百瀬川扇状地−ふるさとアラカルト
百瀬川に関する記事は、「百瀬川扇状地−百瀬川アラカルト」に移しました(2007/1/7)。そちらをどうぞ。

12 【 ? thinking now


11 【 ふるさとと大和の国 ★new★ 2007/2/17
▼地名の由来を解くというのは、推理小説を読み解くような楽しさがあります。No.6や「百瀬川アラカルトN0.3」では、古事記などの記述をもとに考えてみました。今回は、わがふるさとにかつてあった大野神社の祭神であり、現在は氏神様の日吉神社にまつってあるという「泣沢女神」(「扇状地と信仰」参照)について、もう少し詳しくふれてみたいと思います。

▼まず「泣沢女神」誕生のいきさつについて、「古事記(上)−上巻−全訳注〈次田真幸著 講談社学術文庫〉」から紹介したいと思います。
 イザナキノ(伊邪那岐)命とイザナミノ(伊邪那美)命の二神は、次々と島や国、神を生み出しましたが、火の神であるカグツチノ(迦具土)神を生んだためにイザナミ命は亡くなりました。イザナキノ命は、「いとしい私の妻を、ただ一人の子に代えようとは思いもよらなかった」と言って、女神の枕もとに這(は)い臥(ふ)し、足もとに這い臥して泣き悲しみました。そして、その涙から泣沢女神が生まれました。
 古事記には、[御涙(みなみだ)に成りし神は、香山(かぐやま)畝尾(うねを)の木(こ)の本(もと)に坐(いま)す、名は泣沢女神。]と記されています。
 〈注〉香山  : 奈良県桜井市西方の天香具山
    畝尾の木の本 : 「畝尾」は丘の高い所。木の本は地名。
    泣沢女神 : 畝尾都多本(つたもと)神社の祭神。

▼そこで、大和三山のひとつ、香久山(地元ではこのように表記するそうです)を訪ねてみました。山の西側ふもとの藤原宮跡に奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部資料室があり、その北隣に畝尾都多本神社がありました。神社には本殿がなく、拝殿越しに「啼澤女命(なきさわめのみこと 古事記では泣沢女と表記されていますが、日本書紀ではこのように表記されます)」の石標があり、その奥に井戸がまつられていました。水神であることがわかります。また、山のふもとには、集落があり、田畑が広がっていました。

畝尾都多本神社(左奥にご神体の井戸がまつってあります)
▽以上から、かつてわがふるさとにあったとされる「大野神社」に「泣沢女神」をまつるようになった由来を考えてみたいと思います。
@泣沢女神が涙から生まれたということ、泣沢女神をまつっている畝尾都多本神社の御神体は井戸であること、沢女は語源的に雨に通ずる水神であるとされていることなどから、農業生産を左右する水に対する強い信仰が感じられます。
A泣沢女神がまつられているのは香久山のふもとですが、大野神社があったとされる小字「大野」も小高い丘(「庚申山」とよんでいる)のふもとにあり、地形的な共通点がみられます。大野の「野」は、私たちは広々とした平野をイメージしますが、古くには山の裾野を指したようです。
B以上のように、水神の信仰をもとに古事記の伝承が着目され、わがふるさとにも泣沢女神がまつられるようになったのではないでしょうか。それにしても、古代の中心地大和とわがふるさとをつないだのは誰だったのでしょうか。No.10でもふれた「小野高景」なる人物やその一族と関係するのでしょうか。古代のロマンを感じます。

10 【 「牛位」という小字名 2007/2/11
▼扇央の上部にかつての集落があり、その近くに大野神社があったとされ、「大野」という小字が残っていることにはすでに紹介しました。その近くに「牛位(うしくらい)」という小字があります。ここは、扇央の旧河道に開かれている水田や雑木林を含む地域です。この地名には、どんな意味が込められているのでしょうか。

▼まず、「うし」について考えてみたいと思いますが、すぐに思いつくのは当市の南部が生誕地とされる継体天皇の父君として有名な「彦主人王(ひこうしおう)」です。ここにヒントがあるとすると、「うし」は「主人(ぬし)」を意味していると考えられます。古事記にも「和豆良比能宇斯能(わずらひうしのかみ)」がでてきますが、「古事記(上)−上巻−全訳注 次田真幸〈講談社学術文庫〉」には、[「うし」は「主」と同じく、支配する者の意]という注釈が付けられています。

▼また、「位」についても、古事記には有名な天孫降臨の場面で「天の石位(あめのいわくら)」という表現があり、「石位」は神の鎮座する岩の神座(かみくら)を表しているとされています。ここに「位」についてのヒントがあるように思います。

▼以上のことから、最初に扇央の旧河道を開墾し、領有していたとされる「小野高景」なる人物(「百瀬川扇状地−開発と水利」参照)やその一族が、ここに居住していたことを示しているのかもしれません。全く手がかりがない上での推理ですが、この人物のルーツを探ってみたくなります。


bX 【 「南馬場」という小地名 ★new★ 2007/2/2
▼いままでに何回か、ふるさとの小字名の由来などについて思いを巡らせてきました。今回も、「南馬場(みなみなんば)」という小地名について考えてみたいと思います。この地は、明治の小字名の整理統合まで扇端にある集落のすぐ山側にありましたが、現在は、「杉木」となっています。「スギ」と発音する地名は砂礫地を意味し(N0.2参照)、「ババ」も砂礫地を示す地名であるとされます。ちょうど扇央の旧河道に開かれた水田の南側にあるので、砂礫が堆積した地として「南馬場」とされたと考えることができます。しかし、「バンバ」という発音とNo.7で述べたようなオットーのこだわりから、信仰の面からもうひとつの可能性をさぐってみたいと思います。

▼まず、扇状地に開かれたわがふるさとには、水の神や山の神の信仰がありました。また、日本古来の祖霊信仰と仏教が習合して生まれた山中浄土観をもとに描かれた仏画「山越阿弥陀如来図」を彷彿とさせる景観があります。さらに、氏神様には阿弥陀如来座像がまつられていいます〈これについては、「扇状地と信仰」および「百瀬川アラカルトNo.3」、「ふるさとアラカルトNo.7」ですでに紹介しました〉。

▼今回問題にしている「馬場」という地名について信仰との関係で探してみると、山岳信仰で有名な白山や立山のふもとにいくつか見ることができます。そこで、「日本の聖地〈久保田展弘著 講談社学術文庫〉」で調べてみると、[越前を流れる九頭竜川、加賀を流れる手取川、美濃平野を流れる長良川、それぞれの流域、源流域に人々の祈りを受けていた川の神の信仰、山の神の信仰は・・・白山信仰に統合されていくのである。]と、水神・山神の信仰と白山信仰との関係が述べられています。また、越前・加賀・美濃それぞれに「馬場(ばんば」)と呼ぶ霊山への登拝口があること、その中でも比叡山天台と組んだ越前馬場が武力を誇示し勢力を広げたことなど、天台宗や日吉大社と山岳信仰の広がりの関係についてもふれられています。

▼さて、わがふるさとには、山岳信仰に直接つながるものは見当たりませんが、日吉大社と関わって間接的な影響が考えられます。すでに、1339年に氏神様の日吉神社に日吉大社からその祭神である大山咋神が勧請されたことは、「扇状地と信仰」でふれましたが、ここではもう一つの事実についてふれたいと思います。
@日吉大社には、天智天皇の大津京遷都にあたって大和国の三輪山にある大神(おおみわ)神社よりその祭神である大己貴神(おおなむちのかみ)が迎えられていてます。
A本地垂迹説においては、大己貴神は大己貴権現という仮の姿で現れますが、本当の姿である本地は阿弥陀如来とされています。比叡山天台の影響が大きかった白山においても、3つの峰のうちの一つ、大汝峰(おおなんじがみね)の権現は大己貴権現で、本地仏は阿弥陀如来とされています。
B氏神様の日吉神社には、阿弥陀如来座像がまつってあります。

▽扇状地における水神や山神の信仰と日吉大社との関係等を合わせると、山岳信仰から何らかの影響があったと考えることもでき、そこから「南馬場」の地名も関係づけられないでしょうか。つまり、扇端の集落から「山越阿弥陀如来図」を彷彿とさせる西方の山に向かう2本の道のうち、南の道の起点付近が「南馬場」と名付けられたと考えることはできないでしょうか。

bW 【 神社にある能面 】 2007/1/22
▼わが氏神様には、「おかげ」とよぶ面があります。両端の真ん中あたりに小さな穴が開けられていて能面と思われますが、端の方が割れているので和紙をはって何回も補修・補強を繰り返したようすがうかがえます。この面が登場するのは、年1回、11月8日の「山の神神事」の日に三宝にのせられて飾られます。

▼オットーは、「おかげ」の存在を聞いたとき、じっくりと見ないままに、醜いといわれる山の神は自分より醜いものを好むといわれて「オコゼ」や醜い面を供える地域があるということと関わるのではないかと考えました。しかし、この面はなかなか端正で、「尉(じょう)」とよばれる男性の老人の面のように見えます。そこで、この面の由来を年配者に聞くと、かつて諸戸(もろと)とよばれた家々が1年交替で神主当番を務めていた時代には、山の神の日に行われた当番の交代の時にこの面を引き継いでいた(引き継ぎ式を「おかげ渡し」とよんだ)そうです。しかし、「おかげ」とよぶ面そのもののいわれは伝わっていません。

▼そこで、信仰と能面の関係を調べてみました。No.7で紹介した「仏教民俗学〈山折哲雄著 講談社学術文庫〉」につぎのようなことが述べられています。死者の霊魂は山にのぼっていきますが、はじめは荒魂(あらみたま)と呼ばれる危険な亡霊の状態であり、供養と祭祀をへて和魂(にぎみたま)と呼ばれる浄められた祖霊になります。さらに一定の時を経て、祖霊は自然と神の地位まで上昇し、山の中に鎮まっていると信じられました。そして、この祖霊や神が季節に応じて(盆や正月に)里に降りてきて村人を祝福する性格をもっていると考えられ、やがて山の神や田の神、歳神(としがみ)、氏神、土産神(うぶすながみ)などとしてまつられるようになったそうです。

▼このように考えると、村人を祝福するために村を訪れてくる神は祖霊つまり死者の生まれ変わりであり、年老いた姿をしているのは自然なことです。山折氏は、[古い時代の神像の多くが翁の姿で現れてくるというのが、たんなる偶然でなかったということに気づかされよう。それどころか日本のカミは、むしろ翁としてこの世に登場する運命をはじめから背負ってきたとさえいえるのである]と述べておられます。オットーのふるさとの神社のある「おかげ」とよぶ面からも、わたしたちの信仰に祖霊信仰が大きな部分を占めていることを知ることができます。

bV 【 「山越」という小字名 】 2007/1/19
▼扇状地の扇端にあるオットーの集落から扇央に細長く開かれている水田地帯を西に向かって上っていくと、扇頂には小字「蛇毛」があることは、「百瀬川アラカルトNo.4」で紹介しましたが、それに並んで「山越(やまのこし)」という小字があります。今回は、この地名について考えてみたいと思います。

▼まず、この場所が山のふもとにあることから「山の腰」と解釈するのが最も自然であると考えます。このように考えれば一件落着ですが、オットーが地名や信仰、民俗などにこだわったってきた理由のひとつは、「ふるさと」を切り口として古い時代の日本人の精神性をのぞいてみたいという願いがあるからです。 そこで、この趣旨と「山越」という表記にこだわって別の面から考えてみたいと思います。ここでは、宗教学者の山折哲雄氏の著書「仏教民俗学〈講談社学術文庫〉」をもとにしました。

▼仏教では、日本人の極楽・浄土思想をもっとも具体的にあらわしたものが「阿弥陀来迎図」という仏画であるとされていますが、そのほとんどが山岳を背景にしたものであり、それは阿弥陀如来が菩薩をしたがえて雲に乗り、山の斜面を地上に向けて降りてきて、臨終者の魂を迎えにくるとされているからだそうです。山折氏は、阿弥陀如来と山の結びつきについて、
@仏教が伝わる以前から、山は死者の霊がのぼったり(地上を離れてから山をとりまく霧や雲へと高くのぼっていったり)、神話が示すように天上の神が降りてきたりするる聖地であった。そこで、祖先は山に向かうとき、たんなる自然景観とは考えず、神霊や祖霊(祖先の霊)がこもる聖域として心を正し身を慎んで仰ぐべき対象と考えてきた。
A仏教以後においては、インド人が西方はるか彼方にあるとしていた浄土を、日本人は生活圏をとりまいている山の中に存在すると考えた。
の2点をあげて、外来の仏教が日本の土着的な信仰と融合して西方浄土観にかわって山中浄土観が成立した(平安中期)と指摘されています。

▼そして、このような背景から生まれたのが「山越阿弥陀如来図」(京都・永観堂禅林寺のものが有名)であり、この仏画には2つの山の間の山の端に阿弥陀如来が描かれています。同書の口絵には、「山の端に沈む夕日は西方浄土の輝きを暗示している。山の端に阿弥陀如来があらわれるとき、日本人は魂ののぼるところを知る」と解説されています。オットーも禅林寺を訪れてみました。国宝である実物は、東京の国立博物館に保管されているとのことで、複製が展示されていました。阿弥陀如来の両手それぞれの指先からは、臨終者と結ぶための5色の糸が垂れ下がっていました。臨終を迎えることを俗に「お迎えに来てもらう」といいますが、このことが鮮やかにイメージできることに感動しました。

▼さて、この仏画を拝観して改めて「山越」の方向をながめると、ちょうど谷間の奥に丸い山が見え(写真右)、「山越阿弥陀如来図」のイメージが浮かび上がってきました。実は、わが氏神様である日吉神社にも阿弥陀堂があり、阿弥陀如来座像がおまつりしてあります。ここから、かつて神仏が習合して生まれた本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ 仏教の仏が本来の姿=本地ではなく、仮の姿をとなって現れた姿=垂迹が神であるという考え方)のもとで阿弥陀信仰が盛んであったことをうかがい知ることができます。「山越」という小字名をもとにして祖先の信仰の一端にふれることができ、オットーの願いもかなえることができました。



bU 【 ふるさとの2つの神社 】
▼オットーのふるさとには、集落の中央部に氏神である「日吉神社」がありますが、もう一つ、式内社「大野神社」の3つの論社のうちの一つとされている神社が扇央部にあったと伝えられていることは、すでに「扇状地と信仰」のページでお伝えしました。ここでは、2つの神社がつくられた場所やその背景などについて考えてみたいと思います。

▼そこで、神社の歴史を調べてみると、古い神社には祭神をまつる本殿はなく、神奈備(かむなび)または三諸(みもろ)とよばれる山や磐座(いわくら)とよばれる石、神籬(ひもろぎ)とよばれる木に神が宿ると信じられていたようで、自然を崇拝していたことがわかります。

▼まず、伝承の大野神社ですが、詳しい位置は伝わっていません。しかし、大野という小字名がちょうど「庚申山」とよぶ小高い丘(写真左下)の麓の北側から東側にかけて残っています。このことから大野神社の位置やその背景を考えてみると・・・
@1338年に百瀬川の氾濫で流されたという言い伝えがあるので、山の麓にあったことが想像されます。また、オットーより少し年輩のY.Sさんは、父親から「庚申山は神様が宿っているので頂上の松の木は切ってはならない」と教えられたそうです。このことから庚申山を神奈備として、北側または東側から望む地に神社がつくられたことが考えられます。
A大野神社の祭神は「泣沢女(ナキサワメノ)神」であることは「扇状地と信仰」のページでお伝えしましたが、古事記にはあの有名な飛鳥の香具山にまつられていると記されています(詳細は、No.11で紹介)。従って小高い「庚申山」を香具山に見立てたとも考えられます。このように考えるのは行き過ぎかもしれませんが、この地の開発者(小野高景なる人物といわれています)が飛鳥とどんな関係があったのかという興味につながってきます。
B磐座については、自然の大きな岩だけでなく、人の手によって運ばれた小さな石を磐座としてまつる例も多くあるそうです。庚申山にも頂上に、いちばん大きなもので長辺が1m程度の自然石が置かれています。現在では庚申塔と伝えられています。

▼一方、現存する日吉神社(写真右下)は、1338年に百瀬川の氾濫で大野神社の祭神が流れ着いた地であると伝えられていますが、ほかにもいくつかの可能性をあげてみると・・・
@かつては、ケヤキやタブの大木が繁っていました。昭和36年の第2室戸までの数度にわたる台風で自慢の大木が倒れてしまいましたが、いまでもかなり大きな木が残っています。このことから神籬としての大木があった森が選ばれたと考えられます。
A庚申山から見るとちょうど真東からほぼ30度南に寄った方角にあたります。このことは、自然、特に太陽を崇拝していた人々にとって大きな意味があります。つまり、冬至の日の出の方向であり、冬至が太陽の復活する日であることとつないで考えれば、百瀬川の氾濫からむらが復活することを願うという意味が込められているのかも知れません。
B庚申山には庚申塔と伝えられる石があり、庚申信仰には、庚申待ちといわれる日の出を拝む風習があります。また、庚申山には、「ふるさとアラカルトNo.4」で紹介した金鶏伝説があますが、非常に古い時代には冬至の日から太陽が復活する、つまり新しい年が始まると考えられていたそうです。これらのことをAと合わせて考えると、冬至の日の出の方向に新しい社を建ててむらの復活・再生を願ったということも考えられます。


神奈備(かむなび)山と考えられる庚申山

神籬(ひもろぎ)と考えられる日吉神社の森

bT 【 市町村合併と分村 】 2006/11/15
▼平成の大合併では全国で様々な話題がありましたが、その一つが長野県木曽地方の南の玄関口であった山口村が隣の岐阜県中津川市と合併した、いわゆる越県合併です。昭和の大合併の際にも同様の動きがあったそうですが、いずれにしても生活圏として中津川市とのつながりが深いという実態があるようです。

▼規模の違いがあるとはいえ、一集落が別の村や町に合併(分村合併)を求める動きもあります。実は、オットーのふるさとの集落、大沼も、昭和の大合併を前にした昭和28(1953)年に、隣の行政村への合併を求めたことがありました。つまり、百瀬村(合併後に旧マキノ町となった)の南端に位置した大沼が、南隣の川上村(合併後は旧今津町となった)への編入を要望したのですが、望みは叶えられませんでした。

▼ところで、この背景を考えてみますと、共同体としての日常生活のつながりの深さが考えられます。扇状地にある集落は、北から百瀬村の新保(右図S)・中庄(N)・大沼〔0〕と川上村の深清水(F)の4つでしたが、祭礼(川上祭)の実施と神社の護持、祈祷寺の護持、共有林の所有・管理などにおいて全て異なった組合せ(グループ)になっています。しかし、分村を求めた大沼は、全てにおいて隣の行政村の一集落である深清水と同じ組合せに属しています。この理由を考えると、農民にとっていちばん重要である水利権の問題が浮かんできます。つまり、扇状地の扇端にある集落のうち扇央に水田をもつものは、大沼と深清水であり、共同で百瀬川から農業用水および生活用水を確保してきました(現在も、共同で頭首工を設置し、管理しています。「開発と水利」参照)。このことから農村生活維持のための結びつきの深さが重視されたことが考えられます。

▽当時、この分村合併要望の件は新聞にも報じられ、小学校低学年であったオットーも転校などの問題があるのではないかと不安でいっぱいでした。一方、大人たちは、誓約書を書いて意思統一を図り、運動を進めました。この件の他にも集落(区)の運営を見てみますと、重要な物事を決定するにあたっては区民が「誓約書」に署名する手法がつい最近まで見られます。これも、事あるときは氏神様をまつった鎮守の森に集まって一味同心の水を味わい、連判状を書き、連帯責任のもとで命をかけて御代官様に物申したという伝統が受け継がれているように思えてなりません。そういう意味でも、オットーが生きてきた世界(俗にいう「民主的」という考え方と、その下での権利と義務などの「契約」に対する考え方)との違いを感じますが、時をこえて血が脈々と流れていると考えると感慨深いものがあります。


bS 【 金鶏伝説(きんけいでんせつ)  2006/11/5
▼「ある場所に金の鶏が埋められていて、正月元旦の朝に鳴き、村が衰退した時にそこを掘ると元通りになる」という話は全国的に数多くあり、金鶏伝説と呼ばれます。この言い伝えは、時代を経て一部が消えたり、付け足されたりされたりして、地域によって少しずつ違うようです。

▼金の鶏などが埋められているとされている場所は、古墳や経塚などの塚が多く、寺院や神社境内にある井戸や築山、木の下などが続き、山・池・大石・谷・野原・森などもあるようです。また、埋納されていると伝えられているものは、つがいか一羽の金鶏が多く、金鶏の変化したものとしては、金の茶釜や鳳凰・獅子・馬・鈴等のほか、大判小判や延べ棒などもあるようです。

▽さて、オットーのふるさとにも、「元日の朝になると、庚申山に金の鶏が鳴く」という言い伝えがあったそうです。場所は、扇央上部にあって庚申塔がまつられている庚申山という小高い丘です。(「扇状地と信仰」を参照してください。)

▽このことから、ふるさとの歴史と関わる何らかのヒントがあることを示しているのかもしれません。かつて、区民は春になると種もみをまくために必要な土をこの山で採取していましたが、山の中から土器が発見されたこともあるそうです。このことから、古墳があったことが考えられます。また、ここはかつて神社があったという言い伝えがあり、何らかの祭礼が行われていたことなども考えられます。
*全国には、こうした伝説が参考となって古墳等の発見につながった例もあるようです。

▽他にも、庚申塔との関係も考えられます。庚申の日である申(さる)の翌日は酉(とり)であり、鶏は暁を告げ、時刻を知らせる動物として親しまれていることから、夜を徹して行われた信仰と関係づけられるかもしれません。


bR 【 琵琶湖西岸断層と小地名−その1   2006/10/27
▼近い将来、M7.8の大地震をひきおこすおそれがあるといわれている活断層(かつだんそう、断層活動を繰り返して大地震をおこすおそれのある断層のこと)の琵琶湖西岸断層帯は、扇頂を少し下った扇央上部を通っています。このことは、国土地理院刊行の都市圏活断層図「熊川」で確認できます。

▼ただ、大沼付近では、過去の断層によってできた傾斜地やがけは明確に確認できません。その理由は、@ゆるやかな撓曲(とうきょく、たわみのこと)となり、地表付近でははっきりした段差ができなかったこと、A百瀬川が氾濫を繰り返して地表が土砂で埋まってしまったこと、B扇央にある水田は、昭和50年代にほ場整備が行われ地表がならされたこと、などが考えられます。

*百瀬川の北側や深清水では、比較的明確に撓曲が確認できる場所があります。また、百瀬川から南北に4q程度離れた地点では、それぞれで地面を掘って地下の地層がずれているようすを調べる調査(トレンチ調査という)で確認されています。

▼しかし、ほ場整備が行われる前には、扇央の水田の中にかなり急な傾斜が見られ、石垣を積んで崖崩れを防いでいたところもありました。また、このことを表していると思われる「高回り」や「坂ノ下」のような小字名も残っています。
 さらに、扇央の雑木林の中に開発された宅地の中には、周囲と比べて明らかに道路の傾斜が急になっているところがあります。そして、その近くには「クボセ」とよばれていたところがあり、かつて百瀬川が断層によってできた傾斜地を流れ落ちていたことが想像できる地名です(「窪瀬」と充てることができるではないでしょうか)。

▽オットーも、最近、「区民の集い」として行ったウォークラリーで、年輩の方から「クボセ」の地名を聞き、思わず手をたたきました。このような小地名は、伝えられずに忘れ去られようとしています。いまこそこれらを発掘して、伝えていくことが大切ではないでしょうか。


*「百瀬川アラカルトNo.1」にも「琵琶湖西岸断層と小地名−その2」があります。

車の辺りが傾斜の急なところ(下から上を望む)
家が見えているあたりから右が「クボセ」


bQ 【 扇央の小字名 】 2006/10/24
▼扇央のほぼ中央部に、「中休場」と表記する小字があります。「なかやすみば」と読むことからかつての生活の一面がうかがえます。
  しかし、「休場」を「やすば」と読めばもう一つの可能性も考えられます。

▼まず、「なかやすみば」について考えてみたいと思います。かつては、家庭用の燃料にする柴(しば)や肥料として水田にすきこむ草(「ホトロ」とよんでいました)は、近隣の集落と共有する山からとっていました。その場所は、大きく分けると2つの谷になり、一つは百瀬川上流の「川原谷(かわらだに)」で、もう一つは扇頂付近で百瀬川を渡って北へ入る「清水谷(きよみずだに)でした。
 重い柴や草を背負って帰る途中に、「休み場」とよぶ休憩場所が2カ所あったそうです。一つは扇頂の少し下で2つの谷からの道が合流する地点、もう一つはそこから集落側へ下がったところで、「中休場」は、後者のあたりに残っている小字です。
 「休み場」は、荷物を下ろしたり、背負ったりしやすいように石積みになっていたそうですが、後者の石積みは宅地造成で壊れてしまい、前者には右の写真のように石が散在し、かろうじてその面影が残っています。


「休み場」の跡(いまは石が散在しています)
▽休み場の石が散在している現状をどうするべきか、オットーも気になります。いまの時代に生きるものが放っておけば永久に忘れ去られるであろうことが明らかであるだけに。

*田の肥料にする草の採取は「ホトロ刈り」とよび、5月から6月ごろに期間が決められていたようです。特に、開始の時期を「ホトロ開き」とよんだそうです。また、燃料としての柴は、夏の間に枝を切っておいて、秋に葉が落ちてから家へ持ち帰ったそうです。

▼つぎに、「やすば」について考えてみます。〈ヤスバ〉と発音するところは、砂礫地(されきち)や元の河原、旧河道などを意味するので、「中休場」は扇央にある小字名としても十分考えることができます。また、〈ヤスバ〉と同じ意味を持ち、〈カワラ・スギ・シロ〉と発音する「中川原」・「杉木」・「白石」などの小字が、「中休場」から扇端の集落にかけて続いています。

▽ちなみにオットーの住所も、小字杉木になっています。

【参考資料「地名について」】
*小字などの地名は、現在は漢字で表記されていますが、もともとはアイヌ語や古くからの日本語などの発音やそれが転訛(てんか、なまること)したものが伝えられ、後に同じ発音の漢字があてられたものが多くあります。そのため、漢字の意味にとらわれると地名の正しい意味がわからないくなるといわれています。いまでもひらかなやカタカナのまま表記される小字も見られます。



bP 【 「大沼」という地名の由来 】 2006/10/22
開発と治水」や「扇状地と信仰」のページで述べたように、大沼の集落は、扇央上部の地「大野」から扇端の地に移ったと伝えられています。そして、神社は「大野神社」から「日吉神社」に改め、「大野」を「大沼」に改めたようです。

▼「大沼」という集落名からもわかるように、扇端にできた集落から琵琶湖にかけては、伏流水がわき出して低湿地になっていたようです。それは、〈サワ・ヒロ・フダ・フケ〉と発音し、低地・湿地・沼地・泥深い田を表す「大沢」・「弘町」・「広町」・「深田」・「札ノ東」などの小字名や、〈イケ・ショウズ〉と発音し、水路・池を示す「志水本」・「小池」などの小字名が多く見られることからもうかがえます。また、南隣には「深清水(ふかしみず)」とよぶ集落があります。


▽オットーは、「大沼」という地名の由来について、大きな沼があったからではないかと単純に考えていました。しかし、当初、集落があった扇央の地が「大野」であり、後に、移住した扇端の低湿地に面した地を「大沼」とした、と考える方が自然であるような気がします。

【参考資料「大字と小字について」】
*かつては、それぞれの田畑や山林、宅地などに地名がつき、これを(あざ)とよんでいました。しかし、明治時代になって数が多すぎるので字のよび名や数が整理されました。さらに、明治の中頃に江戸時代からの藩政村(はんせいむら)とよばれる「ムラ」をまとめて新しく行政村(ぎょうせいむら)とよばれる「村」ができました。そして、かつての「ムラ」は大字(おおあざ)とよび、字といわれていたものは「小字」とよぶようになりました。

▽オットーのふるさと「大沼」の呼び名は、つぎのように変化しました(おもなものだけをあげました)。
   〈江戸時代〉 近江国高島郡大沼
 →〈明治22年〉滋賀県高島郡百瀬大字大沼 
 →〈昭和30年〉滋賀県高島郡マキノ町大字大沼 
 →〈平成17年〉滋賀県高島市マキノ町大沼

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