第五部 呉錦堂-神戸と中国-
3.呉錦堂の神出、小束野(こそくの)開拓

呉錦堂屋敷跡に立つ「かんでかんで」

 呉錦堂の小束野(こそくの)開拓の話をするのに、今の小束野のことから話そう。
 村の古老の話では、昭和10年ごろまでは、雌岡山(めっこさん)の北西の山すそに、白壁づくりの、まるで酒蔵のような大きな呉錦堂屋敷が残っていたという。現在、この地に、農産物直売所やレストランをもった兵庫楽農生活センター「かんでかんで」ができている。特に、下左の写真に8角屋根の建物が写っているが、
これは
移情閣を模して作ったとのことである。
 村おこしにまで担ぎ出され、あの世で呉錦堂も苦笑していることだろう。


いなみ野台地

呉錦堂が開拓事業を行った今の神戸市西区神出町は、いなみ野の東北端に位置する。西を流れる加古川、北を流れる美嚢川(みのがわ)、東を流れる明石川に囲まれ、南の播磨灘の浸食作用によって形づくられた地域がいなみ野である。台地で、しかも瀬戸内の少雨気候のため、古くより農業用水には苦労してきた。この地域には、小さなものを除いて二百数十のため池がある。加古大池、天満大池などがその代表で、特に、加古大池は、香川県の満濃池(まんのういけ)、大阪府の狭山池に次いで全国3位の規模である。
 下の地図(webサイト「ため池の基礎知識」より転載)を見ると、この地域の高低が非常によくわかる。
今、話をしようとしている神出の小束野は、この地図の右上の角に位置する。

いなみ野ため池群 加古大池

これら溜池の水源として重要な役割をはたしてきたのが淡河川(おうごがわ)疎水と山田川疎水である。呉錦堂の時代、両疎水とも加古川の支流、美嚢川の上流から取水していたが、現在は、淡河川疎水の一部と山田川疎水は東条川にできた大川瀬ダムから給水されている。

淡河川疎水 山田川疎水
御坂サイホン、山に上がってくる疎水 手前、高台にある池に水を押し上げる広野揚水所
明治24年完成。25年の豪雨で壊滅的被害を受ける。27年、全線復旧。琵琶湖疏水(京都)、安積疎水(福島)とともに“三大疎水”に数えられる。御坂サイフォン、芥子山隧道などの難工事があった。 大正4年、幹線工事竣工。8年、各支線及び溜池全部工事完成。広野の合流地点で、淡河川疎水より十数メートル水位が高い。このことが小束野開拓に非常に重要な意味を持った。

呉錦堂の小束野開拓

  呉錦堂の小束野開拓について、詳しくは、このHPのトップ画面、「呉錦堂を語る会通信」をクリックしてください。
 呉錦堂は、明治41年(1908年)、明石郡神出村小束野(総面積190町歩余。昭和22年、神戸市に編入)に133町歩余の土地を購入した。


  当時、小束野は、現在のR175沿いに2、3の農家があっただけで、ほかは雌岡山(めっこさん)のふもとまで(松樹の)山林であった。その後、大正5年(1916年)から、10年かけて約65町歩を開田した。呉錦堂は購入した133町歩余のうち、水田として約100町歩の開墾を計画し、その6割5分を達成した段階で、大正15年1月、病死する。この壮大な開拓計画は、結果的には、彼の死をもって終止符を打つこととなった。
  当小束野開拓事業は、書面上は一貫して長男啓藩名義でなされていたし、呉錦堂が死んでも、啓藩が引き継いで事業を発展させていけばよかったわけである。しかし実際は、呉錦堂死去後、新たな開墾はほとんど行われなかったし、3年後の昭和4年には、啓藩は兵庫県へ開墾打ち切りの申請を行っている。理由として、①財界不況、②小作農業者の人心悪化の二つが上げられている。呉錦堂の死が実質的には当開拓事業に終わりを告げた。この時点での累計移住戸数37戸。
  呉錦堂の後を継いだ啓藩も、昭和1111月、神戸籠池の自宅で病死し、小束野開墾地は、家督相続により啓藩の子、伯瑛に引き継がれる。呉錦堂死後、彼の子、孫の代は、新たな開墾どころか、開墾地の維持さえままならなかったと推察できる。
  このあと、小束野開拓地の土地は、昭和13年(1938年)神戸の貿易商加藤岩五郎に売り渡され、更に、農地改革で小作人の手に移り、現在に至っている。

1町歩というのがどのような広さなのか、私のような高齢者には凡その把握はできる。子供の頃、私の家は水田7、8反を作る兼業農家であった。1町歩(10反)以上ないと農業だけでは食べていけないと、よく母が言っていた。甲子園球場の敷地が4ヘクタールである。1ヘクタールは約1町歩なので、呉錦堂は、甲子園球場25個分の水田開墾を計画し、16個分ほどで終わったことになる。

                               

この、小束野開拓に関連して、川辺賢武論文「呉錦堂と神出小束野開拓」に次のような記述がある。
 呉錦堂は開拓事業を遂行するために本国から中国人を数名呼び寄せて開拓に従事させていた。古老のことばによると多いときには20名ほどいたようで、そのうち一人は日本人の一人とともに監督にあたり、ほかは労働者に過ぎなかった。彼らは松の木を伐採するかたわらその材でセメント樽の加工をしていた(当時呉錦堂は尼崎にセメント工場をもっていた)。そのための製材所が二ヶ所つくられていた。出来上がったものは馬力で運び出していた。

 その一方では土地の開拓、農道、水路の建設、溜池の築造などに従事していた。これらの従業員は付近にバラックの家を数軒建ててもらって住んでいたので、一般には“支那人部落”といわれていた。この縦、横の農道は10尺もある広いもので、当時の人々は無駄なことをするもんだとあきれていたが、のちになってはそれが非常に役立って、小型トラックの通行は自由なため、農機具や収穫物の運搬が便利で、よその村の倍も仕事がはかどると、呉錦堂の先見の明をたたえている。
                    

 呉錦堂の小束野開拓の様子について、『圃場と土壌』2001年6号掲載の藤井昭三氏の文章「神出、小束野と呉錦堂」と、これをもとにした、水谷たけ子氏の漫画「呉錦堂さんの小束野開発」がよくわかるので、以下に抜粋引用する。

 少年時代、よく呉錦堂屋敷へ遊びにいった。入り口の前坂を上がると、でんと大きな井筒があり、傍らに大きな桑の木があった。桑は夏、甘い実をつけた。玄関をまたぐと、天井の高いがらんとした広い空間があり、夏でも冷んやりとした土間がつづいていた。どんな人が住んでいるのか、わからなかったが、表札は呉ではなく、すでに日本人の名前であった。(中略)
 旧正月(春節)ともなれば、(《支那人村》の人たちは)、それぞれ長い髪の毛を編んで腰辺りまで垂らし、手に手に紅い提灯をさげて、
 トーフ トーセ トンガラコ
 アカマチャ トテクチャ トンガラコ
と歌をうたいながら、地元の村へ繰り出して来たとのことである。

 地元の村人たちも折にふれ、呉錦堂屋敷に立ち寄った。夜道に提灯の灯が消えて、マッチを借りにいったら別の提灯を出してくれたという話も残っている。地元からも、幾人かが働きに出ていたので、子供たちも、よく遊びに行ったという。瓦やレンガを手で割って、空手の芸を披露したり、手品を見せてくれたりしたという。 

呉錦堂令孫、呉伯瑄氏 

 私は、二ヶ月ほど前(’08年7月)、移情閣で呉錦堂の令孫、呉伯瑄さんにお会いする機会があった。

 呉伯瑄さんが小学校低学年の頃は、まだ、小束野開拓地の経営は続いていた。しかし、もちろん、呉錦堂さんと、呉錦堂さんが亡くなって5年後に生まれた伯瑄さんとの間には直接の会話はありえない。呉錦堂夫人(丁夫人)が長生きだったようで(終戦の年に亡くなられた)、お祖父さんについての話というのは、このおばあさんの口から聞いたものだった。呉伯瑄さんの直接の記憶となると限られている。
 「そのころ、私は、籠池の家ではなく、舞子の家で生活していました。秋になると、小束野から、トラックで、薪や、炭や、柿や、ぶどうや、松茸などが運ばれてきたのをよく覚えています。舞子海岸の松の中には、小束野の松林から運ばれてきたものもあります」

小束野の呉錦堂に関する碑、四つ

 現在、小束野には、呉錦堂の業績を伝承する碑が4ヶ所に立っている。
 これらについては、「6.呉錦堂を語る会通信」をクリニックしてください。