後漢書韓伝


「後漢書韓伝」解説  (宋)范曄著

 范曄の後漢書韓伝は魏志韓伝を要約したものですが、要約の過程で范曄の解釈が入ってきます。范曄が、東晋、義煕九年(413)の神功皇后の使者派遣時のデータを加えて、魏志倭人伝を修正しながら倭伝をまとめたことは、すでに指摘していますが、韓伝でも、范曄時代の地理資料を加えて修正しています。


韓有三種 一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰 馬韓在西有五十四國 其北與楽浪南與倭接 辰韓在東十有二國 其北與濊貊接 弁辰在辰韓之南亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國 伯濟是其一國焉 大者萬餘戸小者數千家 各在山海間
「韓は三種がある。一は馬韓といい、二は辰韓といい、三は弁辰という。馬韓は西にあり、五十四国がある。その北は楽浪と接し、南は倭と接す。辰韓は東にあり、十二国。その北は濊貊と接す。弁辰は辰韓の南にあり、また、十二国。その南はまた倭と接している(地図2)。すべてで七十八国。百済はその一国である。大国は万余戸、小国は数千戸で、それぞれ山や海の間にある。」



 魏志では、辰韓、弁辰(弁韓)は馬韓の東で雑居していることになりますが(地図1)、後漢書では国境が定められて辰韓、弁辰が分離されています(地図2)。辰韓の北に濊があり、弁辰瀆盧国が倭と界を接しているとされる魏志の記述に、范曄が生きていた五世紀の地理資料(地図3)を加えた彼の理解です。
 魏志倭人伝では、倭の北岸にあるとされた狗邪韓国を、後漢書倭伝は、倭の西北界と書いて倭領に含めています。その頃、神功皇后が朝鮮半島に侵攻し(高句麗、広開土王碑、391年)、おそらく南端を直轄領にしていたのでしょう。范曄は辰韓伝の弁辰狗邪国と、倭人伝の狗邪韓国は別国だと考えていたようでもありますし、雑居という言葉を軽く考えていたようでもあります。
 魏志倭人伝が、朝鮮半島にあって弁辰瀆盧国と境界を接する倭と、帯方東南の大海中にある倭人を区別していることに気付かなかったわけですが、范曄を責めるわけにはいかないでしょう。私自身、倭人伝の書き出しが倭人になっていて、倭と区別されているという松本清張氏の主張に出会わなければ、気にも留めず通り過ぎていました。これは陳寿が二つの国を区別するために考案した便宜的な方法で、標題のみに現れています。倭国大乱で女王国が共立されるまで、この二つに区別はなく、同一国だったわけです。
 後漢書倭伝の書き出しは「倭は韓東南大海の中に在り」になっていて、こちらが普通でしょう。魏志の「倭人」という書き出しに着目しなければならなかった。これは漢書地理志燕地の「楽浪海中に倭人有り」という言葉を踏襲したもので、海中の国に限定されています。


地合方四千餘里 東西以海為限 皆古之辰國也 馬韓最大 共立其種為辰王 都目支國 盡王三韓之地 其諸國王先皆是馬韓種人焉
「土地は合わせて四千余里四方。東西は海をもって限りと為す。みないにしえの辰国である。馬韓が最大。その種族の者を共立して辰王と為し、目支国(魏志では月支国、転写間違いと考えられる)に都を置いている。王は三韓の地にいなくなった。その諸国王の祖先はみな馬韓の種族であった。」

 魏志では辰韓が辰国だとされています。辰は東南東を意味する文字です。朝鮮半島の東南にある韓だから辰韓と呼ばれたのでしょう。西方の馬韓まで含むはずはない。范曄にはかなりの誤解があります。
 その誤解を生んだ背景に、馬韓、辰韓では臣智と呼ばれる首長が最高位で、魏から与えられた最高官位も率善邑君にすぎない。各国に王が存在しないのに、辰王のみが存在する。その辰王は常に馬韓人が選ばれるが、月支国で辰韓十二国を統治しているだけの、独立して王になれない影の薄い存在だという魏志の記述があります。王なのに各国の臣智より地位が低く感じられる。その矛盾を解消しようと考えた末の結論なのでしょう。倭人伝の卑弥呼の共立を参考にしたようです。
 魏志には楽浪、帯方郡が韓を滅ぼしたことが記されており、各国の王の不在は滅ぼされた正始七年以降のデータの可能性がある。辰王に関する記述は、それ以前のデータの可能性がある。陳寿がデータをいじらずにそのまま引用していることは倭人伝の解説でも指摘しましたが、それに気付かなければ、魏志は「わけの解らんことを書いている」という評価になります。
 唐代でもそう評価されて、筋の通った後漢書の方が信頼されたのではないか。倭に関しても邪馬臺国と書く後漢書の方が評価されて(魏志は邪馬壹国)、隋書は、魏代のことを書くのに、魏志ではなく後漢書から引用しています。


馬韓人知田蠶作緜布 出大栗如梨 有長尾雞尾長五尺
「馬韓人は田や蚕を知り、綿布を作る。梨くらいの大栗を産出する。尾長鶏がいて尾の長さは五尺である。」


邑落雑居亦無城郭 作土室形如冢 開戸在上 不知跪拝 無長幼男女之別
「村落は雑居し、城郭はない。土の室を作るが、形は盛り土の墓のようである。戸を開く仕掛けは上にある。跪拝を知らない。長幼男女の区別もない。」


不貴金寶錦罽 不知騎乗牛馬 唯重瓔珠以綴衣為飾及縣頸垂耳 大率皆魁頭露紒布袍草履
「金、玉璧類、錦、毛織物を貴ばない。牛や馬に騎乗することを知らない。ただ、玉に似た石や真珠を重んじ、衣服に縫い込んで飾りとしたり、首にかけたり、耳から垂らしたりする。指導者はみな魁頭で髷を露出し、布の長い外衣を着て、草履をはく。」

 魏志では「その人」とあって、男子はみな魁頭露紒で、大率(指導者)に限らない。しかし、大率もこの髪型だったということも言えるでしょう。魏志倭人伝の「一大率」が、一人の大率の意味であることがはっきりします。
 魏志では革製の履き物になっています。このあたり、百済からの何らかの資料を利用したのかもしれません。百済も東晋に遣使していますから、風俗に関する資料が残っていた可能性はあります。百済は高句麗の一族が南下して建国した国で、馬韓五十数国の一国にすぎなかった。発展して馬韓故地を領有したのですから、百年ほど前の馬韓とは風俗が異なっていたとしても不思議はありません。


其人壮勇 少年有築室作力者輒以縄貫脊皮縋以大木 嚾呼為健常
「その人々は意気盛んで勇ましい。少年は家を築くことがあれば力仕事をするが、すぐさま縄で背中の皮を貫き、大木につり下げる。さわがしく叫んで、健やかで普通だとする。」

 ここは魏志でも難解なところで、范曄がどういう光景を思い浮かべていたのか想像がつきません。


以五月田竟祭鬼神 晝夜酒會群聚歌舞 舞輒数十人相随蹋地為節 十月農功畢亦復如之>
「五月、田作りが終わると、鬼神を祭る。昼夜酒盛りをし、群衆は歌い舞う。舞いは数十人が他の人のあとに付きながら地を踏み、調子をとる。十月、農作業が終わると、またこのようなことをくり返す。」


諸國邑各以一人主祭天神號為天君 又立蘇塗建大木以縣鈴鼓事鬼神
「もろもろの首都的集落には、それぞれ一人が天神の祭りをつかさどる。号して天君とする。また、蘇塗を立て、大木を建てて鈴や鼓を懸け、鬼神につかえる。」


其南界近倭亦有文身者
「その南の境界地域は倭に近いので、入れ墨しているものがいる。」

 魏志では「入れ墨を入れている者もいる」というだけで、地域を限定していませんが、范曄の地図では馬韓の南に倭が接しているので、こういう解釈になりました。


辰韓耆老自言 秦之亡人避苦役役適韓国 馬韓割東界地與之 其名國為邦 弓為弧 賊為寇 行酒為行觴 相呼為徒 有似秦語 故或名之為秦韓
「辰韓の古老は自ら秦からの逃亡者で苦役を避け、韓国にたどり着いたとき、馬韓がその東の外れの地を与えたのだという。その名は、国(こく)を邦(ほう)と為し、弓(きゅう)を弧(こ)と為し、賊(ぞく)を寇(こう)と為し、行酒(こうしゅ)を行觴(こうしょう)と為し、お互いを徒(と)と呼ぶ。秦語に似たところがあり、ゆえにこれを秦韓とすることもある。」


有城柵屋室 諸小別邑 各有渠帥 大者名臣智次有儉側次有樊秖次有殺奚次有邑借
「城柵、屋室がある。もろもろの小さな集落があり、それぞれ指導者がいる。勢力の大きなものは臣智と名づけられる。次に儉側があり、次に樊秖があり、次に殺奚があり、次に邑借がある。」


土地肥美宜五穀 知蠶桑作縑布 乗駕牛馬 嫁娶以禮 行者讓路
「土地はよく肥えて五穀を植えるのに適している。養蚕を知り、カトリ絹を作る。牛や馬に乗ったり、車を引かせたりする。嫁は礼にしたがって娶る。行き会った者は道を譲る。」


國出鐵 濊倭馬韓並従 市之凡諸貨易皆以鐵為貨
「国は鉄を産出し、濊、倭、馬韓は皆たよっている。市のすべての商品は鉄を貨幣がわりにして交易される。」


俗喜歌舞飲酒鼓瑟 兒生欲令其頭扁 皆押之以石
「その風俗では、歌舞、飲酒、鼓瑟を喜ぶ。子が生まれるとその頭を平たくしようとする。みな石でこれを押す。」


弁辰與辰韓雑居 城郭衣服皆同 言語風俗有異 其人形皆長大美髪 衣服契清 而刑法嚴峻 其國近倭故頗有文身者
「弁辰は辰韓と雑居する。城郭と衣服はみな同じで、言語と風俗に違いがある。その人々はみな背が高く、美髪で、衣服は清潔であるが、刑法は非常に厳しい。其の国は倭に近いため、入れ墨をする者が非常に多い。」

 魏志では、辰韓人が「男女とも倭に近く入れ墨している者が多い」とされています。范曄は弁辰と辰韓が雑居しているという意味が理解できなかった。弁辰を辰韓の南に置いて、倭に接していると考えたため、こういう解釈になりました。


初朝鮮王準為衛満所破 乃将其餘衆數千人走入海攻馬韓破之自立為韓王 準後絶滅 馬韓人復自立為辰王
「初め、朝鮮王の準は衛満が破るところとなり、すなわちその残余の人々数千人を率いて海に逃れ、馬韓を攻めてこれを破り、自立して韓王となった。準の後裔は絶滅した。馬韓人はまた自立して辰王となった。」

 范曄の理解では、「燕人衛満に破れた朝鮮王の箕準は、南に逃れ韓王になったが、その後裔はいつの間にか絶滅してしまった。韓には王が存在しなくなったため、韓はいにしえの辰国を復活し、諸国が共立して辰王を立てて、月支国に都を置いた。常に馬韓人が王になる。」ということのようです。


建武二十年 韓人廉斯人蘇馬諟等詣楽浪貢献 光武封蘇馬諟為韓廉斯邑君 使属楽浪郡 四時朝謁 霊帝末韓濊並盛郡縣不能制 百姓苦亂多流亡入韓者
「建武二十年、韓人、廉斯人の蘇馬諟等が楽浪郡に来て貢を献じた。光武帝は蘇馬諟を韓廉斯邑君と為し、楽浪郡に所属させた。季節毎に朝謁している。霊帝の末、韓、濊がともに勢いが強く、郡や縣はこれを制御することが出来なかった。住民は乱に苦しみ、さまよいさすらって韓に入る者が多かった。」

 建武二十年(44)の蘇馬諟に関する記述は魏志のどこにもみられません。倭伝の「倭国大乱」などの記述と同じように、先行後漢書からの引用と思われます。廉斯邑君という官位から推定したのか、廉斯は集落名だという注が入っています。
 魏志の裴松之注には、魏略逸文として、王莽の地皇年間(20~23)に、廉斯鑡という辰韓の右渠帥が楽浪郡に亡命し、辰韓に誘拐された漢人を取り戻したことが記されています。廉斯鑡も廉斯という土地の鑡を表したのかもしれない。


馬韓之西海嶌上有州胡國 其人短小髠頭 衣韋衣有上無下好 養牛豕 乗舩往来貨市韓中>
「馬韓の西の海の島の上に州胡国がある。其の人は背が低い。頭をそり、なめし革の服を着る。上があって下がない。好んで牛や豚を飼う。船に乗って往来し、韓中と交易している。」

 魏志では中韓と交易しているとなっています。おそらく中国と韓でしょう。実際に貨泉等、当時の交易を思わせる貨幣が出土しています。范曄は中国との交易を想像できず、韓中の間違いだと判断したようです。