こんな本


こんな本読みました




ミカエルの鼓動
柚木裕子
文芸春秋

北海道中央大学病院の医師西條泰己は医療用ロボット「ミカエル」を操作して執刀する心臓手術の国内における第一人者で、院内でも次期副病院長に最も近い存在だと自他ともにの認められている存在である。
ミカエルによるロボット支援下手術は近年世間的に注目され、西條の存在はミカエルを北中大病院の代名詞といえるまでに押し上げ、病院としても稼ぎ頭として売り出す思惑があった。
そんな折、真木一義という心臓外科医が3年契約という条件で北中大病院に赴任してくる。
真木は、ロボットを使わない従来の執刀手術に優れた医師であり、ドイツのミュンヘンのハートメデイカルセンターにいたが、病院長の曽我部がスカウトしてきた。
この話に西條はある疑念と不信感にさいなまれ始める。
それは、病院としての将来方針として、ミカエルを押し出す最新技術による診療方針を推し進めるのか、あるいは別の方針を考えているのか。


西條、真木の両エリート医師とも、「患者の命を救うこと」こそ最重要命題であり何より第一と考えているのは同じなのだが、それぞれ自分のやり方がベストであると信じるがゆえに、互いに譲れないという想いで対立する。
果たして病院長はどう判断するのか。病院としての今後の医療方針の柱をどう考えているのか。
読み進めるごとに息詰まるような緊張感が高められる。
いずれにしても、現場で患者に対して真摯な想い、態度で向き合うという姿の医師たちを描いており、心地よい快感を覚えるいい作品だ。 (2022/8/17)



旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて
伏見博明
古川江里子・小宮京編
中央公論社

旧皇族の宗家である伏見宮家の第一王子伏見博明氏のオーラルヒストリー。
編者が当人にインタビューして聞き取りまとめたものである。
敗戦後、1947年10月にGHQの命により皇籍離脱となったが、それまでは皇室にもしものことが起こった折には皇統を継ぐ存在として準備されていた宮家の特有の生き方を垣間見ることができる。
長い歴史を背負い、戦前から戦後へ、皇族から一般人へと激動の時代を生きてこられた伏見氏の歴史の証言である。
語られている内容は、戦前皇族の生活、文化、役割や終戦後の皇籍離脱、海外留学、一般人としての生活と後続とのかかわりなど。

一般人から見れば、自由のない世界で皇族を守るための準備は怠らず、あくまでも皇統という日本独特の歴史・伝統そのものを守るという真摯な生活ぶりを知り、このかけがいのない歴史・伝統は守り続けなければならないとの念を強くした。
宮家であられたときはもちろん天皇を、皇統をお守りするという覚悟で生きてこられ、宮家を離れたのちでもその気持ちに変わりがないという言葉に、なんとなくホッとした気分になれた。 (2022/6/16)




脱北航路
月村了衛
幻冬舎

北朝鮮軍の11号潜水艦長桂東月と政治指導員辛吉夏たちは示し合わせてある計画を立てる。
それは北朝鮮軍、陸海空軍の合同演習時に実施される。
当日、最高指導者の命として、日本人の拉致被害者の広野珠代の移送するとして連行し宿舎から連れ出す。
そして陸空海軍の合同軍事演習に紛れて、珠代の身柄とともに日本に亡命しようとするのだ。
しかしこの計画は直前に露見し、演習で11号が発艦する前に軍幹部に知られることになる。
そこから彼ら11号潜水艦と北朝鮮軍との息が詰まるような攻防が始まる。
彼らが日本へ逃げ切れるのが先か、それとも北朝鮮軍に捕まってしまうのか。

著者はこの不如意な北朝鮮による国民の拉致に対して何十年も取り戻すことのできない日本国の現状にいたたまれぬ思いを抱き小説化したという。
物語の中で、目の前に拉致被害者と日本へ亡命を希望する者が窮地に立っており、近くには海上保安庁や民間の漁船もいるという中で日本政府は結論をなかなか出さずなんの支持も行わないといった場面を描き、北朝鮮軍に次のような言葉を言わしめている。
「心配するな。日本軍は手出しなどできんよ。同胞を見殺しにして恥じぬ国だ」と言わしめる。
現実の問題として現在進行形で遅々として進まない拉致問題。当然われわれ日本人が解決すべき問題でありながらメデイアを含めほとんど無視されているような現実に歯がゆさを感じる。
我々日本国民がこの本を読み、国民の声が大きくなることを望みたい。
(2022/6/4)




幸村を討て
今村翔吾
中央公論社

戦国時代をしたたかに生き抜いてきた真田家を中心とした物語。
その真田家の根底には親兄弟、家における絆の強さがある。
関が原で敗れた大坂方についた武将たちは、それぞれの思惑に基づき敵のみならず味方まで裏切ることも非としない集合体であった。
各章ごとに真田をめぐる彼ら武将たち、家康、有楽斎、南条元忠、後藤又兵衛、伊達政宗、毛利勝永に纏わる話がつづられていて、彼ら各武将それぞれの人物が「幸村を討て」と。

家康には、何度も煮え湯を飲ませられるような危機に追い詰められた真田昌幸に対する畏敬の念が植え付けられている。
物語終盤、徳川方に属していた真田信之(昌幸の義理の息子)が、西方につく弟信繁(幸村)と通じていたとの謀反の疑いを家康に問い詰められ、それに対応する丁々発止の場面は緊張感に溢れ、この作家の物語づくりの非凡さを感じさせられる。
歴史の中の新しい解釈、とらえどころをちょっとひねった歴史の切り取り、つい引き込まれていくような物語展開など、さすが直木賞受賞作家の作品。
(2022/5/29)



アキレウスの背中
長浦 京
文芸春秋

下水流悠宇(おりづる ゆう)は警視庁捜査三課に勤務する主任警察官。
突然MIT(ミッション・インテグレーテッド・チーム)に呼ばれ、同じく捜査一課の間明(まぎら)と特殊犯罪捜査一課の本庶とともに同じチームメンバーとして任務を与えられる。
その任務の具体的内容は当初本人たちにも詳細が明かされないが、近々東京都心部で行われる世界陸上公認のマラソンレースへの妨害阻止であった。
このような大きい国際レースにおいては、選手が使用するマラソンシューズにおいても各メーカーがこぞって新技術を用いた製品を開発しており、その成果がレース結果によって大きく左右されることから、蔭で激しい競争やスパイ活動が行われている。
そのような利害の絡む背景のもと、影響力の大きいこのようなレースでの妨害活動が企てられているらしい。


捜査にあたる関連部署の中にもいるかもしれないスパイの疑惑。
どのような事件が起ころうとしているのか定かでない状況で、色んな可能性を想定しながらこれを防御することに全力を尽くす彼らの活動をハラハラしながら読み進めるという構成がいい。
物語の終盤近くで本書の題名の由来が明かされるのだが、ちょっといいエピソードだと感じた。
(2022/5/25)



サーキット・スイッチャー
安野貴博
早川書房

人の手を一切介さない完全自動運転車が普及した日本の未来社会が舞台。
自動運転アルゴリズムを開発する会社の社長で、優秀な開発技術者坂本義春が首都高速を走る自動運転車内で監禁拘束される。
突然乗り込み坂本を監禁、脅迫した犯人は「ムカッラフ」と名乗り、坂本は殺人犯であると宣言し尋問を始め、その様子を動画配信サイトを通じて全世界に中継する。
ムカッラフは自身も乗り込んでいる車が走っている首都高速中央環状線の封鎖を要求し、そうしなければ車に仕掛けた爆弾が爆発すると脅迫。
そして坂本の作った自動運転アルゴリズムに人種差別が組み込まれているのではないかとその解明を求めるのだ。
この事態に、事件の解決を担当する安藤太一警部補は、知り合った岸田マリの協力を得て解決に乗り出す。
岸田は、検索エンジンや動画共有サイトの世界的カンパニーGoogum傘下のMeTubeの優秀な秘術者でマネージャーであり、坂本とは親しくはないものの同大学で学んだ学友だった。

IT技術の進化は、人間社会を飛躍的に便利なものに変えてきたが、一方でその扱いを誤ったりシステム障害が起きた時には社会全体を全く無能化するなど大混乱を起こしうる脆弱性がある。
この物語もそのような便利さの裏に潜むものによって引き起こされる暗部を語るものだ。
将来はひょっとしたらこのような事態もありうるかも・・といった現実を突きつけた興味深い小説だった。
第9回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作。
(2022/5/9)


信長、鉄砲で君臨する
門井慶喜
祥伝社

種子島に鉄砲が伝わってくるところから物語は始まる。
種子島の南端の村、西ノ村の村長、織部丞が初めて南蛮人から鉄砲を見せられ、時の領主種子島時堯にこの話を持ち掛ける。
こうして一万匁の銀と引き換えに、2兆の鉄砲が種子島の14代目領主、時堯によって購入される。
やがてこの新兵器鉄砲は日本国中に広まり、同時に火薬技術も格段に向上していく。
こうした広がりの結果、貿易や商工業の中心であった堺が鉄砲の分野でも取引の中心となり、物語もこのあたりから織田信長の物語へと移っていく。

一般的なの信長物語や、戦国時代小説とは異なる筋立ての構成となっていて、本能寺の変で終わるのだがその背景がこれまでのものとは一味違う造り建てとなっている。
(2022/4/27)


悪魔の選択(上下)
フレデリック・フォーサイス
篠原 慎訳
角川文庫

イタリアのブリンデイジ港からトルコ北岸トラブゾンへ向かうおんぼろ貨物船が、洋上を漂う小舟を見つけ、瀕死状態だった一人の男を救う。
身元も名前もわからぬこの漂流者のことを伝える小さな記事を、アンドルー・ドレイクという一人の男が注目し、会社に休暇を願い出て会いに行くことにする。
この漂流者は実はウクライナのソビエトからの独立を目指すパルチザングループのリーダー、ミロスラフ・カミンスキーという名前で、ソ連から脱出してきたのだった。
ドレイクもまた英国風の名をかたっているが実はウクライナ人で、ずっとソビエトを欺く作戦を考えていた人物であった。

そのころ、アメリカの宇宙衛星はソビエトの小麦が大凶作であることを知らせる。
イギリス政府内の防諜機関に従事していたウクライナ系イギリス人のアダム・マンローは、ソビエトに潜入してソビエトの動きなど情報収集を命じられ、その情報が事実であることを突き止める。

アメリカはその情報を利用して、ソビエトと核軍縮条約と締結することに成功する。
その頃ソビエトでは和平派と軍拡派で政治抗争が繰り広げられていた。
そんな折ウクライナの独立を目指す勢力がソビエトに打撃を与えるため、和平派の一人であるKGB議長を暗殺することに成功する。
しかし、結局その暗殺犯は捉えられ、西ドイツで拘留される。

一方、イギリス船籍の世界初の巨大タンカー「フレイア号」が竣工後初航海となる石油輸送に出ていた。
ドレイクは闇に紛れて仲間たちとこのタンカーに潜入する。
実はドレイクはこの事件の首謀者であり、タンカーを乗っ取り、中のすべての満杯の石油タンクに爆薬を仕掛け、リモコンの起爆装置を手に、タンカーの船長ラーセンを通じて実行犯の釈放を要求する。
アメリカは最終的に首謀者の要求を呑む判断に傾いたが、その時ソビエトから実行犯が釈放されたら、先に締結された核軍縮条約は破棄すると一方的に通告してくる。
事情がわからないが条約破棄は譲れないアメリカ。事情が知られると軍拡派の勢力が増し、政権の瓦解につながるソビエト。

ウクライナの独立を目指しソビエトを出し抜くため、暗殺実行犯を救い全世界に事実を公言させるようとタンカージャックを実行したドレイク。
ソ連とヨーロッパ各国との国益闘争。
アメリカとソ連との主導権争い。
ソ連ロシア国内での政権をめぐる壮絶な権力闘争。
ソビエト連邦内での各小国とロシアとのそれぞれの軋轢、思惑。
これらが絡み合う息をも継がせぬ物語の進展にページをどんどんめくってしまいたい欲求に駆られる。

2022年の今。時は正にロシアが一方的にウクライナし侵攻し戦争が続いている。
この小説は1980年代初頭を予測して描いたものであるが、まさにリアルタイムで実感が伴う小説だ。

本書内でドレイクがラーセンに語る次の言葉(少し長いが)が胸にしみる。

「西側のもの書きやリベラルは、なにかというとロシア人の愛国心を云々するが、そういうおしゃべりにはもううんざりしているんだ。
他人の愛国心を踏みにじって栄える愛国心とはいったいどういう愛国心なんだ?
それじゃわたしの愛国心はどうなる?奴隷化された祖国に対するウクライナ人の愛はどうなる?
グルジア人の、アルメニア人の、リトアニア人の、エストアニア人の、ラトビア人の祖国愛は?認められるというのかね?
なぜ彼らの、わたしたちの祖国愛が、ロシア人のあのひとりよがりの愛国心に従属し、同化されなくちゃならないんだ?
ロシア人の愛国心こそわれわれの敵なのだ。あれは単なる排他主義にほかならない。
ピュートル大帝やイワン雷帝のころからずっとそうだった。周辺諸国を征服し奴隷化することで生き延びてきたのだ」
「いつか、あまり遠くない将来、ロシア帝国は瓦解し始めるだろう。いずれ近いうちに、ルーマニア人が愛国心を発揮するだろう。ポーランド人やチェコ人も。続いてドイツ人やハンガリー人が、バルト人やウクライナ人が、グルジア人やアルメニア人が-
ロシア帝国は、ローマ帝国や英帝国と同じように、ひび割れ、崩れ去るのだ。支配者たちの傲慢さが奴隷たちの忍耐の限度を超えるのだ。・・・」
(2022/3/27)



塞王の楯
今村翔吾
集英社

直木賞受賞作。賞が決まる前から図書館に予約していたのが数か月待ちで受賞直後に貸し出し順が回ってきた。

さすがに受賞が当然と思えるほど面白いし力作だと感じた。
朝倉家の一乗谷城が落城、その地に住む少年匡介も混乱の中逃げ惑う間に父母と妹を助けられないまま近くに来た男に手を引かれ一命をとりとめる。
そして、その男源斎の養子として育てられる。
源斎は、石垣造りを生業とする穴太衆の頭で飛田姓を名乗り、穴太衆千年ともいわれる歴史の中で出色の天才であった。
穴太衆の祖は、彼らが祀る「塞の神」から加護を受けており、どんな地揺れにも堪えどんな大軍からも守る石垣を積んだといわれ、穴太衆たちはその祖のことを「塞王」と呼ぶ。
そして飛田源斎こそ当代の塞王であった。
匡介もやがて腕を上げ、源斎の跡取りとして認められる。

一方、甲賀国友においては鉄砲鍛冶が盛んで、国友一族は甲賀衆と呼ばれ全国各大名から重宝されていた。
時は流れ、源斎の後を継いで第一人者となった匡介は、秀吉亡き後の東西決戦において東軍に与する京極高次の陣に入り、大津城で西国無双の立花宗茂に与する国友衆と壮絶な「楯と矛」の戦いを行う。


世に矛があるから戦が起こるのか、それを防ぐ楯があるから戦が起こるのか。人が人である限り争いは絶えないのかもしれない。
矛と楯は何のために存在するのか。人の愚かさを示し、同じ過ちを起こさせぬためではないのか。
このように自問自答する匡介、立場は違えど同じ思いで鉄砲を作り進化させる国友。
現代に通じる永遠の命題を問いかけている小説でもあり、読み応えのある作品だった。
文章に無駄もなく、表現も丁寧適切で読みやすく感じの良い作品。 (2022/2/20)



老虎残夢
桃野雑派
講談社

女性武術家紫苑(シオン)は師父である泰隆(タイリュウ)から、3人の名だたる武侠から一人を選んで自分の技の奥義を引き継ぎ授けると聞かされる。
紫苑自身、師父に仕え、厳しい武術修行を積んできただけに、自分に引き継がれないことに不満を感じるが、師父の命に従って、この3人を迎えに出る。
武侠の力を大まかに分ければ「外功」と「内功」に分類される。
外功とは筋力の破壊力、持久力のような外面的な力をいい、内功とは身体の内側から生じる力、すなわち呼吸、血流、気脈など人の持つ潜在能力である気を自在に操る力といえる。
3人の武侠とは、蔡文和、楽祥纏、仏僧の為門。
泰隆からの招待状によって、3人は湖の中央にある島、八仙島に建つ八仙楼という楼閣に集められた。
そして、いざ泰隆から誰に奥義を授けるのか決定する前日の夜、党の泰隆が殺害される。


まさに密室と同様の陸地から隔離された島の中での殺人事件であり、犯人は呼び寄せられた3人もしくは、接待役をしていた紫苑(と紫苑になついている泰隆の養女の恋華)に限定される。
そこから、誰が犯人なのか各人の会話や意見からそれぞれの疑惑が膨らむ。
2021年、第67回江戸川乱歩賞受賞作らしく、物語としては面白かった。
(2022/1/22)



邪教の子
澤村伊智
文芸春秋

光明が池団地に住む慧斗は、飯田という家に新しく引っ越してきた小学生茜に興味を感じたが、いつまでも学校に出てこず、自分たちにも接触することがないことに不信感を抱く。
周りの大人たちの話などから、その家庭は新興宗教に染まり周囲から閉ざされた中で暮らしていて、その影響から茜も家に閉じ込められていると知る。
そんな茜を助け出そうと、新興宗教から脱出させる仕事を請け負う「脱会屋」の力も借りて慧斗は茜を救い出すことを試みて、様々な障害、苦労のすえ茜の救出に成功する。
脱出成功で一件落着、かに見えた物語はこの部分で本のほぼ半分。この小説はいったい何を言わんとしているのか、この先何が語られるのか。
そんな感覚を持たされた後、物語は意外な方向に進んでいく。

悩みを持ち苦しんでいる人にとって、他人のふとした言葉や言動から救われることもあり、そのようなことも宗教の存在意義の一つではあろう。
一方で、そのような人の弱みに付け込んでその人の心や生活、人生まで誤った方向にむしばんでいくカルト的悪徳宗教もあるだろう。
この物語は、人の心の弱さと、善意から始まりながらいつの間にか独善で思わぬ方向に向かってしまう怖さを示した作品。
(2022/1/4)



わが米本土爆撃
藤田信雄
毎日ワンズ

米国本土が爆撃されたことはない、ニューヨークセンタービル同時多発テロ事件までは。と聞かされてきたように思う。
しかし、実際は太平洋戦争中日本軍によって米国本土攻撃が行われた事実があった。
本書は、その当人が当時の出来事の事実並びに終戦後における顛末を著したものである。

著者は元大日本帝国海軍中尉。
海軍の伊号第25潜水艦乗組員の飛行長で開戦当日もハワイ真珠湾沖深海に潜航していた。
潜水艦の飛行長というのは、潜水艦に積み込んだ水上飛行機を組み立て、潜水艦から乗り移って偵察活動などをする任務がある。
当時レーダーもないような状況で、潜水艦から飛び立った飛行機が、豆粒ほどしか見えない大海原に浮かぶ親艦(潜水艦)に帰艦するのも大変困難な状況だった。
そのような状況の中、昭和17年9月9日午前5時30分潜水艦の甲板から発進。オレゴン州ブルッキングスの町の近くのエミリー山に続く森林に焼夷弾を一撃、二撃と落とす。
この作戦は、アメリカ西海岸では大森林が多く、いったん山火事が起きると手の施しようがなく、敵に与える心理的効果が絶大だとの考えに基づくものだった。
この作戦自体は成功したが、結局日本は敗北。
その後終戦を迎え戦後復員した後金属会社を経営。
昭和37年4月に当時の官房長官大平正芳からアメリカが藤田の身元を照会してきたと聞く。
その後「日米友好親善のため、オレゴン州に爆弾を投下した貴殿と家族を当地に招待したい」との封書が届く。
友好親善とは言いながら実際は当時のその行為を批難し、恨みを責められるのか、とか様々な思いに逡巡するも渡米することを決心する。

唯一、かつ歴史上はじめて米国本土が日本軍によって爆撃されていた。
米国としては屈辱的、かつ憎しみを感じる事実であろうが、戦後も数十年たって互いに友好国となり平和の時代を過ごしている折だからこそであろうが、その当事者をわざわざ招待し、「敵ながらあっぱれ」とばかり賞賛し尊敬の意を表す米国人の心意気にもあっぱれの言葉を送りたい。
ハワイの真珠湾には戦争博物館には、公正に、当時の勇猛果敢な日本軍を称えるようなメッセージも展示されていると聞く。
戦後いつまでも事実でないことに及んでまで日本を貶めようと画策し続ける国もあることを考えると、その武士道精神に清々しい気分を感じる。
(2021/12/8)



ヒトコブラクダ層ぜっと(上下)
万城目学
幻冬舎

榎土梵天、梵地、梵人は三つ子の兄弟。
隕石の衝突で父母を一瞬にして失い孤児となり、幼少のころから伯父に育てられる。
それぞれ兄弟3人は生まれつきの特殊な才能があることが成長するにつれわかるようになる。
長男梵天は、地中や壁の向こうなど見えないところのものが見える能力。
次男梵地はどんな国の言葉でも自然と理解できる能力。
三男梵人は3秒後に起こる出来事を予知できる。
実は長男梵天は、自分の持つ能力から珍しい化石を発見した経験から考古学に興味を持つようになる。

このような能力がそれぞれにあることが分かったとき、長男梵天がその才能を利用して大泥棒することを提案。
逡巡しながらも結果として弟たちも賛同し3人で実行して大金を手に入れる。
梵天はその金で化石が見つかるかもしれないと思う「山」を買ってしまう。
その山で化石を探し中、突然謎の女が現れ、梵天のあこがれているメソポタミアへの化石探しの旅を実現できるような予言を残す。


話は、3兄弟が予期しない形で彼らの進路が定められ、自衛隊に入ることになり、自分たちの思惑と異なる人生の歩みに踏み込んでいく。
途中からは何が何やらわからないようなファンタジーの世界に読者も引きずりこまれ、まさに奇想天外な展開となる。
物語の各章の小節の見出しが、ある時点から10時16分とか10時25分とか無機質な表題になるのだが、最後まで読み進めるうちに、その意味が理解できる。
著者は何からこのような突飛な物語攻勢を考え付いただろうか。
(2021/12/9)


宇宙人と出会う前に読む本
全宇宙で共通の教養を身に着けよう

高水裕一
講談社ブルーバックス

我々地球に住んでいる人間からすれば、そもそも宇宙ってどれだけ広いのか、太陽系というのは全宇宙から見るとどういった位置づけなのか、そもそも太陽系が存在する銀河系とは全宇宙のどのあたりにあるのか。
全く壮大な話である。

本書は、「惑星際宇宙ステーション」という初めて宇宙で作られた「宇宙人」同士の社交場に招待された私が、「自分がどこから来たのか」をどのように説明すれば他の宇宙人に理解してもらえるのか、といった設定で進められる。
そのような観点で物事を考えてみると、全宇宙で通用する共通の理解が得られる何かを「基準」とする必要がある。
そのような前提の中で、生物や物質の原要素、時間の概念、場所の定義、数のなりたちなど物理学、天文学などの知識を開いてくれるような構成の本である。

読んでいても理解不能な部分が多いのだが、概念的にはそれなりにわかったような感じにさせる著作で、ちょっと異質な知性を刺激する面白い作品だった。
(2021/10/28)


レッドネック
相場英雄
角川春樹事務所

レッドネックとは米国南部の無教養(貧乏)な白人労働者を指す侮蔑的な言葉らしい。
米国系大手広告代理店に務める矢吹蛍子は、上司からアメリカバンクーバーの大学の若手講師でカリスマといわれるケビン坂田という人物に会いに行き、あるプロジェクトにぜひ協力してもらえるよう交渉に行けと命じられる。
このプロジェクトのクライアントは巨額な契約金を準備してケビンをリクルートするよう指名してきたものであった。
このプロジェクトの名は「レッドネック」と呼ばれるものであった。

交渉に成功し、ケビンは来日してプロジェクトの活動が始まるのだが、ケビンが呼び寄せた協力メンバーとともに蛍子はチームの世話役を務めることになる。
しかし、プロジェクトの内容については、蛍子には一切知らされず、ただ、「あなたは自分で考えていますか」との言葉のみ。関与することを拒絶される。
彼らの仕事ぶりや行動に疑問を抱くのだが、会社からも何も説明されずやがてプロジェクトそのものに対しても不信感を抱くようになる。

世の中は、政治はどのようにして動いて行っているのか。
選挙の投票は本当に自分で考え判断したうえで行っているだろうか。一部メディアの論調にただ影響されているだけではないだろうか。
本書はミステリー・サスペンスものであり、読み進むごとに謎が深まっていくのだが、気が付いてみれば実は震撼させられる世界が描かれている。
(2021/10/20)


ウィグルの強制収容所を逃れて
サイラグル・サウトバイ
アレクサンドラ・カヴェ−リウス
秋山 勝訳
文芸春秋

著者サウトバイは新疆ウィグル自治区で生まれ育ったカザフ人女性。医師であり教師であり、二人の子供の母親。
彼女からの何度もにわたるインタビューしたカヴェーリウスとの共著。
住民に対する監視体制が日々強まる中、突然拘束されて再教育施設と呼ばれる強制収容所に連行され、そこで同胞カザフ人など少数民族の人たちの教師として中国共産党の思想教育を強制させられる。
その後、命がけで隣国カザフスタンに脱出した著者が、法廷で今も進行中であるウィグルの実態を証言した。
異民族、イスラム教を信じているというだけの理由で強制収監し、自分たちのことば、伝統、文化、宗教、あらゆる自由を奪い、中国共産党が唯一の神として洗脳し忠誠を誓わせるという中国共産党の創造に絶する実態が暴かれている。

著者が自ら体験した事実、見聞きしたことなど赤裸々に語られている。
幼稚園に通う母国語で話す(中国語がしゃべれない)カザフ人の児童全員が口にテープを張られている。
鉄道駅で漢民族と非漢民族の中国人が区別され、非漢民族人だけセキュリティチェックを受けさせられる。
パスポートを提出させ取り上げてしまう。
「健康診断」を受けさせて網膜スキャン、声のサンプル、笑顔・悲しい顔など左右からの写真、動画など一切の身体データを収集。
家庭の電気メーターを調べ、使用量が増えていれば何らかの非合法活動をしているとパソコンやスマホを提出させる。
提出したパソコン、スマホを返却時には「ファンカイ」というスパイウェアをインストールしていた。
「家族になろう」プログラムで、カザフ人は中国人の家庭に強制的に単独で入らされ、内情は中国人の言いなりに家事の強制、レイプなど。

東トルキスタンの収容所でサトウバイさんが教師をしていたある深夜呼び出され、高位らしき士官からこれを読めと「北京からの機密書類」を押し付けられる。
その書類には以下のような中共政府の「三段階計画」が記されていた。
第1段階(2014年〜2025年):新疆において同化する意思をもつものは同化させ、そうでないものは排除せよ。
第2段階(2025年〜2035年):中国国内での同化完了後、近隣諸国が併合される。
第3段階(2035年〜2055年):中国の夢の実現後はヨーロッパの占領。
これらの目的のため、近隣諸国をはじめ全世界に中国人を送り込みスパイ活動、工作活動を起こりこみ、現実に「一帯一路」の名のもとに中国の意のままになったり中国に忖度する子にを増やしている。
彼らがこの書類を彼女に見せた後ライターで火をつけ最後の一片が燃え尽きるまでその模様を撮影していたという。

自由で平和の中で暮らす我々にとっては、「こんなものはフェイク」だとか、「ありえない」といわゆる「陰謀論」で片づけられることが多いが、心しておくべきことではないだろうか。
(2021/10/19)


零の晩夏
岩井俊二
文芸春秋

著者は小説家、映画監督、音楽家など多様な分野で活躍している人物らしい。
東日本大震災の復興支援ソング「花は咲く」の作詞者でもあるらしい。

広告代理店に勤務している主人公に、ある日職場の後輩から一枚の写真が送られてくる。
それは、写真まがいの写実絵画で、この絵を展覧会で見た後輩が私、主人公”八千草花音”に似ているのではないかと送ってきたのである。
それが写真ではなく、零という作者の晩夏という題の油絵であったという驚きが、学生時代美術部で絵画をやっていた身として大きな衝撃を受け、自分もその絵を見てみたいという思いと作者はどんな人物なのかという興味が生まれる。
ある日、職場の上司との不倫といううわさ話が持ち上がり、その相手だと疑われ、すっかり嫌気をさした主人公はすぐに辞職する。
心が満たされない日々、有り余る時間を持て余す中、幸いまだ開催中であったこの「晩夏」も展示されている展覧会で実物を見たいという衝動にかられ展覧会に行く。
その後、ある人の紹介で美術雑誌の出版社に就職面接を受け、正式社員になる前のトライアウト社員として仕事を始める。
いろいろな美術作品に関して記事にするべくインタビューなどを経験していく中、ある日ナユタという謎の人物の絵画が一部で評判になり、その特集記事を彼女の務める出版社で出版する企画が持ち上がった。
この作者ナユタが描くモデルがことごとく何らかの形で死亡するといううわさがたち、「ナユタの死神伝説」としてネットで話題になっているという。
そこで、このナユタという作家と作品の世界を紹介する記事を作るための仕事が花音に任される。

いろいろな関係者などを探し出し、インタビューを重ね、その作品に接するうちに、彼女自身ナユタの作品に惹かれるとともに、その作品の意味するところは何か、作者はどんな人物なのかどんどん謎が深まってゆく。
様々な角度で謎が絡み合い、なかなか深みのある推理小説にもなっていて、終盤に近づくにつれ作者の人物関係が次々と明かされ、驚きの展開となるのだが、その過程がある意味ハラハラさせられる。
絵画作品についての解釈、表現とともに、絵画というものの奥深さや魅力も伝える作品となっていて、結構引き込まれながら読み進めた。
(2021/10/4)


あしたの官僚
周木 律
新潮社

松瀬尊30歳、厚生労働省のキャリア官僚である。
一浪して7年前に入省して以来、官僚としての業務をこなし係長職にある。
仕事に対していい加減な部下や、苦しくとも助けてくれない上司に囲まれ日々外部からかかってくる各種クレーム的な電話や公務員をひぼうするような電話の対応などに追われている。
そんな中、ある地方で多くの住民が原因不明の体調不良を訴える事案が飛び込んでくる。
その問題に対処していく中、ついに国会で審議追求されるような大きな騒ぎとなる。

人員削減などでぎりぎりの環境で日々働く国家公務員や官僚の姿を克明に描いている。
一般市民国民からのひぼう中傷や、議員からの無茶な要求、マスコミによる悪質な捏造まがいの記事による攻撃などで追い詰められていく主人公を通じて、官僚たちの厳しい実態や悲哀が感じられる小説である。
(2021/9/19)


水よ踊れ
岩井圭也
新潮社

13歳から17歳まで香港に過ごしていたぼく(主人公瀬戸和志)は、父の仕事の関係で日本に帰りT大学工学部建築学科3年まで過ごしたが、どうしても確認したいことがあり再び香港に戻ってきた。
そして香港大学建築学院2年生として交換留学生として香港で暮らすこととなった。
確認したかった事というのは、香港から日本に帰る直前に当時付き合っていた少女が5階建ての建物の屋上から落下して死亡するという事件があり、それが事故なのか自殺なのかあるいは殺人事件なのか、そして自分の存在に因るところがあったのかなかったのか。
この事件を調べていく過程で、その少女の家族、兄弟や香港大学の学友たちとのかかわりの中で意外な展開に進んでいく。

世界中から人種を問わず集まって混然としながら互いに暮らしている香港という場所背景と、中国返還時期の前後を挟むという時代背景も織り交ぜている。
香港に住む人たち、特に貧困にあえぐ低層の人たちや、外国からの不法入国者たちの生きざま、また返還が迫る中、中国共産党に対する不安、不信感など複雑な思いも絡みながら、推理小説的要素もあって思わず物語の行き先に興味をひかれ続ける。
「国家安全維持法」の発効で、香港の自由が完全に奪われてしまった現況を鑑み、その複雑な思いもはせながら読了。 (2021/8/7)


これでおしまい
篠田桃紅
講談社

美術家篠田桃紅の歩んできた人生を振り返り、残した数々のことばや編集部がインタビューしてまとめた言葉、経歴を記したもの。
大正初期に生まれ、幼少時から父の手ほどきで書をはじめ、書道というより墨を用いた抽象表現という芸術分野を切り開いた人物。
ともかく子供のころから形にはまることを嫌い、自由奔放に生きてきた人生で、まあ根っからの「芸術家」なのだろう。
ただ、残した言葉から、まさに媚びず奢らず素直で自然そのままの純粋な生き様を感じることができて、その言葉に思わずうなづいてしまうものも多い。

人は結局孤独。一人。人にわかってもらおうなんて甘えん坊はダメ。誰も分かりっこない。
人間の一生はどんなにやってもこれで完璧だということにはならない。生きているかぎり、人生は未完成ですよ。
さあね、幾つのときが一番良かったなんて言えない。人間はそのとき、その時でしかないものを大切にすべきだと思う。
たいていのことは受け止めて喜ぶほうが、人生は得ですよ。
できるはずだと思い上がるから、行き詰るんです。やってもやってもまだなんの表現もできていないから、行き詰まるなんてことは絶対にない。行き詰まるはずがない。永遠にやったって、できないに決まっていることをやっているんだから。


たまにはあらためてこのような人生本を読んでみるのも、知らぬ間に汚れのたまった身には、気持ちのリセットに良いかもしれない。 (2021/7/29)


高瀬庄左衛門御留書
砂原浩太朗
講談社

高瀬庄左衛門は妻に先立たれ実務も退き、あとを継いでいる息子の啓一郎とその妻志穂と長年庄左衛門の供をして領内を巡り歩いてきた小者の余呉平と暮らしている。
ある日、啓一郎が郷村巡りの途中、村はずれの崖から転落して不慮の死を遂げてしまう。
啓一郎には子がなかったため、妻の志穂を実家に帰らそうとする。
志穂としては、実家に帰りたくない複雑な事情もあるようでこのまま高瀬においてほしいと頼むのだが、庄左衛門は説得して実家に帰すことになり、また長年連れ添ってきた余呉平にも閑を出す。
庄左衛門は郷村めぐりの折に、稲の育ち具合を写し取ることから絵に興味を持ち、我流で風景などを描くようになっていた。
啓一郎の死後、庄左衛門は再び啓一郎に代わり郷村めぐりの仕事に復帰していたある日、志穂とその幼い次弟俊次郎が屋敷の近くに来たのに出会う。
俊次郎も庄左衛門の絵に興味を示し、その後も志穂と一緒に屋敷へ遊びに来たいと願い、しばしば来るようになる。
俊次郎の兄秋元宗太郎が不穏なやからと同行する近頃の振る舞いに不安を感じた志穂が、庄左衛門にその悩みを漏らす。
そのころ、藩の中で何か不穏な動きが感じられ、やがて百姓を含めた騒乱が勃発する。


登場人物それぞれ過去から引きずってきたさまざまな人生があり、物語の中で徐々にそれらが溶け合うような雰囲気も感じさせる物語である。
中身として悲惨な事故や厳しい戦いの場面、逼迫した状況なども語られているのだが、全体的にはおっとりとした暖かい雰囲気で貫かれていて全く嫌な感じのしない物語だった。 (2021/7/19)


アクテイベイター
冲方 丁
集英社

レーダーにもかからず巨大な三角形の飛行体が突然東京上空に現れ、近くを警備中の自衛隊機に亡命を求める。
飛行機は中国の爆撃機H-20、パイロットは中国人民解放軍の女性隊員で民間空港である羽田に着陸を求め、結局それが認められる。
この出来事に、日本側は右往左往しながら警察庁、防衛装備庁、外務省、経済産業省などがそれぞれ担当者を出して対応に当たる。
一方、アネックス綜合警備保障の警備員真丈は、本件を担当の中心人物である警察庁の鶴来の義兄で、自身の警備事案から間接的にこの事件にかかわることから、結果的には重要な役割を担うこととなる。


テーマとなっている事件そのものは現実的には想像しにくいものではあるが、米中の対立とその間の日本の立場、個人それぞれ個々の利害など複雑に絡み合う状況で物語が進む。
真丈の活動を中心に物語は進められるが、彼のまるでスーパーマンのような立ち回りなど描写が刻銘で、活劇として面白い。
国家間の工作活動や、個人的なかけひきなど、平和に安穏とした生活を送る日本人にとってはある意味こんな世界があるのかとか言う観点をもつのも意味あることかもしれない。 (2021/7/19)


カード師
中村文則
朝日新聞出版

子供のころから不思議な世界にあこがれる主人公はカードを使う占いなどをしている。
その彼に英子氏という謎の女性から、投資会社の社長とされる佐藤という人物の顧問占い師になっていろいろ聞き出せという依頼を受ける。
英子氏の所属する企業が佐藤のことを知る必要があるらしい。
佐藤という男も謎の人物で、彼の人生や仕事に関して常に占いに依存する部分があって以前から専属の占い師を雇っているのだが、自分の意に反した場合はその命も奪うような人物で、前任の占い師も彼に毒殺されたらしい。
主人公も彼らにかかわることに身の危険を感じ、仕事の中止を英子氏に告げ逃げようとするのだが、すでにその罠から逃れられないように事態が進んでいく。


この小説で語られる世界は通常一般人の世界からは想像もできない反社会的要素も含む怪しげな世界なのだが、占い、占星術の歴史からカード手品、カード賭博やトリックなどが出てきて、それなりのその方面の知識が得られる点で興味がそそられた。
(2021/7/15)


父を撃った12の銃弾
ハンナ・ティンティ
松本剛史訳
文芸春秋

「ルーが12歳になったとき、父親のホーリーは我が子に銃の撃ち方を教えた」と物語は始まる。
12歳の少女ルーは父サミュエル・ホーリーとともに亡き母の故郷に移り住む。
各地を転々としながら暮らしてきたが、娘に真っ当な暮らしをさせようと、父サミュエルは漁師として働くことを決める。
ホーリーの壮絶な過去が逐次語られその生きざま人物像が浮かび上がってくる。
ルーは地元で周りの人間関係の複雑さなどに直面しながらも力強く成長していく。


この小説は、ホーリーとルーの現在の日常の暮らしを追うとともに、その間にホーリーの少年時代から現在に至るまでの出来事を語り、その節目ごとに銃弾を浴びることになる12の物語を挟むという構成で成り立っている。
父娘に常に付きまとって離れない母親のリリーの影も要所に。
そしてリリーの母親のホーリーに対する複雑な思い。
全体を通じ、常に銃弾が絡んだり暴力沙汰が起こるというハードボイルドな物語なのだが、彼ら3人のぎこちなさを感じさせながらもずっと底に流れ続ける素朴で小さな愛といったものを感じさせる何か魅力ある作品となっている。 (2021/7/10)


KGBの男
冷戦史上最大の二重スパイ
ベン・マッキンタイヤー
小林朋則訳
文芸春秋

ソヴィエト情報機関KGBの有能な人材オレーク・アントーノヴィチ・グルジェフスキー大佐の英国情報機関MI6との二重スパイとしての活動と、最終的にイギリスへ脱出するまでのノンフィクションドキュメントである。
ともかく面白い。
お互いに情報活動を続けるKGBとMI6さらには米国CIAとの攻防が詳細に述べられ、時あたかも1950年代からの米ソ冷戦時代に両国並びに関連各国が政治の舞台裏で激しく情報を巡って虚々実々の攻防を続ける様子が描かれている。
オレーク・グルジェフスキーは1938年にKGB一家の次男として生まれ、自身もKGBに入ってめきめきと力をつけていく。
学生時代から熱心な共産主義者であり、父や兄のようにソヴィエト国家のために働きたいと願っていたのだが、やがてソヴィエト共産主義の欺瞞に気づき、英国大使館で働き英国に接する中で西側の自由民主主義にあこがれを抱くようになって、良心の問題として西側のために働きたいと考えるようになった。

どこの国の大使館にも表向きの外交官のほかに何人もの公的身分を隠れ蓑として活動する情報員(スパイ)が存在している。
尾行をまくための様々なテクニック、狙われると靴や衣服に目に見えない物質や放射線を発する物質を付着させられて逃亡を困難にするなどのテクニック。
特に印象に残るものとして、当時のソヴィエトは本当にアメリカが核を使う恐れを持ち、それより先制攻撃するために必死にその兆候を探していたという話。
サッチャーがゴルバチョフと会談するにあたって、オレークの得た情報及び彼の分析、意見を聞いて臨んだという話。
ソヴィエトからフィンランド経由で英国に脱出するときの息も詰まるようなハラハラドキドキの脱出劇。
など、これが実話だと認識しながら読む中では非常に興味深く、手に汗を握るような感じで読めた。
(2021/7/4)


帝国の弔砲
佐々木譲
文芸春秋

主人公福島登志矢は何者かからの電報で指令を受け、日本国外務大臣松平洋介を暗殺するところから物語は始まる。

そのあと、彼が日本に来る前に時代はさかのぼり、1895年にロシアで沿海州に入植した日本人開拓農民の次男として生まれたところから1941年12月までの間の彼の足跡が語られる。
入植以来、数多の苦難を経てそれでもロシア帝国の市民としてロシア人とも仲良くやってきた中、勃発した日露戦争に端を発して彼らの運命が複雑に揺れ動いていく。

登志矢(トーシャ)はやがて少年工科学校に入り、有能な鉄道技能士になる。
このことが重宝され、独ソ戦や、のちのロシア国内の内戦でも戦いの場に入っていくこととなる。

日本との和平の後も、ロシア国内における白軍と赤軍との闘いなど社会の大きな変化に翻弄されながらも、彼自身もときに積極的に戦闘や作戦に参加したりして混乱の中の活動に入り込んでいく。

日本人でありながら、ほぼ生涯をロシアですごし、しかも間近で革命でゆれる時代にそのアイデンティティが形成されていく過程は興味深い。
ただ、この小説内では主人公はやはり生まれ育ったロシアが母国であって、生まれてきた血の日本人としてのアイデンティティは薄いように受け取られ、読者としては日本人としての民族性との違和感があり少々物足りなさを感じた。
また、日露戦争の終結についても、完全にロシア勝利との印象を与える表現で終わっているのは納得できない。
(2021/6/16)


雪のなまえ
村上由佳
徳間書店

3人家族の島谷家の一人娘の雪乃は小学5年生の折、突然学校でいじめにあう。
それまでいじめられていた子を庇うような行動をした結果、いじめの対象が雪乃に向かい、登校すらできない状況になってしまう。
母親の英理子はあらゆる可能性を熟慮して導き出された答えを理路整然と述べる性格で、一方父親の航介は深く考えるより直感と感情で動く性格で、その航介が急に田舎暮らしを言い始める。
東京育ちの英理子は突然のそんな話には同調できないし、会社を辞めるという踏ん切りもつかないが、航介は会社を辞め農業に転じることになり当面別居生活が始まる。
雪乃は、父親と田舎暮らしをする中で、祖父母や親せき、近隣の人たちと接触していくうちに自然と向き合う農業の暮らしに気持ちも和んでいく。


いじめという精神的に追い込まれる状況の雪乃に対して、周りの暖かい理解や保護のもとに心の傷が徐々に癒されていく過程がいろいろな出来事、エピソードで描かれている。
また、雪乃なりに自分のために心配してくれる両親の思いも理解しながらも学校へ復帰する気持ちには到達できず忸怩たる思いも伝わってくる。
率直で純朴な気質の残る田舎の人たちの雪乃たちへの接触の仕方が、ありきたりなヒューマニズムとは少し違った形で描かれていて、読んでいて好感の持てる小説であった。
押しつけがましくもなく、通俗的な理想論でもなく、一貫して流れている家族愛とか、古来の日本人の思いやり精神などを感じさせる筆致は心地よい感情を残してくれるおすすめの作品。
(2021/6/5)


田中家の三十二万石
岩井三四二
光文社

近江の国浅井郡の三川村に生まれた百姓九兵衛が32万石の大名に出世していく物語。
五反ほどの田地しか持たない中、年貢の聴衆にも満足に応じられないくらい貧農の暮らしに嫌気がさし、16歳の折、侍になると決心して家を出る。
始めは地元の領主である宮部善祥坊の屋敷に、まずは小者として住み込み奉公する。
そこでは、かつて自分が苦しめられた年貢の取り立ての仕事をはじめ、さまざまな雑用をこなす。
屋敷に仕える中間小者たちは侍扱いはされないが、いざ合戦となれば出陣して主人や配下の侍たちの手伝いをするため、日ごろから槍や武道の稽古もしている。
そのような経験の中で九兵衛は必死の努力を重ね、侍に登用され徐々に重用されるようになる。
やがて数々の合戦で手柄を立て、秀吉からも認められるまでに上っていく。

歴史上一般的に知られた人物でもなく、自分も全く知らなかった田中九兵衛であるが、後年石田三成を捕縛して徳川に差し出した人物だとこの小説で知った。
出世のためには武功のみならず、上への取り入りや、時には裏切りさえも辞さずしたたかに出世していく(例えば世話になった石田三成を差し出す)過程を描いている。
そして、54歳に筑後国32万石の領主にまで上り詰めるが、いざそうなってしまうとそれはそれでまた別の空虚な思いがよみがえるという人間の複雑な心情も語られている。
通例の歴史小説から見れば傍流のテーマと考えられるが、わき道から自分の知る戦国歴史の本流の一コマずつを垣間見るような感覚で読めてなかなか面白かった。
(2021/5/26)


冬の狩人
大沢在昌
幻冬舎

H県警察本部捜査一課川村芳樹巡査が、同本部にある未解決重要事件の情報を受け付けるメールボックスに、事件直後から重要参考人として捜査本部が行方を捜していた人物を自称する人物から、事件の詳細について話したいというメールを受け取る。
その事件というのは、地元で最も高級な料亭「冬湖楼」で会合していた5人のうち3人が殺害され、一人は無意識の重体で発見、残る一人の女性だけが姿をくらましていたという事件であった。

殺害されたのは地元本郷市で有力な企業であるモチムネの大西副社長、モチムネ社長の義弟にあたる兼田建設の新井社長、H県警OBで本郷市長の三浦市長、無意識で発見されたのは三浦の大学同級生の弁護士上田、そして行方不明者は上田の秘書阿部佳奈で、メールの主はその女性「阿部佳奈」というのである。

ただ、そのメールの中で、警視庁新宿警察署の組織犯罪対策課の佐江警部補を名指し、彼が彼女を保護、同行することの了解が得られれば出頭するという。
真犯人がまだ捕まっていない状況で、佳奈自身が次の標的となることを恐れ、何らかの事情で信頼できると思っている佐江の保護、同行を求めているのだ。

H県警捜査本部が佐江に打診するが、佐江自身は佳奈について全く知らないし接触したこともなく、なぜ自分を指名したのかわからないという。
その後、川村巡査と佐江はコンビを組んで事件の解明に当たっていくことになる。

県警と警視庁という警察組織間のセクト意識や軋轢、県警幹部と地元企業とのつながり、警察と暴力団との関係、企業経営を巡る宗家と買収企業との関係などが複雑に絡まりあい、話の進展とともに謎がどんどん膨らんでいく。
ピストルを撃ち合うなど派手なハードボイルドな場面も織り交ぜる一方、佐江と佳奈の接点の謎、犯人の真の狙いは何か、誰と誰がつながっているのかなど、読者自身がいろんな面でのなぞ解きを想定しながら、ついついその先が気になって読み進められる面白いエンターテインメント小説だ。
(2021/5/20)

それでも陽は昇る
真山 仁
祥伝社

神戸で小学校の先生をしていた小野寺。東日本大震災の支援として、東北は遠間で神戸での震災体験を伝えるため被災した小学校へ応援教師として出向していた。
その任務期間を終えて神戸に帰ることになったが、このような震災を体験していない子供たちにその教訓を伝えていくことが自分の使命だと自覚するようになる。
しかし、神戸に戻った小野寺は意に反して教員としての復帰がかなわず、NPO法人「震災伝承プロジェクト」なる組織で各方面への震災に関する特別授業や活動支援を行うことになる。
そんな中、震災を語り継いだり、復興の支援に従事するいろいろな人たちに出会い、彼らとの接触のなかで、どのようなことをするのが最適なのか思いが揺らぎ定まらない。

震災体験者だからといって自己の独りよがりな考えの押しつけや、被災者のためと言いながら結局は自己満足に陥ってしまう人たち。
時がたつにつれ、被災者、支援者それぞれ人々の心もそれぞれの思いも複雑に変わっていく。
そのような人の心理の変化とともに、このような活動のむつかしさを提起している。
そのような葛藤の末、主人公の考えの結論は、「災害経験者が伝えられる何より有益な情報は「失敗談」ではないか」とまとめ、災害から何年たってもそういった活動を続けることの大切さを読者に語り掛ける。 (2021/4/15)

きたきた捕物帖
宮部みゆき
PHP研究所

深川元町の岡っ引きで文庫屋を営む仙吉親分がフグ中毒で死んでしまう。
その一番下っ端の子分だった北一がその後過ごしていく間の出来事や事件に対する行動などに関する物語。
不器用ながら人の好い誠実な気性の持ち主である北一が、文庫屋の売り子として働きながら身近に起こる事件にかかわり岡っ引き的事態に引き込まれていく。
次の4編からなっている。
1 ふぐと福笑い
これで遊ぶと必ず祟られるという「呪いの福笑い」で遊んだ子供が鉄瓶の湯をかぶって大やけどする話
2 双六神隠し
呪いの双六で遊んだため突然子供が行方不明となる事件
3 だんまり用心棒
北一が住む長屋の持ち主で何かと知恵をくれていた富勘さんが人質に取られ身代金を要求される事件
4 冥土の花嫁
祝言の日に、亡くなった前の嫁の生まれ変わりという女性が突然現れるという騒動の物語


ずっと売れっ子作家なのだが実はあまり読んだことがなかった。
読んでみてさらっとした心地よさを感じる嫌味の無い作品で、さすが人気作家であることを認識。
4編いずれも、周りからも自分自身でも岡っ引きとしての能力評価は芳しくない北一が、周りの人たちに助けられながらも事件を解決していく。
もちろん事件を扱うのだから悪人も登場するのだが、テーマの底流に、人のつながり、人の善意をしっかりといい結果に結びつけていく物語の運びで、前述通り心地よく完読できた。
(2021/2/6)

天離り果つる国(上下)
宮本昌孝
PHP研究所

竹中半兵衛の家来、喜多村十助の子、七龍太を中心に進む物語。
戦国の世、四方を山に囲まれた飛騨にも周囲の戦国武将たちの争いの波が押し寄せてきたが、僻地白川郷の内ケ嶋氏だけはまだ周りの争乱に巻き込まれることもなく過ごせてきた。
ただ、当初から争乱がなかったわけではなく、内ケ嶋氏初代のころはそれ以前から住み着いていた人たちがあげて一向宗の信徒であり、武家権力の介入を拒み激しく戦った末、ようやく政教一致で治める体制に落ち着いたのだった。
そこに織田氏が勢力を増し、全国の諸将に上洛を促す蝕状が届く。
内ケ嶋氏においては、比叡山焼き討ち以来織田氏に激しく反目する真宗勢力との折り合いが現実的な問題となってきた。
そのような時期、織田の使者として七龍太が白川郷にやってくる。

内ケ嶋氏のことや、そもそも白川郷を含む飛騨の戦国事情など全く関心も持たず知ることもなかったのだが、逆にその特異性に注目し、歴史の一コマとして大きな位置付けとなる物語としたことに目を開かされた。
ヒーロー七龍太に対してとそれに近いヒロインとして物語の中心に登場する内ケ嶋氏の男勝りの姫紗雪の絡みを中心に物語が進む。
軌跡的と思えるような出来事や奇想天外な展開など歴史の史実にどれほど忠実なのかは別として、物語として面白い作品である。
(2021/1/17)

看守の流儀
城山真一
宝島社

舞台は加賀刑務所。
ここに所属する刑務官たちの受刑者をめぐる事件や社会復帰をサポートする活動、受刑者や他の刑務官たちとの人間関係などを描く。
受刑者たちが罪を犯した事件の背景や、更生に向かう上での刑務官との人間関係など、いくつかの例で語られていく中で、受刑者の取る行動や態度が何を意味するのか、刑務所内で発生する出来事や事件の背景、原因は何なのかなどいろいろ考えさせられる推理小説である。
事例として、
 受刑者の所内での自殺事件。
 所内で印刷された大学入試問題の外部流出事件。
 受刑者たちの健康診断記録やレントゲンフィルムの紛失事件。
 刑執行停止を推薦したいほどの優良な高齢の受刑者の物語。
 すぐに再犯の恐れのある受刑者の出所後のケア。
など、これらにかかわる刑務官と受刑者の物語が続く。

この中で、随所に登場する火石司という優秀な警備指導官の存在が何か意味ありげに気をひかれるのだが、最後でこの人物の実像が明かされること自体が読者にアッと驚かせる要素もあった。
日ごろ気にもかけない刑務官の仕事について初めて知ったが、彼らの仕事ぶりを好意的に評価する基調で描かれているのに好感をもった。
自分の知らない社会の中でそれぞれ誠意を尽くして励まれている人たちの存在も認識させられた。
(2020/11/21)


法の雨
下村敦史
徳間書店

検察官の大神は自分が起訴したある殺人事件の裁判の二審判決で無罪と判決されてしまう。
この判事は多くの判決で無罪を言い渡す「無罪病判事」と揶揄されていた。
事件は看護師の青年水島勇作が病院内で入院患者だった暴力団組長を殺害したというものだった。

一方、祖母と二人暮らしで大学受験を頑張ってきた嘉瀬幸彦は、大難関の医学部を無事合格する。
幸彦の祖父は重度の認知症と診断され介護施設に入所しているが、成年後見人がついている。
幸彦の大学入学に際して、入学費用は祖父が出すと約束されていたのだが、後見人はその証拠が示されない限り一銭たりとも祖父の資産に手が付けられないといって大学入学が絶望的になる。

無罪病判事の判決に不満の大神は、そのあともこの事件の真相を追って調査を続ける中で、幸彦の祖父、祖母との接点が出てきて、暴力団を含む様々な登場人物間のつながりが見えてくる。

この小説によって、遺族や認知症になった人物の家族ですら、一切の財産に手を付けるのが非常に困難という成年後見人なる制度の怖さを初めて知ったし、警察と法曹界さらには反社会的勢力との関連、裏事情など、普通知りえないような興味深い実態もそれなりに見えてくるという面白い小説だった。
(2020/10/20)


涼子点景1964
森谷明子
双葉社

1964年、東京オリンピックの開催に向けて日本中が沸いていたころ。
小学生の曽根健太が雑誌を盗んだと近所の本屋の親父から疑われ、困っていた時に無罪の証人になってくれた健太の友達の姉さん(と思っていた)涼子に救われる。
その後、お礼も言えなかった涼子が見つからず、このことに健太の兄も知恵を貸し、ともに涼子を探す。

ここから涼子を追い、居所や人物を調べるうちに、涼子が図らずも幸一の元同級生だったことがわかるのだが、彼女の人物や家庭など謎が高まる。

物語の章組は第1章健太、第2章幸一と始まって各章ごとに関連人物の名前で物語が進展するうちに、涼子に関する人物像や家庭、周りの人物、育った環境など徐々に詳細があらわれ、逆に謎が深まってくるという造りになっている。

最後で、とてつもなく恐ろしい謎が潜んでいるという結末も見事。
各章の題名付けと物語のリレー形式も面白く、ひと味違った推理小説といえる。
(2020/8/16)


聖者のかけら
川添 愛
新潮社

「この御方が誰なのか、調べて参れ」と聖遺物(亡き聖者の骨の欠片)を持たせ、修道院長から命じられたベネデイクト。

物語の時代背景は13世紀、キリスト教も各派が競い合っていた時代。
聖遺物はいろいろな奇蹟を起こすといわれ、教会にしろ個人にしろ、その争奪戦や売買、略奪、さらには偽物が横行していた時代。
愚直で清貧を重んじ、心底神に仕えたいと念じ、逆に言えば全く融通の利かない精神で日々を過ごしているベネデイクトに対して、彼の周辺に入りろな人物がかかわってくる。
特に、現実的な思考を持ち、目的を達成するためには策を弄することもいとわないピエトロ。
ベネデイクトがお手本にしたいと心から信奉するレオーネ。
彼らとのかかわりの中で、ベネデイクトは彼らに対する信奉、疑念、自分はどう生きていけばいいのかなどいろいろ葛藤に悩まされる。

そんな中、聖フランチェスコの遺体が行方不明になり、その所在を突き止めていくことに焦点が移っていく。

神の教えを信じ切って生きてきたベネディクトが、様々な現実に直面しての葛藤の中、物語は思わぬ展開を見せていく。
誰が信頼できる人物なのか、悪人なのか、聖遺物のありかはどこにあり、誰が隠したのか。
次第に読者自体がこの先の成り行きが気になってしまうような結構面白い推理小説。
(2020/8/11)


できない相談
森 絵都
筑摩書房

色々日常に関する著者のエッセイ集。 なかなかユーモアに富んだ、物事をとらえる視点の面白さが感じられる。

パソコンを買ったおばあちゃんから手伝ってほしいと頼まれた孫。何を手伝えばいいのか質問すれど要領を得ない。ソフトって何?添付?
買ったあと設定をどうしたのと聞くと、あのサポートとかなんとか、電話でやってくれたと。
まさか月1000円程度としてもその有料サポートを契約してるの?
すったもんだの挙句、サポート契約した会社の窓口に電話をしたら、「電話が込み合っています」「順番におつなぎします」など消費者を小ばかにしたような対応にいら立つ。
一体有料のサポートサービスとは何なのか。サービスとは本来無償の奉仕をさすのではないか・・・

など、読者も一度は経験したことがあるような、なんとなくうなづいてしまうようなエピソードが38話ふんだんに。
ちょっとした時間つぶしにお勧め。 (2020/8/10)


疫病2020
門田隆将
産経新聞出版

2019年12月に中国武漢で発生し、全世界に混乱を及ぼし未だに収まらないた新型コロナウィルス惨禍。
これに関して、後手後手に回り迷走する日本政府の対応や、各国の状況、その他多方面にわたる取材によって考察分析したノンフィクションである。
特に、発生当初から事の重大さに気づき、危機を感じた著者が、次々とツイッターで発信してきたその思いを紹介しながら、その時点での様々な背景や動きを克明に記している。
特に著者の視点は、かような事態は「非常時」であって、これまでのような安閑としている「平時」ではないのだという意識切り替えができない日本人及び日本国の現状を憂いてこれに警鐘をならしている。
厚労省及び官邸の国家的危機管理意識のなさがその対応に顕れている。

そのほか、台湾の対応、武漢病毒研究所に関する実態、世界の科学者たちの見解などにも触れている。


図らずも、コロナが暴いた共産党独裁中国の様々な問題、特に経済、安全保障の観点からの中国依存度の問題などについて、今こそよく考えなければならないことにまで提起を及ぼしている点も注目。
(2020/7/30)


黄金列車
佐藤亜紀
角川書店

主人公はハンガリー王国大蔵省官吏のバログ。
第2次世界大戦後期、ユダヤ人の没収財産を保護、退避させるため「黄金列車」に乗り込む。
国家体制すら判然としない戦乱の混乱期、いろいろな敵が収奪を企て、コロコロと変わる紛らわしい指示や横槍など飛び交う中で、現場担当の小役人として武力を使わず立ち回る。


歴史的事実をもとにしたフィクションである。
没収財産を積み込んだ長大な貨車群とともに移動する関係者や家族、住民など寄せ集められたいろいろな人物が共存していく一つのコミュニティにおける物語でもある。
戦乱期という異常な状態の時代背景もかんがみ、様々な登場人物の思い、次々と発生してくる問題への対処など、現在の観念とは異なった感覚を覚えながら興味深く読んだ。
(2020/6/28)


流浪の大地
本城雅人
角川書店

真摯な態度で仕事の正確さ、安全第一を重んじつつ仕事に取り組む大手ゼネコン技術者新井。
しかし新井にはかつて大型プロジェクトを受注するため、談合とまでは言えそうでもないが提案見積もり価格を直前に上司から変更を命じられたことで意に反してそれに応じたことで罪を着せられたという過去がある。
その彼が今回は日本初のカジノリゾートの開発事業に取り組むことになる。
だが、その入札に関して、陰でうごめく政財界の動向。
一方、取材源の個人は決して明かさないなど立派な記者魂を持ち長年貫いてきた記者としての先輩でもある伯父を持つ新聞記者那智。
彼自身もその仲間の記者たちと真摯な態度でニュースを求め、何か不正が働いているのではないかとこの開発事業を追い続けている。
日本初の大型国家プロジェクトをめぐって、海外資本も含め国内企業とのし烈な争いの中で、政界を含めた何らかの不正が行われそうな予感。
そんな中、スミスなる謎の人物からの示唆に基づき、その疑惑の詳細な内容までを掴んでいるかのように語りかけながら新井に接触してくる弁護士徳山。

誰が黒幕なのか、どんな不正が裏で起ころうとしているのか、新井にとって周囲に現れる人物の誰が味方で誰が敵なのか。
推理小説のように謎が絡まりあう面白い構成で成り立っている。
このような国を挙げての大型事業開発について、海外業者か国内業者か単に価格競争だけの論理でまかせていいのか、などの判断を問う問題提起にもなっている。
(2020/6/18)


ある一生
ローベルト・ゼーターラー
浅井晶子訳
新潮社

幼いころ母を亡くしアルプスの農場主に引き取られ過酷な労働を強いられて育った男の一生を描く。
男の名はアンドレアス・エッガー。
ある日雪山の小屋の中で病に倒れていたヤギ飼いを見つけ、負ぶって山を下りる。
ところが、村が近づいてきたときに、彼はエッガーに「死ぬときには氷の女に出会う」と告げたあと雪深い山の中へ再び姿を消してしまう。
どんな仕事も不満を言わず黙々とこなすうちに、生まれて初めてマリーという女性に出会う。
その後、近代化に伴うロープウェイの建設という危険と隣り合わせの仕事に携わりながら、貧しくとも幸せな生活を送っているさなか、ある晩に雪崩が起こり最愛のマリーを失ってしまう。

著名人でも何でもない一人の男の一生を、ほぼ20世紀の初期から終期に至る一時代を背景に淡々と語る架空の物語である。
人生のほとんどを、生まれ育ったアルプスの村で孤独に貧しく暮らしたエッガー。
農業、建設労働者、山岳案内人などの仕事をしながら、どちらかと言えば不条理な運命と環境の中で黙々と生きた、まさに達観した一生。
人生の本当の幸せとは何ぞやとか人間の本質とかを考えさせられるとともに、何か不思議な感動とすがすがしさを感じさせてくれる作品だ。 (2020/4/4)


熱源
川越宗一
文芸春秋

史実をもとにしたフィクション作品。
樺太出身アイヌのヤヨマネクフ(山辺安之助)、シシラトカ(花守信吉)と彼らの幼馴染で和人の父とアイヌの母を持つ千徳太郎治の3人を中心に広げられる物語。
元は無主の地であったサハリン島は、やがて帝政ロシアと日本が共同で領有するようになり、その後ロ日の間に領有が交互するという複雑な歴史をたどる。
このように西の大国と南の新興国の間で揺らぎ続けるこの島に、領有など気にするまでもなくここで生まれ育ち生活していたアイヌが翻弄されていくさまが描かれる。

「滅びゆく民族」とされ、近代化の進んだ大国の思惑に翻弄されるアイヌの人たちの生き方を問い、大国側の人々は彼らをどのように位置づけるのがいいのかを問う。
日本が明治維新以降近代化に向けて突き進み、世界では帝政国家が社会主義革命等で揺れ動く時代を背景に、大国間のはざまで揺れ動き続けたポーランドにも関連した物語構成となっている。
アイヌの人たちの生き方を中心に、明治初期から第二次世界大戦終了までの時代の壮大な歴史を描いている。
第162回直木賞受賞作品だけのことはあって、なかなか骨太でいろいろなことを考えさせてくれる読み応えのある作品だった。 (2020/3/30)

流れは、いつか海へと
ウォルター・モズリイ
田村義進訳
早川書房

身に覚えのない罪を着せられてニューヨーク市警を追われたジョー・オリヴァー。
十数年後、私立探偵となった彼は、警察官を射殺した罪で死刑を宣告された黒人ジャーナリストの無実を証明してほしいとの依頼を受ける。
同じころ、彼自身の冤罪について真相を告発する手紙が届く。
二つの事件を調べ始めたオリヴァーは、奇矯な元凶悪犯メルカルトを相棒としてニューヨークの暗部に分け入っていく。
心身ともに傷を負った彼が、正義を持って戦い続けるという探偵推理小説。

およそ普通の平凡な生活をしている平和な日本人には想像もできないような、アメリカの暗黒社会の深部を垣間見るような場面がいくつも出てきて、そういった場面が目まぐるしく展開していく物語構成が面白い。
そんな暗黒社会の中で法外の生き方をしている元凶悪犯のような人物とも奇妙に信頼しあえる人間の奥底の善意も描いてくれていて、そして、最後は正義が勝ち悪が滅びるというほっとするような構成となっている。
外国モノ独特のカタカナの名前がやたらたくさん出てきて、細かい部分の物語のつながりがあいまいなまま読み終えた感があるのだが物語構成は面白い。
アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞受賞作品 (2020/2/24)

新蔵唐行き
志水辰夫
双葉社

新潟の廻船問屋三国屋の手代である岩船新蔵が、海難事故で行方不明になっている三国屋の宰領の嫡子孝義を探し求め唐まで渡るという物語。
長崎から五島列島の福江島、更に難破船などの情報を追ってついに唐までたどり着く。
時はまさにアヘン戦争真っさなかの清国。予想外の出来事など、いろいろな事件に巻き込まれながら真相に迫っていく。

一介の商人の使用人でありながら武芸もたしなみ、一徹な心で目的を達成するため様々な難関に立ち向かっていく新蔵を、ついつい応援したくなるようなさわやかな冒険小説である。
鎖国の日本にも迫りくる外国勢力の波を感じる時期、特に長崎、五島列島などの生活環境から海洋漁業に携わる漁民たちの環境、生き方などに歴史の歩みを思い起こさせられもした。
(2020/2/11)

夏の騎士
百田尚樹
新潮社

ぼく、遠藤宏志が昭和の終わりごろの少年時代の他愛ない思いや出来事を語る物語。
昭和の終わる年に12歳の少年ぼくが、読んだ本の影響を受けて友人陽介、健太と3人で騎士団を結成する。
3人とも臆病で勇気もなく学業成績もよくない、いわゆる落ちこぼれと言っていい存在の少年たち。
騎士団を結成しようと思い立った同期は、本の影響と、実は勇敢な男になれるかもしれないという願望もあった。
騎士団というのは、先ず強くて何より名誉と勇気を重んじなければならず、そしてレデイに愛と忠誠を誓うことだとして、同じクラスで学校一の美女で人気のあった有村由布子をその貴婦人と決める。
そのほか、クラス一の嫌われ者で「おとこおんな」と呼ばれている少女壬生紀子も絡んでくる。

少年たちの他愛ない冒険物語のようなものだが、恋心も芽生える大人への過程を迎えた子供心、現実社会と正義心との葛藤のようなもの。
そこに、幼女殺人事件も絡んだ一種の推理小説ともなっている。
クラスでも常にいい成績を続ける優等生は、やはりその間の努力が将来への成功の基礎となっているという主人公のつぶやきなど、「努力」の実行の尊さなども説いていて、青少年にとってもそれなりの示唆を与える一種の青春小説だ。
(2020/1/25)

隠居すごろく
西條奈加
角川書店

巣鴨町にある糸問屋六代目の主嶋屋徳兵衛が、息子の政二郎に身代を継がせ、自分は隠居するところから物語が始まる。
徳兵衛は商売に邁進し嶋屋を発展させてきたが、人生を双六に例えるなら隠居は一つの上りと考えていた。
しかし、隠居とは上りではなく、数々の事件、事象が起こる二枚目の双六の始まりであったと気づくことになる。
巣鴨のはずれの百姓家を購入して隠居住まいを始めるが、もともとまじめで堅苦しいほどの商売一筋で生きてきたため日々の過ごし方に戸惑っていたある日、孫の千代太が訪れてくる。
その後ちょくちょく来てくれる千代太の存在が徳兵衛の生きがいとなる。
千代太は心優しい良家の坊といった性格で、野良犬を連れてやってくることをはじめに、町で知り合う貧しい家庭の子供たちなどで徳兵衛の周りがあふれるようになる。

のんびりと過ごす隠居生活を夢見ていた徳兵衛が、千代太が引き起こす事柄を通じて市井の一般の貧しい大人子供たちを何とか自立させ育て上げようと損得抜きで奔走する人物に変わっていくさまが描かれている。
苦しい環境にあっても、前向きに助け合いながら生きていこうとする人々を描いているこの作品は、読み終わった後にさわやかな快感を与えてくれた。 (2020.1.9)

絶声
下村敦史
集英社

「親父が死んでくれるまであと一時間半━━━。」
これ一体どういうこと?といった、こんな書き出しで始まる。

行方不明者の生死が七年以上明らかでないとき、相続人など利害関係者は家庭裁判所に申し立てることができ、失踪が宣告されると、その行方不明者は法律上死亡扱いとなり、相続などが可能となる。
大物相場師と呼ばれ、株で大富豪となった父親の失踪に、その莫大な遺産相続を狙って二人の兄妹と、その二人から見て弟となる追い出した後妻の子供の3人はそれぞれの思惑で父親の「死」を待っている。
ところが、その「死」が確定する数分前に、その父親自らのブログが更新され死を目前にした自分の思いなどが公表される。


非常に斬新な設定の物語構成のなかで、いわば他人を押しのけ家族への愛すら顧みず一方的に金の亡者となって一代を築き上げてきた父親と、その生き方を見習うかのように自己本位な欲を求めてきた兄、妹、そして異母兄弟の弟のそれぞれ屈折した生き方を描きながら、事の真相を解明してゆく展開が非常に面白い。
ブログに語られるこの家族の成り立ちや、各人の思い、父親の死ぬ間際になって気づく人生観などに、人間というものの傲慢さ、危うさ、悲哀など生き方を語りかける面も持っている。
どう展開し、どう決着するのだろうかという興味をそそる物語構成がみごとで、次々と発表されていくブログのトリックも今までにない手法のミステリーに仕上がっている。
(2019/12/11)

「5G革命」の真実
5G通信と米中デジタル冷戦のすべて
深田萌絵
WAC

『技術は世界を変える。中国型5G通信が世界に浸透していけば、私たちは統制された情報にしかアクセスできない人工世界へと導かれていく。すべてのモノによって、すべてが監視され、私たちのプライバシーは丸裸となり、それが商業的、政治的な目的で利用されていく。技術革命で起こる政治的変化に対して、私たちは新しい技術で立ち向かうしかない。』
これは本書のあとがきに著者が記したものであり、まさに著者が我々に知らしめたい思いであろう。

これまで通信技術は通信速度の高速化をどんどん進化させてきたが、この通信速度の高速化は莫大なデータ量をも一瞬にして世界中のどこへでも送りうるというもので、5G通信によってそれが実現されると世の中がどのように変わってしまうのか。
本書において、『テレビでは「米中5G覇権争い」などと、まるで「通信技術」が生む経済的利益の奪い合いであるかのように報道しているが、実態は全く異なる次元の問題だ。米中は「通信技術」のために争っているのではない。これは「諜報インフラ」をめぐる「グローバルな政治実質支配の覇権争い」なのだ。近い将来、中国製5G基地局によって世界が中国共産党に実質支配されるインフラが完成するかどうかという瀬戸際にある。』としている。

そのほか、いわゆるGAFAが中国勢の影響力を受けつつあるという現実。
彼らが中国の配下に落ちれば、世界中の個人データを含むビッグデータが中国共産党によって監視管理され、世界は彼らに支配されてしまうという危険性を、著者自身の体験、
例えばフェイスブックメッセンジャーによって人と待ち合わせした時の不審な監視、ファーウェイのスパイ活動を告発するブログを書き始めると、グーグルの検索結果から著者の名前と写真が徐々に消え始めた怪現象など
を交えて警鐘している。

トランプ大統領が何故ファーウェイを締め付けるのか、アメリカがなぜ中国との貿易戦争を仕掛けるのか。
このような疑問に対して実に明快に、その背景にある様々な事実を紹介しつつ答えてくれている。
とかく評判の悪いトランプ大統領であるが、このような背景を理解すれば彼の政策の意味合いも見えてくるのではなかろうか。

技術の革新によって人々の生活は格段に便利なものとなるが、同時に大きなリスクを背負うことにもなる。
特にこの5G通信革命がもたらす功罪は、今までに経験したことのない極めて深刻なものとなることを自覚しなければならない。
そういったことをわかりやすく説明してくれる著作だ。 (2019/9/30)

K2
復活のソロ
笹本稜平
祥伝社

奈良原和志は新鋭の登山家。日本の代表的な登山用品メーカー「ノースリッジ」のスポンサーシップを受けて、ローツェ南壁の冬季単独初登攀に成功し、一躍世界のトップクライマーに踊り出た。

彼がノースリッジの若手社員で技術開発を担当している柏田俊二と組んで、新しいアックス(ピッケルやアイスパイルの総称)のテスト目的で挑んだアマ・ダブラム(6856m)の登攀中、柏田が遭難死するという事故に会う。
柏田を救うため、非常に過酷な条件の中で最善の努力を試みた和志だったが、一部の部外者から疑惑の目が向けられクライミングをやめようかとまで悩み落ち込む。

そんな和志を支え励ましたのが、若いころから和志を見込んであちらこちらの岩場、氷壁を連れまわし登攀のノウハウを叩き込んだ磯村賢一と、ノースリッジのマーケティング室長の広川友梨であった。
彼らの励ましや、かつては自分も優れたアルピニストであったノースリッジ社長の山際のサポート、更に亡くなった柏田が構想し、設計を描いていたアックスの高い性能を実際に証明してみせることで彼への栄誉にもなるかと、アマ・ダブラムの次にと彼らと目標としていた冬季のK2への挑戦を決意する。
和志にとって気の許せるパートナーの磯村は不治の病に冒される中も、何かにつけ和志を叱咤激励しながら、隊長としてベースキャンプなどで関係各所への連絡、手配などサポートしてくれる。


登山家、クライマーにとっては、「初登頂」はやはり一般人が想像する以上の大いなる名誉なのだろう。

この物語の中においても、他のクライマーや登山隊との競争、場合によっては足の引っ張り合いなどまで、赤裸々な人間の醜さをも表現されていて、単なる山岳小説というだけでない、深い興味を感じさせてくれる。
また、厳しい氷壁、岸壁の登攀のスリリングな描写や、気象との戦い、他のクライマーとの先陣争いなど、はらはらしながらどんどん引きこまれる読み応えのある小説だった。 (2019.8.27)

大岩壁
笹本稜平
文芸春秋

5年前、頂上を目前にして大事な友、倉本俊樹を失い登頂を断念したナンガ・パルバット(8126m)に、再び挑む立原祐二。
今回は、前回倉本とともに挑んだパートナー木塚隆とともに、倉本の無念を晴らす弔い合戦の意味も含めて再挑戦を目指していた。
しかし、この計画に倉本の弟、晴彦がどうしても兄の遺志を継ぎたいと参加を申し出てくる。
晴彦は兄の俊樹を上回る登壁技術を有する有能な登山家らしいが、これまでの大学山岳部での活動などから個人プレーを優先しがちで、チームとして行動するうえで問題があるように思われた。
だが、結局彼の登攀技術と兄の遺志を継ぎたいという熱意に動かされ、急遽3人での挑戦となる。
冬のナンガ・パルバットの初登頂を目指すこの計画に、同じ時期、ロシアのパーティーも参入してくることが判明。
予期せぬ事態の発生が予感される中、彼らの登攀はどうなるのか・・・

パキスタン北部にあるナンガ・パルバット(8126m)は標高においては世界第9位であるが、多くの遠征隊がおびただしい犠牲者を出し、「魔の山」「人食い山」の異名を持ち登攀の非常に困難な山である。
それを冬季未踏で、かつ夏季でも難関といわれる基部からの標高差4800mもある「ルパール壁」からの冬季初登攀を試みるのだ。
突然、初登頂を目指して同じルートに参入してくるロシア隊の不可解な動き、兄の死について、同じパーティーの仲間だった立原、木塚達への何らかの疑念を抱いているかのような晴彦の言動や勝手な行為などが、物語にミステリーの色合いも加わって、読者をどんどん引き込んでいく。
ヒマラヤの雄大かつ峻厳たる自然の描写は、著者の本当に山を愛し恐れ敬う心が表現されていてすがすがしい。
(2019.8.2)

ガラパゴス上・下
相場英雄
小学館

警視庁捜査一課の継続捜査班は、いわゆる花形の部署からは程遠い迷宮入り寸前の事件を捜査する部署で、他からはじき出された一癖も二癖もある刑事ばかりが配属されている。
そこに所属する田川信一は、同期の鑑識課にいる木幡祐治から身元判明につながる鑑識の件数ノルマを達成するのに協力を依頼される。
不承不承協力することになった田川は、身元不明者リストの中から、自殺と処理されていたある人物の死因について疑惑を感じる。
記録に残されているわずかな情報から、関係者などを探し求め、少しずつその人物にせまり、やがてそれが「仲野定文」という人物であることが判明。
そして、彼は自殺ではなく誰かに殺されたものと確信した田川は木幡とともに再捜査し犯人を追い求めることになる。
事件を追うにつれ、被害者は派遣労働者で、下請けと元受け、正社員と非正規労働者等複雑な労働環境で非常な苦労を余儀なくされていたようだが、同僚や知人、出身地地元での評判は決して悪くなく、恨んで殺されるような原因は見当たらない。


大会社に無理強いをされる下請け会社。また、他人を裏切り、踏みにじって蹴落とすことによってでも正社員を目指すという、弱い立場の非正規労働者の実態等の社会問題を絡めて物語が構成されている。
主人公は悪を懲らしめるために労を惜しまない正義感あふれた刑事であるが、警察の中にも存在する不正との癒着や、単に正義感だけで通用しない実社会の矛盾、問題点を読者に問うという作者の意図が感じられる小説。
物語の中で、「ガラパゴスの住人」と名乗るSNSの記事書き込み者が登場し、他方、日本では低燃費のエコカーとされるハイブリッド車は外国ではあまり重視されず、ターボエンジン車などの技術から取り残されている日本の立場を表現しようとするための意図から、本題名が付けられたものと思われる。
因みに、エコの優劣についての見解の正誤は知らない。
(2019.7.2)

脱走王と呼ばれた男
第二次世界大戦中21回脱走した捕虜の半生
デイヴィッド・M・ガス
花田知恵訳
原書房

副題の通り、第二次世界大戦中に21度も脱走したイギリス人捕虜と彼を取り巻く多くの関係人物を描くノンフィクション物語である。
物語に中心人物であるアレスター・クラムは、英国軍将校として第二次世界大戦の中で北アフリカ戦線において捕虜になる。
この時、北アフリカ戦線でとらえられた捕虜はすべてイタリアが管理するとされていて、彼もイタリア側に引き渡される。
イタリア本土へ移送される段階で、アレスターはすでに2回逃亡を試みていたという。
はじめにシチリアのセリヌンテという村の中心にある17世紀の修道院に収容される。

アレスターは4歳で初めて山登りを経験して以来、山は彼にとって安息の場、癒しと再生の場であった。
14歳のころには単独でハイランドの山々を登り始め、やがてアルプスにも登るようになり、地元の新聞では彼を有名人扱いとしていた。
アレスターにとって、山登りと収容所脱走は密接に結びついており、彼の脱走の多くは山登りと、その技術を取り入れたモノであっただけでなく、 登山も脱走も似たような感情的精神的変化をもたらしていたという。
そういうわけで、何度も失敗を繰り返しながらも、彼は本能の疼きに従うがごとく脱走を試みるのである。


大規模なトンネルを掘っての脱走など、アメリカ映画「大脱走」などでは見ていたが、かの大戦時にはあのような脱走があちこちで何度も実際に行われていたと知り、単なるフィクションではないのだと改めて実感した。
実際、いろんな収容所ごとに、数多くの脱走劇が展開されていて、施行した例やもちろん失敗の例も多くあるが、失敗しても必ずしも命を失うというのではなく、読んでいて、何かリクレーション的に何度も脱走を試みることが当たり前の考え方なのかとも思い知った。
もちろん、脱走を企てるにあたっては、捕虜たちすべての意思疎通や協力が必要で、まさに軍隊としてのシステマチックな思想も整っていた、つまり脱走行為も戦争における軍事行動そのものと考えられていたことにも改めて思い知らされた。
この書は、著者自身が子供のころから脱走物語に興味があったそうで、アレスター自身が後日残しておいた手記を読む機会にも恵まれ、アレスターを中心に数多くの脱走者による脱走劇の事実を歴史の一端としても残そうと取り組んだもの。

ちなみに、アレスターは戦後ヒマラヤ登山中に「雪男」を発見したとして注目されたことがある人物だそうだ。
(2019.6.14)


尾根を渡る風
駐在刑事
笹本稜平
講談社

東京の最西部、奥多摩町の駐在刑事江波淳史の周りに起こる山岳にかかわる事件の物語5小編からなる。

花曇りの朝
仙人の消息
冬の序章
尾根を渡る風
十年後のメール
の5編。

   例えば「十年後のメール」は、
     亡くなった息子からのメールが届く。いったいどういうわけなのか?
     息子の死は一体どういう原因だったのか。事故なのか、自死なのか他殺なのか?
     父親が、息子の死にかかわっているのか?
     いろいろな疑惑が噴出してくる・・・



事件性、推理性の展開などに関しては、アッと驚かされるような、あるいは思わぬ意外な展開という観点で言えばそれほど読者に衝撃を与えるようなものではないが、いずれも登場人物は山を愛し、自然を敬うような人たちで構成されていて、さわやかな読みごたえとなっている。
いずれも、山を愛する著者の思いのちりばめられた推理小説である。
(2019.5.24)


海峡の蛍火
杉洋子
集英社

朝鮮との貿易で息をつないできた対馬藩の物語。
対馬の島主宗氏は高麗王朝と通商条約を交わし、交易を中心に確固たる島主の地位を築いてきた。
高麗滅亡後も、李氏朝鮮と友好を結び、貿易を中心により一層朝鮮や中国と深い絆を結ぶ。

宗氏中興の祖ともいわれる宗義智の生きざまを追う。
秀吉の時代となり、朝鮮出兵を何とか阻もうとこの島主は朝鮮、中国と日本のはざまに立ち生涯を苦悩の渦の中で過ごす。


朝鮮にまで手を広げようとする秀吉と、朝鮮と友好を保ち貿易を続けたい対馬藩の想いの中の葛藤。
宗義智は、対馬という特殊な位置づけにある国を象徴する人物であった。

日本の歴史の一コマを、従来とは異なった観点で見つめなおす切っ掛けを提起する作品。
(2018.8.29)


孤軍
越境捜査
笹本稜平
双葉社

警視庁捜査課の刑事である鷺沼が得体のしれない何者かに後をつけられる。
だが、その追跡者は別の警察署の警官であることがわかる。
なぜ自分が警官に狙われるのか心当たりはないのだが、このような場合は監察という部署が素行の悪い警察官を取り締まるために調査することはあり得る。

鷺沼は、強行犯捜査係が取りこぼした未解決事件の継続捜査を担当する部署で、いまはだいぶ以前い起きた殺人事件の継続捜査を行っている。

色々突き詰めていくうちに、どうやらその殺人事件に警察内部の上層部にいる人物がかかわっているようで、鷺沼たちの操作が及ぶことを恐れての妨害工作の匂いがしてくる。

事件はやがて鷺沼たちの調査チームと、事件に絡んだ警察上層部の人間およびその恩恵にあずかった取り巻きたちのグループとの応酬になった進展していく。



警察内部に巣食う悪徳警察官僚と、鷺沼のように正義感をもって悪と戦う警察官たちとの応酬が、将棋の対局のように一進一退の緊張感のある展開となって先を読んでいくのが気になっていく。
さらに、正義側の鷺沼たちのチームの中にも、悪事を働く人間からなら、金をふんだくってやろうという不純な心得の警官も交じっていたりしてなかなか読んでいて面白い小説である。
(2018.1.23)


蒼き山嶺
馳 星周
光文社

久しぶりの山岳推理小説だ。

北アルプス遭難対策協議会に属し、日夜登山者たちの安全確保や救難に努めている徳丸志郎が白馬槍温泉小屋付近の残雪の様子を確認した後の下山途中で、一人の覚束ない足取りで登ってくる登山者に出会う。
ところが、この登山者が徳丸と大学同期で山岳部で親しく活動していた池谷博史であることがわかり驚く。

二人は大学卒業後どちらも警察官になった。
徳丸は山に関わる仕事を希望し長野県警に、池谷は警視庁に就職した。

長年登山から離れていた池谷は昔の感覚が通用しないことを知り、徳丸に白馬岳までのガイドを依頼する。
ところが、池谷がそのような状況下でなぜ白馬を目指しているのか、序盤を過ぎたあたりから意外な驚くべき方向に展開していく。



著者をよく知らないが、山の描写、登山技術などのノウハウの表現などから、著者自身が本格的な山岳人かと思わせる山岳小説である。

意外な展開の連続は、ある意味少々強引な部分も感じられるが、それにしても、常にこの先の展開が気になって一気に読み通したい作品だ。
自分の命をねらっている人物をも、山での遭難から救おうとする山男としての本能、あるいは意地といった心の葛藤も巧みに描かれている。 白馬岳を中心とした登山ルートが克明に現れ、山の愛好家にはおすすめの一冊。
(2018.3.9)



蜜蜂と遠雷
恩田 陸
幻冬舎

『皆さんにカザマ・ジンをお贈りする。文字通り、彼は「ギフト」である。恐らくは、天からの我々への。だが、勘違いしてはいけない。試されているのは彼ではなく、私であり、審査員の皆さんなのだ。・・・』

今年二月に亡くなった、伝説的で世界中の音楽家や音楽愛好者たちに尊敬されている高名なユウジ・フォン=ホフマンから国際ピアノコンクールの審査員にこのような推薦状が届く。

全く無名のカザマ・ジンとは何者なのか。コンクール応募の履歴書にはパリ国立皇統音楽院特別聴講生と記述されているだけである。
だが、「師事した人」の欄にユウジ・フォンーホフマンに5歳より師事とある。

数多くのコンクール参加者の中で、予選を順次勝ち進む天才的なピアニスト3人と審査員のこのカザマ・ジンに絡む思いや出来事がこの物語を語らせていく。


一言では表現しにくいが、なかなか面白い小説ではあった。

天才の心の動きはこういうものなのか、凡人とは一味違った感性を持ち合わせているのだろうか、天才同士が引き合い認め合う我々に見えない何かがあるのだろうなという感じを抱きながら読み終えた。
また、天才でありながら本人にはそういった明確な自覚もなく、それらを超越したものなんだろうなとの思いも抱いた。
彼らがコンクールに臨む心の動き、思惑、葛藤や、その演奏場面など、臨場感を感じさせられ、多少なりとも音楽を愛好する心のある者には読み応えのある作品ではなかろうか。

物語に出てくる彼らが発表する曲目プログラムから、実際にどんな曲だったかとyoutubeなどで改めて聴いてみたりと興味が広がった。
(2017.11.9)


終電の神様
阿川大樹
実業の日本社文庫

7話の短編より成る。

いずれも終電間近い電車の中での出来事や回想が物語られる。

もう一つ感銘を受けたというほどのものでもないが、大体さほど嫌みのない人の善意を感じる作品だった。

第4話の「閉じない鋏」が印象に残った。

夕食代わりに立ち寄った小料理屋でたまたま知り合った客との会話から、その人物が今はガンで入院している理髪業をしていた父にいつも散髪をしてもらっていたということがわかる。
その会話から、実直に客のためを思って仕事をこなしていた父に対する尊敬やほこりを感じさせられたことがきっかけとなって、急遽父の容態が悪化したおり、自分が父の後を継ぐと決心する。
(2017.10.11)



Mr.トルネード
藤田哲也 世界の空を救った男
佐々木健一
文芸春秋

戦後アメリカに渡り、竜巻研究で名を成し、米国気象会で「Mr.トルネード」の異名を持つ藤田哲也(1920年-1998年)の物語。
日本ではほとんど知られていない藤田であるが、謎の航空機事故とされたニューヨーク、ジョン・F・ケネディ国際空港での着陸直前墜落事故の原因究明を行った人物。

1975年6月24日、イースタン航空66便墜落の9分前に着陸した貨物航空会社フライイング・タイガー航空161便の機長は、「進入経路の地上付近に強烈なウィントシアー(風の急変)があるので着陸する滑走路を代えることを強く勧める」と管制塔に伝える。
しかし、管制官は「あなたが着陸したときの風は正面から7メートルでした」と、何も異変は起きていないと告げた。
これに対してフライング・タイガーの機長は「そこでどんな風の指示があろうと関係ない!我々が着陸した滑走路には強烈なウィンドシアーがあるから北西方向に着陸するように滑走路を代えろと言っているんだ!」と怒鳴りつけた。

その直後に当の事故が起こったのである。

この事故の原因調査を航空機会社から依頼された藤田は、竜巻研究で得た様々な実証データなどを分析し、ごく狭い範囲での下降気流が地表近くで水平方向の衝撃波を発生させる「ダウンバースト」の存在を仮想し、激しい論争と幾多の実験の末これを証明して見せるのだ。


藤田は長崎に投下された原子爆弾の被害調査を直後に行っていた。このときも、実際に現場を歩き、多くの写真などを撮り、破壊されたもの、残された倒壊樹木、お墓の花生けの竹筒に残された黒墨などから、使われた爆弾が1発であったことや爆発高度などを計算し、のちにそれが正しかったことも証明されている。

その時の調査も、この航空機事故の原因究明に結びついていることなど、非常に興味をそそられた。

藤田のこの研究実績から、航空機事故対策が施され大きな事故の撲滅に多大な貢献がなされていて、私をはじめほとんどの日本人には知られていないこの日本人研究者を輩出したことにおおきな誇りを感じる次第である。 ちなみに、藤田の国籍はアメリカである。
(2017.8.6)



陽明丸と800人の子供たち
日露米をつなぐ奇跡の救出作戦
北室南苑
並木書房

ロシア革命後の混乱期に800人の子供難民を救った日本船の物語。

ロシアのサンクトペテルブルクで個展(篆刻)を催していた著者のもとに突然一人のロシア人女性から声を掛けられある日本人船長の子孫を探してほしいと依頼を受けたことからこの歴史的事実を掘り起こした実話である。
米国赤十字社の要請に各国各団体から断り続けられたなか、この要請に応じ、当時の首都ペトログラードからシベリアまで避難してきた子供たちを親元に返すため、二つの大洋を横断し、機雷が漂うバルト海を通過するという危険かつ失敗の許されない大航海を成し遂げたのが日本の貨物船「陽明丸」でありその船長茅原基治であった。
もちろん、このプロジェクトが可能となったのは、陽明丸の持ち主である勝田汽船の勝田銀次郎、のちに神戸市長の決断、容認があってのものである。
著者に声をかけたこのロシア人女性はオルガ・モルキナさん。
彼女は子供時代に「カヤハラ船長」にお世話になったとその冒険談を交えて祖父母から聞かされていた記憶から、是非その子孫に会ってお礼を述べたいと強い気持ちを持ったのがきっかけ。


巻末に掲載されている船長自らの手記も興味深く、特に当時のニューヨーク領事館をはじめとする日本人外交官の手続き重視、異なかれ主義に対する当事者としての批判なども実感がこもっていて面白い。
また、当時の日米や諸外国の対応、経済文化の差異や、当時の日本人としてのプライドなどについてもいろいろ感じさせられた。
(2017.7.23)



春に散る(上下)
沢木耕太郎
朝日新聞出版

いつか世界チャンピオンをの夢をもってアメリカへ渡った広岡仁一は、夢破れた後もそのまま一度も日本に帰ることなく40年をアメリカで過ごす。
何となくキューバを見たいという思いから、住まいのあるロサンゼルスからフロリダ半島の南端マイアミからさらに南に続く島嶼や橋でつながった先にキーウェストまでタクシーでの旅をする。
その旅行のあと、ふとした弾みから日本へ帰ろうと思い立つ。

帰国後、若いころ同じジムに所属し、寝起きを共にした3人の仲間を次々と尋ねて回る。
その3人は、藤原、星、佐瀬で、広岡を含めかつて四天王と呼ばれた秀逸なボクサーであり、それぞれが特徴的な必殺技を持っているのだが、今はそれぞれ事情を抱えながら平穏とはいえない人生を歩んでいた。

帰国してから世話になった不動産屋のあっせんで多人数が共同生活できる広い家を借りることになる。

このようにして、再び昔の気の合った仲間と共同生活が始まった記念に、40年ぶりに集い、語り合う酒場で、ちょっとしたことから若者とのトラブルに遭遇することになる。ここまでが前編。

以下、後編に入る。

広岡はチンピラのような若者に絡まれ、それを完全に打ちのめしたがそのうちの一人の若者を病院へ連れていき、その夜は自分たちの家に泊める。
その若者黒木翔吾はボクシング経験があり、年配の男に打ちのめされたことからその技を自分にも教えてくれと近づく。


実のところ、図書館からの空き状態の関係から下巻から先に読み始めた。
このことが逆に、物語の進行を読み進めるにつれ、前編でどのようなことがあったのか4人の人物像を想像しながら読むことができて、前編に戻った時に一つずつ謎が解けていくような興味深い読み方ができた。

広岡をはじめとする4人は、それぞれ独自の得意技を有する優秀なボクサーであったが、期待されながらも誰一人としてチャンピオンにはなれなかった。

人格的にもそれぞれ独特の個性が際立っているのだが、同じジムで苦しい修行をした仲間意識からかお互いが認め合うまっすぐな性格の持ち主の人物として描かれている。
したがって、誰も社会的に成功したというような人生は送っていないのだが、彼らの人物像に終始好感を抱きながら読み進むことができ、なんとも言えない気持ちよさを感じる小説であった。
(2017.6.11)



鬼門の将軍
高田崇史
新潮社

貴船神社奥宮の森で杉の木の枝から吊り下げられ、そのまま杉の幹に大釘で打ちつけられた女の他殺体が発見される。
さらに、宇治川の橋脚に引っかかった首なし死体が発見される。

医薬品関係の出版社に勤務する満願寺響子は、営業活動の途中、千代田区の将門塚が荒らされ男性の生首が発見されたという現場に出くわす。
将門塚が怨念塚とも呼ばれることから、この事件は怨念によるものかと、平将門に興味を抱き始めるが、その生首の主が響子の会社に関連する社長であることが判明する。

しかも、被害者の社長と、貴船で殺された女性の名字がどちらも深河と一致することを知り、響子は驚く。
さらに日本史に詳しい従弟の漣から将門のことをいろいろ教えてもらううちに、この事件は将門の生涯になぞった殺人事件ではないかと、ますますこの事件にのめりこむことになる。


殺害の状況や、事件の進展やいろいろな事象の結びつきなどがやや強引な気もするが、そこは小説と割り切って読んでみると、平将門の人物像やその時代背景など歴史として興味深く感じるところもある。
事件と将門ゆかりの接点がどのように合流していくのかという興味も相まって、それなりに引き込まれていく要素を持った推理小説である。
(2017.5.24)


紙の城
本城雅人
講談社

テレビ会社の傘下にある新聞社が、近年急速に台頭してきたIT関連会社に乗っ取られようかという危機に、当新聞社の記者たちがこれを阻止するべく戦う物語である。

アーバンテレビ系列の東洋新聞社の社会部デスクの安芸は部下の信頼の厚い人物である。
近頃、インアクティブというIT会社がアーバンテレビ株の15.6%を買い占めた。
アーバンとインアクティブとの話し合いの結果、結局TOBするのではなくインアクティブが買ったアーバンの株を返す代わりに東洋新聞株をもらうということになった。
つまりインアクティブの真の狙いは非上場である東洋新聞社を支配下に置くことであった。
そして、この話の影の仕掛人は元東洋新聞の社員であった。
外向きには、ITとの融合、完全ネット化によるニュースのボーダーレス化、速報化などと説明されているが、当社が新聞社を持つことの真意はわからない。
しかし、この買収が実現すれば東洋新聞としての新聞部門は経営合理化、経費節減、人員整理、宅配縮小といったことが考えられる。
ただ、日刊新聞法によって新聞社役員は株式譲渡を拒否する権限が与えられており、東洋新聞社の役員の賛否にかかることになる。
従って賛否拮抗している役員たちのどちらが多数派になるかがポイントということになる。


日刊紙を愛し、会社を愛し、記者の独自性を愛する従来の記者魂を大切にしたい安芸ら志を同じくする記者たちが東洋新聞存続のためこれに立ち向かい、役員に働きかけたりするのであるが、そういった姿が素朴で正義感にあふれた物語として描かれており興味をそそられ引き込まれていく。
(2017.1.24)


サイコパス
中野信子
文春文庫

ありえないようなうそをつき、ふつう考えられないような不正を働いても平然としている。嘘が完全に暴かれ衆目に晒されてもまったく恥じることもなく堂々としている。
一方で、弁舌がさわやかで人当たりが良く、また勇敢でもあり人がしり込みするような事態や物事にも動じないといった魅力的な面もある。
このような人間が世に存在するが、これらはサイコパスに特有の性状だという。

サイコパスとは元々は連続殺人犯などの反社会的な人格を説明するために開発された診断上の概念だという。
しかし具体的にどのようなものであるかイメージし難く、その実態を指し示す適切な訳語がない。

近年脳科学の劇的な進歩により、サイコパスの正体が徐々にわかってきた。
脳内の器質のうち、他者に対する共感性や痛みを認識する部分の働きが、一般人とは大きく異なっている。

そこで、サイコパスは必ずしも冷酷で残虐な殺人犯ばかりではなく、大企業のCEOや弁護士、外科医といった大胆な決断をしなければならない職種の人々にサイコパスが多いともいわれている。


本書によると、サイコパスは脳科学の面からみても遺伝的要素が大きいといえるそうだ。

「アップルの共同創設者のひとり、ジョブスは世界で最も洗練された勝ち組サイコパスだったのではないかと考えられている」
「卓越したコンピュータの知識があるわけでもなく、卓越したげ座員その他の実務的ビジネススキルを持ち合わせとぃた訳でもなかったが、天才的なプレゼンとネゴシエーションの才能によって全世界の人々を魅了した人物」とある。
本書を読むと、特殊な犯罪者というだけではなく、確かにそういったタイプの人間ならどこにでも存在しているし、彼らは(自分もひょっとして)「サイコパス」に属するということなのかと認識した。 (2017.3.13)


殺人者の顔
ヘニング・マンケル
柳沢由実子訳
創元推理文庫

スウェーデン南部の小さな村で凄惨な殺人事件が起こる。
被害者は片田舎で静かに暮らしていた老夫婦で、夫は顔が見分けがつかないほどつぶされ両手を背中で縛り上げられた状態で殺され、発見時虫の息だった妻も「外国の」と言い残して息を引き取ってしまう。
このような残虐な事件にヴァランダー刑事を中心に地元警察の面々が必死に捜査を始める。


この事件の背景として、当時(1990年の設定)の移民を多く抱えるスウェーデンにおける外国人に対する反感という問題が浮き彫りにされている。

おりしも新しく誕生したトランプ米大統領の過激な発言に端を発する移民政策に関する論議を重ねながら読むことができ、偶然とはいえ時宜を得た作品となっている。
また主人公ヴァランダー刑事をはじめ、登場する警官たちの人間味あふれた会話、行動が心地よく、気持ちよく読み切れる作品である。 (2017.2.15)


ピカソになり切った男
ギィ・リブ
鳥取絹子訳
キノブックス

2005年に捕まるまで30年以上も巨匠の偽作を続けた天才贋作作家の手記。
自身の生い立ちから、贋作作家に至るまでの経緯を書いている。
贋作といっても彼のものは巨匠が描くならこう描いただろうと思われるようなまったくの新作の創造だった。
しかも、ただ一人の絵を贋作するだけではなく、ピカソ、シャガール、セザンヌ、ルノワール、モディリアーニ、マリー・ローランサンなどからフジタに至るまでの名だたる画家の絵を描くのだ。
その仕事ぶりはまさにプロそのもので、例えばピカソを描く場合には、ピカソの作品を数多く見ることはもちろん、ピカソに関するあらゆる事柄を研究学習し、この絵を描くときの心理まで想定してまさにピカソになり切るといった姿勢で臨むのである。


これだけの画家としての能力を持ちながら、なぜれっきとした画家として生きていかなかったのか、彼自身もそのジレンマはあったようだ。

手記の中で語っているのだが、彼のシャガールの贋作画の前で著名な鑑定家ジャック・デュパンが、これはニセモノだ、といって、しっくりしない点を述べるのだが、イダ・シャガール(娘)ですら、「本物に間違いない。父がこの絵を描いているのを見た」と認めてしまうようなこともあったらしい。

そして、「多くの人たちは、作品そのものよりも作家の名前の方が重要で、作品を楽しまず名前を買っている」と美の本質や作品の価値とはいったい何なのかと核心を突いているのが面白い。

いまだに、立派な図書館に彼の絵が高名な画家のものとして掲載された美術書があると吐露しているのも興味深い。 (2016.11.9)


光炎の人
木内 昇
KADOKAWA

郷司音三郎は貧しい徳島の山間部の葉煙草栽培で生計を立てる農家の三男として生まれた。
友達の一人が、経済的理由で池田の煙草工場に転出するのに見送りがてら着いていき、その工場で初めて見た機械に驚き興味を抱く。
煙草の葉の裁断機を見て以来、機械の虜になってしまった音三郎は、やがて自分も実家を離れ工場の職工となる。
機械そのものに対する興味が深まるにつれ、新しい機械を開発したいという欲求が強くなって、次には大阪のより大きい工場で働くことになる。

あるとき、若手の有望な技術者に色々と便宜を与える弓浜という謎の人物に認められ、ついに東京のより大手の企業で働くことになる。
国立帝大卒の優秀な技術者がひしめくこの会社で働くについて、学歴のない音三郎は大阪工科大学の卒業と偽って入社するのである。
ここで無線の技術者として腕を磨き、その分野ではだれにも負けないような力をつけていく。
だがその結果、日本が進出した満州に出向くこととなって関東軍の仕事を手伝うようになり、やがてとんでもない事件に巻き込まれる。



貧農の子として生まれ育ち十分な学歴も持たない主人公が次々と出会う技術者と技術力を競っていくのであるが、その学歴のなさという引け目をバネにして並々ならぬ努力を重ね技術力を上げていく過程において、はじめは純粋に機械に興味を持ち、技術力を向上させたいという思いから、徐々に他の技術者に勝ちたい、結果を残したいという我欲に変わっていく。

技術者とはどうあるべきか、技術者として求めるものは何か、そういったものに対する考え方の変遷や、日露戦争から第1次世界大戦を迎える混沌とした世界情勢の中で生きる日本人としての立場などを思いめぐらせながら興味深く読むことができた。

物語の進捗の中では、登場人物がどういうバックボーンを背負った者なのか、動いていく事象の裏には何があるのか、その先どうなっていくのか、などミステリアスな進行で読み物として面白い。 (2016.10.7)


半席
青山文平
新潮社

片岡直人は徒目付になって二年、やがて勘定所に席を変え、御家人の支配勘定から旗本の勘定へと駆け上がろうと狙っている。

御家人から身上がりして旗本になるには、御目見以上の御役目につかなけらばならず、ただ一度召されるだけでは当人は旗本になっても代々旗本を送り出す家にはなれない。

当人のみならずその子も旗本と認められる永々御目見以上の家になるには少なくとも二つの御役目に着く必要があり、これを果たせなければその家は一代御目見の「半席」となる。

片岡の家は「半席」であり、直人が勘定所の勘定になったとき「半席」を脱してれっきとした永々御目見以上となり直人の子はうまれながらに旗本になれるのである。

こういった理由から直人は勘定に抜擢されるように目立つ仕事で勤めあげたいのだが、上司である徒目付組頭の内藤雅之からときどき「頼まれ御用」を持ち込まれる。
頼まれ御用は表の御用よりもずっと人臭く、見返りのためではなく思ったより励み甲斐があって、知らずに身が入ってしまうのだ。
この頼まれ御用というのは、すでに解決した事件について「なぜその事件が起きなければならなかったか」を解き明かす仕事なのだ。


こちらを選ぶと出世の妨げになってしまうのがわかっていながら、やはり頼まれ仕事をやってしまうという主人公の生き方に共感を覚える。
これはすべての読者にそう思わせてしまうことだろう。

そう感じることによって、ぎすぎすした現実から少し離れたところに身を置くという安堵感を抱かせられ、何となくホットした気分にさせられる小説だ。(2016.8.31)


誰かが足りない
宮下奈都
双葉社

小奇麗な、初めて来たのに懐かしい感じのする小さなレストラン「ハライ」

とてもおいしいと評判がよく、予約を取るのも難しい店といわれているのだが、いつも不自然な空席がひとつある。

この空席に誰が来るのか、その予約をめぐって6つの物語が語られる。



いずれの物語もそんなに大仰でなく何気ない日常の話ではあるのだが、何かほんのりと誰もが持つ昔の懐かしい情景であり、懐かしいというでもなく、とりわけ心が安らぐというわけでもなく、むろん深刻な感情に陥るようなものでもないなんとも言えない心地にさせてくれる小説だ。 (2016.8.18)



羊と鋼の森
宮下奈都
文芸春秋社

主人公(外村)が高校生のころ、先生から言い遣って体育館のピアノの調律に立ち会うことになり、ピアノ自体に、調律というものに魅了される。

調律のときにたたかれた音から彼はふと森の風景を思い浮かべるのである。
「木で作られたピアノは、羊の毛を使って作られたハンマーが鋼の弦をたたくことによって音を発する。」
その説明を調律師から教えられたとき、彼が森の風景を思い浮かべたことに何となく納得し、ピアノに魅了されるのだ。

それがきっかけで、彼は調律師養成のための専門学校に入学し、調律師の道を歩むことになる。

主人公は先輩たちそれぞれの調律に対する考え方、目指している音への追及や、依頼主の希望・要求などとの兼ね合いなどについて考察する。
先輩の仕事(調律)を見るたびに、その音に関して自分の技術の未熟さを感じさせられ、自分の才能に自信を持てないでいるのだが、それでもこつこつと修行するうちに、ある双子姉妹の家のピアノの調律に関わることになり、その子たちの弾くピアノの音に魅力を感じて何とか自分が彼女たちに最高の音を与えるような調律をしたいと考えるようになる。

なんとも優しく心地よい小説である。

最も尊敬する先輩調律師の板鳥について、
「こんな小さな町にいるよりも、もっと大きな場所でたくさんの人の耳に触れるピアノの調律をしたほうが板鳥さんの腕を生かせるのでは。」という言葉に対して、社長は
「ここに素晴らしい音楽がある。辺鄙な町の人間にもそれを楽しむことができるんだよ。むしろ都会の人間が飛行機に乗って板鳥君のピアノを聴きにくればいい、くらいに私は思っている。」
といった、ピアノを音を音楽を愛する純粋な表現が随所にみられ、音から森をイメージするなど全般的に清涼感のある小説だと感じた。 (2016.8.6)


鯨分限
伊東 潤
光文社

太地鯨組棟梁太地覚吾が地元クジラ漁を発展させるため様々な艱難辛苦に立ち向かう波乱万丈の人生を描いたもの。
実在の太地角右衛門の伝記に基づく小説である。

物語は、明治11年(1878)12月、鯨組棟梁に返り咲いた覚吾が、北海道にまで捕鯨の手を拡げることによって衰退の途をたどる太地に活気を取り戻そうと動き始めた場面から始まる。
一方、時代は弘化元年(1844)に遡り、覚吾が太地家の長男として生まれ育ち12歳になって、初めてクジラ漁に同行し、棟梁としての心構えなどを教わり、経験を積んでいく経過が語られる。

その後物語は覚吾の棟梁になるまでの経緯や、棟梁を引き継いだのち徐々に鯨が少なくなり経営が悪化する中、打開を図るべく東奔西走する姿を描く江戸時代と、配下の鯨船団が悪天候によって遭難してその対応に苦慮する明治時代とが交互に描かれ、やがて同時期に物語が接合する構成となっている。

地元のクジラ漁の責任者として幾多の困難、不運に巡り合いながら、常に前向きにそれらを突破しようとする心意気、棟梁としての責任間と実行力に共感する。
シーシェパードなど外国人的価値観だけを振りかざす日本の捕鯨に対するいわれなき非難に憤りを感じながら、当時、幾多の困難を乗り越え、日本の文化、伝統を守り続けてきた関係者や地元のご苦労を応援したい気持ちを抱きながら読み終えた。 (2016.2.5)


日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた
嶌 信彦
角川書店

終戦後ソ連軍の捕虜となってウズベキスタンの第4収容所へ送られた旧日本兵の物語。

第4収容所は工兵が中心で真面目な人間が多かった。
野戦航空部隊の航空修理廠に配属されていた永田行夫大尉がこの収容所における捕虜の責任者とされる。当時24歳。
このタシケント第4収容所の捕虜に課せられた任務はソ連の4大オペラハウスの一つとなることを目指したオペラハウスの建設であった。
本建設作業にもノルマを課せられ、達成できないものは食事を減らされるといったバツが与えられる。
しかし職種によってたとえば土木作業のような労力を多く使う分野から電気工事といった労力的には軽いもの、時間的に短時間で済む業務と必然的に時間がかかるものなどそれぞれの仕事によって当然差異があるために、捕虜たちの間で不公平感、不満が起こりお互いの不信感が膨らむことを恐れ、そのような観点を考慮するよう永田は収容所長に強く抗議する。
容易に認めようとしない所長をなんとか説き伏せ、捕虜たちの間でお互いに食料を譲り合う体制を認めさせるといったいくつもの困難を切り開きながら立派なオペラハウスを完成させるのである。

若くして捕虜の責任者になった永田は、仲間全員が無事帰国することを最終の目的と心に誓い、捕虜たちへの説得や自身でその態度を貫く。
その姿を見て、初め不信感を持っていた日本人捕虜たちや収容所長をはじめとする敵兵たちが彼を信用信頼するに至り、さらに建設過程を見守る現地住民たちも日本人捕虜に対して好意を抱くようになる。


戦後十数年経ったのち、大きな地震で周りの主要な建物がほとんど倒壊した中で、このオペラハウスだけはしっかりと原形をとどめ続け、ウズベキスタンにおいても日本人の仕事ぶりに称賛の声が改めて湧きあがったという。そして、日本人捕虜がこれを建設したという説明標識が敷設されているという。
現地住民にすら信頼、好印象を与えた彼らの功績を知ることは日本人としてうれしく、多くの日本人たちに誇りを与えてくれるものだと思う。
捕虜たち自身と現地住民たちへの娯楽の場を提供する意味で、多くの収容所で行われたと聞く芝居や音楽会などが当収容所でも行われ、そのためにバイオリンなど楽器すら手作りしたとか、他の収容所で盛んになった民主化学習運動(ソ連による赤化洗脳プログラム)などのエピソードも語られていて幅広い歴史の一面も垣間見れて興味深かった。
(2016.1.20)


若冲
澤田瞳子
文芸春秋

青物問屋「枡源」の当主源左衛門は、商売をほとんど顧みないで絵に没頭。弟たちに任せている。
源左衛門の嫁三輪が家筋の違いから姑などからの冷遇を苦に自殺したことに自責の念もあって、源左衛門は商売や家族からも離れた生活を望むようになっていた。
画号を若冲と名乗り隠遁生活の中、絵だけに没頭。

その前に、三輪の弟弁蔵が現れ、姉を守れなかった若冲に激しく憎悪の念をいだき、自分も画家になって若冲の模倣作品を描き対抗する。
二人の関係は、憎悪を挟んで互いに絵で対抗する。


江戸時代中期の画家で実写生を主眼としながら想像を取り入れた新しい画風を切り開いたといわれる伊藤若冲の物語。
憎悪を挟みながら、やがて相手の才能を認め合う若冲と弁蔵との激しい絵画における争いが、半ば推理小説のような展開で読者を引き込んでゆく。
(2015.9.21)


藪の奥
眠る義経秘宝
平谷美樹

講談社文庫

トロイの古代遺跡を発見したシュリーマンが日本を訪れたのは、ある秘宝を探し出しそれを獲得する目的であったという設定の物語。

モスクワ郊外に住む友人アレクセイ・マルコヴィチ・チェリョムヒンが危篤であるとの知らせを受け、シュリーマンが駆けつける。
これを知らせたチェリョムヒンの妻からの手紙に「夫はあなたに預けたいものがあるのでどうしても会って話がしたい」とあったのでかけつけたのだ。
以前に来たときには数々の調度品や豪奢な家具や美術品が館を飾りたてていたので、吝嗇家で貪欲なシュリーマンは心中それらのものが自分のものになるかもしれないという思いもかすめたのだが、今回訪れた時にはそういったものが姿を消している。そして、彼は「自分の妻のためにこの館と土地を買ってもらえないか」という願いだった。
しかし、彼の書斎に入ってみると、机上にシュリーマンあてに「自分がここまで日本に関する研究をしてきたが。机上の品々は君の夢を叶える一助になる」と記されていた。
そして、大黄な砂金の塊と「黄金郷・HIRAIZUMI 地図」という見寺が記された地図があった。

この秘宝を探し出し、大儲けしようとシュリーマンは日本にやってくる。
色々調べるうちに、どうやらこの秘宝は陸奥に逃れた義経一派の再興を計るため、平泉近郊のどこかに隠した財宝であると推測して、経塚に注目するに至る。
だが経塚に近づくと、謎の修験行者軍団が彼らの前に立ちはだかる。



シュリーマンはいうまでもなくトロイの遺跡を発見した実在の人物であり、それを主人公として持ってきたのが面白い。
物語は上に示すような推理小説の形態をとるのだが、日本に来てからのシュリーマンはそれまでに立ち寄ってきたシナや朝鮮での体験とまったく異なる日本人の生き方、態度に驚かされ、その心の変化が次のように描写されていて、史実に基づくエピソードが語られており興味深い。

彼は自身を未開人にとって理解ある人間だと考えていた。その考えとは、
「未開人を文明人に引き上げてやるために、物質的、精神的な施しを与える。それが真の文明人のやるべきこと。
しかしそこには決して崩すことのできない大前提がある。
(自分は優れていて、彼らは劣っている)というもの。」

何人かの日本人と接して、その考え方が徐々にシュリーマンの中で揺らいでいくのだ。

(2015.12.10)


沈黙の山嶺
第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト
ウェイド・デイヴィス
秋元由紀訳
白水社

インドを支配し、ネパール、チベットでも勢力をふるっていたイギリスは、さらにエヴェレスト征服で帝国の威信を誇りたいという機運が高かった。

本書は、1921年に初めてイギリスが送り出したエヴェレスト遠征隊から22年、24年と挑戦し続け、あと少しのところで挫折した3回のすべての遠征に参加したジョージ・マロリーを中心に、その苦闘を描いたものである。

1921年のイギリスによるヒマラヤ探検は、測量、地図製作、生物学的調査、登山ルート探索など複合的な目的をもつもので、それぞれの専門家で構成されていた。
後年外交状況が変化して初めてチベットが純潔で神秘的な夢の国というイメージを育む方が国益になるとして、以来欧米ではそうした心象がすっかり浸透しているが、それまではチベットはロシアと同盟を結び、チベット人は成長不良で汚いつまらない民族で宗教も「破滅的な寄生虫病」に過ぎず、政府も神政主義で抑圧的、効率が悪く異様、専制的で腐敗しているとして、悪者を征伐したという感覚だった。
当時は、チベットに関することで当のチベットを無視してイギリスと中国だけで通商などの権益を協定していた。
インドに対する植民地支配においても、「原地民はどんな侮辱を受けても白人に手をあげてはいけない」というのが基本的な規則であった。


本書を読むと、英国のチベットに対する当時の見方がよくわかる。
特に信仰を重視するチベットなど現地民の心情、文化などと衝突することも多くあり難航を極めた様子がわかる。
単に標本とするため、生息する生物をむやみに殺したり、草木・鉱石などを持ち去ったりすることは現地民にとってけしからぬことであったことも大いに理解できる。

本書に登場する人物の中で、印象に残った一人にフィンチがいる。
医学、工学、物理学を学んだ経歴をもつフィンチはエヴェレストへの挑戦のため、世界初のダウンジャケットや酸素補給装置を作ったが当時の関係者や隊員たちからはほとんど評価されず、それどころかひどい軽蔑や嘲笑を受けていた。彼自身が他人をいらいらさせるほどの理屈っぽく傲慢な性格であった面からそのような評価しかされなかったのかもしれない。しかし、後にエヴェレストで脚光を浴びることになった。

また、有名なあの言葉の由来は、次のようなエピソードによるらしい。
遠征後、マロリーのアメリカでの講演は当時のアメリカ人には請けず、あまり気のりしなくなっていた彼は、ある記者の「どうしてエヴェレストにのぼるのか?」という質問に「そこにあるからだ」と言い放った言葉が、形而上学的に請け、この言葉が残った。

マロリーは結局24年に頂上付近で消息を絶ち、登頂に成功したかどうかはわからぬまま、99年に遺体が発見された。
(2015.9.5)



ブラックオアホワイト
浅田次郎
新潮社

級友の通夜の帰りに、同じく級友の都築君から誘われ彼の家で彼の見た夢の話を聞く。
30年近く前の我が国が好景気に浮かれていた時代の話である。

最初は、商用で出かけていたスイスのホテルで、就寝時に白か黒かどちらの枕を使うか聞かれる。
初日は勧められたように黒い枕を使ったのだが、その夜不可解な恐ろしい夢を見る。
そして、翌日は白い枕で寝ると心地よい幸せな夢を見る。

このような形で、都築君は国内外の各地で白、黒の枕を使うごとに同様の夢を見たという話をするのである。
それぞれの夢の内容は異なっているのだが、現実とも前に見た夢とも関連がないようであるようなのだ。

好景気に沸いていた時代の商社マンの仕事ぶり、生き方などと、しばしば夢の中にも登場する戦争のさなかを生きてきた都築君の祖父の話などが絡み合う。

著者が言いたいのは、人は深く考えることなく夢と現実を虚と実と思い込んでいるが、果たして今の現実も確たる根拠の上に立つものではなく夢のようなものかもしれないのではないかと問いかけているのだろうか。
本書の中で、都築君がダイビングに出かけた折、自分とは年代が違い悲惨な戦争を体験してきたウィリーから示唆されて思い当ってつぶやく感想が印象に残った。

『昭和という時代には連続性がなかった。「戦前・戦後」という時代区分をしなければ政治も経済も国民生活も説明できなかった。つまり、両社は違う時代ではなく、違う国家さ。僕らは明らかにそうした教育を施されてきた。過去のすべてを悪と定義し、現在を善なる世の中とする教育さ。・・・
成功と失敗を論ずるのではなくて、はなから善悪を定義した歴史を教え込まれてきたんだから。』
(2015.8.16)



残虐の大地
私が生まれ育った中国は、なぜここまで恐ろしい国になったのか
李真実
扶桑社

著者は1960年代中国生まれ中国育ち。元中国共産党幹部。
日本への留学を機に、教え込まれていたこととほど遠い日本の現実を目の当たりにして、中国共産党がいかに内外をだまし続けているのかに気づかされる。

序文に述べているなかの一節。

「過去に例を見ることのなかった反社会的・反文化的なものが流入。中国における社会問題の一部がそのまま日本に入り込んできたもの。しかし、スパイや一部の犯罪などは中国共産党が意図的にやっていることであって、一種の侵略行為であるともいえます」

「中国共産党は貿易や外国企業の中国での投資など経済的な関係を巧みに利用し、日本国内の反対意見や勢力を沈黙へと導いています。そのため、実態を把握している日本の一部の政府関係者や政治家ですら、結局は見て見ぬふりをしてしまうのです」

「本書の内容は、自分が大陸で体験したこと、収集した情報に基づき、すべてが真実であり、真相です。」と述べている。

日本へ輸出される「割り箸」で患部を掻く感染症に罹患した作業者。
刑務所内で人権を蹂躙された囚人たちが作業して包装された衣類や爪楊枝などの製品も、トイレも制限され仕方なく作業場の製品の積まれている片隅で用を足すこともあり、箱がシミで汚れたままで輸出されているものもあるという。


他にも、
法輪功学習者の臓器を生きたまま抽出
二千人あまりの生きた人間から角膜摘出手術を行った外科医
健康や栄養補給のために胎児を食べる。これはいわゆる「一人っ子政策」のひずみから生じたともいえる強制堕胎・流産などに伴って、商品として売買されている。

など、およそ想像もつかないようなものすごい話が述べられていて、改めて現代中国の危うさ、恐ろしさを再認識させられた。
(2015.8.14)



断裂回廊
逢坂剛
徳間書店

さる小国の公使館の秘密会員によるカジノにおいてカジノ破りが発生する。
それは警察の匿名捜査員の名をかたるものであった。

他方、公安調査庁の管理官殿村三春は、地元で騒動を起こした教義など実態不明の宗教団体クルパジャ教団を秘かに内偵している。
この教団は、オウムのように反社会的事件を起こす恐れのあるような違法団体なのか不明だが、資金援助を受けているとうわさされているパチンコ業界団体「全球連」を通じて北朝鮮とのつながりも疑惑されている。

教団との窓口とみなされる全球連の兼松一成を追跡監視しているさなか、三春は兼松が何者かに襲われる現場に直面する。
驚いて飛び出した三春は、暴漢に当身を喰わせ、兼松のもとに近寄るが、瀕死の兼松は「クズワに渡してくれ」の言葉を残してUSBメモリを手渡す。
そのあと再び立ち上がり逃げようとする暴漢を追うが結局見失い、兼松の元に戻ってみると兼松の姿は消えていた。


このように物語はスピード感あふれる展開で進んでいく。
この不思議な事件に関して、公安庁、警察、地方検察庁などが複雑に絡み合い、事件の本質は何か、カジノ破りの人物はどうかかわっているのかなど謎が謎を生むような話の展開で、最後の数ページのところまで先の読めない推理小説となっている。

ことの現実性うんぬんは別として、ぐいぐいと引き込まれていく推理小説としては面白い作品であった。 (2015.7.17)



ナポレオンに背いた黒い将軍
忘れられた英雄アレックス・デュマ
トム・リース
高里ひろ訳
白水社

「モンテ・クリフト伯」の著者アレックス・デュマの父、アレックス・デュマの伝記である。

ノルマンディー地方の貧乏侯爵の嫡男の父と黒人女奴隷だった母との間に生まれ、「奴隷アレクサンドル」としてフランスへ渡るが、フランスでは奴隷から一転、侯爵の息子として認知される。
サン・ドマング(フランスの植民地-現在のハイチ)で生まれフランスへ渡りフランス共和国軍で祖国の擁護者として戦い、次々と戦果を挙げ将軍に登りつめる。
彼の行動は、単独でも複数の敵を蹴散らすほどの豪傑であり、部下や同僚に対しても偉ぶることなく、軍規は公正で民間人に対して犠牲を強いることなど減に慎むというように理想的な将軍である。

一方、同時期に台頭してきた天才将軍ナポレオンが現れる。
ナポレオンは侵略した国をいわゆる「解放」と称し、ただある範囲内での「自治」を認めるという政治的手法を確立するのである。
一方では、ナポレオンは組織化された窃盗を新たなレベルまで高めた。ある国の植民地を侵略して解放した報酬として莫大な自由の料金を要求、この解放税の手法で貴重な芸術作品美術品がパリに送られた。
解放されたイタリア人たちはフランスによる自由による価値に疑いを持ち始める。

民間人への対処についてデュマ将軍はナポレオンと衝突し続ける。
ナポレオンはマルタを制覇するときには奴隷を解放したが、エジプトでは当時の現地の秩序を利用して己の権力を強化しようとした。
こういった点においてもデュマ将軍の心情と合わない。

奴隷制についてはつぎのような認識がある。
アリストテレスは、民主主義が成立するためには、高尚な思想を追求する余暇を市民にもたらす奴隷制が不可欠だと考えていた。
信仰によって正当化イスラム教徒の奴隷貿易は、国境を越えた一大ビジネスだった。
奴隷でも、本国内奴隷と植民地の奴隷とは別であったり、最終的にはアフリカ黒人奴隷は特別といった差別感。
こういった歴史上の事実から、著者はつぎのような疑問を投げかける。
フランス愛国者が「奴隷を所持し続けながら、すべての人間が自由で平等だ」と宣言するのはどういうことだ?


ナポレオンがエジプト遠征時には学者、技師、画家など多芸多才は集団を同行させその結果残された文化的科学的事業の遺産は現代にまで生き続けていたが、2011年11月17日のアラブの春のデモ隊と警察との衝突で残されていた研究所が火事になり多くの貴重な資料、書物、地図などが焼失してしまったそうだ。
余り日頃関心をもたない西洋史のある一面を興味深く知ることができた。
平和、平等、民主主義といった概念も、日本人が安穏とした日本国の環境から漠然と理解しているのと相違して、欧米人の根に深く残る有色人種差別意識を読んだうえで歴史というものを認識しなければならないということだろう。
デュマ将軍がタラントで幽閉されナポリ政府から獄中で受けた処遇をもとに、息子はモンテ・クリフト伯を描いたとされる。
(2015.7.13)



死んでたまるか
伊藤潤
新潮社

大鳥圭介を中心とする戊辰戦争の物語。

鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川幕府の幕臣たちが大半あきらめ、薩長になびく風潮をなげく大鳥圭介が最後まで新政府軍に抵抗する軌跡を追う。
将軍慶喜自体が戦意を失い、旗本連中も腰の引ける中、志を同じくする土方俊三や榎本武揚らと組んで薩長を中心とする新政府軍と戦いを進める。
戦意旺盛な彼らにとってみても、戦の目的が「負けるにしても徳川家の存在を認めさせたい」ということから、最後は武士としての矜持を示したいと少しずつ変貌していく。
勝海舟らの示唆もあって、戦局の形勢から降順を考え出す大鳥であるが、武士の矜持を主張する土方などの主戦派とは最後まで意見が相いれないまま敗退を余儀なくされる。


歴史として第三者の目で俯瞰すれば結果論としてどうであったか評価できるのかもしれないが、当時の本人の立場ではどれが正解ともいえず、結局は人それぞれの価値観、人生観に基づくことになるのだろう。
負けるとわかっていながらも、武士の本分、意地を捨てきれぬ当時の武士としての生き方に最後まで執着する者、初めからそのような意地や誇りをなくす者、やがて無駄な死と感じて命を後に生かそうと考える者、人それぞれの生き方の違いをどう見るか、そんなことを考えさせられながら読了した。
(2015.6.5)



桑港特急
山本一力
文芸春秋

江戸末期、小笠原諸島の父島にみすず他たった4人の娘たちが漂流した船で流れ着く。
そこで、みすずは元アメリカの捕鯨船航海士で父島に移住していたジムに巡り合い結ばれる。
二人の間に生まれた長男丈二と二男子温も船乗りとして育てられる。

アメリカの捕鯨船フランクリンが父島の二見港に入港。兄弟は、数奇な運命をたどってその船の副長となっていたジョンマン(ジョン万次郎)と出会い、外の世界に憧れるようになる。
彼らの憧れ、目指したアメリカ大陸ではゴールドラッシュで、一獲千金をねらう者たちが西武を目指して殺到していた。

アメリカへの進出を考えている中国人チャンタオの部下、ルーパンが桑港(サンフランシスコ)で開いた洋品店で働いていた兄弟は、創意と誠実な仕事ぶりで次第に認められていくのだが、そこへ妻の仇を狙う腕利きのガンマン、リバティー・ジョーが現れる。

それがきっかけで、彼ら兄弟もリバティー・ジョーに協力することになる。
その仇とは、あくどい手法でだましたり殺人をしながら大金を得ようと悪事を働く元刑務所看守長デューク・サントス。

このあたりから、話はまさに映画で見る西部劇のような痛快な展開となる。


日本人の血を引く若い兄弟が、ゴールドラッシュに沸くアメリカでの成功を夢見て、様々な経験を積みながら成長していく冒険物語である。

丈二、子温の兄弟のまじめで実直に仕事も有能にこなし、悪に対する正義感あふれる感情が日本人的な性格を表現しているとともに、世間には良い面、悪い面の両面があることを学んでいく。
それと同時に、父島で育った幼いころの父母の教えや生き方に感銘するといった人間としての成長物語に共感と安堵感を得ながら読み終えた。
(2015.5.10)


サラバ!(上下)
西加奈子
小学館

おとなしい父と派手で自己顕示欲の強い母、それに自己主張をゆがんだ形で表現し奇行に走る姉をもつ本小説の主人公「ぼく」圷歩は、その家庭生活の異様さについていくことができず、さりとて自分自身は反発することすらできず、自分を取り巻く社会の中で自身を隠し潜めるという生き方しかできない。
そのような家庭環境に育った「ぼく」は、常に一歩引いて表面に立たない生き方を幼くして身につけてしまう。
父の仕事での派遣先であるエジプトで少年時代の一時期を過ごしたのだが、そのときヤコブという少年と親友になる。
彼らはお互いの言葉がわかるわけでもないのだが深く信じあえる存在だった。ただひとつ「サラバ」という言葉だけで二人はお互いの意思を疎通させていた。

心がバラバラに離散してしまった家庭に暮らす中、友人や親しい知人と離別などを通じて歩の心や行動の変化が物語られていく。
変人の姉を憎み、バラバラになってしまった家族が、最後はその姉によって皆が救われることになる。
「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけない」これは、どうしても理解できなかった姉が主人公に放つ言葉。
自分で物事を決定することを避け、何事も他人に委ねてしまい勝ちな日本人に対する作者からのメッセージと受け取る書評もうなづける。
第152回(平成26年度)直木賞受賞作品
(2015.4.27)


その女アレックス
ピエール・ルメートル
橘 明美訳
文春文庫

ある晩、パリの路上で若い女性アレックスが見知らぬ男に誘拐される。
目撃者の通報により、警察が捜査に乗り出す。
警察の担当者はカミーユに充てられるのだが、彼は自身の妻を誘拐、殺害されたという経歴を持ち、誘拐事件を扱いたくない気持ちを持ち続けている。
誘拐されたアレックスは、裸にされ小さな箱のようなものに閉じ込められ、自由を奪われたまま食事も与えられず虐待されるが、誘拐犯が何者であるか、その目的もわからない。
誘拐犯は苦しみもがきながら死ぬところを見届けてやるとアレックスに宣言するのだが、読者にもアレックスにもその理由、目的がわからない。
被害者であるアレックスの生命の危機がせまる中、警察がなかなかその居場所に迫ることができない。

絶望に陥りながら、何とか生還への道を探ろうとするアレックスであったが、犯人のいない間に何とか九死に一生脱出に成功する。
物語は、幽閉されたアレックスの状況と、カミーユを主体とする警察の捜査が交互に語られるかたちで進められ、この不可解な事件の本質が徐々に明かされていく。

読者は、犯人の目的理由は何なのか、この物語がどう進んでいくのか、果たしてアレックスとは何者なのか謎を深めながら読み進めることになるのだが、どんどんと思わぬ方向に展開していく。
推理小説として、今まであまりなかったような筋運びが注目の作品。 (2015.4.5)



後妻業
黒川博行
文芸春秋

結婚相談所を隠れ蓑にして、会員の女性と組み、資産を持つ高齢男性会員からお金を巻き上げる悪人たちの物語。

紹介を受け、結婚したり、内縁関係となったうえで公正証書を書かせ、あるいは遺言で遺産相続の権利を勝ち取り、何らかの方法で相手の男性を死に至らしめるというまことにあくどい業を成す手口が語られる。
突然の父親の死の直後に、現れた父の内縁の女から葬式の段取りを仕切られようとすることに疑問を抱いた娘が、友人である弁護士に相談することから事件が明らかになっていく。

この本が出版されてからすぐ後に、あたかもそれを予見していたかのような事件が実際に発生した。
実際に似たような事件が報じられ世間を騒がせた記憶も生々しいだけに、本書を読み進めながらあくどい手口の裏に暗躍する組織があることや、関係者間での欲得のせめぎあいなど深層が描かれていて興味が深まる。
テーマの性格上、決して品のいい会話や内容が見られないが、彼らの悪行に憤慨しつつ、それが暴かれていく過程を興味深々で読んだ。 (2015.4.26)



家族シアター
辻村深月
講談社

7小編から成る。
それぞれ、兄弟姉妹、親子、祖父母と孫など、家族間の様々な出来事を通してお互いの葛藤や不信、または愛を描いている。
物語の舞台はそれぞれ通常の生活空間で、普通よくある家庭での家族間の出来事や、地域内における人間関係などをテーマとしている。

●タイムカプセルの八年
あまり家族の関係するコミュニテイには無関心な大学教員の父が、気が進まないまま関わり始めた息子の学級での親父会で、子供たちが卒業に際して記念に埋めるタイムカプセルを廻って起こった問題に対処する物語

●孫と誕生会
孫の同級生の誕生会を廻る子供たちの間での人間関係の物語

など

いろいろな境遇の家庭にあって起こりうる事象に対してのテーマをとりあげ、わが身に照らし合して共感や反発を感じることができる意味でおもしろい。
(2015.3.26)


夜また夜の深い夜
桐野夏生
幻冬舎

物語の語り部はマイコという少女。
雑誌の記事で知った難民キャンプで育ったという七海という女性に一方的に手紙を出し始める。
手紙の中で、マイコ自身の生い立ちや、いわくありげな母のことが語られる。

マイコはロンドンで生まれ幼少期を過ごしたようだが、いまはナポリのスラム街で母と二人暮らし。だが、母は昼間はたいてい留守で、長期間留守にすることもあり、たびたび整形しているし、その周辺人物も素性の知れない二人の日本人だけといったように、謎の多い生活が語られる。
母からは、自由に外出を許されず、他人と付き合うことも許されず、自身、父親もわからず、国籍もなく、何人であるのかもわからない。

ある日、そんな母親から逃れてMANGA CAFEで初めて日本のマンガに出会い、これをきっかけに家を飛び出し母親のもとから逃れ、それぞれ曰くありのエリスとアナという少女との3人の共同生活が始まる。
3人の少女たちは、それぞれ内戦で家族を奪われたり、深い傷を負った過去を持つ。
そして、いろいろな悪事も重ねながらもたくましく生きていく姿が描かれている。


劣悪な環境で、陰惨な生活が描かれている割に、さほど憂鬱な気分になるでもなく、むしろ登場人物の明るいキャラクタが設定されていて、およそ、普通の生活を保障されている者には理解し得ない環境に置かれたとき、人間はどのように生きて行けばいいのか、世間の常識とは何なのか、正義とは何なのか、など、人間の根本に迫るものを感じさせてくれるちょっと注目すべき小説だ。
(2015.3.24)


べんけい飛脚
山本一力
新潮社

幕府に対しても隠然たる権威をもつ加賀藩の藩主、前田綱紀と、時の将軍吉宗との信頼関係を語る物語である。
当時、吉宗が綱紀を深く敬愛しているため公儀すら恐れる風のない綱紀の態度を快く思っていない老中がいた。
一方、代々加賀藩の御用手伝い、特に江戸と金沢を結ぶ飛脚御用を承ってきたのは浅田屋である。
ところが加賀藩の御用手伝いの関係で生じたある出来事から、浅田屋は公儀から睨まれている存在なのだが、前田家の手前表立った不義の扱いは受けていない。
ある日、知り合いの道具屋から浅田屋の当主伊兵衛に「享保便覧五巻」が持ち込まれる。
この五巻執筆の目的は、公儀と前田家の間柄に摩擦が生じたときに、その熱冷ましとして広義に差し出すためのものと思われた。
これを読んだ伊兵衛は、物書きの雪之丞に、物語としてその目的を果たすために役立つように編纂することを依頼する。


本書を読んで、今まであまり気にも留めていなかったいろいろなことを知った。
参勤交代では、お供を仕る渦中の者にたいする慰安として、軽業師や芸人などを集め娯楽を提供したり、当地の銘菓などをふるまったこと。
加賀藩の大名行列は、総勢4千人を超えることもあったということ。その場合の宿舎の手配、休憩所の手配、食事やふろ、厠の手配など大変であっただろうということも思い至らされた。
ちなみに題名のべんけいとは、敬愛する主人義経を守るため、主人をも打擲した弁慶になぞらえ、庇護を受けている前田家に対して、浅田屋の飛脚の姿勢を示したもの。 (2015.3.18)


土漠の花
月村了衛
幻冬舎

ソマリアでの海賊対処行動に従事する自衛隊の活動拠点に、有志連合の連絡用ヘリが墜落し、その救助活動を行っている。

その野営基地に現地人女性3人が突然助けを求めに舞い込んできた。
彼女たちは、ある種族のスルタン(氏族長)の娘と縁者たちで、別の暴徒化した種族に追われていたのだった。
その説明も聞き終えぬうちに、四方から銃声が轟き、いきなり隊員2人が撃たれてしまう。

応戦していいのか、許可もなく銃を使っていいのか逡巡しているうちに、武装民兵に何人かの隊員が取り囲まれ、隊員たちの軽装甲機動車も奪われてしまう。


物語は、内地で勤務していたころの隊員たちそれぞれの過去や、周りとの確執などを交えながら、非常事態に陥った彼らの活動を追っていく。
武器使用の是非うんぬんと論じているうちはいいが、現実の状況を目の前にして撃ち合いになってしまえばどうしようもなく打ち続けざるを得ない現実。

平和を口で唱えるのもいいが、世界の現実はきれいごとで過ごせるほど単純なものではない。
日本人ジャーナリストが、海外で殺害されるような事態も現実に起こっている。
前回紹介の「風に立つライオン」もおなじだが、本書もこういった世界の現実を前にして、まさに世界から断絶したかのようにお花畑的平和な社会に埋没している我々日本人の生き方考え方を改めて問い直しているような作品である。
(2015.3.1)


風に立つライオン
さだまさし
幻冬舎

アフリカ、ケニヤの戦傷外科病院へ派遣赴任した医師島田航一郎を中心として描かれる物語である。

持って生まれた前向きの性格から、どんなことにも「オッケー、大丈夫」と応えて、困難に立ち向かっていく航一郎の姿に、周りの皆が魅了され、信頼を得ていく様子が、彼を取り巻く関係者の談話、手紙などの形で浮かび上がらせていくという手法で描かれる。

政情不安の危険な地域での彼の積極的な治療行動が不幸な結果を招いてしまうのだが、時は移り、彼に救われた現地の少年がやがて医師となり、日本の東日本大震災の被災地で献身的な医療活動にバトンが継がれていく。
被災地においては、そのアフリカ人医師のほかにも、大災害の中で活躍する避難所のリーダーなど、航一郎を彷彿させる人物も登場し、まさに「風に立つライオン」たちを描いた物語である。


本書は、著者の同名の歌曲から起こされたもので、歌手でもある著者はほかにも多くの小説を発表しており、いずれもその才能に感心させられるのであるが、本書も医学の知識を含む幅広い知見が駆使されていて、取材の充実さを感じさせられる。

また、色々示唆に富んだ表現も用いられていて、たとえば
「悪魔が近くにいるとおいらが言うと笑う。それは文明人の思い上がりだよ・・・
銃で悪魔でも強盗でも追い払うことができるなんて思っているアメリカ人には到底わからないことだ。むしろそのことで悪魔を呼び寄せていることにも気づかないんだ」
「元来、人が快適に共存するには全員が、”自由勝手気まま”なんてありえないんだよ。・・・自分が人にされて嫌なことは絶対人にはしないってことが ”自由”の条件さ」
「医師が患者から奪ってはいけない最も大切なものは命じゃないんだよ。希望なんだ」

等々。 (2015.1.29)


アンダーカバー秘密調査
真保裕一
小学館

若手起業家戸鹿野智貴はほぼ三か月ぶりの休暇で来ていたフィリピンから帰国時、空港で麻薬密輸の疑いで逮捕される。
身に覚えのない出来事であったが、同行していた女性が戸鹿野の有罪を認めてしまい、彼は現地刑務所で服役。
時代の寵児ともてはやされた人物の逮捕で大いにマスコミを賑わした事件も、忘れ去られた5年半後に釈放される。
戸鹿野は、なぜ自分がはめられたのか、真犯人は誰か、真相を自身で探ろうとする。

一方、イギリスで麻薬捜査を手掛けるジャッド・ウォーカーはユーロポールへ出向を命じられイタリヤでマフィア幹部の惨殺事件に遭遇する。
やがて、戸鹿野の調査とジャッドの捜査が接することになり、物語の舞台は日本、イギリス、イタリヤからさらにアメリカへと目まぐるしく動く。

この事件に興味を持った女性ジャーナリストが執拗に戸鹿野にインタビューを試み、彼に迫ろうとするがなかなか接することができない。
やがて、この女性ジャーナリストの独自調査や、戸鹿野自身の調査、ジャッドの捜査がそれぞれ事件の核心にせまるにつれ、政治的な匂いや裏社会にも近づいて、彼ら自身にも危険が及び始める。


物語の経過のなかで、政治家の国家を運営していく上で、また、自身の政治生命を保つための力学や、マスコミが政治の暗闇を暴くためとしつつも、自身のエゴがどう働いているのかなど、表に見えない社会の一面があぶりだされているようでなかなか面白い作品だ。 (2014.12.20)


住んでみたらヨーロッパ
9勝1敗で日本の勝ち

川口マーン恵美
講談社α新書

著者は大阪府生まれ、ドイツ・シュトゥットガルト在住。

実際にドイツに長年暮らして実感していることを日本と比較して様々な観点で述べている。

例として、
食品偽装もヨーロッパは日本の百倍ひどい。
ドイツ人のリズム感は圧倒的に日本人より悪い。
といったことや、

第二次世界大戦の戦後処理の態度から、「ドイツ人は謝罪し、日本人はしていない」といった論に対しても、 「ドイツを見習え」というのは、ちょっとピントが外れている。
とか、

EUにおける難民問題、移民受け入れ問題について実態を述べ、
「人間みな兄弟」というのは、利害のないところでは容易に成立するテーゼだ。
日本人の呑気さと性善説の考え方は、気候の穏やかさからくるに違いない。
としている。


欧米崇拝の機運がまだまだ顕在している日本人に対して、海外に住んでいればこそ、の日本の良さを語っているのが印象的だ。
(2014.12.23)


蔦屋
谷津矢車
学研パブリッシング

廃業に追い込まれ、店を整理中の江戸は日本橋の老舗地本問屋「豊仙堂」の主人、丸屋小兵衛の前に一人の男が現れる。
彼は、小兵衛に毎年20両、小兵衛が死ぬまで生涯払い続ける約束でこの店を譲り受ける。
この男、吉原で本屋「耕書堂」を営む蔦屋重三郎であった。

遊郭という特殊な環境で育った重三郎は、吉原で本屋を開業して成功し飛ぶ鳥の勢いであったが、あくまでも吉原内の本屋に過ぎず、他の同業者からは一段低く見られていた。
重三郎の狙いは、まさに吉原から飛び出し、江戸中に本屋として自分の矜持を全うしたいという思いであった。

あらためて一緒に家業を繋ぐことになった小兵衛は、毎日のように吉原に引っ張り出されていくうちに、様々な個性のある多くの人物に出会う。
それが、南畝であり、喜三二であり、飯盛であり、京伝であり、歌麿であり、春草などである。
そして、二人の努力によって彼らが世に出ていくのだが、松平忠信老中の時代になって、幕府の意向で彼らの活動に圧力がかかってくる。


南畝、喜三二、京伝、歌麿、春草などを世に出した蔦屋重三郎の物語である。

一段低く見られていた吉原文化を江戸中に広めたいという野望をかなえるために奔走するのであるが、本屋としてのまじめな本業の道を進む小兵衛との世渡りの違い、生き方の違いを対比させながら、両者に共通の本に対する愛を描いている。

「文化」というものは、実益からみればまさに無駄なものと見なされ、軽んじられる面もあるが、まさに人間個人や、国のアイデンテテイを形成するものである。
しかし、文化というのはルネッサンスに見られるように理解あるスポンサーが必要である。本書においても理解のない権力者からは冷遇される実態を描き、その問題点をアピールしている。
(2014.12.8)


村上海賊の娘(上)(下)
和田 竜
新潮社

瀬戸内海に勢を張っていた海賊村上の娘「景」は男勝りの体力武力を持ち、いつも周りをハラハラさせる存在であった。
信長の兵糧攻めに苦しむ一向宗石山本願寺が毛利に救いを求め、これに応じた毛利が本願寺への兵糧補給を行うに当たって村上水軍を頼る。
知り合いになった門徒を助けようと思う気持ちから、その戦に景がかかわることになり、結果的に正規軍ではないが実質的な村上海賊側の大将のような存在となってしまう。
戦いは、信長側と本願寺側の戦なのであるが、それぞれ武家と海賊、あるいは地侍らの合成軍であり、主体は信長側につく泉州海賊と毛利側を代表する村上海賊との激戦となる。
泉州海賊には、真鍋七五三兵衛という豪傑がいて、最後は彼と景との一騎打ちになる。

物語は、史実と重ね合わせながら進行させていて、当時の武士や海賊の心理、生き様を描いている。
勇気があり、豪胆な相手に対しては尊敬、敬服の念を持ちつつも手心を加えるわけでもない。まさに真剣勝負の世界に生きている。
とはいうものの、考えかたはすごくドライで、我が家系を守るためには裏切りも辞さないといった海賊の気性を描いている。
戦闘場面が詳細で、結構わずらわしさを感じるくらいなのだが、物語そのものはさすがに話題作だけあって面白い読み物となっている。
(2014.11.10)


透明な迷宮
平野啓一郎
新潮社

消えた蜜蜂
ハワイに捜しに来た男
透明な迷宮
family affair
火色の琥珀
Re:依田氏からの依頼

の6編から成る。
いずれも、一寸変わった人間の心理やそれに根差した行動などを描いている。

個人的に特に興味を抱いたのは、family affairとRe:依田氏からの依頼の2編。
前者は、父の死後遺品を整理中に押入れの奥から厳重にガムテープでぐるぐる巻きにされた紙包みの中から拳銃を見つけるという内容のもので、その処理に困惑する縁者たちを廻って、それぞれの過去の生き方、お互いのスタンス、感じ方などが語られるもの。

後者は、小説家の大野が、昔かかわりのあった劇作家で演出家の依田氏から突然資料を渡され、それをもとに小説を書いてほしいと依頼されるというもの。
大野としては、何故依田氏自身が書かないのか、何故ながらく会いもしていなかった自分に依頼されるのかといった疑問がわくのだが、その資料に描かれていた依田氏自身の異常な現況を知るのだ。
その異常とはどんなことなのか。


物語としては、通常感覚からいえば確かに異常な人物、異常な行動が描かれているのであるが、読んでいるうちに、何となく自分でもそんな感覚は分からないでもないとも思い、誰しもが深層心理に持っているのではないかといったヨミを感じさせられる。
ちょっと異質ではあるが面白いと興味を持たせられ、やはり芥川賞作家かなと思った。(2014.10.22)


コラプティオ
真山 仁
文春文庫

福島の大震災で原発事故で打ちひしがれている中、国民の希望と期待を一身に受けて宮藤首相が登場する。
日本再生にかけて、原発再開発を宣言する。

後に政策秘書として宮藤を支えることになる若き政治学者白石望と彼の幼馴染で新聞記者の神林裕太の3人が中心となってこの物語を動かしていく。

宮藤は日本の救世主となるのか、あるいはアフリカの某国とのウラン開発権を巡って背後に暗い闇があるのか。

理想と現実のはざまを正しい方向に動かしていかなければならない実世界の政治の難しさとともに、政治の世界の裏にうごめく権利闘争、首相官邸内で実際に政治をどのように動かしていくのか、官邸コメントの作られ方や、新聞記事の作り方事実追求の追い方など表面に現れない政治の仕組み、ニュースの成り立ちなどが興味深く知ることができる。 (2014.10.4)


満願
米澤穂信
新潮社

短編集で、「夜警」「死人宿」「柘榴」「万灯」「関守」「満願」の6編が収められている。
いずれも、ミステリー的要素を含んだ物語である。

「夜警」は事件に関わって殉職した警官の話。
「死人宿」はなぜか宿泊客が変死したり自殺したりするのが頻発する温泉宿の物語。
「柘榴」は子供を食べる代わりに柘榴を食べるようにお釈迦様から諭された鬼子母神にまつわる親子の物語。
「万灯」はバングラデシュの埋蔵ガス輸入に奔走するうちにトラブルに巻き込まれるビジネスマンの話。
「関守」は伊豆半島南部で不思議と車の転落事故が続発する峠道のドライブインでの店の婆さんの語る物語。
「満願」は弁護士の主人公が学生時代世話になった下宿先のおかみさんが、後に殺人事件で起訴されたことを知って彼女を救おうと弁護にたつ話。


どれも、独特の趣のあるストーリーで、その奥に隠された不気味さ、恐ろしさを感じさせる秀作である。
(2014.9.13)


消された「西郷写真」の謎
写真がとらえた禁断の歴史
斉藤充功
学研

西郷隆盛は写真嫌いで写真を1枚も撮らなかった。そして、西郷の写真は存在しないというのが通説となっている。
しかし、過去には何枚も西郷の写真とされ、世の中に多く出回った写真があるという。
西郷の肖像画はたくさん世の中に伝承されているのに、これが本当の西郷隆盛だという写真が全く存在しないのはなぜか。
この謎に取り組んだ調査のノンフィクション作品である。

特に西南戦争のころ、庶民の西郷人気にあやかって「西郷写真」として世に多く出回ったが、その写真の人物は今では同じ薩摩藩で西南戦争にも奮戦した永山弥一郎であるとされている。
他にも、他の人物の写真が「西郷写真」ではないかと騒がれたことがあるらしい。


上野の犬と散歩する西郷像がわれわれ一般的には西郷隆盛のイメージとして定着してしまっているのではなかろうか。
この像を造るにあたっては、キョッソーネの描いた西郷の肖像画と、弟の従道の写真をモデルにしたといわれている。

このような謎を後世に残す理由として、
西郷自身が写真嫌いであったという説。
また、暗殺を恐れた故に写真を残さなかったという説。
維新の三傑といわれる功労者でありながら、後に下野し、賊軍の大将となった西郷の写真が広く流布することを恐れた政府側の工作によるという説。
など巷に流布されている諸説を紹介しながら著者なりにこの謎に迫ろうとする作品。(2014.8)


月に捧ぐは清き酒
鴻池流事始
小前 亮
文芸春秋

尼子藩の復活に命を注いだ山中鹿助の息子新六は、叔父の信直に育てられる。厳しい修練を積んだ新六は、乱世の時代を武士を捨て、商人としての道を歩むことを選ぶ。
そして、新右衛門と名を変え、幼馴染のはなと所帯をもち、能勢の菊炭を扱う商売で一時成功するが、やがて戦がなくなり身分にかかわらず皆が笑顔になれるという理由から酒造りに転じる。

日本一の酒を造りたいと常に工夫し改善を試みる努力が実って、当時すべて濁り酒であった時代に清酒の製造に成功する。



新右衛門は後の鴻池財閥の始祖となるのであるが、それが山中鹿助の子であったことをこの書で初めて知った。

この物語には、能勢や池田や伊丹など馴染みの場所が舞台となって出てくることも、何か身近に感じることができて読書も進んだ。
いわゆるビジネス成功物語的なものであるが、信義を基調とする本来商業の基本的ありかたを改めて提言していると思われ、現在進行中の大河ドラマとも時代を共有するため、興味深く読むことができた。 (2014.7.31)


峠道
鷹の見た風景
上田秀人
徳間書店

上杉鷹山の物語。
秋月松三郎が上杉家へ養子として入り、時の米沢藩主上杉重定の命により直丸と名を改める。
16歳になると元服して治憲と名乗る。
そして重定は隠居し、治憲が九代藩主となる。

藩の財政が困窮する中、上杉という名門の名前の重さからなかなか根本的な改革がなされないまま時を送ってきたが、養子という身分をある意味利用して、腹心と共に大幅な改革に踏み込む。
しかし、幕府は外様大名の力をそぐため様々な無理難題を押し付け財政負担を迫り、また折角立ち直りが見えてくると飢饉に襲われるといったことで苦難が続く。

自然災害との戦い、藩内の官僚勢力間の戦いや農民との緊張関係、幕府との駆け引きなど苦労の絶えない立場で何とか財政を立て直そうとする治憲の施政を語っている。


旧弊を排し老害を排除して若くて新しい力で改革を成しても、それが長年続き安定してくると、かつての改革派が既得権益をむさぼるようになる。
既得権益を潰すということは、新しい権益者を作ることになるのであって、結局同じような歴史が繰り返されるのはいつの時代も変わらない。
そんなことを考えさせられる。(2014.7)


破門
黒川博行
角川書店

主人公二宮は建設コンサルタント。
とはいっても、実際は解体屋と組筋をつなぐ仲介業でなんとか生計を立てている。

彼の父親が昔所属していたころからの知り合いの二蝶興業の嶋田から、映画の脚本に協力するのでそれに関連して北朝鮮事情を話してやってくれといわれて京都へいき脚本家に会う。
二蝶興業といっても実はヤクザ組織で、嶋田は二蝶会の若頭かつ、その下部組織嶋田組の組長である。

その部下の桑原というのはイケイケのヤクザで、二宮は昔一緒に北朝鮮へ行ったことがあり、その腐れ縁から断ち切れない。
映画製作の話がすすむうち、嶋田が二宮名義でその映画制作に出資していることを知り、いつの間にか抜き差しならぬことになって桑原にからめ捕られ、香港、マカオまで飛び、ヤクザの組との悶着の渦中にはまり込んでしまう。

不本意ながら、カタギの二宮はイケイケヤクザの桑原と行動を共にすることからなかなか逃れられない。
その間にくみかわされる大阪弁と関西特有の笑いを誘う会話の応酬が、まさに漫才のようなテンポで面白い。

ヤクザ一流の論理、相手の言い分に瞬時切り返す屁理屈など、読んでいてむしろ参考になることが多いと感心させられる。
それなりに闇社会、違法社会の事情など、通常われわれが知りえない情報がポンポンと出てきて、結構楽しく読める小説である。
2014年度直木賞受賞作品。 (2014.8.11)


約束の海
山崎豊子
新潮社

自衛隊の最新鋭潜水艦「くにしお」の哨戒長付花巻朔太郎が主人公。
伊豆大島の北東海域で自衛艦隊による展示訓練の帰途、東京湾内で遊漁船と衝突事故を起こす。
マスコミはこぞって「くにしお」の非を一方的に報じ非難するが、朔太郎は自身の取った行動や目にした事実などを振り返り、自責の念や、一方的な攻撃に対するやりきれなさに煩悶する。

著者の構想は、第3部までの構成であったらしい。第2部では、「ハワイ編」として、朔太郎は米国太平洋艦隊所属の最新鋭原潜の視察にハワイへ赴き、当地で太平洋戦争において日本人捕虜第1号となった父の当時の様子を知る。
そして捕虜としての辛酸な経験の中で培われた父の思いを自分に照らしながら自分の進む道を考える。

第3部では、「千年の海編」として東シナ海における戦争の火種となりかねない事態を想定したクライマックスを予定していたが、その内容については著者の胸の内で模索している段階であった。

現実に起こった「なだしお」衝突事故をモデルとしたものであるが、この物語を作るに際して、数えきれないくらいの現地視察や関係者に対する取材を緻密に行っていたことが紹介されている。
これまで発表しているすべての話題作についても、この著者の制作態度はそのような緻密な取材、調査などに裏付けされたものであることが読者を魅了する大きな要因だろうと思う。 (2014.7.3)


アトミック・ボックス
池澤夏樹
毎日新聞社

病床に伏す元漁師宮本耕三は、妻に、自分が死んだあとある人物が取りに来たらその人物に渡してやってくれとひとつの封筒と、自分が死んだあと読むようにと娘あての手紙とあるデータの入ったCDを残して死ぬ。
そして、その話のとおり耕三の死後、ある人物がその封筒を引き取りにくるのであるが、その人物は地元でよく知りあっていた郵便局員だったのだが、実は彼は警察官で宮本をずっと監視していたのだった。

主人公である宮本耕三の娘美汐は、父からの手紙のCDが彼の昔ある国家機密的な仕事をしていたことを明かすものであり、その機密すなわち原爆製造の研究データをコピーしたものであったと知る。
美汐はこのことに対して複雑な思いを抱き、父がなぜ自分にこれを残したのか、また自身このことをどう解釈すればいいのか納得できる答えを見出すまでこのコピーデータを持ち続けなけらばならないと決心する。
しかし、彼女がそれを隠し持っていることの推測のもと、警察に追われ続けることとなる。

昔、瀬戸内海の小島に残された老人たちの生活実態を調査していた誼などを通じて、警察の追手から匿われ、協力されながら逃避を続ける。



原子爆弾製造の研究という国家レベルでの秘密プロジェクトのあり方について、国としての当然の考え方と、唯一の被爆国に住む日本人個人の感情としての抵抗感との狭間に揺れ動く歯がゆさを描くことによって、読者にある問題提起をしているのではないだろうか。

以前に紹介した「日本の原爆・その開発と挫折の道程」は現実の日本における原爆開発計画のドキュメンタリーにおいても、当事者たる科学者たちの心の揺らぎが描かれていたのを思い浮かべ読了した。 (2014.6)


フランス紀行
ブノア・デュトゥルトル
西永良成訳
早川書房

ニューヨークに生まれ育ったディヴィッドの本当の父はフランス人。だが母が行きずりで関係した父のことは何もわからない。
モネの作品「サン・タドレスのテラス」はモネの生まれ育ったル・アーブルの港を描いたもので、ディヴィッドのフランスへの憧れに影響をおよぼした。
アメリカの俗悪さに嫌悪した彼は敬愛するクロード・モネと印象主義を生み出したフランス文化への憧れをつのらせ渡仏、ついにル・アーブルの港に降り立つ。

一方、ノルマンデイの港町ル・アーブルに育った「わたし」はミュージシャンを目指しながらも夢をかなえることのできない冴えない中年男で月刊誌の副編集長を務めている。
やがてこの二人が出会う。

純粋な動機でフランスに夢をもちつつ、逆にアメリカに憧れを抱いている「わたし」をはじめ彼の地で知り合うフランス人たちとの交流の中で、現実との乖離を感じてやがてアメリカへの回帰に向かうことになる。

いってみれば純粋無垢な青年を描いた青春物語のようなものでもあるが、人生を見直そうとする「わたし」との絡みにおいていろいろと読者に感じさせる内容となっている。 (2014.6)


幸福な生活
百田尚樹
祥伝社文庫

書名となっている「幸福な生活」のほか、「母の記憶」「夜の訪問者」など19編の短編小説から成っている。 「幸福な生活」は、婚約の相手の男性を紹介するため家に連れて帰る娘を待つ夫婦の他愛ない会話の中で、娘が幼い頃の想い出から夫婦の出会いの想い出など、普通の家庭が描かれている。 ところが、最後に場面が急転し、思わぬ結末が展開される。

この作家の特徴的な短いセンテンスで読みやすい文章構成で、身の回りにありそうな普通の話なのだが、いずれの作品も最後に思いもかけないどんでん返しといおうか、読者を欺くかのような顛末となるのが面白い。 そして、どれもが実に「こわーい」話である。 (2014.5)


神様のホテル
「奇跡の病院」で過ごした20年間
ビクトリア・スウィート
田内志文/大美賀馨訳
毎日新聞社

著者のビクトリア・スウィートはアメリカカリフォルニア州サンフランシスコにある「ラグナ・ホンダ病院」の元医師で、同病院に20年以上にわたって勤務した経験を語っているものである。

ラグナ・ホンダは1867年に開院した開拓者や炭鉱夫のためのケア施設であったが、やがて「救貧院」として行く当てのない慢性疾患を患った人々や、回復の兆しのない病人のためのシェルター(避難所)として機能してきた経緯がある。

ある日コンサルタントが病院にやってきて、古い施設の建て替えや、患者の受け入れに対する基準化、プライバシーの問題、スタッフの解雇を含む色々なコストカット策、治療の効率化などを提言する。

だが、彼女はこれらの方策に対して不信感を抱く。
たとえば、プライバシーはストレスが多い中年や疲れた調査官や忙しい医師にとっては非常に価値があるが、寝たきりの患者や身体障碍者にとっては有害なものですらありそれほど価値のないものだった。
開放病棟が育むコミュニティのほうが、そこに欠けているプライバシーよりも重要だということが分かっていない。
だが司法省はおかまいなしに対策を講じるよう指摘。


20年間にわたる勤務の中で、個性的な医師たちや患者たちとのふれあいが彼女自身をどんどん目覚めさせ、変貌させていくのであるが、究極的に「治る」とはどのようなことなのか、「医療とは何か」を問い詰めているのである。
ともすれば行き過ぎた効率化や過度な功利主義に走りがちな昨今の風潮のなか、著者自身が勤務の合間を縫ってサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼を成し遂げるエピソードと絡み合って、患者と向き合う姿勢などに対して、実に心洗われるようなノンフィクションである。


常世の勇者
信長の十一日間
早見 俊
中央公論社

永禄4年皐月1日から同月11日。「信長公記」に記されていない空白の11日間を推理した小説である。

尾張を統一し、中央を窺う力をつけてきた織田信長にとって、美濃の斉藤義竜は父信秀が勝てなかった道三を倒した男として恐れを抱いていた。
その義竜が急死したのが永禄4年皐月11日のことなのである。

物語は、この間信長は丹羽長秀、柴田勝家、木下藤吉郎らを従え、美濃との盟約の仲介を目論見、京に在る将軍足利義輝に拝謁。
その折、京において、公家の山科言継とも面会。草薙の剣について教示を仰ぐ。
桶狭間の戦に勝った折、熱田神社から草薙の剣を持ち出しその加護を得たと信じる故の事である。

その後、京においても、堺でも、草薙の剣や日本武尊にまつわる伊吹近郊においても義竜の放つ刺客から何度も命を狙われる。

一般的なこれまでの伝記とは一味異なった視点から描いたもので、義竜に対する過剰とも思える恐れであったり、神か何か目に見えない力を頼りにしたいという弱さを持ち合わせた信長を表現していて、違った感覚で読めた。


乱丸(上)(下)
宮本昌孝
徳間書店

信長の近習となり、わずか18歳で本能寺の変で亡くなる森蘭丸(乱丸)の物語である。

幼少のころから信長の近習となった蘭丸は、優れた知性と信長の真意を理解する能力をもって信長から特別な信頼を得る。
「天下布武」のために一途に信長に仕え、その真意を理解するがゆえに魔王的信長とも一心同体となり信長を支え、悲劇の結末を迎えるまでの生き方を描いている。

歴史をすでに知ってしまっている作者を含む後世の我々の感覚で描かれ、読んでいるので当然のことかもしれないのだが、まだ年端もいかない幼少の身にありながら、天下を見据えた判断、行動はあまりにも万能人間的と思える描き方であり、小説といえども違和感を感じるのは率直な感想ではある。
そのうえで、実際の歴史として振り返って考えると、現在のような高齢化社会ではない時代においては、我々の想像異常に、若者たちが時代を動かしていたであろうし、18歳にも満たない年齢であっても、このような卓越した人物が存在したことは間違いないのだろう。


ニッポン「立ち入り厳禁」地帯
決死の潜入ルポ
別冊宝島
宝島社

日本各地で今なお立ち入りの許されていない、もしくは条件が厳しくて立ち入りがごく困難な地を紹介したものである。

例として以下のようなところが紹介されている。

旧日本軍が造った地下の巨大迷宮のある八丈島
太平洋戦争の激戦地で多くの慰霊が眠る硫黄島
自衛隊と気象庁職員だけが暮らす南鳥島
朝鮮半島を常時監視する国境最前線の海栗島
不可思議な秘祭が続けられている新庄島、大神島
その他三輪山、仁徳天皇陵など

グーグルアース等で地図を参照しながら、それぞれの歴史やエピソードを読むと一層興味が高まる。

一方、日本固有の領土でありながら、一般日本人が立ち入れない尖閣諸島や北方領土、あるいは竹島などに思いを馳せるとき、何とも理不尽な現実に複雑な感情を抱かざるを得ない。

(2014.3.16)


日本最後のスパイからの遺言
この国を守るために何が必要なのか
菅沼光弘・須田慎一郎
扶桑社

元法務省職員、公安調査庁一筋の情報マンである菅沼氏と評論家須田氏との対談。

国際政治の世界は謀略に次ぐ謀略であって、世界の各国は自国の情報機関を活用している。
国際政治の世界は、昔も今も、平和な今の日本人にとっては想像もつかないはかりごとが行われ、そのはかりごとを軸に国際情勢は激変していく。
従って、政治家に必要不可欠ののは相手のはかりごとの意味を見破る力であり、もうひとつは歴史の勉強が必要である。
特に日本は、制度改革などすべてアメリカの意向に沿わされてきた。
バブル崩壊以降、日本では金融の自由化をはじめ、郵政民営化など様々な分野で規制緩和がなされたが、これらはすべてアメリカの意向によるもので、逆に近年は、世界は規制緩和から規制強化に変わってきている。
また、官民の関係においても、官から民へというスローガンだったが、世界の現実は官民が一体となって動いている。

もともと日本が繁栄を築いた方法がすべて否定され、本来は世界に先んじてやっていたのにそれが潰され、世界は過去の日本に習っている。
こういったことは、アメリカの仕掛けた情報操作によるもの。

今や、中国や韓国にまで情報で振り回されている日本。歴史認識なる言葉で日本がいわれなき非難攻撃を浴び続けているのも、彼らの情報戦略に屈しているからにほかならない。
本書が発刊されて少し経ったものであるが、我が国にとっては留意すべき問題提起である。
日本人も、真に目覚め、各国並みの情報戦略を駆使するべきだろう。
(2014.3.14)


Sの継承
堂場瞬一
中央公論社

物語は、1960年代と現在(2010年代)の50年の隔たりを挟んで行き来する。

群馬県前橋市のある場所で、正体不明の毒ガス事件が発生する。
それについで、今度は東京都心である人物が白昼堂々と毒ガスを放出し、さらに犯行動機ともいうべき要求を突き付ける。
その要求とは、国会議員は全員即刻辞任し、憲法を改正せよ、というものである。

この犯人は、それまでに「S」なるハンドルネームでネットを通じて今の政治のふがいなさを指摘し、革命によって政治体制を変えようと呼び掛けていた。
そのブログの反応に手ごたえを感じて実行に移したのだ。

Sというのは、物語の前半に登場する政治革命のためクーデターを企図する秘密グループが手段として行う毒ガス開発のコードネームであり、この名がまさに継承されているのである。


実際にあった三無事件や後に発生するオウム事件をヒントにしたのかと思わせる小説である。

安保闘争で揺れた1960年代は、政治に対する不信感が学生や若者を動かすそれなりの活気があったが、社会状況が変わった現在においては、政治の腐敗不作為に対しても若者たちは何ら行動を起こすことのないある意味元気なさが指摘されている。

この小説は、そのような世の中のありように、何らかのインパクトを与えたいと意図しているかのようにも思える。
「政治家は選挙結果に左右され、永続的に国家の方針を定めることはできない。官僚を最大限に活用し、国民がしっかり監視するという政治システムに代えるべき」という主張を彼らにさせている。

すなわち、現在の議員たちの事なかれ主義とポピュリズムに流れる政治に対する痛烈な批判であり、同時に、ただ官僚をバッシングしポピュリズムをあおり、その方向に世論誘導してきた既存マスコミに対する批判としての観点で著者に共感。
(2014.1.31)


暗殺者たち
黒川 創
新潮社

作者はサンクトペテルブルク大学の日本学科の学生たちに日本語で語りかけるという構成である。
語る内容は、ハルビンで伊藤博文が安重根に暗殺され、日本では大逆事件で幸徳秋水が処刑される、こういった時代の出来事、歴史を作者の言葉で語るものだ。
同時代、たまたまこれらの事件と極近接していた夏目漱石が、満州日日新聞に寄稿した「韓満所感」という散文を、語り部たる作者が見出しこれとからめてこの時代を解説する。


夏目漱石の「韓満所感」を聴講学生たちに紹介するかたちで、そこで触れられている伊藤博文暗殺事件や、同じ時代の日本での大逆事件について述べ、それらをとりまく関係者たちの行動、思想を作者なりの解釈で語っている。
かれらの真の思惑と作者の解釈とはどうであったかは別として、当時(20世紀初頭)の世界的に不穏な時代の社会の空気、歴史の一端がうかがえる。
(2014.1.27)


知の逆転
吉成真由美 インタビュー・編
NHK出版新書

著書「銃・病原菌・鉄」でピューリッツァー賞を受賞した生物学、生理学者ジャレド・ダイアモンド、言語学者でプラトン、フロイト、聖書とならんで最も引用回数の多い著者とされるノーム・チョムスキー、アルバート・アインシュタイン医科大学で神経科医として診療を行う傍ら著作活動を展開するオリバー・サックス、「2001年宇宙の旅」映画版のアドバイザーでコンピュータ、認知科学者で人工知能研究の父とも呼ばれるマービン・ミンスキー、マサチューセッツ工科大学(MIT)応用数学科教授でインターネット関連のアカマイ・テクノロジーズ社の共同設立者でもある数学者トム・レイトン、DNA二重らせん構造の発見によってノーベル賞を受けた分子生物学者ジェームス・ワトソンの現代を代表する識者たちにインタビューし、その内容を翻訳、編集したものである。

彼らは、真実を追い求め、科学界において学問の常識を覆した叡智6人である。
科学で何ができるのか、宗教と科学の関係は、情報社会の行方はどうなるかなど、現代社会におけるいろいろな問題について、それぞれ通り一遍でない識見を述べている。

一般社会人にとっても興味深く有意義な内容に接することができ、教養書としていい。特に大学生など若者には一読よさそうな書物である。
(2014.1.18)


模倣の殺意
中町 信
創元推理文庫

7月7日午後7時、新進推理作家、坂井正夫が服毒死を遂げる。
遺書はなかったが、世を忍んでの自殺とされる。

一方、彼は「七月七日午後七時の死」という自己の死を予言するかのような題名の推理小説を発表していた。
その作品に彼なりの自信を持ち、ようやく世に認められる作家となれるとの希望を持っていたかのような言動も残しており、自殺に結びつけるには疑問も残る。

彼の死に疑問を抱く二人の人物が、それぞれ自分なりの調査を始めるのであるが・・・

坂井正夫をめぐる人物関係や、その作品に関する盗作問題などが絡み、複雑な背景のもとに物語が進む。
推理小説として、そのトリックや構成は複雑で斬新ではあるのだが、少々ありえないほどの強引なしかけとも見えるところがあって、私にはちょっと興醒めする感じが正直なところあった。 (2014.1.17)



ダ・ヴィンチ封印
<タヴォラ・ドーリア>の五百年
秋山敏郎
論創社

「タヴォラ・ドーリア」と呼ばれる、軍旗を廻る戦闘の場面を描いた一枚の板絵にまつわる話である。

「タヴォラ・ドーリア」とは、ドーリア家の板絵という意味で、ドーリア家というのはルネサンス期から17世紀にかけて海洋貿易と銀行業務で繁栄したジェノバの豪族である。
そしてこの絵は、メディチ家が保有していたものであったが、1621年ごろまでにドーリア家に渡り、以後約320年間同家歴代の当主に伝承されてきた。

レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたとされるこの絵は、ドーリア家の破産によって手放され、その後政治的思惑なども絡みダ・ヴィンチの作に非ずとされた時代もあって所在不明となる期間もあるなど、その所在が転々と変わる運命をたどる。
そのような数奇の運命をたどったこの絵が、なんと1992年に日本に輸入され東京の富士美術館の所有となったのである。そして、その当事者が本書の著者である。

そしてつい最近の2012年11月に日本の富士美術館から、この絵の生まれ故郷であるイタリア政府に寄贈されたのである。 ちなみに、関係者の間ではこの絵の価格は数百億円の価値があると認められている。


この絵を日本に輸入した当事者である著者は美術館専門の商社を設立し、ヨーロッパのオークション会社等約20社の日本代理店として活動している人物であり、本書は、「タヴォラ・ドーリア」の制作動機やその時代背景やその後の遍歴について、制作者判定にあたった複数の学者の論文や、転売時の各契約書などを綿密に調査、研究した成果を本書に著わしたものである。
それによると、メディチ家を追放し、直接議会制民主主義体制となったフィレンツェの高級官僚であったマキアヴェッリが、ある政治的目的でダ・ヴィンチに委託したものだとする。
このあたり、この時代のフィレンツェ、ジェノヴァ、ベネチアやローマ法王との力関係など、歴史とともに興味深い話題が満載だ。

ダ・ヴィンチは画家としてだけでなく、チェーザレ軍の「軍事顧問」の経歴を持ち、隣国の脅威から祖国を守る「外交折衝」にも奔走したなどとは知らなかった。 (2014.1.9)







これまでに紹介したその他の本

 書名

 著者

 出版社

 
 月神
葉室 麟
角川春樹事務所  
 捨ててこそ空也
梓澤 要
新潮社  
 夢を売る男
百田尚樹
太田出版  
 日本のこころ、日本人のこころ
山折哲雄
NHK出版  
 黒鉄の志士たち
植松三十里
文芸春秋  
 ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅
レイチェル・ジョイス
亀井ヨシ子訳

 講談社  
 鉄の骨
池井戸潤
 講談社  
 拉致と決断
蓮池 薫
 新潮社  
 遮断地区
ミネット・ウォルターズ
成川裕子訳
 創元推理文庫  
 海賊と呼ばれた男
百田尚樹
 講談社  
 インターネットを探して
アンドリュー・ブルーム
金子 浩訳
 早川書房  
 うそつき
戸松淳矩
 東京創元社  
 砲台島
三咲光郎
 早川書房  
 1417年、その1冊がすべてを変えた
スティーヴン・グリーンブラット
河野純治訳

 柏書房  
 無罪
 スコット・トゥロー
二宮 磬訳

 文芸春秋  
 南極風
 笹本稜平
 祥伝社  
 スチームオペラ
蒸気都市探偵譚
 芦辺 拓
 東京創元社  
 日御子
 帚木蓬生
 講談社  
 ルーズベルトゲーム
 池井戸潤
 講談社  
 ブラックアウト
 マルク・エルスベルグ
猪股和夫・竹之内悦子訳
 角川文庫  
 大陸へ
アメリカと中国の現在を日本語で書く
 リービ英雄
 岩波書店  
 日本はなぜ世界で一番人気があるのか
 竹田恒泰
 PHP新書  
 超常現象の科学
 リチャード・ワイズマン
木村博江訳
 文芸春秋  
 日本の原爆
その開発と挫折の道程
 保坂正康
 新潮社  
 極北
 マーセル・セロー
村上春樹訳
 中央公論社  
 下町ロケット
 池井戸潤
 小学館  
 極北ラプソディ
 海堂 尊
 朝日新聞出版社  
 野いばら
 梶村啓二
 日本経済新聞出版社  
 遅い男
  J.M.クッツェー
鴻巣友季子訳
 早川書房  
 神と仏の出逢う国
  鎌田東二
  角川選書  
 謎解きはディナーのあとで
  東川篤哉
  小学館  
 王国
  中村文則
  河出書房新社  
 ジパング再来
大恐慌に一人勝ちする日本
  三橋貴明
  講談社  
 雪男は向こうからやって来た
 角幡唯介
  集英社  
 明日のマーチ
  石田衣良
  新潮社  
 空白の五マイル
チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む
 角幡唯介
 集英社  
 片眼の猿
 道尾秀介
 新潮社  
 今こそ日本人が知っておくべき領土問題の真実
国益を守る「国家の盾」
 水間政憲
 PHP  
 フェルメールのカメラ
(光と空間の謎を解く)
 フィリップ・ステッドマン
鈴木光太郎訳
 新曜社  
 老いの才覚
 曽野綾子
 ベスト新書  
 今この世界を生きているあなたのためのサイエンスT
リチャード・ムラー
二階堂行彦訳
 楽工社  
 友を選ばば
 荒山 徹
 講談社  
 私は英国王の給仕だった
ボフミル・フラバル
 河出書房新社  
 絵で見る十字軍物語
塩野七海
  新潮社  
 グラハム・ベル空白の12日間の謎
  今明かされる電話誕生の秘密
セス・シュルマン
吉田三知世訳

  日経BP社  
 写楽
  閉じた国の幻
 島田荘司
  新潮社  
 長宗我部
 長宗我部友親
  バジリコ  
 天地明察
 冲方 丁(うぶかた とう)
  角川書店  
 オーディンの鴉
 福田和代
 朝日新聞出版  
 ガラスの巨塔
 今井 彰
 幻冬舎
 
 昭和質店の客
 佐江衆一
 新潮社  
 奇跡の画家
 後藤正治
 講談社  
 日本人へ
  リーダー篇
 塩野七生
 文春新書  
 プライド
 真山 仁
 新潮社  
 氷川清話
 勝海舟
 講談社文庫  
 蒼き狼の血脈
 小前 亮
 文芸春秋  
 花や散るらん
 葉室 麟
 文芸春秋  
 虚国
 香納諒一
 小学館  
 たった独りの引き揚げ隊
  10歳の少年、満州1000キロを征く
 石村博子
 角川書店  
 銀二貫
 高田 郁
 幻冬舎  
 アメリカン・ゴッズ
 ニール・ゲイマン
 金原瑞人/野沢佳織訳
 角川書店  
 人間の運命
 五木寛之
 東京書籍  
 数学的にあり得ない
 アダム・ファウアー(矢口誠訳)
 文芸春秋社  
 花散らしの雨
 高田 郁
 角川春樹事務所  
 街道をゆく
  愛蘭土紀行U
 司馬遼太郎
 朝日文庫  
 叛旗は胸にありて
 犬飼六岐
 新潮社  
 ルポ 資源大陸アフリカ
 暴力が結ぶ貧困と反映
 白戸圭一
 東洋経済新報社  
 八朔の雪
 高田 郁
 角川春樹事務所  
 トリック・ベイビー 罠
 アイスバーク・スリム
 小林雅明訳
 P-VineBooks  
 チベット侵略鉄道
-中国の野望とチベットの悲劇-
 アブラム・ラストガーデン
 戸田裕之訳
 集英社  
 聖域
 大倉崇裕
 東京創元社  
 脳の中の身体地図
 サンドラ・ブレイクスリー
 マシュー・ブレイクスリー
 小松淳子訳
 インターシフト社  
 僕とカミンスキー
 ダニエル・ケールマン
 瀬川裕司訳
 三修社  
 戦争詐欺師
 菅原 出
 講談社  
 煙霞
 黒川博行
 文芸春秋
 
 シェヘラザードの憂愁
 (アラビアン・ナイト後日譚)
 ナギ−ブ・マフフーズ
 塙 治夫訳
 河出書房新社  
 秋月記
 葉室 麟
 角川書店  
 責任に時効なし
 〜小説 巨額粉飾
 嶋田賢三郎
 アートデイズ  
 チーム・バチスタの栄光
 海堂 尊(かいどう たける)
 宝島社
 
 テンペスト
 池上永一
 角川書店  
 流星の絆
 東野圭吾
 講談社  
 出星前夜
 飯嶋和一
 小学館  
 ダルフールの通訳
 -ジェノサイドの目撃者-
 ダウド・ハリ(山内あゆ子訳)
 ランダムハウス講談社  
 サラミスの兵士たち
 ハビエル・セルカス(宇野和美訳)
 河出書房新社  
 茗荷谷の猫
 木内 昇
 平凡社  
 山羊の島の幽霊
 ピーター・ラフトス(甲斐理恵子訳)
 ランダムハウス講談社  
 王妃の館
 浅田次郎
 集英社  
 日無坂
 安住洋子
 新潮社  
 ザ・ロード
 コーマック・マッカーシー
 (黒原敏行訳)
 早川書房
 
 深海のirr
 フランク・シェッツィング
 早川書房  
 解読!アルキメデス写本
 羊皮紙から甦った天才数学者
 リヴィエル・ネッツ/ウィリアム・ノエル
 光文社  
 時が滲む朝
 楊 逸
 文芸春秋社  
 エア
 ジェフ・ライマン
 早川書房  
 ジバク
 山田宗樹
 幻冬舎
 
 茨の木
 さだまさし
 幻冬舎  
 蒼穹の昴
 浅田次郎
 講談社  
 羊の目
 伊集院静
 文芸春秋  
 ロスチャイルド家と最高のワイン
  名門金融一族の権力、富、歴史
 ヨアヒム・クルツ
 日本経済新聞出版社  
 中原の虹
 浅田次郎
 講談社  
 ホームレス中学生
 田村 裕
 ワニ出版  
 歴史から消された日本人の美徳
  (今蘇るこの国の「心の遺産」とは)
 黄文雄
 青春出版社  
 堂島物語
 富樫倫太郎
 毎日新聞社  
 国家の謀略
 佐藤 優
 小学館
 
 エコノミック・ヒットマン
 ジョン・パーキンス
 東洋経済新報社  
 暴走老人
 藤原智美
 文芸春秋  
 女性の品格
 坂東真理子
 PHP出版社  
 無音潜航
 池上 司
 角川書店  
 塩野七生「ローマ人の物語」スペシャルガイドブック  塩野七海  新潮社  
 治療島
 セバスチャン・フィツェック
 柏書房  
 超長期予測
  老いるアジア
 小峰隆夫・日本経済研究センター編
 日本経済新聞出版社  
 誰が日本の医療を殺すのか
  「医療崩壊」の知られざる真実
 本田 宏
 洋泉社  
 戦場のニーナ
 なかにし礼
 講談社  
 反転
闇社会の守護神と呼ばれて
 田中森一
 幻冬舎  
 フラット革命
 佐々木俊尚
 講談社
 
 英国機密ファイルの昭和天皇
 徳本栄一郎
 新潮社
 
 孤高のメス(外科医当麻鉄彦)
 大鐘稔彦
 幻冬舎文庫
 
 湖の南
 富岡多恵子
 新潮社  
 モナリザの秘密 (絵画をめぐる25章)
 ダニエル・アラス 吉田典子訳
 白水社
 
 国益の検証
 武田龍夫
 サイマル出版会
 
 屈辱と歓喜と真実と
 石田雄太
 ぴあ
 
 すばらしき愚民社会
 小谷野敦
 新潮社
 
 ゴッホは欺く
 ジェフリー・アーチャー
   永井淳訳
 新潮文庫
 
 千秋の讃歌
 落合信彦
 集英社
 
 死顔
 吉村 昭
 新潮社
 
 シュリーマン旅行記(清国・日本)
 ハインリッヒ・シュリーマン著
 石井和子訳
 新潮社