晋書四夷伝・東夷・倭人


晋書倭人伝

 晋書は唐、太宗の命により編纂されたもので、その倭人伝は魏志の要約を中心に、魏略、後漢書、隋・唐代に得られた知識、晋代の史料を整理して構成されています。晋代の資料はほとんどなく、最後の数文字だけです。一番重要なのは、「文帝が相となるに及び、また数至る。」という文で、司馬炎(晋の武帝)により晋が建国された泰始元年の朝貢に先立って、文帝と諡された司馬昭時代の、倭の遣使が明らかにされることです。泰始元年は、少なくとも、壱与の三度目の遣使ということになり、帯方郡使、張政の帰国は魏末期、司馬昭時代の最初の遣使と推定できるのです。このあたりの詳しい分析は「魏志倭人伝から見える日本、ファイル3-8、壱与の即位と調整の帰国」の項に書いてあります。 【司馬懿(宣帝)-司馬師(景帝)-司馬昭(文帝)ー司馬炎(武帝、晋建国)】
 魏略逸文として翰苑に記されている言葉、「自ら太伯の後という」も、晋書が魏略を引用したのかどうかわかりませんが、実際に記録されていたことが明らかになります。


倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好

「倭人は帯方東南大海中に在り。山島に依り国を為(つく)る。地は山林多く、良田無し。海物を食らふ。旧くは、百余の小国ありて相接す。魏の時に至り、三十国有りて通好す。」

「倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。土地は山林が多く、良田はない。海産物を食べている。昔は百余の小国がたがいに接していた。魏の時に至って、三十の国があり、親しく交流した。」

戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
「戸は七万あり。男子は大小なく、悉く、面に黥し、身に文す。自ら太伯の後と謂ふ。また言ふ、上古、使して中国に詣るや、みな、大夫を自称すと。」

「戸数は七万あり、男子は大人、子供にかかわらず、みな、顔と体に入れ墨している。自ら太伯の後裔という。また、昔,使者が中国を訪れた時、みな、大夫を自称したともいう。」

昔夏少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害 今倭人好沈没取魚 亦文身以厭水禽
「昔、夏の少康の子は会稽に封ぜられ、髪を断ち、身に文して、以って蛟龍の害を避く。今、倭人は沈没して魚を取るを好み、また、文身は以って水禽を厭ふ。」

「昔、夏の少康の子は会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨して蛟龍の害を避けたが、今、倭人は沈没して魚を取るのを好み、少康の子と同様、入れ墨して水鳥を追い払う。」

計其道里當会稽東冶之東 其男子衣以横幅但結束相連略無縫綴 婦人衣如單被穿其中央以貫頭 而皆被髪徒跣
「その道里を計れば、会稽東治の東に当たる。その男子は衣するに横幅を以ってし、ただ、結束して相連ね、ほぼ縫ひ綴ることなし。婦人の衣は単被の如くして、その中央を穿ち、以って頭を貫く。みな被髪し徒跣す。」

「その道のりを計算すると、会稽、東冶の東に当たる。その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。婦人の衣服は一枚の被り布団のようで、その中央に穴をあけ、頭を入れる。みな、おかっぱ頭で、裸足である。」

其地温暖 俗種禾稲紵麻而蠶桑織績 土無牛馬 有刀楯弓箭以鐵為鏃
「その地は温暖なり。俗は禾稲、紵麻を種し、蚕桑し織績す。土に牛馬なし。刀、楯、弓箭あり。以って、鉄を鏃と為す。」

「その地は温暖で、風俗では稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。土地に牛、馬はいない。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。」

有屋宇 父母兄弟臥息異處 食飲用租豆 嫁娶不持錢帛以衣迎之
「屋宇あり。父母兄弟は異所に臥息す。食飲は俎豆を用ふ。嫁娶は銭帛を持たず、衣を以ってこれを迎える。」

「家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。嫁取りの時、銭や布は持たず、衣服を用意してこれを迎える。」

死有棺無槨 封土為冢 初喪哭泣不食肉 已葬擧家入水澡浴自絜以除不祥
「死は棺ありて槨なし。土で封じ冢を為す。初め、喪は哭泣して肉を食らはず。すでに葬するや、家を挙げて水に入り、澡浴して自ら絜し、以って不祥を除く。」

「死に際し、棺はあるが槨はなく、土を盛って冢を作る。初め、喪中は哭泣して肉を食べない。葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗って清潔にして縁起の悪さを取り除く。」

其擧大事輒灼骨以占吉凶 不知正歳四節 但計秋収之時以為年紀 人多壽百年或八九十 國多婦女不淫不妬 無爭訟 犯輕罪者没其家孥重者族滅
「その大事を挙ぐるに、すなはち骨を灼き、以って吉凶を占ふ。正歳四節を知らず、ただ、秋収の時を計へ、以って年紀と為す。人は、寿多く、百年或いは八、九十なり。国は婦女多く、淫せず妬せず。争訟なし。軽罪を犯す者はその家孥を没し、重者は族滅す。」

「大きな決断をしなければならない時は、すぐさま骨を焼いて吉凶を占う。正月や四季の区別を知らず、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。住民は長生きの者が多く、、百歳とか八、九十歳である。国には婦女が多く、淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。」

其家舊以男子為主 漢末倭人亂功伐不定 乃立女子為王名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢
「その家、旧くは、男子を以って主と為す。漢末、倭人は乱れ攻伐して定まらず。乃ち女子を立てて王と為す。名は卑弥呼と曰ふ。宣帝の公孫氏を平らぐや、その女王は使を遣はし、帯方に至りて朝見す。その後も貢聘は絶えず。文帝が相と作(な)るに及び、また、しばしば至る。泰始初、使を遣はし、訳を重ねて入貢す。」

「その(王)家は昔は男子を君主としていた。漢末に倭人は乱れ戦いあって安定しなかったので、女子を立てて王にした。名は卑弥呼という。宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると、その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また、何度かやって来た。(晋の)泰始元年(司馬炎)に遣使し、通訳を重ねて貢を納めた。」