百瀬川扇状地−開発と水利

【名前の由来】
高島郡誌には、百瀬川について次のように記されています(オットーが簡単にしました)。
○「この川は、一つに黒川という」(平等院文書治暦4年)
○「昔は広い河原になっていて、水のないときには小川をいく筋か並べたようである。これが百瀬(ももせ)とよぶわけである」
*高島郡誌(増補「高島郡誌」 昭和47年7月15日発行 高島郡教育会編著) 

▼百瀬川は東へ流れて、知内(ちない)というところで琵琶湖に注いでいます。河口付近は黒い砂利になっています。これに対して、その北約300mのところに花崗岩(かこうがん)地帯を源流とする知内川が琵琶湖に注いでいますが、河口は白砂になっています。この2つの川を対比すると、百瀬川が別名「黒川」とよばれたことがよく理解できます。

▽オットーが子どもの頃は、百瀬川の左岸に「軍艦山」とよんで親しんでいた山がありました(今は、別荘地が開発され、すっかり形が変わってしまいました)。この山は、正しくは「黒河山(くろこやま)」であり、百瀬川が黒川(または黒河)とよばれていた名残でしょうか。

▼川が山地から平地に出る扇頂のあたりまでは多くの水が流れていますが、ここから下流に向かうと川の水は伏流(ふくりゅう、地下にしみこんで流れること)し、地表の流れは小さくなってしまい、ついには水が流れない涸れ川かれがわ、水無し川ともいうになります。かつては、瀬とよばれる小さくて急な流れが何本か流れていたようで、これが、「百瀬川」という名前のついた由来です。

▽オットーが子どもの頃、秋になるとほとんど水の流れていない川原にアキグミがいっぱい実をつけ、それを食べに行くのが楽しみでした。しかし、今は全く見当たらなくなりました。

多くの水が流れている扇頂の上流('06.09.30)

水が流れていない扇頂の下流('06.09.30)

【百瀬川扇状地の開発の歴史】
▼高島郡誌には、百瀬川の治水と開発について次のように記されています(オットーが簡単にしました)。
○「ここには小野高景という人がいた。大沼村に住んでその付近を領有していたが、石田多賀丈という人が石田川を治めたのをまねて、堤防を築いて川筋を治め、荒れ地を開拓して新保を立てた。」
*石田川は、百瀬川より約5q南で琵琶湖に注いでいる川です。

○「小野氏は初め大沼の里を領し、続いて黒田部落を有し、次に新保を開いたので、黒田は、(大沼と新保の)中間となったことから中ノ庄と呼んだといわれている。もう一つの説に、小野氏は黒田部落を仁和寺の荘園に施入したため中庄と呼んだともいわれている。」

▼これらのことから、最初は大沼が開かれ、続いてその北の中庄、そして新保の順に開発されたことがわかります。また、百瀬川に堤防を築くなど、治水対策を行って新たに荒れ地を開発していったようすがわかります。

 なお、大沼の集落は、当初、扇央上部にあり「大野」とよばれていましたが、14世紀に百瀬川の氾濫によって流され現在の扇端部に移って「大沼」となったようです〈「扇状地と信仰」および「ふるさとアラカルトNo.1)のページをご覧ください〉。

▼最初に大沼が開かれたのは、百瀬川のかつての流路(旧河道、きゅうかどう)にあたることが考えられます。扇央(せんおう)とよばれる扇状地の中央部は、砂礫(されき、砂と石のこと)になっているために耕地にはなりにくいのですが、旧河道は耕地(田)として開発しやすかったからです。

*旧河道等の地形については、国土地理院刊行 土地条件図1/25000「竹生島」で確認できます。

▽大沼の南東部の琵琶湖岸に、「貫川(ぬけがわ)」という小さな集落や沼があります。百瀬川が当地へぬけて琵琶湖に注いでいたことを示すものといわれています。

扇央の水田(右は雑木林)

【扇央の土地利用】
▼下の地図を見ると、南半分(大沼や深清水)には、大きく3本の筋になって水田が広がっています。また、果樹園(柿が中心)や(茶園もある)も見られます。

▼北半分は、広葉樹(一部は針葉樹)の林となっていますが、昭和40年頃に宅地開発がされ、、近年になって広葉樹林の中に永住や別荘のための住宅が数多く建つようになりました。

▼広葉樹としては、クヌギやナラなどが多く、かつては燃料としての薪(まき)や柴(しば)、木炭の原木などを採っていました。そのため、10〜15年のサイクルで伐採されていたので、林の中には切り株の「ヤマオヤジ」でいっぱいでした。

▽オットーのふるさとでも、かつて区有林にスギを植林しましたが、一部が干ばつの年に枯れてしまいましたのでクヌギなどに植え替え、いまは元気に育っています。扇央は、砂礫になっているので保水力(水もち)が悪く、乾燥に強い木が多いようです。

扇央の土地利用〈地形図1/25000「海津」(平成11年部分修正測量)より〉

果樹園(扇端の集落とその先の水田も見える)

雑木林と宅造地(左の木の株が「ヤマオヤジ」)

【百瀬川の水利〜頭首工と分水〜】
▼扇央を水田として利用している大沼と深清水は、そこで使う農業用水を共同で百瀬川から直接引いています。日照りが続いても確実に水が取り入れることができるように、扇頂から約300m上流に頭首工(とうしゅこう)とよばれるゲートがあります(地図印)。

▼頭首工は、水を取り入れるための取水(しゅすい)ゲートと、水に混じって流れてくる土砂を百瀬川本流に戻すための土砂吐(どしゃはき)ゲートの2つのゲートがあります。

▽大雨や渇水の時には、2つのゲートを上げ下げしながら取水量を調整しています。

頭首工−左が土砂吐ゲート・右が取水ゲート
▼頭首工から取り入れられた水は、百瀬川沿いに開削された水路を流れ、扇頂のあたりで大沼と深清水の2つの川に分けられます。ここを、分水(ぶんすい)とよんでいます(地図印)。

▼2つの川の川幅は、水を利用する田の面積に応じて割合(大沼は28.9%)が決めてあります。また、不公平にならないようにするため、河床には切石が敷かれるなど、簡単ですが厳格な施設がつくられています。

▽かつては水をめぐってシビアな争いも起こったのでしょう。オットーの集落には、水を監視するための「川原番」という当番が今も残っています(実際に機能していることはありませんが、毎年、区の総会では確認をしています)。

分水−左が深清水へ・右が大沼へ


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