上杉景勝(うえすぎ かげかつ) 1555〜1623 
○長尾氏 卯松 喜平次 顕景 弾正少弼 権中納言 参議
◇父:
長尾政景 養父:上杉謙信 室:武田信玄女、四辻大納言公遠女 子:上杉左近衛少将定勝 養子:上杉(畠山)義真
 上田長尾氏政景の二男(兄夭折)であり、子のない謙信の養子となる。謙信死後、同じ養子で姉婿の景虎との争い(御館の乱)に甲斐・武田氏の援けを受けて勝利、家督を得る。後豊臣秀吉に降って朝鮮の役等に出陣、五大老の一人となって会津120万石を得た。関ヶ原の戦いの際には、西軍方として徳川家康と争うが、西軍敗北の報に降伏。米沢30万石に減封されるが、家臣は禄が減っても景勝の下を去ろうとしなかった。69歳で没。寡黙な質で、生涯に見せた笑顔は一度切りといわれる。
上杉景虎(うえすぎ かげとら) 1552〜1579 
○北条氏 国増丸 西堂丸 竹王丸 三郎 氏秀
◇父:
北条氏康 養父:北条長綱上杉謙信 室:北条長綱女、長尾政景女 子:上杉道満丸
 相模・北条氏康七男。甲駿相三国同盟成立の際には、甲斐・武田氏に人質として送られるが、同盟破綻後帰る。越相同盟が成立した際にも越後・上杉謙信の下に赴き、気に入られて養子となる。謙信死後、同じ養子の景勝と争い(御館の乱)、初め北条氏、武田氏の支援を受け状況は有利であったが、武田氏が景勝方についたことから不利となり、敗走。相模・小田原城に戻る途中立ち寄った鮫ヶ尾城で、城主堀江宗親の謀反に遭って自害した。享年28歳。なんでもかなりの美形だったとか。
上杉謙信(うえすぎ けんしん) 1530〜1578 
○長尾氏 虎千代 平三 景虎 輝虎 政虎 弾正少弼
◇父:
長尾為景 養子:上杉景虎景勝
 当主の兄長尾晴景と争って勝ち、越後守護代を譲られる。関東管領上杉憲政や信濃の諸豪族を援け、利よりむしろ義を通して各地を転戦し、相模・北条氏、甲斐・武田氏等の強敵と度々争った。特に武田氏との5度にわたる川中島の戦いは有名。又、2度上洛して天皇、将軍に謁見献納している。1561年上杉氏に改姓して、憲政より関東管領職を譲られた。一方北陸方面にも勢力を拡大して加賀能登を制し、1577年には織田信長軍を加賀・手取川に敗っている。兵の総動員を発して上洛を図るが、出陣を前にして49歳で急死。毘沙門天を崇拝し、一生不犯を通したといわれている義将。
上村頼興(うえむら よりおき) 1490〜1557
○上総介
◇父:上村頼廉 室:上村長国女 子:
上村頼重(相良晴広)頼孝、頼堅、長蔵頼定
 肥後・相良氏臣。肥後・上村城主。相良義滋の家督相続に際し、自分の長子頼重をその嗣子とする条件で協力して、影の実力者として君臨する。晴広、義陽の代にも相良氏を支え、大殿と呼ばれた。
上村頼孝(うえむら よりたか) ????〜1567
○左衛門大夫 頼吉
◇父:
上村頼興 子:上村頼辰
 肥後・相良氏臣。兄頼重(晴広)が相良氏家督を継いだ為、上村氏当主となった。しかし、兄が死にその子義陽が継ぐと、これに不満を持った。義陽を後見していた父頼興が亡くなると、弟頼堅、長蔵と共に謀反を起こし(三兄弟の乱)失敗、薩摩に逃れた。後に許され帰国したが、やがて殺される。
魚住景固(うおずみ かげかた) ????〜1574
○備後守
◇父:魚住景栄 子:魚住彦三郎
 越前・朝倉氏の一乗谷四奉行人の1人。1573年尾張・織田氏の近江攻略の際、出陣を拒否した。織田氏に降った後も所領は安堵されるが翌年、一向一揆と結んだ富田長繁に暗殺された。

宇喜多興家(うきた おきいえ) ????〜1536
◇父:宇喜多和泉守能家 室:阿部善定女 子:宇喜多直家、春家、忠家
 備前守護代・浦上宗景家臣。1524年父より家督譲り受け、備前・砥石城を継ぐが、1534年同じく宗景家臣島村氏に攻められ落城。父は自害し、興家等は脱出、その後備前・福岡にて余生を送った。

宇喜多直家(うきた なおいえ) 1529〜1581
○八郎 三郎兵衛 和泉守
◇父:
宇喜多興家 室:中山信正女、三浦貞宗室 子:宇喜多亀松、権中納言秀家
 祖父、父は備前守護代浦上氏家臣として備前・砥石城主であったが、直家幼少時に浦上氏家臣島村氏に攻められ落城。祖父は自害し、父と共に備前・福岡に隠遁するが、やがて再び浦上宗景に家人として仕え、旧臣を集めて宇喜多家を再興した。その後、謀略を駆使して舅中山信正、祖父の仇島村盛実等、諸城を攻略して備前、備中、美作に亘る勢力を築き、浦上家中最大の実力者となる。さらには、東方より進出してきた織田信長と結んだ宗景に対し、直家は安芸・毛利氏と結んで宗景から独立、1577年宗景を攻めて追放した。その後毛利氏と共に侵攻する織田軍と戦うが、後に織田氏に通じて今度は毛利氏攻撃に参加した。53歳岡山城にて病没。
宇佐美定満(うさみ さだみつ) ????〜1564?62? 
○駿河守 定行
◇父:宇佐美房忠 子:宇佐美左太郎定勝、民部勝行
 元上条上杉氏臣。越後・長尾氏との戦い(上条の乱)に敗れ長尾氏に従う。越後流軍学の祖といわれる。長尾政景との船遊び中転覆して溺死とも、相模・北条氏との戦いで討死ともいわれるが、はっきりしない。

氏家直元(うじいえ なおもと) ????〜1571 
○ト全 常陸介
◇父:氏家幸国?行隆? 子:氏家行隆(直通)、(荻野)内膳正行広、志摩守行継
 ”
西美濃三人衆”の1人。当初美濃・斎藤氏に従っていたが、尾張・織田氏の侵攻と共にこれに従う。その後各地を転戦、1569年の大河内城攻めでは、本多親康の軍と戦い首級36をあげたという。伊勢長島一向一揆討伐に柴田勝家らと参加し、全軍退却の際、殿軍となって奮戦したが、泥沼にはまり落馬して討たれたという。
梅北国兼(うめきた くにかね) ????〜1592
○宮内左衛門
 大隅・湯之尾城主として薩摩・島津氏に従う。豊臣秀吉の朝鮮出征の途上肥前平戸において、僚友伊集院元巣、
桂忠詮らと相談し反乱(梅北の乱)を起こした。加藤清正の治める肥後・佐敷城を陥とした後、城将境善左衛門の歓待を受け、酒に酔い寝込んだところを、善左衛門に討たれた。
梅戸実秀(うめど さねひで) 1537〜1568?
○次郎 左衛門大夫 高資?
◇父:
梅戸高実
 近江・六角氏一族。兄、父が亡くなると伊勢・梅戸城主となって伊勢・北畠氏に抗する。しかし、尾張・織田信長の数回に亘る伊勢侵攻に際し、1568年落城。このとき討たれたといわれる。
梅戸高実(うめど たかざね) 1502〜1561?
○六角氏 孫九郎 左衛門尉 左近大夫 治部少輔? 方実?
◇父:六角高頼 子:梅戸刑部少輔高宗、
実秀、高資? 養子:梅戸(土岐)民部少輔光高
 梅戸氏は、伊勢平氏冨田家資後裔であり、近江と伊勢を結ぶ要衝梅戸城主。近江・六角氏から入嗣し、北伊勢48家の1つとして、千種氏、春日部氏らと共に、伊勢・北畠氏の侵攻に抗した。
宇山久兼(うやま ひさかね) ????〜1566 
○久信? 大蔵丞 飛騨守
◇父:宇山久秀 子:宇山弥次郎(久信?)
 出雲・尼子氏筆頭家老を務めた忠臣。安芸・毛利氏郡山城攻め等の緒戦に参加し功多かった。もっとも毛利氏の出雲侵攻時の出雲・白鹿城救援に向かう際は、
山中幸盛立原久綱らの進言を無視して赴き、敗走している。月山富田城籠城中、私財をなげうって兵糧を買い込み尼子に尽くしたが、毛利氏に内通した疑いを受けて殺された。
上井為兼(うわい ためかね) 1545〜1589 
○諏訪氏 神五郎 神左衛門 中左衛門 覚兼 伊勢守
◇父:上井薫兼 弟:上井秀秋
 大隅・上井を領していた祖父諏訪為秋が1548年薩摩・島津氏に仕え、上井氏に改めた。
島津義久の奏者となり各地を転戦、筑前・高橋紹運を攻めたときには負傷している。豊臣氏の九州征伐に降ってからは隠居し、軍事や政治並びに和歌、詩歌について記述した「上井覚兼日記」や随筆「伊勢守心得書」を残した。
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