神社沿革

  西葛城神社は、元 深谷神社と称しました。726年に創建された「木積観音寺」の鎮守として祀られました。

   初期の御祭神は、牛頭天王(須佐之男尊)、天神(菅原道真公)、明神(九頭竜明神?)の三柱と伝る。

  康和4年に再建と記録されており、創建来1300年を経ております。戦国時代この地域は、根来征伐の

    舞台となってしまい、1585年3月に木積観音は焼かれてしまいました。 この時焼け残った唯一の建物が、国宝「釘無堂」であります。

   当時の村の人達は、各お堂の仏像をすべてを  近くの池(新池)に沈め、焼き討ちから守りました。さらに釘無堂に隣接していた

    「深谷神社」を利用して 「この建物(釘無堂)は、神社の建物、焼けば神罰が下るぞ」と言ったとか、守って今は国宝です。

  江戸時代を通じて、「木積観音」は再建が許されず、浄土宗の孝恩という高僧により「孝恩寺」がたてられました。 

    明治43年、政府の一村一社の布告がなされ、明治期の西葛城村の全神社が、深谷神社に合祀され、

     「西葛城神社」と改称されました

    相殿「楠神社」は、木積の地にあった「蛇谷城」の城主「松浦氏」によって創建されました。松浦氏は、

    楠正成によって派遣された「郡代」で、「湊川の合戦」での楠木正成の死を悼み、木積村字片山の地に

    あった「楠本稲荷」の傍らに 「楠大明神」を勧請しました。 その後、松浦氏には後を継ぐ子が居らず、

    一心に「楠 大明神」に祈願したところ、男の子を授かりました この子の子孫が、戦国時代に活躍した「松浦肥前守」に

    繋がっていきます。 江戸時代には、この言い伝えから 「子授けの神」として、神戸、新宮、堺あたりから

    の参拝者で賑わったと記録されております。

  1917年に台風により元深谷神社の建物が倒壊したため、木積村の脇出にあった「白山権現社」を

   楠神社に移築し  改めて「西葛城神社」「楠神社」として発足させました。


西暦 和暦 出来事
726年頃  神亀3年 木積観音寺観音院が行基により創建された。
1010年 康和4年 深谷神社 再造営
1364年  貞冶3年 蛇谷城主 松浦氏「楠木正成公」の死を悼み木積字片山に「楠 神社」を創建
1673年 寛文13年 楠 神社 社殿再造営
1836年  天保7年 楠 神社 社殿再造営
1910年 明治43年 旧西葛城村の全神社を「深谷神社」に合祀し、「西葛城神社」と改称
1917年 大正6年 西葛城神社を現在の地(元 楠神社の地)に遷座、楠神社を相殿として祀る
2011年 平成23年 本殿の修復、相殿の再造営、境内の整備が完了