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エリヤハウスを考える会は聖書からミニストリーを検証する団体です。

書籍「内なる人の変革」から

SERVICE&PRODUCTSエリヤハウスのカウンセリング法は聖書的ですか?

エリヤハウスでは独自のi法則のもとに、心をいやすのためのミニストリーがなされます。ここでは、エリヤハウスのいやしの方法が聖書的なのかどうか検証してみたいと思います。

<このページで取り上げるカウンセリング法>
第1 カウンセラーの役割り(1人称で赦しを宣言、人類を代表する立場)
第2 何をトラウマと定めるか
(事実よりも相談者がどう感じたかが大事、忘れている恨みを探る)
第3 根を探すことが難しい時(良い両親の時、胎児の時、出産時に抱いた恨み)
第4 問題が残る時(根がまだ存在するから、赦しが完全でないからです)
第5 神と人との完全な赦しを達成する(完全な赦しなしでは聖化と変革は困難)
第6 日々苦い根が芽を出さないように注意する(毎日気を付けること)
第7 カウンセリングの方法(罪を捨てる祈り、代理の謝罪)

第1「カウンセラーの役割について」

カウンセラーは1人称で赦しを宣言すべき。

<内なる人の変革204ページ2―5行 より>
告白を聞いた人は誰でも、1人称で赦しを宣言するべきです。「主イエス・キリストの御名によって、その御言葉にあるとおり、あなたがたが・・・の罪から赦されたことを、私は宣言します。東から西から離れているように・・・」という具合にです。「イエスの御名によってあなたの罪は赦されました」とか「あなたは赦されたと聖書は言っています」と言うだけでは、あまり効果がありません。

<1人称で祈る必要についての疑問>
1.イエスの御名による祈りだけでは不十分ですか?

2.私が赦しを宣言することは、カウンセラーを高慢にさせたり、相談者をカウンセラーに依存させたりすることにはなりませんか?

カウンセラーからの赦しの宣言は人類が赦したということ
1人の罪は人類全体を犯す、祈り手は全人類を代表する立場に置かれる。 「私はあなたを赦します」と言うことが赦しを成し遂げるのには不可欠です。


<内なる人の変革204ページ6―13行より>
人が罪を犯すと、その罪は人類全体を犯します。アカンが罪を犯した時、イスラエル全体が力を失いました(ヨシュア7章)。ダビデが罪を犯した時、彼の息子が死にました。(第2サムエル12:13−14) 「もし1つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ」(第1コリント12:26)は「ひとりが罪を犯せば、皆が苦しむ」という意味にも取れます。 私たちは罪の告白を聞く時、人類全体を代表する立場に置かれています。人類が傷つけられたのですから、人類が赦す必要があるのです。私たちが、「私はあなたを赦します」と言うことは、人からの赦しを成し遂げるのに不可欠です。「イエスの御名によって」と言うことで天と神からの赦しが適用されます。また私たちは、その人の内なる人が完全に慰められ、安心するまで、繰り返し様々な言い方で赦しを宣言する必要があります。

<カウンセラーの役割りについての疑問>
1.1人の人の罪が全人類を犯すのでしょうか?聖書的な根拠な何ですか?

2.カウンセラーが全人類の代表の立場にあり、相談者に全人類の赦しを宣言する。しかも、「私が赦す」と1人称で言うことは、カウンセラーを神、もしくは神の代理とする危険な祈り方ではありませんか?

第2「何をトラウマ(苦い根)と定めるかについて」

相談者が受けた事実よりも、相談者の心がどう反応したかでトラウマを探る。

<内なる人の変革162ページ2−12行より>
何があったかが一番重要ではありません。恐ろしい出来事があったとしても、神の恵みによって、心に深い傷を残さない場合もあります。その一方で、些細な出来事でも傷を残し、その結果として生じた行動習慣によって、その後の人間関係がダメージを受けることもあります。大切なのは、その人の心がどう反応するかです。・・・子供時代の出来事に対する反応によって私たちの行動様式は影響を受け、それが古い性質の習慣となります。・・・カウンセラーは発端となった出来事よりも、古い性質にある様々な習慣の方を問題視しなければなりません。

<内なる人の変革160ページ7−13行より>
赦すべき相手と話すことは不必要なだけでなく、害になることさえあります。傷つけた人がそのことに気づいていなかったり、気づいていても、もうとうの昔に赦されたと思っていたりすることがあるからです。 カウンセラーは、相談者の隠れた心の中で赦しが達成されるよう、祈ることができます。もしその後、聖霊によって導かれるなら、現実に相手と話し合い、和解することもあり得ますが、知恵をもってなされるべきです。ただ、そうすることが必要になるのは稀ですし、相手がすでに亡くなっている場合には当然不必要です。

<内なる人の変革205ページ8−12行より>
私たちは常に自分が受けた行為よりも、自らの罪深い反応を取り扱います。怒りや裁く気持ちといった反応は、いかに心の中に隠され忘れられていても、十字架にもっていかれない限り、罪としてそのすべての副産物と共に残ります。習慣的な反応パターンは悔い改め、死と再生によって変革されなければなりません。そうする以外は、性格面や行動面において恒久的で意味のある変化が起こされる方法はありません。

<事実よりも自分がどう反応したかによってトラウマを特定することについての疑問>
エリヤハウスでは事実よりも、自分の記憶とその記憶に関連した悪感情を取り扱うことが大切であるとされています。
1.事実でない記憶(自分が作り出した出来事)で感じた怒りの感情をいやすことはばかげていないでしょうか?

2.事実でない記憶をもとにして、自分の悪い習慣(罪の原因を探ろうとする試みは、 相談者を自己肯定させてしまう危険はありませんか? 自分の罪の原因を、他人のせいにするために、架空の話しをでっちあげることをしてしまう誘惑はありませんか?

3.作り出された記憶を大切にすることは、その記憶が実際にあったと思うということを意味します。相談者の人間関係を歪めたり、破壊したりすることになりませんか?現実の正しい認識ができなくなって、精神病や社会不適応になってしまう危険はありませんか?

忘れている恨みを探る

<内なる人の変革158ページ9−11行 より>
赦しに関して最も困難な点は、多くの場合、私たちはまだ心に恨みを抱いていることにさえ気づかなかったり、自分自身を欺いたり、忘れてしまっていることです。クリスチャンカウンセラーは相談者が自分の気持ちについて語るのをそのまま信じないでください。

<忘れている恨みを探ることについての疑問>
1.忘れている記憶を思い出す試みは、相談者に相手との悪い記憶を作り出す機会、つまり自分の罪の原因を誰かに転嫁するためのにせの記憶を作り出させる可能性はないでしょうか?自己反省に導く変わりに、責任転嫁の習慣を身につけさせてしまう恐れがありませんか?

2.忘れていた怒りや恨みを思い出させ、再体験させることは、相手に対する憎しみを 増幅させることにならないでしょうか?

3. 過去の怒りを思い出して、相談者に精神的負担をかけたり、混乱させたりする原因とならないでしょうか?

第3「根を探すことが難しい時の対処法について」

両親が良い場合でも、どこかで恨みを抱いていたはず。探り出して祈ることができる。

<内なる人の変革160ページ14−19行 より>
両親が普通の良い両親であった場合、明らかにひどい両親であった場合よりも、問題の根を探るのが困難です。これはひどい両親の場合、怒りや恨みを見つけ、認めるのは簡単ですが、良い両親であった場合は、子供時代においても、カウンセリングの場でも、親思いの気持ちに目隠しされてしまうからです。・・・たとえ感情が伴わなくても、御言葉の明解な論理に立って信仰によって祈ることができます。

胎内にいた時、出産時に恨みを抱いた場合を探る

<内なる人の変革161ページ1ー3行 より>
怒りや恨みが完全に心と頭を越えた部分、たとえば母の胎内にいた時や出産時にその霊の部分に生じていたり、自分に対して本来なすべきことをしてくれなかった人々に対する反応として生じてくることもしばしばあります。

<根を探すことが難しいときの対処についての疑問>
1.良い両親に育てられた人にまで、なんとかして親を不満に思い、怒った事実を見つけようとする試みは、その人と両親との関係を悪くさせることにならないでしょうか?

2.胎児のときにまでさかのぼって、悪感情を探し出すことは、ナンセンスではありませんか?聖書的な根拠はありますか?

第4「ミニストリーを受けても問題が残る時」

根がまだ存在するからです。赦しが完全でないためです。

<内なる人の変革158ページ9−14行より>
赦しに関して最も困難な点は、多くの場合、私たちはまだ自分が恨みを抱いていることさえ気づいていなかったり、自分自身を欺いていたり、忘れていたりしていることです。感情は嘘の常習犯です。私たちの記憶は偽りと婉曲に覆われています。鍵となるのは前章に出てきた、
「悪い実が存在するところには、隠れた赦さない心がその根に存在する」です。

<内なる人の変革159ページ11−13行より>
人々は常に、赦していないのに赦したと思い込んでいます。それはどうすればわかるのでしょうか。御言葉の単純かる純粋な論理によってです。もしまだ問題が存在しているならば、赦しは完全ではないのです。

<内なる人の変革158ページ13−14行 より>
「悪い実が存在するところには、隠れた赦さない心がその根に存在する」のです。

<ミニストリィーを受けても問題が残る時についての疑問>
祈っても効果の出ない場合も想定されていて、
その場合は、まだ憎しみがどこかに残っているからだと説明されています。

1.問題の原因が違うからではありませんか?

2.人をさらなるトラウマ探りに駆り立てることにはなりませんか?

3.赦さない心を探るのではなく、他の原因(多くの場合、自己中心や神との関係が正しくないなど)に気づくように導く必要があるのではありせんか?    

第5「神と人に対する完全な赦しを達成すること」

<内なる人の変革163ページ11−13行 より>
完全な赦しがなければ、たとえある習慣を十字架につけたと思っても、自己と神に対する赦さない心によって、手にくっついたまま残ります。 完全な赦しなしでは、聖化と変革の働きは重労働です。 

<内なる人の変革163ページ3―5行より>
もし、何度も十字架の死につける祈りが繰り返されているのにまだ古い行動様式が続くならば、カウンセラーと相談者はもう一度基本に戻り、自己と神に対する完全な赦しが達成されているかどうか、調べてみる必要があります。

<神と人に対する完全な赦しを達成することについての疑問>
1. 完全な赦しを達成することは人間にできるでしょうか?

2. 完全な赦しを達成するために、相談者は果てしなく過去の悪感情の記憶を探る試みを続けなければならなくなりませんか?

3. そのうちに、祈る課題が見つからなくなりませんか?

4.そこで、新たな課題を見出すために、潜在意識の中に封印されている記憶や胎児の記憶などを持ち出して来るようにならないでしょうか?

5.初めは、このようなことまでするつもりがなくても、このミニストリーに深く頼るほど、このような次元の記憶まで処理するように導かれていく恐れはありませんか?

6.神を赦すことは聖書的でしょうか?
自分を苦しい目に会わせる神を怒る気持ちがあるからでしょうか? しかし、本来、私たちは自分の罪のゆえに、神の御怒りを受けるべき者であったのに、憐れみ豊かな神は、私たちを愛する大いなる愛のゆえに、キリストによる贖いによって、私たちへの神の怒りをなだめる道を備えてくださったのです。 私たちは神を赦す立場にあるのではなく、神の赦しの恵みを受ける立場にある者なのではないでしょうか?

<参照聖句>
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は。私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです(エペソ2:3−5 )    

第6「日々苦い根が芽を出さないように注意すること」

<内なる人の変革387ページ3−7行より>
最後に相談者はそれ以降、日々些細な出来事の中で起こる自分の誤魔化しやうっかりに気づいていかなければなりません。大きな戦いに勝利しても、私たちの性質のあちこちにまだ「ゲリラ抵抗軍」の隠れ家が何百となくあるかもしれません。習慣的構造は朝顔のような雑草に似ていて、古い根の仕組み全体が引き抜かれるか、芽を出せないほど弱まるかしない限り、長くしつこい根から芽が生え続けるのです。

<日々注意することについての疑問>
1.これで、平安な人生と言えるでしょうか。

2.安息と平安がクリスチャンの人生ではなかったでしょうか?

<参照聖句>
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしが与えるのは世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ17:27)
<参照聖句>
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)    

第7「カウンセラーが相談者に変革を起させる方法」

<内なる人の変革383ページ17―19行、384ページ3―8行より>
内なる人が赦しを受け入れることができるように、何通りもの言い方で赦しを宣言する必要があります。・・・もともとの出来事によって、人格上の構造が形成されます。これらの裁きの習慣や心理的な苦い根の期待あり、十字架だけが変革することのできるものです。 相談者かカウンセラー、もしくは両方が一緒になって、十字架におけるイエスの御業が古い性質にあるその習慣に適応されるよう、声に出して祈ります。相談が祈りの中で次のように言うことが役に立つか、必要であるかもしれません。 「この習慣を私は憎み、拒否します。もうそれは、入りません」

<変革についての疑問>
1.カウンセラーの赦しの宣言や相談者の赦しの受け取りは、神に頼らず人間の意志と努力によって自己を改善しようとする試みではありませんか?

2.悪習慣や悪い性質を断ち切る祈りも、神に頼ることなく自分の意志で悪癖をなくしていく試みではありませんか?

3.十字架は私という古い人全体が死ぬ場であって、私の恨み、怒り、悪習慣だけを捨てる場所ではないのではありませんか?

4.人間は自分の意志と努力で、完全に聖くなることができるのでしょうか?
それができないことをパウロの嘆きは証明してはいないでしょうか?

<参照聖句>
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(ローマ7:8)

5.人間は、自分で自分の罪を完全に聖めることができないからこそ、キリストは、この私を死なせ、新しい人とすることによって、御霊のご意志を歩むことができる道を備えてくださったのではありませんか?聖化だけでは不十分ですか?

6.私がキリストと共に死んだとき、トラウマも葬られたのではありませんか?
過去のトラウマを掘り起こし、分析することは無用ではありませんか?

<参照聖句>
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ5:24 )

7.自分の内を見る代わりに、御霊の思いに心を向けることが必要ではありませんか?

<参照聖句>
うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。(ピリピ3:14−15 )

     

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