矢沢頼綱(やざわ よりつな) 1518〜1597 
○海野氏? 真田氏 源之助 頼幸 綱頼 薩摩守
◇父:真田右馬介頼昌? 室:根井豊前入道清雲女 子:矢沢但馬守頼康(頼貞、頼棟?)、頼邦、山田与惣兵尉?
 甲斐・武田氏臣。兄
真田幸隆を助け、真田家重鎮として活躍。1575年甥昌幸が家督を継ぐと、上野・岩櫃城を攻略、その城代となる。以後も諸戦を戦い、周辺地域を攻略した。1585年北条氏邦が沼田城に侵攻した時は、よく守ってこれを撃退。80歳で没。
安田顕元(やすだ あきもと) ????〜1580
○惣八郎 掃部助
◇父:安田越中守景元 弟:安田弥九郎能元
 本姓毛利氏。景元二男。越後・長尾(上杉)氏臣として信濃の防備を担って飯山城を守る。御館の乱では
景勝を支持、景虎を自殺に追い込む。乱後、新発田重家等の恩賞問題に責任を感じ切腹する。
安田長秀(やすだ ながひで) ????〜????
○治部少輔
◇父:安田但馬守実秀? 子?:安田筑前守堅親
 越後守護上杉氏、守護代長尾氏に仕える。1561年川中島の合戦で功を挙げ、いわゆる血染めの感状を受けた1人。御館の乱では
景勝に味方した。新発田重家等攻略中亡くなる。
梁川宗清(やながわ むねきよ) ????〜1604
○伊達氏 左衛門 鉄斎
◇父:
伊達稙宗 子:白石宗直、村田宗友
 出羽・伊達氏一族。1552年陸奥・伊達郡の梁川城に居して梁川氏を称する。羽柴秀吉による奥州仕置にて、当主政宗が岩出山に移ると、宗清も梁川城を離れた。
山浦国清(やまうら くにきよ) ????〜???? 
○村上氏 源五 景国
◇父:村上義清 室:
上杉謙信養女(朝倉義景女) 子:山浦織部助幸清 養子:山浦(会田)高国
 村上氏は信濃の土豪だが、甲斐・武田氏に逐われて越後・長尾(上杉)氏臣となる。上杉一門衆山浦氏を継ぎ、重臣に列した。主に越中、能登方面で戦っている。1598年上杉氏の会津移封に伴い、塩之森城代となった。後に上杉家を辞去し、京で没。
山角定勝(やまかく さだかつ) 1529〜1603
○定助 政長 紀伊守
◇父:山角定吉 兄:山角康定 子:山角政定、盛繁、長定、正勝
 山角定吉三男。相模・北条氏の評定衆。小田原開城後、当主
氏直に従い高野山に登る。翌年氏直が死ぬと、井伊直政に召し出され相模に封を得た。
山県昌景(やまがた まさかげ) 1529?〜1575 
○飯富氏 源四郎 三郎兵衛尉
◇子:山県源四郎昌満、上村左兵衛昌久 養子:
山県善右衛門(三枝守友)
 甲斐・武田氏の四名臣の1人。兄(実母弟とも)飯富虎昌が謀反を起こそうとした際には、これを当主信玄に知らせて信任を得た。その後、譜代の名家で誅絶していた、山県河内守虎清の跡を継いだ。軍装を赤で統一した部隊を率いて、諸戦で戦功を挙げ、駿河侵攻後は駿河・江尻城代となる。特に城攻の短期決戦はお家芸との定評があった。また軍事だけではなく、内政、外交等あらゆる面で手腕を発揮した。三方ヶ原の戦いでは先鋒を務めて徳川軍を攻撃、家康に死を覚悟させた程の働きを見せる。信玄の信頼厚く、その死に呼ばれ“明日は瀬田の唐橋に旗を立てよ”と遺命されたという。しかし、長篠の合戦において自重を進言するが容れられず、敵中突撃して銃弾を受け、馬上にて戦死。
山崎片家(やまざき かたいえ) 1547〜1591
○源太左衛門 秀家 堅家 志摩守
◇父:山崎丹後守宗家 子:山崎左馬允家盛、本庄将監郷高、宮城右京進頼久、加藤百助
 宇多源氏庶流。近江・六角氏臣にて近江・犬上郡山崎城主だが、主君
六角義治に女婿を謀殺され出奔し、織田信長の旗本衆となる。本能寺の変時、安土の屋敷を焼き払って山崎に戻ったうえ、明智光秀に味方するが、程なく羽柴秀吉に仕えた。小牧の役、小田原の役にも従軍し、のち摂津・三田城主2万3千石を領す。
山崎長徳(やまざき ながのり) 1552〜1620 
○小七郎 庄兵衛 長鏡 閑斎 長門守
◇父:山崎七郎左衛門吉延 子:山崎長国、長郷
 越前・朝倉氏臣。主家滅亡後は
織田信長の将明智光秀に属す。本能寺の変に参加し、二条御所を攻撃した。山崎の合戦にも参加。光秀滅亡後は、越前に戻り、翌年柴田勝家の将佐久間安次に従い、賤ヶ岳の合戦に参加。後に前田利家、利長親子に仕え、優れた用兵を見せる。関ヶ原の合戦においては、西軍の山口正弘を加賀・大聖寺城に攻撃。戦後加増されて1万4千石を領した。大坂の陣にも参加。
山崎吉家(やまざき よしいえ) ????〜1573
○新左衛門尉 長門守
◇父:山崎長吉 弟:山崎七郎左衛門吉延 子:山崎肥前守吉建
 越前・朝倉氏家老として数々の戦いに参戦。尾張・織田氏の織田信治、森可成らの守る近江・坂本城攻めでは、これを打ち破り陥落させた。近江・刀禰坂の戦いで、敗走する朝倉軍の殿を務めて討死した。

山下長就(やました ながなり) ????〜????
○宇佐氏 和泉守 治部少輔
 豊後・大友氏の下加判衆を務める。周防・大内氏との戦いに参加。

山田有信(やまだ ありのぶ) 1544〜1609
○新介 越前守 民部少輔
◇父:山田有徳 子:
山田有栄
 薩摩・島津氏家老。九州各地の戦いに参加奮戦活躍する。筑前・岩屋城を攻略した際、城兵の投石に当たって気絶したところを、島津義弘に蘇生されたエピソードをもつ。豊臣秀吉の九州平定後に武勇を認められて大名に抜擢されるが、禄を返上して島津氏に忠誠を尽くした。
山田有栄(やまだ ありひで) 1578〜1668 
○千代太郎 弥九郎 民部少輔
◇父:
山田有信 子:山田有季、有隆
 薩摩・島津氏臣。関ヶ原の戦いにおいて、敗れた西軍についた島津軍が退却する際、大将島津義弘を逃がすため戦ったが、一行が路銀に窮した為、純金の愛刀を売って凌いだという。1629年出水地頭となり、家臣子弟の教育や産業開発に尽力した。
山名澄之(やまな すみゆき) ????〜????
○五郎 相模守
◇父:山名右馬頭之弘 子:山名豊興、豊隆
 伯耆守護山名氏傍流。出雲・
尼子経久の支援を受け、伯耆守護山名尚之と争い勝利、自身が同守護に就任した。しかし、所詮は尼子氏の傀儡としてその統制下に置かれたため、尼子氏の駆逐を図ろうとする。1524年経久に居城打吹山城を攻められて逐われ、伯耆守護山名氏は滅亡した。
山中俊好(やまなか としよし) ????〜???? 
○大和守
◇父:山中貞俊
 南近江・六角氏臣。近江・甲賀の名族。六角氏の下、功を重ねるが、やがて北近江・浅井氏に仕える。その後も
織田信長、羽柴秀吉と仕えたが、1585年改易されて帰農した。
山中成祐(やまなか なりすけ) ????〜????
◇子:山中成盛
 安芸・武田氏重臣。可部城主。安芸・三入の熊谷氏に攻められ降伏。父子共に首討たれた。

山中幸盛(やまなか ゆきもり) 1544〜1578
○甚次郎 鹿介 亀井氏
◇父:山中三河守満幸 室:
亀井秀綱女 子:山中新六幸元
 出雲・尼子氏重臣。山中氏は尼子氏の傍流。天に「我に七難八苦与えたまえ」と祈ったこと有名。1563年安芸・毛利氏の攻略を受けた際、その臣品川大膳と一騎打ちを行い、無事討ち取った。尼子氏滅亡後は、尼子十勇士の筆頭格として主家再興を謀り、尼子勝久を擁立して出雲に入国するも、毛利氏も激しい抵抗に遭い失敗。今度は織田信長の支援を受けて、因幡に侵攻するも再び失敗。さらに播磨・上月城の攻略に成功するが、毛利氏の猛襲の前に、織田氏から救援の余裕はなく降伏。護送中殺害された。
山内氏勝(やまのうち うじかつ) 1540〜1608
○俊勝 刑部大輔
◇父:山内舜勝
 会津・蘆名氏臣。会津・横川城主。陸前・伊達氏との戦いに度々参加した。1590年豊臣秀吉の奥州征伐の時、所領没収となり、出家して俊勝と号す。

山本晴幸(やまもと はるゆき) ????〜1561 
○勘介?菅助? 道鬼
◇子:山本勘蔵信共
 その存否を示す史料がわずかな幻の武将。三河の出か。隻眼跛行、丈低く、色黒の醜男だったという。全国を流浪して後、甲斐・武田氏重臣
板垣信方を介して信玄に仕え、知勇兼備の将として軍師になる。以後信玄の知恵袋として多くの献策を為した。また築城にも才を見せる。しかし、川中島の合戦では、進言した“きつつき戦法”の裏をかかれ味方は不利となり、責任を感じて戦死した。69歳。
山吉豊守(やまよし とよもり) 1541〜1577 
○孫次郎
◇父:山吉政応 弟:山吉景長
 越後・三条長尾氏臣として三条城を任せられる。
上杉謙信の側近として奏者を務める。外交折衝に手腕を見せ、1575年筆頭家老にもなるが、36歳で病死。
メイン