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エリヤハウスを考える会は聖書からミニストリーを検証する団体です。

書籍「内なる人の変革」から

エリヤハウスが真理であるとする教理(法則)は聖書的ですか?SERVICE&PRODUCTS

エリヤハウスは、いくつかの重要な教理(法則)にのっとってミニストリーが展開されています。そこで、エリヤハウスの信じる法則が真理なのかどうか検証してみたいと思います。

<このページで取り上げる法則>
第1 報いの法則(赦しが達成されていない限り避けられない結果をもたらす)
第2 種まきと刈り取りの法則(他人に悪感情を抱くなら、自分に不幸が起きる)
第3 増加の法則
(犯した罪は時間が経つほど大きな災いとなって自分に帰ってくる)
第4 主に告白していない罪は刈り取ることになる
(主に告白されていない罪は赦されずに残る)
第5 意識的、無意識的に関係なく、さばく気持ちを持てば神の法則が働く
第6 他人をさばいたことと同じことを自分がするように定められる法則

第1「報いの法則」

赦しが心の中で達成されていない限り、避けられない結果をもたらす

<内なる人の変革 149ページ5−6行 より>
赦しの必要性は第一に、神の律法に起因しています。赦しが心の中で達成されていない限り、報いの法則が働いて、避けられない結果をもたらします。

<エリヤハウスが根拠とする聖句>
また、立って祈っているとき、だれかに対して恨みがあったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。しかし、もし赦してやらないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの罪を赦してくださいません。(マルコ11,25−26)

兄弟を憎むものは、みな人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(1ヨハネ3:15)

<報いの法則に対する疑問>
1.報いの法則は聖書的でしょうか?

2.神は、私たちが人を赦さない罪を犯すから、私たちを裁かれるのでしょうか?他者を赦す赦さないの以前に、私たちは、生まれつき罪人であるために(原罪)神の裁きを受ける者なのではなかったでしょうか?

3.信仰者は、誰かを赦せないことがあります。しかし、信者の罪は、救い主であるイエス・キリストを信じた時、過去、現在、未来においてすべて赦されたのではなかったでしょうか?

4.悪に対する正しい怒りを感じた時はどうなのでしょうか?
それも罰せられますか? イエス様は宮で金儲けをする者たちを怒られました。

5.不幸の原因は人を赦さない心にあると断定することは正しいでしょうか?
人生が上手くいかない原因はさまざまで、高慢や、神に従わない心などにも原因があるのではありませんか?

6.人を赦すことではなく、自分の罪を悔い改めることが必要なケースはありませんか?

第2「種まきと刈り取りの法則」

他人に悪感情を抱くなら(種蒔き)、自分に不幸が起きる(刈り取り)
<内なる人の変革349ページ11−18行より>
神は自然界の法則と霊的な法則を、違うものとしては造られませんでした。あらゆる事柄は、同じ基本的な法則によって支配されています。同じ法則が物理学では、「すべての作用に対して、それと同等の作用がある」となり、化学では「すべての図式は比例する」となります。そして道徳的、霊的には、 「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7:1−2)となるのです。あらゆることに正当(公正)な結果が伴います。ひとつの法則が、それぞれの分野において違った形で表現されているのです。

<内なる人の変革350ページ19行−351ページ4行より>
種まきと刈り取りの法則は、アダムとエバが創造される以前から、この宇宙においてとこしえに働くものでした。罪が入る前、この法則は祝福が増幅するために造られたものだったのです。そしてそれは、今でも変わりありません。しかし罪の幕開けによって、この同じ法則が今度は破滅の方向へと撥ね返るようになったのです。

<内なる人の変革377ページ14−18行より>
種まきと刈り取りの法則はその単純さの故に、人を欺くことがあります。私たちはこんな単純なことが現実で、これほど広範囲において効力を発揮するものだとは、とても考えられないのです。だからこそ、使徒パウロは、「思い違いをしてはいけません。ひとは種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7 傍点著者)と警告したのかもしれません。

<内なる人の変革150ページ10−13行より>
感情面での刺激も、電気の法則と同様に法則に従って働きます。 自分の反応を抑制することによって新たな刺激が生じるのを防いだとしても、法則の力は打ち消すことができないため、結果を遅らせるだけです。私たちは蒔いたものを必ず刈り取らなければなりません。

<エリヤハウスが根拠とする聖句>
さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりにあなたがたも量られるからです。(マタイ7:1−2)
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)

<種蒔きと刈り取りの法則についての疑問>
1.犯した罪が必ず自分に対して報いとして帰ってくるという考えは、 因果応報の考えに基づいた異教の考え方ではありませんか? イエス様はわたしたちを因果応報から解放してくださっています。
<参考となる聖書箇所>
生まれつき盲人として生まれた男 イエスは誰の罪のせいでもない、神の栄光が現れるためだと言われました。

2.過去に犯した罪がすべて罰として自分に帰ってくるという前提は正しいのでしょうか? そうであれば、神は、今も信者の罪に対してはいけにえを要求されていることになります。私たちは、今も旧約時代と変わらず、自分が犯した1つ1つの罪の赦しのために、神になだめの供え物(現代であれば罪の告白)を捧げなければならないことになります。つまり、キリストの贖いの御業は不完全であったということになります。 これは聖書の中心的な教理に反する教えではありませんか?

3.人の罪が必ず不幸を刈り取ることになるのでしょうか?
聖書には、人の罪をさえ用いて、神がご計画を成就されている箇所があります。

@ 兄弟によってエジプトに売られたヨセフの場合 兄弟たちは、ヨセフを奴隷商人に売る罪を犯しました。 父イスラエルには、弟は獣に襲われて死んだと嘘をつく罪を重ねました。しかし、神は、ヨセフを通して、兄弟たちを飢饉から救われました。

A パリサイ人、律法学者の妬みを買って殺された主イエスの場合 パリサイ人、律法学者はイエスを妬み、偽証を立てるという罪を重ねて、イエスを死刑執行人に引き渡すという大罪を犯しました。しかし、イエスが殺されたことによって、十字架の贖いが完成しました。律法学者たちの罪が、神の救いのご計画を成就させたのです。

4.信者の罪の贖いは完了されたのではありませんか? 信者はもはや自分の罪のゆえに裁かれることはないのではありませんか?
<参照聖句>
こういうわけで、今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ8:1−2 5)

5.信者は十字架でキリストと共に死んだとき、その罪も十字架に釘づけされたのではありませんでしたか?神は、私たちの罪をもう思い出さないと言われませんでしたか?
<参照聖句>
私は、キリストと共に十字架につけられました。(ガラテヤ2:20)
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ5:24 )

第3「増加の法則」

犯した罪は時間が経つと増加し、大きな災いとなって自分に降りかかってくる

<内なる人の変革 350ページ1−9行より>
神の御国において、すべてのものは増加します。あらゆる益となる事柄が増加していくのが、神の望まれるところです。アダムとエバに与えられた命令は、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。(創世記1:28)でした。 タラントを埋めた人は、普段は優しい主イエスに、せめて自然に増加するところにおいて置くべきだったと責められました。 だったら、おまえのその金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰ってきたときに、利息がついて返してもらえたのだ。(マタイ25:27) 人は裁く気持ちが告白されず、悔い改められないまま時間が経てば経つほど、その結果は増加していきます。初めは小さな火花であっても、野火となって戻ってきます。また風に蒔くと、つむじ風が返ってきます。                
<内なる人の変革 351ページ15行−352ページ2行 より>
私たちの蒔く種は、ごく小さなものかもしれません。子供の頃、家族の誰かに対して抱いた怒りや恨みなどです。私たちはもう、それらを忘れてしまっています。それに気づかないまま、またはそれを無視したまま時間が経てば経つほど、その種は大きく成長していきます。このように、蒔いたのがピンポン球でも、9階建ての高さのボーリング用のボールを刈り取ることになるのです。

<エリヤハウスが根拠とする聖句>
生めよ。ふえよ。地を満たせ。(創世記1:28)
だったら、おまえのその金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰ってきたときに、利息がついて返してもらえたのだ。(マタイ25:27)

<増加の法則につての疑問>
1.増加の法則を支持する聖書の解釈に誤りはありませんか?
アダムとエバのところで、神は人間が増えるようにと言われているだけで、罪が増加するとはいっさい聖書に書かれていません。 また、タラントを隠したしもべの話しは、しもべが失敗するのを恐れて神から預かった賜物を隠したことを主人が責めている箇所です。主人の願いはタラントが増加することではなく、タラントを失ってでもいから、しもべがタラントを用いて商売することでした。これらの聖書箇所から、神の願われていることは増加することだと理解して、 祝福も罪もすべて増加するのだと結論することは正しいでしょうか?   

第4「主に告白していない罪は刈り取ることになる」

主に告白されていない罪は赦されずに残る

<内なる人の変革158ページ4−5行より>
すべてのカウンセラーは相談者が告白するその都度、主の血潮によって心が聖められるようにと声に出して祈っていただきたいと思います。ただ、血潮を適応する、と告白すればいいのです。

<内なる人の変革352ページ16行−353ページ3行より>
種まきと刈り取りの要求するところは、主が十字架にかかられた時の心と魂と霊の苦悶と、イエスの肉体に課せられた苦痛によって、完全に満たされたのです。 しかし、十字架は自動的に働くものではありません。もし私たちが告白して悔い改めないなら、一瞬の告白で豊かな憐みを得ることができるにも関わらず、すべての結果を自らの手で刈り取ることになるのです。

<内なる人の変革380ページ5−7行より>
苦い根は通常私たちが1つひとつ具体的にイエスを招き入れて処理して頂かないことには、そのままです。憐み深い主は、私たちが招き入れるまで、心を痛めて待っておられます。私たちが告白を怠ることの代価さえも、主は払われるのです。

<エリヤハウスが根拠とする聖句>
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる。と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9:22)

<主に告白されていない罪は刈り取るについての疑問>
1.十字架の贖いは、信者の告白した罪、告白されていない罪すべてを覆うのではなかったでしょうか?この教えは聖書に反してはいませんか?
<参照聖句>
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。(へブル7:24−25)

2.キリストの贖いを信じる信仰によって私たちはすでに赦されているのではありませんか?赦されていない罪を神に赦していただくための告白は必要なくなったのではありませんか?
<参照聖句>
キリストは聖なるものとされる人々を、1つのささげ物によって永遠に全うされたのです。・・・「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはない。 (へブル10:14−17)

3.私たちは罪の呪いから解放されたのではなかったでしょうか?
罪の刈り取りを避けるために、すべての罪をキリストの血潮で聖めなければならないのであれば、私たちはいまだに罪ののろいのもとにあることになります。しかしキリストは私たちを罪の呪いから解放してくださいました。
<参照聖句>
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。(ガラテヤ3:13)

4.私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたとき、私たちの罪もすべて十字架に釘づけされたのではなかったのでしょうか?キリストはご自身命を懸けて私たちの罪を赦してくださいました。その罪をもう一度十字架から引き降ろして責められるのですか?神は、ご自分が命を懸けて完成した十字架のわざを、自ら否定するようなことをなさるでしょうか?
<参照聖句>
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷ではなくなるためであることを私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(ローマ6:6,7)    

第5「意識的無意識的に関係なく、さばく気持ちを持てば神の法則が働く」

罪を犯せば法則が働く。神の裁きからは逃れられない

<内なる人の変革377ページ7−13行より>
子供の頃に裁く気持ちを持ったことで、無意識の内に法則を始動させてしまったとしても、 または大人になってから、自覚して罪を犯したとしても、どちらの場合でも関係なく、神の法則は私たちに働きかけるのです。きっかけはどうであれ、法則は法則です。たとえ私たちが信じなくても、神の法則の現実や効力についての私たちの考えや気持ちには、蚊がエンパイア・ステート・ビルを倒そうとする程度の影響力しかありません。私たちのちっぽけな頭が何を考えていようと関係なく、神の法則は宇宙を支配し続けるのです。

<意識的、無意識的に裁く気持ちが神の法則を働かせるについての疑問>
1.どんな罪も見逃すことのない恐ろしい神の裁きです。 キリストはこのような方でしょうか?     

第6「他人をさばいたことと同じことをするように定められる法則」

他人を裁いたら、裁いた人の行いと同じ行いを自分がするようになってしまう。

<内なる人の変革372ページ9−10行より>
他人を裁くと、自分もそれと同じこと(または酷似しているため、根を見逃すことができないようなこと)をするように定められるというのが、もう1つの取り消すことのできない法則です。

<内なる人の変革350ページ10−12行より>
「あなたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」という御言葉は、 同じ量で、というよりも、おそらく「人生の同じ側面、あるいは同じ領域において」という意味なのではないかと私は考えています。(そうでなければ、御言葉に矛盾が生じます)

<エリヤハウスが根拠とする聖句>
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたがたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。(ローマ2:1)
あなたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7:2)

<裁いたと同じ行動とするようになってしまうことについての疑問>
1.聖書のどこにこのような原則が書かれているのでしょうか?
2.これは、すべての人に当てはまる原則でしょうか?

       

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