そばの歴史              <  サイトへ移動
 定勝寺文書「振舞ソハキリ」の史料     「蕎麦切り発祥を探る」  

 定勝寺文書から見るそば切りとその時代背景
 平成5年に遡るが、長野郷土史研究会の機関誌、『長野』第167号(1993年1月)の「特集 信濃そば」の誌上に郷土史家・関保男氏の「信州そば史雑考」が掲載された。
そこに書かれている表題に関わる部分を引用すると、『・・・「信濃史料」によると、天正二年(1574)二月十日に木曽の定勝寺では仏殿等の修理を始めた。その「番匠作事日記」中の「同(作事之)振舞同音信衆」に、「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」および「振舞ソハキリ 金永」という記述がある。・・・、金永という人物はそば切りを振舞ったのである。・・・これによると、木曽では天正年間にそば切りが作られていたことが明らかである。この史料は現在のところ信濃ばかりでなく、そば切りに関するわが国最古の史料である。』とあり、初めて定勝寺文書が世に出ることになった。
 それまでの「そば切り」に関する最も古い記録は、近江・多賀大社の(尊勝院)慈性が遺した『慈性日記』で、慶長19年(1614)2月3日の条で「江戸の常明寺でソバキリを振る舞われた(事実とは異なるが)」とされている記述であるからこれを一気に40年遡ったことになる。
江戸に徳川家康が入国したのは天正18年(1590)で、幕府を開いたのは慶長8年(1603)であるから、木曽・定勝寺のそば切り振舞は、江戸時代が始まる25年以上も前の出来事であった。

 目次
はじめに 「番匠作事日記」の詳細をみる  3)「振舞や寄進」をした人物像は?
   
1)作事に関わった人数や寄進・振舞のあらまし 4)「振舞ソハキリ」現在と異なる背景と条件
   
2)「振舞」と位置づけている理由を考える まとめ 考えられる仮説
   

定勝寺・古文書に見る「振舞ソハキリ」が登場する「番匠作事日記」(部分)
    木曽・大桑村須原の定勝寺
長野県木曽郡大桑村須原の定勝寺には多くの中世の古文書が残されていて、そのなかに永禄5年(1562)以降の寺の造営や修理についての記録がある。   (右は旧・中山道に面した定勝寺の山門)

「振舞ソハキリ 金永」の8文字は天正2年2月からの仏殿修理に伴う書き留めのなかで登場する

 史料には、工事に携わった番匠手間(大工や職人など)の人数の詳細と、振舞いの内容や寄進者の名前と品々などが記録されている。それらをもとに考えると、「振舞ソハキリ」は、宮大工の棟梁や大工が集まり、長期間逗留して働く作業現場でおこなわれたことがわかる。

       

下に示したのは、作事日記から「このテーマに関係する記述だけを抜粋」し、それぞれを読みやすく解読したものであるが、そこにはさまざまな事柄が書かれていることがわかる。



そして、ここから見えてくる事柄を次のように箇条書きすることができる。

1)造営・修理に関わった人数や振舞のあらまし
@天正二甲戌二月十日ヨリ  番匠手間 (合而:あわせて)百六十人
  (注:内訳 大工親子70人 吉川彦八12人 二子荷50人 鍛治25人)
A「同振舞同音信衆」
もっとも大規模な人数が振舞われた桂如意庵での番匠五十七人が初めに書かれていて、その他、多くの寄進の品々や食事などの馳走や振舞が記録されている
B「桂如意庵振舞番匠五十七人」 3月16日に桂如意庵で番匠57人に振舞をしている。ずいぶん大人数への振舞である。振舞がおこなわれた場所が具体的に書かれているものの振舞った人物の名前がない。おそらく主だった番匠を対象に、工事が始まった一月後の節目に寺が主催したのではなかろうか。
C振舞に類するものをみると、わざわざ「振舞」と記しているのは「振舞番匠57人」、「昼飯振舞分 堅蔵主」、「振舞ソハキリ 金永」の三例のみである。それ以外の4例「朝食 千新」、「夕食  」、「夕食 千八左」、「強飯 千新」には「振舞」とは書いていない。この区別はなにを物語っているのだろうか。

2)「振舞」と区別した理由を考える
@先ず分かりやすいのは、主たる番匠57人に振る舞った人数の多さと、おそらく寺が主催した特別な行事としての特殊性が考えられる。
Aわが国古来の「ハレとケ」即ち、「非日常的な食と日常的な食」としての区分。
 わが国のこれまでの食事習慣はながく朝夕二食であったが、ちょうどこの頃に食事形態の大きな変化が現れて、朝昼夕の三回に移行していく時代背景にあった。
このような時に大勢を対象に出された昼飯はまさしく非日常の食事行事で、わざわざ「昼飯」と書いて朝食や夕食と区別したうえでさらに「振舞(分)」と付記したと考えられる。
さらに、「朝食・夕食」とあるのに対して「昼食」とせず、わざわざ「昼飯」としている。「めし」は本来、「めしあがる」という「たべる」の尊敬語だと考えると、やはり、非日常の特別な食として区分されたのではなかろうか。
B「ハレと食物」という観点では、古くからうどんやそば切りがハレの食べ物とされてきたことは説明を要しない。その根拠について『柳田国男の民俗学』を引用すると、「粉食がハレの食物とされるゆえんは、一つには、その加工に多くの手間がかかり、大量には作れず、しかもその保存に日本の風土は適していなかったために、貴重品であった。」としている。
石臼が普及する以前の胴搗製粉の時代に、寺院の現場に逗留して働く番匠や手間にとって揃って振る舞われるそば切りは、まさしく「ハレの馳走」であり、「非日常の食」であった。

3)「振舞や寄進」をした人物像は?
 寄進者や振舞った人物像を推し量ると、寺名や禰宜、代官を除くと、人物名には多くの苗字や名前が登場する。現在でも通用する普通の名前であるが、例外的に特異な略称で表記された名前がある。千淡内、千八左、千新の三名で、「千淡内」は千村淡路守夫人であり、「千八左」は千村八左衛門だそうだ。
さらに、朝食と強飯を振舞った「千新」は、武田信玄や木曽義康に従って戦功のあった木曽氏一族の武将・千村新十郎政直(淡路守)である。木曽義仲から数えて15代目にあたる。
このように、苗字を持ち身分のある者について、苗字と名前のそれぞれ頭文字を組み合わせて書き記す例があったのであろう。同時に苗字と名前双方(普通のフルネーム)で記録されている者が大半であるところをみると、この記録をとる定勝寺側との密度が関係しての記載なのか、あるいは衆目の知る名の通った人物のみに略称を用いたかのいずれかでなかろうか。

 このように考えると、ソハキリを振舞った「金永」と記された人物にも同様の想像が沸く。同時代の苗字には金松(兼松)や金森があり、金○永○○という氏名の人物がいた可能性は否定できない。
 *現在の定勝寺近在にも「金の付く姓」は多く、大桑村(旧・須原宿)と上松町(旧・上松宿)だけでも金子、金指、金澤、金沢、金谷、金城、金森、更に現在の木曽町を加えると、金木、金咲、金松など実に多い。
さらに、同時代の武将では飛騨高山藩主・金森、甲斐武田の金丸、尾張葉栗郡の金松氏などがあるが、信濃国の一宮である諏訪神社の下社大祝(おおほうり)を世襲した金刺氏が有名である。さらに、「日本の苗字七千傑(姓氏類別大観)」というサイトの中の金刺舎人裔氏族綱要の金刺氏族によると、永明、永雍、永寧、永宗、永祖などの名前が登場した事例もある。
このようにみると、単に「金永さん」という名前の人物と考えるよりも、苗字と名前のそれぞれ頭文字である「金+永」と組み合わせた人物であった可能性も無視できないのである。

4)「振舞ソハキリ(そば振舞い)」について考える
   仮に、「ある程度の人数」にたいしてそば切りを振舞う場合を想定してみると、少なくとも現在とは異なる前提条件とともにより具体的に当時の振舞が想像される。例えば
  【現在とは異なる背景】
@製粉の道具や技術が違っていた・・・そば粉の品質が違っていた
臼と杵の胴搗製粉が一般的で篩も今ほど精密でなかった
A「つなぎ」の手法が発明されていなかった(これ自体は問題ではないが、そばが切れやすく現在のように手際よく扱えなかった)
Bそばを打つための専用の道具はなかった(木鉢と一本の麺棒だけ)
そば切り専用の包丁や小間板などは江戸時代後期以降の出現である
C一度に多くの量を打つ技術がなかった(少量ずつ回数を打つ)
Dそばの茹で方が異なっていた *現在のように茹で、洗い、盛り付けなど手際よくできなかった
*江戸時代前期の文献『料理物語』『本朝食鑑』『蕎麦全書』から推測
「(切ったそばを)沸湯に投じて煮て、ぬる湯で洗い、取り出して煮え湯をかけ、蓋をしてさめないように保存して、小分けして供する方法がとられた(手間と効率が悪かった)
そば振る舞いの特徴は、現在でも「そばを打つ仕事量」と「茹でて盛りつけ、供するまでの仕事量」は少なくとも同等である。むしろ、火を扱い水を扱うことを考えると後者の方が大変かも知れない。
とすると、「金○永○○」という人物が自分の家で一人で打って持参したそば切りを振舞ったと考えるよりも、振舞いの主催者としての記録であり、何人かが協働して現場で作業が行われたと考える。
そば切り誕生の場所や年代はわかっていないが、定勝寺での出来事は、すでに誕生から相応の期間を経ていたと考えるのが自然ではなかろうか。

  【考えられる仮説】
 すでに見てきたように、「振舞ソハキリ」は、自宅で打ったそば切りを持参して何人かで茹でて食べた記録ではなく、工事が一段落してそれにかかわった相当数の人数を対象に行ったそば振舞いを記録したものであると考えるべきである。後世、ハレの振舞いにそば切りが出される記録は各地に残っているが、信濃の地域でも早くからハレの行事にそば切りの振舞いが行われた事例かも知れないのである。
従って、そば切りはもっと早い時期に(信濃の)どこかで誕生していて、それがじっくりと周辺各地へ伝わって行く過程での出来事だったのではなかろうか。それがやがて諸国にも伝わって文献などに登場することになる。
天正2年(1574)の木曽・定勝寺で「振舞ソハキリ」がおこなわれた確証を得て、にわかに、もっと早い時期に、信濃でそば切りが誕生していたと結論づけるのは飛躍しすぎかも知れないが、そば切りの先進地帯(と考える)の信濃にはまだ、定勝寺の古文書に匹敵する記録が埋もれていて必ず見いだされると期待するところである。

  【引用した文献】
     長野郷土史研究会機関誌   長野
       第167号   「信州そば史雑考」         関 保男著
       第168号   「天正二年のソバキリの記事」  小林 計一郎著
  史料の古文書解読と史料写真は第168号を引用して掲載させていただいた。

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