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 慈性日記にみる 「ソハキリ」の史料 「蕎麦切り発祥を探る」

   江戸・そば切りの初見  「常明寺の定説」は違っていた

はじめに
 そば切りの歴史では、平成5年(1993)に、木曽大桑村須原宿の定勝寺に伝わる古文書から、天正2年(1574)の「ソハキリ」の記録が見出され、これが「そば切り」という言葉の初見となっている。
それまでは「慈性日記」に書かれた慶長19年(1614)の「ソハキリ」であったが、その後も江戸におけるそば切りの初見という意味では不動である。
 日記の慶長19年2月3日の条には『常明寺へ、薬樹・東光にもマチノ風呂へ入らんとの事にて行候へ共、人多ク候てもとり候、ソハキリ振舞被申候也』とあることから、そば関係の多くの書物は、「多賀大社の社僧が書いた慈性日記に『常明寺へ行き、町の風呂(銭湯)に行ったが混んでいたので戻って、ソバキリを振る舞われた。』というのである。すなわち「・・常明寺でそば切りの馳走になった」ということになっている。

 ところが、改めて慈性日記を読み返してみると、江戸のそば切り初見の内容がかなり具体的に見えてくる。ここでは、そば切りを振る舞われた記録の背景と舞台について時代を遡りながら掘り下げることによって、従来とは異なる「そば切りを振舞ったのは東光院である」という見解を述べている。
さらに、本論とは別に「そば切りの歴史」という観点からいうと、江戸における初見の10年後の元和10年(1624)に「資勝卿記」という日記に見える京都のそば切りの初見があり、その背景までも慈性日記の記述からみえてくるのである。この部分についての一項も設けておいた。

 そば切りが誕生した年代はわかっていないが、そば切りが普及していく過程を知る上で、これらの史料は、天正から慶長、元和年間にはすでにそば切りはかなりの地域で作られ普及していたであろうと推しはかれる貴重な実録となっている。
ここで、かなりの地域と表現したのは、この項では触れないがこの時代に奈良にもそば切りの記録があって、元和8年(1622)、郡山藩の家老の家で「ソハキリ」を振る舞われたという茶人の日記・松屋会記が遺されている。
)慈性日記のそば切りの定説を再検証する
 そば関係の多くの書物は、「江戸におけるそば切りの初見」を次のように解説してきた。「多賀大社の社僧が書いた慈性日記の慶長19年2月3日の条に『常明寺へ行き、町の風呂(銭湯)に行ったが混んでいたので戻って、ソバキリを振る舞われた。』というのである。「蕎麦の事典(新島繁編著)」でも「・・常明寺でそば切りの馳走になったという内容」だとしている。
 慈性日記には、多くの寺院が登場し、その大半はかなりの確かさで当時の所在が把握できることから、常明寺についても同様の期待をし、そこから初期・江戸のそば切りについての手がかりを探ろうとするが、江戸の歴史の中で常明寺につながる資料は見つからないばかりか逆にいくつかの疑問が浮かび上がってくる。
 次に、慈性の身分(立場や役割)である。多賀大社といえば、古くから衆人の信仰を集め、室町時代には、社僧や坊人(ぼうじん)達が神徳を説き神札を配りながら多賀信仰を諸国に広めた記録がある。慈性もまた多賀大社の社僧の一人と解してしまっては、そば切りが振る舞われた背景を見失ってしまうのである。
 ここでは、これまでの説をいったん白紙に戻し、史料としての日記を忠実に読み返すことによって、「ソハキリ振舞」がおこなわれた背景と舞台を検証仕直すことにする。

 慈性と慈性日記についての基本データ
@慈性について
文禄 2年(1593) 日野資勝の次男として誕生
慶長19年(1614)正月2日より 慈性日記始まる  22才
       既に 尊勝院住持  多賀大社別当不動院を兼務
寛永19年(1642)   任・大僧正        49才
寛永20年(1643) 慈性日記終わる (この年、天海大僧正逝去している)
寛文 3年(1663)         逝去 71才
A父 日野資勝 公卿 正二位・権大納言に至り、武家伝奏を勤める
「資勝卿記」 天正19年(1591)〜寛永7年(1630)の日記:京都ソハキリ初出
B慈性日記に登場する人物(歴史上の多くの人物が登場するので書ききれない)
朝廷、徳川家康・秀忠・家光、公家・大名・幕閣など
特筆すべきは、天台宗南光坊天海(大僧正)と天台宗寺院と僧侶
C日記の特徴
 日記には、徳川政権が発足したばかりの時代背景や多くの事柄、それに伴う天台宗僧侶たちの活動が詳細に描かれている。
特に慈性の身分(立場や役割)についてそばの通説では「多賀大社の社僧」としているが、名門・日野家出身であり尊勝院住持と多賀大社不動院を兼務し当代一級の多くの人脈と交流している様子が記録されている。
さらに、そば切りが登場する日記冒頭の江戸に滞在した目的の多くは、新年の六日に江戸城で行われる徳川家康御前での(浄土宗・)天台宗の論議や九日の秀忠将軍御前での天台宗論議をはじめ、天台宗寺院との交流にあった。
注:慈性日記の原本の所在は不明、抄出本が滋賀県多賀の天台宗寺院安養寺に所蔵されている。

)常明寺と、それ以外の寺院
 常明寺の謎にせまる意味で日記が始まる慶長19年正月二日からソハキリ(そば切り)を振る舞われた二月三日までに登場する寺院を順に列記したのが以下である。
法性寺、千妙寺(亮ェ)薬樹院(久運)、月山寺(恵賢)、真光寺、安養寺、惣宗寺(亮運)、知足院(賢盛)、観音院、多賀(尊勝院・多賀大社)、日光(遊定坊)、浅草観音、宗光寺、仙波・喜多院、東光院(詮長)、神田社、常明寺と実に多いことがわかる。( )内は僧の名前。
そして、主要な登場人物は南光坊(後の天海大僧正)を軸にする天台宗寺院の僧であり、彼らは江戸在所の寺院だけでなく各地から江戸に参集する寺院の僧であることがわかる。
寺院には特定しがたいものもあるが概ね次のように区分してみた。

@江戸に所在を確認できる寺
浅草観音・観音院(江戸最古の寺院)、神田社(江戸城改築時に駿河台へ移転、この後、江戸城の鬼門にあたる湯島台へ)、東光院(江戸城拡張時に移転、この頃は小伝馬町にあった)である。
A法性寺は日記の記述によると江戸にあったと推測されるが、愛知県岡崎市法性寺などにも同名の天台宗寺院がある。安養寺は慈性日記を所蔵している滋賀県犬上郡多賀町の安養寺の他に、江戸城内平川口にあって築城のために田安へ転地(その後神楽坂)した同名の寺もある。
B江戸地以外で確認出来るのは、千妙寺(茨城県筑西市)、薬樹院(滋賀県大津市坂本)、月山寺(西茨城郡岩瀬町)、真光寺(群馬県渋川市)、安養寺(滋賀県犬上郡多賀町・慈性日記を所蔵・Aでも記載)、惣宗寺(栃木県佐野市)、知足院(茨城県つくば市・筑波山神社)、尊勝院(京都市東山区粟田口)、多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町多賀)、日光山(栃木県日光市)、宗光寺(栃木県芳賀郡二宮町)、喜多院 =仙波(埼玉県川越市:南光坊天海が住職の頃、徳川家康より天台宗の関東本寺となる)などがあげられる。
C特異なのは、問題の2月3日に一度だけ登場する常明寺である。当時の江戸や江戸以外の地域にも天台宗寺院で常明寺という記録は見あたらない。
 その上、日記に出ている寺院の登場回数はいずれも複数回あり、寺院名の他に人物名または所在地の想定など、なんらかの判断材料はあるが、常明寺だけは寺院名以外なにひとつわからないのである。

    
3) 日記文章の実例 と 「常明寺と町の風呂屋」、「ソハキリ振舞」の解釈について
 慈性日記は、以下@、A、Bに例文を示したが、箇条書の短文が多く、文章の区切りも分かりやすいという特徴がある。 *注 : 読点( 、)並列点( ・)は後世加えられたもの。
@慶長19年正月2日 「城泉州へ南天坊同心にて参候、毛りかい殿も参候、
 法忍坊コヲ打候、宗慶將棊指候」
注:城泉州(城和泉守昌茂) 南天坊(南光坊天海)・・同心・・(一緒に)
毛りかい(毛利甲斐) 法忍坊以下(碁を打ち候、 将棋を指し候)
A元和6年2月18日  「大様へ参候、其より大福庵へ参候、・・・」
 注:大様(慈性の父・日野資勝) 大福庵(資勝卿記では:京のソバキリ初見にも)
B元和9年7月26日  「伏見へ参候而、大納言様へ御禮申上候、南都喜多院殿と同心申候也」
  注:大納言様(徳川家光) 南都喜多院(仙波喜多院・空慶)
など、ここにあげたどの例文もわかり易いのであるが、それらと問題の「常明寺へ、・・・ソハキリ」が登場する二月三日の文章を比較してみる。

『常明寺へ、薬樹・東光にもマチノ風呂へ入らんとの事にて行候へ共、人多ク候て
   もとり候、ソハキリ振舞被申候也』

 この文章を見直すと、定説となっている「常明寺へ(参候)、・・風呂に行き候へ共、人多ク候て(常明寺へ)戻り候、ソハキリ振舞被申候也、」という解釈は困難で、あくまでもこの日の目的は(常明寺を訪ねることではなく)町の風呂へ行くことであった。従って、この日の「もとり(戻り)候」は常明寺ではなく出発地でなければならない。
 もし常明寺が基点だとすると、例えば天台宗仲間の寺であるとか、物見・見物など訪ねる目的や理由がある程度推測できるのであるがこの文章に限っては何のために常明寺へ行ったのかが前後をみわたしてもわからない。しかも他の寺の場合とは異なり一度きりしか登場しない不自然さがある。
さらに、慈性日記に書かれている振舞の記述にはどれも、どういう関係があって誰が誰を振る舞ったかが読みとれるのであるが、この文章に限っては振る舞われた三人と常明寺の関係を読みとることは出来ない。やはり、この日の慈性達の目的は常明寺へ行くことではなくて、町の風呂に行くことであった。
だから「常明寺へ」の後ろにわざわざ常明寺へ向かった説明を持ってきたのが「今江戸で評判になっている銭湯へ行ってみようと(かねがね)話し合っていたので、(風呂屋のある)常明寺へ(あるいは、常明寺を目印に)行候、(しかしながら)人多ク候て(出かけた元の場所へ)戻り候、」であり、戻った場所(逗留している寺)は、同じ天台寺院であり、そこでそば切りを振る舞われたという記述である。従って、この文章も他の文章と同様に、この日の行動の目的も、誰が誰を振舞ったのかもきちっと記述されているのである。

)常明寺は風呂屋(又はその目印)と解される
 慈性が日記を書き始めた慶長19年(1614)と同じ年、三浦浄心という人が江戸初期の風俗などを書いた「慶長見聞集」を出した。その中の「ゆなふろ繁盛の事」で次のように記している。「見しは昔し、江戸繁盛のはしめ天正十九年(1591)卯年夏の頃かとよ。伊勢与市と云しもの銭瓶橋の辺りにせんとう風呂を一つ立る。風呂銭は永楽一銭なり。・・  ・・、今は町毎に風呂有り。びた拾五文、廿銭つゝにて入也。湯女と云て、なまめける女とも廿人、三拾人ならひ居てあかをかき、髪をそゝぐ。・・・ 」とあって、慈性達が町の風呂に行こうとした慶長19年には江戸の町毎に風呂屋があったと書いている。
 仮に、町毎に出現した銭湯の中に、寺の近くに風呂屋ができたために寺が目印になったケースがあっても不自然ではなく、さらに、流行の風呂屋と多少運営のしかたが違っても寺内に風呂屋が出現した可能性すら否定できないのではなかろうか。
「寺と風呂屋」を組み合わせて解釈するのは、余りにも乱暴な見方とのそしりは免れないが、慈性日記をさらに読み進むと、あながちそうとも言えない寺と風呂の記述も登場している。

寛永9年6月19日 正覚院ニふるき寺ノ風呂ヲ遣シ、ふろヤ(風呂屋)ハ呂玄
     銀子有之付而作事
      (これは多賀で書いた文章。)
 慈性日記には「・・ヘユキ入湯」「・・にて入湯申付入候」「御風呂被爲焼候」「朝食御振舞、風呂・・」「風呂へも御入候」など、風呂がよく登場するが、いずれもその前後を含めて状況がわかりやすい。
それらの風呂と異なるのは、先の2月3日の「マチの風呂」と、上記正覚院の「ふろヤ(風呂屋)」である。寺院には湯屋や浴堂での施し湯を行った「施浴」の歴史はあるものの、それともつながってこない。とすると、寺が風呂屋を営んだ実録と解するのは乱暴とも言い得ないのではなかろうか。

)江戸滞在中の慈性達の住まいと拠点
 慈性日記の慶長19年正月6日に以下のように書かれている。
  T、御本丸ニ而浄土衆ノ法問由候、
  T、晩ニ天台衆ノ論議御本丸ニ候、聴聞ニ参候、何も何も御振舞被仰付候、
この日は、江戸城本丸において徳川家康の御前で浄土宗と天台宗の論議が昼夜に分かれておこなわれている。
 別の資料(日本の名僧 天海・祟伝 圭室文雄編 吉川弘文館)によると、「家康は慶長18年から元和元年にかけて駿府城や江戸城などで諸宗の僧侶を集めて百座以上の論議を興行して自ら聴聞した」とある。
 日記に書かれているのは天台僧のことであるが浄土宗や真言宗においても同様で、学僧や僧侶が各地から江戸に参集するために往来していて、僧達には江戸での住まいと活動の拠点が必要であり、宗派それぞれの逗留場所を定め、江戸在所の寺院に滞在したと考えられる。
例えば、高野山真言宗総本山金剛峯寺東京別院のサイトによっると、「慶長年間江戸に徳川幕府が開かれた際、高野山の宝門・寿門の学侶方の在番所の寺として、浅草の日輪寺に寄留して開創された」とある。
 慈性日記では、逗留場所や長期滞在場所を示す記述は極めて少ないが、江戸滞在中の宿に関する記述を抜粋すると下記のとおりである。

@日記の書き始めは慶長19年正月二日であることから、前年から江戸に滞在していることがわかるが宿泊場所は不明である。
    2月11日   東光院より法性寺へ宿ス
(いつもの東光院からこの日は法性寺へ宿を移した。の意であろう)
   11月2日   たかへ七つ時分参着 
(正月二日は江戸。11月2日多賀着。少なくとも十ヶ月以上江戸に滞在)
A元和 2年 5月朔日  ゑと(江戸)参着、法性寺ニ借屋
     5月29日  江戸ヲ立、木曽通リヲ上ル、薬樹院同心申候
     6月11日  たか(多賀)へ申ノ刻ニ参着ス
B寛永元年3月18日 たかヲ発足、江戸へ、供、眞坊、式部、良知、右京、
           左門、左京、下々共十人、今須トマリ、
     3月27日  井関所へ参着(江戸へ参着)
     3月29日  新こく町ニテ借家、一月(ひとつき)ヲ2両2分
     5月26日 (江戸を発つ)

 このように、慶長19年(1614)から寛永元年(1624)までの10年間に絞って見ると、江戸下向の回数は三回である。
ソハキリの記述のある@には、宿舎についての記載がないが、2月11日に「東光院より法性寺へ宿ス」とある。この日は、後述するように「ウトン振舞」があるので、東光院から(皆が集まる)法性寺へ宿を移したのであろう。二回目Aの約1ヶ月は法性寺に「借家」していることがわかる。(このことからも法性寺は江戸の寺院であったと考えられる。)
さらに、Bの約二ヶ月間は、共の者10人という大所帯で、僧6人の他に(賄い・給仕など下働き?)4人が同行している。寺ではなく1ヶ月2両2分の家賃で家を借りている。「新こく町ニテ借家」(新石町)は現在の千代田区内神田三丁目あたりであろうか。東光院のある小伝馬町よりもだいぶ江戸城に近くなっている。
 こうしてみると、@の10ヶ月以上は、東光院または、東光院のある小伝馬町から浅草辺りの寺院に逗留していた可能性が大きい。法性寺も、当然そのエリアにある寺と考えられる。

)そば切りを振る舞ったのは東光院である
 次の問題は、風呂に入らずに戻った場所はどこかを補う必要がある。
いうまでもなく、三人が戻ったのは「出発した場所」すなわち「江戸の住まい」であるから詮長の住まい(東光院)、あるいは久運や慈性の逗留している東光院の小院や子院などであろう。
 さらに、日記に登場する多くの寺院は、天台僧・南天坊(南光天海)が主導する関係にあった。遡ること天正9年(1581)徳川家康は浅草寺を祈願所に定め、天正18年(1590)江戸に入国した時、浅草寺に500石を寄進している。これらはいずれも南光坊天海の推挙によるとされている。 従って、各地から江戸に参集してくる僧侶達のために天海が便宜をはかり世話をさせたことは充分に考えられ、東光院(とか法性寺)、浅草寺など、子院も含めた範囲で逗留したと解されるのであるが、日記の中での登場頻度やその時の状況から推しはるとさらに絞られて、少なくとも慈性の宿泊場所は江戸・小伝馬町の東光院であった可能性が高い。
この点については、具体的に住まいの様子を窺い知る記述がある。
 東光院・詮長が南光坊を振舞ったとある慶長19年正月29日、『南光坊ヲ東光院振舞被申候、相伴にとてよひ来る、則ゆく』、人を介する以外通信手段のなかった時代、文中に双方の短い時間と距離の間隔がよく出ている。おそらく広い敷地内の別の建家(院外であっても至近)だろうと素直に解釈できるのである。
6月21日にも『三門主御城ニて御振舞のよし、御帰ニ東光院にて食御申上候間、相伴ニ参候』も同じである。
 ここで日記から離れて、江戸時代初期の史実に残る東光院について客観的に観察すると
 慈性とたびたび行動を共にする東光院の詮長法印は、後に天海僧正が東叡山寛永寺を開創した際に、吉祥院を開基して寛永九年(1632)まで東光院と兼務し寛永十九年に遷化したと「東京府寺院明細帳」に記されている人物である。
 薬王山医王寺東光院の草創は古く平安時代とされているが、この頃、慶長年間から明暦3年(1596〜1657)は小伝馬町にあった時代で、薬師如来三尊を安置した薬師寺としても広く知られていた。江戸の古地図にも記されている。 さらに「文政寺社書上」の記録によると当院のこの時代、「本堂并堂社寺中八ヶ院」とあり院内には塔頭(たっちゅう)が八ヶ院(小院や子院)もあったという。敷地の広さと共に建物も多く慈性達の宿舎の役割を担うには充分であったと考えられる。

江戸・明暦大火直前の古地図 江戸図の部分でシンナワ町(小伝馬町)の古地図
中央部分に薬師寺とあるのが東光院である。
この古地図は明暦3年版で、明暦の大火(振袖火事)はこの年(1657)正月18日だから、焼失以前の記録であろう。
大火により江戸の大半が焼失したが、当院も類焼して現在の浅草新寺町に移転している。

  資料 : 薬王山医王寺 東光院小史より

 再度、慈性日記に戻るが、ソハキリ振舞のあった2月3日と翌日4日の関係も、その晩は東光院に泊まったことを物語っている。
すなわち
2月3日  常明寺へ、・・・・人多ク候てもとり候、ソハキリ振舞被申候也、
2月4日  東光院・薬樹院・法橋・金乗院也、東光ノ内何も食申入候、

 3日は東光院に戻った三人はそば切りを振る舞われ、翌日は法橋と金乗院も加わった五人が揃って、「東光ノ内」であるから、東光院の内衆(賄いなど下働き?)から食事を出されている。
即ち、東光院の詮長住職とともに慈性(京都)、薬樹・久運(滋賀・大津坂本)、法橋・惣宗寺(栃木・佐野市)と金乗院(?)の五人は共に、おそらく東光院に逗留しているメンバーであり、前日のそば切りも五人揃って振る舞われた、というより、この内の誰かがそばを打って振る舞ったのではなかろうか。

7)僧侶達の「うどん振舞」の実例を見る
 そして、僧侶達の「振舞」の雰囲気を窺い知ることの出来る記述がある。「そば切り振舞」のあった8日後、「うどん振舞」がおこなわれたときの様子である。
慶長19年2月11日
     T、仙波へ永呂ヲ遣ス、実成房ノ道具取ニ遣ス用也、
                         南光房皆々へ文遣ス
     T、東光院より法性寺へ宿ス、実成房ウトンヲ御振舞候、・・
仙波・喜多院の江戸・宿坊まで実成房のうどんを作る道具を永呂に取りに行かせ、南光坊が皆々にうどん振舞をするので参集するよう連絡をとらせている。
慈性も東光院から法性寺に宿所を変え、実成房がうどんを作って皆に振る舞ったのである。
良い小麦粉が手に入ったのであろう、僧侶達は先ず道具の手配やうどんを作る準備に取りかかっている様子が手にとるようにわかる。段取りがたいへんだがそれも御馳走のうちであり、賑やかに法性寺に泊まることになったのであろう。

8)まとめ
 そば切りが振る舞われたときの状況は書かれていないが、おそらく、うどん振舞のときと同様の場面が展開したのであろう。
このように見ると、振舞の舞台は江戸での逗留拠点でもあった東光院や法性寺ではあるが、「うどん作り」を披露したのが実成房(埼玉・川越市)であったのと同様に、「そば切り」を披露したのも、仮に翌朝4日も東光院に居合わせて食事を共にした5人の中のひとり、法橋だったとすれば惣宗寺(栃木・佐野市)の僧ということになる。
 すなわち、そばを振舞った人物が誰かという問題ではなくて、舞台は江戸であり、うどんやそば切りの作り手は各地から江戸に逗留している天台宗の僧侶であったことがわかる。そば切りの普及度合を推しはかる貴重な史料といえる。江戸時代になって間もない慶長19年(1614)という早い頃に江戸でおこなわれた「そば切りの史実」である。




以下は参考テーマ

@)初期江戸の振舞とそば切り・うどんの普及度
 慈性日記には多くの振舞の場が登場するが、ごく一部の例外を除いてはその振舞のくわしい内容について記述されていない。
ところが、ごく一部の食べ物(飲み物)についてはわざわざ書き留めているのである。具体的には、くわ湯(粥)、御酒、ソハキリ・(後段にソハキリ)、ウトン・(後段にウトン、ウトン調)、さうめん、いよそうめん(贈答品)、茶(御茶)、壺口切御茶(贈答品)などである。
 先ず、くわ湯(粥)の振舞は正月14日で、翌15日は御日待となっている。気をつけて日記を見直すと月の15日は「御日待」(23日が「御月待」)となっている。((日待:前夜から潔斎して寝ずに日の出を待って拝むこと(影待と同じ)。 月待:月の出るのを待って供物をして、飲食を共にする。広辞苑より))
1月15日の前夜は十四日年越しであり小正月でもあるので小豆粥などが出されて書きとめられたのではなかろうか。
 御酒は元々、神事や慶事のものであって日常のものではなかった。非日常(ハレ)という意味でわざわざ書き記したのであろう。茶も同じ扱いをされていたのではなかろうか。

 この項で重要なのはソハキリ、ウトン、さうめん、(茶も)で、これらはいずれも製粉を要する食品として共通する。茶臼(茶磨)は既に使用されていたものの、一般的には臼と杵の胴搗製粉の時代であり、穀物を粉にすることはたいへんで、まして麺にできるような良質の粉にすることはなおさらであった。だから、小麦粉やそば粉、抹茶はそれ自体が稀少であると共に粉を使う料理自体が特別な御馳走に通じ、日記にも記されるもてなし(振舞)だったと考えられる。
 「柳田国男の民俗学」にも、「粉食がハレの食物とされるゆえんは、一つには、その加工に多くの手間がかかり、大量には作れず、しかもその保存に日本の風土は適していなかったために、貴重品であった。」と記していることでもわかる。
そして特に注目したいのは、そば切りがうどんと同様に僧侶たち自らが作って振る舞うという様子が窺えることと、後段の部にも加えられていることをみても、後世の私たちがこの時代のそば切りの普及度について神経質に思いを巡らす段階ではなかったようである。(かなり早くから普及していたと考えても無理がないのではなかろうか。)
   注:「柳田国男の民俗学」 福田アジオ 吉川弘文館

日記前半からうどんやそば切りが振る舞われた箇所を二・三抜粋して、若干の解説を加えてみたい。
@慶長19年2月11日 T、仙波へ永呂ヲ遣ス、実成房ノ道具取ニ遣ス用也、
                 南光房皆々へ文遣ス
        T、東光院より法性寺へ宿ス、実成房ウトンヲ御振舞候、・・
A   2月23日 T、南光坊へ見舞候、もとりニ薬樹院同心、茶ヲ振舞候
B元和3年8月18日朝食、大様ニテ被下候、下々まで、昼ハウトン調、・
C寛永3年8月18日   前後省略
         T、東猪兵へ殿・花右馬介殿・内藤釆女、自作數寄ニて
           茶申入候、後段ソハキリ、夜入五つ時分御かへり候也
D  3年9月3日 南部山城殿へ御茶申入候、・・、數寄ニテ後段ウトン・・

@は、上記7)で書いたが、僧達のうどん振舞の場面である。現在の「うどん振舞やそばパーティー」などの風景とも共通する。
Bは、朝食は父・日野資勝卿邸で供のみんなも一緒に振る舞われ、昼はわざわざうどんまで作ってくれたのである。
Cは、慈性が自分の尊勝院で三人に茶を振る舞い、後段にそば切りを振舞った。夜も8時頃になって帰られた。慈性が自らそば切りを作って振る舞ったとも解釈できる。
Aは茶を、Dは御茶の後段にうどんを振る舞っている。
@〜Dは、この時代既に寺院ではうどんとともにそば切りも作られていて、後段の振舞としても供されていたことがわかる。
注:「後段(ごだん)」  振舞のとき、主たる食べ物の後に、麺類などを出すこと
そうめんの記録は、別の古い史料にも多く出ているので特記に値しないと思うが、一箇所だけ下記に抜粋した。
元和6年正月26日 生田玄番殿にて朝食御振舞、・・ ・・又、掃部殿と碁ヲ
        打申候、さうめん、御酒、・・・

A)「慈性日記」と「資勝卿記」に登場する京の大福庵
 「資勝卿記」は、慈性の父・権大納言日野資勝の天正19年(1591)〜寛永7年(1630)までの日記である。
二つの日記には、共通して早い年代での「そば切り」が書かれている。
時系列で見ると、慈性日記の慶長19年(1614)2月3日には江戸初見の「ソハキリ」振舞があり、10年後の元和10年(1624)2月14日には、父が資勝卿記の中で京都初見の「ソハキリ」振舞を記している。
江戸と京都それぞれに早い時代にそば切りがおこなわれていたという貴重な記録が、父子の日記によって知ることになったのである。
さらにまた、その3年後・寛永3年8月18日の慈性日記に、京都の自作數寄(尊勝院)で、慈性自らがそば切りを振る舞ったとしるしているのである。

 資勝卿記には、「午刻冷泉ヨリ人参候て真如堂へ参候。・・・  ・・・喜運にて吸物又餅ヲ煮テ被出候也。御酒過て直ニ大福庵ヘ参候て、弥陀ヲヲガミ申候也。其後ソハキリヲ振舞被申て、又晩ニ夕飯ヲ振舞被申候也。」というのが、初めて京都にソハキリの記録が登場する場面である。
喜運とはおそらく極楽寺真如堂の塔頭寺院のひとつ喜運院であり、大福庵とともに、天台宗の寺院である。

現在の極楽寺真如堂現在の真如堂は紅葉の名所でもある元禄6年に再建された現在の極楽寺真如堂
紅葉の名所でもある。
応仁の乱で荒廃したあと市中を転々としたので日記に登場する場所とは異なる。天台宗。

そして、そば切りを振舞った「大福庵」は、慈性日記のなかでもたびたび登場する天台宗の寺院である。

大福庵を知るうえで、登場する慈性日記中の一部を以下に抜粋した。
@元和3年10月6日 南光坊般舟院ニテ、マンタラク御導師ニ御出候、見立ニ
参候、大様・藤衛門様・啅長老・宰相様・大福庵・近藤
道酒・兵庫内ゝ衆・内衆壺口切御茶申上候、大様へ持参
申候也
A 10月26日 大様・宰相様へ参候、大福庵ニテ御両人ヲ振舞候間参候
也、夜更候付而、大様ニとまり候也
B寛永3年2月28日 青御門主ニテ周易ヲ大福庵講、聴衆、八宮・日大・日中
・飛中・・・
@は、南光坊天海が般舟三昧院(天台宗寺院)で曼陀羅供の導師を勤める。この席には大様(父・日野資勝)宰相様(兄・日野光慶)などと共に大福庵(の僧・金岡)も同席している。注:壺口切御茶(茶壺の蓋を目張りしてあり、開けるのを口切:涼気が充ちるころに封を切る。)
Bも、京都の天台宗・青蓮院門跡で、大福庵の周易が講釈を聴聞している。聴衆には八宮(知恩院良純法親王)・日大(父・日野大納言)・日中(兄・日野中納言)などが出ていることがわかる。
Aは、父の家に行き、父と兄を誘って大福庵で御馳走している。
 ここに挙げた@ABの例からも大福庵は京都にある天台宗の寺であることがわかる。そして、出す精進料理の評判が良い寺として振舞の席にも利用され、時にはソハキリも振舞の後段の部にメニューとして加えられていたのだろう。

B)初期江戸の形成とその後の東光院
 江戸は、鎌倉時代には江戸氏が居城を構え、長禄元年(1457)に太田道灌が江戸城を築いている。その後、北条氏の支配を経て天正18年(1590)に徳川家康がこの地に入国するが、この頃までは未開の田舎であって詳しい記録はほとんど残っていない。
古い寺院についても同様で、最古の浅草寺が飛鳥時代推古天皇36年(628)と伝わるのと、天平2年(730)に武蔵国豊島郡芝崎村(千代田区大手町)に創建されたという神田明神くらいが記録に残る程度である。
 慶長五年(1600)関ヶ原の合戦の後、同8年(1603)家康が征夷大将軍となって江戸幕府が始まる。それから2年後に秀忠が2代将軍となり、慶長19年・20年に大坂冬の陣・夏の陣があって豊臣氏が滅亡している。(慈性日記は慶長19(1614)年正月2日から始まっている。)
 家康は江戸に入った天正18年から江戸城の拡張と市街地の造成に取りかかっているが、この時期の様子を1992年版【五百年前の東京 菊池山哉著・塩見鮮一郎解説 批評社】から引用する。
「落穂集追加」には「三之丸付近には寺なども二十三ヶ所有之由 右寺々の義は 間もなく外の所へ御引せ被成候」、また「天正日記」十八年九月五日(1590)の条では「つほね沢(局沢)の寺々のこりなく引うつし候、云々とあり、日蓮宗五ヶ寺 貝塚末寺三ヶ寺 真言宗二ヶ寺 天台宗一ヶ寺 禅宗五ヶ寺 都合十六ヶ寺なり」とあり、この頃からすでに江戸城・城下の築城整備のための寺社移転が始まっていた様子がうかがえる。

 天台宗東京教区の公式サイトによると、東光院は「天正18年 の江戸城の拡張の際に、局沢 (皇居内吹上御苑のあたり) にあった寺院15ケ寺とともに常盤橋御門の北へ移され、さらに、慶長年間 (1596〜614)に小伝馬町へ移転している。」とある。上記の「天正日記」にある天台宗一ヶ寺が東光院であったことに符合するのである。
そして、東光院の場合でみると常磐橋御門の北へ移り、さらに慶長年間(1596〜1614)小伝馬町に引寺している。
 このように、慶長から寛永にかけて江戸の都市造営が進んだが、明暦3年(1657)世に言う振り袖火事があって江戸城天守閣をはじめ多くの大名屋敷や市街地はほとんど原形を残さないまでに焼失してしまう。
東光院も焼失し、 翌、 万治元年(1658)現在地の浅草新寺町へ移って、再建に着手し、 4,258 坪の境内地に本堂、 薬師堂、 鐘楼等が次々に再建された。」とある。焼失・再建後も広大な敷地の寺であったことがわかる。

 東光院については、慶長10年(1605)の浅草東光院記や東光院明細帳、寛文2年(1662)刊行の江戸名所記、江戸名所図会その外多くの資料が認められる。
  江戸名所記・浅草薬師(東光院)境内図

東光院は、江戸幕府が開かれる前から薬師さまの寺として知られたが、浅草に移転してからは浅草薬師と呼ばれ、江戸庶民の信仰を集めた。

挿絵はその様子を描いた「江戸名所記・浅草薬師境内図」

古くから将軍家御鷹狩りのおりの御膳所とされていた歴史も持っている。
資料 : 薬王山医王寺 東光院小史より


 寛政年間(1789〜1800)に編纂された江戸名所図会には浅草に移転再建された新寺町のなかに東光院が描かれている。
薬王山東光院について、「(天)台宗百八寺の総本寺たり」とあり、東叡山寛永寺造立の時の住職詮長がそのうちの八十五寺を寛永寺末寺として、末寺頭となっている。
慈性日記の慶長19年(1614)2月3日に慈性や薬樹(久運)とともに、「常明寺へ」で始まる文章の銭湯へ連れ立って出かけた東光(詮長)その人物である。

江戸名所図会・浅草新寺町の称徃院や東光院
 江戸名所図会の浅草新寺町 左ページ下の右から天嶽院・称徃院・東光院・・・とある。 称往院には寛延の頃(1750頃)そば切りが評判になったことで有名な支院・道光庵があった。
そば屋の庵号の始まりはこの道光庵のそば切り繁盛に由来する。

東光院の境内と敷地図
    東光院の寺名が見える→

江戸名所図会・右ページの左上部分だけを抜粋 東光院(部分左側)と称往院(部分右側)がたまたま並んでいる。
「新版 江戸名所図会 下巻  鈴木棠三・朝倉治彦校注 角川書店」による


 古くは浅草寺や観理院とともに江戸天台三ヶ寺といわれ、多くの末寺を有する寺であった東光院は、慶応4年(1868)薩長軍と彰義隊の戦で寛永寺を落ち延びた輪王寺宮(公現法親王)が当院にのがれる。 探索厳しく、市ケ谷自証院へ移り、海路東北に逃れた。このため明治新政府より数々の圧迫を受けたという。 さらに明治維新の廃仏毀釈や寺領地没収、さらに関東大震災による類焼などを経て現在に至っている。

 下の三枚の写真は、江戸名所図会・浅草新寺町に記された天嶽院・称徃院・東光院・・・などの寺名あたりから写した。いずれも当時の広い境内や建物などは見るすべもないが東光院と天嶽院は残っている。その一角に称徃院もあったが昭和2年(1927)同寺が北多摩群千歳村字烏山に移転したためにその名残はなにひとつ残っていない。(東光院は台東区西浅草3-11-2)

現在の東光院    かつて称往院・道光庵があった    天嶽院
現在の東光院      称往院・道光庵があった界隈  現在の天嶽院
                2009年6月8日写す


 江戸のそば切りの歴史の中に「蕎麦禁断の碑(不許蕎麦入境内)」というのがある。
「武江年表」の天明元年の条に「近き頃より浅草称往院の寺中道光庵にて蕎麦を製し始めけるが、都下に賞して日々群集し、さながら貨食舗の如し。よって本寺より停められたり。」とある。
 現在そば屋の屋号に「庵号」が多くみられるが、その発端になったのが、東光院の隣にあった浄土宗称往院の院内にあった子院・道光庵で、信州松本荘から出た庵主がそば打ちの名手で寺かそば屋かわからなくなったという実話がある。寛延の頃(1750頃)で、その後天明六年(1786年)に道光庵は三代で蕎麦禁断となってしまうが、その後も道光庵の繁昌振りにあやかろうとするそば屋が店名に庵をつけるようになったという。そば屋「庵号」の始まりとされている。


 慈性日記の慶長19(1614)年2月3日に一度だけ登場した常明寺という名の寺は、いまでは江戸の史料から見いだすことは出来ない。宗派の論議のために各地から江戸に出向いていた寺も多かった時代のことではあるがこの点においても依然不明であるが同名の寺や地名としての記録は、滋賀県土山町、三重・伊勢市、愛媛・今治市、山形・山形市、新潟・新潟市などに見える。
千葉県市川市行徳領にも常明寺がある。この付近はかつて大正の頃津波に見舞われて寺の本堂の上まで塩水に浸かり古書などの古い記録が判読できなくなってしまったと聞く。江戸時代の行徳は有名な塩の産地であるとともに、笹屋という店の饂飩蕎麦が評判で大繁盛した記録があるものの「江戸」の常明寺とのつながりでは考えにくい。


【 余談 そば二題 】
 W)慈性日記から見える郷土そばのルーツ(素人の推論が許されるなら私は、次のように考える)
@戸隠神社の公式ホームページによると『戸隠のそば切りの歴史は江戸時代に始まった。記録によれば、江戸の寛永寺の僧侶に教えられて広まったもの。戸隠寺の奥院が別当をもてなす際、特別食として用意したのがそば切りだったと書かれています。』とある。
 一方、歴史事実では、家康が戸隠山法度を定めて、天台宗の宗教行事を行うように定め、家光は寛永2年(1625)寛永寺が創建されると戸隠神社を寛永寺の末寺として別当を派遣する。この時の立て役者は天海僧正で、まさしく慈性日記に登場する天海をとりまく天台宗の世界である。
 仮説は、信濃・戸隠にはもともと古式のそば切りがあったと考える。しかし、寛永寺の支配で食の作法にも影響を受け、天台僧流のそば切りが随時伝えられた。そして別当をもてなすための「そば切りの作法」が戸隠固有のそば切りに加わって、現在に伝わる(公式ホームページの)そば切りになったのではなかろうか。

A対馬には「対州そば」という郷土そばの歴史がある。   「生粉打ちそばを甑(こしき)に盛って重ね、温水をかけてそば櫛で整える」という。また、江戸時代の対馬は米が穫れないが、対州ソバの産出が多く朝鮮地方に輸出していたともいわれる。
 対馬藩は長く朝鮮外交を独占してきたが、寛永8年(1631)家光の時、国書改竄が発覚する事件があり幕府介入の体勢が強化されていく。その後、二代藩主・宗義成(宗氏第二十代)に日野資勝の娘、すなわち慈性の妹「福」が嫁ぎ、さらに正保4年(1647)、慈性自らが萬松院(宗氏の菩提寺)を兼帯し、(臨済宗から)天台宗に改宗している。
 江戸初期、天台僧・慈性をとりまく史実と、対州そばという古式の特徴を持つ郷土そばの生い立ちとを結びつける痕跡は認められないが、あながち無視できない出来事ではなかろうか。


慈性日記に関しては「慈性日記 第一 第二 続 群書類従完成会 林観照校訂」に基づいた。
天台宗東光院については、薬王山医王寺 東光院小史を参照した。

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