百瀬川扇状地−扇状地と信仰

【神社から考える】
▼オットーのふるさと・大沼には集落の真ん中に日吉(ひよし)神社があり、氏神としてまつっていますが、このことに関して、つぎの点に注目したいと思います。

@現在は、祭神(さいじん、神社にまつってある神のこと)として、大山咋神(おおやまくいのかみ)がまつってあります。

A滋賀県神社誌によると、もとは泣沢女神(なきさわめのかみ)をまつってきたが、歴応元(1339)年に日吉大社より大山咋神を迎えた、と記されています。

Bさらに、延喜式(えんぎしき)という平安時代に出されたきまりに記された神社は式内社(しきないしゃ)とよばれますが、その中の一つ大野神社ではないかとも考えられています(3つの候補のなかの一つです)。

*大山咋神(おおやまくいのかみ)は、もともとは比叡山(ひえいざん、日枝山とも書く)に宿る山の神(やまのかみ)でしたが、そこに延暦寺(えんりゃくじ)が建てられたときにその守り神となり、日枝大社(ひえたいしゃ、日吉大社とも日吉山王ともよばれた、山王とは山の神のこと)にまつられ、天台宗とともに全国に広がったようです。
 また、農耕の守護神として、かんがい技術の神や湖水を切りひらいて国土をつくった神というような伝承もあるようです。

*泣沢女神(なきさわめのかみ)は、日本神話によると火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)を生んだ事によって命を落とした伊邪那美命(いざなみのみこと)の死を目の当たりにして、最愛の妻を亡くして号泣した伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の涙から生まれた神であるといわれています。また、「さわ」とは、水の流れを表していると考えられ、水神としてまつられているようです。

▼さて、上記のことと大沼に伝わる話などとを関連づけると、つぎのことが考えられたり、疑問となったりします。

@大沼には、扇頂から少し下ったところに「大野」という小字名が残っています。かつてはここに「大野村」があり、「大野神社」がまつられていたが、後醍醐(ごだいご)天皇の延元3(1338)年ころに、百瀬川の氾濫によって、現在の日吉神社の地に流れ着き、住民もその近くに住まいすることになった、という伝承があります。
 また、大野では、祭の日に酔っぱらって寝ている間に、神輿(みこし)を持って行かれたいう伝承も残っています。百瀬川の北側にある森西という集落の神社に2基の神輿がありますが、そのうちの一つには「大野神社」と記されているそうです。
 これらの伝承から「大野神社」の可能性を論じることができるのでしょうか。さらに、「大野神社」がまつっていたという「大野氏」と、大沼を開墾したという「小野氏」は関係があるのでしょうか。

A泣沢女神(なきさわめのかみ)がまつられていたということに関して、扇央での農業用水確保の苦労や、たびたび被害をもたらしたであろう百瀬川の氾濫の被害を考えたとき、水神をまつっていたことは十分に考えられます。

B大山咋神(おおやまくいのかみ)は山の神であり、春になって里に降りれば田の神(たのかみ、稲作などの豊作をもたらす神のこと)になると考えられていました。また、山を源に流れる清らかな水の神でもあることから、農耕民との関係は十分に考えられます。
 現在、日吉神社本殿の東側に、「山の神様」とよぶ大きな石がまつってあります。そして、いまも、11月8日には、日吉神社で全戸が参加して山の神神事を行っています。
 また、日吉神社の東隣には曹洞宗の慶徳(けいとく)寺がありますが、もとは天台宗であったそうで、山王信仰との関係も考えられます。

C集落が扇央上部の地「大野」から扇端の地に移って「大沼」と称し、神社が「大野神社」から「日吉神社」と改称し、祭神が「泣沢女神」から湖水を切りひらいたという伝承もある「大山咋神」になったということには一貫性が見られると思います。

▽オットーは、神社の護持に関わっていた父親が生前につぎのような話をしていたのを覚えています。
 第2次大戦後間もなくの頃、連合国軍総司令部(GHQ)が神社を検分に来て、社殿を開け、ご神体を見せるよう求めたそうです。そこで、何重にも包まれていたサラシを解いたところ、そこからは尼僧が現れたそうです。
 日吉神社と改称した後も、大野神社の祭神であった泣沢女神をまつっているといわれていることの証しではないでしょうか。

 以上のことから、扇状地に住む先祖たちが農耕や水と関わった神々をまつり、信仰してきたことがうかがえます。


【庚申信仰(こうしんしんこう)から考える
▼全国的に広がっていた庚申信仰が、かつて大沼においても行われていたことが、つぎの3点からわかります。

@庚申塔(こうしんとう)が、下記の3カ所にあります。
  (A)扇端にある集落から扇央に開かれた水田(「山田」とよぶ)への出入口
    →ここを「庚申さん」とよんでいます。
  (B)扇央上部にある小高い山の中
    →この山を「庚申山」とよんでいます。
  (C)扇頂から少し下がったところ
   →近隣の集落と共有していた山林のある2つの谷への道の分岐点付近にあります。


A第2次大戦のころまでは、庚申信仰の仲間がつくっていた「庚申講(こうしんこう)」があり、庚申の日には各戸がボタ餅をつくって「庚申さん」にお供えしたり、夜には仲間が集まって庚申待(こうしんまち)・庚申祭という行事を行ったりしていました。


B庚申の年や七庚申の年には、全ての庚申塔へ餅などのお供えや卒塔婆(そとば)をもって、大沼にある慶徳寺の住職におまいりしてもらっていました(最近では、1980年の庚申の年に区の行事として行われました)。

集落の入口にある庚申塔(A)

扇頂近くにある庚申塔(C)
後方は、百瀬川堤防の外側に築かれた予備堤防
▽さて、庚申信仰は様々な信仰が習合(しゅうごう、ちがう教えのよいところを適当にとること)したといわれていますが、オットーのふるさとではどんな信仰との関係が考えられるのでしょうか。勉強不足のオットーではありますが、少し自分の考えを述べてみたいと思います。

@庚申の年や七庚申の年の行事から考えると、仏教との関連が深いようです。

A3つの塔が山と里を結ぶ道沿いにあるということは、山の神が春になると里に降りて来て田の神になり、秋になると山に登って山の神になるという、農民の山の神信仰との関係が深いのではないでしょうか。このことは、神社との関連でも記しました。
 なお、庚申祭には作の神(さくのかみ、豊作を祈願する神のこと)となっている「青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)」を拝む地方もあるそうですが、南隣の深清水の寺院には「青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)」の掛け軸が現存しているそうです。

B庚申塔の形や刻まれた文字などから由来を考えることもできますが、(A)の庚申塔は風化して文字は読めません。また、(B)と(C)は自然石で文字等は刻まれていませんが、形などから生産の象徴と見ることもでき、稲などが豊かに実ることへの願いが感じられ、山の神や田の神、作の神などの信仰ともあるようです。


C3つの塔が扇頂から扇端に向かう道に沿って建てられていることから、上流から押し寄せてくる洪水に悩まされてきた人々が、「塞の神(さいのかみ,村の辻の守り神のこと)」としての役割を期待していたのかもしれません。


 
以上のように、庚申信仰も、扇状地における農耕や生活と関係が深いことをうかがい知ることができます。

【参考資料 ・ 庚申信仰について】
▼庚申信仰は、平安時代に中国から伝わり、江戸時代に大変盛んだったそうです。その起源については,中国から伝わった道教(どうきょう)や仏教のほか、日本独自の神道(しんとう)や民間のさまざまな信仰や習俗などがあげられ、それらが複雑にからみあっているといわれています。
 このことは、全国の路傍などに多くの「庚申塔(こうしんとう)」・「庚申塚(こうしんづか)」が建てられていることや、そこには様々な信仰の対象が彫られていることからも知ることができます。

▼しかし、60日に一度やってくる「庚申の日」に、庚申信仰を信じる仲間である「庚申講(こうしんこう)」が、道ばたなどに庚申塔や庚申塚を建てて、「庚申待(こうしんまち)」というお祭り(庚申祭)を行っていたことなどは共通のようです。
▽また、庚申の日は、年6回ありますが、12年ごとに年7回の年がやってきます。これを「七庚申(しちこうしん)」とよび、これを記念して多くの庚申塔が建てられたことなども、全国的にわかっています。

▼さまざまな信仰のいわれには、主なものとしてつぎのようなものがあります(簡単にまとめました)。
@道教の教え
  中国の道教では、人間の体には頭と腹、足に三尸(さんし)の虫がすんでいて、庚申の夜にこの虫が天に登って天帝(てんてい)にその人の行いを報告し、悪いことをしていると天帝はその人の寿命を減らすと考えられていました。
 そこで、夜、寝静まってから天に上っていく三尸の虫は夜通し眠らないでいれば体外に出られず、天帝に罪を罰せられることなく長生きができるということから、庚申の夜には、眠らずに神をあがめまつりました。平安時代の貴族社会では、これを信じる仲間(庚申講)が、夜通し飲み食いをして騒ぐというような庚申待に変わっていったようです。また、江戸時代になると、民衆の間にも広まりました。

A神道や道祖神(どうそじん)との結びつき 
 庚申信仰は、もともとはっきりした信仰対象を持たなかったのですが、庚申の「申(さる)」と「猿(さる)」の字がある神道の猿田彦(さるたひこ)神が結びつきました。
 また、猿田彦は、案内の神様であることから旅の安全祈願の対象となり、道ばたに立てられていたことや、同じく案内の神様である天宇受売(あめのうずめ)神と仲のよい夫婦とされ、この2つの神は道祖神として村へ災害や伝染病などが入ってこないように集落の出入口にまつられました。
 このように、庚申信仰は、神道や道祖神と結びついていったようです。

B仏教との結びつき
  仏教において天帝は帝釈天(たいしゃくてん)であるとされ、帝釈天やその使いである恐ろしい姿をした青面金剛(しょうめんこんごう)が、邪気や悪病を払うというご利益を期待されていたことと結びついて、庚申信仰の対象になったようです(庚申の日は、帝釈天の縁日にもなっています)。

Cその他
 庚申塔は集落のはずれに建てられ、道祖神など他の石神など一緒に置かれている例が多く、その結果、塞の神(さいのかみ、村の辻の守り神のこと)として、道祖神と同じ役割を期待されていたようです。
 また、さまざまな信仰とも習合しているようですが、その中で最も強いのは作の神(さくのかみ、豊作を祈る神のこと)や田の神(たのかみ、稲を守り豊作をもたらす神のこと)の信仰のようです。


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