◇ 自然
九州本土の南端、佐多岬の60kmほど南にあって、淡路島より少し小さい島ですが、九州一高い1936mの宮之浦岳をはじめとする九州最高峰の山々がそびえる山の島で、「洋上アルプス」とも呼ばれています。この高度差のため、屋久島では亜熱帯から亜寒帯という多様な気候が存在します。気温の変化にしたがって、生育する植物の種類も違ってくるため、屋久島でははっきりとした垂直分布を見ることができます。
また屋久島と奄美大島との間には、渡瀬線と呼ばれる生物分布の境界線があるとされています。そのため屋久島を南限・北限とする植物種が多く、固有種47種、固有亜種31種を含む、1,500種をこえる植物種の自生が屋久島では確認されており、豊かな植物相が形成されています。
さらに屋久島は「水の島」「一ヶ月に35日雨が降る」などと言われるように、非常に多くの降雨のある島としても知られています。これは屋久島のそばを暖かい黒潮が通っているためで山中では1万mmを越すといわれています。豊富な水は屋久島の生命の原点であり、島で循環し、蘚苔林や着生、屋久杉といった屋久島独特の自然景観をつくりだしています。
屋久島の傑出した自然は、1954年に国の特別天然記念物に指定され、1964年には屋久島は霧島国立公園に含められ、霧島屋久島国立公園として成立しました。そして1993年、屋久島は白神山地とともに、日本で初めての世界自然遺産に登録されました。
◇ 産業
屋久島では屋久島の特性をいかして、農林水産業のほか、観光サービス業、醸造、製薬などが行なわれています。
屋久島の暖かい気候をいかしたポンカン・タンカン、パッションフルーツなどの果樹栽培が島の東南部を中心に行なわれ、屋久島の代表的な農産物となっています。また、胃腸薬の原料になるガジュツやウコン、お茶などの商品作物も多く栽培されています。
また屋久島の海には黒潮の本流が流れ、古くから漁業が盛んであり、サバ漁とトビウオ漁を中心に行なわれています。サバは刺身で食べられるほか、サバ節という燻製に加工され、トビウオを使った屋久島揚げとともに屋久島の特産品となっています。
屋久島の特産品として、屋久杉工芸も屋久島を代表する産業の一つで、屋久杉土埋木を使ったつぼや花びん等の加工品が作られています。
また近年、屋久島は魅力的な自然を持つ島として注目され、また1993年の世界自然遺産登録もあり、観光、登山など屋久島の自然を目的に訪れる人が増加しています。それに伴い観光業が発達し、エコツアーなどの自然をテーマにした産業やエコツアーガイドといった職業が多く見られるようになっています。
◇人々の暮らしの中の自然
山への思い 〜岳参り〜
屋久島では1950年代まで、毎年春、秋の2回、集落ごとに若者たちが浜の白砂や神酒を携え、宮之浦岳、永田岳、栗生岳などの奥岳に登る「岳参り」が広く行なわれていました。奥岳はもともと屋久杉の伐採が禁止されていた場所で、屋久島の人々にとっては神域でした。浜でみそぎをした若者は山に登り、家内安全や無病息災、豊漁・豊作などを祈願し山中で一晩を過ごします。一行が帰ってくると村人が総出で迎え、ご馳走を持ち寄って宴を催しました。その後一行は奥岳で手折ってきた山の神の依り代であるシャクナゲの枝を、各家庭に配り、各家庭の安寧を願いました。
しかし時代と共に儀式は省略され、現在では集落を挙げての岳参りはわずかにしか残っていない。島では毎年6月の第一日曜日に「シャクナゲ登山」が行なわれ、お年寄りを含め300人前後の人でにぎわう。これを現代版の岳参りという人もいる。
◇屋久杉利用の歴史
禁忌からの開放
屋久島を代表する屋久杉の利用が歴史上に出てくるのは、天正14年(1586年)豊臣秀吉が京都方広寺の建立の際に、屋久島の杉・桧の良材を島津家の武将伊集院忠棟と島津忠長が来島して調達したという記録があります。しかし本格的な伐採が始まるのは江戸期からで、その道筋をつけたのが泊如竹だといわれています。
泊如竹は屋久島の安房出身の儒学者で、1640年からは島津藩主光久の下で、学問、財政の指南役を務めました。泊如竹は当時の人々の貧困をみかねて、屋久杉の伐採と、それを加工した平木を年貢として納めることを島津光久に献策しました。しかし古来、屋久島では島中央の「奥岳」にある屋久杉は神の宿る木とされ、島人たちは祟りを恐れ伐採を禁じてきました。建材や薪炭は海に近い「前岳」の木が使われてきましたが、如竹は「祟りは迷信に過ぎない」と島人を説得しました。七日間山にこもり、「神のお告げを受けた。屋久杉に斧を立てかけ、一晩たってその斧が倒れていなければ切ってよい」と説いてまわったという逸話が残されています。
ノコギリと斧を使って何日もかけて切り出された屋久杉は、その場で平木と呼ばれる、屋根に葺く長さ約48cm、幅が10cmほどの薄い板に加工され、運び出されました。米の栽培に不適な屋久島では、年貢として米の代わりに屋久杉の平木が納められていました。
こうして如竹によって迷信から開放されたとはいっても、屋久杉の神が死んだわけではありませんでした。木の魂を鎮める儀式は脈々と受け継がれ、また伐採後には「お礼杉」と呼ばれる植樹も行なわれていました。この「お礼杉」も今では樹齢200〜300年の立派な木に成長しています。
大量伐採の時代
明治にはいると地租改正で島津藩の所有の山林は全て官林となり、伐採事業は一時的に下火となったものの、大正以降は国営事業として木材運搬用のトロッコ軌道がひかれ、大正12年には屋久島国有林開発の拠点として小杉谷事業所が開設されました。当初の伐採は江戸時代の延長で斧と鋸だけを用いた択伐が主であり、山の神などへの信仰も残されていたため、まだ生態系を大きく破壊するということはありませんでした。しかし、昭和28年以降チェーンソーを使った皆伐方式が導入され、また戦後復興の木材需要ともあいまって、伐採量が飛躍的に増大し、大量伐採の時代を迎えました。森林は収奪の対象としてみなされ、小杉谷は「屋久杉の墓場」といわれるまで伐採され、小杉谷事業所は昭和45年8月に閉鎖され、48年の歴史に幕を閉じました。小杉谷周辺の屋久杉をほとんど刈りつくしてしまったためでした。
昭和40年代になると全国的に自然保護運動が高まり、また海外材の需要が伸び、徐々に屋久杉の伐採面積は縮小されてゆき、国は1982年、ようやく伐採を禁止しました。
残された天然資源 〜土埋木〜
「土埋木」とは、昔伐採され残された屋久杉の切り株や倒木のことです。江戸期は木目のきれいな良材を切り出すために、通常高さ3〜4メートルの部分に足場を組み、そこからノコギリをひきました。通常根から3〜4メートルはこぶになったり曲がりくねったりしているためです。縄文杉や大王杉などが現在まで伐採を免れてきたのは、こぶが多く材木に適していなかったからなのです。
こうして残された土埋木は、屋久杉がもつ内地の杉の5〜6倍、ときには20倍ともいわれる多量の樹脂に守られて腐らず、何百年もコケに覆われたまま生き続けています。
屋久杉の伐採が禁止されている現在、特産の屋久杉工芸品や銘木とされているものは全て土埋木です。土埋木の搬出は計画的に国の管理の下、地元民間会社が行なっています。この土埋木からタンスやテーブル、衝立、つぼ、皿、小さなものではハガキやしおりが作られ、新たな島の産業となっています。土埋木は森に残された天然資源なのです。
◇人と森の関わりの歴史
地租改正と屋久島憲法
明治に入り、古い体制から新しい体制に変革を遂げる中、屋久島の森と人との関係も大きく変わっていきました。
藩政下では山林は島津藩の所有で、山に入って林木を伐採する山稼ぎには山奉行の許可が必要でした。しかし、集落周辺の里山にあたる前岳では特に制約はなく、薪炭、灯火、飼料、水源、防風林などに利用されてきました。島民は森林維持のため、自らに植林作業を課していました。例えば、楠川村では毎年1人当たり15本のスギと5本のマツを植樹していました。
明治初期、政府は地租改正を意図し、屋久島でも官有地と民有地の区分を迫られることになりました。当初、地租改正後も集落周辺の山林の日常利用は慣行として認められるものと受け取られていました。役人側も官有地の拡大をもくろみ、高い税を伴う民有地にしないようにと説明し、その結果、奥岳の全部と前岳のほとんどが、村人をだますような形で官有地となりました。しかしその後、官有地での伐採は盗伐として取締りの対象とされました。
日常生活にも困難をきたした村民たちは、明治33年、下げ戻し申請書を提出したが、不許可となりました。そこで、明治37年に同処分の不当性を訴えて、国有林下戻請求の行政訴訟を起こしましたが、16年5ヶ月を費やして、大正9年敗訴が確定しました。
それじゃああんまりだということで、国は大正10年に「屋久島国有林経営の大綱」を定めました。これが後に「屋久島憲法」とよばれることになります。主な内容は、四万二千町歩のうち前岳に当たる七千町歩は、地元民のため特別作業級とし、将来は住民に貸与する。奥岳の作業に地元民を採用する。島一周道路も整備する、などでした。
しかし山林の大部分が国有林であり、その開発は政府の決定事項とされ、必然的に島の人々が自らの哲学をもって森と関わることはなくなっていきました。
自然保護運動
昭和29年(1954)、田代善太郎の調査をもとに、屋久島の自然は国の特別天然記念物に指定され、昭和39年(1964)には霧島国立公園に含められ、霧島屋久国立公園として成立しました。しかし、指定地は島中央の山頂部周辺に偏り、しかも特別保護地区は全体の指定地の三分の一に過ぎず、残りの国立公園内でも風致景観上問題がなければ伐採が認められました。全体的に森林開発に支障をきたさないような公園指定でした。
この頃、国有林経営に拡大造林政策が採用され、屋久島は大面積皆伐、大量伐採の時代を迎えます。
それにともない島の内外では大規模伐採への反対運動が急速に拡大しました。島民はもとより、島の外に移り住んだ人々も「屋久の子会」「近畿屋久島会」などの団体を結成し、運動を続けました。こういった島内外の人々の動きは、十年以上もの月日をかけて、徐々に国立公園の区域拡大、多様性の宝庫である西部地域照葉樹林帯の国立公園への編入などを成し遂げました。そしてこうした動きの中で、世界自然遺産登録の事由が保たれることになりました。
この二十年以上にもわたるねばり強い運動に一貫しているのは、下戻訴訟が意図した「自分たちの森をどう扱うかという決定に、自分たちを参加させよ」という異議申し立て、自治の叫びにほかならなかったのでしょうか。
◇人と自然の新しい接点、エコツーリズム
屋久島の自然は映画「もののけ姫」のモデルになったことで知られていますが、その中で、主人公のアシタカは、この映画のテーマとも言うべき重要な台詞を言っています。 タタラ場に侍が攻め込んで来て戦となり、アシタカがそのことをエボシに知らせに行った時のことです。アシタカは、戦を放置してシシ神の首を取りに行くエボシに対し、「森とタタラ場、双方生きる道はないのか?」と問いかけます。
自然との共生。これからの文明のあり方を自然と人間のから根本的に見直さなければなりません。自然と共生する島づくりを目指し、現在鹿児島県が進めている「屋久島環境文化村構想」では、新たな地域産業の創出として「エコツアー」の開発があります。
エコツーリズムとは?
エコツーリズムに関する明確で共通な定義はなされていませんが、日本エコツーリズム協会は次のように定義しています。
自然・歴史・文化など地域固有の資源を生かした観光を成立させること。
観光によってそれらの資源が損なわれることがないよう、適切な管理に基づく保護・保全をはかること。
地域資源の健全な存続による地域経済への波及効果が実現することをねらいとすること。
以上の3点を満たし、資源の保護+観光業の成立+地域振興の融合をめざす観光の考え方のことで、それにより、旅行者に魅力的な地域資源とのふれあいの機会が永続的に提供され、地域の暮らしが安定し、資源が守られていくことを目的としています。
日本におけるエコツーリズム・エコツアーは、約10年ほど前から聞かれるようになり、近年、人々の自然志向の高まりとともに、全国各地で取り組みが進められています。
屋久島のエコツーリズム
屋久島は、屋久杉の巨木をはじめ、亜熱帯から冷温帯までの植生の垂直分布と多様性、豊富な降水量と、それにかたち作られた類まれな自然生態系と景観といった、世界自然遺産に登録された傑出した自然環境を有しています。
産業振興の面では、観光が屋久島にとって最も将来性のある産業であり、その観光業を支えるのは屋久島のもつ傑出した自然環境です。
こういったことから、屋久島では、自然体験型観光のエコツアーを中心に観光産業の発展を図ることが自然環境を保護・保全しつつ、経済波及効果により他の産業の活性化にもなると考えられ、県をあげて屋久島らしいエコツーリズムの創出、展開がすすめられています。
またエコツアーが可能となるためには自然と地域文化の理解と解説、自然への影響を最小限で済ます指導、地域文化との摩擦を防ぐ方法の指導のできるツアーガイドが必要となります。鹿児島県の運営する屋久島環境文化村財団では旅行関係者を対象にガイド養成のセミナーを開催しています。また屋久島の自然環境の価値を外内部に発信し、地域・旅行会社・旅行者の環境意識を高めることが大事でありますので、その啓蒙活動も盛んに行われているそうです。
第一話
第二話
第三話
第四話
最終話
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