第五部 呉錦堂 -神戸と中国-
2.呉錦堂の故郷を訪ねて(2008年5月)
呉錦堂の故郷への旅

 明石市民カレッジ『ゆうゆう塾講座』で、9月7日に、「神出の呉錦堂池について」という題で話をすることもあって、今回の旅行となった。今回の講座は、移情閣友の会に属する中国文化同好会の企画によるもので、「身近な日中文化交流のシンボル、移情閣を知ろう」という5回シリーズで、その4回目が私の担当になった。
 現地で案内してくれる人がほしかったので、知人を通して探してもらっていたが、出発日までに返事がなかった。結果的には、私が出発した日の夕方にOKのメールが入っていたが、そのメールを見たのは帰国後だった。
 ということで、「まあ、何とかなるだろう」と、今回の旅行の後半は、一人旅を覚悟していた。「覚悟」といっても、それほど大げさなものではない。私は半年、連雲港で暮らしてからは、あっちこっち、一人でよく出かけるようになった。
  今回の旅行(08年5月16日~28日)の後半、連雲港 淮安のあと、上海で淮海工学院の卒業生たちと旧交を温めた。2日しか余裕はなかったが、一緒に食事をしたり、足浴マッサージへ行ったり、人民広場近くの弄同(ノンタン:入り口に門があり、中に数十軒の長屋住宅がある。二階建て三階建てが多い)へ上海暮らしの生活の場を覗きに行ったりといろんなことをして、結構おもしろかった。
  徐家匯(じょかわい)のウイグル料理の店に大勢集まったときの会話。
徐家匯のウイグル料理店

これは、ほとんど日本語。
「先生の旅行、上海でもう終わり?」
「いや、明日から寧波の慈渓市というところへ行く」
「どんな用事?」「そこには何があるの?」
「かつて私が勤めていた移情閣を建てた人の故郷へ行く」
「その人、なんという名前?」
「呉錦堂という」
「えっ、胡錦濤?」
「それは、国家主席だろう」
  呉錦堂と胡錦濤は中国語も日本語も発音がよく似ている。
「誰と行くの?」
「一人で行く」
「大丈夫? 私が一緒に行きましょうか?」
「君では私の荷物持ちは務まらない」
「私、力ありますよ。会社で段ボール箱をたくさん運んで、上司に褒められました」
「明日は日曜日だけど、明後日は仕事があるだろう」
「大丈夫!代休が残っています」
 このようなやりとりのあと、教え子の一人と一緒に旅行することになった。
  翌朝、9時前、Y.Wが私のホテルまで迎えに来てくれる。タクシーで上海南駅近くの長距離バスのターミナルへ急ぐ。
  1010分発慈渓行バスは定時に出発。このバスターミナルは上海市街地の南端近くにあるから、私たちが乗ったバスは渋滞をすぐに抜け出し、ほぼ、時速100キロのスピードで走行。(下の地図及び写真は浙江省旅遊局提供)

杭州湾跨海大橋 杭州湾跨海大橋

 一時間少し走って、杭州湾跨海大橋に入る。この橋は、今年の5月1日に開通した。この橋を渡るのも今回の旅行の目的の一つ。湾は霞んでいて見通しが悪く、景色というほどのものは見えない。橋近くの海水は泥色。浚渫船が浮かんでいる。ムツゴロウでもいそうな干潟もある。

ガードレールの色、今は紫

「ガードレールの色に注意してください」とY.W
「紫、青、緑、黄と変わってきて、今は橙でしょ。あと、ピンクで終わりです」
「どうして、色が変えてあるの?」
「色を変えておくと運転手の目が疲れにくいのです。それに、今、どの辺りか分かります」
というような会話をしていると、バスは湾を渡りきり、ピンク色も終わりになる。この間、20分。バスは、ほぼ時速100キロで走っているから、橋の長さは三十数キロということになる。橋を渡って更に30分ほど走り、12時過ぎ、慈渓市着。
  ホテルで昼食を摂り、休憩したあと、タクシーで呉錦堂の生地訪問。乗ったタクシーの運転手は呉錦堂の生地の出身という。呉錦堂の墓、錦堂学校、呉錦堂故居、生家、みんな知っているということで、私の調査は大いに能率が上がる。

呉錦堂墓
 1926年、呉錦堂は急性肺炎により神戸で没した。31年、遺言に基づき、子の啓藩、甥の啓夏、啓鼎などは棺を慈渓の白洋湖畔へ運んだ。墓の東には低い山があり、岩山と木々の中、寺が見える。寺の黄土色の壁と緑の木立は池畔まで続いている。この寺は金仙寺といい、ここで、呉錦堂追悼の儀式が行われた。墓は、呉錦堂が生前、自ら建てておいたものである。夫婦合葬墓で、コンクリートで築かれ、上部は円錐形をしている。墓碑の「呉錦堂先生墓」は張謇の書(1911宣統3年)で、その両側には、同じく張謇の筆になる呉錦堂自作の対聯「為愛湖山堪埋骨、不論風水只憑心」がしるされている。墓の上部の墓表は、章炳麟が篆書で、呉の生前の事蹟をしたためたものであったが、文革中に破損され、84年慈渓県人民政府によって新しく作られた。

白洋湖畔の呉錦堂墓 陳徳仁氏が建てた澤郷亭
呉錦堂墓近くの寺 白洋湖まで続く寺域

 墓の裏手に「呉公墓荘」がある。ここは、墓守の居所と資料・記念館である。
  91年5月、孫中山記念館副館長(当時)陳徳仁氏は慈渓県を訪ね、墓の隣接地に「澤郷亭」を建て、碑文を寄せた(上の写真、右上)。

杜白両湖の修復と呉錦堂学校の設立
  1905年、呉錦堂は故郷の慈渓東山頭に戻り、先祖の墓に詣でた。杜湖と白洋湖は長年修理もされず、管理する人もいなかったので、呉錦堂は治水水利に着手した。10年までに洋銀7万余元を投じて両湖を修復した。また東山頭で教育の振興に乗り出し、洋銀22余万元で錦堂学校を建てた。
 

錦堂高級職業中学の校舎

 学校はその後、幾度か名称を変え、92年より、慈渓市錦堂高級職業中学となっている。この日は日曜日で、ほとんど学生の姿が見えず、ちょっと残念。裏のプールのような池で親子が釣りをしていただけ。

呉錦堂の生家と故居
 呉錦堂学校の次は生家と故居である。運転手は、分かっていると言わんばかりに、村中の細い道へタクシーを進めて行った。もう無理!というところで、タクシーを降りて狭い路地へ入っていく。少し行ったところが呉錦堂の故居。壁には「呉錦堂故居」のプレート。故居は南向きで狭い路地に面している。昔からこうだったのか。門の上部に「日昇月恒」の文字。事業繁盛を祈る意味である。この反対(外からは見えない)側には「蘭芳桂馥」の四文字。家の持ち主の恵みが後世に及んでいくようにという願望を象徴している。
 家には鍵がかかっていて入れない。運転手も入れないという。裏手に廻る。裏の方が道も広く開けた感じ。2、3人、村のお年寄りの姿も見える。Y.Wが古老に近づき、何か話しかけている。
「先生、中に入られるそうです」

呉錦堂故居正面 呉錦堂故居前の路地に立つY.W
呉錦堂故居の内庭で村の古老と筆者 呉錦堂故居の二階から正門裏側を写す

  古老の一人がどこかへ消え、暫くして長い鍵を持って戻ってきた。鍵を開け、中を案内してくれる。2階建ての1階の一室は、呉錦堂記念室になっており、正面の壁に、呉錦堂の、胸に三つの勲章を付けた大きな肖像画が掛けられている。この肖像画は、『續刻杜白両湖全書』の最初に出てくるものである。1階には台所があるが、その他、どの部屋も全くの空で、何もない。 更に、狭い村中の道を行くと呉錦堂の生家。ここも、写真で見たことがある。今は、呉錦堂と関係のない人が住んでいて中を覗くだけ。
 これで、一応、目的の場所は全て見たことになる。あと、錦堂路の表示を写真にとって、全て終了。