第五部 呉錦堂 -神戸と中国-
5.神出、小束野村のお祭り(09年2月)

  現在、小束野には、呉錦堂の業績を伝承する碑が4ヶ所に立っている。このうち、最も重要なのは、小束野集落の中にある顕彰碑で、碑文は、小束野の今日の繁栄の基礎を作った人物として呉錦堂に感謝し、その偉業を称えている。小束野村は現在、約120戸を有するが、村の人たちは、呉錦堂への感謝と顕彰碑の隣のお稲荷さんの初午を併せ、この地でお祭りをしている。本来、初午の日に行っていたが、休日のほうが人が集まりやすいということで、今は、2月11日、建国記念の日に行っている。顕彰碑とお稲荷さんにお供えをしたあと、お稲荷さんの前の狭い庭で子供が相撲をとる。祭りに参加した人には、餅が配られ、粕汁、おむすび、お酒がふるまわれる。

昨年(2008年)の夏に取材に行ったとき、このように聞いていたので、次の機会には是非、参加したいと思っていた。
  昨年末、呉錦堂令孫、呉伯瑄(ご・はくせん)氏にお会いする機会があり、この話をすると強い関心を示され、「是非、案内してください」とおっしゃった。
  2月1111時、「かんでかんで」で落ち合った。呉伯瑄氏は奥様運転の車でお見えになった。

 「かんでかんで」  左端の8角屋根は移情閣を模して造られた

ここのバイキングの昼食は非常な人気で、112席ある大きなレストランが開店と同時に満席になり、入場待ちができるほどである。私は、かなり早く行って受付簿に名前を書いておいたので、うまく座れた。一人1500円。私と呉伯瑄氏は高齢者割引で1200円。
  食事を終え、先に石碑を巡る。
  呉伯瑄氏は、「小束野へは、昭和32年、顕彰碑の除幕式のときに来て、そのあと、もう一度来ているのですが、はっきり覚えていません」とおっしゃる。でも、村の中の道を走っていると、「この風景、記憶ある!」などと懐かしそう。
  まず、呉錦堂池。この池の名は、昭和32年、小束野の村の中にできた呉錦堂顕彰碑の碑文に「宮の谷池を呉錦堂池と改称して君の名を後世に伝える」と明記されている。池の向こうは広野ゴルフ場のグリーンで、プレー中の人が見える。奥様は、この池は初めてなのか感動されたご様子で、堤防を遠くまで歩かれた。
  次は、「呉里豊穣」。この碑は新しい。平成十七年三月の建立で裏面には井戸知事の揮毫がある。
  ここまで巡って、お祭りの始まる午後一時が近くなってきたので、顕彰碑のところへ行く。
  すぐに、子どもの相撲大会が始まる。相撲大会といっても普段の服装のままで、男女混合。幼稚園児から小学生くらいの20人ほどがお稲荷さんの鳥居の所に並び順番を待っている。

それでも、一応、土俵はあって、行司、組み合わせを決める人、賞金を渡す人など、村人3、4人があれこれ世話をし、指示を出している。勝てば賞金百円。同じ子供が3度も4度も取っている。小さな子どもに、わざと負けてやっている子もいる。賞金のお金がなくなったところで相撲大会は終了。
  私たちは、お稲荷さんの横、消防団の倉庫の前に張られたテントの下で、相撲を見ながら、村の人たちとの話を楽しんだ。村人の中に、昔を知る人は減ってきている。それでも、少数ながら、おそらく祖父や父親からの伝承なのだろうけれど、呉錦堂の開墾に関わる話を知っている人が居るようで、呉伯瑄氏と村の人との話は弾む。

左から二人目が呉氏、中央の女性(黒いオーバー)が同夫人 右が呉氏、左の女性は村の人
左から二人目が呉氏、黒いオーバーの女性が同夫人 右が呉氏、左の女性は村の人

奥様は、出された赤飯のおむすびを「お祖父さんにお供えする」と言って持ち帰られた。お祖父さんが開拓した小束野の米でつくったおむすびということで、特別な感慨があるのだろう。
 帰りに、小束野池の伝承記を見に行く。ここの碑は、池の堤の下にあって、池は見えない。奥様は、見たい様子だったけれど、前日の雨で堤が濡れており、滑りそうだったのでご主人に止められ、残念そうだった。
 私たちは、あと、「かんでかんで」に戻って、野菜を買って別れた。

中央が呉氏ご夫妻
右端の2本の木の間に呉錦堂顕彰碑がある
 
  呉伯瑄氏ご夫妻にとって、今回の小束野訪問は特別な一日になったようで、私もうれしかった。


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