寺報 『光顔』
令和6年 9月号
おとうさんにもらったやさしいうそ
ぼくのこころにひびいたことばは「おとうさんはちょっととおいところでしごとをすることになったから、おかあさんとげんきにすごしてね。」です。そのときぼくは二さいでした。とても小さかったのでちょくせついわれたのはおぼえていませんが、いってくれたときのどうががおかあさんのスマホにいまでものこっているのですきなときにきくことができます。
このふつうにおもえることばがぼくのこころにひびいたりゆうは、じつはこれがおとうさんがついたうそだったからです。このことばの一しゅうかんごに、おとうさんははっけつびょうでしんでしまいました。そして、このことばをおとうさんがのこしたのはびょうきがわかってにゅういんした日でした。おとうさんは、あえないあいだにぼくがかなしまないように、わざとうそをつきました。うそはふつうよくないけど、これは、おとうさんがぼくのためについてくれたやさしいうそだとおもいます。このことばをどうができくと、おとうさんにあってみたくてすこしかなしいきもちになります。でもかなしいだけじゃなくて、かなしませないようにうそをついてくれたおとうさんのやさしさをおもって「がんばろう」とおもえます。おとうさんがしんでしまったことはしっているけど、おとうさんのうそがほんとうになって、いつかよるおそくにドアのまえで「ドアをあけて。かえってきたよ。」といっているおとうさんにあいたいです。こうおもえるのも、おとうさんのやさしいうそのおかげです。
ぼくからおとうさんにつたえたいことがあります。
「おとうさん、うそがばれてるよ!だってまわりにびょういんのどうぐがいっぱいあるし、おとうさんがよこになっているし、めからなみだがちょっとだけでているし、こえがさびしそうだから。」でもぼくは、だまされているふりをしつづけようとおもいます。
おとうさんがやさしいうそをついてくれたおかげで、ぼくのこころはつよくなれています。これからもおとうさんのことばをまもっておかあさんとげんきにすごしたいです。おとうさん、やさしいうそをありがとう。
「おとうさんにもらったやさしいうそ」 佐藤亘紀(茨城県、1年)
令和6年 8月号
ご院家さん、私はね
これはもともとは私の父親から聞いた話です。私の地元のあるお年寄りから聞いたと。
昭和の終わりから平成にかけて、昭和天皇がご不例であるということで、その肖像がテレビに出たり、あるいは新聞に出たり、その映像が映ったりする。ご不例であるということで昭和天皇の姿があちこちに出ておりましたが、そういう時でした。
「ご院家さん」と、私の方では住職のことをご院家さんという。「ご院家さん、私はね」とあるお年寄りが話してくれたと。「あの昭和天皇の顔見るとね。その日を思い出します。あれは春のうららかな日でありました。役場の方から職員さんが自転車をこいで、家の土間の前に直立不動で立たれます。手を見たら、茶色い封筒を持っておいでになる『ごめんください。お知らせがございます』と言われるから、ははあ、と思うた。お知らせをお聞きしましょうというと、封筒から書面を出して読み上げられる。案の定、我が息子が戦死をした、というお知らせでありました。その時はそれほど涙も出ませんでした。覚悟して戦地にやったんじゃないか、お国のためやようやったとは思いましたが、ただ、それを受け取ってから、さて俺はいったい今から何をしたらええんだろうかと思いまして『そうや、あの田んぼの方へ出とる息子の嫁に知らせてやらねばならんが、言うてやったら泣くじゃろうなと思うたとたんに涙になってしまいました。それでも、知らせねばなりませんから、田んぼに向かいます。嫁が私の姿を見て気が付いたんでしょう、私の顔や姿を見て、手には茶色い封筒を持っとる、その様子を見て、嫁は『お父さん来ちゃいけん、お父さん来ちゃいけん』叫ぶように言いましたよ。それでも知らせねばならん日でした。もういう言葉がありません。嫁と一緒に畦に腰をかけて、ナンマンダブ、ナンマンダブと、お念仏しておりました。何も言えませんでした。ただナンマンダブ、ナンマンダブと、お念仏をしておりました。ご院家さん、私はあの昭和天皇の顔を見ると、その日を思い出しますよ」と言うて、話してくださったということでした。
このような状況は全国にあったでしょうが、そこにも、ナンマンダブツは届いていたんですよ。戦争が一つ起これば吹っ飛んでしまいそうな宗教などがありますが、そのような状況をも越えて、今は私の口からナンマンダブツと出てくださるじゃありませんか。このナンマンタブツがあれば生きてもいける。これがあれば死んでもいける。そうして私どもの先輩方が届けてくださったのがナンマンダブツです。人様の口を動かしてナンマンダブツと出てくださるのを聞いては、ああ、ここにもナンマンダブツが届いていてくださる。
ああ、ここにも如来さまがおいでてくださる。それを確かめることができますね。
深川宣暢 『情をもってねがいて趣入すべし』
令和6年 7月号
かくれ念仏
自分自身を振り返ってみると。この感謝する心は、私の逆徳観の根底を地下水脈のように流れているもので、そこには次のような幼児期の体験が深く作用しています。
私の実家は鹿児島にありますが、まだ四つか五つのころ、父親に迎れられて「隠れ念仏」に同行したことがあります。隠れ念仏とは、徳川時代に藤摩藩によって一向宗が弾圧されたとき、信仰心の篤い人たちによってひそかに守りつづけられた宗教的慣習で、私が幼いころには、まだその習わしが残っていたものと思われます。
他の何組かの親子といっしょに、日没後の暗い山通を提灯の明かりを頼りに登っていく。みんな無言で、恐ろしいような神秘的な思いに浸されながら、幼い私も必死で父親の後をりいていきました。
登った先には一軒の家があり、その中に入ると、押し入れの中に立派な仏壇が置かれていて、その前で袈裟を着たお坊さんがお経を上げていました。小さなロウソクが数本灯っているだけで家の中はひどく暗く、その薄闇に溶け込むように、私たちはめいめい席を取りました。
子どもたちはお坊さんの後ろに正座させられ、静かに低い声で続くお経を聞いていましたが、読経が終わると、一人ずつ仏壇に線香を上げて拝むようにいわれ、私もそのとおりにしました。
そのとき、お坊さんが子どもたちに短い言葉をかけてくれたのですが、もう一度来るようにいわれた子どももいる中で、私はお坊さんから、「おまえはもう、これでいい(来る必要がない)、今日のお参りですんだ」と告げられました。
さらに、「これから毎日、』なんまん、なんまん、ありがとう』といって仏さんに感謝しなさい。生きている間、それだけすればよろしい」といい、父に向かっても、この子はもう連れてこなくていいですよと。〝おすみつき〟を与えてくれました。
幼い私には、それが何か試験に合格したような、免許皆伝と認められたような気がして、誇らしく、うれしかったのを覚えています。
それは私にとって最初の宗教体験ともいえる印象深い経験でしたが、そのときに教えられた感謝することの大切さは、私の心の原型をつくったように思います。そして実際、いまでもことあるごとに、「なんまん、なんまん、ありがとう」という感謝のフレーズが無意識のうちに囗をついて出たり、耳の奥によみがえってくるのです。
ヨーロッパの聖堂などを訪れたときも、その荘厳さに打たれて、思わずこの言葉を唱えたほどで、それは宗教、宗派を超えて私の中に血肉化している「祈り」の言葉であり、心の奥底にまでしみ込んでいる「内なる囗ぐせ」といえます。
なんまん、なんまん、ありがとう。子どもにもやさしく覚えやすい祈りの言葉。それは私の信仰心の原型となった言葉であり。また、私の中に感謝する心を培うきっかけともなった言葉でした。
いつもこの言葉をつぶやくことで、だれに対しても、何についても、いいときはもちろん、悪いときもありがとうと感謝する心を涵養し、できるだけ正しく生きようと努めてき
たつもりです。
禍福はあざなえる繩のごとし-よいことと悲いことが織りなされていくのが人生というものです。だからよいにつけ悪いにつけ、照る日も曇る日も変わらず感謝の念をもって生きること。福がもたらされたときにだけではなく、災いに遭遇したときもまた、ありがとうと感謝する。そもそもいま自分が生きている、生かされている。そのことに対して感謝の心を抱くこと。その実践が私たちの心を高め、運命を明るく開いていく第一歩となるのだと、私は心にいい聞かせてきました。
『生き方』より 稲盛和夫
令和6年 6月号
あさましいヤツであった
ある九十歳を過ぎた老夫婦は、「おかげさま」「ありかたい」という日暮しをしていましたが、そのおばあさんが脳出血で倒れて、寝込んでしまわれました。そこで、数人の友人がおじいさんを慰めようと訪ねて来ました。そのとき、おじいさんが友人に話したことです。
おばあさんが粗相をして腰巻きを汚してしまいました。おじいさんは、若いお嫁さんに洗ってもらうと、おばあさんも肩身がせまいだろうと思って、お湯を沸かし、タライを出して腰巻きを洗って、隠居部屋の物干しに掛けておきました。
そのおじいさんが干している様子が、おばあさんには見えました。おばあさんは「モッタイナイ」といって、おじいさんを拝みました。おじいさんは六十年間、ふんどしを洗ってもらってお礼をいったことがないのに、たった一回腰巻きを洗っただけで拝まれました。おじいさんは、拝まれたときの気持ちを「自分は何とあさましいヤツであったかと、今朝ほど思い知らされたことはない」と、見舞いに来た友人たちに話しました。
この話を聞いた松扉師は、次のように述べられます。
「ふんどし一枚すら女房に洗うてもらわねばならないところに立って、生かされて生きておるのがこの身でしょう。にもかかわらず、われわれは”あたりまえだ”というところにしか立っていない。真実を見る眼を持たないために〝あたりまえだ〟 と言うて、まだ不足を言うて生きているのが、お互い私たちの今の生きざまでありませんか。」 松扉師の人間成就の道についての見解から考えますと、自分中心の煩悩にふりまわされているから、「あたりまえだ」といってまだ不足までいっていることになります。ところが、「あたりまえだ」といっていたことが「あたりまえ」でないことがわかりますと、不足の言葉にならず感謝になります。
私の推測も含めていえば、この老夫婦は元気なときは常々お寺にお参りされ法話を聞いておられました。そのためにみ教えが身につき、「ありかたい」「おかげさま」という日暮しをされていました。ところが、おばあさんの「モッタイナイ」という言葉によって、六十年間、下着を洗濯してもらいながらお礼さえいったことがなかったことに、おじいさんは気づきました。洗濯をしてもらっていたことをあたりまえと思っていたのでした。「モッタイナイ」の一言で、おばあさんの六十年間の下着の洗濯が支えであった、恩恵であったことに気づきました。
それとともに、気づけなかった自分が「あさましいヤツ」と知らされることになります。おじいさんは、み教えを聞くなかであさましいこころを持った自分であることは知っていたのですが、この「あさましいヤツ」はまさに実感で、自分を恥じ情けないと思ったのです。おじいさんは改めて、おばあさんに生かされて生きてきたことに気づかされました。
おばあさんは自由には動けなくなられましたが、老夫婦はお互いに生かされて生きる日暮しをされそうです。お互いが支えられていることを感じながらの生活は幸せな生活になります。
村上泰順 『月々のことば・令和4年』より
令和6年 5月号
木下明水
如来の大悲、短命の根機を、本としたまへり。
去年、私は十代の男の子のお葬儀を勤めました。癌と診断され一年半、高度医療も受けましたが、もう手の施しようがないと告げられました。
この子は、住民に慕われた食品や酒類煙草を扱うお店のお孫さん。両親が自衛隊のため親元を離れ大きくなりました。
「癌を患っている」、その話を憔悴したお婆ちゃんから聞いた時、足がすくみました。治療の余地がある時でしたから、望みを捨てないようにと伝え、お店の入口で立つたまま、「その苦悩をご存じの阿弥陀さまがおられます。身に満ち満ちて、南無阿弥陀仏と響き、捨てることができないと仰います」と話をしました。そして、言葉を選びながら安心して生まれ往くお浄土の話をしました。
すぐに、この子のお母さんは長めの休暇を取り、一緒に過ごすようになりました。離れて暮らしてきた母子にとって黄金のような日々であったでしょう。不安な顔は子も辛いから、お母さんはいつも笑顔でした。「大丈夫」「来年、旅行に行こう」「早く家に帰ろう」と、何度も子どもに嘘をついただろうと思います。
この子が亡くなりました。通夜から四十九日を迎えるまで、阿弥陀さまの慈悲深きおすくいを話すばかりでした。お母さんは、ずっと笑顔でした。幼い娘達がいるからです。毎日、嘘をつくのでしょう「お母さんは大丈夫」と。
死んでいく子、子をなくす家族に、心を整える余裕も、生活を改善する体力もありません。ましてや、生き方を示しても意味がありません。この世界、大事な家族、友人を愛おしく思う心は、日に日に高じるばかりでしょう。道徳のように正しく生きることを説いても、お母さんは、子と自分の心も騙して嘘をつき続けます。
私の苦悩をご存じの阿弥陀さまは、生き方や心のことは仰らないのです。お母さんは、辛い現実に身と心を磨り減らし、人知れず床に額を擦り付けて泣いたでしょう。この涙を知るのは阿弥陀さまです。この子のために、むなしくは過ごさせない、あなたをお浄土に生まれさせ仏に成す、南無阿弥陀仏となりすくうと、ご本願をお立てになったのが阿弥陀さまです。
本願寺第三代宗主の覚如上人は、「如来の大悲、短命の根機を、本としたまへり」とお示しになられました。阿弥陀さまは、極限状態のいのちの者を急ぎ救うため、お慈悲のすがた南無阿弥陀仏と響きわたってくださいます。一声でも称えられる仏となり、耳に響き、「われにまかせよ そのまま救う」と喚んでくださいます。苦悩の表情を浮かべ、軋む身体から恨み言を吐き、誰も分かることのない悲しみを抱えて死んでいく、煩悩具足の私だからこそ、何も求めず、全て阿弥陀さまのはたらきで「そのまま救う」と仰るのです。
これから、このお母さんは、「またあの子とお浄土で会うのですね」と、阿弥陀さまに甘えるのです。甘えることのできる仏さまです。
『季刊せいてん 143号』より
令和6年 4月号
いのちを物語る
数年前のことです。わたしのお寺の幼稚園での出来事ですが、五月ごろのある朝、庫裏にいたわたしの妻が、幼稚園の方から男の子の大きな泣き声を聞きました
「せんせー おしっこもれたー」
ああ小さい子がおもらしをしたのだろうなと気づき妻は庫裏のなかから園の様子をを窺っていたそうです。するとそこに一人の先生がかけよってこられ、開口一番こう仰ったそうです。
「OO君、よかったね、幼稚園でおしっこできたね」
まったく想定していないことばだったと、妻は驚かされていました。わたしも話を聞かせてもらって、まさに目からウロコです。きっとわたしだったら、「だいじょうぶ、着がえもあるから心配しなくていいよ、だいじょうぶ」とひたすら慰めていたと思います。 しかし、そのような言葉では、その子の涙を受けとめることはできなかったでしょう。状況は目に浮かぶようにわかります。おもらしは一旦はじまると、まさに堰を切ったように、あっというまに下着もズボンもぐっしょりです。ああ…と足もとに視線を落とすと、足もとは水たまりになっています。絶望的な思いで顏をあげると、その様子をまわりでたくさんのお友達が見ているわけです まさにその子は、もうどうにもならない、どこにも逃げ場のない状況に、たった一人で立ちつくしていたことでしょう。そのような状況でいくら「心配しなくていいよ。」と慰めても、そのような言葉では、むしろその子を追いつめたかもしれません。慰められるほどに、ああやっぱり失敗してしまったのだ…と、その子は自分を責め、心を閉ざしていったかもしれません。しかし先生は、その子に起こった出来事を一緒に受けとめつつ、たった一言のことばで、その子には思いもよらない世界を拓いてくださいました。「よかったね、おしっこできたね」その一言で、きっとその子の目のまえの世界は、まさしく一八〇度意昧がひっくり返ったことでしょう。あとから先生方に伺いますと、その子は入園して間もない幼い子だったそうです 子どもたちはみな同じですが、入園してくる子どもたちは、はじめてお母さんお父さんから離れて、はじめて集団生活にとびこんできます。人生で最初の、そしてもしかしたら一番大きな冒険かもしれません。けじめはどの子も泣くものですし、春頃はとくに泣き声が絶えません。 その子は、どうしても園でも生活に慣れず、お手洗いができなかったそうです。先生方は、こまめにお手洗いに行くよう指導してくださっているのですが、その子はどうしてもおしっこができず、なんと毎日おうちに帰るまで、必死になっておしっこをがまんしていたそうです。〇〇君、体こわさないといいけれど…と、先生方はみな心配していたそうです。けれど、その朝はどうしてもこらえられなかったのでしょう。一旦堰を切りたら、もう止まりません。その子はまさしく、どこにも逃げ場のない世界に立ちつくしていたことでしょう。しかし、先生はたった一言で、その子にまっさらの世界を拓いてくださったのです。「よかったね、幼稚園でおしっこできたね」あとのことは分かりませんが、もしかしたら次の日からは、お手洗いに足が向いたかもしれません。
もはや自分ではどうすることも出来ない、もうどこにも逃げ場がみえない、そのような生きることの悲しみや苦しみがある。しかし、その悲しみすべてを抱きとめたその上で、自分には思いもよらない、生きることの意味を拓いてくださる、そういう言葉があるのですね わたしには想定することすらできない「他なる者のことば」が、わたしには思いもよらない、まっさらな意味を拓いてくださるのです。先にもお話しましたが、人間は事実ではなく、意味で生きています。だからこそ、意味が変わればすべて変わります。現在も変わります。未来も変わります。そして過去すら、意味が変わればすべて変わっていくのです。私たちは、過去は変えられないという考えを手放すべきでしょう。そして、生も死も前後不覚でいきている凡夫のいのちを抱きとめ、凡夫には思いもよらないまっさらな未来を照らし出し、久遠の過去にかぎりなく豊かな意味を拓いてくださる言葉、いのちを物語ることば、それこそが仏さまのことばなのです。
武田一真 『仏教LIFE』より
令和6年 3月号
ほとけさまとの出遇い
橋本勝(群馬馬太田市)
私のほとけさまとの出遇いは、終戦も間近い4歳の頃でした。兄や姉から「朝起きて顔を洗ったら、ほとけさんにナンマンダブと言ってこい。それからごはんだ」と言われた時からです。家族みんながそうしており、なんの疑いもなく、高校を卒業し東京へ集団就職するまでは、これが毎日の日課でした。
また、当時の思い出として。お仏壇には菓子などがあって有り難いものでした。こっそりいただいたのですが、それがばれると「悪いことをするとバチがあたって、エンマさんに舌を取られるよ」と叱られ、隣の地区のエンマ堂によく連れられたものでした。
エンマ堂にはエンマさんが10人ほどおられ、恐ろしい顏をして怖かったものです。しかし、このような生活は、ほとんどの子どもがしているのが当たり前で、なんの疑いもありませんでした。さらに、菓子目当てだったので、ほとけさまをじっくりと見たこともなくて、ほとけさまの扉も常に開いていたと記憶しております。これが、私が社会人になるまでの「ほとけさま」の思い出です。
現在、お寺で水曜日、仏教の学びの会に参加して、当時のことを想いながら、「ほとけさま」は「お釈迦さま」だと信じていた私にも「ほとけさま」をあらためて教えてもらいました。
浄土真宗のご縁をいただき、「ほとけさま」は「浄土真宗の教韋(私の歩む道)」に示されています「本尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)」であり、無量の光と無量の寿の仏さまと教えていただきました。
阿弥陀如来は、浄土真宗の正依の経典である『仏説無量寿経』にその仏願のいわれが説かれており、その教えの要点を、ご門主さまのご著書『仏の教え阿弥陀さまにおまかせして生きる』からお教えいただいております。
コロナ禍が世界中に拡大している現在、阿弥陀さまにおまかせして生きるみ教えに出あっていることに感謝させていただくばかりです。
令和6年 2月号
心臓に聞いてみてください
今、担当している九十九歳の患者さんがいます。口を開けては「長生きしすぎた、あの世に行って楽をしたい」と言います。彼女だけでなく私たちの理知分別は賢げに「人に迷惑をかけるようになる」「生きがいがない」「私は悪いことはしてないから、浄土に生まれることができると思います」などと発言します。
私は彼女に言いました。「われわれの頭は勝手で、無責任に、死にたい、こんな私は生きがいがないとか言いますが、今晩、心臓に聞いてみてください。肺に聞いてきてください。もし心臓や肺が死にたいと言うのだったら、止まったり、サボったりしはじめると思いますよ」
数日して朝、あいさつの後「心臓や肺は、どう言ってましたか」と声をかけました。「心臓も肺も死にたいと言っています」。彼女は体の声に耳を貸さないのです。
そこで今度は「あなたの希望通りに死ぬには、絶食すれば一週間で希望がかなえられますよ。しかし、途中で、喉が渇いた、おなかがすいたということになると、それは体がまだ生きていきたいと言っている証拠ですよ」と、こんな冗談めいた会話が数日続きました。
そしてある朝、「おいしそうにご飯を食べていますね」と声をかけると、「手が勝手に動いて食事をするのですよ」と絶妙な反応が返ってくるのでした。
われわれは長年の経験から、自分の「意識」の言うことはよく聞いて、自分の思い、考えこそ確かなものとして、他の意見や思いがけない発想にはなかなか耳を貸そうとしません。
今、生きていることは、無数の支えによって生きている、いや生かされていると言った方が適切かもしれません。しかし、自分では生きているのが当たり前と思い、自分のお金で食べ物を買っている、人に迷惑はかけていないと言い、揚げ句の果てには生きがいがないから死にたいなどと言う。「意識」は傲慢になっているのに気づかないのです。
空気、水、自分の体、食べ物になる無数の生き物、家族、社会の多くの人の働き等々、当たり前と思っていることの「ある」ことの難しさに目覚めるのが智慧でしょう。
初心忘るべからず
世阿弥の『風姿花伝』(一名、花伝書)の中にある「初心忘るべからず」という言某は有名です。その初心の内容を調べてみると「是非の初心(通常使われている最初の決意)」、さらに、「時時の初心(三十歳台、四十歳台等その時々に決意すること)」、そしてさらに「老後の初心」となっています。
この言葉は、一つの道を究めていく上での大切な要点を教えてくれています。初心の心は「未熟な時代の自分の姿を見つめる」ことを意味しています、いろいろなことを謙虚に学ぶという姿勢で無心に物事に対する姿勢を教えてくれているのでしょう。そして「驚く心」を持ち続けることだと思われます。
私たちが人生を生きていくことも、一つの道と考えられます。生きることの専門家、生きることのプロになることが大切です。そうすれば、年齢を重ねるごとに輝きを放つ人生を生きることが実現するのです。
しかしながら、私たちの日常生活の内容の八〇~九〇パーセントは前日の繰り返しといわれています。私たちの意識を苦しめるものとは、初心とは反対の「マンネリ化」です。そこには人間の「慣れ」と自分の思いに「とらわれる」という問題があります。この課題の克服には、区切りをつけることが大切だ、と仏教は教えてくれています。
たとえば「死ぬ練習」というのはどうでしょう。「エッ」とびっくりされるでしょうが、具体的には「朝起きるときが今日の私の誕生と受け取り、初心を持って出発して、今日の仕事を精いっぱい取り組む。そして夜、寝るときはこれで今日の命を終わる(死ぬ)と思って休む」これがまさに「死ぬ練習」です。区切りをつけることの大切さを言いたいのです。人生はこの繰り返しとなるのです。
「今」「今日」が明日のための手段・方法でなく、目的であるような受け取りをできるためには、今、今日を初事として初心で受け取るのです。そうすると仏の智慧によって、今日は今日として区切ることができていくのです。
仏教の「縁起の法」が、このような生き方こそ本当の物事のあり方ですよと教えています。万物は一刹那ごとに生滅を繰り返すというあり方をしていて、人間も同じあり方をしていることに目覚めなさい、と教えています。
田畑正久 『医者が仏教に出遇ったら』より
令和6年1月号
極楽の景色
また、「青色青光、黄色黄光、・・・」の一文については、私の人生のすべての出来事がそのままに意味を持つからこそ、いまここに私がいるという、いのちの事実を教えているようにも思います。私事ですが、子どもが二才くらいの時、二人で積み木をしたことがあります。私が四角の積み木を積んで上に積みあげていこうとすると、子どもは「違う」と言って私の積み木を崩し、三角や丸の積み木を置いて、その上に積み重ねようとします。「それじゃあ、積み上がらないよ」と言い聞かせても幼い子どもは聞きません。私は「好きにすればいいわ」と思って、そのまま見ていました。すると、いびつな形でしたが、何やら積み木が積み上がり、それを子どもは「できた」と手をたたいて喜んでいました。それを見た時に、ふと気付かされました。
皆さんは、これまでの人生、いいことばかりでしたか。残念ながら私は違います。良いことも勿論ありましたが、思い出したくもないような後悔もたくさんあります。ですから、私の人生は、四角の積み木だけで作った綺麗に整ったものではなく、丸も三角も四角も色々な積み木がごちゃ混ぜに積み重なった、いびつな形をした積み木なのです。しかし、よく考えてみれば、色々な形の積み木があってこそ、その形はできている、いまここにこの私があるのです。そう思うと、なぜか今までの出来事が、何か意味を持っているように思えます。こ
れまでの人生のすべてが、意味をもって輝いているように思えるのです。いまこうして仏法に出遇い、この文章を書いていることも、皆さんがこの文章を読んでくださっていることも、そうなのです。
つらいこともたくさんあります。苦しいこともたくさんあります。でも、いびつな形の積み木であっても、色々な形の積み木に支えられてある私であるならば、その私をそのままに引き受けて生きていかなければなりません。それを可能にするのは、阿弥陀さまが「それでもお前を捨てない」と摂取不捨の願いをかけてくださっているからではないでしょうか。本願が共にあるからこそ、私たちはこの人生を歩んでいけるのだと思います。そして、その眼差しによってこそ、何が正しいことであるのかも知らされてくるのではないかと思います。
なお、蓮の描写は「無量寿経」にも記されています。そこでは。
「その華の光明に無量種の色あり。青色に青光、白色に白光あり、玄・黄・朱・紫 の光色もまたしかなり。」
とあります。この中、「玄」とは「黒色」を意味します。私たちが暗いイメージを持つ「黒色」も、浄土ではその色のままに光り輝いているのです。つらく、苦しいことの多い人生です。しかし、その一つ一つが光り輝いて私の人生を支えているのかもしれない、そう思って前を向くことの大切さを、極楽の蓮の光は教えてくれているように思います。
三浦真証 『阿弥陀経を読む』より
令和5年12月号
平生業成 稲城選恵和上
他の宗教は数珠を切る。これは煩悩を取るということです。このくらいで取れますか。煩悩を取ったら、今が仏です。ところが「正信偈」に「不断煩悩得涅槃」とありましょ。これが六字の法に遇うたら、「煩悩を断ぜずして涅槃を得」というんです。
お寺が多くても法を説かんと駄目じゃ。せっかくお寺があっても教えを説かん。以前、本山の総会所の御示談でな、後にも先にも一回だけありました。『私の妹が42才なんです。肝臓ガンであと二十日ほどしか命がない。すると妹が、「姉ちゃん、後生が気になって眠れん」という。どうしたら助かるか?』という質問。これは御示談じゃから紙に書いて聞くんじゃが、この御示談の三日前に本山に電話で尋ねたそうじゃ。「どうしたら助かるか?」と。ほいたらな、「もう三日したら御示談に稲城先生が來られるから、それまで待ってくれ。」と言うたと。こういう坊さんは袈裟とらないかんので。得度の時、ちゃんと躾けないかんのです。この答えをちゃんと言えにゃ住職と言えんの。腹決めとくんで。「今が終いでも間に合う法に遇う」、これが蓮如さんの御文章、それが平生業成という。何か?それはたすかる法が先に届いておる。それが「たすけたまへ」です。たすかる法が先に届いとるのが仏壇の意味なんです。じゃから庄松は「後生のことは阿弥陀さんに聞け」と言うた。こっちが先に聞いてたすかる法と違う。それは反対になっておる。確かな法が先手やから、こっちのはからいは負けなんです。たすかる・たすからんは法の受け持ちなんです。「たのむ」とは、「仏の受け持ちじゃ」という。それが蓮如さんの解釈です。「たのむ」をこっちの受け持ちにして「お願いする」になると、浄土宗なんです。そこを聞き分けにや。教えを説く人も、ここを聞き分けにやお寺の説教にならんのです。
「よう聞きなはれ。」と、「聞く」ことばかりで。「聞くことが先」じゃないんです。聞くのが先じゃったら、「今」は駄目なんです。聞くより先に、すくいの答えが先に届いておる。それを「たすけたまへ」と言うんです。先に届いとるということが仏壇の意味なんです。死人のためではないんです。死んだ人と切り離したら、お寺が食べていけんように思うておる。食べていけんかったらそれでええ。お仏壇は私に関係するものです。探すことも、おるか・おらんか確かめることもいらんのです。お前がおる所にちゃんと届いておる。先に届いておるから、わしの後生の受け持ちは、仏の受け持ちじゃ。
お、もう時間か。来年じゃ。来年まで死なんように。私も死なんようにしますから。ただし、これが済んだら死んでもええけどもの。
『妙好人さまへ』より
令和5年11月号
パワースポット 三上章道
つい最近、ある家族五人が私の寺に初めて参拝されました。七十歳代の夫妻、四十歳代の息子さん夫妻、小学生のお孫さんです。七十歳代の夫妻は、昭和四十年代に結婚した後は仕事で全国各地を転住されましたが、息子さんが滋賀県に新しく住宅を購入したので同居されることになりました。それを機に郷土の親戚に預けていたお仏壇を引き取ったのでお参りしてほしい、と私の寺に依頼があり半年はど前にお宅へお参りしました。その後、「ご挨拶を兼ねてお寺にも一度お参りしたい」と、家族とともに来られたのです。
本堂でお参りされ、ご主人は「懐かしいですなあ。小さい頃、田舎のお寺の境内が遊び場所で、本堂では子ども会が開かれていました。やはり本堂は落ち着きますねえ」と言いながら、息子さんやお孫さんに「お寺の本堂に上がらせてもらったのは初めてやろう」と声をかけられました。おじいさんを真似て手を合わせていたお孫さんが「パワースポットみたいやなあ」と答えました。
「パワースポット」とは、最近よく聞く言葉ですが、「聖地」「霊域」や「落ち着く」あるいは「超自然な力によって健康や元気を与えてくれる」など「癒やしの場」のことです。その言葉が子どもの世界にまで浸透していることに驚きましたが、確かに本堂には「落ち着く(癒やし)」という雰囲気があります。ただ、作家の青木新門さんは「人は宗教を見失ったとき、癒やしを求める」とも言っておられます。つまり、「健康や元気をもらえる(癒やし)」だけでは「相手への気遣い」までは至らないということです。現代はまさに「宗教が見失われている」時代ではないでしょうか。「まんまんちゃんが見てはるよ=全てのいのちが繋がっている」という宗教です。「(なぜか)音楽をやった人に優しさ」を感じたなべさんや「(なぜか)相手のことは知らん」という子どもに出会った大平さんの「疑問」の背後に「宗教不在」があるように思うのです。
祖父が仏壇を引き取られ「お寺にもご挨拶に」と子や孫とともに参拝されたのは、幼い頃に仏さまに手を合わせた経験がさせたのでしょう。家にお仏壇(ご本尊)がなく(合掌をすることもなく)、幼い頃からお寺に行ったことのないこの息子さんやお孫さんが、この「親(祖父)の後ろ姿」を引き継ぐお手伝いを私もともにしなければならないと思いました。
この二十年はどの経験であるが、月参り(亡くなった方の命日のお参り=月忌・逮夜)のときに「ごえん(住職)さん、息子(後継者)はお仏壇のことは何も知らんし、お寺のことも出来ないと思っていてください」ということをよく聞かされる。ほとんどが後継者は遠隔地に住んでいる方で、「申し訳ない」という気持ちからそういう言葉がでてくるようである。そういう方には、「強制したらあかんけど、帰って来られたときには、どうぞお仏壇へお参りしてください。きっと後ろ姿を見ておられますから」と言ってきた。
できなくなった「合掌を取り戻す」には、いろんな方法があるだろうが、ここで紹介した「七十歳代の夫妻」のように「お仏壇(ご本尊)を中心にした生活、さらにはお寺へのお参り、そして本山参拝」を取り戻すことが一番のように思うのだ。少なくとも「理屈」ではない。それは、また私のこれまでの「経験」にも重なる思いである。
西本願寺の大谷光真門主は、『朝には紅顔ありて』(角川文庫)において、牛尾治朗氏(ウシオ電機会長)と対談される中で、最近の人間として考えられないような事件が起きている現状、背景を述べられた後、「半分、我田引水かもしれませんが、家にお仏壇のある家庭で育った子どもと何もないところで育った子どもではちょっと違うと聞きます。お仏壇のある家庭で育った子どもは、何か深刻な事態に遭ったときに立ち上がるというか回復する力が育っているという話を耳にいたします。ですから、子どものころから何か目に見えることだけではなくて、人間が育っていく、心が育っていくような環境を私たちが用意しないと、ますますひどくなっていくと思います」と語られている。ご門主は『愚の力』(文春新書)でも、「仏壇のある生活」を述べられている。
『合掌できない子どもたち』より
令和5年10月号
大悲無惓常照我
私は今から十八年前に夫婦二人で入寺をさせていただきましたい当時、右も左 もわからない私にご住職は優しく、丁寧にご指導くださいました。
毎朝、ご住職から「今日はAさんのお宅にうかがって、お勤めはお正信偈さま。 それから何月何日にお寺の法要があるから、お参りに来ていただけるようご案内を して、帰って来てください」と言われておりました。私は言われたとおり、日々お 務めをさせていただいておりました。またご住職自身も、ご門徒さまとお会いする際は、「今度の法要には必ずお参りください」とお誘いをされておりました。
しかし三年が経過しても、ご住職は私に毎朝、同じことを言われるのです。私は、「さすがに毎日同じことを言われなくてもわかっているのに……」と思いながら、少し聞きにくく感じておりました。特に、「お寺の法要にお誘いをしてください」という言葉が、徐々に聞きにくくなっていました。なぜなら私には、「僧侶として自分が聞かせていただいた仏法を、ご門徒の皆さまにも聞いていただきたい」「仏法に遇えた慶びをご門徒さまとともに分かち合いたい」という思いが、心の中に沸き起こっていたからです。
ですから、「そんなことは住職に言われなくても、自らの思いでご門徒さまにはお誘いいたします……」と言えたかというと、そのようなことは囗にはできず、心の中で何度も呟いていました。
それから数年が経ち、私は住職を継職させていただきました。いつものように法要のご案内をしておりますと、あることに気づかされました。それは毎回お参りをしてくださる方には、何度でもこの言葉を言えるのです。しかし、いくらお誘いをしても、まったくお参りになられない方やお誘いすることを拒絶するような方に対して、「今度の法要にお参りしてください」という言葉が言えなくなっている自分に気づいたのです。お誘いに応じてお参りに來てくださる方には言い続けることができますが、そうでない方には、「この人はいくらお誘いをしてもお越しになられない」「お誘いしても意味がない」と、なかば諦めた気持ちになり、匙を投げてしまっている私かいたのです。
一方、前住職は、「あなたがお参りになろうが、なるまいが、そのようなことは関係ない。むしろ、お参りされないのなら、お参りになるまで私はあなたをお誘いし続けます。それが住職として果たすべきことであります」と、どのような方にも同じことを言い続けておられたのだと思うと、改めてお誘いし続けることの難しさと尊さを感じるのでありました。
阿弥陀さまは私が願いに気づいているかそうでないか。いや、仏法に背を向け、煩悩を抱えてしか生きられない私を、決してあきらめることなく照らし育て続けてくださっているのです。
『月々のことば』令和五年版より 宮部雅文
令和5年 9月号
「穢土」の看取り・「浄土」の看取り
「看取り」の話に入ります。「穢土」の看取り、この立脚点はもちろん「穢土」です。「穢土」とは、この世のことです。穢土の価値観は「是非善悪」で成り立っています。これがいいとか、あれが正しいとか、おまえが間違っているとか。毎日の生活は「吉凶禍福」、占ったり運がいいとか、ラッキーだとか。「穢土」の感覚は、こういう感覚です。これが現実に我々が身を置いている善し悪しの世界です。「穢土」のなかで看取りをしていく仕方は、終末に向かっていく人を脇でみているのです。傍観者的な見方です。脇で見ている見方とは、例えば「応援する」という言葉もあります。応援したり、頑張りなさいねと言ったり、看護するとか介護するとか、要するに他人の目線でやっているわけです。これが「愛」のやり方です。自分というものをとっておいて、ほかを見るということです。「人道主義」も同じ感覚です。「穢土」の着取りとは他人目線であるということです。
では、「浄土」の看取りとはどういうことか。「浄土」の看取りの立脚点は「浄土」です。「浄土」は、善し悪し、長い短い、若い年寄りというものが消失したのが「浄土」の価値観です。
「老少善悪のひとをえらばれず」というところです。老少善悪を超えた「浄士」の感覚が、「浄土」の看取りの立脚点です。看取りの性方とは、例えば、生体の死(命終)という時点をゴールに設定したとします。すると死んでいく人が命終というゴールに向かってむこうから走ってやってきます。その姿を脇に立って手をかざして見ているのが、「穢土」の看取りの仕方です。「浄土」の看取りとは、ゴールより迎え入れる側にいるのです。そしてゴールに入ってくる人を待っているのです。待ちうけです。また、これを「お迎え」といいます.特定の人間や、過去に死んだ人たちがお迎えに来るなんて。そんな馬鹿な……。
来る人を迎えるから「来迎」というのです。これは私が勝手に解釈しているだけの話ですよ。だけど、感覚としてはそういうことです。
若い人も年寄りも、がんで死ぬ人も自殺する人も入ってくる。「あなたよく頑張ってきたね」と、「あなたは、あなたの人生をよく頑張ってきたじゃないか」と、そこで迎えてあげるのが「浄土」の感覚です。自分が迎えるだけではなく、それこそ仏たちと迎える。仏とは過去に生きてきた人たちです。「去来現」といいます。過去、未来の仏たち、今の仏たちと一緒に迎える。「よく頑張って生きてきた。あんたには、いろいろな事情があった、離婚もあったし、樽手でよく三人も育てた、よく頑張って生きてきたね」と、それをお迎えする。それは賛歌ではないでしょうか。称えるのです。「浄土」の看取りと穢土の看取りとは立ち位置が違うのです。
我々が浄土の感覚を持たなければならないというところなのです。我々が「浄土」の住人にならなければならないのです。別な言いかたをすれば「信心」を得るということに他なりません。「浄土」の感覚を常に自覚していることは不可能ですが、立ち位置として「浄土」に足を置くことが大事なのです。そういうところで、「ビハーラ」をやったり、看取りをやったり、あるいは患者を診たり、あるいは坊さんをやったりということです。ここに立ち位置を置くと物事は矛盾しなくなってくるのではないかと思います。まことに何千通というたくさんの死亡診断書が、私に教えてくれたことでした。
この「浄土」の感覚、「浄土」の看取りというものを持って、もう一度「穢土」に還るのです。「穢土」 に還るとはじめて寄り添うということが可能になるのです。真の寄り添うとはそういうことです。「浄土」の感覚を持って寄り添わなかったら、ただ脇に座っているだけにすぎません。
最後になりますが、我々は生まれてきた意味があるのです。なぜかというと浄土の一員ですから。もともと救われているのですから。救われるとか、救われないとかいうことを苦労する必要がありません。清沢満之先生のお言葉にも「如来まします案ずることなかれ」と。「如来はいます。あなたが案ずる必要はない」と言っています。だから今という現実を思いきって生きることができるのです。「生きるだけ生きよ。いかように生きようがそれで良し。後のことは心配いらぬ」これが浄土真宗です。熱い熱いいのちの讃歌です。
「念仏医療者たちの臨床聞法録」より 内田桂太
令和5年 8月号
モノサシ
私たちはそれぞれ、自分のモノサシで他人や自分を測りながら生きています。一人の人間の中にも、たくさんのモノサシがあります。お金、地位、学歴、外見等々。親や学校から学んだモノサシもあれば、本やテレビに教わったモノサシもあります。仲問と共通のモノサシもあれば、自分が経験の中で作り上げてきたモノサシもあるでしょう。
人と人とが出会うとき、それぞれのモノサシがぶつかり合います。結婚生活は、その最たるものでしょう。家事の仕方、働き方、生活習慣、金銭感覚、ありとあらゆるモノサシの違いが浮き彫りになります。
私が広島のお寺の住職と結婚して間もなくのこと、夫が朝食の目玉焼きにお好みソースをかけるのを見て目を見張りました。さらにその上にかつお節をかけたときには思わず「お好み焼きか!」とツッコミを入れてしまいました。関東の私の実家では、代々「目玉焼きには醤油」という伝統をかたくなに守ってきたのです。
私は早速、日本の伝統調味料である醤油がいかに目玉焼きにふさわしい選択であるかを力説し、全国規模のアンケートを引っ張り出してきました。それによると、確かに醤油派が過半数を占めています。しかしデータに基づいた私の説得は、夫の「でも、こっちのほうがおいしいよ」の一言で一蹴されてしまいました。今では二人の子どもたちが「何にでも合うよね~」と言いながら、天ぷらやアジフライにまでお好みソースをかけています。私は完全にアウェイです。
さすがに、料理にかける調味料が違うからといって別れる理由にはなりませんが、私たちは日々、自分のモノサシで全ての物事を測り、好きだ嫌いだ、勝った負けた、正しい間違っていると判断を下しています。
仏さまは、いのちを測らない、比べない、裁かないお方です。どのいのちも愛おしい仏の子として見ていらっしゃいます。ということは、仏さまのモノサシには、目盛りがないのでしょうか? 端っこもないのでしょうか? つまり、仏さまのモノサシは、点も線もない○の形なのでしょうか? 私は、手元の15センチモノサシをつくづく眺めながら、仏さまと自分のモノサシのあまりの違いに思わずため息を漏らしていました。
前田純代 『大乗』令和3年 5月号より