第五部 呉錦堂 -神戸と中国- | ||||||||||||||||||||||||||||||
4.落穂ひろい | ||||||||||||||||||||||||||||||
山田川疎水について(一) - 小束野開墾にとっての意義 -
いなみ野における農業用水の需要増加に伴い、淡河川疎水だけでは賄いきれなくなった。ここで再浮上したのが山田川疎水である。かつて、いなみ野に引く農業用水の話が出てきたとき、先ず考えられたのが山田川疎水であった。しかし、その工事の難しさと費用の大きさから、明治20年、建設が淡河川疎水に変更された経緯がある。
明治39年、このときもまた対抗馬があった。それは、淡河川と山田川の合流地点の御坂(淡河川疎水の御坂サイフォンのある辺り)に蒸気揚水機を設置し、淡河川疎水に揚水し、淡河川疎水の水量を増やそうという案であった。結果的には、こちらは棄案となった。御坂に揚水機を設置する案の工費19万円は、山田川疎水の幹線水路の工費24万円より安かったが、明石港等からの石炭の供給、15年乃至17年毎の揚水機の取換えなど、事後の維持費を考えて、最終的に、新たに山田川疎水を建設する案が採用された。
ところで、この時、揚水機設置案が通っておれば、小束野は果樹園と松林のままで終わっていたかもしれない。というのは、淡河川疎水の水量が増しても、淡河川疎水より十数メートルも高地の小束野の地には水が引けなかっただろうからである。揚水機を設置すれば可能であるが、御坂揚水機設置案が棄案になったように、大規模な揚水機の設置は、恒久的に莫大な金を食うわけで、おいそれと取れる選択ではない。もちろん、新たに建設された山田川疎水から、更に高地にある広野池へ揚水している。しかし、この揚水機の動力は、山田川疎水と淡河川疎水の合流地点における落差を利用して発電した電力(現在は、関西電力からの供給)で、規模も小さい。 山田川疎水について(二) - 重くのしかかる村民への負担 - 山田川疎水の工事費は、そのほとんどが地元民の負担であったため、この受益村落は昭和に入っても反当り47円から17円程度の負債を抱え、小作争議が頻発する原因になったと言われている。
(『兵庫の土地改良史』62頁) 呉錦堂は、明治41年3月、山田川疎水組合に対して、99町9反9畝29歩の水利権に加入した。確たる証拠となる資料はないが、呉錦堂がこの負担金を小作人には転嫁したとは考えにくい。従って、上の事情が、呉錦堂開墾地の小作人にも言えることなのかどうか、更なる調査が必要である。 三面の扁額 私は二ヶ月ほど前(’08年7月)、移情閣で呉錦堂の令孫、呉伯瑄さんにお会いする機会があった。このとき、呉伯瑄さんは「呉公墓荘に、私が送った三点の扁額が掛かっています」とおっしゃった。呉公墓荘は、白洋湖畔の呉錦堂墓の裏手にある。ここで、墓守りが生活しており、呉錦堂資料館のようになっている。私はこのたび(08年5月)、呉錦堂のふるさとを訪問したとき、呉公墓荘も見学したので、その内部についても記憶にあったが、3面の扁額については定かでなかった。
この、呉伯瑄さんの話では、当時、「50数点の扁額があった」とのことであるが、私が移情閣の管理担当者として引き継いだ2002年には、22点しかなかった。その内の21点は、1、2、3階、各階に7点ずつ掛けられ、1点は劣化がひどかったので倉庫に保管されていた。この3点は別にして、50数点と22点の差はどうなったのだろうか。 今ならいくら? 古い文書を読んで気になることの一つは、物価の違いである。「今の物価で換算すると・・」と思いながらも、すぐには答えが出ないのでそのままにすることが多い。これはどうもすっきりしない。 ②次に、『神戸の歴史』第11号、浦長瀬隆「呉錦堂の開墾と地主制」の小束野開墾についての記述を引用する。漫画は前掲、水谷たけ子氏「呉錦堂さんの小束野開発」の1コマ。
溜池築造、用排水路建設、道路建設、樋管・筧及び井堰などの新設、橋梁架設、そして開田工事として、耕地表土取除、地盤地ならし、表土地ならしとなっている。開墾に要した費用は最終的には、142,898円99銭。うち、助成金23,601円51銭、補助金5,204円28銭。 ③三つ目は、山口政子「在神華僑呉錦堂について」(山田信夫編『日本華僑と文化摩擦』)からの引用である。 ④中村哲夫『移情閣遺聞』中の「阪神財閥の持株会社一覧」(1925年)によると、呉錦堂合資は13位で、その資本総額は494万円である。これだと、呉錦堂の資本力は、約200億円ということになる。 |