そば切り発祥を探る その      <  次へ移動  <  サイトへ移動   .

 蕎麦切りが誕生した背景と各地への伝播について  

 ソバは、縄文・弥生の時代から食べられてきた穀類のひとつである。
ソバの実(玄ソバ)の殻を取り除いて、「剥き実・ソバ米」としての「粒食」であったり、団子や蕎麦掻きなどで食べる「粉食」としての時代が長かったが、やがて「麺食」としての食べ方が登場したのが「そば切り」である。

古い時代の木鉢左は直径二尺(60センチ)ほどの木鉢で、おそらく江戸時代から使い込まれてきた年代物である。
ふだんはヒエやキビ、またはソバ粉や小麦粉、くず米粉などをこねて団子を作り、ハレの日や格別な時にはそば切りやうどんを打った。ながい生活の年輪と歴史が木肌に刻み込まれている。


 1)「そば切り」発祥の年代

   そば切り発祥に関する江戸期から昭和時代までの諸説
 「そば切り」が、いつ・どこで・どのように誕生したかについては分かっていない。
江戸時代からの説では、十七世紀以降になって甲州か信州のいずれかで生まれ、やがてそれが江戸や各地に伝わったとされている。これ以外にも、そば切りは江戸時代初期の江戸で始まったとする説も根強かった。
十七世紀以降とする根拠については、享保19年(1734)刊「本朝世事談綺」巻一に蕎麦切の条があって、そこには二百年遡って書物を調べても蕎麦切に関する文献が出てこなかったと書いているのと、室町中期の通俗辞書で慶長2年(1597)改訂版の「易林本節用集」にも饂飩・索麺などの麺類は出ているが、蕎麦切についての記載がない。とあって、この二つの書物が論拠とされてきた背景がある。

 「庭訓往来(ていきんおうらい)」は、14世紀の後半(南北朝後期〜室町初期)に成立し、江戸初期にかけて多くの注釈本が出され、この時代を代表する国語辞典である。たしかにこの「庭訓往来」を例にとってみても蕎麦切は登場していない。
「庭訓往来 十月状 返」(江戸前期)の「点心用の食品・菓子」の部分を抜粋すると、「点心者(ハ)、水繊・温糟・糟鶏・・・・砂糖羊羹・饂飩・饅頭・索麺・碁子麺・巻餅・温餅。菓子者(ハ)、柚柑・柑子・橘・熟瓜・・・・・興米・索餅等」とあって、蕎麦切は登場しないのである。
注:点心 朝食と夕食の間に食べる虫休め、正食の前に取る簡単な食物。菓子(現在の和菓子ではなく、果実や堅菓など)の中に索餅がみられる。

 甲州説と信州説については、尾張藩士で国学者の天野信景が江戸中期に出した雑録(随筆集)・「塩尻」の巻之十三宝永(1704〜11)のなかに、「蕎麦切は甲州よりはじまる、初め天目山(棲雲寺という臨済宗の山号)へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売に米麦の少かりし故、そばをねりてはたことせし、其後うとむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし。」としているのが甲州説であり、一方の信州説は彦根藩井伊家の家臣で、松尾芭蕉十哲の一人でもあった森川許六が芭蕉門下の文章を集めて宝永3年(1706)に編纂した俳文集「本朝文選」、後に改題した「風俗文選」の中で、「そば切りといふはもと信濃の国本山宿より出て 普く国々にもてはやされける」とした雲鈴という門人の説を紹介している。これが甲州・信州両説の論拠であるが、双方共にそれ以外に裏付けとなる記録などは見あたらず、単にその当時の伝聞を書きしるしただけのものとの評価に止まっている。

次に、そば切りは江戸時代初期の江戸で始まったとする近年の説をみると下記のごとくである。
「食味の真髄を探る」波多野承五郎著 昭和5年(1929)で、「徳川の初期には、今日の蕎麦はなかったが、寛文年間(1661-72)に初めて二八蕎麦というのが出来た。それは饂飩の製法に倣って蕎麦粉二分と小麦粉八分の割合で打ったものだから二八蕎麦という名称が出来た・・・」とするものであり、 「食通ものしり読本」多田鉄之助著 昭和52年(1977)新人物往来社では「江戸の初期に、ソバを粉にして水を加えて、こねて作ったソバ切りの発明は、そばの真価を高めました。・・・」とある。
注:波多野承五郎(1858年〜1929年)は報知新聞記者、フランス公使館付書記官、朝野新聞社長、三井銀行役員、衆議院議員を歴任。
多田鉄之助 食味評論家 元・時事新報記者「食通ものしり読本」「食通の日本史」「味の日本史」「そば漫筆」など
 ここまでが、昭和の中頃くらいまでのそば切り発祥に関する場所と時期についての諸説であったが、昭和41年(1966)に国文学者の鈴木棠三氏によって江戸時代初期の「慈性日記」からそば切りの記録が見いだされる。更に、平成5年(1993)には長野市在住の郷土史家・関保男氏が木曽・定勝寺の史料に「振舞 ソハキリ」という記述のあることが発表されて、具体的な史実に基づいて「初期のそば切り」を考えることができるようになったのである。

  早い時代のそば切りの記録
 史料に登場する「そば切り」の初見で最も古い文献は、木曽大桑村須原宿の定勝寺に残る「番匠作事日記」であり、そのなかの天正2年(1574)2月からおこなわれた仏殿修理に伴う書き留め「同(作事之)振舞同音信衆」の中に「徳利一ッ ソハフクロ一ッ 千淡内」などとともに記された「振舞ソハキリ  金永」という記録である。
この木曽・定勝寺の記録が見いだされるまでは、近江・多賀大社の慈性という社僧(正しくは、尊勝院の住持であり多賀大社別当不動院を兼務)が書き遺した慈性日記で、慶長19年(1614)2月3日の条で江戸に行った際、常明寺という蕎麦切りを振る舞われたと解されてきた日記であった。

 上記二つの実例、すなわち木曽の定勝寺と江戸が舞台の慈性日記とは40年であるが、この間にも別のそば切りに関わる二例が登場している。
ひとつは、天正年間に大坂「砂場」についての記述がある。嘉永2年(1849)刊行と時代は下がるが「日本二千年袖鑒(そでかがみ)」のなかに天正12年(1584)にそば屋が開店したとある。時代背景としては、秀吉がほぼ天下を掌握して大坂城の築城を始めたのが天正11年であるから、その翌年の工事現場(資材集積場)付近でのことである。
続いて、尾張一宮にある妙興報恩禅寺は室町時代の開山で、ここには慶長13年(1608)6月21日と記されたという「妙興禅林沙門恵順 寺方蕎麦覚書」があって蕎麦の調理法が書かれているという。ただ、この史料は公開されていないために評価は得られていない。

 以上で天正と慶長の時代をみてきたが、続いて、元和(1615〜24)のわずか10年間にも二例があってこれらは実録で登場する。一つは奈良の茶人が書いた松屋会記であり、さらにもうひとつは京都の公家の日記である。
 茶人の松屋は漆屋で、東大寺八幡の神人の身分を持つ家柄であるとともに、わび茶の祖ともいわれる村田珠光の伝統を受け継ぐ名家といわれた。「松屋会記」は久政・久好・久重三代の約120年に及ぶ茶会記である。
「ソハキリ」は、松屋久好(達五人)が元和8年(1622)12月4日に大和郡山・藩主の朝の茶会に招かれ、藩主自らのもてなし(御自身御給仕)を受けた後、家老・山田半右衛門殿にも招かれている。さらに昼になって予定外であった家老・奥平金弥殿へもまねかれたとき(茶の湯の後)ヒノウトン 又ソハキリ 肴色々 菓子モチ・クリ・コハウ」などを振る舞われたと記している。
この時の大和郡山藩主は、元和5年(1619)に入封した松平(奥平)忠明であり、家老4人の中に山田半右衛門と奥平金弥がいた。おそらく家老屋敷(記録に残る五軒屋敷のひとつ)で振舞われたのであろうと考えられる記述である。
特筆すべきは、武将・奥平金弥がにわかに(本文は「不時ニ」)主催した席の後段としてヒノウドンや肴類、菓子モチなどとともにそば切りまでも出すことができたということである。
注:ヒノウトン 京都油小路下立売南、日野屋製のうどん。湯煮饂飩。
 奈良に次いで二年後の京都では、権大納言日野資勝の日記「資勝卿記」のなかで、元和10年(1624)2月14日の条に、「・・大福庵へ参候て 弥陀ヲヲガミ申候也 其後ソハキリヲ振舞被申て 又晩ニ夕飯ヲ振舞被申候也」とあってそば切りを馳走になったことを記している。(この日野資勝は、江戸でそば切りを振る舞われたと「慈性日記」に書き残した僧・慈性の父である。そして、この資勝卿記に登場する大福庵は慈性日記にも再三登場する京都の天台宗の寺である。)

 こうしてみると、天正2年(1574)から元和10年(1624)までのわずか50年に、信濃、江戸、大坂、尾張、大和、京都と、わが国の三都を含む六ヶ所の地域でそば切りが作られていたのである。
これらの出来事から推して、すでにそば切りは誕生から相応の期間を経ていたと考えられるのと、もっと広い範囲で行われていたと考えるのが自然であろう。
 そば切り誕生の場所や年代はわかっていないが、現在の初見より少なくとも一世紀はさかのぼることができると考えられ、その発祥は十五世紀、遅くても十六世紀初頭には出現していたのではなかろうか。
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