称名寺について

株式会社 大和総研

   浄土真宗本願寺派第11回宗勢基本調査 結果  2022年6月

 上記の調査により、S・A・B・CランクのS評価をいただきました。

 ご門徒皆さま方のおかげです。ありがとうございました。

由緒沿革


 当寺は創立年代を詳かにしないが少くとも文明年間以前に建立せられた事は確である。
 当寺は旧何宗であったか不明であるが、文明年間に蓮如上人の教化に依って真宗に改宗したらしい。元来当地には善導寺といふ古刹があって士地の小字にもその名が残っているし又当寺境内に残留散布した墓石の記録などから察すると当寺はその善導寺の一部でなかったかとも思はれる。
 現時境内に礎石の代用としている重塔の笠石並に墓石面に梵字と戒名とを記し明応四年と刻したものがあるが、是等は他宗から真宗に転宗当時又はそれ以前の物らしい。
 尚紺絹地金泥の阿弥陀如来画像の裏書に文明十五卯暦中興誓真とある所から考へると中興の上人誓真坊が文明十五年に真宗に帰依転宗した際の本尊であるらしいから、是で大体に転宗の年代も推知することが出来る。
 今 此の誓真坊を真宗寺院称名寺の第一代住職として数へて見ると現住職日高純諒【注】は第十五代の住職に相当するし、称名寺としての存立年間は大正十一年に至るまで四百五十年に及んでいる。尚現存の堂宇は文政十一年の建立である。


                     『奈良県高市郡寺院誌』より               

                【注:現在(令和3年)住職は第十八代の日髙法輝である】

      [大正時代の称名寺]

寄稿文

 涙の中の阿弥陀さま


 「ピンポーン お参りに寄せていただきました。」
 「ご院さん、ご苦労はんでんな。」
 「チーン。きみょーむりょーじゅよらーい………チーン。ナンマンダブ、ナンマンダブ」
 「はい、ありがとうございます。えーと、今日は28ページの3行目、〝与韋提等獲三忍〟です。まず読み方としては〝韋提(いだい)と等(ひと)しく三忍(さんにん)を獲(え)〟です。まず〝韋提〟とは人の名前です。正確にはイダイケといいます。お釈迦さまのおられた時代の方でビンバシャラ王という方の奥さんです。このお二人にはアジャセという子どもがおります。この三人の話が観無量寿経というお経の中に出てきます。はじめこのご夫婦は子どもに恵まれなかったのですが、やがてアジャセという子どもに恵まれます。ただしそのアジャセを懐妊したときのいきさつが色々あって、その子どもを産み殺そうと企てます。しかしその子どもは産み殺されることなく成長していきます。やがて成長したアジャセは自分の出生の秘密を知ります。自分は殺されかけたということです。そのことを知った途端、アジャセは両親に対し殺意を抱いていきます。そして父を牢獄に入れ餓死させようとし、母には剣を向けやがて牢獄に閉じ込めます。そんな状況の中イダイケは〝もうこんな世の中は嫌でございます。〟と愚痴をこぼします。そしてその前にお釈迦さまが現れ〝イダイケよ、あなたのためにその苦悩を除く法を説くぞ〟と言われました。でもその後には、説くぞと言われた〝法〟つまり〝教え〟は説かれていません。そしてイダイケの前には阿弥陀さまが現れました。つまり阿弥陀さまそのものが〝教え〟なのです。子どもに殺されかけたイダイケの悲しみ・苦悩を取り除いてくださる教えなのです。イダイケは涙の中に阿弥陀さまを拝まれたことでしょう。
 今、このお仏壇の阿弥陀さまはそのイダイケが見た阿弥陀さまがモデルになっていると言われます。イダイケが苦悩の涙の中で見た阿弥陀さまです。私たちも涙する日もあるでしょう。そんなときイダイケが見た同じ阿弥陀さまを涙の中から拝ませていただきます。私の苦悩を取り除く教えがここに届いてくださっています。
 今日のお話でした。では、御文章です。」
 「おおきに。ご院さん、お茶でもどうぞ。」

                    『かりょうびん』 令和5年10月号

お浄土とは
       
 ご門徒さまのお宅にお逮夜参りに寄せていただきますとよく年配の方が「昔は良かった。若いころはよかった。」と過去を懐かしみながら、少し愚痴っぽいことを言われます。ということは、逆をいうと「今はあまり良くない」ということなのでしょうか。『お浄土とは いま私に 未来があるということです』という標語に出会いました。世間でも後ろ向きにならず前向きに生きなさい、とよく言われます。ただ若いときは前向きに生きられます。なぜならば前に目標があるからでしょう。でも年を重ねますと未来に目指すべきものがなくなりがちです。だから何を目指したらいいのか分からないので前向きになれないのでしょう。
 人間は年を重ねますといろんなものをなくしていきます。その一つは「居場所」だそうです。つまり私の活躍場所というか、私の必要価値が無くなっていく。いわば私を必要とする方が周りにいなくなるというつらさです。 そんな私に〝あんたにしてもらわなくてはならないことがあるよ〟という世界がお浄土です。ではそのお浄土で何をするのかと言えば衆生済度をするのです。私たちはお浄土へ還らせていただいたらこの娑婆に残してきた有縁・無縁の方々に今度は仏法を伝えるはたらきをするのです。でもそれは考えてみると大変苦労を伴うことのように思います。しかし実はつらいことではないのです。『浄土論註』にはそれは「自娯楽」と説かれ、楽しくて楽しくて仕方なく、ちょうど獅子が鹿を捕まえるがごとく、いともたやすく簡単であるそうです。私たちはお浄土で衆生済度という活動をやり続けるのです。残してきた人々に対し、あなたもどうぞ手を合わす人間になっておくれ。阿弥陀さまのお心を聞いてそしていのち終わるときにはこの父・母の待つ浄土へ還ってきておくれ、とはたらき続けるのです。〝あんたにしてもらわなければならないことがあるよ〟と私を必要とする方がおられます。         

                     2022年 全国布教同志会 機関誌『布教』

 

もう間に合うとるぞよ


 本日は前御住職・稲城和上の七回忌、前坊守様の十三回忌ということでお招き頂きました、奈良の橿原市から参りました日高です。稲城和上には大変お世話になり、お育てを頂きました。稲城和上がいらっしゃらなければ、如来さまのお心を頂けなかったと思っております。少し想い出をお話ししながら、稲城和上が伝えてくださいました阿弥陀様の心を讃歎させて頂きたいと思います。
 和上の生前、毎週土曜日の夜に土曜講座という和上の講義がありました。いまから三十年前、私も毎週土曜日に光蓮寺に通わせて頂いておりました。そのなかでいろいろな法友ができまして、和上様と坊守様とご一緒に一年に一回、十二月二十日頃に一泊か二泊の旅行に参りました。旅行といっても、単なる物見遊山ではなくて、親鸞聖人・蓮如上人や妙好人の跡を訪ねる目的で、あちこちに参詣させて頂きました。北陸や和歌山、九州や関東の方にも行かせて頂きました。
 九州に行った時には、暖かいはずの九州で大雪になって、高速道路が通行止めになり、参詣する予定の所に行けなくなりました。奈良に参った時には、宿泊予定の温泉旅館の大浴場が修理中で、温泉に入れなかったこともありました。十二月の二十日過ぎに団体旅行に来る客はいないだろうということで、修理を始めたようです。滋賀県に行った時には、午後三時過ぎになって、和上が「もう帰ろう」と言い出されました。まだ次に行く約束をしているお寺があったので、お世話をされた方が大変困られたことがありました。
 和上様から教えて頂いたのは、阿弥陀様の御教えに尽きます。今日はそのことをお話しさせて頂きます。私が光蓮寺に通わせて頂きましてから四、五年目に、私の法話を聞いた友人が、あなたの話は稲城和上と同じやなあ、と言われました。私は稲城和上の真似をさせていただこうとは思っていなくて、自分は自分なりの話をさせてもらっているつもりだったのですが、御安心の要は稲城和上から聞かせていただいた通りに話させていただいておりました。それを、友人は稲城和上の話と同じだと言ってくださったのだと思います。大変ありがたいことでありました。
 稲城和上は、土曜講座でいつも蓮如上人の話をしてくださいました。ある年度の初めに、今年一年間は親鸞聖人の『教行信証』の話をするといって講義が始まりました。ところが毎回途中から蓮如上人が『御文章』で説かれている「平生業成」の話になってしまうのです。講座が終って帰る途中で、友だちと今日もまた蓮如上人の話だったなあ、と語り合いながら帰ったものです。
 今日は『御文章』一帖目四通のお話をさせていただこうと思って参りました。『御文章』は門徒の方々に出されたお手紙ですが、それを字の読める御門徒が村の人たちに読んで聞かせてあげたものです。そのなかに、「問ていはく、正定と滅度とは、一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。答ていはく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば、二益なりとおもふべきものなり」とあります。
 難しい言葉が使ってありますが、少しづつかみ砕いてご説明したいと思います。「正定と滅度」は、同じものか違うものかという質問です。浄土真宗も宗教である限りは、御利益というものがあります。浄土真宗の御利益は「正定と滅度」のうちの一つだけですか、それとも両方ですかという質問です。「正定」というのは、詳しくは「正定聚」という言葉で、現世で得られる利益のことで、「滅度」というのは来世で得られる利益のことです。これらの二つが揃っているのが浄土真宗です。
 「正定聚」というのは、まさしくお浄土参りが決定している仲間たちという意味です。「正」は、ここでは正しくという意味ではなくて、まさしくという意味です。「まさしく」とは。阿弥陀様のご本願の通りになっているということです。
 阿弥陀様は、私たちのいのちの上に四十八の誓願をかけてくださいました。四十八願の中心は第十八願です。第十八願は、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ、五逆と誹謗正法とをば除く」というものです。これが阿弥陀様の一番大切な誓い、あなたを必ずこのような人間にするという願いです。私が仏となったとき、あなたに仏のまことのこころをいただかせ、お浄土に生まれさせていただけると思わせ、その口からお念仏がこぼれ出る生活をさせて、いのち終った時には、かならずお浄土に生まれさせて仏にしてみせるぞ、というのが阿弥陀様の誓いです。そのようになっている仲間のことを「正定聚」というのです。
 阿弥陀様のこころはいいものだなと思ってもいなかった人間が、いいものだなと思える人間にしていただくのです。南無阿弥陀仏と称えることを知らずにいた人間が、称える人間にしていただくのです。今日の講題の「もう間に合うとるぞよ」は、和上がいつもおっしゃっていた言葉で、阿弥陀様の声が聞こえたときには、もう間に合っている、私が何も加える必要がないという意味です。御門徒のなかには、法話を聞いても喜ばれない、お念仏が出てこないという方がおられます。隣の人が手を合せているから、仕方がないから手を合せているだけだとおっしやる方もおられます。しかし、ここにおられる方は、すでに阿弥陀様の手のひらの真ん中のおられる方々です。
 阿弥陀様の声が聞こえたときのことを「信の一念」と申します。他宗の信心は、私の方から仏様をつかみにいく信心です。世間では、喜ばれない人は信心が足らんといいます。しかし浄土真宗では、信心が足らんということは申しません。浄土真宗の信心は、自分からつかみにいく信心ではないからです。私たちの信心は受け取る信心です。阿弥陀様のお心をそのまま受け入れる、阿弥陀様のお心に順うということです。それを「信順」といいます。
 本堂に座らせていただいていても、最初から阿弥陀様のお心に順っていたわけではありません。初めは、仕方なしに参るというのが普通です。何度話を闘いても、仏様の話はよくわかりません。仏様は私にどうしなさいといっているのかわからないうちに、話が終わってしまいます。仏様は、私にこうしなさいとはおっしゃらないのです。仏様は、私はあなたを救うぞ。としかおっしゃらないのです。何度か聞いているうちに、次第に仏様のおっしゃっていることが聞えてくるのです。私に任せなさい、かならずあなたを教いますよ、あなたの人生を引き受けましたよ、空しくはかなく終っていくいのちを、かならずまことのいのちにしてみせるとおっしゃる声が間えてくるのです。それを聞かせていただくことによって、私のいのちの本当のありようが聞こえて来るのです。私のことをいつも見守っていてくださる大きないのちに出会うことができるのです。そのような信心をいただいた最初の瞬間を「信の一念」というのです。でもその瞬間を自覚することはほとんどありません。
 皆さん方には、最初に「おかあさん」と言った瞬間、お母さんの姿をこころに焼き付けた瞬間があったはずです。それは、遠いむかしの、まだ赤ん坊だったころのことで、それがいつだったかは思い出せないと思います。でもその瞬間に初めてお母さんの愛情が注がれたのかといえば、そんなことはありません。ずっとずっと前から、お母さんの愛情は注がれ続けていたのです。あるとき子供は、この人は自分を放って置かない人だと気がつくのです。そして、母親のこころを受け入れていくのですが、まだ言葉が十分に発達していないので「おかあさん」とは言えません。しかし、その受け入れた気持ちは生涯続いていくのです。
 それと同じように、阿弥陀様のお心に触れさせていただいたと思った瞬間があったはずです。しかしその時に初めて、阿弥陀様が私たちに呼びかけてくださったわけではありません。それまでずっと阿弥陀様のお育ては続いていたのです。あなたを、阿弥陀様のこころの届く世界に生まれさせ。南無阿弥陀仏のいわれを聞かせて、過去世から苦悩に沈んできたあなたのいのちを娑婆のご縁が終わった時にはかならず仏の国、真実の国、まことの国、一切のとらわれのない国に導いて。あなたのいのちを完成させてみせると誓われているのです。その心は、すでに私のところに届いていたのです。すでに届いていたことに気がつかせていただいたのが「信の一念」です。
 「聞くより前のお助け」といいます。では、聞く前から間に合っているから、聞かなくてもいいのかといえば、そうではありません。なぜ、聞くより前のお助けということがわかるのかといえば、聞いたからです。聞こえたからです。聞いていない人には、それはわかりません。
 光蓮寺の土曜講座にうかがってからまだあまり間のないころ、和上が何か質問はないかと言われました。私もあるとき何か質問したのですが、質問の内容はあまり覚えていません。しかし和上の答えは覚えています。そのとき和上は、日高君は奈良から来ているな。君は車で県境を越えて来ているが、県境を越えてくるとき、〝いま県境を越えた〟ということがわかるか、と聞かれました。わからんじゃろ。でもいつ県境を越えたかどうかは問題ではない、君は光蓮寺に行くことが目的だから、県境を越えたかどうかわからなくてもいいのだ。でもいま君が光蓮寺にいるということは、かならず県境を越えて来たということだから、いつ県境を越えたかどうかはどうでもいい。君がいま阿弥陀様のこころを喜んでいることが大切で、いつ喜ぶようになったのかは問題ではないのだ、とおっしやいました。おそらく私の質問は「信の一念とは私に分からなければならないのですか」というものだったでしょう。
 聞えた所で、すでに間に合っている教えです。過去世から私に付き従ってくださっていた阿弥陀様のみ教えに、いま気がついたということです。
 蓮如上人は、先の『御文章』で、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚に住す。正定聚に住するがゆえにかならず滅度にいたる」とおっしゃっています。阿弥陀様の心を頂いたことを、「摂取不捨のゆえに正定聚に住す」と言われています。私のいのちをすくい取って、もう捨てることはないということです。親鸞聖人は、「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(「浄土和讃」弥陀経讃)とおっしゃっています。阿弥陀様は私を一度捕まえたら、もう放さないということです。「摂」は、私のこころを聞いてくれとおっしやる阿弥陀様が、ずっと逃げ続けている者をおさめ取ることです。これはいまの生涯のことだけを言っているわけではありません。生れ変わり死に変わってきた私の輪廻の生涯のなかで、私は阿弥陀様のお言葉をはねつけ続けてきたのでしょう。その私を、いまの生涯でようやく捕まえてくださったのです。その証拠に私の口からお念仏が出てきているのです。阿弥陀様のお育てのご縁のなかにいのちを頂かない方は、お念仏がこぼれ出る生活はさせてもらえないのです。
 「摂取不捨のゆえに正定聚に住す」は、阿弥陀様のこころが届いたから、阿弥陀様のこころに捕まったから、阿弥陀様の手の平に生きるいのちとなったことです。「滅度」は、いのち終った後に、阿弥陀様が私のために用意された極楽浄土に帰らせていただくことです。それは阿弥陀様が誓われた確かな約束です。
 約一ヵ月前に、奈良県の先輩の布教使の方が御往生されました。もう九〇歳を越えた方でしたが、葬儀では有縁の方々が忙しく動いておられました。ところが、気かつくと様子の少しおかしい方がおられました。何がおかしいかといいますと、御往生されたお身内の僧侶の方で色衣を着ておられる方がおられたのです。私たちの地域の葬儀では身内で参列するものが色衣を着ることはありません。そして葬儀の最後に喪主の方がごあいさつの中で、「亡くなった父が、私の命日はお浄土参りの誕生日だから、わしの葬式ではめでたい報恩講のように、みんなは色衣を着て内陣では赤い蝋燭を灯すようにと遺言されたので、そのようにしました」といわれました。私は感心しました。
 私たち浄土真宗の門徒にとって、人の死は悲しむことではありません。私のいのちが仏様のもとに生まれさせていただくことです。一切のこだわりのない世界に帰っていくのです。でも、だからといって私が同じように遺言できるかといえば、なかなか言う自信はありません。しかし、こころは仏様の世界に帰らせていただく日だと思っています。そのことを聞かせていただいたのは、稲城和上のお育てに預かったおかげです。今回は、一年遅れの七回忌ですが、尊いご縁を賜ったことをお礼申し上げる次第です。ありがとうございました。          
                            『光蓮寺寺報』より抜粋

前住職稲城選恵和上七回忌・前坊守六美さま十三回忌の法話
                             (一部加筆あり)

少年たちと共に  
                         
 秋の夕暮れ、すっかり暗くなった赤レンガの建物を後にして私は家路につきます。いま私は少年たちと時間を過ごしてきました。共にお経本を手にし、共に仏さまのお話を聞かせてもらいました。
 ここは奈良少年刑務所です。14年間、教誨師としてお手伝いをさせていただきました。仏教クラブでお話をして帰るときにはいつも「どれほどにあの少年たちに伝わったのであうか。あんな話で少年たちは喜んでくれたのかな」という思いです。
 「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」多くの少年たちに出会うたびに浮かんでくる歎異抄の言葉です。「どうしてこの子が。いったい何があったのだ。」という思いです。でもそのことには一切触れることはできません。仏教クラブの時間は私が準備をしてきた資料を興味深く見てくれ、声に出して読んでくれ、「これ、どういうこと?」という質問もしてくれます。そこには所内の時間に追われる緊張感から少し解放されたゆったりとした思いがあるのかも知れません。
 あのときの少年たちもすでにそれぞれの人生を歩んでいるでしょう。「親鸞さん」「西本願寺」「京都にあんねんで」あのとき聞いた言葉がその人生の指針となってくれていればと思います。
 「生きとし生けるものすべてよ」と喚びかけてくださる阿弥陀さま。「さるべき業縁」の中でしか生きられない私たち。そんな私だからこそ届いてくださる仏さまです。
                                         合掌

                        2021年 奈良教区 『サンガ』巻頭 寄稿

すべてのいのちに金メダル
                  
 東京オリンピックが終わりました。アスリートの活躍に感動した日々が終わりました。実力を発揮できた選手、発揮できなかった選手。喜びの涙を流した選手、悔しさの涙を流した選手。それぞれに悲喜こもごもであったであろうと思います。
 競技の成果は順位に現れます。そしてメダルの有無に現れます。メダル無しよりは銅メダル。でも銅メダルよりは金メダルが評価されます。メダルの色の違い、区別が付くのは致し方のないことです。
 この娑婆においては色々な区別が存在します。そのことによって多くの人たちが苦しんでおります。阿弥陀さまはこの苦悩に沈んでいる私たちのために四十八の願いを建ててくださいました。その第三番目に「お浄土に生まれた者をみんな同じ金色にしてみせるぞ」という願いを建ててくださいました。ということはこの娑婆では肌の色の違いにより苦悩を受ける人がいるのです。容姿の違い、能力の違い、そこに差別・区別が生じ苦悩の因になるのです。その苦悩を見抜いてくださった阿弥陀さまが願いを建て、浄土を仕上げてくさいました。お浄土に生まれた者はみんな同じ色にしてみせると。そしてそれも金色です。金・銀・銅の中でも最高の色です。でも他と比べての最高という意味ではなく、他と比べることさえできない、それぞれのいのちの有りようが最高だというのです。
 〝すべてのいのちに金メダル〟は築地本願寺に掲げられた標語です。他の人と比べて一喜一憂している世界では本当の喜び、安心感はありません。他人と比較する世界ではどれほど成功を収めようとも、最後の最後は自分のいのちが終わるということには悔し涙しかないかもしれません。私たちは横を見るのではなく、常に阿弥陀さんを仰ぎつつ生きていきます。〝まかせよ、必ず救う〟と私に呼びかけてくださる阿弥陀さま。〝あなたはあなたのままですばらしいよ。かけがえのない存在だよ〟とおっしゃる阿弥陀さま。その喚び声が聞こえたとき〝私は私でよかった。かけがえのないいのちなのだ〟と思い取らせていただきます。そしてこのかけがえのない私を浄土へ迎え取り、必ず必ず輝けるいのちにしてみせるぞと誓ってくださる阿弥陀さま。その阿弥陀さまとの出会いの時はきっと喜びの涙を流すことでしょうね。私が私であってよかったと。

                               2021年 乗明寺 寄稿 

    


今、ここにいることが奇跡

 私たちはいま未曾有の新型コロナウイルス蔓延という状況の中にいます。私たちにとってこのような流行病というのは、ほぼ初めての経験です。                                          しかし私どものご開山親鸞聖人や蓮如上人の時代には多々このような事があったようです。親鸞聖人が7,8歳の頃、まだ松若丸と名乗っておられた頃、養和の飢饉というのがありました。当時、京の洛中では多くの方が命を落とし、鴨長明の『方丈記』によりますと洛中だけで42300人の方が亡くなられたそうです。想像を絶するような数です。おそらく松若丸はその光景を見たことでしょう。道ばたで息絶え、お弔いもしてもらえない人々の姿を。                                                ご存知の通り松若丸は9歳で青蓮院でお得度、つまりお坊さんになる儀式を受けておられます。ただそのとき青蓮院に到着するのが少し遅れ、どうやら夕暮れ時となったようです。お得度の師匠である慈鎮和尚が、今日はもう薄暗くなってきたから儀式は明日にしよう、と言われようです。そのとき松若丸は「明日(あす)ありと思うこころのあだ桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」と詠われたといわれています。儀式を明日にしようと言われた師匠に対し、いえいえ明日の私のいのちは分かりません。ちょうどいま庭に咲いている桜を、今日はもう遅いから明日に花見をしようと言っていたら、今晩に春の嵐が吹いて全ての花が散ってしまって後悔するようなことになるかも知れません。私のいのちも同じです。明日も生きていると保証はありません。だから何としてでも今日お坊さんになる儀式を受けたいです。という心持ちで言われたはずです。でも私自身は正直少し話しが誇張されすぎではないかと思っていました。                 

 だが考えてみますと、松若丸はその前年、前々年の養和の飢饉で多くの方の亡くなっていかれる姿を見ておられたはずです。おそらく青蓮院への道中にもまだ道ばたには横たわる死骸が転がっていたかも知れません。その中には大人に交じり自らと年かさもあまり変わらない子どもの死骸もあったはずです。その光景を見て、私もあのような状態にならないという保証はない、生命の保証はどこにもない。だからして明日といわず、今日ただいまお坊さんになりたいです、と思い詠われたのではないでしょうか。           親鸞聖人はその後の比叡山での20年間のご修行、そして90年間の生涯を通し、松若丸であったときに見たあの道ばたで亡くなっていった方々の生命とは何だったのか。あの方たちには仏さまの救いは届かないのか、学問をした者だけ、修行をした者だけが救われていくのか。あの方々に届く仏は、あの方々を救う仏はおられないのかという苦悶の中で仏道を求めていかれ、生きとし生けるもの全てを救うていくと阿弥陀さまに出遇われ、そのおこころを私たちにお伝えくださいました。                     また蓮如上人においては「疫癘章(えきれいしょう)」という『御文章』を書いてくださっています。その本文には「当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業(じょうごう)なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。」 といわれています。この『御文章』は1492年に書かれたものであり、当時たくさんの方々が疫癘という流行病で亡くなっていかれたことが書かれています。といいましては蓮如上人は傍観者として書いておられるのではなく、自らも大きな悲しみの中におられました。実は蓮如上人は奥さまを次々と4人亡くされ、自らより先に7人の子どもさんを亡くされておられます。少なくとも自分の身内の方を11人次々と亡くされておられます。どれほどの落胆であったことかと思われます。その中で書かれたのがこの『御文章』です。   

『御文章』とはお手紙です。手紙である以上は受取人がいます。その相手に対しおそらく「あなたもそうですか。私も実は大変な悲しみの中におります。でもこの悲しみの中におる私どもを阿弥陀如来は必ず輝ける生命にしてみせるぞと私の上にはたらいてくださっていますよ」との心持ちからお手紙を書かれたのでしょう。                                                             

 今、私たちは約100年振りの流行病の中におります。大正時代にスペイン風邪というのが流行ったそうです。日本でも約40万人の方々が亡くなられたそうです。実は私の曾祖父母は大正12年に続けて亡くなっております。9月に曾祖母が行年39歳で、10月に曾祖父が行年45歳で亡くなっております。もちろん死因までは記載しておりませんので全く分からないのですがおそらく流行病ではなかったかと思います。そして残されたのが計算上でいくと16歳の娘と年の離れた妹の二人です。寺には10代の姉妹が二人残されただけです。親戚もあったことでしょうが現在のように電話で連絡を取り合えるはずもないし、本当に心細くつらかっただろうなぁと思います。その後その16歳の娘は周りの勧めもあったのでしょう、ご養子さんを迎え18歳で子どもを授かっています。その16歳の娘が私の祖母に当たり、生まれた子どもは私の父親です。そう考えますとギリギリで私のいのちがここにあるなぁと思います。もしその16歳の娘も同じ流行病で亡くなっていたら、当然この私のいのちはここに無いでしょうし、こんなつらい状態はいややと言って寺を出て行っていたら私のいのちはここに無いです。まさに首の皮一枚つながった状態が今の私のいのちでしょう。                                             先日、水泳の池江璃花子さんが日本選手権で復活の優勝を遂げられました。すごいことです。ご存知の通り約2年前に急性リンパ性白血病という血液がんの一種を患い闘病生活を余儀なくされました。おそらく闘病生活の間には生命の危険さえ感じる日もあったのではないでしょうか。その池江さんがプールに戻ってきました、そして優勝をして東京オリンピック代表内定選手にまでなりました。その直後のインタビューで涙を流しながら言われたのが「今、ここにいることが奇跡。今、生きていることが奇跡。」という言葉です。まさに池江さんの実感でしょう。決してはじめから準備をしておいた言葉ではないでしょう。思わず出てきた言葉でしょう。本当に自分が今ここ、このプールにいることが奇跡。あの闘病生活の時にはまたプールで泳げる日が来ないかも知れない、と思われたのかも知れません。そして万が一、この生命さえも危ないかも、と思われたのかも知れません。いろんな方々のご尽力により、今ここに私がいる、今ここに生きていると、感謝の思いが口をついて出てきたのがこの言葉であったのではないでしょうか。 「今、ここにいることが奇跡。今、生きていることが奇跡。」私自身も約100年前の拙寺で起こったことを考えると本当に最近そう思います。まさに首の皮一枚つながったいのちがこの私の今のいのちであると。この文章を読んでくださっている皆さんの上にもこのような不思議なご縁、有り得ないご縁があったればこそ、今こうして出遇わせていただいておることでしょう。                                    しかしこの生命は寂しいことですが、つらいことですが、必ずや終わっていく生命です。『御文章』「疫癘章」では「生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。」 といわれています。生命が終わっていくということは生まれたときから決まっていることである、いまさら生命が終わるということにあまり驚きなさるな。でもね、こんな生命であればこそあなたのことを摂め取って捨てることはないぞ、といわれる阿弥陀さまがいてくださるではないか。安心せよよ、とお念仏の世界を勧めてくださいます。                                             

 「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける」これは親鸞聖人が阿弥陀さまのおこころを讃嘆、おほめくださる言葉です。私たちのこのいのちは自分では分からないですが、はかりしれぬ過去世から生き死にを繰り返して来ました。そしてまたこの人間の境涯を終われば本来ならばまた空しい生き死にを未来永劫にわたって繰り返していかなければなりません。でもそのいのちを摂め取って捨てたまわぬはたらきが「弥陀弘誓のふね」にお譬えくださる南無阿弥陀仏のお名号です。このお名号は生きとし生けるものを分け隔てすることなく、老いも若きも、男であれ女であれ、賢き者も愚かな者も、富める者も貧しき者も全てを摂め取る、つまり全ての者を乗せる船に譬えてくださいます。この「弥陀弘誓のふね」のみが、親鸞聖人が7,8歳の頃に洛中で見たあの道ばたで横たわり亡くなっていった人々を、摂め取って捨てないみ教えであるといただかれたことでしょう。つまり南無阿弥陀仏のお名号のみが私たち一切の者のいのちを輝かすみ教えなのです。        それぞれのいのちが「今、ここにいることが奇跡。今、生きていることが奇跡。」 であり、そして〝今このみ教えに出遇えていることが奇跡〟であるといただくことです。                                                         南無阿弥陀仏
                           2021年 『西光寺寺報』寄稿

三十年表彰を受けて                         

 この度、住職在任三十年を記念して本願寺から表彰していただき、誠に身にあまる光栄です。      思い起こせば父である前住職が往生してのち、私が33歳の時に称名寺の住職を継職させていただきました。父は亡くなる前4年間ほど病床についており、その間の法務は私が父に一つ一つ尋ねながらこなしておりました。ただ当時は私はまだ自分自身の仕事をしておりましたので法務との兼ね合いが大変でした。    その頃、父の病状を見ておりますとそう遠くない日に私が寺院の中心を担わなければならないと感じ、そこで自分の仕事の整理をやり始め、如来さまよりお預かりしているご門徒さまに仏法を伝えなければならないとの思いのなか仏教の勉強をやり直しました。                           そんな折り、人生の師匠と言える先生に遇わせていただきました。この先生から仏法のすばらしさ、お念仏のありがたさを教えていただきました。そしてこの喜び、この尊さを何としてもご門徒さまに伝えねばと思いました。その先生は「常例法座の無いような寺は寺ではない。」と言っておられました。そこでまず住職になって行ったことの最初は毎月一回の常例法座の開催です。『正信偈』のお話でした。話しをする私がまだ慣れていませんので、聞いてくださるご門徒さまはつらかったことでしょう。でも毎月来てくださることにより私の勉強の糧にもなりました。「僧侶はご門徒さんによって育てられる」と言いますがまさにその通りだと思いました。                                       その後、総代会、婦人会、子ども会など住職としてやれることは何でもやろう、みんなで行事に参加しよう、みんなで旅行に行こうと走ってきた三十年です。お陰さまで各法要は満堂に近い状態になってきました。中でも一番うれしいことは総代さまを始め多くの男性陣にお参りしていただけることです。30年前は男の方のお参りはほとんど無かったです。何とかここまでできた、責任を果たせたと自負しております。    それとこれはなかなか困難なことなのですが、ご門徒さん全員が帰敬式を受式して生前に法名をいただいてもらえるよう勧めております。ある枕経の席で法名の有無を尋ねたら「法名みたいな有るわけないわ」と言われました。法名をいただいてもらってないのは寺方の怠慢でしかない、でも法名がないことを堂々と言うのはおかしい。それは少し恥ずかしいことですよ、との思いの中からできるだけ一緒に本山に行く企画を立て、帰敬式を受けていただくようにしております。                          コロナにより少し活動は停滞してしまいましたが、今一度気持ちを奮い立たせて住職退任の日までご報謝に励みたいと思います。                               

                                        合掌

                            『高市組 組報』2021年 寄稿