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エリヤハウスを考える会は聖書からミニストリーを検証する団体です。

書籍「内なる人の変革」から

SERVICE&PRODUCTSエリヤハウスが法則の根拠であるとしている聖句の聖書解釈は正しいですか?

エリヤハウスが重要な教理(法則)の根拠として挙げているいくつかの聖句があります。それらが、正しく解釈された結果導き出されたものなのかどうか検証してみました。

<このページで取り上げる聖句>
第1 種まきと刈り取りの根拠である聖句
さばいてはいけませんさばかれないためです・・マタイ7:1
人は種を蒔けば刈り取ることになります・・ガラテヤ6:7
第2 増加の法則の根拠である聖句
生めよ。増えよ。地を満たせ・・創世記1:28
だったらおまえのそのお金を銀行に預けておくべきだった・・マタイ27:27
第3 他人を裁いたことと同じことをするように定められる根拠である聖句
さばくあなたがたが、それと同じことを行っているからです・・ローマ2:1
第4 キリストのとりなしを受けていても、罪は刈り取ることになる根拠である聖句
イエスはいつも生きていて、わたしたちのためにとりなす・・へブル7:25
主であるわたしは変わることがない・・あなたがたは滅ぼしつくされない・・マラキ3:6
第5 十字架以降も種まきと刈り取りの法則は変わらないと信じる根拠である聖句
わたしが来たのは律法を廃棄するためではなく成就するため・・マタイ5:17
第6 罪は告白されなければ残ると信じる根拠である聖句
私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。
神はこの証書を取り除け十字架に釘づけにされました・・コロサイ2:13−14   

第1「種蒔きと刈り取りの法則の根拠である聖句について」

<内なる人の変革349ページ14−16行より>
さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりにあなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7:1−2)

<内なる人の変革349ページ14行より>
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)

<エリヤハウスの解釈>
<内なる人の変革349ページ11−18行より>
神は自然界の法則と霊的な法則を、違うものとしては造られませんでした。あらゆる事柄は、同じ基本的な法則によって支配されています。同じ法則が物理学では、「すべての作用に対して、それと同等の作用がある」となり、化学では「すべての図式は比例する」となります。そして道徳的、霊的には、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7:1−2)となるのです。あらゆることに正当(公正)な結果が伴います。ひとつの法則が、それぞれの分野において違った形で表現されているのです。

<聖書的解釈>マタイ7:1−2について
自分の罪を悔い改めることもせず、相手の罪をさばくような偽善者であってはならない。そうするなら、自分を審判者として他人をさばくあなたの間違った量りで、あなた自身も他人からさばかれるようになっても文句は言えないではないか。マタイ7章1−5節を読んでください。

<聖書的解釈>ガラテヤ6:7について
教える人と教えられる人は経済的、霊的に良いものを互いに分け合うべきであると教えている箇所。教える人は自分の利益のために、権威を濫用してはいけない。教えられる人は、自分を富ませることを第一として教会に分け与えることを惜しんだり、自分の肉の思いを優先させて教師の教えを拒んだりするようなことがないように戒めている箇所。ガラテヤ6章6−8節を読んでください。

<エリヤハウスの解釈の問題点>
1.「さばき」という言葉の定義について
エリヤハウスでは、他者に対する悪感情(恨み、怒り)であるとしています。しかし、聖書において、さばきとは、物事の是非を判断することです。さばきという言葉の定義において誤りがあるのではありませんか?

2.「さばいてはいけません」の解釈について
エリヤハウスでは、いっさい他人をさばいてはいけないと解釈します。聖書は、一切さばいてはならないとはいっていません。正しい量りで他者を正すことをすすめています。むしろ悪に対しては、さばく必要があることを聖書は認めています。

3.「あなたがさばくとおりにさばかれる」の解釈について
エリヤハウスでは、さばいたのと同じ作用が自分に帰ってきてさばかれる法則であると解釈しています。しかし、この箇所は「自分の罪についてはいい加減に取り扱いながら、他人には厳しいような偽善者になってはいけない」と信徒たちに注意をしているのです。自分がさばいたと同じように、必ず自分が他者からさばかれるようになるとは言っていません。この聖句から法則を導き出すなら、非聖書的解釈となります。

4.「人は種を蒔けば刈り取ることになる」の解釈について
エリヤハウスは、人の悪い反応は 必ず報いを受けると解釈します。しかしこの箇所は、霊的、経済的援助を受けること、与えることにおいて罪を犯す者たちを戒めている箇所です。他の信者に対して、悪感情を抱いたことに対しての戒めではありません。この聖句には、神は悪い動機をご存知で、分け合うことをしない結果を自分の身に引き受けることになると書かれていますが、これはあくまで強い言葉による矯正のための戒めであって、どのような罪にも必ず報いが来るとの法則を教えているのではありません。この聖句から、どのような罪に対しても刈り取りがあるという法則を導きだすことはできません。法則であると理解するなら、聖書を逸脱した拡大解釈となります。

第2「増加の法則の根拠である聖句について」

<内なる人の変革350ページ3行より>
生めよ。ふえよ。地を満たせ。(創世記1:28)

<エリヤハウスの解釈>
<内なる人の変革350ページ1―3行より>
神の御国において、すべてのものは増加します。あらゆる益となる事柄が増加していくのが、神の望まれるところです。アダムとエバに与えられた命令は、生めよ。ふえよ。地を満たせ。(創世記1:28)でした。

<エリヤハウスの解釈>
<内なる人の変革350ページ19行―351ページ4行より>
種蒔きと刈り取りの法則は、アダムとエバが創造される以前から、この宇宙においてとこしえに働くものでした。罪が入る前、この法則は祝福が増幅するために造られたものだったのです。そしてそれは、今でも変わりません。しかし罪の幕開けによって、この同じ法則が今度は破壊の方向へと撥ね返るようになったのです。

<聖書的解釈>神は、人間が地上で子供を産んで増えるように願われた。

<エリヤハウスの解釈の問題点>
聖書には、神は人間が増え広がることを願われたと書かれているだけで、祝福が増えることや、すべてのことが増えるように願われたとは書かれていません。この聖句からこの世のすべてのものが増加し、アダムの罪が入った以降、罪も増加することになったと結論づけることはできません。

<内なる人の変革350ページ5−6行より>
だったら、おまえのその金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰ってきたときに、利息がついて返してもらえたのだ。(マタイ25:27)

<エリヤハウスの解釈>
<内なる人の変革350ページ3−9行より>
タラントを埋めた人は、普段は優しい主イエスに、せめて自然に増加するところにおいて置くべきだったと責められました人は裁く気持ちが告白されず、悔い改められないまま時間が経てば経つほど、その結果は増加していきます。初めは小さな火花であっても、野火となって戻ってきます。また風に蒔くと、つむじ風が返ってきます。

<聖書的解釈>
主人は、しもべが与えられたタラントを使って商売しなかったことを責めました。タラントを増やさなかったという理由で、しもべを叱ったのではありません。しもべが主人を信頼しなかったこと、タラントを用いなかったことを責めたのです。

<エリヤハウスの聖書解釈の問題点>
エリヤハウスは、主人の願いはタラントの増加であったと解釈しています。しかし、しもべが叱られたのは、主人に対する信頼と忠実の欠如のためです。この聖句から、神はお金が増加することを願われていたと理解するべきではありません。また、神の願いは増加することで、すべてのものに増加する法則が働くと定めることは、この聖句の誤った解釈です。

     

第3「他人を裁いたことと同じことをするように定められる根拠である聖句について」

<内なる人の変革372ページ6−8行より>
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたがたに弁解の余地はありません。
あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。(ローマ2:1)


<エリヤハウスの解釈>
<内なる人の変革372ページ9−10行より>
他人を裁くと、自分もそれと同じこと(または酷似しているため、根を見逃すことができないようなこと)をするように定められるというのが、もう1つの取り消すことのできない法則です。

<聖書的解釈>
自分を正しい者として、他人をさばく人の偽善を指摘しているところ。他人をさばく人たちも、さばかれる人たちと同じ罪を犯していること。自分も罪人であり、悔い改めを必要とする者であることをわからせようとしている箇所。この箇所は、他人をさばくことにより、自分自身を罪に定めることになっているのだと言っているのです。さばいた人と同じ行いを自分がするようになる、とは言っていません。まして、他人をさばいたことと同じことを自分がするようになるという法則を教えている箇所ではありません。
ローマ書2章1−5節を読んでください。

<エリヤハウスの解釈の問題点>
同じことを行っているという箇所は、さばく以前から自分がすでにその同じ罪を行っているのです。他人をさばいたから、その後に自分がその人と同じ行いをするようになるのではありません。

     

第4「キリストのとりなしを受けていても、罪は刈り取ることになる根拠である聖句について」

<内なる人の変革381ページ4行より>
イエスはいつも生きていて、私たちのためにとりなしをしておられます。
(へブル7:25)

<内なる人の変革381ページ5行より>
主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは滅ぼし尽くされない(マラキ3:6)


<エリヤハウスの解釈>
<内なる人の変革380ページ18行―381ページ8行より>
神は親切で憐れみ深いお方ですから、私たちが蒔いた種が(たとえ自分の種蒔きや、その結果の刈り取りを自覚していなくても)嵐を呼び寄せるのを見て、目に見えないところで働かれて、私たちのためにとりなしをされるのです。地上における人々の祈りや天からのとりなしでさえ私たちの頑なな性質に触れることができない時、初めて神の完全な御心に反して私たちは自分の蒔いた物を刈り取ることになるのです。もし、主が変わり、一瞬の短い間でもとりなしを止められるようなことがあれば、私たちの蒔いた罪の重圧で、「このテープ(地上)は5秒後に自動消滅する!」ことになると、全キリスト教界に理解して頂きたいと思います。

<聖書的解釈>
キリストは、私たちのために永遠にとりなしをしてくださっている。

<エリヤハウスの解釈の問題点>
キリストのとりなしの及ばない領域はありません。また、キリストがとりなしを止めることはありません。キリストのとりなしが及ばない私たちの性質において刈り取ることになるとか、キリストがとりなしを一瞬でも止められることがあると教えることは、福音の最も重要な教えにおける誤りです。

     

第5「十字架以降も種蒔きと刈り取りの法則は変わらないと信じる根拠である聖句について」

<内なる人の変革352ページ13−15行より>
わたしが来たのは律法を廃棄するためだと思ってはなりません。
廃棄するためではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)


<エリヤハウスの解釈>
<内なる人の変革352ページ10―13行より>
安っぽい恵みなど、ありません。あらゆる罪は結果を要求します。
神が反対側を向かれることや、神の掟を曲げられることはありません。

<聖書的解釈>
キリストの十字架による救いは、信じる人に律法の要求を廃棄させるのではなく、かえって守らせることになる。

<エリヤハウスの解釈の問題点>
エリヤハウスは、キリストは律法を廃棄するためではなく、律法を成就するために来たので、今も私たちは旧約時代と変わらず律法の下にあると解釈しています。だから、「種蒔きと刈り取りの法則」は十字架以降も変わらず、私たちに働くと教えています。律法によってはだれも救われません。律法の目的は、ユダヤ人に罪を自覚させ、キリストによる信仰の義へと導くことです。この聖句は、律法の目指していた救いがキリストの到来によって完成したと言っているのです。エリヤハウスは、キリストがこの世に来られたことによって、律法を行うことによって義とされる信仰が強化され確立したと解釈します。しかし、キリストは私たちを信仰により義と認め、御霊により律法を守ることができるようにするために来られたのです。私たちを律法ののろいから解放するために来られたのです。

     

第6「罪は告白されなければ残ると信じる根拠である聖句について」

<内なる人の変革352ページ6−9行より>
わたしたちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。(コロサイ2:13−14)


<エリヤハウスの解釈>
<内なる人の変革352ページ16行−353ページ3行より>
種まきと刈り取りの要求するところは、主が十字架にかかられた時の心と魂と霊の苦悶と、イエスの肉体に課せられた苦痛によって、完全に満たされたのです。しかし、十字架は自動的に働くものではありません。もし私たちが告白して悔い改めないなら、一瞬の告白で豊かな憐みを得ることができるにも関わらず、すべての結果を自らの手で刈り取ることになるのです。

<この箇所のエリヤハウスの理解を要約すると>
主の十字架の贖いにより、罪に対して神が要求する刑罰は満たされ完了した。しかし、罪の赦しの十字架は、私たちが告白しなければ働かない。

<聖書的解釈>
キリストは、十字架の贖いにより、私たちを罪に定める証書を無効とされました。キリストを信じる者は、もはや、罪に定められることはありません。十字架の贖いは、信者が日々犯す罪を告白する、しないに関わりなく永遠に有効で信者の罪を覆い続けるために働き続けます。

<エリヤハウスの解釈の問題点>
十字架での贖いの完成を認めている聖書解釈と、その解釈からの適応に矛盾があります。解釈と適応が全く真逆のことになっています。

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