寺報 『光顔』

令和7年1月号
喜びも悲しみも幾年月
ずいぶん前の話ですが、木下恵介という監督がおやりになった「喜びも悲しみも幾年月」という映画がありました。「おいら岬の、灯台守は~♪」というあの歌で覚えておいでになる方もあると思います。まあ、この歌を知っておられる方というのは、だいぶ年寄りですね。「妻と二人で沖行く船の♪…」という歌ですね。その映画の主題歌である「灯台守の歌」ですね。その灯台守というのは、今はもういないようです。昔は、それぞれの岬、岬に灯台があって、その灯台を、その下に住んでいる家族が、灯台を守ってレンズを磨いたり、あるいは灯がちゃんと届くように管理をする。そういう灯台守が居たんですね。全国あちこちに灯台があるから、灯台守たちはあちこち転々と移り住みながら灯台の管理をするわけです。日本で有人の灯台が最後に残っていたのは、長崎の五島列島だそうです。灯台守が最後までいたのが長崎の五島の灯台だったということです。
私は木下監督のその映画を直接見てはいないんですが、お話を聞きました。大嵐の時に、防波堤の灯台が消えた。こんな時にこそ灯台の灯が救いになるんだと、その灯をつけに命がけで修理に行ったというようなシーンもあったようです。そこに住んでいる灯台守の夫婦が、沖を行く船を見ながら会話をするわけです。「あの船たちはね、ここに灯台があるのを見るのは見るだろうけど、感謝してくれているだろうか。ありがとうって言うてもらいたいけど、言うてはくれんよね。だけどな、私たちはね。ありがとうって言うてもらえんでも、この灯を灯し続けてゆかにやならんのだよ」というシーンがあると。この灯をわれわれは灯し続けにゃならんのだという話をするわけです。これが灯台守の仕事だったのです。
私どもは、どうやら煩悩に眼を障えられて、如来様のお救いの光も見えないようです。それをどう表現しましようか。どうやってそれにありがとうと言うたらええのだろうか。
なに難しい事ではない。極重悪人唯称仏、ナンマンダブツと言えばいいんですよ。我々の如来様は声になってくださいました。目に見える仏様ではなくて、南無阿弥陀仏と届いてくださる、如来様になられたんです。声の仏様です。聞こえる仏様です。目でも聞けるし、耳でも聞ける。鼻でも聞ければ口でも聞けるんです。「味を聞く」と言うでしょう。「香りを聞く」とも言うでしょう。聞こえるんです。聞こえる仏様になってくださったのが私どもの仏様。
深川宣暢 『情をもってねがいて趣入すべし』

令和6年12月号
人生の日暮れは寂しいぞ
私も少し年をとりましたから時々、寝ながら考えます。布団かぶりながら、このまんま、目が覚めなんだらどうしよう、どうなるだろうか、ちょっと準備しておかないかんことあるな、こういろいろ考えながらも、でもよく考えたら、生まれてきた時には何にも持たずに真っ裸で生まれてきたじやないか。その間には、いろんなものを着せてもろうたり、脱がせてもろうたり。今度は自分で着るようになり、脱ぐようになり。あるいは柱を立てて屋根を葺き、そうやっていくけれども、終わっていくときには、また何にも持たずにたった一人で真っ裸で終わっていくのですよ。これが我々のすがたですよ。生きている間の人生が良かろうが悪かろうが、立派なことをしようがすまいが、人から褒められようが褒められまいが、全く無関係に、たった一人で出かけねばならんのが私どもです。
でも、良かったですね。私どもは一人じゃないですよ。あなたが生まれる前も、生きている今も、そして死んでいった先も、「私はあなたとともにあるのですよ」というナンマンダブツの如来様が、私に届いていてくださるのです。この如来様が私に届いて、今度は悟りのお浄土へ生まれさせ、私を仏にさせるとおっしやるんですから、「そうでしたか」と聞いていればいいじゃありませんか。智慧のないこの私にナンマンダブツと届いて、智慧の仏にさせるっておっしやるんだから、それでいいじゃありませんかね。その如来様を、
私どもはいただいているのですよ。その如来様が私に届いているのですよ。よかったですね。
「親のない子は磯辺の千鳥 日暮れ日暮れに袖しぼる」という歌があります。親のない子、世の中では一人子、孤児、みなしごなどと言われますが、その子であっても、昼間のうちは近くの子どもたちを集めて、あっちへ遊び、こっちへ遊びと、ちょうど千鳥が群れをなしてチーチーチーと飛びまわっているように過ごしておるけれども、その子が寂しいのは日暮れです。夕暮れです。親のあるところからは声がかかる。さあ早う帰っておいで、ごはんにするぞ、早う帰ってお風呂に入りなさいと、声がかかるが、親のない子がおったとすれば、その子は誰が呼んでくれるのか、誰が待っていてくれるのか、誰が私を育ててくれるのだろうか。その子が寂しいのは日暮れだという歌です。「日暮れ日暮れに袖しぼる」という、千鳥が虫をつむいでいるのか知らんけれども、それが泣いている姿に見える、という歌ですね。
人生の日中には、あるいは人を引き連れ、あるいは人の上に立って、あるいは友人たちと一緒にあっち遊びこっちへ遊びするかもしらんけれども、もし本当の親様を持たないならば、寂しいのは日暮れですよ。
人生の日暮れは寂しいぞという歌です。私どもは如来様がおいででよかった、親様を持っててよかったですね。その親様が私どもに届いていてくださる。
深川宣暢 『情をもってねがいて趣入すべし』

令和6年 11月号
今日はまず親鸞聖人のお名前に関するところで、ひとつお話をさせていただきたいんですが、ある先生から、こんなお話を開かせてもらいました。
「皆さん、親鸞聖人のお名前は難しいですね。なかなか書けませんね。でも、この話を覚えてもらったら、もう親鸞聖人の、特に鸞という字は、どんな字だったかなと悩まなくて済みますよ。」というお話を開かせていただきまして、私の大好きなお話です。
その話は鸞という鳥の物語でありました。親鸞聖人の鸞という字、この報恩講のパンフレットを持っておられる方は、ちょっと確認していただければ分かりますが、下に鳥という字を書きます。この鸞という字は、もともとは鳥の名前だそうです。鸞という鳥の物語を教えていただきまして、おおよそ、こんな話でありました。
その鸞という鳥、それは中国に伝わる伝説の鳥だそうであります。伝説の鳥ですから、今この世界にはいないんですね。その鸞という鳥の姿は、体から五色の光を放つ美しい鳥であると。羽根を広げた姿は美しすぎて、まぶしすぎて、まともに姿を見ることもできない、それは素晴らしい鳥、美しい鳥、それが鸞という鳥でありました。ただ、この鸞という鳥は、その美しさのあまりに、ちょっとつらい思いをしなければならなかったそうです。鳥といいますのは、卵を産みますと、お母さん鳥は卵を温めてひなをかえす。ひながかえれば、親鳥は身の回りの世話をしたり、餅を与えて一生懸命育てていくわけであります。鸞も同じように卵を産んで、ひなをかえし、子どもを育てる。ただ、鸞のひな鳥、生まれたばかりの鸞の赤ちゃんは、ちょっと親の姿と違ったそうなんですね。
親の鸞は五色の光を放つ美しい鳥だけれども、生まれたばかりのひな鳥は体が真っ黒だそうです。それでも親からしますと、わが子が生まれたわけですから育てようとします。餌を与えようとします。
餌を捕ってきて、わが子のところに行って与えようとするんですが、子どもの側からすると、五色の光を放つ美しい鳥が餌を持ってきてくれるけれども、自分の姿と見比べて、「いくらなんでも姿が違いすぎる。餌を持ってきてくれるが、あれはお母ちゃんじゃない」と思って、餌を食べないんです。背中を向けて餌を食べない。身の回りの世話もさせないんですね。
そこで困ったのが鸞の親鳥の方でありました。実のわが子なのに、自分の子なのに、自分のことを親だと分かってもらえない。親としては、これほど寂しいこと、つらいことはないわけであります。そこで悩んだのが鸞の親鳥。どうやったらわが子が餌を食べてくれるか。どうやったらわが子が自分のことを親だと分かってくれるか。悩みました。考えました。
悩み考えぬいて、鸞の親鳥は一つ思い付いたんです。自分も子どもと同じ姿になろうと。鸞の親鳥は餌を捕ってわが子のところへ行きます。行く前に真っ黒の泥沼に行って、その泥沼に自慢の光り輝く体を沈め、自ら泥をかぶって体を真っ黒にしてから、わが子のところに行ったそうです。
そうしますと、今度は子どもの側は、体の大きさこそ違うけれども、同じ姿をした鳥が餌を持ってきてくれた。「ああ、ようやくお母ちゃんが来てくれた。お母ちゃん」と言って、そこから餌をもらうようになり、身の回りの世話もしてもらうようになり、すくすく育てられていったというんですね。
それからというもの、鸞の親鳥はいつも、わが子の前に現れるときには体を真っ黒にして、「私があなたの親ですよ。私があなたのお母さんですよ」と、子どもに分かる姿をもって現れ、育てていったといいます。
そこは中国の奥深い山の中でありました。その山には一人の仙人が住んでおりまして、鸞の親鳥の一部始終を見ておったんですね。あるとき、その仙人は鸞の親鳥に尋ねます。「鸞よ、あなたはわが子のために、そこまでしますか。鸞よ、あなたは子どものことが、そんなにいとおしいですか」と尋ねますと、鸞の親鳥は言うそうです。「いとおしい。いとおしい。わが子のことがいとおしい」と何度も何度も言ったそうです。鸞という鳥は「わが子のことがいとおしい、いとおしい」と言う鳥でありますよと。
分かりましたかね。ちょっと親鸞聖人の鸞という字を頭に浮かべてください。鸞という字は、糸(いと)を書いて、糸を書いて、その間に「言う」という。いとおしいの「いと」と糸は、ちょっと意味が違いますけれど、鸞という鳥は、「いとおしい、いとおしい」と言う鳥でありましたよというお話でありました。
「この話を覚えてもらったら、皆さんも「鸞」という字がどんな字だったかなと忘れなくて済みますよ」という話を私は聞かせてもらいまして、ああ、ちょっと面白いなと。同時に、何か温かいなといいますか、私は親鸞聖人の「親鸞」というお名前自体がとてもに好きになりました。
牧野光博 『明るい朝』 59号より

令和6年 10月号
宮崎幸枝
なかなかその点が大変難しいところですよね。先ほどから簡単にお浄土、お浄土と言っていますが、人によっては最大の疑問が、大体お浄土があるのかないのかということではないかと思います。お釈迦さまは何を覚られたかということだと思うのです。私がこうして存在しているそのことの真実とは何かということを悟られたと言われていますね。その真実の法というのは縁起に則っているということをおっしゃっていらっしゃる。その縁起ということは、物の存在の仕方としてのまことの道理であると伝えられています。「是れあるが故に彼あり、是生ずるが故に彼生ず」という語で示されているようですが、ここに私が存在するということの根本、存在するということ、つまり私がここにいるということ、そのことは他者の「是れ」なる縁あっての存在として私が私たらしめられているということです。他のあらゆるものが私を私たらしめているということによって、私はここにいるわけです。つまり、ここにいらっしゃる私の他の方がいらっしゃらないということは私も存在しないということなのです。浄土や穢土(この世)の存在で言えば、ここに穢土という迷いの世界があるということは、迷いの世界から見ると、お浄土があるから穢土があるまた、穢土があるからお浄土があるという、依他生と言いますが、他によってお互いが存在し続けているという縁起の法則を覚ってくださったのですね。他によって私が存在する。全てのものの存在はどちらが先にあるということではないということ。だから、有るとかないとかという問題ではないということです。お浄土があるとかないとかと思うのは私たち人間の常識に置き換えた上の考え方を採用しているのではないでしょうか。全ては他によってあらしめられている世界であるというお覚りの世界から、お覚りの内容がさっぱり分らない私向けには、最も簡単には「お浄土があるよ」というお話でありますね。そのように私たちはお浄土は知らないし、わかりません。お覚りの内容も空といってもわからないので、私たちにそのまんま、お覚りの上で説いて、ご本願通り、往生、浄土、とあらわしていただいてることなのです。私は頭が相当バカですから、自分の脳みそでああだこうだとお浄土があるとかないとか考えることは捨てて、そのまんまいただく。お釈迦さまが説いてくださったお覚りの内容、そのことを親鸞聖人が慶んで丁寧に説いてくださったご本願のいきさつ、私の行方、そのことを私たちはそのまんま今、聴聞しています。そして、お浄土は花咲き香りがいいと考えてもいいし、どんなふうに考えてもあなた方の思うままでいいんだよ。お浄土は自分がこんなものかなと思うままで行ってみたらそれよりも、もっともっと素晴らしいんだよ、ということです。私たちが思うお浄土以上のものが顕現するよ、ということを言ってくださっているわけです。
茨城県 みやざきホスピタルの副病院長 『生死を問う』より

令和6年 9月号
おとうさんにもらったやさしいうそ
ぼくのこころにひびいたことばは「おとうさんはちょっととおいところでしごとをすることになったから、おかあさんとげんきにすごしてね。」です。そのときぼくは二さいでした。とても小さかったのでちょくせついわれたのはおぼえていませんが、いってくれたときのどうががおかあさんのスマホにいまでものこっているのですきなときにきくことができます。
このふつうにおもえることばがぼくのこころにひびいたりゆうは、じつはこれがおとうさんがついたうそだったからです。このことばの一しゅうかんごに、おとうさんははっけつびょうでしんでしまいました。そして、このことばをおとうさんがのこしたのはびょうきがわかってにゅういんした日でした。おとうさんは、あえないあいだにぼくがかなしまないように、わざとうそをつきました。うそはふつうよくないけど、これは、おとうさんがぼくのためについてくれたやさしいうそだとおもいます。このことばをどうができくと、おとうさんにあってみたくてすこしかなしいきもちになります。でもかなしいだけじゃなくて、かなしませないようにうそをついてくれたおとうさんのやさしさをおもって「がんばろう」とおもえます。おとうさんがしんでしまったことはしっているけど、おとうさんのうそがほんとうになって、いつかよるおそくにドアのまえで「ドアをあけて。かえってきたよ。」といっているおとうさんにあいたいです。こうおもえるのも、おとうさんのやさしいうそのおかげです。
ぼくからおとうさんにつたえたいことがあります。
「おとうさん、うそがばれてるよ!だってまわりにびょういんのどうぐがいっぱいあるし、おとうさんがよこになっているし、めからなみだがちょっとだけでているし、こえがさびしそうだから。」でもぼくは、だまされているふりをしつづけようとおもいます。
おとうさんがやさしいうそをついてくれたおかげで、ぼくのこころはつよくなれています。これからもおとうさんのことばをまもっておかあさんとげんきにすごしたいです。おとうさん、やさしいうそをありがとう。
「おとうさんにもらったやさしいうそ」 佐藤亘紀(茨城県、1年)

令和6年 8月号
ご院家さん、私はね
これはもともとは私の父親から聞いた話です。私の地元のあるお年寄りから聞いたと。
昭和の終わりから平成にかけて、昭和天皇がご不例であるということで、その肖像がテレビに出たり、あるいは新聞に出たり、その映像が映ったりする。ご不例であるということで昭和天皇の姿があちこちに出ておりましたが、そういう時でした。
「ご院家さん」と、私の方では住職のことをご院家さんという。「ご院家さん、私はね」とあるお年寄りが話してくれたと。「あの昭和天皇の顔見るとね。その日を思い出します。あれは春のうららかな日でありました。役場の方から職員さんが自転車をこいで、家の土間の前に直立不動で立たれます。手を見たら、茶色い封筒を持っておいでになる『ごめんください。お知らせがございます』と言われるから、ははあ、と思うた。お知らせをお聞きしましょうというと、封筒から書面を出して読み上げられる。案の定、我が息子が戦死をした、というお知らせでありました。その時はそれほど涙も出ませんでした。覚悟して戦地にやったんじゃないか、お国のためやようやったとは思いましたが、ただ、それを受け取ってから、さて俺はいったい今から何をしたらええんだろうかと思いまして『そうや、あの田んぼの方へ出とる息子の嫁に知らせてやらねばならんが、言うてやったら泣くじゃろうなと思うたとたんに涙になってしまいました。それでも、知らせねばなりませんから、田んぼに向かいます。嫁が私の姿を見て気が付いたんでしょう、私の顔や姿を見て、手には茶色い封筒を持っとる、その様子を見て、嫁は『お父さん来ちゃいけん、お父さん来ちゃいけん』叫ぶように言いましたよ。それでも知らせねばならん日でした。もういう言葉がありません。嫁と一緒に畦に腰をかけて、ナンマンダブ、ナンマンダブと、お念仏しておりました。何も言えませんでした。ただナンマンダブ、ナンマンダブと、お念仏をしておりました。ご院家さん、私はあの昭和天皇の顔を見ると、その日を思い出しますよ」と言うて、話してくださったということでした。
このような状況は全国にあったでしょうが、そこにも、ナンマンダブツは届いていたんですよ。戦争が一つ起これば吹っ飛んでしまいそうな宗教などがありますが、そのような状況をも越えて、今は私の口からナンマンダブツと出てくださるじゃありませんか。このナンマンタブツがあれば生きてもいける。これがあれば死んでもいける。そうして私どもの先輩方が届けてくださったのがナンマンダブツです。人様の口を動かしてナンマンダブツと出てくださるのを聞いては、ああ、ここにもナンマンダブツが届いていてくださる。
ああ、ここにも如来さまがおいでてくださる。それを確かめることができますね。
深川宣暢 『情をもってねがいて趣入すべし』

令和6年 7月号
かくれ念仏
自分自身を振り返ってみると。この感謝する心は、私の逆徳観の根底を地下水脈のように流れているもので、そこには次のような幼児期の体験が深く作用しています。
私の実家は鹿児島にありますが、まだ四つか五つのころ、父親に迎れられて「隠れ念仏」に同行したことがあります。隠れ念仏とは、徳川時代に藤摩藩によって一向宗が弾圧されたとき、信仰心の篤い人たちによってひそかに守りつづけられた宗教的慣習で、私が幼いころには、まだその習わしが残っていたものと思われます。
他の何組かの親子といっしょに、日没後の暗い山通を提灯の明かりを頼りに登っていく。みんな無言で、恐ろしいような神秘的な思いに浸されながら、幼い私も必死で父親の後をりいていきました。
登った先には一軒の家があり、その中に入ると、押し入れの中に立派な仏壇が置かれていて、その前で袈裟を着たお坊さんがお経を上げていました。小さなロウソクが数本灯っているだけで家の中はひどく暗く、その薄闇に溶け込むように、私たちはめいめい席を取りました。
子どもたちはお坊さんの後ろに正座させられ、静かに低い声で続くお経を聞いていましたが、読経が終わると、一人ずつ仏壇に線香を上げて拝むようにいわれ、私もそのとおりにしました。
そのとき、お坊さんが子どもたちに短い言葉をかけてくれたのですが、もう一度来るようにいわれた子どももいる中で、私はお坊さんから、「おまえはもう、これでいい(来る必要がない)、今日のお参りですんだ」と告げられました。
さらに、「これから毎日、』なんまん、なんまん、ありがとう』といって仏さんに感謝しなさい。生きている間、それだけすればよろしい」といい、父に向かっても、この子はもう連れてこなくていいですよと。〝おすみつき〟を与えてくれました。
幼い私には、それが何か試験に合格したような、免許皆伝と認められたような気がして、誇らしく、うれしかったのを覚えています。
それは私にとって最初の宗教体験ともいえる印象深い経験でしたが、そのときに教えられた感謝することの大切さは、私の心の原型をつくったように思います。そして実際、いまでもことあるごとに、「なんまん、なんまん、ありがとう」という感謝のフレーズが無意識のうちに囗をついて出たり、耳の奥によみがえってくるのです。
ヨーロッパの聖堂などを訪れたときも、その荘厳さに打たれて、思わずこの言葉を唱えたほどで、それは宗教、宗派を超えて私の中に血肉化している「祈り」の言葉であり、心の奥底にまでしみ込んでいる「内なる囗ぐせ」といえます。
なんまん、なんまん、ありがとう。子どもにもやさしく覚えやすい祈りの言葉。それは私の信仰心の原型となった言葉であり。また、私の中に感謝する心を培うきっかけともなった言葉でした。
いつもこの言葉をつぶやくことで、だれに対しても、何についても、いいときはもちろん、悪いときもありがとうと感謝する心を涵養し、できるだけ正しく生きようと努めてき
たつもりです。
禍福はあざなえる繩のごとし-よいことと悲いことが織りなされていくのが人生というものです。だからよいにつけ悪いにつけ、照る日も曇る日も変わらず感謝の念をもって生きること。福がもたらされたときにだけではなく、災いに遭遇したときもまた、ありがとうと感謝する。そもそもいま自分が生きている、生かされている。そのことに対して感謝の心を抱くこと。その実践が私たちの心を高め、運命を明るく開いていく第一歩となるのだと、私は心にいい聞かせてきました。
『生き方』より 稲盛和夫

令和6年 6月号
あさましいヤツであった
ある九十歳を過ぎた老夫婦は、「おかげさま」「ありかたい」という日暮しをしていましたが、そのおばあさんが脳出血で倒れて、寝込んでしまわれました。そこで、数人の友人がおじいさんを慰めようと訪ねて来ました。そのとき、おじいさんが友人に話したことです。
おばあさんが粗相をして腰巻きを汚してしまいました。おじいさんは、若いお嫁さんに洗ってもらうと、おばあさんも肩身がせまいだろうと思って、お湯を沸かし、タライを出して腰巻きを洗って、隠居部屋の物干しに掛けておきました。
そのおじいさんが干している様子が、おばあさんには見えました。おばあさんは「モッタイナイ」といって、おじいさんを拝みました。おじいさんは六十年間、ふんどしを洗ってもらってお礼をいったことがないのに、たった一回腰巻きを洗っただけで拝まれました。おじいさんは、拝まれたときの気持ちを「自分は何とあさましいヤツであったかと、今朝ほど思い知らされたことはない」と、見舞いに来た友人たちに話しました。
この話を聞いた松扉師は、次のように述べられます。
「ふんどし一枚すら女房に洗うてもらわねばならないところに立って、生かされて生きておるのがこの身でしょう。にもかかわらず、われわれは”あたりまえだ”というところにしか立っていない。真実を見る眼を持たないために〝あたりまえだ〟 と言うて、まだ不足を言うて生きているのが、お互い私たちの今の生きざまでありませんか。」
松扉師の人間成就の道についての見解から考えますと、自分中心の煩悩にふりまわされているから、「あたりまえだ」といってまだ不足までいっていることになります。ところが、「あたりまえだ」といっていたことが「あたりまえ」でないことがわかりますと、不足の言葉にならず感謝になります。
私の推測も含めていえば、この老夫婦は元気なときは常々お寺にお参りされ法話を聞いておられました。そのためにみ教えが身につき、「ありかたい」「おかげさま」という日暮しをされていました。ところが、おばあさんの「モッタイナイ」という言葉によって、六十年間、下着を洗濯してもらいながらお礼さえいったことがなかったことに、おじいさんは気づきました。洗濯をしてもらっていたことをあたりまえと思っていたのでした。「モッタイナイ」の一言で、おばあさんの六十年間の下着の洗濯が支えであった、恩恵であったことに気づきました。
それとともに、気づけなかった自分が「あさましいヤツ」と知らされることになります。おじいさんは、み教えを聞くなかであさましいこころを持った自分であることは知っていたのですが、この「あさましいヤツ」はまさに実感で、自分を恥じ情けないと思ったのです。おじいさんは改めて、おばあさんに生かされて生きてきたことに気づかされました。
おばあさんは自由には動けなくなられましたが、老夫婦はお互いに生かされて生きる日暮しをされそうです。お互いが支えられていることを感じながらの生活は幸せな生活になります。
村上泰順 『月々のことば・令和4年』より

令和6年 5月号
木下明水
如来の大悲、短命の根機を、本としたまへり。
去年、私は十代の男の子のお葬儀を勤めました。癌と診断され一年半、高度医療も受けましたが、もう手の施しようがないと告げられました。
この子は、住民に慕われた食品や酒類煙草を扱うお店のお孫さん。両親が自衛隊のため親元を離れ大きくなりました。
「癌を患っている」、その話を憔悴したお婆ちゃんから聞いた時、足がすくみました。治療の余地がある時でしたから、望みを捨てないようにと伝え、お店の入口で立つたまま、「その苦悩をご存じの阿弥陀さまがおられます。身に満ち満ちて、南無阿弥陀仏と響き、捨てることができないと仰います」と話をしました。そして、言葉を選びながら安心して生まれ往くお浄土の話をしました。
すぐに、この子のお母さんは長めの休暇を取り、一緒に過ごすようになりました。離れて暮らしてきた母子にとって黄金のような日々であったでしょう。不安な顔は子も辛いから、お母さんはいつも笑顔でした。「大丈夫」「来年、旅行に行こう」「早く家に帰ろう」と、何度も子どもに嘘をついただろうと思います。
この子が亡くなりました。通夜から四十九日を迎えるまで、阿弥陀さまの慈悲深きおすくいを話すばかりでした。お母さんは、ずっと笑顔でした。幼い娘達がいるからです。毎日、嘘をつくのでしょう「お母さんは大丈夫」と。
死んでいく子、子をなくす家族に、心を整える余裕も、生活を改善する体力もありません。ましてや、生き方を示しても意味がありません。この世界、大事な家族、友人を愛おしく思う心は、日に日に高じるばかりでしょう。道徳のように正しく生きることを説いても、お母さんは、子と自分の心も騙して嘘をつき続けます。
私の苦悩をご存じの阿弥陀さまは、生き方や心のことは仰らないのです。お母さんは、辛い現実に身と心を磨り減らし、人知れず床に額を擦り付けて泣いたでしょう。この涙を知るのは阿弥陀さまです。この子のために、むなしくは過ごさせない、あなたをお浄土に生まれさせ仏に成す、南無阿弥陀仏となりすくうと、ご本願をお立てになったのが阿弥陀さまです。
本願寺第三代宗主の覚如上人は、「如来の大悲、短命の根機を、本としたまへり」とお示しになられました。阿弥陀さまは、極限状態のいのちの者を急ぎ救うため、お慈悲のすがた南無阿弥陀仏と響きわたってくださいます。一声でも称えられる仏となり、耳に響き、「われにまかせよ そのまま救う」と喚んでくださいます。苦悩の表情を浮かべ、軋む身体から恨み言を吐き、誰も分かることのない悲しみを抱えて死んでいく、煩悩具足の私だからこそ、何も求めず、全て阿弥陀さまのはたらきで「そのまま救う」と仰るのです。
これから、このお母さんは、「またあの子とお浄土で会うのですね」と、阿弥陀さまに甘えるのです。甘えることのできる仏さまです。
『季刊せいてん 143号』より

令和6年 4月号
いのちを物語る
数年前のことです。わたしのお寺の幼稚園での出来事ですが、五月ごろのある朝、庫裏にいたわたしの妻が、幼稚園の方から男の子の大きな泣き声を聞きました
「せんせー おしっこもれたー」
ああ小さい子がおもらしをしたのだろうなと気づき妻は庫裏のなかから園の様子をを窺っていたそうです。するとそこに一人の先生がかけよってこられ、開口一番こう仰ったそうです。
「OO君、よかったね、幼稚園でおしっこできたね」
まったく想定していないことばだったと、妻は驚かされていました。わたしも話を聞かせてもらって、まさに目からウロコです。きっとわたしだったら、「だいじょうぶ、着がえもあるから心配しなくていいよ、だいじょうぶ」とひたすら慰めていたと思います。 しかし、そのような言葉では、その子の涙を受けとめることはできなかったでしょう。状況は目に浮かぶようにわかります。おもらしは一旦はじまると、まさに堰を切ったように、あっというまに下着もズボンもぐっしょりです。ああ…と足もとに視線を落とすと、足もとは水たまりになっています。絶望的な思いで顏をあげると、その様子をまわりでたくさんのお友達が見ているわけです まさにその子は、もうどうにもならない、どこにも逃げ場のない状況に、たった一人で立ちつくしていたことでしょう。そのような状況でいくら「心配しなくていいよ。」と慰めても、そのような言葉では、むしろその子を追いつめたかもしれません。慰められるほどに、ああやっぱり失敗してしまったのだ…と、その子は自分を責め、心を閉ざしていったかもしれません。しかし先生は、その子に起こった出来事を一緒に受けとめつつ、たった一言のことばで、その子には思いもよらない世界を拓いてくださいました。「よかったね、おしっこできたね」その一言で、きっとその子の目のまえの世界は、まさしく一八〇度意昧がひっくり返ったことでしょう。あとから先生方に伺いますと、その子は入園して間もない幼い子だったそうです 子どもたちはみな同じですが、入園してくる子どもたちは、はじめてお母さんお父さんから離れて、はじめて集団生活にとびこんできます。人生で最初の、そしてもしかしたら一番大きな冒険かもしれません。けじめはどの子も泣くものですし、春頃はとくに泣き声が絶えません。 その子は、どうしても園でも生活に慣れず、お手洗いができなかったそうです。先生方は、こまめにお手洗いに行くよう指導してくださっているのですが、その子はどうしてもおしっこができず、なんと毎日おうちに帰るまで、必死になっておしっこをがまんしていたそうです。〇〇君、体こわさないといいけれど…と、先生方はみな心配していたそうです。けれど、その朝はどうしてもこらえられなかったのでしょう。一旦堰を切りたら、もう止まりません。その子はまさしく、どこにも逃げ場のない世界に立ちつくしていたことでしょう。しかし、先生はたった一言で、その子にまっさらの世界を拓いてくださったのです。「よかったね、幼稚園でおしっこできたね」あとのことは分かりませんが、もしかしたら次の日からは、お手洗いに足が向いたかもしれません。
もはや自分ではどうすることも出来ない、もうどこにも逃げ場がみえない、そのような生きることの悲しみや苦しみがある。しかし、その悲しみすべてを抱きとめたその上で、自分には思いもよらない、生きることの意味を拓いてくださる、そういう言葉があるのですね わたしには想定することすらできない「他なる者のことば」が、わたしには思いもよらない、まっさらな意味を拓いてくださるのです。先にもお話しましたが、人間は事実ではなく、意味で生きています。だからこそ、意味が変わればすべて変わります。現在も変わります。未来も変わります。そして過去すら、意味が変わればすべて変わっていくのです。私たちは、過去は変えられないという考えを手放すべきでしょう。そして、生も死も前後不覚でいきている凡夫のいのちを抱きとめ、凡夫には思いもよらないまっさらな未来を照らし出し、久遠の過去にかぎりなく豊かな意味を拓いてくださる言葉、いのちを物語ることば、それこそが仏さまのことばなのです。
武田一真 『仏教LIFE』より

令和6年 3月号
ほとけさまとの出遇い
橋本勝(群馬馬太田市)
私のほとけさまとの出遇いは、終戦も間近い4歳の頃でした。兄や姉から「朝起きて顔を洗ったら、ほとけさんにナンマンダブと言ってこい。それからごはんだ」と言われた時からです。家族みんながそうしており、なんの疑いもなく、高校を卒業し東京へ集団就職するまでは、これが毎日の日課でした。
また、当時の思い出として。お仏壇には菓子などがあって有り難いものでした。こっそりいただいたのですが、それがばれると「悪いことをするとバチがあたって、エンマさんに舌を取られるよ」と叱られ、隣の地区のエンマ堂によく連れられたものでした。
エンマ堂にはエンマさんが10人ほどおられ、恐ろしい顏をして怖かったものです。しかし、このような生活は、ほとんどの子どもがしているのが当たり前で、なんの疑いもありませんでした。さらに、菓子目当てだったので、ほとけさまをじっくりと見たこともなくて、ほとけさまの扉も常に開いていたと記憶しております。これが、私が社会人になるまでの「ほとけさま」の思い出です。
現在、お寺で水曜日、仏教の学びの会に参加して、当時のことを想いながら、「ほとけさま」は「お釈迦さま」だと信じていた私にも「ほとけさま」をあらためて教えてもらいました。
浄土真宗のご縁をいただき、「ほとけさま」は「浄土真宗の教韋(私の歩む道)」に示されています「本尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)」であり、無量の光と無量の寿の仏さまと教えていただきました。
阿弥陀如来は、浄土真宗の正依の経典である『仏説無量寿経』にその仏願のいわれが説かれており、その教えの要点を、ご門主さまのご著書『仏の教え阿弥陀さまにおまかせして生きる』からお教えいただいております。
コロナ禍が世界中に拡大している現在、阿弥陀さまにおまかせして生きるみ教えに出あっていることに感謝させていただくばかりです。

令和6年 2月号
心臓に聞いてみてください
今、担当している九十九歳の患者さんがいます。口を開けては「長生きしすぎた、あの世に行って楽をしたい」と言います。彼女だけでなく私たちの理知分別は賢げに「人に迷惑をかけるようになる」「生きがいがない」「私は悪いことはしてないから、浄土に生まれることができると思います」などと発言します。
私は彼女に言いました。「われわれの頭は勝手で、無責任に、死にたい、こんな私は生きがいがないとか言いますが、今晩、心臓に聞いてみてください。肺に聞いてきてください。もし心臓や肺が死にたいと言うのだったら、止まったり、サボったりしはじめると思いますよ」
数日して朝、あいさつの後「心臓や肺は、どう言ってましたか」と声をかけました。「心臓も肺も死にたいと言っています」。彼女は体の声に耳を貸さないのです。
そこで今度は「あなたの希望通りに死ぬには、絶食すれば一週間で希望がかなえられますよ。しかし、途中で、喉が渇いた、おなかがすいたということになると、それは体がまだ生きていきたいと言っている証拠ですよ」と、こんな冗談めいた会話が数日続きました。
そしてある朝、「おいしそうにご飯を食べていますね」と声をかけると、「手が勝手に動いて食事をするのですよ」と絶妙な反応が返ってくるのでした。
われわれは長年の経験から、自分の「意識」の言うことはよく聞いて、自分の思い、考えこそ確かなものとして、他の意見や思いがけない発想にはなかなか耳を貸そうとしません。
今、生きていることは、無数の支えによって生きている、いや生かされていると言った方が適切かもしれません。しかし、自分では生きているのが当たり前と思い、自分のお金で食べ物を買っている、人に迷惑はかけていないと言い、揚げ句の果てには生きがいがないから死にたいなどと言う。「意識」は傲慢になっているのに気づかないのです。
空気、水、自分の体、食べ物になる無数の生き物、家族、社会の多くの人の働き等々、当たり前と思っていることの「ある」ことの難しさに目覚めるのが智慧でしょう。
初心忘るべからず
世阿弥の『風姿花伝』(一名、花伝書)の中にある「初心忘るべからず」という言某は有名です。その初心の内容を調べてみると「是非の初心(通常使われている最初の決意)」、さらに、「時時の初心(三十歳台、四十歳台等その時々に決意すること)」、そしてさらに「老後の初心」となっています。
この言葉は、一つの道を究めていく上での大切な要点を教えてくれています。初心の心は「未熟な時代の自分の姿を見つめる」ことを意味しています、いろいろなことを謙虚に学ぶという姿勢で無心に物事に対する姿勢を教えてくれているのでしょう。そして「驚く心」を持ち続けることだと思われます。
私たちが人生を生きていくことも、一つの道と考えられます。生きることの専門家、生きることのプロになることが大切です。そうすれば、年齢を重ねるごとに輝きを放つ人生を生きることが実現するのです。
しかしながら、私たちの日常生活の内容の八〇~九〇パーセントは前日の繰り返しといわれています。私たちの意識を苦しめるものとは、初心とは反対の「マンネリ化」です。そこには人間の「慣れ」と自分の思いに「とらわれる」という問題があります。この課題の克服には、区切りをつけることが大切だ、と仏教は教えてくれています。
たとえば「死ぬ練習」というのはどうでしょう。「エッ」とびっくりされるでしょうが、具体的には「朝起きるときが今日の私の誕生と受け取り、初心を持って出発して、今日の仕事を精いっぱい取り組む。そして夜、寝るときはこれで今日の命を終わる(死ぬ)と思って休む」これがまさに「死ぬ練習」です。区切りをつけることの大切さを言いたいのです。人生はこの繰り返しとなるのです。
「今」「今日」が明日のための手段・方法でなく、目的であるような受け取りをできるためには、今、今日を初事として初心で受け取るのです。そうすると仏の智慧によって、今日は今日として区切ることができていくのです。
仏教の「縁起の法」が、このような生き方こそ本当の物事のあり方ですよと教えています。万物は一刹那ごとに生滅を繰り返すというあり方をしていて、人間も同じあり方をしていることに目覚めなさい、と教えています。
田畑正久 『医者が仏教に出遇ったら』より