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旅・アウトドア・歴史を楽しむ  四季晴の部屋

敦賀屋は 姓を鳥井 今の芭蕉園一帯に屋敷を構えた回船問屋で 当初は武士であったが天領・出雲崎に住みつき 出雲崎の年寄り役 後に 町名主を務めた。 良寛和尚出家の一因となったとされる一族で 出雲崎御三家 の 一家である。

敦賀屋文書   鳥井家(敦賀屋)起源  出雲崎遍年史抜粋



 鳥 井 家(敦 賀 屋)起 源   概  約

 初代鳥井吉左衛門政易(延宝七年八四歳死去)法名:祐玄 浪人にて越前国敦賀に暫く住み、慶長の年(1600年代初期)に年老いた父を伴い(その節は禅宗であった)越後の国出雲崎に引き移り町屋に住む。 敦賀より引き移りし縁をえて屋号を敦賀屋とする。御末寺 浄願寺(東本願寺)門徒となる。 政易実子惣領吉左衛門政盛(宝永元年七八歳死去)法名:祐貞 両人とも信心深く心がけもよいものであった。 
内明歴(1655-1658)より寛丈年中(1661-1673)までに隣村中山村・米田村両村を過半開発した。 その目的は下越後に御坊所(東本願寺別院)がなかったため、
祐貞は御坊所(別院)建立を厚く心掛け 開発中の中山村の花立に建立を志願して 最寄りの寺院衆・講中にも相談し、建立絵図まで仕立てたが、何分出雲崎は御末寺を束ねる寺院がない土地であったため 東本願寺御本山 御末寺の不便もあったため再度地の利がよく御末寺を束ねる寺院がある三條に東本願寺別院を建立することを奉願 祐貞は寛文年中(1661-1673)講中の者三名を引き連れて上京し東本願寺別院の建立の奉願し・・・・・相成る。そのために当初建立予定の花立の木々を船で三條に送った。
思いある花立の地所へは、鳥井家墓所を築立し諸木数千本を植立。          
元祖祐玄が敦賀より引き移りし折、仕えたる浪人長谷川(後改)谷川作兵衛及び譜代の者三名 墓守として花立に家を作り引き移り、この四人の者は円正寺門徒になり追々農家に相成りて連綿相続・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。     




鳥 井 家(敦 賀 屋)  系  譜

代 目 名前 @ 名 前 A 法名 生 年 没 年 年齢
初 代 吉左衛門 政 易 祐玄 1595(?) 延宝7年  (1679年) 84歳
二代目 吉左衛門 政 盛   →政 長 祐貞 1630(?) 宝永元年   (1708年) 78歳
三代目 吉左衛門 政 平 祐三 1647(?) 享保15年  (1730年) 83歳
四代目 吉左衛門 政 男 祐信 1675(?) 享保18年  (1733年) 58歳
五代目 吉左衛門 六 弥 青白楼楚由 祐誓 1701(?) 享保16年  (1731年) 30歳
六代目 吉左衛門 二狂荘浮涯 1709(?) 宝暦9年  (1759年) 50歳
七代目 吉左衛門 巵 言 宝歴12年  (1762年) 36歳
八代目 多 吉 明和5年  (1768年)
九代目 吉左衛門 56歳
十代目 吉左衛門 長 兵 衛
十一代目 直右衛門 尚 寛 1780 天保4年   (1833年)
十一月十二日
53歳
十二代目 兵 四 郎 政 寛 文政3年  (1820年)
三月二十七日
22歳
十三代目 権 之 助 祐○ 文化8年(1811) 慶応4年  (1869年?)    58歳
一四代目 吉左衛門            
十五代目   粲            
十七代目 娥 我 52歳
十八代目 政 義 75歳
十九代目 ○ ○ 四季晴



良寛出家と鳥井家




   良寛さんと地蔵堂町の大庄屋富取長太夫の弟 長兵衛 之則 は三峰館

(狭川塾)で学友であり、特に長兵衛の弟 之則とは親友であった。 その
長兵

が出雲崎の町年寄 敦賀屋鳥井家に婿入りし当主となった。       


以前より出雲崎天領七万石の御三家 京屋野口家(天瀬町名主)と
良寛さんの

橘屋山本家(出雲崎町名主)とは対立関係にあった。 
鳥井家は代々出雲崎名

主を補佐する筆頭年寄役であったが 京屋野口家とは重親族であり また北前

船による江差・松前交易で莫大な資産を形成し 出雲崎町人の間に信望を得だ

していた。 


  そんな折、安永四年(1775年)七月七日 七夕の節句の日、
敦賀屋鳥井家

の当主になった若き長兵衛(この年十五歳)が代官所に羽織・袴で帯刀し 式日

参賀したことを
良寛さんの父以南が呼びつけ叱責した。 以前は町年寄りを務

めていた家柄とはいえ、現在無役の分際で代官所に帯刀し 挨拶に行くとは心

得え違いだと叱責したのである。 これには
長兵衛も黙っておらず 家族・親

族と相談し 以南の言い分は不当だと代官所に訴え出た。 以南とすれば
敦賀

の勢力が伸びてきて、橘屋の地位を脅かしつつあったので 鳥井家が婿取り

し若き当主になったこの時ぞとばかりに京屋野口家の恨みもあわせて 
鳥井家

の頭を押さえておこうと考えたと思われれる。              



  代官所の結論は
長兵衛は代を次いで現在無役であるが、代々町年寄役を務

める家柄の者であるから帯刀し代官所に式日参賀する事に問題はないとし 事

を収めようとしたが以南は代官所の提案・指示に従わず やむなく代官所は以

南を説諭処分とし決着させた。


  
良寛(英蔵)さんはこの時、父以南のもとで名主見習をしていたが その

直後 家を出、失踪した。


親友・富取之則の実兄でもあり席を並べた同門の学友である
鳥井長兵衛を執よ

うに叱責する父を見ながら何もできない自分が嫌になったのかもしれない。



後に
良寛さんは その時のことを思い以下の詩を詠んでいる。





      
少 年、 父 を 捨 て て 他 国 に 走 る









<星 紋>

七曜紋    (丸に七つ星)

七曜は北斗七星を象ったものなので「北斗星紋」とも呼ばれる.


長寿息災を願って作られた紋である。

鳥井家代々の
臍の緒・初毛・前髪など。

文政三年庚辰五月廿五日
(1820年)

権之助元服前髪即日お白州へ御下知承ニ罷出ル事

  時正年十一歳
  
  書上ヶ年十七歳




権之助 十一歳の時元服し届け出 これより十七歳となる。


**鳥井権之助は幼少の頃から理髪で学問にも優れていたことから十一歳になると代官所より呼び出され元服(成人)し十七歳として成人することを命じられる。**
鳥井家     (敦賀屋)跡地


現在は芭蕉園という公園になっている。

中央右には芭蕉像と歌碑(銀河ノ序)の碑が立てられている。



このあたりで有名な芭蕉の



「荒海や佐渡

によこたふ天

の河」



の句が読まれたとされている。
  敦賀屋鳥井家
のことがが書かれている書籍の一部

良寛研究には
敦賀屋文書が多数研究/引用されている。

良寛書籍は今までに 三百冊以上発刊されているが たぶん百冊弱に関して 敦賀屋鳥井家のことが書かれていると思う。

収集に関しては同様なことの記載で目新しいものがないものに関しては収集していない。
   芭 蕉 と

  出 雲 崎
 

「二子山より 敦 賀 屋 見れば千世・万世の花ざかり」という歌があります。

 

芭蕉園 裏山

鳥井家が寛政の異学の禁に猛烈に反対し 江戸を追われた江戸の大儒 亀田鵬斎鳥井家(敦賀屋)に逗留した。
鳥井家では鵬斎の為にこの裏山に新亭を造って大いにもてなした。

鵬斎はその礼としてこの新亭を「聚遠亭(しゅうおんてい)と名づけ」座敷には「雲浦一望楼」の額を書いた。

十三代 
鳥井権之助の名づけ親でもある。

聚遠亭より
鳥井家墓所にもいけたが現在は道はない。

  花 立


敦 賀 屋 略 歴















注:由之=良寛さんの弟
 

鳥井直衛門老          良 寛



ちょうせいどう  りんしょ  さくじつらくしゅつかまつりそうろう     ならびにりんしょ   
澄清堂の臨書、昨 日 落 手 仕 候。 並に臨書の

これいしょじょ    きゅうさく       このえ        ふそうおう   そうろうあいだ
孤霊照女の旧作は、 此画にちと不相応に候 間

たいはく    く   もってさんそうろう    はなだて    さんじょつかまつりたくそうらえ
太白が句を以 賛 候。 花立へも参上 仕 度 候

       このたび              ゆぎょういた  たくそうろう       いじょう
ども、此度はあたり を遊行度し至 候。  以上



三月廿九日    良 寛

 良寛さんより

鳥井家 第十一代目 鳥井直右衛門尚寛 宛書簡

「澄 清 堂 の 臨 書」   (文化十五年三月)    

 鳥井直右衛門尚寛良寛さんの親友・富取之則(幸右衛門)の息子で敦賀屋鳥井家に養子として入った。


良寛さんは二〇年ぶりに故郷に帰ってきたおり、三峰館で親友で同門の文学仲間 富取之則の死を知らされ悲しみ、以下の詩を残している。


「之 則 の 物 故 を 聞 く」

たちまちきいて    ただゆめ  ごと                   い   うるお        
「忽聞いて只夢の如く 思い定まって涙衣を沾す」



 
 鳥井権之助 北蝦夷地(樺太)開拓 北越史料 出雲崎 明治三十九年発行 抜粋



かわらばん 妻 入 り(第21.22.23号) 出雲崎  磯 野 猛 氏 著    <本文は著者の許可得て掲載しております。>
「人物往来 


 江戸時代の出雲崎には、巡見使や佐渡奉行の本陣を務めた家が三軒ありました。 尼瀬町の野口家こと「京屋」住吉町の鳥井家「敦賀屋」石井町の山本家「橘屋」です。 佐渡奉行は、任期交代があれば、江戸へ帰る奉行と江戸から佐渡へ渡る新任奉行の宿泊場所として、この本陣が使われたのです。 また、巡見使にも諸国巡見と公領 (天領)巡見があり、北国街道の出雲崎では、両方の巡見使の本陣も務めました。 この巡見使が来ると長岡、新発田、高田の三藩では巡見使一行の雑用から公務にわたって、一人の役人に二人の世話掛りをつけて行動を共にしました。巡見使のことについては、後日機会があれば誌します。


 この本陣を務めた住吉町の
敦賀屋に江戸から来た文人、 亀田鵬斎が招かれていた文化八年(1811)三月一日、敦賀屋では、男の子が出生しました。 敦賀屋の主人は、早速、亀田鵬斎先生から名付け親になってもらい「権之助」と命名しました。 権之助は幼少時代から利発で学問にも優れていたことから、十一歳になると、代官所から呼び出され「本日より十七歳になり元服(成人男子の意)すること」の命令により、十一歳の権之助は十七歳として前髪を切り、頭髪も成人男子になり元服します。 これは、名主見習になる為でした。


 この時期、江戸初期から出雲崎町名主として代々続いた石井町の橘屋が、町政の失策により代官所から出雲崎町以外へ所払いという扱いを受け、井鼻村へ移り、変わって町年寄を務めた住吉町の敦賀屋が名主役となりました。 良寛の生家、橘屋が没落した時代です。 後世の良寛贔屓の人たちには、この事件を敦賀屋が勢力争いで橘屋を倒したように書く人もおりますが、それは、間違いで橘屋を江戸初期から二百年近く支えて来た敦賀屋のことを知らない人達の憶測にしか過ぎません。 むしろ橘屋が名主として時代を見る目を持たず、支えてくれるはずの町年寄の意向を無視したことに原因がありました。


 
権之助は、名主役になる以前から大きな視点を持っておりましたが、古い殻に閉じこもっていた人からすれば、全く驚くばかりの行動で、なかなか素直についていけない町役人も多くおりました。


 この時代、幕府は、アメリカ、フランス、イギリス、ロシアなど先進諸国から今までの鎖国政策を開国と通商促す条約を迫られておりました。 その一方、反幕政策を押し進める薩摩藩や長州藩などは、尊王攘夷を唱えて開国反対運動をやっておりました。 この様子を見ていた
権之助は、幕府に対して、意見書を提出しております。 「バッティラ船」という大きな船の両舷に水車のような羽を付けた機械船の建造でした。そして、もう一つ国防上の理由で軍艦を作るよう上申しました。 この二つとも幕府では、大いに耳を傾けたものの、ことの重大さもあり、民間では無理なので幕府が建造するという返答をしました。 それだけ諸外国の圧力が当時の日本にかけられていたのです。


 
権之助の姉、スマという人は、現在の三条市、井栗村の大庄屋松川弁之助の妻となっておりました。 この弁之助は、富豪で政治的手腕にも優れていて、当時の蝦夷(北海道)の開拓に関心をもっておりましたが、機会があり箱館の開発に乗り出しました。 安政二年(1855)弁之助は、北海道へ行き、早速、箱館港や五稜郭の土木工事を請負い、この工事を完成させました。 もちろん箱館奉行から御用取扱役を任ぜられておりました。 弁之助は、さらに妻の弟、権之助に北蝦夷(サハリン)の東海岸に、手付かずの漁場があるらしい情報を知らせ、この事業に加わるように話しかけました。 権之助は、早速、箱館へ行き、翌三年からという弁之助の意見より早く、出雲崎へ帰ると早々に準備をすませ、早馬で新潟へ行き船で箱館に着き、樺太東海岸の調査に乗り出しました。 余談ですが、この早馬で新潟へ行った時の馬の鞭が現在もあります。 権之助は、名字帯刀を許された身分ですから、いつもこの鞭を片手に持っていたそうです。


 安政三年(1856)四月、総勢十八人の調査隊は、宗谷を経て樺太の東海岸トンナイチャ、オチョホッカ、ナイブツ、ホロナイマアヌイに接岸、そこからマアヌイ河に沿って、西海岸のクシュンナイに着き、そこから北上、六月二十七日にライチシカ湖を探査、六月三十日、再びクシュナイに引き返しそれより、南下して七月二十一日、シラヌシに到着、八月四日宗谷に渡り、九月八日に箱館へ到着しました。 この時の一行の食料や持参したものの記録が
敦賀屋文書に残されております。 いよいよ、権之助の北海道開発が始まったのです。




 当時としては、冒険も大冒険というような大事業であったと思われます。 北前船による事業実績と、必要な知識及び財力も
鳥井権之助にはあったからと思われます。


権之助は、この調査によって、北蝦夷地に開発可能な漁場が十五カ所あること、樺太奥地の開発統治法として、


一. チベシアニより河川を利用してトンナイチャ湖まで運河を開き、 航海の危険な知床岬を迂回する距離を五分の一に短縮すること。


二. 東海岸のマアヌイより西海岸のクシュンナイまでの背梁山脈に横断道路を開くこと。


三. 北蝦夷地の奥地一帯を幕府直轄の直捌地として統治を敏活に行うこと。


 そして開発の為には、国元から人夫を派遣する一方、土着の住人も雇い入れて行うことなどの意見を姉婿の
松川弁之助を通じて安政三年三月九日箱館奉行に上申しています。


箱館奉行、堀織部正は、
権之助の手腕を認め、幕府に働きかけて、上申書を採用するとともに権之助を北蝦夷地直捌所差配に任命しようとして安政三年(1856)十月出雲崎代官、高木清左衛門を通じて町方の意向を聞きただしました。 その矢先の十一月十一日夜、権之助の家から出火し、「下木戸より二十間ばかり下町残り、上町は木戸まで延焼、家数千三十七軒、土蔵数二十三ばかり落ち、寺数十六カ寺、宮数五カ所焼失という町の大半を焼いた敦賀屋火事があり」、そのせいもあって代官、高木清左衛門からの返書は、名主役のままでは、町方の役人たちが承知しないとの文面で幕府へ差し出されました。


 その間、代官と函館奉行、町方役人とのやりとりが交わされましたが結局
権之助は、名主役を返上して、安政四年七月北蝦夷地差配人に任命されました。




安政三年(1856)のカラフト調査報告は、箱館奉行をして
鳥井権之助の手腕を高く評価、直ちに北蝦夷地差配人に任命しました。 安政四年(1857)春、十二隻の船団がカラフト漁業の開発に向けて出航しました。 この船団には、松川弁之助が箱館の五稜郭を建築中であったので、代人として小林森之助(三条一の木戸出身)を参加させました。 また蒲原の中村浜(現中条町)の佐藤広右衛門も加わっておりました。 船名は、北野丸、永正丸、永福丸、来福丸、長重丸、毘沙門丸、順風丸、祥風丸、唯鳩丸、豊年丸、龍善丸、船名不明の十二隻です。 この船団の乗組員は、総人数二七四人で、現地の住人が八五人加わっておりました。 安政四年四月二十一日、出航した船と三月一四日、五月五日とそれぞれの準備の都合で出航しました。 五月四日に一番手は、クシユンコタンへ着岸、二番手は、三月二十二日シラヌスに到着、魚場の開拓に着手しました。 カラフト東海岸のオチョボツカ、マアヌイなどの漁場を開き、オボチョッカだけで鱒1000石を漁獲しました。 西海岸でもクシュンナイ、ウシュロなどでも予想を上回る豊漁で大漁大漁と意気が上がりました。


 函館奉行もカラフト漁場の大成功に今後三年間、カラフトの漁獲物を新潟湊に直送することを許可して、新潟湊への入湊の際には、入湊税を免除する特別な権利も与えました。


 第一回の出漁に成功した越後の船団は、更に多くの漁場を開こうと安政四年(1857)多くの土方、木挽き、鍛冶、番人などをクシユンナイ,ワアレ、シララヲロ、キチョボッカなどで越冬させました。 しかし寒さは、内地と比べてものにならない厳しい酷寒で、脚気や栄養失調で越冬者四十五人の半数以上の二十四人が死亡するという悲惨な状況となりました。 幕府は、遺族に対して弔慰金300匁を贈り、越冬生存者の労をねぎらって、(銭)一貫文を与えました。 
松川弁之助も箱館の高龍寺で大法要を行い、死者の霊を弔ったようです。


 安政五年(1858)漁期に期待した越後勢は、弁財船20隻に二年間の食料、建築資材、衣類、漁具、濁酒、古陣羽織(現地住民への贈り物)などを積み、大工、木挽、鍛冶、番人など総勢360人を率いて、六月に箱館を出航し、東海岸のマアヌイに到着しました。 しかしマアヌイは、未開の地で落ち葉が腐食せず、そのうえ藪や湖沼が多くて家屋を建てることもこともできず、海浜に仮小屋を建てて、奥地をを切り開いてから越年して家屋をを建てなければならない不便な土地でした。 しかも、この年は、漁が不漁続きで、大変な時代で大切な塩や網、船などを流失する損害を受けました。 更に翌年、安政六年(1859)も不漁が続き、安政五年秋から越冬した者にも死者が出るなどして、漁場の引上げの声が出るようになりました。 
鳥井権之助も万延元年(1860)四月「差配人辞退願」を提出してカラフト漁場から手を引きました。 しかし、この箱館に残ってカラフト漁場に成功した人たちも多くおりました。












鳥井権之助   鳥井家代一三代目  出雲崎(天領七万石)の 町 名 主


北蝦夷地差配人


十一歳で元服し 名主見習となる。  後に出雲崎名主。

幼少のころより才気聡明で

幕末黒船の頃、先進諸国より開国を迫られ攘夷論が薩摩・長州より唱えられていた時代、幕府に対して 

@「バッテラ船」:両舷に水車をつけた機械船の建造 

A国防上軍艦を作るよう意見書を出し上申する。


安政三年(1856年)総勢18名にて宗谷を経て樺太にわたり開発の為の調査をする。

後に
松川弁之助らとともに北蝦夷地差配人となり樺太の開拓にのりだす。



   関連 松川弁之助 鳥井家一三代目 鳥井権之助の義理の兄



 江戸末期の蝦夷地開拓者 蝦夷地開拓に半生を捧げた人物


 函館開拓の祖として 今でも函館市民に慕われている。

蝦夷地差配人元締



 
函館が北辺守護に基地とされていたころ五稜郭,箱館港,弁天台場等の築造をした人物。 五稜郭の工事においては工事用の道路を自費で完成させた


 後にこの道路を「松川街道」と呼ぶようになり その功績により松川町の町名がつけられた。


 また、カラフト(北蝦夷地)の開発を鳥井権之助らとともにおこなった。

 


 北海道神宮の中の北海道開拓功労者の御霊を祀る開拓神社に間宮林蔵・伊能忠敬らとともに祀られている。


 

LINK  

          忘れてはいけない みなとまちの歴史 新潟1


          あなたの町と北方領土とのかかわり  新潟県




付記> 敦賀屋鳥井家 三百三十四回忌法要 (ご住職と鳥井家本家・親族 敦賀屋墓所にて)H24

   







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