のこと、すなわち衆生の信心をいう。
「法」とは広くは「任持自性 軌生物解」などといわれ、「それ自体の本性を保持し、軌範となって他の解知を生ぜしめるもの」と釈されるが、ここでは衆生を摂取する如来の法、如来のタスクル力、すなわち如来の救済の力用をいう。
「一体」とは体が一つということ。別々のものではなく、一つのものであるということである。
したがって「機法一体」とは、衆生の信心(機)と、如来の救済の力用(法)とは、別々のものではなく、一つのものであるということを意味する。
[義相]
「機法一体」とは、名号(南無阿弥陀仏)に関する論であるが、蓮如上人の釈には、六字を二字四字に分釈される場合と、六字皆機・皆法の釈を示される場合とがある。
まず二字四字分釈とは、南無阿弥陀仏の六字について拠勝為論され、南無の二字を「衆生の弥陀をタノム機」とし、阿弥陀仏の四字を「如来の衆生をタスクル法」と分けて釈され、その南無の機と阿弥陀仏の法とが一体に成就されているのが機法一体の南無阿弥陀仏であると示されるものである。これに対して六字皆機・皆法の釈とは、六字について剋実通論され、南無阿弥陀仏の六字の全てがタスクル法であり、またその全体がタノムの信となると示されるものである。
『御文章』一帖目第一五通に、
南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。
等とあるのが六字皆法の釈で、
『御文章』三帖目第二通に、
その他力の信心といふは、いかやうなることぞといえば、ただ南無阿弥陀仏なり。
等と示されるのが六字皆機の釈である。
すなわち六字皆機・皆法とは、南無阿弥陀仏の六字全体がタスクル法(六字皆法)であるゆえに、その法がそのまま衆生にとどいて信心となる(六字皆機)ということを示されるのである。
要するに「機法一体」とは、如来の救済の力用そのものである南無阿弥陀仏(法)が、本来的に衆生の信心(機)となってはたらくものとして成就されているということであり、機(信)と法(行)とは不二にして、体は一の名号なることをあらわすものである。
したがって衆生の信心というも、如来より起こさしめられるものであり、衆生の側から南無の機をそえて阿弥陀仏の法と合体させるというのではないことを示すのである。
なお機法一体と仏凡一体は、ともに「一体」というが、「機法一体」の場合は、衆生の信心は名号を体とするものであり、名号は衆生の信心となるべく本来成就されているという意味で「本来一体」という。これに対し「仏凡一体」という場合は、本来は別物であった仏心が、凡心に満入して、凡心が仏心によって転ぜられて仏心と一体になるという意味で、これを「転成一体」という。ただし、仏凡一体というも、あくまで信心の法徳において語られるものである。
「十劫久遠」判決 平成十六年
[題意]
阿弥陀仏の成仏の時期について、『無量寿経』および『阿弥陀経』は十劫の昔(十劫成道)と説くが、他経によれば久遠劫の昔(久遠実成)と説く。この両者の説意をうかがい、真宗の阿弥陀仏観を明らかにする。
[出拠]
「十劫」については、『無量寿経』巻上に、
成仏已来、凡歴十劫。
(成仏よりこのかた、凡そ十劫を歴たまへり)
と説き、『阿弥陀経』に
阿弥陀仏成仏已来、於今十劫。
(阿弥陀仏は成仏したまひてよりこのかた、今に十劫なり)
と説かれる。またこれを『讃阿弥陀仏偈和讃』には、
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり
と讃ぜられる。
これに対し「久遠」については、『大経和讃』に
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど
塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふと示される。
[釈名]
「劫」とは梵語カルパの音写。大時、長時と訳す。きわめて長い時間の単位のこと。これはよく盤石劫、芥子劫の譬喩であらわされるところである。
「十」とは数の十のこと。「十劫」とは一劫の十倍。ここでは阿弥陀仏の成道について、それが十劫の昔であること、すなわち「十劫成道」をいう。
「久遠」とは久遠劫のこと。ここでは阿弥陀仏が久遠劫の昔より、実に正覚を成就したもうている仏であること、すなわち「久遠実成」をいう。
[義相]
『大経』に説かれる阿弥陀仏は、十劫の昔に成仏された有始無終、従因至果、因願酬報の報仏であるが、『法華経』寿量品には釈迦如来の本門を五百塵点久遠劫よりも久しき古仏と示されており、宗祖はこの本門の釈迦をもって阿弥陀仏と見抜かれたといえる。そこで『大経讃』には「塵点久遠劫よりも ひさしき仏と見えたまふ」と示され、さらに『諸経讃』では、久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する と讃ぜられる。すなわち阿弥陀仏は『大経』、『小経』では十劫成道と説かれてはいるが、その実は久遠実成の古仏であると示されるのである。久遠の仏とは無始本有の仏であることをいう。十劫成道の仏は、この久遠仏より衆生済度のために従果降因した仏である。
久遠仏とは、無始已来流転の衆生にはたらき続けている仏であることを意味するといえるが、一方で衆生において領解できるのは、有始にして成道の過程をしめしたもうた十劫仏である。そこで『大経』には十劫成道が説かれ、弥陀大悲の因願酬報のありさまが、衆生に親しく領解されるべく開説されているのである。
この十劫仏と久遠仏の関係について、阿弥陀仏は久遠の古仏であるが、この久遠仏より法蔵菩薩と名のり出て成道したもうたのが十劫の阿弥陀仏であるとして、時間的前後の関係で示される場合と、十劫仏は一如より垂名示形し修因感果した従因至果の仏であるが、この一如がすなわち久遠仏といえるのであるから、従因至果の仏がそのまま従果降因の仏であるとして、空間的関係において十劫即久遠と示される場合とがある。
したがって阿弥陀仏は十劫の昔に成仏された従因至果・有始無終の仏と示されてはいるが、その実は久遠劫の昔からの仏であって、従因至果がそのまま従果降因であり、有始無終がそのまま無始無終であるところの本来の仏であることをいうものである。
「覈求其本」判決 平成十六年
[題意]
『往生論註』における「覈求其本」の釈意をうかがい、真宗における他力の意義を明らかにする。
[出拠]
『往生論註』巻下第十「利行満足章」に
問曰有何因縁言速得成就阿耨多羅三貌三菩提
(問ひていはく、なんの因縁ありてか「速やかに阿耨多羅三貌三菩提を成就することを得」といへる。)と問いを発し、
答曰論言修五門行以自利利他成就故然覈求其本阿弥陀如来為増上縁
(答へていはく、『論』に「五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑなり」といへり。しかるに覈に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす。)
とうけて、他利利他を談じ、三願的証して義の意を証するところに出るものである。
[釈名]
「覈」は「マコトニ」、あるいは「アキラカニ」と読む。事実をしらべて明らかにするという意がある。
「求」とは推求という意。
「其」は指示代名詞であるが、ここでは『浄土論』に「修五門行以自利利他成就故(五門の行を修して自利利他成就するをもってのゆゑなり)」とあるのを指していう。
「本」とは因、原因、本源の意。
したがって「覈求其本」とは、事実をしらべて、自利利他の功徳を速やかに成就する原因・本源を推求し明らかにすることをいう。
[義相]
『往生論註』は、上巻末の八番問答において所被の機がいかなるものかをあらわし、下巻末の他力釈において能被の法をあらわすことをもって要とする。
『往生論註』はまた巻頭から信仏因縁の易行道をもって他力とし、最後のこの覈求其本の問答にはじまる他力の釈をもってしめくくられるように、他力にはじまり他力に終わるものでもある。
この覈求其本の問答は「速得成就」の「速」に問いを発するが、この問いの意味は、『浄土論』に五念五果の成就を述べるについて、前には、
復有五種門漸次成就五種功徳応知。(また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就したまへり、知るべし。)
と「漸次成就」と説かれるのに、後には、
菩薩如是修五門行自利利他速得成就阿耨多羅三貌三菩提故。(菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他す。速やかに阿耨多羅三貌三菩提を成就することを得るがゆゑ)
と「速得成就」と説かれるのは何故かを問うのである。つまり、はじめには五念門によって「漸次に」五果門を得ると示しながら、その結びにおいて「速やかに」阿耨多羅三貌三菩提を成就すると述べられる理由は何かを問うものである。
これは『浄土論』の不虚作住持功徳の偈に「観仏本願力 遇無空過者能令速満足 功徳大宝海」とある「速」をうけられるものでもあるが、これに答えられるに、まず五念五果が「速得成就」であるその本をいえば、阿弥陀如来を増上縁とするからであると明かされる。
ついで他利利他の深義を展開されて、「速やかに」阿耨多羅三貌三菩提の仏果を証得することができるのは、全く如来の造作によるのであり、衆生の側からは全く無作なることを示して、絶対他力、願力の独用を語られるのである。
さらには衆生の往相・還相が本願力によることを述べて、十八、十一、二十二の三願を的証されるのも、衆生往生の因果がひとしく仏力によることを明かして、「速」の速たる所以が仏力・他力なることを明らかにされるものである。
かくして、この「覈求其本」の釈によって、真宗の他力義はいよいよ明らかになるのである。
平成十五年 判決
「往還分斉」 判決 平成十五年
〔題意〕
会読論題提要に示すごとくであるが、要をとっていえば、往相と還相の位置づけの区別を明確にするところにある。
〔出拠〕
『本典』 「教文類」 真宗大綱の文に
謹案浄土真宗、有二種回向。一者往相、二者還相。
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。
とある。
〔釈名〕
「往」とは往相すなわち往生浄土の相、
「還」とは還相すなわち還来穢国の相、
「分斉」とはそれぞれの意義の範囲、すなわち位置づけを意味する。
まとめて言えば、「往還分斉」とは、真宗教義における往相(往生浄土の相)・還相(還来穢国の相)それぞれの意義の範囲、またその位置づけという意味である。
〔義相〕
往相すなわち往生浄土の意義は、無有出縁の凡夫が阿弥陀如来の本願力によって真実報土に往生し無上涅槃の極果を証することにある。聖道門の此土入聖に別した彼土得証の往生浄土門であるから、此土の生・彼土の生の区別は明確であり、此土の生の終わりが彼土の生の始まりと位置づけられる。
ところで、信心生活や正定聚の自覚道を往生と位置づけ、現生において往生を語り、当来の往生を否定する説が存在する。宗祖は『一念多念証文』や『唯信鈔文意』において、本願成就文の「即得往生」を信一念即時の入正定聚と解釈されておられる。一方、宗祖が命終時において往生を語られる文は枚挙に遑がない。就中十月六日付真仏宛・二月廿五日
付浄信宛のご消息には、信一念即時の現生の利益である入正定聚・諸仏護念を往生已前の利益と示されていること等により、宗祖においては当来の往生こそが本義であることは明確である。また、此土入聖の聖道門と別した彼土得証の法門である浄土門においては、此土・彼土の峻別こそが生命線であるということができる。
還相すなわち還来穢国の意義は、本願力によって得証する無上涅槃に本来具せられている悲用である。
この還相の利益についても現生で語る説が存在する。すなわち、現生は往生成仏への道という自利、当来は往生後の衆生教化という利他との区別は自利即利他・利他即自利という大乗菩薩道に反するものであるとして、浄土真宗が大乗の至極である以上自利の往相においてそのまま利他の還相を語らなくてはならないとするものである。しかし、還相とは
「証文類」還相回向釈に引用される『浄土論』・『往生論註』には「遊戯神通至教化地(神通に遊戯して教化地に至る)」・「得奢摩他毘婆舎那方便力成就(奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て)」とあるように高度の救済能力の発揮であり、「浄土和讃」には「釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし」と釈尊と同等の利他活動と位置づけられている。このような利他活動は凡夫には不可能であり、現生に還相を語ることができないのは明らかである。往生浄土の相である「往相」において、往生とは命終即時の事態であり、還来穢国の相である「還相」とは往生即成仏の証果にともなう自在の救済活動をいう。両者の位置づけを明確にして、宗祖教義に於いては現生の往生や信後の還相が成り立ちえないことを確認しておく。
「三法四法」 判決 平成十五年
〔題意〕
三法四法の開合の相状を検討し、行中摂信及び信別開の意義を明らかにする。
〔出拠〕
『本典』 題号には
顕浄土真実教行証文類
とあり、「教文類」真宗大綱の文には、
就往相回向有真実教行信証。
往相の回向について真実の教行信証あり。
とある。
〔釈名〕
「三法」とは教・行・証であり、「四法」とは、教・行・信・証 である。
教とは、聖人下に被らしむるの言であり、法然上人は『選択集』に正明往生浄土の教として三経一論を示され、宗祖は『本典』に真実教として『大経』を示される。
行とは造作・進趣を義とし、法然上人は念仏為本と示され、宗祖は衆生の念仏として常に法界に流行している法体名号として明かされる。
信は法然上人においては『観経』の三心を中心に示されるが、宗祖は疑蓋無雑の信楽一心と的示される。
証とは法然聖人においては往生と語られ、宗祖は証験と示されて此土における行信の因が彼土において果として顕現した無上涅槃の極果として明かされる。
〔義相〕
釈名に示したように、教・行・信・証それぞれについて、法然上人と宗祖とに所顕の相異は見られるが、本論題においては特に行信の開合を中心に論じる。
法然上人は三経一論を所依として念仏往生の法義を闡揚されるが、『選択集』三心章には信疑決判を示され、その念仏とは無信単行の念仏ではなく、具信の念仏であることをあらわされる。
宗祖は『本典』の構成を四法門であらわされるが、これは法然上人の念仏往生の真義を開顕されるものである。すなわち、法然上人は外聖道門に対して浄土門独立を意図し、行行廃立して本願念仏法という法の超勝性を明確にされるのであるが、その本願念仏とは他力の念仏であり、その他力たる所以は信にある。よって宗祖は称功を廃し唯信独達の意義を明確にし信心正因を示すために機受の極要たる信を別開されるのである。
第十八願における三心・十念すなわち信心と念仏とは機受の全相をあらわし、ともに名号願力の活動相にほかならない。宗祖は、衆生を信ぜしめ、念仏せしめ、往生成仏せしめる法体名号を「行文類」に大行とあらわされ、その法体名号を衆生が領受する極要
を大信として「信文類」にあらわされる。このように、『本典』の構成は信が別開された教・行・信・証の四法門であるが、一方、『本典』題号や『略典』の構成は、信を行におさめた教・行・証の三法門となっている。
三法門は、聖道自力の三法が釈尊滅後次第に衰滅するのに対し、浄土他力の三法が在世正法・像末法滅ひとしくはたらくことをあらわしている。また、第十八願法そのものとしては、信を行におさめることによって行と証とが直接し、名号願力の独用によって証果の開かれることがあらわされる。
四法門は要門・真門の自力往生法に区別した弘願他力法の特性があらわされる。すなわち、特に真門法と弘願法とはともに念仏を行とし、至心・回向・欲生という真門の三心各別の信と三心即一の信楽一心という弘願の信とを示さなければその区別がつかない。ちなみに、要門法は至心・発願・欲生の信を示さなければ聖道法との区別がつかないということも付言しておく。また、弘願法そのものとしては、信を別開することによって信と証とが直接し、信心ひとつが往生成仏の正因たることがあらわされるのである。
「三往生義」 判決 平成十五年
〔題意〕
親鸞聖人における三往生の説示を窺い、自力往生との対比によって、他力往生の意義を明らかにする。
〔出拠〕
『本典』 「証文類」 標挙には
必至滅度之願 難思議往生
とあり、「化身土文類」 標挙には、
無量寿仏観経之意
邪定聚機
双樹林下往生
阿弥陀経之意也
不定聚機
難思往生
とある。
〔釈名〕
「難思議往生」とは、第十八願他力念仏往生、すなわち顕露彰灼の経である『大経』に説かれる往生である。「難思議」とは「不可思議」の意であり、往生の因果が衆生の思議を絶しているので、「難思議往生」という。
「双樹林下往生」とは、第十九願自力諸行往生、すなわち『観経』顕説の往生である。「双樹林」とは沙羅双樹のことであり、釈尊入滅の処を意味する。娑婆所現の釈尊にちなみ、化仏所居の土に往生することを、「双樹林下往生」という。
「難思往生」とは、第二十願自力念仏往生、すなわち『阿弥陀経』顕説の往生である。万善円備する一切善法の本であり、十方三世の徳号の本であるところの名号を称する往生であるから「難思」と名を得るが、本願疑惑の罪によって「難思議」の名を得ることができない。
〔義相〕
宗祖は、自力往生を双樹林下往生・難思往生と示されるが、また胎生とも示し、自力の行者所入の土を懈慢界・辺地・七宝の牢獄等とも示される。
自力往生とは、「真仏土文類」 に
良仮仏土業因千差、土復応千差。
まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。
とあるように、人々各別の生因によって所入の土も人々各別であるという往生である。宗祖は、四十八願中に生因三願が建立されていることに基づき、その三願に真仮を見られた上で、自力往生を諸行による双樹林下往生と念仏による難思往生とに区別されている。生因については諸行と念仏とに大きく区別されるが、人々各別の所入の土については、これを一括して方便化土と示され、また辺地・懈慢界等とも称されるのである。
難思議往生・双樹林下往生・難思往生の語は、もと善導大師の『法事讃』に出る。『法事讃』には、三経往生区別の微意を示すともとれる文の存在が古来指摘されているが、宗祖は語を『法事讃』に借り、義を転用して三経往生に配当されたのであると見るべきである。
宗祖における自力往生と他力往生の区別は、『大経』胎化段に基づく。すなわち、仏智疑惑による胎生と明信仏智による化生が対比され、前者には不見三宝の失があるというのが胎化段の説示である。宗祖はこれに基づき果の得失を示すことによって、勧信誡疑されるのである。
平成十四年 判決
【指方立相】判決 平成十四年
[題意]
阿弥陀仏の浄土が西方にあると説かれた意義をうかがい、浄土の荘厳相をたてられた説意を明らかにする。
[出拠]
『定善義』(『真聖全』 一・五一九頁)
「今此観門、等唯指方立相、住心 而取境。総不明無相離念」
『仏説無量寿経』(『真聖全』一・一五頁)
「法蔵菩薩、今已成仏、現在西方。去此 十万憶刹。其仏世界、名曰安楽。」
その他
『仏説観無量寿経』
『仏説阿弥陀経』
『安楽集』
『法事讃』等がある。
[釈名]
釈尊に約していえば、「指」は指示、「方」は方処、 「立」は弁立、「相」は相状をいい、釈尊が「西方」という方処を指して阿弥陀仏の浄上の荘厳相を教示されていることをいう。
また、阿弥陀仏に約すれば、「指」は指定、「方」は方処、「立」は建立、「相」は相状である。すなわち、阿弥陀仏は此土からいって西方という方処を指定されて浄土を建立されたことをいう。
そこで、『定善義』像観の「等唯指方立相、住心而取境。」の文は、釈尊に約して指方立相が語られており、『安楽集』に「法蔵菩薩願取西方成仏 今現在彼。」とあるのは、弥陀に約して語るものといえよう。
[論点]
(一)西方の意義
ここでいう「西方」とは、東西南北四維中の西方であって、方処を指すのである。阿弥陀仏の浄土は『仏説阿弥陀経』に「従是西方」とあるように此土を基点として指示したものであり、須弥山説によって論じられたものである。従って天動説による立場である。しかし、地動説を常識とする現代の人にとって、従是西方をいかに理解すべきであろうか。 これについて『安楽集』に「以閻浮提云日出処名生没処名死…中略…是故法蔵菩薩願成仏在西悲接衆生。」とあるように、日の没する処という地理的方処に即して、宗教の領域としての方処と領解すべきである。『往生礼讃』「前序」にある「須下面向西方者最勝上、如樹先傾倒必随曲 、故必有事礙不及向西方、但作向西想亦得。」との文は、西方を宗教的に受けとめることを教示しているのである。
ところで『浄土論』には浄土について「究竟如虚空広大無辺際」とあり、『論註』には「此浄土随順法性不乖法本」と説かれている。これによると、阿弥陀仏の浄土は無相無辺と説くのである。それでは無相無辺と、西方の荘厳国土とはどのように理解すべきなのであろうか。云いかえれば、真如法性と願心荘厳の関係を、どう領解すべきかということである。これについて『論註』は真如法性を略とし、願心荘厳を広として広略相入の論理を展開している。その説明として、『論註』は略を法性法身とし、広を方便法身として、いわゆる由生由出、不一不異と示すのである。このことを思惟すると、浄上は無方即方、方即無方であり、無相即相、相即無相であるといわれるのである。
ただ、方即無方・相即無相の知見は、悟りの世界の所見である。そこでこの迷界の衆生に対して、方即無方の方と、相即無相の相で応じるのが指方立相の立場なのである。
従って、衆生においては西方浄土に願生するのであるが、如来の本願力により、無生の生の浄土、無量光明土へ証入せしめられるのである。この論理を言いあてているのが、いわゆる『論註』の氷上燃火の釈なのである。
(二)過十万億仏土の問題
『大経』には阿弥陀仏の浄土について「去此十万憶刹」といわれ、『小経』には「過十万億仏土」とある。しかし『観経』には「去此不遠」と説かれている。
『観経』の「去此不遠」については、「序分義」に三義をあげて解釈されている。
①分斉不遠・・・無辺際の領域からみれば近い。
②一念即到・・・距離的には遠いと思うが、往生するときは本願力によるが故に一念に往 生することができる。
③観念即現・・・浄土はそれを観ずる者の心相に常に顕現するから遠くない。
ちなみに、①は『大経』、『小経』により、②は『観経』「散善義」により、③は『観経』定善の立場よりの領解である。
「過十万億仏土」の「過」は超過(勝過)と経過の義かおる。いずれも此土に対する彼土を指すことを留意すべきである。
(三)仏国土の表現
阿弥陀仏の国土の表現については、経論釈に種々に説かれている。『大経』は「安楽」と、「安養」、『観経』・『小経』には「極楽」の語が多い。
ところで、宗祖の聖教の上にみえる、宗祖の言葉としては「極楽」の語は僅かである。そのことは「諸の楽のみを受く」とあるのを、自己の欲望を満たす世界への往生ととる誤解を誡められたことである。
「真仏土巻」に、「謹按真仏土者仏者則是不可思議光如来、土者亦是無量光明土也。」と説示されていることには重要な意義がある。
(四)浄土建立の意義
『大経』に法蔵菩薩の発願の心を述べて「令我於世速成正覚 抜諸生死勤苦之本」とあるが、その願心の具体的発動が浄土の建立となったのである。これについて『安楽集』には「為欲成就衆生故願取仏国」と述べ、また「法蔵菩薩願成仏在西悲接衆生。」といわれている。浄土建立の意義は、ひとえにあらゆる衆生を成仏せしめるためにほかならない。 (五)無相離念と立相住心
「定善義」第八像観の釈義によれば、諸師は『観経』に説かれる法界身を法身とみて、それをあるいは「唯識法身観」の立場より、または「自性清浄仏性観」の立場よりこれを解釈して、『観経』の観法を無相離念の理観を説くものとみなした。
これに対して、善導大師は『観経』に説かれている観門は末代濁世の凡夫を対機としているのであって、西方に荘厳成就された有相の浄土を観察する事観であるとされるのである。従って無相離念の理観に対して、立相住心の事観を述べるのに「指方立相」を説いたのである。もとより指方立相の語句が直接出されるのは観門についてであるが、その語義は広く阿弥陀仏の浄土の特色を説示する言葉として用いられているのである
ここで説き示される指方立相の浄土こそ、凡夫の成仏のための世界なのである。このことを『法事讃』には「一切仏土皆厳浄 、凡夫乱想恐難生。如来別指西方国。従是超過十万億。七宝荘厳最為勝 。」といわれている。
つまり、指方立相の阿弥陀仏の浄土こそ大乗仏教の究極態としての真空妙有の世界なのである。従って最も勝れた悟りの世界なのである。ここに罪濁の凡夫が、最勝の浄土に往生せしめられる仏道が成就されるのである。
以 上
【平生業成】判決 平成十四年
[題意]
浄土真宗においての平生業成の意義を明らかにし、臨終来迎に簡ぶ旨を鮮明にする。
[出拠]
『御文章』一帖目第二通(『真聖全』三・四〇四頁)
さればこの信をえたる位を、『経』(大経・巻下)には「即得往生住不退転」と説き、『釈』(論註・巻上意)には「一念発起入正定之聚」ともいへり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。
『浄土真要鈔』(『真聖全』三・一二三頁)
親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にし て臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談に して来迎の義を執せず。
その他
『口伝鈔』
『改邪鈔』等がある。
[釈名]
「平生」とは、尋常の時節のことであって、臨終に対する語である。
「業成」とは、業事成弁・業因成就の義である。
よって、「平生業成」とは、平生の聞信の一念に、得果の因が衆生の上に成就することをいう。よって、義からいえば、信一念業成である。
[論点]
(一)平生業成の名義
平生業成の平生とは、尋常の時節のことで、臨終に対する義である。従って平生業成とは、臨終業成・臨終来迎に対する義である。
それでは、臨終来迎の義とはどのようなものか。
臨終とは命終の時を指す。来迎とは、仏・菩薩の来迎のことである。これを合釈すれば、臨終来迎とは平生に積んだ善行による往生を確信するために、臨終の時に仏・菩薩の来迎を要期することである。
「来迎」それ自体は、弘願義において説かれている。
『観経』に「無量寿仏、化身無数、与観世音・大勢至、常来至此行人之所。」とある常来迎、『玄義分』の「釈迦此方発遣、弥陀即彼国来迎」の文中、弥陀の招喚を来迎と名づけてある来迎、さらに『一念多念文意』の「恒願一切臨終時、勝縁勝境悉現前」の釈などにある勝縁勝境の現前する来迎、また『唯信鈔文意』に説かれている還来待迎の来迎などがそれである。しかし、ここでいう来迎は「臨終来迎」であり、諸行往生の者が要期する臨終来迎のことである。
(二)平生業成の理由
浄土門内において、平生業成を説く教義的理由は、
①生因三願の見方の相違を明確にする。浄土異流では、生因三願に真仮を分かたず、来迎は第十八願の利益であるとみる。これに対して、宗祖は生因三願に真仮を分かち、第十八願を真実の願とされ、臨終来迎については『末灯鈔』(『真聖全』二、六五六頁)に
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。 臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
と明示されている。
②第十八願の弘願法門は信益同時であることを開顕されたのである。すなわち、信一念のとき往生決定であり、即時に摂取不捨の利益にあずかり正定聚に住するのである。この信一念のところに往生の業因が成就することを平生業成というのである。
ところで、平生業成と現生正定聚は、共に信益同時の利益を顕わすことにおいては同じである。しかし、平生業成は臨終来迎・臨終業成に対する言葉であり、正定聚は邪定聚・不定聚に対する決定往生の者の位態を顕わす言葉であり、その所顕を異にするところである。
(三)平生業成の根拠
本願の文に「若不生者」とあり、成就文では「即得往生 住不退転」と説かれている。本願の文では、衆生往生の因が三心とされている。しかし、成就文ではこれを「聞其名号 信心歓喜」と述成されている。この聞信の一念に往生の業因が成就することを平生業成の根拠とするのである。従って、たとえ時間的に聞信の時が臨終であっても平生業成なのである。
(四)平生業成義の相承
平生業成の義は、本願成就文の聞信一念即得往生に基づき、宗祖の釈義に鮮明に示されるところであるが、「平生業成」という名目は、覚如上人の『改邪鈔』、存覚上人の『浄土真要鈔』に用いられ、蓮如上人にいたって徹底して明示されたものである。
以 上
【一念多念】判決 平成十四年
[題意]
一念義・多念義両者の誤りを正し、念仏往生の真実義を明らかにする。
「出拠」
『一念多念証文』(『真聖全』二・六〇四頁)
「一念をひがごととおもふまじき事」「多念をひがごととおもふまじき事」(同・六一二頁)といわれ、最後に「浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり、またく一念往生・多念往生とまふすことなし、これにてしらせたまふべし。」(同・六一九頁)と結ばれている。
『一念多念分別事』(『真聖全』二・七六六頁)
「念仏の行につきて、一念・多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これはきはめたる大事なり、よくよくつつしむべし。」と誡め、最後に「かへすがへすも、多念すなはち一念なり、一念すなはち多念なりといふことわりをみだるまじきなり。」(同・七六九頁)と結ばれている。
その他
『本典』
『西方指南抄』
『口伝鈔』等がある。
[釈名]
「一念」は行と信とで釈名が異なる。
信の一念とは、「一」は最初、「念」は時剋の義であり、「ときのきわまり」のことで、信相続に対して信初発の時を指す。
行の一念とは、「一」は一遍、「念」は称念の義で、多念の称名に対して「一声」の称名をいう。今は『大経』付属の「乃至一念」であるから、「初一声」のこととうかがえる。「多念」の「多」は数量の多であり、「念」は称念の義であって一生涯相続の多念の称名をいう。
[論点]
(一)一念義・多念義について
法然上人の門下において、念仏往生の真実義を誤り、一念義の立場・多念義の立場とい
う邪義が生じた。
一念義とは、一声の称名または一念の信で往生の業事は成就すると偏執して、多念の称
名を嫌い否定する立場のことをいう。
多念義とは、平生に多念の称名を積むことによって、臨終に往生の業事が成弁すると偏執して、一念業成を否定する立場をいうのである。
(二)『一念多念分別事』と『一念多念証文』について
善導大師、法然上人は一念多念を行で語られている。『西方指南抄』に「信おば一念に生ととり、行おば一形をはげむべし」(『真聖全』四・二一六頁)といい、念仏は一声までも決定往生の業と信じ、一生涯念仏を相続せよとすすめられているのである。これは、本願の文「乃至十念」の「乃至」の意味によって称名の一多を問わず能称の功をみず、ただ仏願力を仰いで一向に念仏せよと教示されたものである。
ところで、『一念多念分別事』も称名について一念に偏執することの誤りを指摘し、一多不離相即の念仏往生を説くのである。このように、行について一多を論ずることは、いずれか一辺に執ずることの誤りを正されるのであって、ここに示される称名はその体徳についての所談であるから称名正定業の意であり、一念一無上・十念十無上、すなわち一声も往生し、多声も往生するとされるのである。
これに対して、宗祖の『一念多念証文』はもとより『一念多念分別事』の文意を述べられたものであるが、その扱いにはおのずから異なるところがある。『一念多念分別事』の一多はどこまでも称名についてであったが、『一念多念証文』では、一念に信一念と行一念を分け、信一念の時に浄土往生が決定するという「信心正因」の義を明らかにされているのである。そして、その信心は必ず多念の称名となって一生涯相続するものとなる。また、行一念については名号の徳義を称名の初一声のところであらわされたものとされ、念々の称名は名号全現の行であるから、その徳からいえば、声々みな正定業であるから一多のどちらかに偏執して他を否定することを誡められているのである。
(三)信行一多について
『一念多念分別事』においては、一念多念ともに行についていう。それに対して『口伝鈔』には、「一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事」と題して、「下至一念は本願をたもつ往生決定の時刻なり、上尽一形は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。」(『真聖全』三・三三真)といわれ、それを承けて『帖外御文章』に「他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし。これすなはち上尽一形の釈にかなへり」(『真聖全』五・三〇〇頁)と教示されている。いずれも信一行多の義を明らかにされたものである。すなわち、初起の一念に法体名号を領受してこの信は一生涯相続する。そして信心のうえから口業に流発して多念の称名となる。故に、称名は一声以後すべて多念に摂して、一念は信心にかぎる。これを信一行多という。一念の信心は往生の正因であり、多念の称名は往因円満後の報恩となる。
(四)宗祖と相承の釈義
『口伝鈔』および『御文章』等の釈は、いずれも信一行多の義を明らかにされている。『口伝鈔』等は宗祖の「信心のさだまるとき往生またさだまるなり」(『真聖全』二・六五六頁)と往生決定の時剋を信一念とされた義意を承け、また「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」といわれた文意によって、信後の多念の称名のこころもち(意許)は報恩であると示されるのである。この場合は、一念と多念を信と行とに分判し、称名は初一声であっても、信一念より後であるから、多念に属するとして称名全体を多念とされるのである。
以 上
平成十三年 判決
「信疑決判」判決 平成十三年
【題意】
『選択集』の信疑決判の釈に基づき、信疑によって、迷悟が分れることを明らかにする。
【出拠】
『選択集』三心章の私釈に「次に深心とは、謂はく深信の心なり。当に知るべし。生死の家には疑を以て所止となし、涅槃の城には、信を以て能入と為す。故に今二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。」(真聖全一、九六七頁)とあり、
また宗祖は『尊号真像銘文』(真聖全二、五七二頁・五九六頁)には、この文の解説がなされ、
「正信偈」(同前、四六頁)、『高僧和讃』源空讃(同前、五一四頁)にはこの文の意が示されている。
【釈名】
「信」とは、第十八願の無疑の信心のことである。
これは明日の天気を確信する未現前の不疑に対して、現前の仏勅に直接する無疑である。
「疑」とは、仏勅を拒絶する全てをいう。
「決判」とは、信疑のけじめを明らかにすることである。
【義相】
①『選択集』信疑決判の意。
『選択集』三心章の三心の中心である深心釈下において、迷悟を信疑によって決判し、以て念仏往生の奥義を開顕し、唯信正因の本意を示したもの。
②『大経』信疑得失の意。
『大経』下巻の胎化段(真聖全一、四三頁以下)において、仏智を疑惑して、「修諸功徳」、あるいは「修習善本」して願生する「不了仏智」の者は往生しても胎生して、大利は得られず、「明信仏智」の者のみが化生して大利を得ると述べている。
③信疑決判と信疑得失の相異。
どちらも第十八願の信心を勧める点では同じであるが、信疑決判は悪機について因の上で語り、得失は、修善の機について、果の上で語っている。
④生死流転の因は何か。
本願疑惑が生死流転の因ではない。悪業・煩悩が因である。さらに信疑決判なることは、本願成就を前提としていることにある。恰も十人が十人この薬を飲めば助かるという病でも、自らの無知のため拒絶すると死亡するが如くである。 以 上
「聖浄二門」判決 平成十三年
「題意」
聖浄二門の意を窺い、聖道門によらずに浄土門によるべき旨を明らかにする。
「出拠」
『安楽集』第三大門に「問ふて曰く、一切衆生皆仏性有り。遠劫より以来応に多仏に値ふべし、何に因てか今に至るまで仍を自ら生死に輪回して火宅を出ざるや。答えて曰はく。大乗の聖教に依る良に二種の勝法を得て以て生死を排はざるに由ってなり。是を以て火宅を出ず。何者をか二と為る。一には謂はく聖道、二には謂はく往生浄上なり。其の聖道の一種は今の時証し難し。一には大聖を去ること遙遠なるに由る。二には理深く解微なるに由る。」(真聖全一、四一〇)とあり、『選択集』二門章にこの文が引用され、その意が継承されている。
宗祖は『教行信証』「化土巻」に「凡そ一代の教に就いて、此界の中にして入聖得果するを聖道門と名づく。難行道と云へり。此の門の中に就いて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・蜜、竪出・竪超有り。則ち是れ自力、利他教化地、方便権門之道路也。安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく。易行道と云へり。此の門の中に就いて、横出・横超、仮・真・漸・頓、助正・雑行、雑修・専修有り。」(真聖全二、一五三)とある。
「釈名」
「聖道」とは、聖人所修の教えである此土入聖の法門、「浄土」とは往生浄土の法門であり、末法五濁の為凡の教である彼土得証の法門である。
「二門」とは、聖道門と浄土門の二門のことである。
「門」とは門別の義と、通入の義がある。それ故何れも如説に修行すれば、仏果に到ることが出来る。
【義相】
①聖道門に依らず、浄土門に依る理由
『安楽集』第三大門に示される二由一証に示さ れるように、末法五濁の凡夫には、浄土門が通入すべき唯一つの道である。
②聖浄二門の難易と勝劣
法然上人においては、浄土門の念仏に勝易の二徳が出され、念仏の法こそ、この私には最勝至易の法とされている。
③聖道の慈悲と浄土の慈悲
聖道の慈悲は自らの実践によるが、浄土の慈悲は仏の大悲を領受せるもので、自らにおいては「いかにいとほし不便とおもふとも」とあり、この不完全の自覚こそ汝の人格を是認する開かれた実践の根底なるものを与えられるのである。
④聖道得道と聖道無得道
聖道教を軽んずるものではないが、私にとって は浄土門の得道しかないという立場が、宗祖・蓮師の立場である。 以 上
「正定滅度」判決 平成十三年
「題意」
浄土真宗は現生正定聚・彼土滅度の二益を語るのであるが、現生(此土)においては、滅度の果を一分たりとも証得するものでないことを明らかにする。
「出拠」
『教行信証』「証巻」には「然るに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の羣萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚之数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。」(真聖全二、一〇三)とあり、
『六要鈔』には「問ふ。定聚・滅度は是れ二益歟、又一益歟。答ふ。是れ二益也。定聚といふ者、是れ不退に当たる、滅度と言ふ者是れ涅槃を指す。」(同前三二一)とあり、 また『御文章』には「問ていはく、正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。答ていはく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。」(真聖全三、四〇七)とある。
「釈名」
「正定」とは正定聚の略であって、正定聚とは邪定聚・不定聚に対し、滅度に至ることに正しく定まった聚類の義である。
「滅度」とは大涅槃であって、生死の迷いの因果を滅した仏果をいう。
「義相」
①正定聚を現益とし、滅度を当益とする理由。
第十一願に正定聚と滅度が誓われてあり、その成就文には正定聚が説かれているが、第十一願の当面では正定聚も滅度も共に彼土の益として示されている。
然るに宗祖は、『如来会』の第十一願成就文によって正定聚を現生の得益とする。
何故そうなるかといえば、名号は悲智万行を円具する法であるから、これを領受した時、その機上に仏因が円満して、彼土に往生すると同時に滅度の大果を得る。したがって、滅度に至るまでの因の決定、すなわち正定聚は現生でいわれ、果の顕現が滅度である。
②正定聚の現当両義
経釈の上に彼土における正定聚が示されてあるのは、滅度の果を得た後の広門示現の相とする。
③滅度密益、一益法門を否定する理由
名号を領受することは、仏果を開くべき因徳が衆生に具すことであって、現生にあって滅度の果を一分たりとも証得することはできない。穢土であり、煩悩具足の凡夫であるかぎり、証果は彼土である。それ故「信巻」の便同弥勒釈には「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」(真聖全二、七九)とある。
④現生正定聚の具体相
現生十種の益の中に、現実に具体的に生きる意味が与えられている。以 上
平成十二年 判決
「行一念義」判 決 平成十二年
【題意】
称名の初一声に大利を得るという義について窺い、それは諸行の法に対して、本願の法が至易最勝の法なることを顕わすものである旨を明らかにする。
【出拠】
「行文類」 (真聖全二、三四頁)に、
凡就往相回向行信、行則有一念、亦信有一念。 言行之一念者、謂就称名遍数顕開選択易行至極。
おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。
とあり、また『一念多念文意』(同前、六一一頁)には、『大経』弥勒付属の文の釈(原文省略)があり、『末灯鈔』第十一通(同前、六七二頁)には、行信両一念不離のお示し(同じく原文省略)がある。これらの三文を行一念義の出拠とする。
【釈名】
「行」とは「行文類」に説かれている大行であり、法蔵因位の万行造作の徳を具し、衆生を往生即成仏の証果に進趣せしめる法体名号のことである。また、「一」とは初一の義、「念」とは称念の義であり、「一念」とは初一声の義である。まとめれば、「行一念」とは、衆生に領受された法体名号が口業に発動する最初の一声、つまり信後の初一声のことである。
【義相】
① 正依『大経』には、数箇所に「一念」の語が出るが、本願成就文(真聖全一、二四頁)と三輩段中の下輩(同前、二五頁)と弥勒付属(同前、四六頁)の三処の一念が往因に関係する一念であり、余他の一念は往因に関係しない。宗祖は、今の行一念釈には弥勒付属の一念を例示され、「信文類」の信一念釈(真聖全二、七一頁)に本願成就文の一念を例示される。また、特に三輩段中の一念を取り上げての釈はないが、「化身土文類」(同前、一四四頁)・『三経往生文類(広本)』(同前、五五五頁以下)には、三輩段を第十九願成就の文と位置づけられる。法然聖人は、『選択集』「利益章」(真聖全一、九五二頁)に三処の一念をすべて行の一念と示される。覚如上人は、『口伝鈔』第二十一条(真聖全三、三四頁)に本願成就文の一念と弥勒付属の一念とを同一のものと位置づけられ、蓮如上人は、『御文章』五帖目第六通(同前、五〇三頁)に、弥勒付属の一念を信の一念と位置づける釈を示された後、『正像末和讃』をもってその意をあらわされる。
このように、三処の一念についての釈義は一様ではないが、本願成就文・弥勒付属の文の一念は、いずれも機が法体名号を領受した一念であり、行信どちらで見ても可というべきであろう。三輩段の一念については、法然聖人の『選択集』「三輩章」(真聖全一、九四八頁以下)に念仏と諸行との関係を廃立・助正・傍正の三義で示されるように、三輩段全体が真仮両通であると見ることができ、宗祖も「信文類」菩提心釈(真聖全二、六九頁)に三輩段中の菩提心を真実信心と示されるべく『往生論註』の文を引用される等、三輩段を要門義一辺倒と見られているのではない。
これらの一念は、機受を示すものであるから剋実通論すれば行信両通ではあるが、本願成就文は機受の極要を示したものであるから信の一念と見るのが文に親しい。また、弥勒付属の文は、胎化段の「為失大利」(真聖全一、四四頁)と対照すれば、信疑得失の意で信の一念と見ることもできるが、弘願法を弥勒に付属するとの意からすれば、聖道法の経道滅尽に対して止住百歳する弘願法を機受の念仏をもって行々相対して示すのが便であり、行の一念と見るのが文に親しい。法然聖人は行々相対して念仏諸行の廃立を行われて浄土宗独立を主張する立場から、機受を行の一念で釈され、宗祖は弘願法開顕の立場から拠勝為論して、成就を信の一念、付属を行の一念と釈されたのである。
② 行一念釈は、まず行信の不二不離を示すべく行信の両一念を標するが、信一念の釈は「信文類」に送って、ここでは行の一念のみが釈される。その行の一念とは、称名の遍数すなわち回数について選択易行の至極、すなわち弘願法の至易を顕すものであると釈される。つまり、わずか一声の称名によって大利を得て無上の功徳を具足するのであるから、積累して功徳を高める諸行の法に対して至易というべく、また得大利・具足無上功徳に着目すれば最勝ということができる。この得大利・具足無上功徳は、初一声にかぎらず、名号全顕であるところのどの一声においても語ることができる。その意味では、行一念の一念とは信後のどの一声でもよく、初後を問わないとの見方も充分成立し得るが、功徳を積累する諸行の法との対比という意味からすれば、初一声と理解するのが妥当である。諸行の法に対しているということは、後に
言大利者対小利之言。言無上者対有上之言也。信知、大利無上者一乗真実之利益。小利有上者則是八万四千仮門也。(真聖全二、三四頁)
大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。
とあるのよりすれば明らかであり、この諸行の法とは、すなわち八万四千の仮門であって、「化身土文類」の門余の釈(同前、一五四頁)をも参照すれば、本願一乗海すなわち弘願法以外の法門すべて、つまり聖道法・要門法・真門法すべてを意味する。
なお、易は機受無作を、勝は法体全顕をあらわすのであり、至易即最勝というべきであろう。
弥勒付属の文以降、行相の釈・一念の会合釈等の随文解釈は省略する。
③ 行一念釈と信一念釈とは、ともに機受の一念についての釈であるが、その所顕は異なる。すなわち、行一念釈の所顕は法体の超勝であり、法体名号全顕の称名に於いて、その初一声からすでに得大利の力用をそなえていると示すことによって、諸行の法に対して弘願法の至易最勝を顕わすのである。これに対して、信一念釈の所顕は唯信独達であり、信楽開発の即時に入正定聚の利益を獲るという、受法得益同時を示すことによって、願力回向の信心以外のなにものも往因成就に関係しないことを顕わすのである。
④ 行信両一念はともに機受の一念である、そのありようは異なる。すなわち、法体名号が衆生の心に領受されたのが信であり、領受された名号が口業に発動されたのが行である。この両一念は不離と示されるが、その不離のありようは、まず心に法体名号を領受する、その最初の時が信一念、それが口業に発動する最初の一声が行一念であり、同時不離ではなく、前後不離である。決して信一念同時に称名が存在するのではないことに注意をはらうべきである。
『末灯鈔』第十一通には行信両一念の不離が示されている。まず、本願の「乃至十念」を「下至十声一声等」の一声と示して、本願への無疑を信、信後の称名を行と釈される。所聞所信の本願の一声はそのまま信後の初一声と重なり、無疑の信心との不離が示されるのである。すなわち、所聞所信がそのまま能聞能信となる信、言い換えれば法体名号を体とする信であるから、その信は、必ず称名となって口業に発動する信(行を離さない信)
であり、また、如実の称名、法体全顕の称名とは、大信海流出の称名(信を離れない行)であることを明らかにするのが、この釈の所顕である。
「選択本願」判 決 平成十二年
【題意】
『末灯鈔』に、「選択本願は浄土真宗なり」といわれる選択本願の意義を明らかにする。
【出拠】
法然聖人の主著は選択本願念仏集と題され、同書の「本願章」(真聖全一、九四一頁)には、
選択者即是取捨義也。謂於二百一十億諸仏浄土中、捨人天之悪取人天之善、捨国土之醜取国土之好。
選択とはすなはちこれ取捨の義なり。いはく二百一十億の諸仏の浄土のなかにおいて、人天の悪を捨て人天の善を取り、国土の醜を捨て国上の好を取るなり。
と釈され、「慇勤付属章」(同前、九八八頁)にも選択本願の語が出る(原文省略)。また、『本典』「信巻」(真聖全二、四八)には、
斯心即是出於念仏往生之願斯大願名選択本願
この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく
と示されている。
【釈名】
選択の語は、『大阿弥陀経』に出て、正依『大経』には出ないが、二百一十億の諸仏の刹土を覩見した後、法蔵菩薩が、
摂取二百一十億諸仏妙土清浄之行。
二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す。 (真聖全一、七頁)
と説かれるのを踏まえて、法然聖人は選択と摂取とを、言は異なるが意は同じであるとされる。選択の語には選取・選捨の両義があるのに対し、摂取の語は選取の義のみを示すとも考えられるが、選取とはそのまま余他の選捨であり、選択と摂取とは意は同じである。
本願の本には因本・根本の両義がある。因本とは因即本の義で、本願とは因願、すなわち因位の菩薩の誓願の意である。因願には、全ての菩薩が共通して発す総願すなわち度断智証の四弘誓願と、おのおのの菩薩が個別に発す別願とがあり、後者には薬師の十二大願等があるが、ここでは弥陀の四十八願のことである。
根本の願とは、衆生救済を根本とする法蔵菩薩の願意をそのままあらわす第十八願のことである。すなわち、選択本願とは、国土人天の麁妙善悪が取捨された四十八願全体との意と、往生行が取捨された第十八願との意と、両様の意がある。
題意に取り上げられている『末灯鈔』第一通(真聖全二、六五七頁)に述べられる選択本願とは、根本の願たる第十八願の意である。なぜならば、宗祖の用語法からすれば、本願乃至選択本願の語は、原則として第十八願を指し、また『末灯鈔』の意は、浄土宗の中に真仮を分け、その真を選択本願というのであるから、第十九願・第二十願の仮に対して第十八願を真と示したと理解すべきである。
【義相】
① 法然聖人の『選択集』「本願章」(真聖全一、九四二頁・九四三頁)には、四十八願中の若干の願について、選取選捨が示されているが、第十八願に関して。
即今選捨前布施持戒乃至孝養父母等諸行、選取専称仏号。故云選択。
すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。
と、往生行について、選び取られたものは称名念仏、選び捨てられたものは諸行と示されている。取捨は念仏・諸行と示されているが、念仏とは他力の念仏であり、真門自力念仏は選び捨てられた諸行に属する。
選択は二百一十億の諸仏浄土の覩見よりなされたが、諸仏浄土の往生行の中には他力念仏はなく、諸仏浄土の往生行の中から選取されたのは、称名念仏という相についてである。機功をからない他力念仏は、諸仏浄上の往生行の中から選取されたものではなく、性を全うじて修起した法蔵心中の選択として、無選択というべきであり、選択はついには無選
択に結帰する。
② 法蔵発願のおこりは、仏願の生起すなわち無有出縁の機の存在である。よって選択の理由も、清浄・真実無き衆生救済のためであることをまず踏まえなくてはならない。
清浄・真実無き衆生とは、自力をもっての出離生死が不可能な衆生であり、このような衆生を得脱せしめるために、機功を必要とする自力諸行は往生行として選び捨てられ、機功を必要としない他力念仏が選び取られたのである。
なお、法然聖人は、機功の要・不要の詳細を勝劣・難易で示されている。
③ 『選択集』本願章(同前、九四三頁~九四五頁)には、称名念仏一行選取の理由として、諸行の劣・難に対して念仏の勝・易を示される。勝劣の比較とは、おのおの一隅を守るのみの諸行を劣とし、万徳の所帰たる念仏を勝とするものである。しかし、諸行の積累が念仏と価値を同ずるのではなく、果徳の全顕である念仏は、因人の行にすぎない諸行を本質的に超過している。
勝徳と易徳との関係は、勝徳は往因の円成をあらわし、易徳は機功の不要をあらわしている。すなわち、衆生にとって、機功を必要とする諸行は難であり、機功を要しない念仏こそが最も易である。機功を要しないとは、法体名号において往因が円成されているからであり、法体名号全顕の念仏は、因行に超過する最も勝れたものであるということができるのである。
悪人正機 判決 平成十二年
【題意】
浄土真宗の教義に於いて、悪人の語の意味するところと、悪人の位置づけを明らかにする。
【出拠】
『本典』「化身土文類」(真聖全二、一四七頁・一四八頁)には、
言汝是凡失心想羸劣、則是彰為悪人往生機也。
「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
言若仏滅後諸衆生等、即是未来衆生、顕為往生正機也。
「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。
と、悪人の語・正機の語が出る。また、『愚禿鈔』(同前、四六一頁)には、菩薩・縁覚・声聞・辟支等を浄土の傍機、天・人等を浄土の正機と示されている。
【釈名】
悪人とは、先の「化身土文類」の文では心想羸劣の凡夫を指す。正機の機とは教法に対しての位置づけを示す語であり、正機とは弥陀法にまさしく適合する存在との意味となる。よって、悪人正機とは、心想羸劣の凡夫こそが弥陀法にまさしく適合している存在であるということを示している。
【義相】
①宗祖に於ける悪人・悪・罪・罪悪等の用例は多いが、以下の三種に分類できる。
一、「行文類」(同前、三三頁)に
大小聖人・重軽悪人、皆同斉応帰選択大宝海念仏成仏。
大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
と、大小の聖人と悪人とが並列されているのは善人・悪人相対の立場であり、その悪人とは、『唯信鈔文意』(同前、六四五頁)に、「十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人」と示される存在である。
二、「信文類」(同前、六〇頁)に、
一切群生海、自従無始已来乃至今日至今時、穢悪汚染無清浄心、虚仮諂偽無真実心。
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
と示されているのは一切衆生を全て悪人と位置づけるものであり、この悪人は、自力による報土往生不可能な存在をいう。
三、「信文類」(同前、五二頁)引用の二種深信の機の深信に罪悪生死凡夫といわれているのは自己の自力無功の信知であり、悪人とは他力の念仏者の意となる。
なお、「信文類」(同前、七〇頁)引用の『聞持記』に、
屠謂、宰殺。沽即醞売。如此悪人、止由十念便得超往、
屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはち醞売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、
といわれるのは、一部の社会的階層を悪人と位置づけているようであるが、「化身土文類」で悪人と示される「心想羸劣の凡夫」とは、『観経』に於ける韋提希という王妃を指し、また「信文類」逆謗除取釈引用の『涅槃経』では、国王である阿闍世が難化の三機すなわち悪人と位置づけられているのであり、宗祖に於いて、社会的階層による善人・悪人の位置づけを見るのは困難である。
前述の三種のなか、悪人正機の悪人とは、一の善人・悪人相対に於ける悪人であり、成仏道を歩む能力を持つ善人よりも能力を持たない悪人こそを弥陀法のまさしきめあてであることを悪人正機というのである。
② 近時、悪人が救われるということについて、悪の自覚のあるものは 宗教的に勝れているので救われ、悪の自覚のないものは宗教的に劣っているので救われないとする説が提出されている。悪の自覚を信機とすれば、必ずしも誤りであるとはいえないが、宗祖に於ける罪悪深重・煩悩具足の自己との表明が、我こそは宗教的優者なりと誇る姿勢を示していると考えることはできない。逆に、『正像末和讃』(同前、五二七頁)の
無慚無愧のこの身にてまことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ
という一首には、弥陀の光明に照らし出された自己の罪悪性に対する徹底的な慚愧と、その自己にはたらきかけている名号法の超勝性に対する慶嘆とがうたいあげられている。宗祖に於ける悪人・善人の語は、前者を宗教的優者、後者を宗教的劣者と位置づけることを表現する語ではないことに注意をはらっておきたい。
③『西方指南抄』(真聖全四、二二一頁)に示される法然聖人の「罪人なほ生まる、いはんや善人をや。」との言葉と、『歎異抄』第三章(真聖全二、七七五頁)に示される宗祖の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」との言葉の対比から、法然聖人は善正悪傍であり、宗祖は悪正善傍であるとする説がある。しかし、『選択集』(真聖全一、九三〇頁)二門章には、
元暁『遊心安楽道』云、浄土宗意、本為凡夫、兼為聖人。
元暁の『遊心安楽道』にいはく、「浄土宗の意、本凡夫のためなり、兼ねては聖人のためなり」
とあり、醍醐本『法然上人伝記』(『法然上人伝全集』七八四頁上・七八七頁上)には、 此宗悪人為手本、善人摂也。聖道門善人為手本、悪人摂也。
この宗は悪人を手本とし、善人まで摂すなり。聖道門は善人を手本とし、悪人をも摂すなり。
善人尚以往生、況悪人乎。
善人なほもって往生す、いはんや悪人をや。
とまでいわれ、法然聖人にも悪正善傍の説示がみられるのである。弥陀の救済の正所被が悪凡夫であるというのは浄土教の通規であり、その意は、『本典』「信文類」(真聖全二、八八頁)引用の『涅槃経』に出る七子中の病子の譬喩によくあらわれているというべきである。
法然聖人の「罪人なほ生まる、いはんや善人をや。」の言葉は、悪正善傍に対して善正悪傍と表現されるべきものではなく、『選択集』讃歎念仏章(真聖全一、九七四頁)に、 念仏三昧重罪尚滅。何況軽罪。
念仏三昧は重罪なほ滅す。いかにいはんや軽罪をや。
と示されるような滅罪の難易についていわれるものであり、その意では、「信文類」逆謗除取釈(真聖全二、九七頁)に、難化の三機が救済される弘順法を一切の病を治療する醍醐の妙薬に讐えられる宗祖も法然聖人と軌を一にしているといえよう。なお、救済の正所被としての説示は、悪の勧めとも誤解されやすく、そこで対機を限定したロ伝にのみ存するのであると考えられる。
平成十一年 判決
「信心正因」 判決 平成十一年
〔題 意〕
浄土真宗の法義において、如来回向の信心が往生成仏の正因である理由と正因といわれる徳義を明らかにし、称名は信相続の行であって正因ではないことを明らかにする。
〔出 拠〕
『正像末和讃』(真聖全二・五二一頁)
不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり
信心の正因うることは かたきがなかになをかたし
「信文類」 (真聖全二・五九頁)
涅槃ノ真因ハ唯以テス二信ヲ一。
「信文類」 (真聖全二・六二頁)
斯ノ心者即如来ノ大悲心ナルガ故ニ必ズ成ル二報土ノ正定之因ト一。
その他「正信偈」(真聖全二・四五頁)、「口伝鈔』(真聖全三・二八頁)、『御文章』(真聖全三・五〇七頁)などにある。
〔釈 名〕
信心とは、総じて本願の三心、別しては三心即一の信楽を指す。 「信文類」の字訓釈や信楽釈下に信楽の名義を釈して「疑蓋無キガ二間雑一故ニ是ヲ名ク二信楽ト一」 といわれ、信楽を無疑心の義とされている。
また、『唯信鈔文意』には「信はうたがひなきこころなり。(中略)本願他力をたのみて自力をはなれたるこれを唯信といふ」といわれ、無疑の信心を「たのむ」と和訓されている。また、「信文類」所引の二河譬には「今信二順シテ二尊之意ニ一」とあるから、信を信順・随順の義とみられていたことがわかる。さらに「信文類」の字訓釈の信楽の釈に「真也、実也」とあるように、真実の義ともされている。これをうけて『最要鈔』には「この信心をば、まことのこゝろとよむうへは、凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき信心といはるゝなり」といわれ、信心を 「まことのこゝろ」 とされている。
要するに信心とは、その信相をいえば、疑いなく本願に随順する心であり、自力心をはなれて「本願他力をたのむ」心である。またその信体からいえば如来回向の信心であるから、仏心であり、「真実、まことのこゝろ」といわれるのである。その如来の回向の構造は名号による回向であり、信体はまた名号である。
つぎに正因とは、正とは正当の義である。当は契当の義で「かなう」ことである。また正定の義とみれば決定の意味になる。
因とは、因種の義である。よって正因とは菩提、涅槃にかなった因種であり、また必ず往生成仏の当果も決定する「たね」という意味である。
『尊号真像銘文』に「正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねとまふす也」といわれるとおりである。
よって、信心が正しく往生成仏の因種であることを信心正因という。
〔義相〕
①第十八願文及び成就文によって信心正因の義意をうかがう。
往生の因を誓われた第十八願には 「至心信楽欲生我国、乃至十念」と、三心即一の信心と乃至十念の称名が誓われている。しかし、称名には 「乃至」の語がつけれている。乃至とは従少向多・従多向少の二義をもつ一多不定をあらわし、称名の数を限定しないことによって能称無功の他力の称名であることをあらわし、また信心から流出する信相続の易行を誓われたものである。しかも従多向少の極限は、信の一念にまでつづまる。成就文に信の一念として乃至十念を説かれたのはその道理を示されたものであり、『尊号真像銘文』に「下至といふは、十声にあまれるものも、聞名のものおも往生にもらさずきらはぬことをあらはしめすと也」といわれるのはその意である。
乃至十念の称名が、信の一念にまでつづまるとすれば、往生の正因は、一声の称名をもまたず、信の一念に定まることになる。
『御消息』に「信心の定まるとき往生また定まるなり」といわれているのは、その義である。
このようにうかがうと、第十八願は正因法としての信心と正因決定後の信相続の行とが誓われていることになる.これを信心正因・称名報恩の法義というのである。
この義を明らかにされたのが第十八願成就文であり、名号を聞信する極 の一念に、即得往生住不退転の益がめぐまれると、信益同時の義が示され、唯信独達の義趣が明らかに述成されている。
②なぜ信心が正因となるかという理由について
弥陀の名号は衆生を後生成仏せしめる悲智万行の徳を円具した業因、すなわち正定業であって、これを信受したとき名号の全徳が衆生の上に具するからである。
このように本願成就の名号を正しく領受して衆生の上で往生成仏の因願が成ずるのは、聞信一念のときであるから、衆生の上で正因決定を顕わすときは信心で語られねばならない。機法の分斉を混乱してはならない。
また如実の称名は、名号全顕の行であるから、その体徳からいえば正定業であるが、行者の意許(こころもち)からいえば、報恩行となるのである。
③信心の徳義について正因の義意をうかがう。
「信文類」の信楽釈に信楽について「斯ノ心者ハ即如来ノ大悲心ナルガ故ニ必成ル二報土正定之因ト一」といわれているように、如来回向の信心は、如来の大智を全うじた大悲心であるから、報土の正定の因となるのである。大慈悲が仏道の正因であることは『論註』の性功徳釈をうけて「信文類」末の信心の転釈の結文に明示されたところである。
また「信文類」をはじめ、諸処に信心は願作仏心・度衆生心のはたらきをもつ横超の大菩提心であり、また仏性でもあるから成仏の因縁となることを釈顕されている.
④信心正因の所顕
本願の名号を疑いなく信受した信心は、仏心であり、大菩提心であって 仏因としての徳をもっている。その故に聞信の一念に仏因円満して正定聚に入り、弥勒と同じ位にあらしめられ、往生即成仏の妙果をえしめられる という大信心の徳義が明らかになる。また信心が正因である故に、称名は正因ではなく信後の報恩行である。また化土の業因であるところの要真二門の自力の行信に簡んで、真実報土の真因は信心のほかにないという弘願真宗の法義が明らかになるのである。
「大行名体」判決 平成十一年
本講 浅野教信
典議 中西智海
〔題意〕
宗祖は大行を指定して「大行者ハ、則稱スルナリ二無碍光如來ノ名一」と釈されている。
そこで大行の名義を明らかにし、如来回向の大行の物体を確定して、『教行証文類』の綱格を定める。
〔出拠〕
「行文類」 (真聖全二・五頁)
諸佛稱名之願 淨土眞實之行選擇本願之行
大行者ハ、則稱スルナリ二無碍光如来ノ名ヲ一。斯ノ行ハ、即是攝シ二諸ノ善法ヲ一具セリ二諸ノ徳本ヲ一極速円満ス。眞如一實ノ功徳寶海ナリ。故名ク二大行ト一。
『三経往生文類』 (真聖全二・五五一頁)
この如來の往相廻向につきて、眞實の行業あり。すなわち諸佛稱名の悲願にあらわれたり。稱名の悲願は、『大无量寿経』にのたまはく、「設我得レ仏、十方世界无量諸佛、不三悉咨嗟稱二我名一者不レ取二正覺一」
その他、『浄土文類聚鈔』『如来二種廻向文』『六要鈔』『教行信証大意』『御文章』などにある。
〔釈名〕
大行の大には、大・多・勝の三義があり、広大・多量・最勝の意味で行の徳義を示して「攝シ二諸ノ善法ヲ一具セリ二諸ノ徳本ヲ一」は相から多の義を示し、「極速圓満ス」は用から勝の義を示し、「眞如一實ノ功徳寶海ナリ」は体から大の義を示して三義が具足しているから大行と名づけられるのである。
大行の行とは古来「造作進趣」の義とされ、「智目行足到清涼池」と比喩されるようにある動作をくりかえして目的地に進むことをいう。
宗祖は「真実の行業あり」とか「往相正業」と述べられている。
つまり、大行とは真如にかない、無量の徳をもち、衆生をすみやかに涅槃に到らしめるすぐれた行業(おこない)のことである。それゆえ、「真実の行」、「最勝真妙の正業」といわれるのである。
〔義相〕
(大行の体)
大行の体は名号である。「行文類」の標挙に諸仏称名の願、すなわち第十七願があげられている。これは諸仏に称揚讃嘆されつつある名号をもって大行とされる意である。諸仏称名の願というのは、「咨嗟称我名」の文によって、能讃所讃を共にあらわす願名であって、「称」は称揚、称讃の意で成就文には「皆共二讃二歎シ下フ無量壽佛ノ威神功徳、不可思議ナルヲ一」と述成されているところである。
ところで諸仏が弥陀の名号を称揚讃嘆されるという能讃の辺よりいえば「教」の願とみられる。『御消息』に「諸佛稱名の願と申し、諸佛讃嘆の願と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ」などといわれているのはその意である。
いま、「行文類」の標挙に浄土真実の行と細註されるのは、諸仏所讃の名号をもって大行とされることをあらわすのである。また選択本願の行とは乃至十念の称名である。これは第十七願の諸仏称讃の名号が第十八願の行者の上に称名となってあらわれている旨を示されるのである。
次に出体釈には「則稱スルナリ二無碍光如來ノ名ヲ一」と称名で示されている。これは『論註』(下巻)の讃嘆門の釈をうけられたもので、『論註』では光明・名号の法体に破闇満願の力用があるとし、その法体に相応しない称名には破満の徳は語られず法体と相応する一心具足の称名に破満の徳があることを示されている。いま、その讃嘆門の釈をうけて称名で出体されるのである。
しかし破満の力用は法体にあるのであるから、称えることによって大行と名がつくではない。このことは経文引用のあとの釈に称名破満の義を示されて「満てたまふ」と約仏の訓点を施されていることによっても明らかである。
また偈前の釈には第十七願を「真実行の願」とされ、第十八願を「真実信の願」とされていることによっても大行の体は諸仏称讃の名号であることが明らかである。
(名号と称名)
名号は固然たるものではなく、廻向法としてつねに法界に活動して往生せしめ還相せしめつつあるのである。
『正像末和讃』に
南無阿彌陀佛の廻向の 恩徳広大不思議にて
往相廻向の利益には 還相廻向に廻入せり
とうたわれている。この名号は諸仏の称揚讃嘆によって衆生に聞信せられ、相続の称名としてあらわれる。したがって名号を領受する相は信心であり、称名である。宗祖は名号が業因である義を示され、信心正因の義を明らかにされ、乃至十念の称名は往因決定後の相続行とされている。乃至十念の称名はその体名号の全現であるから、称即名である。また名号はつねにはたらいて如実行者の上に称名となりつつあるものであるから、名即称ともいえるのである。
このように第十七願の諸仏所讃の名号と第十八願の乃至十念の称名とは相即不二であるが、衆生の口称をまってはじめて大行といわれるのではなく、名号が直ちに大行であるとされなければならない。
以 上
「光 号 因 縁」 判 決 平成十一年
〔題意〕
両重因縁の解釈は、行信の分斉を決判して信心正因を弁立し、浄土真宗の法義を明確にする。
〔出拠〕
「行文類」 (真聖全二・三三頁)
「序分義」 (真聖全一・四八五頁)
『往生礼讃』 (真聖全一・六五二頁)
その他 「正信偈」『浄土文類聚鈔』『執持鈔』『口伝鈔』 などにある。
〔釈名〕
「光」は光明であり、「号」は名号である。「因縁」とは因縁和合ということである。
そこで、この因縁和合について、「行文類」にあるように初重に徳号の慈父の能生の因と光明の悲母の所生の縁によって報土の真身を得証する因縁を説き、次の後重には真実信心の業識の内因と光明・名号の外縁との因縁を出して、機受の要を明らかにするものである。
〔義相〕
光号因縁の解釈は、喩えを序分義の「孝養父母」の釈により、その釈義は『礼讃』の「以光明名号摂化 十方。但使信心求念」等の義をうけてこれを顕わされるものである。
この釈は両重因縁ともいわれるように、「徳号慈父」より「所生縁乖」までを初重とし、「能所因縁雖可和合、非信心業識」以下を後重とする。 初重についてみると、名号を父とし、光明を母とする。それは『礼讃』前序の光明・名号を「序分義」に示す父と母とにたとえられたもので喩えの父と母とは別体であるが、喩えられた法の名号と光明とは別のものではなく名体不二である。従って、名号を能生の因とし、光明を所生の縁とするといっても、この能生・所生は能為・所為とか能化・所化といわれるような能動と受身の関係を示すものではなく、「正信偈」の能入・所止の用例のように能生の意味である。また、因と縁とを分けて示されてあっても、親因・疎縁の別をいうのではない。そこで初重は光明・名号の法体を能生の因縁とするのである。
さて、この名号と光明の父母によって生まれる子に喩えられるものは何であるかといえば、それは後重に示されるものと同じく報土の真身である。
ところで初重を獲信の因縁.後重を得生の因縁とみるならば、「序分義」の釈が同一の果を得るについて両重を示されているものと合わないし、宗祖の釈の上で、次の後重のはじめに、「能所因縁雖可和合」といわれた文を領解することはできない。すなわち、初重を獲信の因縁とみるならば、能所の因縁が和合すれば信心を生ずることになり、それでは「能所の因縁和合すべしといえども、信心の業識に非ずは」などということはいえないからである。
つまり、初重も後重と同じく報土得証について因縁を示されたもので、初重は光明・名号の法体がよく衆生を得果せしめる因法であることを示されたものとうかがう。
次に後重は、初重の義をうけて、法体に衆生を得果せしめる力用があるけれども、これを信受しなければ、衆生は後生の果を得られないことを明らかにされる。「眞実信業識、斯則為内因」と示されるのがその意味である。
「眞実信業識」というのは、信心が業識であるということではない。今は名号と光明を父母にたとえ、信心を業識にたとえられたのである。また、後重に光明・名号を共に外縁とされることも 「序分義」の文によるのであって、要は信心が正因であることを明らかにされるのである。なお、喩えの「業識」と「父母」とは別体で、因と縁との関係であるが、今の法の上では、光明・名号の法体が衆生心中に満入したのが信心である。
この両重因縁の釈は、「行文類」にあっては、初重において、法体名号が衆生得果の業因である名号独用の義を示し、後重にはその法体名号もこれを信受しなければ往生できぬという唯信正因を顕わして、名号業因・信心正因の関係を明らかにされたのである。行信の関係については、近くはこの両重因縁釈の行信の利益が明かされるところに「獲眞実行信者」、「帰命斯行信者」などとあり、すでに総序の文に「円融至徳嘉号転悪成徳正智、難信金剛信楽除疑獲証真理也」などと示されているところである。
今はその行信開合の関係を明らかにして、次に「信文類」を別開する伏線となる重要な釈義である。
「追善回向」判決 平成十一年
〔題意〕
諸宗の中に、追善廻向が行われ、また浄土真宗の聖教の中にもそのように受け取られ易いもの、あるいはこれを否定されたものもあるところから、浄土真宗では追善回向を用いない理由を究明し、年忌法要等の本来の意味を明らかにする。
〔出拠〕
『歎異抄』(真聖全二・七七六頁)
親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり、いづれもこの順次生に佛になりてたすけさふらうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはゞこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてて、いそぎさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと云云。
「行文類」(真聖全二・三三頁)
明知。是非凡聖自力之行、故名不回向之行也 大小聖人、重軽悪入、皆同齊應帰選択大宝海念佛成佛。
『正像末和讃』(真聖全二・五二〇頁)
真実信心の称名は 弥陀廻向の法なれば
不廻向となづけてぞ 自力の称念きらはるゝ
『帖外御文章』(真聖全五・三八〇頁)
さればこれにつけても女人の身は、今、このあへなさ、あはれさをまことに善知識とおもひなして、不信心の人にはすみやかに無上菩提の信心をとりて、一佛浄土の来縁をむすばんとおもはん人には、今世・後世の往生極楽の得分ともなりはんべるものなり。
『蓮如上人御一代記聞書』(真聖全三・五七四真)
他宗には親のため、またなにのためなんどとて念佛をつかふなり。聖人の御一流には弥陀をたのむが念佛なり。そのうへの称名は、何ともあれ、佛恩になるものなりと仰せられ候ふ云々。
その他、『拾遺蓮如上人御一代記聞書』などがある。
〔釈名〕
「追善」とは、「追加善根」のこと。先亡のために財徳とか行徳を善根として、追修するという意味。
「回向」とは、自己の修めた善根功徳を回転して、他の衆生に趣向することをいい、読経供養等の仏事を営むことをいう。
〔義相〕
仏教一般で行われている追善回向については、『地蔵本願経』(大正蔵十三・七八四中)には「衆生在生中に善因を修せず多く罪を造れば、命終の後眷属が福利を作り、一切聖事七分の中、一を獲、六分の功徳は生者の自利となる」とか、『潅頂経』には「命終の人、中陰の中に在りて身、小児のごとし。罪福未だ定まらず。応に為に修福して、亡者の神をして十方無量の刹土に生ぜしめんと願ずれば、此の功徳を承けて必ず往生を得」と、追善が可能であるとして、殊勝の功徳あることが説かれている。しかし本来仏教は自因自果であり、他作自受は認めないのである。しかも三輪清浄でなければならない。
『梵網経疏』(義寂)(大正蔵四〇・六七七上)には、「因果の道理より自作他受はなし。しかるに、彼此相縁互資なきに非ず」といって、自他円融の妙理に達すれば、追善の道理を生じ、これが無信の亡者には増上の縁となって、七分中の一分を獲、有信の者は全分を獲るという。
ところが宗祖は、自身を内観され罪悪深重と告白され、自己の修める善もなく、それによってえられる功徳もなく、まして「小慈小悲もなき身」であると述懐されている。従
って、自分が他人を直接救うということは不可能なのである。それが「父母孝養のためとて一返にても念仏もうしたることいまだ候はず」という人が人を救うことの限界を見定められた深い悲しみからの告白なのである。
それでは、もはや先立った人への追慕とか、利他のはたらきは絶望なのであろうか。そうではない。阿弥陀如来は、このようなわれら衆生を一子のごとく憐念されて衆生の往生と仏の正覚を一体に成じてくだされたのである。
そして、われらに浄土に往き生まれることも、浄土から還相して有縁を救うはたらきをすることもすべて回向してくだされるのである。その意味で、自分が他人を直接救うことなど思いもよらないことで自分が「救う」のではなく、先立った人もこの私も、阿弥陀如来に「救われる」身であることにめざめることが肝要なのである。
念仏はわれら衆生を、すなわち私も先立った人も救おうとして成就してめぐまれた大悲回向の行なのである。したがって衆生からは不回向の行なのである。念仏は私の方から如来や先立った人にふりむけるものでは決してないのである。 宗祖は『尊号真像銘文』に「即発願回向といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもうになるなり。また一切衆生にこの功徳をあたふるになるなり」と示され、また『正像末和讃』に「他力の信をえんひとは 佛恩報ぜんためにとて 如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし」とうたわれて、「教人信」もまた報恩のほかはないとされている。
浄土真宗の聖教の中には追善回向とも受け取られやすいものもあるが、宗祖の立場は自身の罪悪性の深信にあり、そこからは追善回向を強く誡められている。と、同時に「無慚無愧のこの身にてまことのこゝろはなけれども、弥陀の回向の御名なれば功徳は十方にみちたまふ」とうたわれ、如来の回向に帰順することによって有情を利益することができることを告げられているのである。
浄土真宗においての法要は先立った人への追慕を縁として死の痛みを通して、死の前には無力である自身と知らされ、仏法を聞く機縁とさせていただくことである。そのとき、先立った人は私に人生の深さをまのあたりに教えて下さった人として尊い姿を示されるのである。その意味で、この私が仏法に遇い、生死をつつんでくだされる阿弥陀如来の誓願に信順する身にさせていただくことが、先立った人を無駄にしないご縁なのである。それこそ上讃仏徳・下化衆生の報恩行として法事といわれ、仏事といわれる法要の意義なのである。 以 上
平成十年 判決
『信一念義』判決 平成十年
一、出 拠
『大経』下巻の本願成就文に「あらゆる衆生、その名号をききて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」と説かれたものを、『本典』に信巻末に信の一念として釈して「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」といい、また『一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報上の真因なり」といわれたものを正しき出拠とする。また『略典』には「乃至一念といふは、これさらに観相・功徳・遍数等の一念をいふにはあらず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり」といい、加えて『一念多念文意』には「一念といふは、信心をうるときのきわまりをあらはすことばなり」と釈されている。
二、名義
「信」とは無疑の義で、如来の勅命を領受した疑蓋無雑の心をいう。すなわち本願の三心即一の信楽のことである。「一念」とは極促の時間を示すもので、信心獲得の時のきわまりを意味する。また、信相においてこれを論ずる場合は、「一念」は専一無二の心、すなわち信心に二心・疑惑のないことをいう。
三、義 相
宗祖において「信一念」について二義がある。出拠にあるように、信巻末の信一念釈に見られる「時剋の一念」と、同じく聞信一念釈の「信相の一念」である。
宗祖が成就文の一念を信の一念と見られたのは、一つには成就文は諸仏所讃の名号を領受する機受を的示する経説だからであり、二つには異訳の『如来会』の該当文が「一念の浄信」と訳されていたからである。信一念釈によれば成就文の一念は「時剋の一念」であり、名号を聞いて信楽が開発する時剋の極促を示すものであった。それはまた浄上往生の真因が円満する信の一念であると説かれている。これを本願成就文に即して理解すると、「乃至一念」は上の「聞其名号信心歓喜」を受け、下の「即得往生住不退転」につなぐものであるから、信一念は信心開発の時と得益の同時性を顕すものとしなければならない。『一念多念文意』には「即得往生といふは、即はすなはちといふ。ときをへず、日をもへだてぬなり。(中略)真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり」とあり、『唯信鈔文意』には「即得往生は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ」とある文の「即」の内容をも含むものとなるのである。行巻六字釈に「即の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり」といわれたものがそれである。この信益同時ということも信一念の所顕の法義の一つである。
宗祖が本願成就文の一念を「信楽開発の時剋の極促」と釈されるのは、名号聞信によって起こる信心獲得について、時間の上から釈されたものであって、受法の初際であり、それ以上ちぢめることのできない時間の極限を意味する。従来この極促の促について、延促対の促か、奢促対の促かという論議がなされているが、それぞれに文証もあって、両者は必ずしも矛盾するものではない。「乃至一念」とは生涯相続する信心が最初に開発するということがらを表すのであるから、一念を名号領受の最初の時であるとする延促対の促と理解することは妥当である。しかし、その信心開発には時間の経過を要しないという意味において、奢促の促、すなわちきわめて速い時間と理解してもさしつかえないであろう。『略典』に「往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり」といわれたものは延促対の促であり、西本願寺本の左訓に「トシ」といわれたのは奢促対の促の意味であったといえよう。
そもそも信心の開発は如来回向のはたらきによるのであるから、そこに衆生の三業による造作の介人する余地はない。人間がつくりあげる自力の信心ならば、信の成立に必ず時の経過を必要とする。しかし、如来回向の名号を領受するのには時間の経過は要しない。現前の仏勅をはからいなく聞き受けている無疑信順の願力回向の信は、時間の経過を要せずに成就するということを「時剋の極促」あるいは「ときのきはまり」と表現されたのである。つまり、「時剋の極促」とか「ときのきはまり」は、時間を超えた本願の法が、私という時間の領域にとどき、私のうえにはじめて信心が開発したという、そのできごとを表現するものなのである。
ところで、『本典』証巻に「往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり」とあり、また『略典』には「往相の心行を獲ればすなはち大乗正定の聚に住す」とある。宗祖の語例によれば、心行の行は称名念仏をさすのがふつうであるから、入正定聚の利益を得る即の時、すなわち信一念の時に称名念仏が存在するのかという疑問が生ずる。もしそうだとすれば、信一念に衆生の口業による造作が介入することになり、また信心に称名念仏を加えて往生の因となるがそうではない。この場合の心行とは信巻本の「真実の信心はかならず名号を具す」といわれたものと同意である。すなわち信は相続においてかならず称名念仏となってあらわれる信心であることを示されたものと理解すべきである。
出拠に「信相の一念」の出典としてあげた「一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり」といわれたものは、一念を、無二心すなわち疑蓋無雑の信相をあらわした語と見られた釈である。これはあくまでも信心の純一性を示すものであって、時間の上での論議ではない。
なお、信一念の時剋釈と信相釈の中では、時剋釈が経の当分の義であり、信相釈は宗義をあらわす義釈と見るべきである。それゆえ、『一念多念文意』には時剋釈のみをあげられたのである。
以 上
『称名破満』判決 平成十年
一、出 拠
『本典』行巻の大行出体釈に「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」とあり、これを承けて諸経からの引文の結びとして「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり」等と述べられる。また、これら二文を合わせたかたちで、『略典』の三法別釈には「大行といふは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。ゆゑに大行と名づく。このゆゑに称名はよく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」等と示されている。さらに、『高僧和讃』曇鸞讃には「無碍光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願を満てたまふ」とある。これらの基づくところは『論註』下巻の讃嘆門釈の「かの如来の名を称すとは、いはく、無碍光如来の名を称するなり。(中略)かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲すとは、かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」等とある文である。この他にも関連する文は数多く見られる。
二、名 義
「称名」とは称念仏名、すなわち名号を称えることである。すなわち、第十八願に誓われた如実の称名のことであり、『本典』行巻に顕わされた大行をさす。また、「破満」とは破闇満願の略で、衆生の一切の無明をうち破り、往生成仏の志願を満足せしめることである。
三、義 相
宗祖は『本典』行巻の冒頭に「大行とは無碍光如来の名を称するなり」等と、まず大行の内容を明らかにし、続いて所称の名号の徳をあらわす一連の文を諸経から引用して、その結びとして「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と、名号のもつ破満の徳を称名のところで顕わされている。すなわち、破闇満願の徳用は衆生の能称の功によるのではなく、所称の名号に帰せられるべきである。それゆえ宗祖は「満てたまふ」という約仏の点を施して破満の徳が法体名号にあることを示されたのである。
そもそも行巻の称名破満の釈は、『論註』下巻の讃嘆門釈における名号破満の釈にもとづいたものであることは言うまでもない。すなわち、『論註』は、五念門の中の讃嘆門の称名を明すにあたり、仏の光明について破闇の徳を語り、名号において、無明の闇を破り志願を満足せしむる破満の徳用が明されている。これによって名号の徳義である無碍光如来のいわれにかなって称える如実の称名には、破闇満願の徳がそなわっていることを顕わされるのである。したがって、もしその称名が不如実のものであれば、破満の徳はないと言われる。それが次下に示される二不知・三不信の誡めである。二知・三信は一心に帰するが、行巻および『略典』の称名破満の釈においても、その義を顕わすために称名を名号に、あるいは信心に帰する転釈がなされている。こうして不如実の称名、すなわち本願の信心にもとづかない称名には破満の徳を具すことがないが、如実の称名には名号の徳義である破満の徳用があると釈顕されたのである。宗祖はこの意を承けて称名破満の釈をもうけ、これによって善導・法然両祖から相承された称名正定業説を極成されたのである。破満釈を承けて「称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり」と言われた所以である。
無明とは、『論註』はおそらく旧訳『華厳経』十地品に 「如実に第一義を知らざるが故に無明あり」とか、「真諦の義を知らざる、是を名づけて無明とす」と言われたものに依ったのであろう。すなわち真如実相に背反し、真諦を了知しない無知のことである。『論註』はそれを虚妄なる分別とし、「分別をもってのゆゑに長く三有に淪みて、種々の分別の苦・取捨の苦を受けて、長く大夜に寝ねて、出づる期あることなし」と言われている。このような虚妄分別すなわち無明を破る智慧を権実不二の智慧とし、それが方便法身の名号となって、衆生の無明を破り、往生成仏の志願を満足せしめると言われるのである。
宗祖の無明という言葉の用例を見ると、「四暴流」の中の無明暴とか、「無明心品」とか、「無明煩悩われらが身にみちみちて」と言われる場合の無明は、真如に背反する無
知のことで、仏教で一般にいう無明と同義であるから、痴無明と言いならわしている。しかし、「正信偈」などに「已能雖破無明闇貪愛瞋憎之雲霧常覆真実信心天」等とある場合の無明は、仏智不思議の本願を疑惑する心のことと見なければならないから疑無明と言いならわしている。
その痴無明は凡夫の地体であるから、機相においては臨終まであり続けるが、疑無明は信の一念に破られる。すなわち無碍光の徳用によって信の一念に疑無明は破られて、往生一定の安堵心を与えられる。しかし、凡夫のままで往生一定といいうるのは、願力の徳用によって無明煩悩が功徳に転ぜられているからである。それは法徳であって、密益としてめぐまれる。それが無明煩悩あれどもさわりなしといえる所以である。こうして、「名を称するに衆生一切の無明を破る」と言われた無明は、法徳から言えば、痴無明が転ぜられることであり、機相からいえば疑無明が擢破されることを言う。
次に「志願」とは、『論』の「一切所求満足功徳」に「衆生所願楽 一切能満足」とある所願をさし、広く言えば願作・度生の菩提心の満足であり、往生成仏の志願をさしていたと言えよう。
以 上
『機法一体』 判決 平成十年
本講 梯 實圓
典議 徳永一道
一、出 拠
『御文章』(三帖目第七通)に「しかれば南無の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり」等、あるいは(四帖目第八通)「南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり」等とある。
この他に、四帖目第十一通・第十四通にも同様の文が見られる。機法一体の語は、『願願鈔』・『六要鈔』・『存覚法語』・『蓮如上人御一代記聞書』等にも見られ、特に『安心決定鈔』に数多く見られるが、今は『御文章』を正しき出拠とする。
二、名 義
機法という対目は、元来仏の教法と、その教化の対象となっているものとの関係を表わす語であった。
『法華玄義』の感応妙の釈下に微・関・宜の三義をもつて機を釈されたものがそれである。即ち仏の教化に応じて、菩提心を発す微をもち、教化に深い関係をもち、また化益を施すに適した者であるから機というのである。これを古来所被の機とも性得の機ともいいならわしている。蓮如上人の機の語例には、如来の救済の対象となっている者、人の心、弥陀をたのむ信心、信心を得て正定聚に住している者等の種々の用例があるが、機法一体の機は「阿弥陀仏を信ずる機」といわれるように信心のことである。これを受法の機といいならわしている。けだし生得の機の上に与えられた信心であるから、機という名を信心に及ぼしたのである。
「法」とは衆生を救う摂取不捨の教法をいう。
「一体」とは不二のことで、南無阿弥陀仏において南無の機と、阿弥陀仏という摂取不捨の法とが、機法の別がありつつ不二であることをいう。なお衆生と仏とが離れない在り方をしているという不離一体を表わす場合もある。このときは、如来の摂取不捨を法といい、摂取されている正定聚の人を機といわれたことになる。これも受法の機というべきである。
三、義 相
出拠にあげたように、『御文章』三帖目第七通等によれば、南無阿弥陀仏の南無の二字を阿弥陀仏を信ずる機とし、阿弥陀仏の四字をたすけたまう法というように、二字と四字に分釈し、名号はたのむ機とたすけまします法とが一体であるという機法一体の道理をあらわしているといわれている。すなわち「たのむ」機、すなわち信心は、「たすけたまう」法、すなわち摂取不捨の願力によつて起こさしめられたものであって、たすける法の外にたすかる信心はない。ゆえに機と法とは一体(不二)であるといわれるのである。
すでに「たすけたまう」法が、私の上に「おたすけをたのむ」信心となつて顕現しているのであるから、「たのむ」信心が発ったとき、信心の行者は「たすけたまう」法に摂取される。その摂取不捨の利益にあずかっているすがたを三帖目第七通には、彼此三業不相捨離と釈されたが、この場合は、如来と信心の行者との不離一体のことを機法一体といわれたといえよう。
さて名号を聞くということは、「われをたのめ、必ずたすける」という機法一体に成就されている法のいわれを聞くことであるから、六字みな法である。この法を聞いた信心は、「弥陀のおたすけをたのむ」というあり方をしているから、信心、すなわち機も南無阿弥陀仏であって、六字みな機であるといえる。こうして六字を二字と四字に分釈して機法一体をあらわす場合と、六字がみな法であり、また機でもあるという表し方がある。特に後者は一句の南無阿弥陀仏を仏の側からいえば「たのませてたすける」願力の法を顕しており、衆生の側からいえば「弥陀をたのむ」信心のありさまをあらわしていることになる。このように機も南無阿弥陀仏、法も南無阿弥陀仏であるという道理によって、法が機となるという本願力回向の信心のありさまが明らかになるのである。いいかえれば、親鸞聖人が顕わされた本願力回向の行信を蓮如上人は機法一体の道理として顕わされたのである。
なお、蓮如上人が重く用いられた『安心決定鈔』の機法一体論は、衆生の往生と仏の正覚が一体不二に誓われているという道理を顕わすことを主としていた。それを往生正覚一体の機法一体説とよんでいる。その道理を仏と衆生の上で生仏互入の機法一体説として展開したり、念仏衆生と摂取不捨の如来との彼此三業不離の道理を機法一体といわれることもあった。しかし蓮如上人のような「たのむ」機と「たすける」法との機法一体説は見られない。
なお、機法一体とよく似た名目に仏凡一体がある。『御文章』(二帖目第十通)には「さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもって仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。これによりて弥陀如来の遍照の光明のなかに摂めとられまゐらせて、一期のあひだはこの光明のうちにすむ身なりとおもふべし」といわれたものがそれである。しかし仏凡一体は信心の利益としての転成をあらわす法義であって、他力回向の信心の構造を顕わす機法一体とは区別しておかねばならない。
『逆謗除取』 判決 平成十年
一、出 拠
『大経』の第十八願及び第十八願成就文に、「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と説かれており、『観経』下々品には、十悪五逆の者が、十念念仏によって「往生することを得」と説かれている。 この二経の文について、『論註』上巻の八番問答に逆謗の除取を論じ、「散善義」下々品釈には、逆謗の抑止と摂取が論じられている。
『教行信証』信巻末にはこの『論註』と「散善義」を引いて逆謗除取が釈されており、『尊号真像銘文』に「唯除五逆誹謗正法といふは、唯除といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」といわれたものが正しき出拠となる。
二、名義
「逆」は五逆罪で、恩福両田に背く罪であって、これに殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧という三乗の五逆罪と大乗の五逆罪がある。後者には謗法も摂められている。「謗」とは謗法罪を犯した者の意で、無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法というものをさす。「除」は五逆・謗法の者が救いから除かれるということ、また
「取」は救い取られるということである。したがって、「逆謗除取」とは、五逆や謗法の罪を犯した者が、本願の救いから除かれるのか、あるいは摂取されるのかということである。
三、義 相
『論註』八番問答には、第十八願及び成就丈に五逆と謗法を共に除くといわれているのに、『観経』下々品では五逆が摂取されていることについてニ義をあげて会釈されている。第一は罪の単複に約する。すなわち『大経』は五逆と謗法の二罪を具するから除くといわれ、『観経』は、五逆のみであるから摂取されたというのである。
第二は謗法は単罪でも摂取されないという。一つは謗法は極重罪の故であり、二つには謗法の者には願生の理がないからであるといわれる。これらを総合すれば、『論註』では謗法の者は願生の信がないから救われないという一点に集約されるようである。ただし『論註』下に如来の口業功徳を明かす中に、如来の至徳の名号、説法音声を聞けば、謗法の罪が滅せられるといわれているから、謗法のものも回心して念仏すれば得生を認められていたことがわかる。
『散善義』の下々品の釈には『大経』に逆謗を除かれたのは未造業のものに対して往生を得ずと抑止されたものであり、『観経』下々品に五逆の罪人の救いが説かれたのは、已造業の者であるから大悲をもって摂取されたのであって、謗法の摂取が説かれていないのは未造業なるが故であるといわれている。すなわら已造・未造をもって摂抑を論ずるのである。ところで『法事讃』に「謗法闡提回心皆往」といわれているのと対応すると、未造業とは、単にまだ造っていないというだけではなく、未回心の者をさしており、已造業とは、単に逆謗を造ったものというだけではなく、罪に気づいて回心しているものというべきである。その意味では『論註』に通ずるものがある。すなわら未造業のものには、造らないようにと誡め、已造業のものには、罪に気づいて回心すれば救われると教化されるのが、未造抑止と、巳造摂取の仏意であるというべきである。
宗祖は「信丈類」に上述の『論註』と「散善義」の文を引用して逆謗除取の義意を論じられているが、『銘文』にはその心を要約して、「除く」というのは、五逆と謗法は、仏が嫌い斥けられる極重罪であることを逆謗の機に知らしめ、自らの罪を罪と認知せしめることによって回心せしめ、本願の大智海に入れしめようとされた善巧の施設であるとされている。
すなわち「唯除逆謗」の教語は、逆謗の機に深悔を生ぜしめて聞法の機たらしめ、逆謗の機をもらすことなく、一切の衆生に信心を与えて救おうとされた教説で、「除く」という言葉をもって「救い」を実現されたといわれるのである。
こうして、唯除という「除」は、回心しなければ摂取されないから実除であって、仮除ではなく、回心すれば摂取されるから暫除であって永除ではないといわねばならない。
次に「唯除」を弥陀の抑止とするか、釈迦の抑止とするかについて古来異論があるが、今は本未弥陀の抑止であって、釈尊はその本仏の意を述成されたものであると考える。『銘文』に「十方一切の衆生みなもれず救わんとなり」といわれたのは弥陀の願意を顕わされたものだからである。『口伝鈔』が「抑止は釈迦の方便なり」といわれたのは、弥陀は摂取を主とし、釈迦は勧誡を主とされることを強調されたもので、理実には摂取も勧誡も二尊に通ずるとみるべきである。
以 上
平成九年 判決
「聞信義相」判決 平成九年
〔題意〕
真宗の信心は如実の聞の他にないことを顕らかにし、聞と信の義を窺い、真実信心が他力廻向の信であることを顕らかにする。
〔出拠〕
(イ)本願成就文の「聞其名号信心歓喜」
(真聖全一の二四)
(ロ)「信巻」末・本願成就文の釈
(真聖全二の七二)
『一念多念文意』の聞の釈
(真聖全二の六〇五)
「正信偈」の「聞信如来弘誓願」
(真聖全二の四四)
『浄土和讃』の「十方諸有の衆生は 阿弥陀至徳の御名をきき 真実信心いたりなば おほきに所聞を慶喜せん」
(真聖全二の四八八)
〔釈名〕
「聞」とは、如実の聞で、不如実の聞に簡ぶ。
「信」とは、本願力廻向の信で、決定無疑をいう。
[義相]
本願は衆生を救済する法の全体を機受せしめる全相を誓ったものであり、如来の勅命である。本願成就は、その法が機受せしめられた極要を示したものであり、釈尊の教命である。如来の勅命は聞かしめ信ぜしめる法である。これを受けられた釈尊の教命が「聞其名号信心歓喜」である。
生因願のなかで、この聞名を挙げたのは、第十八願の成就文と第二十願である。
第十八願成就文の聞は、名号の実義を如実に受けしめられる聞、如実の聞である。第二十願の聞は、名号の実義を如実に受けない不如実の聞である。如実の聞は即如実の信を成立せしめ、不如実の聞は即不如実の信となる。
第二十願の不如実の聞信について、宗祖は「化身上巻」の真門釈に、
以助正間雑心称念名号。良教者頓而根者漸機、 (真聖全二の一五七)
と法頓機漸といって聞損を指摘されてある。
さて、名号の実義を聞くとは、具体的に何をどう聞くのかの問題である。
この問題について、宗祖は「信巻」に本願成就文の「聞」を釈されて、
経言聞者、衆生聞仏願生起本末無有二疑心、是曰聞也。 (真聖全二の七二)
とある。この文のなか、仏願の生起とは、如来の本願はなぜ生まれ起きたのかである。罪悪の生死の凡夫が存在するからである。罪悪の凡夫とは自己のありのままの姿であり、これを機実という。機実を知れば、自己のうちに自らの力による成仏の可能性の完全なる不可を知るのであり(捨機)、自力無功(捨自)と知らされるのである。
本末とは、因本果末をいう。因本とは、如来は必堕無間の衆生を悲憫して、その衆生救済の願を建立され、その願の完成に不可思議兆載永劫の行を行じたもうた。即ち、因本とは如来の願行をいうのである。果末とは、如来の願行まっとうじての名号成就を意味するのである。
この因本果末の示す内容は、如来の願力のありのまま、即ち法実を示すもので、衆生に対して、如来にすべてをまかせよの法であり、衆生よりいえば全てをゆだねる法の成立(託法)であり、如来の願力に帰す(帰他)のである。
今ここにいう捨機とは、自己のうちに成仏の力の完全否定であった。これを二種深信釈に望め合せると、捨機はまさに機の深信である。そして託法とは、全てをまかせよ必ず救うの法に全てをゆだねることであり、それはまさしく法の深信である。信機信法は二種一具として一信心の相である。
かくして、宗祖における成就文の聞の釈は、信を以ってなされていることが知られるのであり、聞はそのまま信であるという聞即信の義を成立せしめているのである。これを『一念多念文意』に、
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をきゝで、うたがふこふろなきを、聞といふなり。 (真聖全二の六〇四)
とあり、無有疑心を聞の義としてある。
また、この『一念多念文意』の釈は、前に続いて、
きくといふは、信心をあらわす御のりなり。 (真聖全二の六〇五)
と聞をもって信をあらわしてある。この釈相は、他力の信と自力の信とを「聞」をもって簡別したのであり、他力の信は、名号のいわれを聞く以外には成立し得ない信であり、名号より起こさしめられた信であることを示さんとされるのである。
因みに、聞と信の関係において、聞即信ということができれば、信即聞の義は成立するか否かの問題であるが、体からいえば共に名号であるが、相からは別であり、一概に論ずべきでない。
〔結び〕
本願成就文の「聞其名号」の聞は、聞即信であって、真宗の信は、名号のいわれを聞く以外に成立し得ない信であるが、その信は、所聞の名号によって起こされる(催起)信であるから、そこにおのずから他力廻向の信であることが顕らかになるのである。
以 上
平成9年平生業成 判決
〔題意〕
浄土真宗における平生業成の意義を顕らかにし、臨終来迎に簡ぶ。
〔出拠〕
¬御文章」一帖目第四通
当家には一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願の我等をた
すけたまふことはりをききひらくことは、宿善の開発によるがゆへなりと
こころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによ
りて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなはち平生業成
の儀なり。されば平生業成といふは、いまのことはりをききひらきて、往
生治定とおもひさだむるくらゐを、一念発起住正定聚とも、平生業成とも、
即得往生住不退転ともいふなり。(中略)されば聖人のおほせには、来迎
は諸行往生にあり、真実信心の行人は摂取不捨のゆへに正定聚に住す、正
定聚に住するがゆへにかならず滅度にいたる、かるがゆへに臨終まつこと
なし、来迎たのむことなしといへり、この御ことばをもてこころうべきも
のなり。 ⌒真聖全三の四〇六~四〇七)
この他に「御文章」には、一帖目二通・二帖目十通・三帖目八通・四帖目四
通・五帖目二十一通等、その語を出し、また釈もなされてある。また覚如上人
の¬口伝鈔」・「執持鈔」・「改邪鈔」、存覚上人の「浄土真要鈔」、乗専の
「最須敬重絵詞」にも既に平生業成の語や釈義を出すのである。
〔釈名〕
平生とは、つね日頃であって、臨終に対する。
業成とは、業事成弁・業道成弁の義である。
業事成弁は、用に約して所作をいう。業道成弁とは体に約して因の義を示すのである。 合釈すれば、平生の聞信の一念に往生の因が衆生の上に成就することをいう。
よって義からいえば、信一念業成である。
〔義相〕
平生業成の平生とは、尋常の時節のことで、臨終に対する義である。
平生業成とは臨終業成・臨終来迎に対する義である。
そこで、まず臨終来迎の義を略説しておく。
臨終とは、命終の時を指す。来迎とは、仏・菩薩の来迎のことである。
合釈すれば臨終来迎とは、平生に積んだ善行による往生を確信するために、
仏・菩薩の 来迎を要期することである。
「来迎」それ自体は弘願義においても説くところである。例えば、
(一) 『観経』普観に説く「無量寿仏、化身無数、與観世音・大勢至、常来至此
行人之所。」(真聖全一の六○)とある常来迎。
(二)「玄義分」序題門に「釈迦此方発遣・弥陀即彼国来迎」(真聖全一の四四三)と説く。 弥陀の招喚を来迎と名づける立場。
(三)『一念多念文意』の「恒願一切臨終時、勝縁勝境悉現前」の釈等のごとく、勝縁勝 境の現前するを来迎と見る立場。
(四) 「唯信鈔文意」の「来迎」の釈(真聖全二の六二四)、または「総来迎」(真
聖全二の六二六)の還来侍迎の義等は、全て弘願義によって論述されているの
である。いま、ここでいう¬臨終来迎」とは、弘願義で説く来迎とは異なり、
諸行往生の者が要期する臨終始来の来迎をいう。
浄土門内において、平生業成を説く教義的特色は、
(一)に生因三願の見方の相違を明確にする。
浄土異流においては、生因三願に真仮を分かたず、来迎は第十八願の利益であると見 る。これに対して宗祖は、三願に厳然たる真仮を分かち、第十八願を真実の願とし、
第十九・第二十願を仮の願とされ、臨終来迎については「末灯鈔」第一通に、
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに、臨終ということは諸行
往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。(中略)
真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに
臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさ
だまるなり。来迎の儀則をまたず。 (真聖全二の六五六)
と厳しく批判し、否定されるのである。
(二)第十八願の弘願の法門は、信益同時であることを顕さんとする。信一念
のとき、往生決定であり、正定聚に任するのである。この信一念のところに往
生の業事が成弁するのを平生業成という。また往生に決定づけられた人を現生
正定聚という。共に信一念の益である。この平生業成と現生正定聚との所顕は、
信益同時の利益を頭すことにおいては、同じである。だが、平生業成は臨終来
迎・臨終業成に対する言葉であり、正定聚は邪定聚・不定聚に対する往生者の
位態を顕す言葉であり、両者はその所顕を異にするものである。
最後に、平生業成の根拠をどこに求めるかの問題である。この問題について
は、本願文の「若不生者」、成就文では「即得往生住不退転」 である。本願文
においては衆生往生の因を三心とする。だが成就文はこれを¬聞其名号信歓
喜」と聞信の一念とするのであり、その聞信の一念に往生の業事が成弁するの
を平生業成の義源とするのである。よって、時間的に聞こえた時が臨終であっ
ても平生業成である。
〔結び〕
出拠の文にあるごとく、真宗は「一念発起平生業成」が教義の特色である。
聞信の一念に往因満足する。よって、「臨終まつことなし、来迎たのむことな
し」である。平生業成の機(正定聚の機)においては、既に弥陀智願海中にあ
ることを忘れてはならぬ。 以上
平成九年度 安居会読論題提要 三、出世本懐
〔題意〕釈尊の出世の本懐は弥陀の本願を説くことにあることを論定し、その意義を明らかにする。
〔出拠〕 ・『教文類』p2 『大経』序分p4 ・ 『正信偈』 『尊号真像銘文』p600
〔釈名〕
〔義相〕 ①釈尊出世本懐の論定
②出世本懐の意義について
③出世本懐と教判
④出世本懐と経典成立
判決
[題意]
釈尊の出世の本懐は弥陀如来の本願を説くことにあることを論定して、その意義を明らかにする。
〔出拠〕
『大経』
如来以無蓋大悲衿哀三界所以出興於世光闡道教欲拯群萌恵以真実之利。
(真聖全一、四)
「教巻」
夫顕直実教者、則『大無量壽経』是也。斯経大意者、弥陀超発於誓廣開法蔵、致哀凡小選施功徳之宝。釈迦出興於世、光闡道教、欲拯群萌恵以真実之利。是以説如来本願為経宗致、即以佛名号為経体也。何以得知出世大事。
『大無量寿経』(巻上)言。「今日世尊諸根悦予姿色清浄光顔巍巍(中略)爾者則此顕真実教明證也。誠是如来興世之正説、奇特最勝之妙典、一乗究竟之極説、速疾圓融之金言、十方称讃之誠言、時機純熟之真教也。応知。 (真聖全二 二から四)
「正信偈」
如来所以興出世 唯説弥陀本願海 (真聖全二・四三)
この他、聖教には出世本懐に関する文は多くある。例えば、『浄土文類聚鈔』・『愚禿鈔』・『浄土和讃』・『高僧和讃』・『尊号真像銘文』・『一念多念文意』。『口伝鈔』・『六要鈔』・『決智鈔』・『法華問答』等である。
〔釈名〕
出世とは、出現世間の意で、仏が迷いの世界に衆生摂化のために現れること。
本懐とは、本とは末に対する語であり、根本、本末ということ。懐とはいだく、こころざし、意志の意である。
合釈すれば、仏が迷いの世界に出現されて、衆生救済のために説法される根本意志である。
【義相】
宗祖における出世本懐論を窺うに教行信証の教巻の全体がまさに釈尊の出世本懐論の展開であると見ることができる 「教巻」において宗祖は、先ず『大無量寿経』こそが真実の教であると決定される。そして、その『大経』こそが釈尊の出世本懐の教であることを論証されるのである。その論証に、二義を出す。(一)には、仏自身の言説によって論定する。(二)には『大経』説時の釈尊の威儀をもって証明するのである。
先ず、仏自身の言説する論定とは「教巻」に「釈迦出興於世・光闡道教、欲拯群萌恵以真実之利。」(真聖全二の二)とある。この文は『大経』の出世本懐の文、「如来以無蓋大悲衿哀三界、所以出興於世、光闡道教、欲拯群萌恵以真実之利。」(真聖全一、四) に依るのである。これは、『大経』こそが釈尊出世の本懐であることを、経典それ自身で語らしめるためである。いまここに「如来」とあるのは、『大経』と説かれた時の釈尊は融本の弥陀であることを示すものである。「光闡道教」の道教とは、聖道の法である。釈尊の本意は「光闡道教」にあるのではなく、「欲」(おぼす)の文字の下にある「拯群萌恵以真実之利」にあることに注意せねばならぬ。
次に、『大経』をもって出世本懐とする理由に、『大経』説時の釈尊の威儀をもってする。この立場は五徳瑞現の文に依る。五徳瑞現の一々に「今日」とあるのは、釈尊が『大経』を説かれた「その時」を指す。五徳瑞現は、『如来会』に依れば「世尊、今者入大寂定行如来行」(真聖全一の一八六)とある。即ち、釈尊が弥陀三昧において弥陀の徳と融合して(入大寂定)阿弥陀仏の教えを説きたもう(行如来行)ことに収まり、『大経』をもって出世本懐とする意を窺うのである。
しかるに、弥陀法を説くのは、独り釈尊のみの出世本懐ではなく、十方諸仏の出世も、またこの一点にありとするのが、「正信偈」の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」である。
二
次に出世本懐を教判の立場から論考せねばならぬ。この問題を最も端的に示すのが、『六要鈔』に、「論其出世本懐之義、略有二意。一約教権実、三乗是権、一乗是実。故以一乗説為本懐。(中略) 二約機利鈍」(真聖全二の二二二)とある文である。即ち、教の権実、機の利鈍という義である。ここでいう教の権実の判釈は、聖道門の中での三乗と一乗との対比であって、浄土教は含まない。機の利鈍という場合は、聖道門の一乗教と浄土教の本順一乗法との対比において、聖道一乗の教は利根の者の教えであるが、弥陀の本願一乗法は、衆生の利鈍は問題とせず、十方衆生がその救済の対象であるとするのである。
これを宗祖の教判で示せば、二双四重判より一乗海釈、門余の釈と展開する。「化身土巻」には、「言門余者、門者即八万四千仮門也、余者則本願一乗海也」(真聖全二の一五四)と釈尊出世の本懐が弥陀法を如実に説く『大経』をもってすることを明らかにされるのである。
最後に、出世本懐論の基本は、経典は全て釈尊の説法の文字化であることを前提として論じられるものであった。ところが、経典成立史等の学問の進化によって明らかにされてきた経典成立の諸問題をも、論義の射程に入れなければならぬ新たなる問題が今後にあることに注意したい。 以 上
「他力義趣」判決 平成九年
〔題意〕
浄上真宗における他力の本意を明らかにし、門内・門外の他力の誤謬を破す。
[出拠]
『教行信証』
「行巻」 摂取不捨、故名阿弥陀仏。是曰他力。 (真聖全二の三三)
また、
言他力者、如来本願力也。 (真聖全二の三五)
「化巻」
憶念本願離自力之心。是名横超他力也。 (真聖全二の一五五)
『愚禿鈔』
横超 如来誓願他力也 (真聖全二の四六六)
『正像末和讃』 (自然法爾章)
自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、しからしむといふことばなり。(中略)すべて行者のはからひなきをもちて、このゆへに他力には義なきを義とすとしるべきなり。 (真聖全二の五三〇)
このほか、宗祖の上には、『尊号真像銘文』、『末灯鈔』、『御消息集』、『如来二種廻向文』等にある。更に相承の釈においては、曇鸞大師の『論註』における不虚作住持の釈相、覈求其本の釈等を挙げることができる。
〔釈名〕
他力の他とは、阿弥陀仏。力とは、本願力である。これを合釈すれば、他力とは阿弥陀如来の本願力である。よって、他力とは仏力といえる。『論註』は、巻の初めに「仏力住持即入大乗正定之聚」(真聖全一の二七九)といい、巻末には「若非仏力四十八願便是徒設」(真聖全一の三四七)というのである。
〔義相〕
宗祖の他力義は、直接には師法然上人を承けられたことはいうまでもない。だが、その浄土門内において、他力義に相違がある。
鎮西・西山そして真宗においても、他力は阿弥陀如来の本願力である。だか、その仏力、本願力が衆生にいかに加わるのかが問題である。鎮西は他力助縁説に立つ。即ち、因は称名念仏であり、縁は仏力他力である。ここに因縁和合して衆生の往生が可能であるとするのである。この縁は増上縁とするも、それは一般仏教でいう四緑の一つであって親因縁に力を加えるものとの理解である。称名の親因縁に力を加えるものとの理解である。称名の親因縁に弥陀の本願力が増上縁となって加わると説くのである。よって、この立場を他力助縁説という。
西山は、阿弥陀仏の仏体が衆生の往生の行となるから他力であるという。仏体がなぜ行であるかというに、本願には「若不生者不取正覚」とある。ここでいう正覚とは、仏の正覚であるが、その正覚は衆生の往生を内容としているから、これを衆生の側でいえば、仏が正覚のままが衆生往生の行の完成であるというのである。本願成就の仏体に衆生往生の行の全体が成立しているのであるから、全くの他力であり、一分の自力も認めないのである。(全分他力説)
次に真宗における他力義は、宗祖が『教行信証』の「行巻」において、「言他力者如来本願力也」と明示されてある。その本願力の活動とは「行巻」に「十方群生海、帰命斯行信者、摂取不捨、故名阿弥陀仏。是曰他力。」とある。真実の行信に帰命する衆生の摂取不捨である。宗祖が如来の本願力を「行巻」に展開される意味は、大行とは如来の本願力であるとの意である。本願力とは名号に他ならぬ。
さて宗祖は、「行巻」の他力釈において、『論註』の利行満足章以下を引用され、『論註』の論述を通して他力義を明確にせんとされるのである。その引文のなか、特に注意せられるのは、いわゆる覈求其本釈である。即ち覈求其本の釈とは、
問曰。有何因縁言「速得成就阿耨多羅三貌三菩提」。答曰。『論』言。修五門行以自利利他成就故。然覈求其本、阿弥陀如来為増上縁。他利之与利他談有左右。若自仏而言宜言利他、自衆生而言宜言他利。今将談仏力、是故以利他言之。当知此意也。 (真聖全一の三四六~七)
とある。この問答の問の意味は『浄土論』に五念五果の成就が、前には「漸次成就」と説くが、後では「応知。菩薩如是修五門行自利利他速得成就阿耨多羅三貌三菩提故。」(真聖全一の二七七)と、速得成就とある。この相違を問題にしたのである。それに答えて、五念五果が速得成就である理由は阿弥陀如来を増上縁とするからであるとし、次に他利・利他の深義を展開するのである。
他利とは、「他に利せられる」との意であり、他は阿弥陀仏を指す。
利他とは、「他を利する」の意であり、他は衆生を指す。即ち利他とは従生向仏であり、衆生の無作をいい、利他とは従仏向生であって、仏の造作を示すのである。如来の完全なる造作は、衆生において完全なる無作であり、ここに絶対他力、願力の独用を語らんとするものである。
だが、この願力の独用は、一般仏教からは、誤解され易い。自因自果の仏教の論理から、他因自果・他作自受と誤解され易いのである。この問題は仏教の根本原理から問い直されねばならぬ。大乗仏教は、まさに縁起の法である。縁起の法の教えるところ、当体無自性空であり、衆生も仏も、その根源は無自性であり、自他不二である。その一如無自性より衆生縁によって衆生と現じ、全性修起して阿弥陀仏の顕現となる。仏の顕現は自ずから自利利他の成就であり、利他の完全性が他力回向の成立の必然性でなければならぬ。よって『論註』は、
知此三種荘厳成就由本四十八願等清浄願心之所荘厳、因浄故果浄、非無因他因有也。 (真聖全一の三三六)
といってある。宗祖はこの『論註』の文を、「信巻」に真実の行信が回向法であることを示すところに引用し、
爾者、若行若信、無有事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。非無因他因有也。可知。 (真聖全二の五八)
といい、更に真宗教義の全体が、大乗仏教の正因縁の理法の上に展開されていることを示して、「証巻」には、
案真宗行・信・証者、如来大悲回向之利益。故若因若果、無有一事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。因浄故、果亦浄也。応知。 (真聖全二の一〇六)
とある。
更に宗祖は、和語の聖教において他力の義を示されるのに、多くは「義なきを義とす」と、いわゆる無義為義の語によられるのである。この場合、無義の義は行者のはからいをいい、為義の義は本義と理解したい。即ち、他力とは、はからわないのを本義とすといったところである。この他力の釈相は、他力を機より解釈したものである。
〔結び〕
他力回向の教義が大乗仏教の正因縁の法の上に展開されているのであり、更に浄上門内において、純粋他力回向義の発揮こそ、宗祖の一大己証である。
他力が世間的にも誤解されている現代、仏力を回向されてこそ、主体的自己の覚醒と、生命の完成への道が明確にされるのである。
以 上
平成八年 判決
「正定業義」判決 平成八年
〔出拠〕
「散善義」深心釈、第七深信、就行立信釈に「この正のなかにつきてまた二種あり。一には一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり」(註釈版七祖篇四 六三)とある。
『選択集』「三選の文」には「正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり」(註釈版七祖篇一二八五)とある。
「正信偈」には「本願名号正定業」(註釈版二〇三)とある。
〔釈名〕
「正定」とは正しく定まるということである。
「業」には業作と業因の義があるが、正定業は名号を据わりとするから、往生成仏の果を得ることに対して正しく定まる業因という意味である。
〔義相〕
①正定業について古来三つの語義がある。
(イ)正選定の業。これは『漢語灯録』に「正定とは、法蔵菩薩二百一十億諸仏の誓願海の中に於いて、念仏往生の願を選定す」(真聖全四・二八四)とあるもので、衆生の能称に約する称名を指すのではなく、その体名号に約するのである。すなわち法蔵因位のとき、諸仏の法の中から往生浄上の業因として、正しく名号を選定せられたことをいう。
(ロ)正決定の業。果に対して正しく決定する業因をいう。宗祖は『一念多念文意』に「是名正定之業順彼仏願故といふは、弘誓を信ずるを報土の業因と定まるを正定の業となづくといふ」(註釈版六八八)と述べている。
(ハ)正定聚者の作業。信後の称名をいう。宗祖は「正信偈」に「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(註釈版二〇五)とあるものである。
(イ)の正選定の業という場合は名号であり、「正信偈」に「本願名号正定業」と示されているものである。
(ロ)の正決定の業は信心であり、信心を正定業と述べているのである。
(ハ)の信後の称名は業作の義で称名正定業と示されるものである。名号・信心・称名のところで正定業は語られるが名号の徳を具有するところからいわれるのであり、正定業の体は名号である。
②善導・法然と宗祖の釈相
善導・法然では一願建立の法門であるから、第十八願の乃至十念において正定業が語られている。宗祖は五願開示の法門において第十七願の「咨嗟称我名」の「我名」(名号)自体に往生成仏(得果)せしめる力用を明示し、名号正定業の義を鮮明にされたのである。
③正因と正定業
正因とは往生の因が成就したかどうかを示す語、正定業は牽果の力用を示す語であり、体は名号である。名号を信受するところに往因が成就するので信心正因というのである。
④名号・信心・称名の関係
第十七願で成就された名号(我名)が回向されて、第十八願の三心(信心)となり、十念(称名)となるのである。その体は名号にある。
以 上
「往還回向」 判決 平成八年
〔出拠〕
『論註』下巻、起観生信章に「廻向に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。往相は、己れが功徳を以て一切衆生に廻施して、作願して共に彼の阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめむとなり。還相は彼の土に生じ已て、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に廻入して、一切衆生を教化して共に仏道に向かえしむるなり」(真聖全一の三一六)とある。「教巻」には「謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向有り。一には往相、二には還相なり。往相の廻向に就いて、真実の教行信証有り」(真聖全二の五)とある。また『浄土文類聚鈔』には「然るに本願力の廻向に、二種の相あり。一には往相、二には還相なり」(真聖全二の四四三)とある。
〔釈名〕
『論註』においては、「往」とは往生浄土、「還」とは還来穢国、「回向」とは願生行者のもので、廻施向道の義である。宗祖においては、
「往」とは往生浄土、「還」については従果還因(広義)と還来穢国(狭義)とがあり、「回向」とは如来より回向されるものであるから、廻自向他の義である。
〔義相〕
① 『論』・『論註』から宗祖への展開
『論』・『論註』において、回向は願生行者の回向であり、『論註』においてその利他の相を此土と彼土に分け、此土における五念門(因)の第五の回向を往相回向とし、五果門(果)の第五の薗林遊戯地門を還相回向とする。
即ち往還共に因中の所作である。これに対して宗祖においては、還相回向は「証巻」に示されるのであるが、そこでは、はじめに往生即成仏の滅度の証果が明かされた後、「二に還相回向といふは、則ち是れ利他教化地の益なり」(真聖全二の一〇六)と述べられているように、往生即成仏後の証果の悲用としての還相回向が明かされるのである。そこに引用されている『論註』の文には五果門のすべてがあげられている。このことは、宗祖においては滅度の果を証するまでが往相であり、自利究竟以後はすべてこれを還相とせられることを示すものである。すなわち五果全体を往生即成仏後の果後の示現相と見られるのであり、浄土に往生した後に菩薩相を示現しているままが還相なのである。従って宗祖における還相には「従果還因の相」と「還来穢国の相」の両義があるのであり、前者が広義、後者が狭義となるのである。
②宗祖の本願力回向(他力回向)義 釈顕の根拠
『論註』下巻の覈求其本釈に「覈に其の本を求むるに阿弥陀如来を増上縁と為す。他利と利他を談ずるに左右有り。若し自ら仏をして言はば宜しく利他と言ふべし。自ら衆生をして言はば宜しく他利と言ふべし。今将に仏力を談ぜむとす。是の故に利他を以て之を言ふ。当に知るべし此の意也。凡そ是れ彼の浄土に生ずると及び彼の菩薩人天の所起の諸行は皆阿弥陀如来の本願力に縁るが故なり。何を以て之を言ふとなれば、若し仏力に非ずば四十八願便ちこれ徒設ならん」(真聖全一の三四七)といって衆生の五念二利の成就することは、如来の本願力によるのであると示し、さらに第十八願、第十一願、第二十二願の三願を引いて、速得成就の義を証明されている。これを根拠とするものである。この覈求其本釈の所承は『浄土論』の不虚作住持功徳の偈に「仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐる者無し。能く速に功徳の大宝海を満足せしむ」(真聖全一の二七〇)とあり、また長行の終りに「菩薩是の如き五門の行を修して、自利利他して速に阿耨多羅三藐三菩提を成就する故に」(真聖全一の二七七)とあるところに基づくものである。
③還相の現実的意義について
宗祖は「総序」には「斯れ乃ち、権化の仁斉しく苦悩の群萌を救済し」(真聖全二の一)と述べ、また『高僧和讃』には「阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ 化縁すでにつきぬれば 浄土にかへりたまひにき」(真聖全二の五一四)等と他者を還相の菩薩と見ることはあるが、「正信偈」に「蓮華蔵世界に至ることを得れば、即ち真如法性の身を証せしむ、煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の薗に入りて応化を示す」(真聖全二の四四)等とあるように、あくまでも還相回向とは浄土に往生した後の証果の悲用であり、信後の化他行をいうものではない。また『末灯鈔』二〇には「悪をこのむひとにちかづきなんどすることは、浄土にまいりてのち衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたがひちかづくことばさふらへ」(真聖全二の六九二)とある文にもよくこの意が示されている。
「発遣招喚」 判決 平成八年
〔出拠〕
『観経疏』「玄義分」序題門に「仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。かしこに喚ばひ、ここに遣はす、あに去かざるべけんや」(註釈版七祖篇三〇一)とある。『観経疏』「散善義」には「仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもって招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して」(註釈版七祖篇四六九)とある。『浄土文類聚鈔』には「仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧りみず」(註釈版四九三)とある。
〔釈名〕
「発遣」とは釈尊が浄土往生をすすめることであり、「散善義」廻向発願心釈、二河譬において「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。もし住まらば、すなはち死せんと」(註釈版七祖篇四六七)とあるものであり、「招喚」とは阿弥陀仏が衆生を浄上に来れと招きよぶことであり、二河譬において「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれと」(註釈版七祖篇四六七)とあるものである。
〔義相〕
①序題門における弥陀・釈迦の関係
『観経疏』「玄義分」序題門に「しかも娑婆の化主はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人は別意の弘願を顕彰したまふ」(註釈版七祖篇三〇〇)等と述べて、釈迦を要門の教主、弥陀を弘願の教主としているところは二尊二教の義である。しかし次下に「仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや」(註釈 版七祖篇三〇一)とあり、ここでは釈迦仏も弥陀と同じく弘願の法を勧められることが示されているのであり、遣喚一致、二尊の一致の義が示されている。したがって釈迦の本意は要門を廃して弘願の法を立てるところにある。
②二河譬の所顕
二河譬は三心釈の廻向発願心釈の中にあるもので、総じては三心、別しては深心の相を喩顕している。深心の本義は弘願の信心とされる。二河譬は弘願の信相、すなわち異学異見別解別行の人等に惑わされない由若金剛の決定の信相を示すものである。『高僧和讃』善導讃には「善導大師証をこひ 定散二心をひるがへし貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ」(註釈版五九〇)と述べられている。
③釈迦発遣の真仮について
合喩の文に「仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもって招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて」(註釈版七祖篇四六九)とあるように、釈迦の発遣は弥陀の願力の道を行けと勧められるのであるから、弥陀の招喚と同じく弘願の法を勧められるのであり、発遣に仮に通ずる義はない。
④「群賊等喚回」と行者退失の有無
合喩の文の「一分二分するに群賊等喚ばひ回す」(註釈版七祖篇四六九)については、宗祖独自の訓点により、白道上の行人が 別解別行等の妄説に惑わされたり、行者自身の造罪によって退失することがあるというのではなく、行人がそれらの妄説に廻顧することなく、白道上を直進する相を示すのであるとして、金剛不壊の弘願の信心の相を述べている。
⑤経典に窺われる発遣と招喚
『観経』にあっては第七華座観で、釈迦仏の「分別解説除苦悩法」(註釈版九七)等に応じて弥陀仏が来現せられたところに窺われる。『大経』でいえば、第十八願文は弥陀の招喚、成就文は釈迦の発遣と見られる。また『大経』は釈迦の出世本懐の経であり、真実の教であるから経全体が釈迦の発遣であり、また弥陀の招喚と窺われるのである。
以 上
「勘決邪偽」 判決 平成八年
〔出拠〕
「化身土巻」末に「それもろもろの修多羅によつて、真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば…」(註釈版四二九)とある。
〔釈名〕
「勘決」とは「化土巻」本(真聖全二・一六七)に左訓があり、「勘」には「カムガフ」、「決」には「サダム」とある。すなわち、よく考えて、何か正しいか、何がまちがいであるかを定めるという意味である。
「邪偽」とは、「邪」はよこしまなことであり、
「偽」はいつわりの意味である。
〔論点〕
①宗祖における真仮偽分別の基準
「信巻」に「真の仏弟子といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ」(註釈版二五六)とあり、「信巻」の次下には「仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄上の定散の機なり」(註釈版二六五)とあり、また「偽といふは、すなはち六十二見、九十五種の邪道これなり」(註釈版二六五)とある。
宗祖においては『愚禿鈔』に「ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて已外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし」(註釈版五三〇)とあるように、まず仏教の中で、釈尊の出世本懐の教である第十八願の老少善悪のひとをえらばぬ。一切群生を利益する絶対他力の教えのみを真実の教であるとし、他は方便仮門の教えとするのである。そして「六十二見、九十五種の邪道これなり」と、釈尊当時のインドにおける仏教以外の宗教を偽の宗教としている。「行巻」に法照の文が引かれて、「仏言を取らざるをば外道と名づく」(註釈版一七二)とあり、また「信巻」には『法事讃』を引用して「九十五種みな世を汚す。ただ仏の一道のみ独り清閑なり」(註釈版二六五)とあるように、仏教以外の宗教、仏教の正因縁に立たざる教えを邪偽の宗教とするのである。
②邪偽を勘決された宗祖の意について
『大経』には「生死勤苦の本を抜く」(註釈版一四)とあり、『観経』には「苦悩を除く法」(註釈版九七)とある。『恵信尼消息』に「生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまりさだめて候ひしかば」(註釈版八一一)とあるように、宗祖は若き日に真実の苦悩の解決の道、真実の利益(救い)の道は「仏教」(第十八願)にあることを体解していた。このことは「教巻」に引用してある『大経』の「群萌を拯ひ恵むに真実の利をもってせんと欲しすなり」(註釈版一三五)とある「真実の利」について、『一念多念文意』に「真実之利と申すは、弥陀の誓願を申すなり」(註釈版六八九)と、真実の利益とは、一切群生を仏果涅槃に至らしめる弥陀の誓願であると述べ、また同『一念多念文意』に『大経』の文である「為得大利」(註釈版八一)の左訓に「ほとけになるべき利益をうるなりとしるべしとなり」(註釈版六八五注)とあるように、「ほとけになる」すなわち仏果涅槃を得ることこそが、真の苦悩からの救いであり、真の利益であるとしているのである。そして独自の釈顕である現生正定聚義を顕し、現世において「仏になるべき身とさだまる」と述べて、現世からの救い、利益を強調したのである。
このように仏果涅槃を得ることが真実の救いであり、真実の利益であるとしたのが宗祖であるから、それを説かない宗教は邪偽と定めたのである。
③現代の諸宗教における真実と邪偽
先に述べたように、宗祖は『一念多念文意』に「真実之利と申すは、弥陀の誓願を申すなり」と、第十八願の教えこそが生死勤苦の本を抜く教えであり、真の除苦悩法の教えであり、真実の利益を恵む教えであると述べているのである。その意味で真実の宗教と定めているのであるから、その宗教が本当の利益(救い)を与えるものであるかどうかで真実か邪偽かが定められるのである。
以 上
平成七年判決
平成七年度 安居 信疑決判
「信疑決判」判決
一、出拠
『選択集』三心章の私釈に「次に深心とは、謂はく深信の心なり。当に知るべし、生死の家には疑を以て所止と為し、涅槃の城には信を以て能入と為す。故に今二種の信心を建立して、九品の往生を決定する者なり。」とある。「正信偈」・「源空讃」にこの意を出し、『尊号真像銘文』にはこれを解釈されている。
一、釈名
信とは第十八願の至心信楽欲生すなわち信心のこと、名号を信受すること、疑とは第十八願を信じないことである。また本願を疑うものだけでなく、本願について無関心なもの、無知なものもすべて含む。決判とは判断し決定すること。本願の名号を信受するか否かによって迷悟昇沈が岐れることを決定することである。
一、義相
①元祖の釈意
元祖は念仏往生を標榜して浄土往生を勧められたが、この三心章において選択本願の念仏には、必ず信心が具すべきことを述べられるのである。涅槃に入ると生死の迷界に止まるとは、信と疑によると厳格な決判をされている。そこで「生死の家」とは、六道・四生・二十五有の迷界をいう。家とは住居・すみかで、捨家し、出家しなければならない煩悩の象徴である。しかし一方「如来の家」の用例もあるが、ここでは流転する生死の迷界を家とよんでいる。「涅槃の城」とは悟りの境界である極楽無為涅槃界、安養浄刹、真実報土をさす。城は堅固な城塞の意で、疑城・阿鼻城とも使用されるが、今は都城の意で、涅槃界を都に擬せられたものである。これは善導の讃文(「定善義」の地想観・『法事讃』)によられたものであろう。能入に対して所止といわれているが、この場合は能所は能動・受動の関係を表すものではなく、所止は生死海に止住する理由を示す語である。
信をもって涅槃への能入とするのは、信は万徳円備の名号を全領して、衆生をして能く転迷開悟せしめる因となるからである。それに対して義をもって生死の迷界への所止とするのは、本願疑惑の迷情が真実報土への往因としての信をさまたげるからである。源空さんに「流転輪廻のきはなきは 疑情のさはりにしくぞなき」というのはこのことである。
ところで三心章の章目は「念仏行者必可具三心之文」という。しかるに私釈の深心釈下で「以信為能入」と深心一つを往因として示すのはどういう理由によるのであろうか。本願の三心を信楽の一心に合して、機受とする明確な論理展開をするのは、宗祖の信巻であるが、すでに元祖においてその義意が見られるのである。
『西方指南鈔』には「観経の三心、小経の一心不乱、大経の願成就の文の信心歓喜と、同じく流通の歓喜踊躍と、みなこれ至心信楽之心也」(十八条法語)といい、また「三心とわかつおりは、かくのごとく別々になるやうなれども、詮ずるところは、真実のこころをおこして、ふかく本願を信じて、往生をねがはむこころを、三信具足のこころとは申べき也」(おおごの太郎宛)と述べて、『観経』の三心が中間の深心に集約されるものであることを明かしており、いまも特に説明はないがその唯信正因の領解にたっての釈であることは明らかである。宗祖の三心釈はその論理的空白を埋めたものといえよう。往生の可否を信疑において決判するのは元祖の発揮であるが、この発揮は『大経』三毒段の「教語開導信之者少 是以生死流転 無有休止」や、弥勒領解段の「演説経法宣布道教 断諸欺網……決正生死泥洹之道」の経文に依られたものと窺われる。
②大経の信疑得失について
一方『大経』下巻胎化段においては、仏智を疑惑しながら「修諸功徳」、あるいは「修習善本」して願生するものは往生しても胎生の小利しか得られず、「明信仏智」のもののみが報土に化生して大利を得ると判じている。
③信疑決判と信疑得失の相違
いまこの二者を比較してみると、同じく本願の信をすすめ疑を誡める点においては同じであるが、前者は疑によって生死に止まるとするに対し、後者は疑惑の心はいだくものの自力の行信によって胎生の果を得ると説く。前者が疑という自力心単独で決判するのに対し、後者は自力心をもって行ずる行果によって得大利と失大利とを判定されるのである。
また信疑決判でいう疑は、生死に止まる障碍とするのであるから、第十九・二十願の信だけでなく、聖道の諸教・また邪義をも含めるものといわねばならない。それに対して信疑得失の疑は、定散心である第十九・二十願の信に限定されるもので、疑の一字は両者で内容に広狭が認められる。
④なお生死流転の因は、煩悩であり悪業であることは多く聖教に説くところである。いまも本願疑惑が生死の因なのではない。信心一つで往生できるのに、疑惑のために涅槃の証果をさまたげられるから所止というのである。
「即得往生」 判決 平成七年
一、出拠
『大経』本願成就文に 「即得往生住不退転」とある。
その他「行巻」六字釈、『愚禿鈔』、『一念多念証文』、『唯信鈔文意』、
また 『口伝鈔』、『最要鈔』、『浄土真要鈔』等。
一、釈名
当釈と宗釈の二がある。
当釈すなわち経当面では、命終のときに浄土に往生して不退転の位に住することである。この場合即は異時即、往生とは捨此往彼蓮華化生である。
宗釈すなわち宗祖の釈ではこれを現益とされる。そこでは即は同時即で、信一念同時の意である。得往生住不退転は、入正定聚、すなわち浄土に往生すべき身につき定まるとである。
一、義相
① 経文当面上における「即得往生」の意義
『大経』成就文の「即得往生」は因願の「若不生者」を述成したものであるから当来における益とするのが経文当面の意である。聞名信喜の一念に往因決定したものが、命終時に浄土に往生して不退転の位に住することである。
『論註』に「仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得。仏力住持して、すなはち大乗正定の聚にいる。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。」と釈すのはこの成就文の意である。この場合「住不退転」は彼土における広門示現相である。
② 宗祖の「即得往生」の釈義(釈相)
ところが宗祖はこの「即得往生」を信一念の時に得る現益とされる。『一念多念証文』に「即得往生といふは……ときをへず、日をもへだてず正定聚のくらゐにつきさだまるを往生をうとはのたまへるなり」と同時即の義で釈し、「また即はつくといふ、そのくらゐにさだまりつくといふことばなり」といい、また『唯信鈔文意』には「即得往生は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるなり。成等正覚ともいへり、これを即得往生といふなり」とつき定まる意を示し、信一念即時に正定聚の位につき定まる義とされる。
また『愚禿鈔』には「信受本願前念命終 即入正定聚之数文 即得往生後念即生 即時入必定又名必定菩薩也文」と述べられる。すなわち迷情の自力心が聞信の一念につきはて、正聚の位にさだまりつくことを即得往生といわれているのである。
「行巻」六字釈下では「必得往生」を現生不退と釈し、また「必得」を経の「即得」を同意義とされ、即得往生とは、信一念に正定聚に住することとされるのである。
③ 現生正定聚とする祖意(理証・文証)
このように宗祖が成就文の即得往生を現生とされるの意図をうかがうと、如来は正覚の果徳全体を名号に成就して衆生に廻向される。その悲智円具の名号法を信一念に全領すれば、即時に往因は円満して仏果を得ることは決定し、当来に往生即成仏の果を得るとされるのであるから、成仏以前の住不退転を信一念の同時に得る現生の益とされたのである。この現生正定聚釈の文証となったのは、『大経』流通の「もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。」、『小経』の「この諸仏の所説の名および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得ん。」、『易行品』の「即時入必定」、『論註』眷属功徳の文等である。また宗祖が点発をほどこして入正定聚を現当に通じて釈されたものに『如来会』十一願文、『論註』下巻妙声功徳の文、『一念多念文意』に訓読される『大経』十一願文等がある。
④ 相承の釈意
覚如上人は『口伝鈔』に体失・不体失往生を述べて即得往生が不体失往生であると明かし、また『最要鈔』でも「住正定聚のくらゐにもさだまれば、これを即得往生ともいふべし。善悪の生処をさだむることは心命のつくるときなり。身命のつくるときにはあらず。」と釈している。
存覚上人の『浄土真要鈔』は「いまいふところの往生といふは、あながちに命終のときにあらず、…‥これを即得往生 住不退転と説きあらはさるるなり」と釈される。ただ覚・存両師は「たちどころに往生さだまるなり」(本願鈔)等とのべ、「往生」を当来の意とされる場合もある。しかしいずれも現生正定聚の意を明らかにしている。
⑤ 宗祖が「現生での成仏を説いた」と主張する人々がその根拠とする祖文二点をとりあげてその正意明らかにしておく。
その一は『唯信鈔文意』に即得往生を釈する文中の「信心をうればすなはち往生すといふ」とあるのを、「往生することに定まる」と解釈するのは無理であるという。宗祖には和語の語句を説明されるとき定型化したパターンがある。すなわち「Aの語は、Bと読む。Bというのは、Cという意味である。」いまの「信心をうればすなはち往生すといふ」とあるのは「即得往生」の読み方を示した一節で、往生の意を説明したものではない。信一念に現生正定聚となり、臨終の一念に往生成仏すると説く祖文は枚挙にいとまがないのに、断章取句した一節をもって「現生に往生する」と立論するのは正しい方法でない。 また「ときをへず、日をもへだてず」を「往生」にかぶせた記述はなく、それはかならず「正定聚」にかけられているのも注意したい。
その二は「信巻」に王日休の文を引いて 「聞是仏名信心歓喜乃至一念願生彼国即得往生住不退転……一念往生便同弥勒」とある文、同じく「信巻」引用の「華厳経言聞此法歓喜信心無疑者速成無上道與諸如来等」の文を誤解または曲解しての一益法門の主張である。この主張は宗祖在世当時からあったようで、『末灯鈔』『消息集』に懇切な解釈がなされている。いまその要点を指摘すると
1 真実信心の人は、身は煩悩具足のままであっても、名号を領受している点で諸仏の心にかない、心が如来とひとしと諸仏が讃嘆されるところから、「如来とひとし」という。
2 弥勒菩薩はまだ仏ではないが、次生かならず仏になることが決まっているので、弥勒仏ともいう。同様に信心の人も往生成仏することが決定した身であるから、その点で弥勒と同じである。 要するに正定聚不退転の地位が弥勒に同じなのであり、名号領受の信徳が如来とひとしとされるので、現生に成仏の証果を得ることではない。語釈として同じは全同、ひとしは近似という。
平成七年度 安居 三往生義
「三往生義」判決
一、出拠
「証巻」・「化身土巻」標挙に「必至滅度の願 難思議往生」「至心発願の願 邪定聚機 双樹林下往生、至心回向の願 不定聚の機 難思往生」とある。同じく「化巻」三願転入の文、また『愚禿鈔』、三経往生文類等。
一、釈名
三は数の三、三種の意。往生は捨此往彼蓮華化生の義、迷いの境界から無漏無生の境界である阿弥陀仏の安楽浄土に行き生まれることを原義とする。しかるに宗祖は三願に真仮を分別するが故に、往生の語も真仮の両義にわたって用い、難思議往生、難思往生、双樹林下往生の三に分別される。
一、義相
①三往生の釈相
宗祖は『大経』に説く第十八願・十九願・二十願の三願を生因願と位置づけられ、それぞれ至心信楽の願、至心発願の願、至心廻向の願と名づけ、胎化段等の説意によって三願に真仮の別をたてられた。
すなわち、信心往生を誓う第十八願が唯一真実の願で、第十九願は諸行往生を、第二十願は自力念仏による往生を誓われた方便の願と判定されたのである。
また三願を、大・観・小の三経に配当し、それぞれによって得る証果を大経往生・観経往生・阿弥陀経往生とよび、またそれを難思議往生・双樹林下往生・難思往生とも別称された。生因三願の相違をもっとも顕著に表すのはそれぞれの証果であるところから、このような三往生の名目をもって三願を区別し、方便の願を廃し真実の願によるべきことを教示されたのである。
②三往生の語義
三往生の語は善導の『法事讃』によられたものである。難思議往生とは、難思議は不可思議と同義で人間の理性的思惟を超えていること。出離の縁あることない凡夫が名号の不可思議威神功徳のはたらきによって、往生即成仏の無為涅槃界に往生することを嘆じた名称である。双樹林下往生とは釈尊入滅の場所からの命名で、仏の入滅を見ることのある化土往生を意味する。難思往生とは二十願の機の果である化土の往生であるから、双樹林下往生に該摂してもよさそうであるが、行ずる名号の徳によって難思往生と別名をたてる。難思の語は難思議と具略のちがいで同義である。総序に「難思の弘誓」といい『文類聚鈔』に「無碍難思光耀」とある難思議と同義である。しかしいま難思往生という場合は難思議から「議」の一字を減じて、せっかく名号を称しながら仏力を疑惑して信受しない失を貶する意が含まれている。
③法事讃との同異
三往生の名目は『法事讃』に出るのであるが、善導大師は阿弥陀浄土を是報悲化と判定されるが、その浄土に報土と化土とを分かつ思想は見られない。したがって『法事讃』での「難思議往生楽」「難思往生楽」「双樹林下往生楽」とあるのは、将来往生することの喜悦を表現を変えて述べられたものである。宗祖の場合、語は『法事讃』によりつつも三種の往生に三願の証果を配当し、真仮の分斉を明らかにして自ずから廃立の意図を示されているといえよう。
④三種往生分甄の意図
宗祖は三経に隠顕を見られ、また第十八・十九・二十の三願を生因願とされ、三願に真仮の分別をして如来の真意を明確にされた。三願による得失の顕著な相はその証果によって明らかとなるから、その相の相違を『法事讃』から語をかり、褒貶の意を示して分別し、第十九・二十願を廃捨して至心信楽の願によって往生することを勧め、「真仏土巻」の結びに「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」ることのないよう懇切に説示されたのである。
「悪人正機」 判決 平成七年
一、出拠
悪人正機の熟語は聖教にない。教学史上では円智の 『歎異抄私記』 (一六六二刊) に 「大悲のおこりは、鈍根重障の衆生を救はんがための願なるがゆへに、悪人をもて願の正機とす」 の語が見られ、熟語としては寿国の 『歎異鈔可笑記』 (一七四〇刊) に 「善人だにとは、大悲に約するとき悪人正機と為す」が初見である。したがっていまその義を示すものを見るならば、「化巻」三経隠顕釈に「言汝是凡夫心想羸劣 則是彰為悪人往生機也」といい、次下に「言若仏滅後諸衆生等 即是未来衆生顕為往生正機也」といって、韋提希および未来世の悪人が往生の正機であることを明されている。
『愚禿鈔』巻上には機について「浄土の傍機」「浄土の正機」と分別してある。また悪人正機の義を明確に示された法語としては『歎異抄』 に「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」 (第一章)、「願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば」 (第三章)、「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけり」 (第九章)等とある。その他「総序」の文、「信巻」逆謗摂取釈、『口伝鈔』等に悪人正機の義意がある。
一、義相
① 悪人・正機の意味
『愚禿鈔』巻上に善機・悪機と分別し傍機・正機の別をされる祖意からすれば、悪人は善人に対する語であり、正機も傍機に対するものであるから、悪人正機の語は善人傍機の対語として理解すべきであろう。すなわちここの悪人は相対悪であって、絶対悪ではない。『愚禿鈔』に「悪機について七種あり」として十悪、四重、破見、破戒、五逆、謗法、闡提を出す。いわゆる十悪・五逆・謗法の人、仏法の規範に照らして悪人と裁定せられるもののことで、表面的には自覚的悪人の意ではない。また善機として定散二機があげられているから、この悪人には定散二善の機は含まれないとせねばならない。概説すれば、聖道門ならびに要門・真門の行にもれたものを悪人という。
機は『法華玄義』 の微・関・宜の三義をもって釈されるように、仏の教法をうけて救われるべきもの、すなわち救済の対象のことで、いわゆる所被の機である。故に悪人正機とは、十悪・五逆・謗法の悪人こそ、本願が正所被とする、の意である。
『歎異抄』 の 「他力をたのむ悪人、もとも往生の正因なり」 の正因を正機と解し、この語をもって悪人正機の根拠とするのは問題がある。これは他力をたのむ (心) が、往生の正因というので、信心正因をいっているのである。
② 悪人正機の伝承について
悪人を正機とす本源は本願にある。しかし十方衆生とよびかけながら、唯除逆謗といい、またそれと十悪五逆の救済を説く『観経』下々品との矛盾する説相に、願意を開顕されたのが曇鷲大師・善導大師の功績であった。『論註』は、八番問答において五逆の人は「不誹謗正法信仏因縁皆得往生」とし、謗法の人は「以誹謗正法罪極重故 又正法者即是仏法此愚癡人既生誹謗安有願生仏土之理」といい、謗法は極重であること、また謗法の人には願生心がないから、不生とされる。このことは言外に謗法のものも廻心願生すれば、往生を可とする。「散善義」は、唯除逆謗は抑止門に解し、下々品の五逆は既造の故に大悲を発して摂取する。謗法は未造の故に抑止すると解し、『法事讃』 では「謗法闡提回心皆往」と釈すのである。
源信和尚は『往生要集』 に 「極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽」とのべ、法然上人は『選択集』 に『遊心安楽道』 の 「浄土宗の意は、もと凡夫の為にして、兼ねて聖人の為なり」の文を引き、また 「下品下生は是五逆重罪の人なり。而るに能く逆罪を除滅すること、余行の堪へざる所なり。唯念佛の力のみ有りて、能く重罪を滅するに堪へたり。故に極悪最下の人の為に極善最上の法を説く」という。『口伝鈔』 には、「五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まったく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。……これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もっばら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべしと仰せごとありき」と本願の上に悪人正機の意を述べている。
③ 逆謗除取と悪人正機
宗祖は「信巻」未に 『大経』 『観経』 『涅槃経』における五逆・謗法・闡提のいわゆる難化の三機の除取をとりあげ、前掲の 『論註』 の八番問答、「散善義」 『法事讃』を引用される。その意を『尊号真像銘文』 に 「唯除といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしと知らせんとなり」といわれる。すなわち「唯除」とあるのは、五逆と謗法が極重罪であることを知らし、速やかに回心させて逆謗ともに救済しようという如来大悲の表現とされたのである。すなわち唯除の語は「特哀」 の義で、極重の悪人を救済の正機とする仏意を示しているのである。
④ 悪人正機に関する諸説
悪人正機は本願所被の機を明かすものではなく、受法によって自己の生得の相を信知する、すなわち機の深心と解釈する立場もある。また歴史家の中には悪人を、あるものは親鸞にしたがう為政者にとっての被支配者層とし、あるいは農民階級とする。また殺人を職とする武士層とし、あるものは商取引を悪とする時代の商人層とする説がある。これら史家の所説は単純な論旨ではないが、悪人をそのように限定して本願の正機とすることは、宗祖教義の上からは容認できるものではない。
平成六年判決
平成六年度 安居 二種深信
判決
一、 題意
二種深信の釈義を窺い、他力信心の心相が捨機即託法の二種一具である旨を明らかにする。
二、 出拠
『散善義』の深心釈に
「二者深心。言深心者、即是深信之心也。亦有二種。一者決定深信自身現是罪悪生死凡夫、曠劫已来、常没常流轉、無有出離之縁。二者決定深信彼阿弥陀仏四十八願、摂受衆生、無疑無慮、乗彼願力、定得往生(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-五三四)
と示され、『礼讃』前序の文に
二者深心、即是真実信心。信知自身是具足煩悩凡夫、善根薄少、流転三界、不出火宅。今信知弥陀本弘誓願、及称名号、下至十声・一声等定得往生。乃至一念、無有疑心、故名深心
(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-六四九)
と示されるものが正しき出拠である。
三、 釈名
「二種」とは機法の二種であり、機とは衆生性得の機(衆生本分の機)、機実即ち機の「無有出離之縁」をいい、法とは「摂受衆生」の法をいい、具体的には本願名号を指す。
「深信」とは善導大師が、『観経』の三心中の第二の深心を釈された言葉で、聖道門の諸師が、深心を慇至の心、あるいは仏果の深高と深理を体として自己の深厚なる善根によって生ずる心という聖者の心と解釈したのに対して、凡夫所発の深信の心と解釈されたものである。
なお、宗祖は、「化身土文類」本において「対諸機浅信故言深也」(真聖典、真聖全Ⅱ-一五四)と示されているので、「深」の語によって如来廻向の信たることが顕されているのである。
四、 釈義
①本願の三信と『観経』の三心
本願の三信とは至心・信楽・欲生であり、『観経』の三心とは至誠心・深心・回向発願心である。両者の関係については、善導大師の上には直接言及されているところはないが、義は同一の心とされてある。この点、法然上人においては、『漢語灯録』観経釈や『西方指南鈔』巻下末「要義問答」等によると、同一の心と示されている。
宗祖にあっては、「化身土文類」本に「二経三心、将談一異。応善思量也。大経観経依顕義異、依彰義一也。可知。」(真聖典、真聖全Ⅱ-一四八)と示されるように、観経には隠顕の二義ありとし、「三心」については、顕説の義によれば異であり、隠彰義によると両者は一致するとする。この点に関しては、「化身土文類」『略文類』『愚禿鈔』等によっても明らかである。従って『観経』の二種深信の釈とは本願の信楽すなわち疑蓋無雑の一心の釈であることが知れるのである。
②善導大師の両処の釈義とその異同
1.『散善義』では深心を「深信の心」と示し、『礼讃』では「真実信心」と示す。これは『観経』の深心を、『観経疏』は古今楷定の経釈として「深心の心」とし、『礼讃』は行儀の書として直に真実信心として、両書共に往生浄土門の安心の特色を示す。
2.『散善義』では「一者…二者…」と分けるが、『礼讃』では分けてはいない。しかし、「信知」が二度用いられている。
3.『散善義』では「決定深信~」と示し、礼讃では「信知~」と示し、用語は異なるが、意は同じ。
4.『散善義』では信機について罪悪のみが明かされるが、『礼讃』においては、「善根薄少」と善根が出される。しかし『散善義』では「無有出離之縁」とあり、『礼讃』では「流転三界、不出火宅」とあり、意は同じで、表現の広狭の違いである。『礼讃』の意は、善根があっても出離の業因にならぬとの意であり、両者は自力無功を明かしているのである。
5.『散善義』の信法では願力乗託往生、『礼讃』の信法では念仏往生と示されているが、両者は別なることではない。
6.『散善義』では七深信が示されているが、後の五深信は、信法におさまるので、二種深信と七種深信の違いは広略の相違と見ることができる。
③宗祖の釈相
宗祖は「信文類」に七深信中の六深信を連引し、「化身土文類」に第三観経深信と第七決定建立自心を、真門釈に第四弥陀経深信を引用される。
これは、『観経』・『小経』の隠彰義では他力信となるが、顕説では自力信となるのであり、「化身土文類」の引意は『観経』・『小経』の顕説の深信の取り扱いである。また、「建立自心」は自力建立の自力信と見るのが文に親しい。
次に『愚禿鈔』(真聖典、真聖全Ⅱ-四六七)に、第一・第二の深信を併記して「今斯深信者、他力至極之金剛心、一乗無上之真実信海也」とし、ついで「按文意」として七深信の名のもとにこれを連記される。その第一について「自利信心也」とし、第二について「利他信海也」とされる。
即ち機法二種一具なれば他力信心であり、宝の深信単立も他力信心であるが、機の深信単立は自力信であると示されるわけである。単に機の深信のみであることは、行者が自己において自己の罪業を無有出離と認知することであるから自力信である。法の深信とは「四十八願摂受衆生乗彼願力」であって、この中に衆生性徳の罪業は見極められているので法の深信は他力信心である。如来が無有出離之縁なれどもと仰告し給うを深信する辺を別出明示して機の深信とする。罪重の根機である我らごとき者は摂取に洩れると畏れることは本願を疑うことになるので、機の深信を別出して、汝ごときの悪機こそ本願の正機であるぞと、浄土門の義を明らかにされたのである。故に二種併記の段に「他力至極」、「一乗無上」等の讃徳の語を具さにして示されるのである。
④二種一具の相状
信機・信法の二種深信は、『愚禿鈔』に「今斯深信者他力至極之金剛心、一乗無上之真実信海也」と結ばれるように、他力至極の金剛心そのものを表顕されたものであり、二種に開かれたのは凡夫救済の大信海の内実に即応するのである。ここに、信心の上での古今楷定の妙旨を窺うことができる。信機とは過去・現在・未来の三世に亘って「無有出離」の機実を如来の仰せによって信知するのであり、換言すれば、自己の能力による出離の為の善根功徳が役に立たないことの信知、すなわち自力無功の信知であり、それは機のはからいを捨てる捨機に外ならず、自己の能力にたよろうとする心即ち自力心を捨てるという捨自である。
一方、信法とは、願力乗託往生と信知する他力全託であり、これはまた託法・帰他ということである。
そこで二種の関係は捨機がそのまま託法であり、捨自はそのまま帰他である。また従来「明来闇去の譬喩」で示されるように信機・信法は前後起でもなく、二心並起でもなく、二種一具の信心である。
このことは二種一具の相状の初めにも述べたように本願の信楽一心を信機・信法の二種に分けて釈したものだからである。
なお、二種深信が「一者~二者~」と前後するのは、先哲が「説必次第法在一念」と述べるように、表現上の前後によるのである。
その他、信機の内容である性得の機は信前信後一貫不変であり、信後に信機無しとするのは誤りである。また、二河譬の三定死は発遣招喚の声を聞く以前であって、信法がないから自力による信機、信罪福の分斉であって、今の二種深信とは区別すべきであることを付け加えておく。
平成六年度 安居 転教口称
判決
一、 題意
善導大師の『観経』下々品にたいする釈義を窺い、宗祖の口称本願の説示が、称名正因を示すものでないことを明らかにする。
二、 出拠
『散善義』の下品下生釈七科の第四(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-五五五)に
四従「如此愚人」下至「生死之罪」已来、正明聞法念仏得蒙現益。即有其十。一明重牒造悪之人。二明命延不久。三明臨終遇善知識。四明善人安慰、教令念仏。五明罪人死苦来逼、無由得念仏名。六明善友知苦失念、転教口称弥陀名号。
とあるのが正しき出拠である。
三、 釈名
「転」とは、回転の義で、此より彼に移って展転すること。
「教」とは、暁諭・転換の義で、その分斉は「聖人被下之言」(法華玄義・一・上)と言われるように、仏または聖者が衆生を教化する言説をいう。
「口称」とは、口業に称することで、観念・心念等に対する言葉である。
それ故「転教口称」とは、善知識が下々品の悪機に妙法を暁諭するが、苦に逼められて失念して領解できず、ために教を転じて口称せしめることを云う。
四、 釈義
①『観経』下々品の説示と相承の釈義
『観経』の下々品は、一生造悪の愚人が、命終に臨んで善知識の妙法を説いて念仏せしむるに遇い、念仏しようとするも、苦に逼められて念仏できず、ために、善知識は教えを転じて口称せしめ、下々品の機類は十念して、ただちに阿弥陀仏の浄土に往生することができたと説いている。
この『観経』の説示を受けて、曇鸞大師は、『論註』上巻八番問答の第六問答(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-三〇九~三一〇)において三在釈を施して十念得生の理由を明らかにする。その中の在心釈では「此十念者依善知識方便安慰聞実相法生」と示し、在縁釈では「此十念者依止無上信心、依阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳名号生」と述べて、「実相法」と「名号」を提示してある。
道綽禅師は『安楽集』第二大門の第三問答に前掲の『論註』の文を引用する。両師のいう「善知識方便安慰聞実相法」は、大体、転教後の事態として説かれているようである。
源信僧都の『往生要集』大文第九に「往生諸行」を明かして「求極楽者不必専念仏須明余行任各楽欲」(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-八八三)と述べて、その「余行」を諸経から引用して示す中に、『観経』の上々品から下々品までを略出し、下々品については、「下品下生者、…中略…臨命終時遇善知識、雖不念仏、但至心令声不絶、具足十念称南無無量寿仏、…下略…」(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-八八七)と示されていて、転経後の事態の明示が主となっている。
法然上人の『選択集』第十一讃歎念仏章の御私釈(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-九七三)に下々品に触れる所はあるが、転教後の特色について論述し、転教そのものを問題としてはいない。
②『観経』下々品にたいする諸師の釈義
善導大師以前の聖道諸師の釈疏には下品下生における転教についての詳釈を見ることはできないが、元照法師(一〇四八~一一一六)の『観無量寿経義疏』(大正・三七・三〇四b)では転教前の教を観念、転教後の教を口称とされている。法聡法師(-八一七頃)の『観無量寿経記』(浄全・五)にも転教前を観想とし、転教後を称名としているが、その称名は転教前の観想を成ぜんためとしている。
その他、浄土異流では、鎮西派良忠上人の『観経散善義伝通記』(浄全・二)に、転教前の教を仏の十力光明神力五分法身等の妙功徳を説いて仏名を念ぜしめる「広教」とし、転教後の教を直ちに称名せしめる「略教」としている。西山派の顕意上人は、『観経散善義楷定記』(西全・七)に、転教前の教は仏名を心に念ずる(難)とし、転教後の教は仏名を口に称する(易)としている。但し、難を転じて易を教えるという点からすると、転教前の教を観念と見ても妨げなしとも論じている。
③宗祖の釈義
宗祖は『唯信鈔文意』(真聖典、真聖全Ⅱ-六三七、異本 真聖全Ⅱ-六五三)において、
「汝若不能念者」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を称念(但し、異本専修寺蔵・「称」字なし)したてまつらずば、ただくちに南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへるみのりなり。これは口称を本願とちかひたまへるをあらはさんとなり
と、汝若不能念者の句に転教の契機を見る意を示されている。ここに「こころに弥陀を念じたてまつらずば」(異本)とあるものは、教は真実法たる弘願念仏であるけれども、機の聞損によるが故であると考えることができる。転教後の教が弘願念仏であることは云うまでもない。
『三経往生文類』(広本・異本)に、下々品の往生も含めて九品往生すべてを雙樹林下往生と規定する立場からすると、転教後の教も方便法であると云わざるをえない。
云うまでもなく『観経』には隠顕の両義があり、顕説義よりすれば、転教後の教も方便法である。『往生要集』大文第九「往生諸行」の釈および宗祖の『三経往生文類』の説示がそれである。転教口称の意義は『観経』隠彰義に基づくものであり、相承の釈の殆ど、及び宗祖の『唯信鈔文意』の釈も、当然転教後の教を真実法たる弘願念仏としておられる。転教前の教については、相承の釈及び宗祖の釈において、方便法の扱いと弘願法の扱いとがあるが、『論註』八番問答の釈よりすると、転教前の教も弘願法と見るべきである。
『経』に示す転教前の法「種種安慰 為説妙法」(真聖典、真聖全Ⅰ-六五)を弘願法ではないとする説には、弘願法より外に苦者を安慰する妙法があるとする失がある。又、『論註』がこの経語を「方便安慰 聞実相法」と置き換えて名号実相法とする義に背く。又、臨終苦逼の者に心念観想を勧めることは酷であって道理に合わない。更に『観経』の従仮入真の説きぶりから見れば、下中品で説かれた「弥陀の功徳、名号」から下々品に至って教が仮の方に向かい、入真の方向でないという失がおこることになる。
結んで云えば、転教前の教自体は弘願念仏の法であるが、行者の機執によって聞損し、自力の真実心を以て称名念仏するものと領解して、それが出来ないでいる自体を看取した善知識が、機功を募らない他力の念仏を勧めて、「自心に心をかけず、ただ口に称名念仏すべし」と教相を転じたものであり、教意は転教の前後共に弘願念仏である。
④宗祖の口称本願と説示する意趣
前掲の『唯信鈔文意』に「これは口称を本願とちかひたまへるをあらはさん」と云われる口称本願の説示は、転教後の教について云われたものである。この口称は当然弘願念仏であるから、口称本願とは名号願力の超越性を口称を以て示されているので、称功を募る称名正因を示されたものでないことを留意すべきである。
平成六年度 安居 古今楷定
判決
一、 題意
善導大師の『観経』理解における古今楷定の釈功について、経教・因行・信・証の楷定の釈義を窺い、大師が浄土門の教学を確立された大功を明らかにする。
二、 出拠
大師の主著『観経疏』跋文 (真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-五五九)に、本疏の製作について、
某今欲出此『観経』要義、楷定古今
と敘べられるものが正しき出拠である。
またそのために結願して、その当夜の夢中に浄土の荘厳と諸仏・菩薩の霊相を感得し、夢覚めて、
覚已不勝欣喜。於即條録義門。自此已後、毎夜夢中、常有一僧、而来指授玄義科文。既了更不復見
(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-五六〇)
と記述される中の義門及び玄義の科文が、その具体的な楷定の内容である。
三、 釈名
○「古」とは、大師以前に『観経』を解釈した浄影・天台・嘉祥等の諸師を指す。
○「今」とは、これら諸師の解釈を伝承する人々の中の大師と同時代の人々を指す。
○「楷」とは、模・規の義であり、手本・則・様式・法式のことである。
なお、ただし・なおし(直)の形容詞の用法もある。
○「定」とは、決定の義である。
従って「楷定」とは模楷決定の義である。
○合釈せば、「古今楷定」とは、古今の学者の『観経』解釈の謬解に対して、『観経』解釈の正しい方式を決定するという意味である。
四、 義相
①経教に関する楷定
1、所立浄土門。大師教学の立脚地を示すもので、『帰三宝偈』に「今乗二尊教 広開浄土門」と示されるものが出拠であり、諸師が聖道の伝統の上に立って『観経』を見るのに対して、大師にあっては、大師の師である道綽禅師によって示された聖浄二門判に基づく浄土門に立っていることの宣言であり、ここに楷定の原点がある。
2、依経不依論
出拠は『玄義分』和会門第五「会通別時意」(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-四五六)に
未審、今時一切行者、不知何意、凡小之論乃加信受、諸仏誠言返将妄語。…乃至…傷今世錯信仏語、不可執菩薩論以為指南。若依此執者、即是自失悞他也
とあるもので、直接の所破の対象は通論家の主張に対するが、広く古今の諸師をも含むものであり、これも楷定の原点に属するものであり、経教に関しては『玄義分』に示される釈迦教要門・弥陀経弘願の二尊二教や一経二宗の楷定を示される所に、その特徴を見ることができる。
3、一経両宗
出拠は『玄義分』宗旨門に
今此『観経』即以観仏三昧為宗、亦以念仏三昧為宗(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-四四六)
と示されるもので、聖道の諸師が、『観経』正宗分の十六観を中心とする観仏三昧を宗とすることを破して、口称念仏による念仏三昧をも明かすものであるとして、為凡の経であると楷定する。
4、菩薩蔵・頓教
『玄義分』宗旨門に教法の大小を判じて
今此『観経』菩薩蔵収、頓教摂 (真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-四四六)
と示すもので、浄影寺慧遠も菩薩蔵・頓教であるとしているが、観仏三昧を宗とする立場と、大師の一経両宗とする為凡の経とするものとは、他の大師の楷定と関連せしめると自らその違いが明白となる。
5、為凡の経
『玄義分』和会門第三「返対破」に
但此『観経』仏為凡説、不于聖也 (真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-四五二)
等を始めとして本疏の各処に同旨の主張がなされているものが、その出拠である。これは諸師が『観経』の九品について聖者とするに対して凡夫説をもってするもので、『観経』の説示そのものをもって楷定されるものである。このことは十六観に対する前十三観韋提致請・後三観釈尊自開、韋提実凡・因行の楷定へと展開されて行くものである。
②因行に関する楷定
(イ)『玄義分』和会門第五「会通別時意」に
今此『観経』中十声称仏、即有十願・十行具足。云何具足。言南無者即是帰命、亦是発願廻向之義。言阿弥陀仏者、即是其行。以斯義故必得往生 (真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-四五七)
(ロ)『散善義』上品上生釈の深心釈「就行立信」に、開列五正行と合門助正二行を示して、
然行有二種。一者正行、二者雑行。言正行者、専依往生経行行者、是名正行。何者是也。一心専読誦…乃至…一心専注思想観察憶念…乃至…一心専礼…乃至…一心専称…乃至…一心専讃歎供養…乃至…。又就此正中、復有二種。一者一心専念弥陀名号…乃至…是名正定之業。順彼仏願故。若依礼誦等、即名為助業。(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-五三七~八)
(ハ)『流通分』の「仏告阿難汝好持是語」以下を釈して、
正明付属弥陀名号、流通於遐代。上来雖説定散両門之益、望仏本願意、在衆生一向専称弥陀仏名
(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-五五八)
(ニ)『玄義分』和会門第六「会通二乗種不生義」に
一一願言、若我得仏、十方衆生、称我名号、願生我国、下至十念、若不生者、不取正覚
(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-四五七)
(本願取意の文)
等と示されるものは浄土往生の正因行を口称念仏の易行とするもので、『観経』が念仏三昧を宗とし、為凡の経とする意趣がここに詮表されているのである。今(ロ)の正行に続いて「除此正助二行已外自余行、悉名雑行」と示され、聖道諸師の主張する観念念仏は「雑行」としての地位を与えられるのである。ここに浄土往生の行業が確立されるに至ったのである。
③信に関する楷定
『散善義』上品上生釈第四(真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-五三二~五四一)に『観経』の「何等為三…具三心者必生彼国」を釈して
正明弁定三心以為正因。即有其二。一明世尊随機顕益意密難知、非仏自問自微、無由得解。二明如来還自答前三心之数。『経』言。「一者至誠心」…乃至…「二者深心」。言「深心」者、即是深信之心也…乃至…「三者廻向発願心」…乃至…三心既具、無行不成。願行既成、若不生者、無有是処也。又此三心亦通摂定善之義。応知
とあるものがその出拠である。
三心中、特に深心について、聖道の諸師が、「慇至の心」(浄影『観経義疏』)「仏果の深高と深理を体として自己の深厚なる善根より生ずる心」(伝智顗『観経疏』)と解したのに対して、凡夫所発の深信の心と解釈されたものであり、往生浄土門の安心として楷定されたものである。しかも、往生の行業と与みすることによってその行業を真に行業としての完全な効果を備えしめるものであるとするのである。
④証に関する楷定
『玄義分』和会門第六に二乗種不生の義を釈する問答の中に、
1、弥陀報仏報土
問曰。弥陀浄国為當是報是化也。答曰。是報非化 (真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-四五七)
とあるものがその出拠であり、これは証に関する所入の土についての楷定である。それは聖道の諸師が阿弥陀仏の浄土を「応土」(浄影『観経義疏』)・「凡聖同居の上品の浄土」(伝智顗『観経疏』)等と程度の低い浄土であると判じたことに対して、四十八願に酬報した「報仏」「報土」であると楷定したもので、『大乗同性経』によって詳しく報身の義を証し、『観音授記経』所説の弥陀入滅に対しては、『大品経』非化品の如化即非化の論理によって、弥陀の入滅は入即不入であり、真の入滅に非ずと楷定されるのである。
2、五乗斉入・凡夫入報説
問曰。彼仏及土、既言報者、報法高妙、小聖難階、垢障凡夫云何得入。答曰。若論衆生垢障実難欣趣、正由託仏願以作強縁、致使五乗斉入 (真聖典・七祖篇、真聖全Ⅰ-四五九)
と示されるのが出拠であり、前述の報身報土の楷定に続いて問答されているものである。前述のように阿弥陀仏の仏身仏土が高妙であれば、聖道の諸師にあっては、小聖(二乗)の得生を許さず、まして凡夫はなお更であるとする。しかし、大師は垢障の凡夫であっても、仏願に託して強縁とするから入報は可能であると楷定され、そこに『観経』が実の凡夫としての韋提希・更には末世極悪の者に対して開説されたとする真の楷定の意義が極成されると言える。
以上、楷定について基本的な項目を挙げて論ずるに止める。楷定の各項目がそれぞれ一つの教義論題として論じられて来たので、詳論はそれに譲るものである。
平成五年判決
平成五年度 安居会読判決
「指方立相」判決
一、題意
阿弥陀仏とその浄土について、経典に説かれる西方の意義と浄土の相の説意をうかがい、浄土教の本義を明らかにする。
二、出拠
①『定善義』
②『無量寿経』
③『観無量寿経』
④『阿弥陀経』
⑤『安楽集』 等
三、釈名
指方立相の釈名については、釈尊と阿弥陀仏との立場によって異なる。釈尊に約せば、「指」とは指示、「方」とは方処、「立」とは弁立、「相」とは相状である。すなわち、釈尊が西方という方処を指示して、阿弥陀仏の浄土の荘厳相を教示されていることをいう。次に阿弥陀仏に約せば、「指」とは指定、「方」とは方処、「立」とは建立、「相」とは相状である。すなわち、阿弥陀仏が、此土からいって西方という方処を指定されて浄土を建立されたということをいう。
そこで、『定善義』像観の「等唯指方立相住心而取境云々」の文は、釈尊に約して指方立相が語られてあり、『安楽集』に『大経』の法蔵発願の文を取意するなか、「法蔵菩薩願取西方成仏、今現在彼」とあるのは、弥陀に約して語られているのである。
四、義相
(一)西方の意義について
ここでいう「西方」とは、東西南北四維中の西方であって、方処を指すのである。浄土は『阿弥陀経』に「従是西方」とあるごとく、閻浮提を基点とし指示したものであり、須弥山説によって論じられたものである。よって天動説による立場である。しかし地動説を常識とする現代人にとって、従是西方をいかに理解すべきだろうか。この問題は『安楽集』に「以閻浮提云日出處名生没處名死、…中略…是故法蔵菩薩願成仏在西悲接衆生」とあるごとく、日の没する処という地理的方処に即して、宗教的方処と理解すべきである。『往生礼讃』前序に「須面向西方者最勝、如樹先傾倒必隨曲、故必有事礙不及向西方、但作向西想亦得。」とあるが、この文は西方を宗教的に受け止めることを教示しているのである。
しかるに、『浄土論』には浄土について「究竟如虚空広大無辺際」とある。また『論註』には「此浄土隨順法性不乖法本」とある。すなわち、阿弥陀仏の浄土は無相無辺と説くのである。ここに浄土について、無相無辺と西方の荘厳国土との問題がある。換言すれば、真如法性と願心荘厳の関係である。『論註』は、この問題について、真如法性を略とし、願心荘厳(三厳二十九種)を広として、広略相入を語るのである。その説明として、『論註』は略を法性法身とし、広を方便法身として、いわゆる由生由出、不一不異と示すのである。この釈義は、法性法身と方便法身は竪の前後でなく、横の相即を語らんとするものである。これを思うに、浄土は、無方即方、方即無方であり、無相即相、相即無相である。
ただし、方即無方、相即無相の知見は、悟りの世界の所見であり、迷界の衆生においては、但方・但相である。この迷界の衆生の但方・但相の迷見に対して、方即無方の方と、相即無相の相で応じるのが指方立相の立場である。よって衆生が但方・但相の迷見でもって、西方浄土に願生しても、その方・相が、方即無方であり、相即無相の方・相であるから、無量光明土への往生ができるのである。この論理を語るのが『論註』の氷上燃火の釈であろう。
(二)過十万億仏土の問題
『大経』には阿弥陀仏の浄土について「去此十万億刹」とあり、『小経』には「過十万億仏土」等とある。だが『観経』には、「去此不遠」といってある。『大経』『観経』には数量を示しているのは、浄土と娑婆世界の隔歴をいわんとしたものである。また十万億仏とは、釈尊全分身の教化の世界であるとの説もある。
『観経』の「去此不遠」については、「序分義」に三義を出してある。第一義は分斉についていうのである。十万億仏土といえば凡夫は遠き思いを持つが、無辺際の仏事と対比すれば遠からずであるという。第二義は距離的に遠いというが、往生する時間は一念の時であり、屈伸臂頃であり、時間的に遠からずであるという。第三義は、浄土は観見可能な所であるから遠からずと示すのである。因に、第一義は『大経』『小経』により、第二義は『観経』散善により、第三義は『観経』定善の立場よりの解釈である。
「過十万億仏土」の「過」は超過の義と通過の義があるが、いずれも此土に対する彼土を指すのである。
(三)仏国土の表現
阿弥陀仏の国土の表現については諸の経論釈に種々説くところである。『大経』は『安楽』、『観経』・『小経』は「極楽」の語が多い。しかるに宗祖の聖教の上に、宗祖の言葉としては「極楽」の語を見るのは僅かである。むしろ、意識的に使用されなかった感がある。その理由を窺うに、『小経』に「極楽」を解釈して「彼土何故名為極楽、其国衆生、無有衆苦、但受諸楽、故名極楽」とある。当時の人々のなかには、「諸の楽のみを受く」とあるのを誤解して、自己の欲望の充足の可能な世界として浄土願生の思いを持ったのではなかろうか。宗祖はこの非と、またそのような誤解をされぬためであろう。『真仏土巻』には「謹按真仏土者、仏者則是不可思議光如来、土者亦是無量光明土也。」といい切ってあるところを思念すべきである。
(四)浄土建立の意義について
『大経』に法蔵菩薩の願心を述べて「令我於世速成正覚、抜諸生死勤苦之本」とあるが、その願心の具体的発動が浄土建立である。このことについて、『安楽集』は、「為欲成就衆生故願取仏国」といい、また「法蔵菩薩願成仏在西悲接衆生」という。浄土建立の意義は、まさに衆生を成仏せしめんためである。
(五)無相離念と立相住心について
「定善義」第八像観の釈義によれば、その当時の諸師は『観経』所説の法界身を法身とみて、その経説を「唯識法身観」の立場より、または「自性清浄仏性観」の立場よりこれを解釈して、『観経』の観法を無相離念の理観を説くものとみなした。これに対して善導大師は、『観経』所説の観門は末代罪濁の凡夫を対機としているのであり、西方に荘厳成就された有相の浄土を観察する事観であるとされるのである。すなわち、無相離念の理観に対して立相住心の事観を述べるのに指方立相の語を用いたのである。よって指方立相の語が直接に出されるところは観門についてであるが、その義は広く阿弥陀仏の浄土の特色を表す言葉として用いられているのである。
指方立相の浄土こそ、凡夫の成仏のための世界である。このことを『法事讃』には、「一切仏土皆厳浄、凡夫乱想恐難生。如来別指西方国、従是超過十万億、七宝荘厳最為勝。」とある。
要するに、指方立相の阿弥陀仏の浄土こそ、大乗仏教の究極態として、大乗空の必然的展開としての真空妙有の世界である。西方有相の浄土が底級であったり、または否定して、浄土は、真如・一如・空の世界であると言い切ることは、真如や空の真実義を誤解するものである。
平成四年判決
「信願交際」 判決 平成四年
一、題 意
第十八願に信楽・欲生と誓い、同成就文に信心・願生と述成されている信と願の関係をうかがい、願は信の義別である事を明らかにし、欲生正因説を批判して、信楽正因説を明確にする。
二、出 拠
①第十八願の「至心信楽欲生我国」
②第十八願成就文「聞其名号信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国」等
③「信文類」の信楽、欲生の字訓釈や法義釈その他を出拠とする。
三、名 義
①信願交際の信とは『一念多念文意』に「信心は如来の御ちかひをききてふたここ ろのなきなり」といわれているように、本願を疑いなくききうける無疑心のこと
である。
また、『唯信鈔文意』に唯信を釈して「本願他力をたのみて自力をはなれたる、 これを唯信といふ」といわれたように、信は「たのむ」と和訓される。
②願とは「ねがう」と訓ずるように、まだ実現していないことについて、その実 現を願うことである。『論註』上に、「願生偈」の願を釈して「願は是れ欲楽
の義なり」といい、また、「願は欲楽往生に名づく」といわれたように、往生 浄土の実現を楽しみ願うことである。
なお、欲生には、第十九願、第二十願に誓われた自力の欲生と、第十八願に 誓われた他力回向の欲生とがある。如来が選捨された自力の行をもって往生を
求めるものは、臨終に来迎を感得するまで往生は定まらないから、その欲生は 不定なる往生を願い求めるという不定希求の意味をもち祈願請求の義をもつこ
とになる。
それに対して如来が選択回向された決定往生の業因たる本願の名号を領受し、 「必ず浄土へ生まれしめる」という本願招喚の勅命を疑いなく信受している第
十八願における願生・欲生は決定要期の意味をもつている。要期とは必ず実現 することを期待しているという意味である。こうして自力の欲願は不定希求で
あり、他力の欲願は決定要期であって、言同意別というべきである。ただし今 信願交際を論ずる願は、第十八願の決定要期の願をさしている。
③信願交際の交とはまじわり、関係のことであり、際とはきわ・かぎり・境界と いうことである。即ち信と願という二つの名目は、それぞれ名下の義を具にし
ていて、それぞれがその名目の適用範囲(分際)を守りながらも、両者が密接 な関係をもっていることを交際というのである。
要するに信願交際とは、第十八願における信と願の同異及び両者の関係を明 らかにすることをいう。
四、義 相
第十八願の信楽(信心) と欲生(願生) において、信は無疑を当義とし、現前の仏勅を疑いなく領受することをいい、願は決定要期を当義とし、未現前の浄土を要期する心をいう。
両者の関係について「信文類」欲生心釈には「真実の信楽を以て欲生の体とす」 といわれているように、信楽は体、欲生はその義である。即ち「至心に信楽して我が国に生まれんと欲へ」とおおせられる本願招喚の勅命を疑いなく領受した信楽には、当然「彼の国に生まれることができると欲う」心がある。 このように第十八願の信楽という名目には、欲生という義意がそなわっている。その義を別出したのが欲生であるから、欲生は信楽の義別であり、信楽は欲生の体であるというのである。
言い換えれば、欲生といっても信楽の外に別体があるのではなく、信楽にそなわっている当果を要期する義なのである。宗祖が『散善義』の回向発願心釈を「信文類」に引用し、如来回向の願を信受する深心にそなわっている「必ず往生を得る」という「得生の想ひ」を回向発願心とみなされたのはその意をあらわしている。
このように信と願とは、体と義の関係にあるから、往生成仏の因は体の信楽で語るべきであつて、義別の欲生や願生で語るべきではない。なぜならば信楽は現前の仏勅に疑いはれ、本願の名号を領受する受法の当体をあらわす名目であって、往生成仏の正因の決定はこの受法の一念にあるからである。これを「報土の真因は信楽を正と為す」といわれたのである。
しかるに「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」といわれた蓮如上人の教語を誤って、それは弥陀に向かって往生させてくださいと欲求祈願する心であるとみなすものがいた。即ち「弥陀をたのむ」を欲願の意とみなし、それを三心即一の欲生といい、帰命の安心とするという願生帰命説を立てたのである、
しかし、これは明らかにあやまちであって、「たのむ」とは、「本願他力をたのみて自力をはなれた」信楽の和訓であって、欲生の和訓ではない。蓮如上人も「たのむ」と「ねがう」とは明確に区別し「ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来なり」といい、「ねがう」は未現前の浄土に対してのみ用い阿弥陀仏に対して用いられることは決してない。それに対して「たのむ」は現前の阿弥陀仏、即ち「おさめ、たすけ、すくう」の勅命を領受する信順の心相として用いられている。従って「帰命」を「たのむ」とおおせられたのは信楽をあらわしており、三心はこの信楽一心におさまるのであって、欲生で三心即一を語ったり、帰命を語ることはない。
ところで、聖教には上述のように本願の三心中の信楽と欲生を体と義に分けてあらわされる場合のほかに、三心即一の信楽のことを願生といわれる場合がある。二河譬に、白道を「能く清浄願往生の心を生ずるに譬ふるなり」といわれたものがそれで、宗祖は『愚禿鈔』下に釈して「無上の信心、金剛の真心を発起するなり、斯れは如来回向の信楽也」といわれている。このように信楽を願生といいあらわされたのは、本願の信心が、聖道門で語るような此土入聖の信心ではなく、彼土に於いて証果を期する浄土願生の信心であることを強調するためであって、往生成仏の正因を談ずる法相ではない。
かくて本願及び成就文における信楽と欲生、信心と願生は、体一義別の関係にあり、機受の極要は現前の仏勅を信受する信楽であって、これをもって正因を語るというのが浄土真宗の信心正因説である。
「要集三例」 判決 平成四年
一、題 意
法然上人が『往生要集』の法義を領解するための釈例として、広、略、要の三例を立
て、源信和尚の本意は、要例の但念仏往生義を顕すにあったといわれた祖意を論究する。
二、出 拠
『往生要集釈』 (古本『漢語灯録』所収) に「此の往生要集に就いて、広と略 と要とあり」といい、詳釈された文がそれである。
三、釈 名
要集とは『往生要集』であり、三例とは広、略、要の三種の釈例をいう。
広とは、広博のことで、「此の一部三巻に序正流通あり、厭離等の十門を束ねて以て広と名づく」といわれたように、『要集』一部全体に広説されている法義を通釈する釈例をいう。
略とは、省略、簡略の義で、総結要行釈下に上来所説の多くの往生行の中から、重要な行業として七法を選び取り、一部の法義を念仏を中心にした七法として略説されたとみなす釈例をいう。
要とは、肝要、主要の義で、「念仏一行に約して勧進する文」を『要集』の中で最も重要な中心となる法義とみなす釈例をいう。観察門下の一心称念や、大文第八念仏証拠の第十八願の乃至十念、観経下々品の称名、往生階位釈下の三心具足の専修念仏などがそれである。
要するに、『要集』一部の法義の肝要を釈顕するために、広から略へ、略から要へと集約していくような釈例をいうのである。
四、義 相
広例とは『要集』の大文第一厭離穢土から、大文第十問答料簡に至る十門全体を通観したときの法義であって、このときは観相念仏を顕す書の如く見える。即ち一部の中心は大文第四正修念仏であり、そこには五念門が明されるが、その中で正しく念仏を明すのは第四観察門である。そこには別相、総相等の観念仏と、観念不堪の機に勧められた称名とがあるが、観勝称劣の筆格で示されていて、明ちかに観念仏が集主の本意であるかの如く見える。故に次の大文第五助念方法の初には「万術観念を助けて往生の大事を成せ」といい、「助念方法」の所助を観念とされているのである。
次に畧例とは、助念方法の第七總結要行に示された七法の法義をさす。即ち上来述べてきた諸門に明す諸の行業の中大菩提心、護三業、深信、至誠、常、念仏、随願の七法を以て往生の要行とするといわれたものがそれである。菩提心と念仏は正修念仏中の作願門と観察門、護三業は助念方法中の止悪修善門、深信と至誠と随願とは、修行相貌中の至誠心、深信、回向発願心、常は四修中の無間修によって立てたものである。その中護三業ほ止善であり、称念仏は行善であり、深信と至誠心と回願心は、念仏能修の心であり、常念は、その修相であり、菩提心はこの止作二善を扶助していく。その止善は作善を助けていくから、要するにこの七法は、念仏を中心として、それを扶助するという性格をもっている。そのことを「往生の業は念仏を本とす」といわれたのである。本とは根本であり、主となるものということであるが、ここでは念仏を主として、他の六法がそれを扶助して往生の業因を成ずるという助念仏の法義をあらわすための名目となっている。
ところで畧例の念仏は観察門の念仏であるといわれるが、そこには観念仏と称名念仏とが説かれている。従って畧例の念仏も観称に通ずるとみるのが通例であるが、法然上人は、次下に「称念仏は是れ行善」といわれたのを文証として称名に限定し、称名中心の助念仏が畧例であるとされた。これは『要集』が観念中心の天台浄土教から、称名中心の善導流の専修念仏への重要な橋渡しの役割をはたしていることを畧例の中に読みとろうとされたからであろう。
次に要例とは、念仏の一行に約して勧進する文をさす。観察門に別相、總相、雑畧等の観念を明かした後に「若し相好を観念するに堪えざることあらば、或は帰命の想に依り、或は引攝の想に依り、或は往生の想に依りて一心に称念すべし」と観念不堪の機のために称名が勧められている。これを広例では観勝称劣の故に観念を勧める文としたが、要例の立場では難易相対して、難行の観念よりも、易行の称名を肝要の行として勧めた文とみるのである。即ち機の堪不に約して、難易廃立し、易行を勧めることを集主の本意とみなされるわけである。
法然上人によれば『要集』所説の観念と称念には、勝劣と難易の二義が立つが、今集は、「勝劣によって先づ観念を勧むといへども、難易に約しては専ら称念を勧む。しかるに此集の意、始より終わりに至るまで、難をすてて易を取る」といわれる。即ち序に顕密事理の行に堪ええない予が如き頑魯の者のために「念仏の一門に依りて聊かに経論の要文を集す。之を披き之を修するに覚し易く行じ易し」と、易行の念仏を説く書であるされているのであるから『要集』所説の法義の肝要は、易行の称名一行にあるとすべきである。従って畧例の助念仏も「此の集の正意には非ず」といい、その証拠として止悪修善の中に念仏に滅罪の徳のあることを明して「如説に念仏せぱ、必ずしも持戒等を具すべからず」といわれたように、如実の念仏には助業を必要としないからであるといれれている。かくて『要集』の広例、略例は業主の本意ではなく、ただ要例の称名一行の専修のみが本意であると決択されるわけでる。
また、法然上人は『要集』 の要例の念仏は、単に易行というに止まらず、如来随自意の行であり、菩薩の尽理の真実行であるということを、念仏証拠門の三番の問答の中にある難行易行対、少分多分対、因明直弁対、自説不自説対、摂取不摂取対、如来随機四依理尽対の六義を以て証明し、諸行と称名、観仏と称名のなかで称名こそ「此集の本意也」と決択されている。さらに往生階位の釈からみれば、要例の念仏は報土の因であり、道綽、善導流の専修念仏であるとして『要集』の本意は善導大師の専修念仏に帰するとみなされている。
なおこの広、畧、要の三例を、法然上人の『大経釈』の三輩釈における、但念仏、助念仏、但諸行(諸行往生)の三義と対望すると、但念仏は要例、助念仏は畧例にあたる。しかし但諸行(諸行往生)は、直ちに広例にあたらない。『要集』の広例は正修念仏門をさしていて、大文第九の諸行往生ではないからである。但し定善観法を所廃の行として自力諸行と同致させる辺からいえば、但諸行を広例に摂することもできる。
また、『大経釈』の廃立、助正、各立三品の三義と『選択集』三輩章の廃立、助正、傍正の三義とは同義であるが、それと広略要の三例とを対照すると、廃立と要例、助正と畧例は同致する。特に異類の助業は『要集』に依られたものである。但し傍正の正は要例にあたり、傍は諸行往生であるから、自づから広例に同致するとみることができる。なお諸行と念仏を傍正とするのは『要集』の筆格に准じたものであろう。
「一心五念」 判決 平成四年
一、題意
『浄土論』に説かれた一心と五念門との関係を明らかにし、天親菩薩が宣布された
一心は、五念二利の行徳を円具した広大無碍の信心であって、よく往生成仏の正因と
なるという義理を明らかにし、同時に五念門が弘願行者の相続行となる義意について
論究する。
二、出拠
①浄土論の長行
②論註
③礼讃、前序の起行門
④往生要集・第四正修念仏門
⑤入出二門偈等を出拠とする。
三、釈名
①一心
浄土論の冒頭に述べられた一心は、無二心・無疑心であるから信心の異名である。
②五念門
五念門の五とは礼拝、讃嘆、作願、観察、回向の五種をいい、次いでの如く身業、口業、意業、智業、方便智業である。それらはいづれも阿弥陀仏を一心に憶念する行業であるから五念という、即ち五種の念仏行ということである。門とは入出の義であって、入は自利行、出は衆生攝化に出づる利他行のことである。五念門は前四念は入功徳を、第五行は出功徳をあらわしている。すなわち五種の念仏行が入出自利利他の徳義をもっていることを五念門といったのである。
四、義相
①『浄土論』の一心五念
『浄土論』の長行の初めに、願生偈の大意を、如来浄土を観見することによって願生の信心を成就することを明かす偈であるといい、次下に作願、観察、即ち止観を中心とした五念二利の行によって往生成仏の因たる信心が成就していくありさまを詳釈される。即ち五念二利の行を成就することによって菩提に違する心を遠離し、菩提に順ずる心を成就するが、それは智慧心、方便心、無障心であり、無染清浄心安清浄心、楽清浄心である。それを一句に総摂して妙楽勝真心という。それは仏を縁じて生ずる心であり、不顛倒、不虚偽の徳をもち、如来、浄土の徳にかなった往生成仏の因である。この妙楽勝真心が起観生信の信であり、偈頌のはじめの一心である。こうして五念によって一心を成じ、一心に五念の行徳を具することがわかる。
②『論註』
『論註』は『浄土論』を難行に対する易行道を明かす『論』であるとすることにって、五念門釈に二つの傾向が見られる。第一は凡夫所修の易行と見る傾向である。讃嘆門釈の三不信をはなれた一心をもって行ずる如実讃嘆の称名の如きがそれで、この立場の五念門は、三願的証に於いて、第十八願の十念念仏に収約されていく。この立場を継承して称名一行の専修を強調するのが道綽、善導である。
第二は『浄土論』の文脈に従って止観中心の菩薩の二利行として見ていく立場である。しかし最後に衆生は五念二利の行によって速やかに無上菩提を得るが、それは実は阿弥陀仏を増上縁とし、如来の利他の本願力によって成就せしめられるものであると釈される。他利利他の釈がそれである。この釈を継承しその幽意を顕彰するのが宗祖の願力成就の五念門説である。
こうして『論註』は、五念門とは如来の本願他力によって成就せしめられる他力行であり、願生行者の所修としては、無疑の信心をもって讃嘆の称名を中心として行ずる易行であるとみられていたことがわかる。
③宗祖
こうした『論』『論註』の一心五念の釈意をうけて宗祖は『入出二門偈』や『教行証文類』に願力成就の五念門観を示される。即ち五念門行はもと法蔵菩薩が不可思議兆載劫にわたって修せられた行であって、それは妙楽勝真心という成仏の因種となるように成就されている。これを先哲は約本広の五念といいならわしている。その行徳は一句の本願の名号となって衆生に回向せられる。これを約本略の五念という。
衆生はその名号を聞信する一念に、如来所成の五念二利の徳を頂戴する。即ち疑いなく本願の名号を信受する一心は妙楽勝真心が回向されたもので、広大無碍の徳をもち、よく往生成仏の因種となる。これを先哲は約末体具の五念といわれている。故に「信文類」には「遇浄信を得ばこの心顛倒せず、虚偽ならず」といい、「証文類」には「広大無碍の一心」といわれたのである。このような五念円具の信心が相続していくとき、自ら行者の三業に礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門の行相として発動していく。これを約末相発の五念といいならわしている。それはしかし如来所修の五念門がそのまま顕発するのではなくて、南無阿弥陀仏が身業にあらわれたのが礼拝であり、口業にあらわれたのが、讃嘆であり、意業にあらわれたのが作願であり、願力を心に思い浮かべてよろこぶ観察であり、自信教人信していく回向門となるのである。
それは『安心決定鈔』に「称礼念すれども自の行にはあらず、ただこれ阿弥陀仏の
行を行ずるなり」といわれる如き他力相続の三業五念の行である。但し五念門で相続を語る先哲の中には、五行に助正を見ないという人と、五行は行徳には差異はないが行相には自ら差があって選択の行たる称名(讃嘆門)が中心になるという人とがある。後義が親しいと考えられる。
⑥『礼讃』
『礼讃』前序に、安心、起行、作業の三門をもって浄土教の信心と行業が明かされるが、その起行門に『浄土論』に依って五念門が示されている。但し順序が礼拝、讃嘆、観察、作願、回向の次第となっており、また讃嘆門では称名が省略されて、広讃のみが明かされている。観察、作願の次第に変更されたのは、一つは止観の行としての性格を改めたものであり、二つには作願、回向とすることによって、発願回向と組み合わせ、所作の善根を回向して自他共に往生を願うという形をとる。三つには讃嘆門中にあった称名は、安心門にまわして、深心の所信の行とし、起行の五念門は、念仏往生の信心の相続相として念仏の助業として位置づけられる。「五門相続助三因」というものがそれである。そして『礼讃』の場合は、づづいて明かされる宗教儀礼の教義的根拠を示されたものといえよう。
⑤『往生要集』
『往生要集』の第四正修念仏門は五念門によって明かされている。しかしその作願門に於いて菩提心を明かし、観察門に於いて別相、総相の観を明かすものは、天台浄土教の伝統に依っている。しかも観察門下で、観念不堪の機に対して、三想に依って称念するという一心に称名が明かされるところに独自性がみられる。
『往 生 意 義』 判 決 平成四年
一、題 意
宗祖は、「証文類」に真実の証果を「難思議往生」とあらわし、往生即成仏の義意 を顕示されたが、また第十八願成就文の「即得往生」を、現生正定聚と釈顕されてい る。
そこで宗祖が往生をどのように領解されているかを論究し、また往生についての異論 を検討し批判する。
二、出 拠
①『証文類』
②『一念多念文意』
③『口伝鈔』
④その他『論註』上巻の願生問答、下巻の釈疑生信等を出拠とする。
三、釈 名
往生の往とは来に対する言葉で、さきに向かって「ゆく」ことをいう。生は死に対する言葉で、新しい境界に生れでることをいう。即ち往生とは、新しい境界にゆき生まれることである。第十八願に「願生我国」といわれるように、有漏の穢身が死に、迷いの境界から無漏無生の境界である阿弥陀仏の安楽浄土に往き生まれることを往生という。なおそれとは異なった往生の用法も考えられるが、それは義相に於いて検討する。
四、義 相
①難思議往生
「証文類」のはじめに、必至滅度の願によって回向される真実の証果を難思議往生といわれている。これは第十九願諸行往生の果を雙樹林下往生、第二十願自力念仏往生の果を難思往生といい、いづれも化土往生であるのに対して、第十八願他力念仏往生、即ち真実の行信の果徳である真実報土の往生をあらわす名目である。それは仏願難思の利益であり、因人の思議を超えた無上涅槃を超証する生即無生、往生即成仏の証果であるから難思議往生というのである。
生即無生ということについて『論註』上の願生問答には、天親菩薩の願生は、因縁生の義であって、空、無生の理にかなう往生であるといい、また『同』下の釈疑生信には「夫れ法性清浄にして畢竟無生なり、生というは是れ得生の者の情ならくのみ、生まことに無生なり」といわれている。これによって往生の生には、因縁生の義と得生者の情からいう生との二義が含まれていることがわかる。因縁生は法の実義について述べられたもので、空に即する仮有の辺で往生と説くことを顕わしている。得生者の情というのは、実生実滅の見をもった凡夫の情執を遮しない生ということである。即ち凡夫は実生の見をもっていても念仏すれば、現生では名号の徳によって実生の見が転ぜられ、往生すれば浄土の土徳によって見生の惑は滅せられて、無生の理にかなわしめられというのである。こうして本願には、広略相入の実相の境地である浄土に証入せしめるために、略を全じた広の辺で往生せよと誓い、凡夫は、その生を実生と執ずるが、名号の徳用によって生見を転じられて往生し、無上涅槃を証得せしめられる。これを難思議往生というのである。
②即得往生
ところで宗祖は、『一念多念文意』に第十八願成就文の「即得往生」を釈して「真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取してすてたまはぎるなり。・・・おさめとりたまふとき、すなはち日おもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを、往生をうとはのたまへるなり」といい、本願を聞信する
一念に摂取不捨の利益にあづかり、現生に於いて正定聚の位につきさだまることを「往生をう」といわれている。
この場合の「往生」の解釈に古来二説がある。一説は、往生という名目は、浄土に往生する難思議往生のことであるが、即得往生は、信一念即時に、往生すべき位につき定まるということなので現益になるというのである。故に『一念多念文意』の該当の文の「正定聚」に左訓して「わうじやうすべきみとさだまるなり」といわれたとみるのである。
第二説は、宗祖は即得往生の義意を顕わすのに、往生を当益とし、即得の語で現益とされる場合と、往生という名目自体を正定聚と同じく現益の意味で用いられる場合とがあるという。但し往生の名目を以て現益をあらわす場合には、自力疑心が死んで、摂取不捨の光益にあづかることをいうのであって、浄土へ往生することでも、滅度をさとることでもないといっている。
『愚禿鈔』上に、真実浄信心を内因、摂取不捨を外縁とし「本願を信受するは、前念命終なり、即得往生は後念即生なり」とし、これが正定聚の相であるといわれている。本願を信受することを命終といい、即得往生を即生といわれたのは、信と益とを、死と生になぞらえたものである。この文は『礼讃』に「前念に命終して、後念に即ち彼の国に生じ、長時永劫に常に法楽を受く、」といい、今生の終わりを前念命終といい、浄土に往生することを後念即生といわれたのを、信心と利益の関係として転用されたものである。もっとも法の実義からいえば信益は同時で、時間的な前後はないが、いまは論理的な前後関係をあらわす為に前念後念といわれたものである。さて本願を信受することを前念命柊といわれたのは、本願を信受して自力疑心が滅したことをいい、即得往生を後念即生といわれたのは、信心の利益として摂取不捨にあづかれば、如来の慈光中に生きるものとなるからである。覚如上人は、そのこころをうけて『最要鈔』に身命終と心命終とを分け、「迷情自力心、本願の道理をきくところにて謙敬すれば心命つくるときにてあらざるや。そのとき摂取不捨の益にもあづかり、正定聚のくらゐにもさだまれば、これを即得往生といふべし」といわれている。即ち自力心の尽きた信一念を心命終とし、そのとき摂取不捨の利益にあづかることを「往生」というとされるのである。
③体失、不体失往生
覚如上人はまた『口伝鈔』に、親鸞聖人と証空上人との間で交された体失往生と不体失往生の諍論の故事を引き、証空上人が「体失してこそ往生はとぐれ」といわれたのは諸行往生の義であり宗祖が「体失せずして往生をとぐ」と主張されたのは念仏往生の実義をあらわされたものであるといわれている。この場合体失往生とは臨終業成説をいい、不体失往生とは平生業成説をあらわしていることは文に明らかである。即ち平生に於いて往生を語るのは、現生正定聚、平生業成を強調する為であって、浄土に往生したというのではない。
現生正定聚、当来滅度という二益の法門を語るところに真宗の特色があるのであって、近来、一部の人達が言うような現生に於いて浄土に往生し、成仏するという説は宗祖の意に反するといわねばならない。
平成三年判決
「信一念義」判決 平成三年
一、出拠
『大経』本願成就文に「聞其名号信心歓喜乃至一念」とあり、その一念を釈して『信文類』末に信一念釈がある。その他『一念多念文意』、『文類聚鈔』等。
一、釈名
信とは疑蓋無雑の義、三心即一の信楽である。一とは極促、初一、初際。念は時剋。したがって信心をうるときのきわまりを意味する。この時剋釈をもって当釈とする。また、一は無二、専一の義、念は心。すなわち信心に二心、ふたごころ、疑惑のないことを顕す。この後者の釈は心相において一念を釈するもので、これを義釈という。
一、義相
『大経』には「乃至一念」の語が三ヵ所語られている。すなわち本願成就文と三輩段下輩の文と、そして付属の文とである。宗祖は付属の一念をもって行の一念と釈し、成就文の一念を信の一念と釈される。下輩の一念については、言及がない。いま成就文の一念を「信楽開発時剋極促」と釈されるのは、聞其名号によって煩悩心中に信心の起こった初際、それ以上ちぢめる事のできない時間としての極限を指す。またその一念は、「即得往生、住不退転」の即の時である。名号聞信の一念に往生の因円満して、時をへだてず即時に、必ず往生すべき身と定まるのである。このように一念を時剋の極促と開顕されることによって、信と益とが同時であって、その間にはいかなる業作も介入の余地がなく、信心正因の義を極成されるのである。
極促の促を奢促対とするか、延促対とみるか義の分かれたところである。しかるに成就文の一念について宗祖の他の釈例をみるに『浄上文類聚鈔』に「延促」といい、『一念多念文意』に「一念といふは、信心をうるときのきはまりをあらはす」とあって奢促の意では釈されない。また「即得往生」の即を同時即で解釈される点からしても、延促の促すなはち信心開発の最初の時とみるべきである。
成就文の一念は時剋の釈を当義とするが、宗祖はまた「言一念者、信心無二心故日一念、是名一心。」と心相についての釈もされている。一念とは無二心、疑いのないのが、聞信の初際の心相であることを明らかにされたものである。
元祖によって行一念とされた成就文の一念を、宗祖が信一念と開顕されたのは、『如来会』成就文の「能発一念浄信」の語に依られたものである。
信の一念に、いつ、どこで、誰からなどの覚知があると執ずるものがあるが、時剋の極促にそのような意業の介入する余地はない。そのこと明かされたのがこの信一念釈である。また、経釈・祖文にもそれらの僻執する根拠となるものは存在しない。
元祖は『選択集』利益章において『大経』三処の一念(成就・下輩・付属)をともに行の一念と釈されている。元祖の釈顕は諸行と念仏を行々相対して念仏の超勝性を明らかにされたのであり、宗祖は付属を行の一念とし、それをもって「就称名偏数顕開選択易行至
極」と釈された。また、成就の一念を信一念として、元祖の念仏往生義を開顕して、信心正因の義を確立されたのである。
要するにこの論題は、本願成就文の「乃至一念」は信領受の時剋の初際であって、その一念に往生の正因が決定し、即時に住不退転の利益を得ることを明らかにして、もって信心正因の義を、鮮明にするものである。
『正定滅度』 判決 平成三年
一、出拠
『御文章』二の二 『六要鈔』四、『浄土真要鈔』末等
一、釈名
正定とは正定聚の略で、滅度に至ることが正しく定まった聚類のこと。不定聚、邪定聚に簡んでその名がある。
滅度とは、涅槃の漢訳で生死の迷いを滅して無上仏果である彼岸に渡るの意。大涅槃、仏果をいう。
一、義相
『大経』第十一願文には正定聚と滅度が、また成就文には正定聚が説かれている。経の当義からすれば、正定聚・滅度ともに彼土の益である。しかるに宗祖は、彼土において得る益を滅度とし、正定聚を現生の益として釈し、二益の義を開顕せられた。すなわち『信文類』に「獲得金剛真心者、横超五趣八難道、必獲現生十種益。…十者入正定聚益也。」といい、『証文類』には 「獲往相回向心行、即時入大乗正定之数。住正定聚故、必至滅度」と述べられている。また『一念多念文意』には正定聚に「オウジョウスベキミトサダマルナリ」、 「カナラズホトケニナルベキミトナレルナリ」と左訓して、正定聚を信の一念の即時にうる現生の益とされたのである。
当来の彼土においてうける滅度の益については『信文類』に「念仏衆生、窮横超金剛心故、臨終一念之夕、超証大涅槃。」といい、『真仏土文類』に「言往生者。『大経』言『皆受自然虚無之身無極之体』已上。『論』曰『如来浄華衆正覚化生』。又云『同一念仏無別道故』已上。又云難思議往生是也。」と釈成されている。
宗祖が正定聚を現生の益として釈される理由をうかがうに、如来はその正覚の果徳全体を名号に成就して、これをもって衆生を救済せんと廻向されたのである。したがってその名号を聞信する一念に報土の真因は円満するのであるならば、「カナラズホトケニナルベキミトナレル」正定聚を彼土において語る理由が存在しない。そしてそのような思考をうながしたのは『如来会』第十一願成就文「彼国衆生、若当生者、皆悉究竟無上菩提到涅槃処。何以故、若邪定聚及不定聚、不能了知建立彼因故。」ならびに『易行品』の「人能念是仏 無量力功徳 即時入必定」の文であったとうかがわれる。正定聚を現益とする文証としてはこの他『観経』真身観の念仏衆生摂取不捨の文、『小経』の聞経不退の文、『論註』下巻眷属功徳の文等がある。
『浄土真要鈔』末に『浄土文類聚鈔』の「必至無上浄信暁 三有生死之雲晴 清浄無碍光耀朗 一如法界真身顕」を釈して「一如法界の真身顕るといふは、寂滅無為の一理をひそかに証すとなり」という。この「寂滅無為の一理をひそかに証すとなり」をもって滅度密益と執ずるのは大きな誤りである。その前文に「しかれば他力真実の行人は、第十八の願の信心をえて、第十一の必至滅度の願の果を得るなり。これを念仏往生といふ。これ真実報土の往生なり。この往生は一念帰命のとき、さだまりてかならず滅度に至るべき位を得るなり。」とあることからして現生に滅度の一分をも得るのでないことは明らかである。
経釈の上にみられる正定聚はその多くは彼土の正定聚である。宗祖にも訓点によって正定聚を現当にわたって釈されたものがある。『如来会』第十一願文、『論註』下巻妙声功徳の文、『一念多念文意』で釈される『大経』第十一願文等である。これら彼土の益として示される正定聚は、果後の浄土における広門示現相であると宗祖は見られるのである。
要するに当流においては信の一念に現生に正定聚に住し、臨終の一念に浄土において滅度の果を証得するのであり、この二益の義を混乱してはならないのであ
平成二年判決
「三心一心」 判決 平成二年
一、題意
本願の三心と『浄土論』の一心とを対望して、三心即一心・一心正因の義を明らかにする。
二、出拠
『大経』の第十八願文に、「至心信楽欲生我国」(真聖全一・九)等と誓われ、その成就文には「聞其名号信心歓喜、乃至一念。(真聖全一・二四)等と述成されてある。また天親菩薩は「浄土論」には、「一心帰命」(真聖全一・二六九)と示されている。
三、釈名
三心とは第十八願の「至心・信楽・欲生」である。これを三心というのは『観経』に、
一者至誠心、二者深心、三者廻向発願心。具三心者、必生彼国 (真聖全一・六〇)
とあり、『和語灯録』には、
至心というは、「観経」にあかすところの三心の中の至誠心にあたれり。信楽という
は、深心にあたれり。欲生我国は廻向発願心にあたれり。(真聖全四・二四八)
とある。宗祖は、その意を承けて『本典』には三心といわれ、「略文類」には、
言三心者、一者至心、二者信楽、三者欲生。(真聖全二・四五〇)
と述べられている。
至心とは真実心の義、信楽とは疑蓋無雑・無疑愛楽の義、欲生とは作得生想の義、また大悲回向心の義と窺われる。
一心とは、『浄土論』にあっては無二専一の心を意味するが、宗祖はこれを三心に対する信楽一心の義として釈される。
四、義相
宗祖は「信文類」(真聖全二・五九以下)に於いて、本願の三心(至心・信楽・欲生)と論主の一心とを対望し、三一問答を設けて字訓釈と法義釈を示され、
三心即一心、一心即金剛真心之義、答竟。可知。(真聖全二・七三)
と結示されている。字訓釈は字訓に寄せて三即一を示し、法義釈はまさしく法義の上から三心と一心との関係を明らかにされるのである。「略文類」に紅いても、
問。念仏往生願已発三心、論主何以故言一心……三心即一心之義答竟。
(真聖全二・四五O~四五三)
とあって、同様に三心即一心の関係を述べてある。
本願の三心は、聞其名号によっておこさしめられる三心であるから、宗祖は仏辺成就の約本(約仏)の三心と、衆生領受の約末(約生)の三心と、また生仏相望の三心を述べられている。
(1)仏辺成就の三心とは、名号の義を開いて三とするもので、至心とは阿弥陀如来の真実心(智徳)であり、欲生とは衆生を往生せずにはおかないという大悲回向心(悲徳)であって、信楽とは至心・欲生の悲智円具のところに、おのずから衆生を摂受するに疑いなき心をいう。これは二心成一の義である。
(2)衆生領受の三心とは、衆生の上に三心を語るものであるが、衆生は無始より已来、今日今時に至るまで穢悪汚染にして清浄真実の心はなく、大悲回向心もない。ゆえに如来は悲憫して、かかる衆生のために三心を円成し廻施したもうたのである。
この約末の三心には、次の三種の釈がある。
一は、「信文類」の三心釈の三重出体の意によれば、衆生の至心の休は仏の名号であって、その至心を信楽の体徳とし、至心の宿った心相が信楽、信楽の義別が作得生想の欲生心と示されている。二は、至心と欲生を信楽の体徳とするもので、至心は仏より与えられた智慧(行)の徳であり、欲生は仏より与えられた慈悲(願)の徳であって、信楽には至心・欲生の悲智・願行の徳がそなわっているとする。また三は、至心を「心を至して」と訓じて、信楽の決定無疑の至極なる相を形容する語とするものである。これは一心摂二の義である。
(3)生仏相望の三心とは、次の二種の釈である。
一は仏二生一の義で、至心は仏の真実心(智徳)、欲生は仏の大悲回向心(悲徳)であり、この至心・欲生の二心を衆生が領受した心相を信楽とする。
二は仏一生二の義で、至心は仏の悲智円具の真実心であって、信楽は衆生がその真実心を領受した心相、欲生は信楽の義別とする。『尊号真像銘文』(真聖全二・五六〇)のごときは、この義である。
以上、本願の三心については種々の釈相があるが、機受の心相を的示するものは中間の信楽であって、前後の二心はいずれも信楽の一心に摂まるので三心即一の義となる。
成就文より窺えば、本願の三心は信楽一心(信心歓喜)に結帰するが、成就文には「一心」の語はない。その成就文の意を承けて、「一心」と顕わされたのは天親菩薩である。ゆえに三心即一は法義の固有、合三為一は論主の釈功といわれるのである。
「信文類」では、三心即一の義を結ばれた後に、菩提心釈と信一念釈が示されてある。菩提心釈は、信楽は悲(欲生)智(至心)二徳を具し、仏果菩提を得べき他力の菩提心なる旨を顕わされ、信一念釈は、そのような信楽であるから、これを獲得する一念に即得不退の身に定まる旨を示して、一心正因の義を極成されるのである。
「十念誓意」判決 平成二年
一、題意
本願に「乃至十念」と誓われた意趣を明らかにする。
二、出拠
『大経』の第十八願文に、
設我得仏、十方衆生、至心信楽欲生我国乃至十念、若不生者、不取正覚(真聖全一・九)と誓われてある。
三、釈名
「十念」の念とは念仏であるが、この念仏には観念念仏と称名念仏とがある。観念念仏とは仏の相を心に憶念観察することであり、称名念仏とは仏の名号を口に称することである。七高僧の釈上には観念念仏と称名念仏の二が見られるが、宗祖はこれを称名念仏とされる。
龍樹菩薩の「易行品」には
阿弥陀仏本願如是。若人念我称名自帰、即入必定得阿耨多羅三貌三菩提
(真聖全一・二五九)
とあり、また天親菩薩は『浄土論』の讃嘆門釈下に「称彼如来名」(真聖全一・二七一)といい、曇鸞大師は『往生論註』の氷上燃火の釈下に、
彼下品人、雖不知法性無生但以称仏名力作往生意願生彼土……(真聖全・三二八)等といってある。
また道綽禅師は『安楽集』の聖浄二門判の釈下に『大経』巻上意として、
若有衆生縦令一生造悪、臨命終時十念相続 称我名字 若不生者不取正覚(真聖全一・四一〇)
といい、源信和尚は『往生要集』に、
極重悪人無他方便、唯称念仏得生極楽(真聖全一・八八二)
と示されている。これらはいずれも□称念仏とされる釈であるが、また観念念仏とされる釈も見られる。しかし、善導大師は「観経疏」の「散善義」に、
一心専念弥陀名号行住坐臥、不問時節久近念念不捨者、是名正定之業。順彼仏願故。(真聖全一・五三八)
といい、「往生礼讃」後序に「若我成仏、十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚」(真聖全一・六八三)等と述べて、本願の十念は観念ではなく□称であるとして念観廃立されている。
法然上人は善導大師の釈を承けて念声是一の釈を示され、宗祖はその法然上人を相承して、本願文の十念の念仏とは十声の称名念仏であるとされる。
次に十念の「十」について、宗祖は『行文類』に「安楽集」の「十念相続者、是聖者一数之名耳。」(真聖全二・三五)の御文を引かれ、この十に特別の意味はなく単に仏(聖者)の説かれた一つの数にすぎないとされているが、これについては上の「乃至」の釈義を併せて窺わなければならない。「乃至」について、宗祖には次の四釈がみられる。
(1)兼両略中……上と下、初めと終りを出して、中間を略すること
『略文類』に「経言『乃至』者、兼上下略中之言、」(真聖全二・四四四)とあ
る。これには従少向多・従多向少の二があるが、本願の「乃至十念」の場合は、
上は一生涯の念仏から下はわずか十念の念仏までという意となる。
(2)乃下合釈……乃至というも下至というも同じということ
『行文類』に「経言乃至、釈曰下至。乃下其言雖異、其意惟一也。(真聖全二・
三四)とある。これは経文の『乃至』と、善導大師の釈にいわれる「下至」とは、
言葉は異なるけれども意は同じであるといわれる。
(3)一多包容……一念も多念も包み容れること
「行文類」の乃下合釈に続いて『復乃至者、一多包容之言。』(真聖全二・三四)
とある。
(4)総摂多少……多念も少念も、長期間の念仏も短期間の念仏もみな総じて摂めること
「信文類」に「言乃至者、摂多少之言也。」(真聖全二・七二)とあり、また『一
念多念文意』には「乃至は、おほきおも、すくなきおも、ひさしきおも、ちかき
おも、さきおも、のちおも、みなかねおさむることばなり」(真聖全二・六〇五)とある。
以上四釈あるなか、初めの二釈は「乃至」という語の意味を示す字釈であって、後の二
釈は「乃至」の言を置かれた宗義上の意趣を顕わす宗釈である。
四、義相
以上、「乃至十念」の意義についてみてきたが、本願に機受の相として至心・信楽・欲生の三心と乃至十念の行とを誓われているが、宗祖は涅槃の真因はただ信心(信楽)にあると明示されている。それならば「乃至十念」と誓われたのは如何なる意趣であろうか。
宗祖は『乃至十念』の語について「一念多念文意」に、
本願の文に「乃至十念」とちかひたまへり、すでに十念とちかひたまへるにてしるべ
し、一念にかぎらずといふことを。いはむや乃至とちかひたまへり、称名の遍数さだ
まらずといふことを。この誓願はすなわち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のき
わまりなきことをしめしたまふなり。(真聖全二・六一二)
といい、また『尊号真像銘文』に、
「乃至十念」とまふすは、如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふに遍
数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼし
めして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。如来より御ちかひ
をたまはりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至
心信楽をふかくたのむべし。(真聖全二・五六〇)
と述べられている。
すなわち、本願に「乃至十念」と誓われたる意趣は、正定業たる名号が衆生の心中に満入して信心となり、それが一期相続の称名となって現われるが、その信相続の行が行住坐臥、時処諸縁をきらわず、また徧数もえらばぬ易行易修なる□称念仏をお誓いくださったところに、きわみなき仏の大慈悲心が窺われるというのである。
『乃至十念』の念仏は、その体についていえば名号の全現であるから正定業であり、能称の行者の意許をいえば仏恩報謝の営みである。今はこれを誓われた仏意を論ずるので、信の相続行として易行易修なる乃至十念の称名を誓われたのは、仏の大慈悲を示されたものと窺われるのである。
「三願転入」 判決 平成二年
一、題 意
宗祖が三顧転入の釈を示された意趣を明らかにする。
二、出 拠
宗祖は「化身土文類」に三願転入釈をほどこし、
是以愚禿釈鸞、仰論主解義依宗師勧化、久出万行諸善之仮門永離双樹林下之往生、回入善本徳本真門偏発難思往生之心。然今特出方便真門転入選択願海、速離難思往生心欲遂難思議往生、果遂之誓良有由哉。爰久入願海深知仏恩、為報謝至徳摭真宗簡要恒常称念不可思議徳海。弥喜愛斯特頂戴斯也。(真聖全二・一六六)と述べてある
三、釈 名
ここでいう三願とは、四十八願のなか第十九・二十・十八顧の生因三願をいう。
第十九願は、
設我得仏、十方衆生、発菩提心修諸功徳、至心発願、飲生我国。臨寿終時仮令不与大衆囲繞現其人前者不取正覚
と誓われ、修諸功徳の願・至心発願の願等と名づけられている。これは諸善万行によって
双樹林下往生(諸行往生)を得る法である。
また第二十願は、
設我得仏、十方衆生、聞我名号、係念我国植諸徳本、至心廻向欲生我国不果遂者、不取正覚(真聖全一・一〇)
と誓われ、植諸徳本の願・至心回向の願等と名づけられている。これは自力念仏により難
思往生(自力念仏往生)を得る法である。
また第十八願は、
設我得仏、十方衆生、至心信楽 欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚
(真聖全一・九)
と誓われ、選択本願・念仏往生の願・至心信楽の願等と名づけられている。これは他力回向の信楽を涅槃の真因とし、念仏相続して難思議往生(他力念仏往生)を得る法である。
「転入」とは回転帰入・転遷帰人の意で、『御草稿和讃』《浄土和讃)には「転入」のほかに「廻入」とも用いられているが、左訓には「めぐりいる」「一乗の機に入るなり」「法性真如の門にうつり入るなり」(真聖全五・一一)等とある。
四、義相
三願転入の釈は、第十九願と第二十願の法義の解釈が終ったところに、宗祖ご自身の述懐として、第十九願の法を出て第二十願の法に入り、第二十頴の法を出で第十八願の法に転入した旨を述べられたものである。
第十九願は聖道の機を往生浄土門に誘引せんとする誓いで、行は聖道と同じ諸行であるが、心は此土入聖から願生浄土となる。第二十願は、行は諸行を拾てて専ら念仏を修するが、心はなお第十九願と同じ自力の願生心である。第十八願に至って行も信も他力真実となる。第十九・二十の両願は、他力真実の法に帰入せしめるための方便誘引の願である。方便誘引の願なるが故に、速やかにこれを廃捨して第十八願の法に帰入せよと勧められるのが、宗祖の釈義である。
これについて、宗祖ご自身が事実として三願転入されたのか、それとも義説として示されたのかが問題となる。今は、宗祖ご自身の経てこられた歴程と見る。しかし、具体的にいつからいつまでが第十九願の法にあったか、また第二十願にとどまっていた時期はいつであったかは断定しがたい。
まして、後述の文には「建仁辛酉暦、棄雑行兮帰本願」(真聖全一・二〇二)とあって、要門を捨てて直ちに弘願に入ったごとくであり、「御伝鈔」上巻の第二段や、第六段の記述によれば、難行道・聖道門から直ちに法然上人の勧めたもう易行道・浄土門に入ったように示されてある。よってこの三願転入の述懐は、弘願真実に入ったうえで省みられた心的歴程であると考えられる。
次に、すべての者がこのような歴程を経ねばならないかどうかという点については、万機悉くこのような歴程を経ねばならないというのではない。宗祖は要門・真門・弘願という歴程を経て、方便両願の誘引の仏意を感佩されるのであるが、方便誘引の法ということは仏随自意の真実法ではないということであって、私たちには直ちに第十八願の法に帰入するよう勧められるのである。
「本典」にあっては、真実前五巻に第十八願真実の法を顕わし、第六巻に第十九・二十の方便願の法を示される。これは顕是・簡非の意であって、生因三願の釈をすべて終るに当って、ご自身の述懐として方便願を設けられた仏意を感佩しつつ、三願の真仮廃立を顕わされるのが、この三願転入の釈であると窺われる。
「真如法性」 判決 平成二年
一、題意
真如法性の意義を窺い、弥陀法展開の必然性を明らかにする。
二、出拠
善導大師の『観経疏』「玄義分」に、
竊以真如広大、五乗不測其辺。法性深高、十聖莫窮其際。真如之体量、
量性不出蠢蠢之心。法性無辺、辺体則元来不動。無尽法界凡聖斉円、両垢如如
則普該於合識恒沙功徳寂用湛然(真聖全一・四四二)
とある。また曇鸞大師の『往生論註』上巻には、
性是本義、言此浄土随順法性不乖法本(真聖全一・二八七)
等といい、下巻には「真如是諸法正体。」(真聖全一・三三四)とあり、道綽禅師の「安
楽集」には「論其真如広大無辺与虚空等。」(真聖全一・四二〇)とある。
また宗祖は、『正信偈』(天親章)に「即証真如法性身」(真聖全二・四五)といい、『証文類』には「法性即是真如、真如即是一如。」(真聖全二・一〇三)等とある。
三、釈 名
真如とは宇宙万有の真実体であり、現象の根源たる本体であって、すなわち〈あるがままなるすがた〉である。また、法性とは一切諸法の本性・万有の本体をいうが、すなわち〈すべてのもののありのままのすがた〉である。しかるに古来、真如・法性に関する諸宗所談の釈名は多けれども、『大般若経』巻三六〇に、「真如」の異名として法界・法性・不虚妄性・不変異性・平等性等を挙げ、また「法性」の異名として法界・不虚妄性・平等性・実際等とともに真如を挙げている如く、真如と法性とは別ものではない。
四、義 相
「玄義分」序題門に述べられた真如法性の釈は、聖浄起化の本源を示されたものであって、「捨此穣身即証彼法性之常楽」(真聖全一・四四三)という衆生所得の証果と照応する。また「往生論註」上巻の性功徳成就の釈は、全性修起・全修顕性の浄土なることを示されるもので、仏身について「由法性法身生方便法身、由方便法身出法性法身」(真聖全一・三三六)等と釈される義に同ずる。
宗祖は「証文類」の初めに彼土の証果を滅度と示されて、その滅度を常楽・寂滅・無上涅槃・無為法身・実相・法性といい、「法性即是真如、真如即是一如。然者弥陀如来従如来生、示現 報・応・化種種身也。」(真聖全二・一〇三)と示され、『唯信鈔文意」にも、
涅槃をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身とい
ふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ、仏性すなはち如来なり。
(真聖全二・六三〇)
と述べて、真如も法性も同じく涅槃の異名とされている。
右の文に続いて、「唯信鈔文意」には「この如来微塵世界にみちみちてまします、すなはち一切群生海の心にみちたまへるなり、草木国土ことごとくみな成仏すととけり。」 (真聖全二・六三〇)といって、如来が法界に遍満せる義を示し、さらに、
この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす、その御すがたに法蔵比丘となの
りたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。
(真聖全二・六三〇)
等と述べて二種法身の義を示されている。
また『一念多念文意』にも『大経』の「真実之利」(真聖全一・四)を釈するなかに、
この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひを
おこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆへに報身如来とまふすなり。
……この如来を方便法身とはまふすなり、方便とまふすは かたちをあらわし、御な
をしめして、衆生にしらしめたまふをまふすなり、すなわち阿弥陀仏なり。
(真聖全二・六一六)
と述べられている。
これらの文によれば、真如法性は衆生摂化の本源であって、この真如法性がそれ自体の用として、迷いの衆生のために因果修顕のかたちをもって顕われたもうたのが、方便法身の阿弥陀仏である旨が知られる。ゆえに名号大行は「真如一実功徳宝海。」(真聖全二・五)といわれ、他力回向の信心を「真如一実之信海也。」(真聖全二・四八)といわれるのである。
さらに『唯信鈔文意』には、
願海にいりぬるによりてかならず大涅槃にいたるを法性のみやこへかへるとまうすな
り。法性のみやこといふは、法身とまうす如来のさとりを自然にひらくなり。さとり
ひらくときを法性のみやこへかへるとまうすなり。これを真如実相を証すともいふ、
無為法身ともいふ、滅度にいたるともいふ、法性の常楽を証すともいふ、無上覚にい
たるともまうすなり。(真聖全二・六二四)
といって、衆生の得る究竟の仏果が示されている。
以上の釈によって、阿弥陀仏は衆生を済度せんがために真如法性より来生し、垂名示形して、真如法性に背反する衆生を真如法性に入らしめんとされるのであって、真如法性は救済の本源であるとともに衆生の証得する究竟仏果であることが窺われるのである。
平成元年判決
平成元年度 安居会読判決
六字釈義判決
一、出 拠
『玄義分』の六字釈、『行文類』の六字釈、『尊号真像銘文』の六字釈。その他『執持抄』の六字釈、『御文章』の六字釈。
一、釈 名
六字とは、南無阿弥陀仏の名号であって、この六字の名号に願行具足せる義を釈する。
一、義 相
通論家の徒は無着菩薩の『摂大乗論』、世親菩薩の『摂大乗論釈』に説かれてある別時意説により、「観経」下々品の十念念仏往生は、唯願無行であって、往生別時意であると主張した。この通論家に対する『安楽集』の説示を見るに、通論家が『観経』の下々品の臨終の十念は遠生の因にはなるが、往生を得ることはできないというのに対し、道綽禅師は十念成就は過去の宿因によったもので、臨終の十念は即生の因となるといい、隠始顕終・没因談果の辺より別時意の語を解釈して、論破されている。善導大師は更に下々品の十声の称名には願行を具足しているから順次の往生を得ると明かし、通論家の主張を論破されたのである。即ち南無は帰命の信であって、また発願廻向の義もあり、阿弥陀仏は即ち其の行であると釈され、発願廻向の願と即是其行の行が所称の名号に具しているから、願行具足であると論成されるのである。したがって帰命の信心流出の称名である下々品の十声の称名には十願十行が具足し、よく往生を得ることをあきらかにして、通論家の往生別時意説を論破されたのである。
次いで宗祖の『行巻』の六字釈をうかがうに、善導大師を受け、他力廻向の視点より解釈されている。帰命を本願招喚の勅命で、能廻向の相とし、発願廻向を本願成就の果上の大悲心で、能廻向の心とし、即是其行を選択本願と釈されている。これは即是其行を直ちに称名とするのではない。名号の上に仏の正覚の果徳が円備されていることをいうのである。この万行円備の名号が、相続の上に乃至十念の称名となって流出することを「選択本願是也」と説示されているのである。即是其行とは所廻向の行徳をいうのである。
かくて六字の三義をいずれも約仏の義で釈することにより、名号は他力廻向の法であって、これを聞信する即時に仏因円満して、衆生をして正定聚に入らしめる行体であることをあきらかにされたのである。
『尊号真像銘文』の六字釈をうかがうに、帰命を釈迦・弥陀二尊の勅命に信頼する信楽のことと釈し、発願廻向を信楽の義別、即ち、二尊のめしにしたごうて「安楽浄土にむまれんとねがうこころ」と欲生の義で解され、即是其行を選択の本願、安養浄土の正定の業因と釈されている。これは『行巻』と同じく万行円備の名号の徳を示されるものである。帰命と発願廻向を機、即是其行を法で釈されるものといえよう。
覚如上人の『執持鈔』の釈は、発願廻向の発願と廻向とを分けて解釈されている。帰命とは信楽の義であり、発願は信楽の義別で作得生想の欲生の義とする。発願を機相で釈し、廻向を法徳で釈されている。即ち信楽のこころには浄土の業因である万善万行の徳を廻向する仏の大悲心を具することをいう。つまり発願廻向を機相と法徳の両面より釈するものである。即是其行とは仏の因位の万行果地の万徳が名号に摂在して往生の行体となることをいうのであり、帰命の信心決定するところ、名号の全徳を具することを釈顕されたものといえよう。
最後に『御文章』の六字釈であるが、機法門の六字釈を展開されている。即ち南無の帰命は衆生の阿弥陀仏をたのむ機、衆生の信心とし、阿弥陀仏はその信ずる機をたすけたもう法と解し、この機と法とが一体として一名号に成就されているとする名号論が説示されている。この場合、帰命は衆生の信心とし(機)、発願廻向と即是其行は仏に約して如来が仏辺成就の無上大利の功徳(即是其行)を一念帰命の衆生に廻向したもうことと釈されるのである(法)。かくて蓮如上人は機法一体の妙釈を六字の上に施し安心の精要を詮顕されたものである。
即得往生判決 平成元年
一、出 拠
『大経』本願成就文に「即得往生住不退転」とある。その他『行文類』六字釈、『愚禿鈔』、『一念多念証文』、『唯信鈔文意』、また『口伝鈔』、『最要鈔』、『浄上真要鈔』等。
一、釈 名
これに当釈と宗釈がある。
当釈では当来の益とする意 であって、命終の時に浄土に往生して不退転の位に住することである。往生とは捨此往彼、即は異時即である。
宗釈では宗祖が現益として釈されるもので、即は信一念同時の意で同時即である。得往生住不退転とは入正定聚、即ち浄土に往生すべき身につき定まることである。
一、義 相
宗祖が「即得往生」を信一念の時にうる現益とされるについて、二称の釈が存する。その一は、「即得往生」の四字とも現益とする見方である。『一念多念証文』に「即得往生といふは……とき日をもへだてず正定聚のくらゐにっきさだまるを往生をうとはのたまへるなり」と釈されるものである。この場合、往生とは現生正定聚、即得とは信心決定と同時に正定聚の位にさだまりつくことをいう。宗祖は即の字を「すなわちといふ、ときをへず日をもへだてぬなり」と同時即の義で釈され、「また即はつくといふ、そのくらゐにさだまりつくといふことばなり」と、つき定まる意を示されて、信一念同時に正定聚の位につき定まる義とされている。また『愚禿鈔』には「信受本願 前念命終 即入正定聚之数文 即得往生 後念即生 即時入必定 又名必定菩薩也文」と示されてある。そのほか覚如上人の『最要鈔』には心命終の往生と身命終の往生とを分別し、即得往生は心命終の意味で釈されている。即ち迷情の自力心が聞信の一念につきはて、正定聚の位にさだまりつくことを即得往生といわれているのである。
その二は、往生は捨此往彼蓮華化生の義とし、即得とは信一念同時に報土の真因が決定して、浄土に往生すべき身に定まると釈されるものである。『行巻』六字釈に「経言即得、釈云必定、即言由聞願力、光闡報土真因決定時剋之極促也」とある文、また『浄土真要鈔』に「一念帰命の解了たつとき往生やがてさだまるとなり。うるといふはさだまるこゝろなり」とある文のごときがこれである。
以上のように両様の釈があるが、帰する所は現生において信一念同時に正定聚に住することを即得往生の義とするものである。
即得往生を現生正定聚の義で釈される理由をうかがうに、如来はその正覚の果徳全体を名号に成就し、衆生済度の法として廻向されるのである。『唯信鈔文意』に「この如来の尊号は不可称不可説不可思議にましますゆへに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひのみなり」といわれている。かかる名号を聞信する一念に現生において報土の真因円満し、当来において往生即成仏の果を満足せしめられるのである。浄土真宗は一因一果の法門であって、臨終一念の夕に大般涅槃の一果を証するのであるから、仏となるべき地位である正定聚は獲信のときにうる現益とされるのである。
『証巻』の劈頭に「然煩悩成就凡夫、生死罪濁群萌、獲往相廻向心行、即時入大乗正定聚之数 住正定聚故必至滅度」といい、浄土で往生と同時に証する滅度の果に対し、正定聚は信心決定と同時に現生で得る益であると宗祖は釈顕されたのである。
この正定聚を現益とする文証としては『大経』流通分・『小経』の聞経不退の文、『論註』下巻眷属功徳の文等、また宗祖が点発によって正定聚を現当にわたり示された『如来会』第十一願文、『論註』下巻妙声功徳の文、『一念多念証文』に示される正依『大経』の第十一願文等をあげることができる。
なお、経釈の上には正定聚を浄土の益として示される場合がある。即ち住不退転を浄土の益とされる義が存する。宗祖はこの浄土における正定聚は果後の広門示現相と見られるのである。
かくて宗祖は本願成就文の「即得往生住不退転」の文を信一念同時に得る現生不退の義とし、信益同時の宗義を釈顕されたのである。
顕彰隠密判決 平成元年
一、出 拠
善導大師『観経疏』、『化身土文類』隠顕釈。
一、釈 名
「顕」とは顕著に説かれた定散二善の法をいう。
「彰」とは「隠影」であって、定散二善を説く『観経』の経文がそのまま隠微に弘願の義をあらわすことをいう。
「密」とは隠顕の両義をもって調誘摂化する釈尊の善巧の密意をいう。
一、義 相
宗祖は善導大師の意をうけて『観経』に顕彰隠密の義があることを述べられている。『観経疏』の付属文釈において善導大師は定散二善を廃して弘願念仏を立て、一経の上に廃立の義意を釈顕されている。これをうけて法然上人は『選択集』念仏付属章において定散諸行は非本願の故に『観経』では付属せず、称名念仏は仏の本願の故に付属するといい、「故今定散為廃而説、念仏三昧為立而説」と説示して廃立義を展開されている。法然上人は善導大師をうけ、流通分の念仏付属の文より一経を判じて定散と念仏の分別をされているのである。この場合、所廃の定散諸行は念仏が余善に超過せることをあらわさんがために説かれるのであるといわれている。この法然上人の廃立釈を更に展開し、善導大師の解釈をみがき出したものが宗祖の顕彰隠密の釈である。法然上人の廃立釈は経末にすわり、竪に『観経』を扱うに対し、宗祖義は横に経文を捌き、一経全体の上より隠顕の義をあきらかにされるものである。即ち隠彰の義よりすれば『観経』は『大経』と同じく弘願真実の法が説かれてあり、顕の義よりすれば要門方便開説の経となる。この場合宗祖においては、要門方便定散の諸行は従仮入真の法として位置づけられて第十八願の隠彰弘願へ行者を導入する階梯として見られているのである。
次に顕彰隠密の料簡であるが、顕と隠彰の二義となる。『化身土文類』の『観経』の隠顕釈を見るに、「言顕者」と標して「即是顕義也」と結ばれ、「言彰者」と標して「此経隠彰義也」と結ばれている。更に『観経』の隠顕釈を結ぶにあたり、「依顕之義異也 依彰之義也」と説示されている。また『小経』の准知隠顕釈にあっても、「言顕者」と標して「此是此経示顕義也」と釈され、「言彰者」と標して「斯是開隠彰義也」と結釈されている。『略典』には「三経大綱雖有隠顕」とある。これらの釈例より見て、二義とするのが祖意に順じた解釈であると考えられる。
宗祖は顕の義を説明して、要門の行信を説示し、定散諸善と三輩三心をあげ、二善三福は報土の真因ではなく、諸機の三心は自利各別で利他の一心ではないといわれている。そしてかかる要門の法を「如来異方便、忻慕浄土善根」といい、従仮入真の法であることを説示されている。次に隠彰の義とは如来の弘願であり、利他通入の一心であると説示されている。そしてこの隠彰の例証を『観経』の上にもとめて十三文例をあげられるのである。更に宗祖は顕の要門の法を弥陀の誓願の上に位置づけられている。即ち四十八順に真実と方便の願があることを示して、『観経』の顕の義である要門の法が第十九願にもとづくことをあきらかにされている。行を「修諸功徳之善」、信を「至心発願欲生之心」と釈し、この方便の行信が誓願海より出づる従真垂仮の法であることを説示されている。宗祖は「按方便之願有仮有真」といい、第十九方便願の願底には真実の仏意が存することを釈顕されている。第十九願所誓の要門の行信を「有仮」といい、この方便の法により、要門の機類を従仮入真せしめんとする仏意が願底にはたらいているのを「有真」というのである。『観経』顕説の要門は第十九順に根拠するのであり、この願にもとづいて釈尊は『観経』を聞説されたものと見られるのである。このことを宗祖は「依此願之行信、顕開浄土之要門方便権仮」といわれているのである。そしてかかる要門方便の顕の義に対し、『観経』の隠彰の真実義を説示して、「亦此経有真実、斯乃開金剛真心欲顕摂取不捨。然者濁世能化釈迦善逝、宣説至心信楽之願心。報土真因信楽為正故也」と釈されている。『大経』の信楽と『観経』の深心(利他真実之心)と『小経』の一心は隠彰の義によれば同じであり、三経は一致する旨をあきらかにされたのである。
かくて顕の義である要門の教は調機誘引の方便であり、『観経』の隠彰は『大経』の弘願真実義と一致する。このことを宗祖は「二経之三心依顕之義異也依彰之義一也」と結ばれているのである。