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呉錦堂と別荘、移情閣
まず、呉錦堂と移情閣について、説明しよう。
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右の呉錦堂の肖像画(還暦を迎えての記念写真)は、孫文記念館所蔵『續刻杜白両湖全書』より転載しています。その他、ここ第五部では、特に断り書きがない場合、(財)孫中山記念会発行の冊子、『孫文記念館』及び『呉錦堂』を参考にしています。 |
下の写真、建物左の八角形の部分が移情閣。明石海峡大橋を背景にしたこの景観は、2000年からのもので、それまでは、200米ほど東北にあった。大橋の建設に際し、一度解体し、00年、現在の位置に復原された。兵庫県が所有しており、01年、国の重要文化財に指定された。
明石海峡大橋の神戸側袂に移情閣はある。地元では、「舞子浜の六角堂」といって親しまれてきた。八角形三層の楼閣であるが、横の面は視覚に入らないから六角と見えるのだ。
移情閣の創建者呉錦堂(本名は作鏌)は、1855年に中国浙江省寧波府慈渓県(現在の慈渓市)に生まれ、1926年、神戸で亡くなった。2005年は、呉錦堂が生まれて150年目にあたり、故郷の中国浙江省慈渓市と第二の故郷の神戸で盛大な生誕記念行事が催された。
呉錦堂は日清戦争の少し前、1890(明治23)年、35歳のとき、神戸にやってきた。それから30余年、彼は神戸と上海・寧波など海を挟んだ二つの地域を拠点として貿易、海運から製造業へと事業を広げ、活躍した。また彼は、こうした事業を展開しつつ神戸で孫文らを迎え、交流を深めた。
呉錦堂は、神戸と寧波(慈渓)という二つの故郷で水利事業や学校建設、災害時の義援金の拠出など社会事業の面でも大きな仕事をなしとげた。また、移情閣を飾るたくさんの扁額は彼の豊かな教養と文化人との交流の跡を示している。神戸華僑社会の基礎を形成した人物の一人として呉錦堂は、同時に華僑と神戸市民との間に太い絆を築き上げるうえでも大きな役割を果たした。
移情閣がまだ建っていなかった1913(大正2)年3月14日、この、呉錦堂の別荘(松海別荘)で孫文歓迎昼食会が開かれた。下の写真は、その時のものである。
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前列、向かって右から二人目瀧川辨三、四人目宋嘉樹(宋慶齢の父)、
五人目呉錦堂、六人目孫文 後列、左から三人目 呉啓藩(呉錦堂の長男) |
このような縁もあって、現在、財団法人孫中山記念会が、上のカラー写真の建物の全体を孫文記念館として使用している。私は、ここに、02年4月から3年間、記念会職員として勤務した。
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