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エリヤハウスを考える会は聖書からミニストリーを検証する団体です。

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エリヤハウス祈りのミニストリーの検証を終えてCONTACT US

福音はさばきからの解放、喜びと自由
 クリスチャンは、律法から解放され神のさばきを恐れる必要がなくなりました。もはや律法によってさばかれない者になったのです。そして、自分の力ではなく御霊によって神に仕えているのです。
 このことを理解できているかどうかで、クリスチャン生活が喜びと自由に満ちたものになるか、神の評価を気にしながら自力でがんばる苦しいものになるかが決まります。

エリヤハウスのミニストリーを検証してわかったこと。
 このミニストリーは心のいやし、トラウマからの解放を唱えていますが、結果的には信じる人を律法の裁きの下に置き、罪の刑罰を恐れるようにさせるミニストリーです。  キリストは律法ののろいから私たちを解放してくださったのです。私たちは、エリヤハウスのミニストリーによって、もう一度自分を律法ののろいの下に置くような、愚かなことをしてはいけません。

<なぜこのミニストリーが広まったのでしょうか。>
人間の知恵を聖書よりも重んじたから
 エリヤハウスに傾倒する人たちは、聖書のことばを軽く扱うという罪を犯してきたのではないでしょうか。聖書が提示する道よりも、自分の感情や心理学の手法を信頼したのではないでしょうか。
 神は、「聖化」という素晴らしい奥義を備えてくださっています。もし、聖書が教える「聖化」を正しく理解して実践していたならば、エリヤハウスが唱える「変革」が間違っていることを見抜くことができたはずです。
 パウロが伝えた初めの福音に立ち帰る必要があるのではないでしょうか。

人間の能力を聖霊の働きよりも重んじたから
 エリヤハウスは、人間の祈りや決心によって、人格に劇的な変化を起こそうとするものです。
 しかし、今回の検証で明らかになったことは、「人間の努力によってなされる聖化の試みは、キリストによって与えられた自由を私たちから奪い去り、私たちを律法ののろいの下に置く結果になる」ということです。
 罪との戦いにおいて、自らの内に宿る力強い聖霊の働きに信頼する信仰が欠如していた為に、エリヤハウスの罠にはまってしまったのではないでしょうか。。

いやしや変化をすぐに実感できるから
エリヤハウスと聖書的アプローチとでは、心のいやしのプロセスが全く違います。
 聖書に反するミニストリーの効果は一時的で、結局は人を不幸にしてしまいます。
以下にエリヤハウスと聖書の違いの一部を紹介します。

<自力による変革か、御霊による聖化か>
 上記にあるように、エリヤハウスは人間の努力によって人格を劇的に変化させようとするものです。しかし聖書は自分の力で律法を守ろうとしても、神にさばかれる結果になると断言しています。聖書は自分の力に頼らず、御霊によって良い行いに励む聖化を勧めています。

<告白した罪を赦す十字架か、私を赦す十字架か>
 エリヤハウスの場合、罪は告白していやさなければ残って増加します。そして増加した罪は、自分ふりかかる不幸となって刈り取ることになると教えています。エリヤハウスでは、「十字架の赦し」は自分が告白できた罪だけです。
 しかし、聖書は違います。十字架は私のもろもろの罪だけを処理する場所ではありません。十字架は、私という罪人がキリストとともに葬られた場です。私という罪人の存在が処理され、私におけるすべての罪が赦された場です。十字架の赦しは、告白していない私に関するすべての罪にまで及びます。

<古い人の改善か、御霊による生まれ変わりか>
 エリヤハウスでの「新しい人」とは、古い反応を十字架につける決心をし、新しい反応をいただく努力をしている「古い人」です。つまり、「古い人」の改善です。
 しかし聖書では、「新しい人」とは、「古い人」が死んで葬られ、キリストとともに蘇った人です。つまり、聖書で言う新しい人とは、生まれたままの罪ある自分を源として生きる古い人が死んで、神から与えらえた御霊によって生まれ、御霊によって生きる全く新しい人です。
 ですから「古い人」と「新しい人」に連続性や関連性はありません。だからこそ、信じる前とは違う新しい歩みができるのです。

人からの愛を受けることができるから
 エリヤハウスは、祈りのグループの人々から愛と励ましを受けることができます。
 ミニストリーの中で、グループの人に自分の悩みを聞いてもらえ、体に触れて祈ってもらえます。祈り手が自分に対していやしと赦しを宣言してくれます。これらの直接的な愛の施しを受けることで、人間的な感動があるでしょう。
 しかし、このミニストリーは本当の罪からの解放をもたらすものではありません。かえって、自分をトラウマに対する恐れに支配されるように働きかけるものです。
 祈ってもらった時は、気持ちが軽くなり元気になったように思いますが、しばらくすれば再び落ち込みが始まります。永遠にいやしの祈りを受け続けなければならないミニストリーです。
 祈り手が神との間に立つ仲介者としての役目を果たすため、祈り手と相談者の間に依存や支配の関係が生じる恐れがあります。
 グループ内で個人の秘密が告白されるために、グループから離れられなくなることも起こりえます。解放されるために始めたミニストリーによって、自分が束縛を受ける結果となってしまいます。

<エリヤハウスをすることによってどのような影響があるのでしょうか>
トラウマ探しの果てに、現実逃避になっていく危険があります。
 思い出せるトラウマを全て祈っても問題が解決されない場合、事実とは違う記憶とか、実際には無かった記憶を作り出して、それが自分の不幸の原因であると思いこんでいく可能性があります。
 なぜこのようになるのでしょうか。それは、このミニストリィーが自己の義を建てようとさせるものだからです。
 エリヤハウスでは、問題の原因は自分にあるのではなく、自分に対する他者の言動によって引き起こされた自分の反応(怒りや憎しみなど)にあるとしています。そのため、過去に起こした悪い反応を記憶の中で改ざんすることでトラウマを取り去ることができ、怒っていた自分がいやされ、以後は悪い反応が起きなくなるとしています。
 これは説得力があるように聞こえますが、簡単に言えば、自分の不幸の原因は、自分でなく他人にあると言っているのと同じことです。
 それで、このミニストリィーに頼るようになると、どうしても自己を吟味して悔い改めることをせず、原因を他者や過去に探すようになります。
 ある人には、自分は被害者だと思う自己憐憫の傾向が現れてきます。少しのことでも自分がいじめられたと敏感に反応します。実は、それが当人にとっては都合が良いのです。なぜなら、自分がうまくいかない原因である新たなトラウマができて、それを祈ることができるからです。
 また、自分の決心で自己改善できた人には、自己高揚感(自分は何でもできる、自分はもっと偉い人になれる思い)が高まったり、自己賛美(自分は素晴らしい)などの気持ちが顕著に現れる場合があります。その結果、他人に対して威圧的になる人もあります。
 人によって人格への影響はさまざまですが、どのケースにおいても、自己を肯定して、問題の原因を他者に帰するところから、すべてが始まっていると言えます。
 エリヤハウスは、過去のトラウマをいやす目的で記憶を改ざんすることを、自分の思いの中にイエスを登場させて変更することであるので問題はないとしています。しかし、このことは神に対してなされる大きな罪です。キリストを自分に都合の良いように演技させることは、自分に神を従わせていることで、神の主権を認めない大罪です。
 また、記憶の改ざんによって、実際の事実と自分が思いこんでいる事実との間にギャップが生じます。このことが、他者との新たな問題を引き起こします。
 そして、このミニストリィーによって癒されようとした結果、現実生活にさまざまな支障を来すことになるでしょう。そうなれば、最後には完全に自分の思い込んだ世界に逃避してしまうことになりかねません。

 エリヤハウスが結ぶ人格の実は、御霊が結ぶ実と大変異なっています。これらのことからも、このミニストリィーが非聖書的なものであることがわかります。

終わりに
 エリヤハウスは、人間が良いと考えるいやしの方法を、聖書の真理に加えました。その結果、「恵みの福音」が「律法ののろい」に変わってしまいました。
 聖書に心理学の手法を加えることによって、かえってエリヤハウスの教理の不自然さが明らかになり、聖書が「完成された神の啓示」であって、聖書には変更や追加が一切赦されないことが再確認される結果となりました。
 エリヤハウスのように、聖書の教えに少しでも変更を加えるなら、「恵みの福音」が、たちまちにして「のろいの福音」に変質してしまうのです。私たちは、自らを吟味し、聖書の言葉の権威の前にへりくだり、聖書が教える真理を実践する信仰に立ち返る必要があるのではないでしょうか。

関連サイト こちらもご覧ください。
「キリストの福音にとどまれ!」

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