百瀬川扇状地−百瀬川アラカルト
百瀬川に関する記事を、「百瀬川扇状地−ふるさとアラカルト」から移しました(2007/1/7)

7【 ? thinking now

6【 「百瀬川」名称考  ★new★2007/2/5
▼今冬は全国的な暖冬ですが、当地では山に雪が積もっているため、ふだんは水が伏流してしまう扇央部でもかなりの水が流れています。やはり、冬から雪解け時にかけてがいちばん水流の多い時期ではないでしょうか。梅雨時や台風時には大水が出ますが、川幅が広くなる扇央部では、比較的短期間で流れが細って涸れてしまいます。高島郡誌には、「昔は広い河原になっていて、水のないときには小川をいく筋か並べたようである。これが百瀬とよぶわけである」と記されています(「百瀬川扇状地−開発と治水」参照)。しかし、涸れ川になることが多い川に「多くの瀬がある」という意味で「百瀬」という名称が付けられていることには疑問を感じます。そこで、今回は、「百瀬川」という名称の由来について、私見を紹介したいと思います。

▼ここでは、「百(もも)」をキーワードとして、「山名の不思議 私の日本山名探検」〈谷有二著 平凡社ライブラリー〉を参考に見直してみました。同書には、「・・・ママ・モモも崖地のこと。・・・千葉県市川市真間は、江戸川に沿う崖地をなしている。・・・奈良県の百市・百谷も同じで、伊賀忍者の頭領・百地三太夫のモモチも崖地を表している。」と記されています。そこで、これに注目して「百」を「崖地(がけち)」という意味に解釈して考えてみたいと思います。

▼「ふるさとアラカルトNo.3」もふれたように、扇央の上部(山側)に、逆断層である琵琶湖西岸断層帯が南北に通っています。現在は、傾斜地やがけを明確に確認することはできませんが、単純に考えれば過去には断層でできた断層崖(だんそうがい)を水が瀬となって流れ流れていたことから、「百瀬」と名付けられたことが想像できます。

▽しかし、数千年を単位とする断層活動の結果が、地名を付けた当時に地表に残っていたかどうかは疑問です。文部科学省地震調査研究推進本部地震調査委員会の「琵琶湖西岸断層帯の長期評価について」(平成15年6月11日)によると、「最新活動時期は約2千8百年前以後、約2千4百年前以前で、活動時には断層の西側が東側に対して相対的に3−5m程度隆起した可能性がある。」とされていますが、この疑問は解決できません。ところが、扇状地上には、段差や崖があったことから名付けられたと思われる「坂ノ下」や「クボセ(窪瀬と表記できるのでしょうか?)」などの地名が残っていることは、「ふるさとアラカルトNo.3」で紹介しました。また、上記の2つの地名の間にも、「石仏(いしぼとけ)」という地名があります。ホケ・ホキは崩れや崖を意味する地名であり、そこから転じて「ホトケ(仏)」・「ボケ(歩危)」となることもあるそうです。このように考えれば、断層崖があったことにつながる「坂ノ下」・「石仏」・「窪瀬?」・「百瀬」という地名が、扇央を南から北へほぼ直線に並ぶわけです。従来は「百瀬」を水平的にとらえていたのに対して、今回は垂直的に解釈してみました。「百瀬川」という名称の由来についての新しい解釈はいかがでしょうか。

5【 1級河川「百瀬川」の始まる地「蛇毛」(その2) ★new★ 2007/1/26
▼前回No.4では、百瀬川が1級河川として始まる地、「蛇毛」という小字の由来について、「蛇」1字だけにこだわって百瀬川に残る伝説と「常陸風土記」の伝承をもとに思いを巡らせました。しかし、極めて偏りがあることは否めず、オットーの願いに合わせたようなところもありました。そこで、今回は、「蛇毛」という2字から考えてみることにしました。

▼まず、インターネットで「蛇毛」を検索してみましたが、日本語ではまさに百瀬川の「蛇毛」がヒットするぐらいで手がかりらしきものにはたどり着くことができませんでした。しかし、中国語で、「蛇の成語に関して」というサイトを見つけることができ、そこに「蛇毛馬角」というのがありました(馬は簡化字で表記してありました)。これは、「蛇生毛(蛇に毛が生える)、馬出角(馬に角が出る)」という有名無実のことを指すことによって、この世では不可能なことを示すことのようです。

▼さて、これを手がかりとして、現地で「蛇毛」という小字名について考えてみたいと思います(写真下)。この地は、山地を流れてきた急流の百瀬川が、その流れをほぼ直角に左(北東方向)へ曲げて一気に琵琶湖に向かう地点のやや下流右岸にあります。つまり、攻撃斜面(こうげきしゃめん)にあたります。かつては、山地から出てきた川が現在より南寄り(南東方向)に流れていたということなので(詳細は、「百瀬川扇状地−開発と水利」をご覧ください)、築堤によって流れを変えたということがわかります。
*攻撃斜面は、曲流する川の外側の斜面で、流れが強くぶつかるため、流れが緩やかな内側の滑走斜面(かっそうしゃめん)より災害が起こりやすいとされています。

▽そして、「蛇毛」の標識があるところ(右岸の堤防上)に立ってみますと、堤防が相当高いことがわかります。いつの時代に、どのような工事が行われて堤防が築かれたのかということはわかりません(オットーの今後の課題です)が、この地に堤防をつくって流れを変えることは、当時の人にとっては「不可能なこと」と感じられ、まさに「蛇毛馬角」と映ったのではないでしょうか。このように、「蛇毛」という地名は、百瀬川の治水工事が極めて困難であったことに由来する地名であり、そこから難工事の末にふるさとを切り開いた先人の苦労をしのぶことができます。災害の怖さを忘れかけている現代の住民も肝に銘じておくべきしょう。それとともに、このようなことばがどのようにしてわがふるさとにもたらされたのかも気になるところです。

*昭和30年ごろまでは、蛇毛の標識の上流側の堤防が氾濫したそうです。そんなときは、根元で伐採したスギやヒノキの幹を堤防に沿わせて(もちろん縄で付近の立木などにつないで)、水流が激しく堤防に当たらないようにして決壊を防いだことを年配者から聞いています。このようにすることを「ナゴをつける」といったそうです。このあたりの堤防の外側にスギやヒノキが植えられているのは、災害時に備えるという意味もあるのでしょうか。

扇頂の標識付近から上流を望む

4 【 1級河川「百瀬川」の始まる地「蛇毛」 2007/1/9
▼百瀬川は滋賀・福井県境を源流として琵琶湖に注いでいますが、1級河川とされているのは、河口からほぼ4kmさかのぼった百瀬川扇状地の扇頂の地点からです(「百瀬川扇状地−扇状地のあらまし」の地形図をご覧ください。「蛇毛」は、地図上のAまたはYの地点です)。右岸に建てられている石の標柱には、「高島郡百瀬村大字大沼字蛇毛523番地先」と表示されています。今回は、「蛇毛」(地元では「ジャモ」と発音しています)という小字名について思いを巡らせたみたいと思います。

▼「蛇」についてのお話は、各地の伝承にも数多くありますが、ここでは、まず水神としての「蛇」に注目したいと思います。古代では、水をつかさどる神は蛇の姿をし、時には角を生やして姿を竜に変えて天に昇り、雷を起こして雨を降らせると信じられていたのですが、これはもともと竜を水の神としてまつる中国南部の信仰から来ているようであり、農耕とともに伝わってきたと考えられています。このようなことから、蛇神、竜神、竜蛇神、雷神、水神の信仰は全国各地で見られます。オットーのふるさとでも、No.3の「オカメ谷」の項でも触れたように「雨乞い」の願いと関連するのかも知れませんが、これに関する伝承は、いまのところ聞いていません。

▼ところが、百瀬川には次のような
小丸蛇ノ目池伝説」(高島郡誌より、オットーがあらすじを簡単にしました)があります。
 むかし、深清水村の兄弟が川原谷に入って柴刈りをしていましたが、大きないも魚がいたので兄がつかまえて食べたところ、たちまち全身に鱗ができました。兄は、「このまま家に帰ることはできないので、父に伝えるように」といって片目を弟に渡しました。
 弟は家に帰ってこのことを父にいったところ、父は驚いてすぐに森西の田谷山城の城主の家来で小丸に屋敷をかまえていた小丸市正の館へ届け出て、その目を差し出しました。市正は、この片目を受け取って堀に投げ入れました。
 その後、川原谷にすむ蛇は「片目恋し、小丸へ参りたし」といっていました。蛇ノ目池にすむものは蛙まで片目であるのはこのためです。
*深清水村=百瀬川扇状地の扇端にある集落で、百瀬川上流はこの集落の地先になっています。
*川原谷=扇頂より上流部の百瀬川の谷の名称です。
*いも魚=イワナのことで、オットーも子どものころにはこのように呼んでいました。
*小丸=扇頂から下流の左岸にあった地名とされています。

▽上の伝説を、蛇に関する有名な伝承である「常陸国風土記」の「夜刀(やつ)の神」のお話と結びつけて一つの可能性を探ってみたいと思います。「夜刀の神」の伝承は、ムラの首長が小さな谷間の原野を切り開き、田をおこして住もうとしたところ、それを阻止しようとした蛇【夜刀の神で、谷(やつ)にすむ水神や土地の霊の象徴と考えられる】が群れをなして現れたので、それを山に追い、境にある堀に「標の悦(しるしのつえ)」をたてた、つまり「神の地」と「人の田」の境界をしるしたというものです〈この伝承については多くの著書がありますが、「境界の発生」(赤坂紀雄著、講談社学術文庫)を参考にしました〉。また、蛇が様々なものに姿を変えることは各地に伝わっていますが、イワナ(いも魚)もその一つになっています。扇状地は谷間とは違いますが、旧河道において田の開発が可能な地であったという点では共通するものがあり、川原谷を「神の地」と考えたとき、そこででいも魚を食した若者が蛇になってしまったということから、この伝説の中には、神(ここでは蛇であり、水の神である)の地をおかすことへの戒めも含まれていると考えられます。

▽以上のように考えたとき、オットーは、蛇毛という地名のわずか1字「蛇」だけからですが、祖先が、神の地である百瀬川上流の自然を守ることの大切さを、ひいては、豊かな農業生産を続けることへの願いを示したのではないかと思います。同時に、上流の小さな谷が土砂崩れで荒廃している現状を振り返り、「蛇」に込められた意味と祖先の願いを再認識する地点としてとらえたいものです。
*今回は、「蛇毛」ということばについて考えることはできませんでした。つぎにご期待ください。

3 【百瀬川にあるオカメ谷2006/12/1
▼百瀬川は、上流部の山地で多くの小さい谷から水を集め、山地から出ると(扇頂から)一気に琵琶湖に向かって流れます。ところで、扇頂近くで右岸から流入する谷は、「オカメ谷」と呼ばれています。この発音を聞いていちばん先に思いつくのは、「阿亀(おかめ)」というお多福の仮面ですが、これとの結びつきは想像できません。しかし、「古事記」から一つのヒントらしきものにたどり着きました。そこでこの地名の由来に迫ってみたいと思います。
*明治41年作成の文書では、「ヲカメ谷」と表記されていますが、ここでは「オカメ谷」としました。

▼古事記によるとイザナキノ(伊邪那岐)命とイザナミノ(伊邪那美)命の二神は、次々と島や国、神を生み出しましたが、火の神であるカグツチノ(迦具土)神を生んだためにイザナミノ命は亡くなりました。そこで、イザナキノ命は、腰に付けていた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いてカグツチノ神の首を斬りました。そのとき、多くの神が誕生したのですが、剣の柄(つか)にたまった血が指の間からもれ流れて成り出てきたのが「クラオカミノ(闇淤加美)神」であり、クラは谷間を意味し、オカミは水をつかさどる竜蛇神であるとされています。

▼また、京都市北方の貴船山にまつられている貴船神社の神は、水をもたらす山の神であり、「タカオカミノ神」(この神は、古事記にはでてきません)とされています。「オカミ」とはもとは山の上にいるので「お上(かみ)の神」と呼ばれていたようですが、後に「雨乞い」をあらわすことばとされるようになったそうです。

▽以上をもとにして祖先の願いに思いをはせると、扇央にある水田は水の確保に苦労したことは想像に難くありません。特に渇水になると、百瀬川から直接水を引いていたので、百瀬川で雨乞いをしたことは容易に想像できます。そして、里にいちばん近い谷が雨乞いの場所とされ、「オカミ谷」と呼んだのでしょうか。その後、これがなまって「オカメ谷」となったことが想像されます。
*現在でも百瀬川に頭首工を設置し、取り入れた水は百瀬川にそって開削した水路を流れますが、この水路に唯一流れ込んでくるのがオカメ谷から流れ込んでくる水です。そういう意味でいちばん身近な谷という感じがします。



2 【河川争奪(かせんそうだつ)−百瀬川の川盗り物語−2006/11/24
▼bPでは、百瀬川上流の横ずれ断層について紹介しましが、この断層(左下図------)の延長線上にあって、地理学、特に地形学に興味関心を持つ人々に大変注目されている場所(左下図)があります。今回はこのことを紹介します。

▼琵琶湖に流入する百瀬川の約4.5Km南で、石田川という川も琵琶湖に注いでいます。それぞれの川を上流へさかのぼっていくと、2つの川が一つの尾根を境に接しているところ(分水界)がありますが、今回はここにある「スガ谷」という谷が話題の場所です。現在、この谷は左下図の
Aのルートで百瀬川に流れ込んでいます〈〉。しかし、かつては、Bのルートで石田川へ流れて込んでいたのです〈左下図〉。つまり石田川の流域であった「スガ谷」を百瀬川が奪ってしまったのです。一つの川が別の川の谷(支流)を奪ってしまうことを、河川争奪(かせんそうだつ)と呼んでいます。

▼それでは、このような現象が起こった原因は何でしょうか。それは、川が浸食する力の差です。つまり、川は流れが激しい(急流)ほど、上流部の浸食が激しくなります。では、百瀬川と石田川の流れはどうでしょうか。2つの川は同じ水面(琵琶湖)に流れ込みますが、石田川は大きく曲がりくねって琵琶湖に流れ、百瀬川は曲がりくねる箇所もわずかで、一気に琵琶湖に流れ下っています。つまり、百瀬川は、短く、急流であったことにより、谷(川)の上部をどんどん削っていきました(頭部浸食といいます)。そして、ついには隣の石田川に流れ込んでいた「スガ谷」まで到達して、谷(川)を奪ってしまったのです。右下写真は、百瀬川が浸食してきた谷が「スガ谷」に達したあたり(左下図
Aの記号のあたり)ですが、いまも谷の浸食が続いているようすがわかります。
*下流が沈降(ちんこう)したり、上流が隆起(りゅうき)したりすることによって浸食が激しくなることもあります。

▽オットーは、このことに加えてもう一つ、素人なりに気になることがあります。それはbUで紹介した横ずれ断層が通っていることです。専門的なことは全くわからないのですが、どなたかご教示いただけないでしょうか。
 それにしても、このような勝手な想像をしながら地形図を読むことは楽しいことです。
 また、かつては地形図の等高線をじっと見つめていたのがウソのようで、いまは、「カシミール3D」のお陰で地形が手に取るように確認できます。ほんとうに頭が下がる思いです。しかし、時々地図は眺めたいものです。オットーは車にカーナビをつけて久しくなりますが、それによって道路地図を見て楽しそうなコースや最短コースを選択することもなくなり、感覚が鈍ってきたような気がします。


河川争奪〈カシミール3D カシバードで作成

百瀬川が浸食してきた谷


bP 【琵琶湖西岸断層と小地名−その2 2006/11/20UP ・11/21写真追加
▼琵琶湖西岸には何本かの断層が走っていますが、「ふるさとアラカルトbR 琵琶湖西岸断層と小地名−その1」ではいちばん東側、つまり琵琶湖側で、扇央を通っている断層について紹介しました。この断層は山(西)側が琵琶湖(東)側に乗りかかる形の逆断層(大きくは「縦ずれ断層」と呼ぶ)です。しかし、ここから西方、つまり百瀬川の上流側には、さらに何本かの断層が走っています。今回は、このうちの1本について紹介します。

▼これは、断層を境に向こう側が右にずれる形の右横ずれ断層(大きくは「横ずれ断層」と呼ぶ)で、この断層と小地名の関係について考えたいと思います。小地名は、百瀬川上流の山林を共有林として管理する6つの集落(財産管理組合)の覚書として作成された安政5年8月の絵図および明治41年12月の文書をもとに、2万5千分の1地形図「海津」および都市圏活断層図「熊川」を対照しながら考察しました。

▼百瀬川を扇頂から約2qさかのぼるとほぼ直角に左(西)へ曲がりますが、そのまま正面の谷(「小坂谷」)を進むとすぐ左から谷が流れ込みます。この谷は「アシタニ」と表記されています。実は、この谷の頭部近くには横ずれ断層(左下図
-----)が走っていて谷がずれているのです。また、この谷の両側にある尾根(「早坂」と「石坂」)を詰めるとやや平らな場所にたどりつきますが、ここは「向ヒ原」と表記されています。ここにも断層が通り、近くに山崩れや地滑り(左下図)も見られます。

▽ところで、断層で谷の頭部がずれた谷が「アシタニ」とよばれているのは、「悪(邪)しき谷」という意味が込められているのかも知れません。また、断層の上方の山は隆起準平原(りゅうきじゅんへいげん)で、百瀬川の対岸から眺めるとなだらかな山になっています(右下写真)。ここは「向ヒ原」と表記されていますが、「向い原」と解釈するのが妥当であると思います。しかし、「ヒ」は、ひび割れを意味し、断層が通っている土地を指す場合があるそうです。「向ヒ原」を断層の延長線のあたりから眺めると、そのことがはっきり確認できます。オットーはあえて「断層に面している平らな山」と考え、断層とこじつけたくなってしまうのですが・・・。
 なお、オットーも、この辺りへは中・高校生のころにはよくイワナ釣りにいったところです。

百瀬川上流の地名と横ずれ断層〈カシミール3Dカシバードで作成〉

「向ヒ原」(百瀬川対岸の断層延長線あたりから撮影)

左側にフレームページが出ている場合は、お使いにならないでください