日蓮聖人の教義
                       
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【1】 仏教の二大別 【2】 須らく先ず本化妙宗を知るべし 【3】 本化妙宗の立名

【3】 本化と迹化との別
 【4】 佛の本迹 【5】 佛と法の関係 

【6】 釈迦佛の顕本
【7】 本佛と本法と本化 【8】 本化妙宗の概要

【9】 仏教の大統ー三国流伝 【10】 世界の最大事実 

                               
【1】 仏教の二大別

 一口に仏教といえば、どれも同じものと考えている人がいますが、それは大なる誤った考えです。もちろん、法の根源は一つに違いなのですが、それを人に適応するように説いたと言うことに於いて、種々に別れた、別れた以上は必ず勝劣があるに違いない。勝劣があるとすれば、又、必ず「捨劣取勝」して、「勝れた上にも勝れたもの」を取って、それに依るようにせねばならない。
 そのためには「わけかた」を必要とします。その「わけかた」にもいろいろありますが、大きく分けて
権教(ごんきょう)としての仏教・・・(仏陀の方便に説かれたる教経)
実教(じっきょう)としての仏教・・・(仏陀の真意を説かれたる教法)
という二つになります。
 この「権教」と「実教」とは、全然その本領及び帰着を異にしているから、名や相が同じ仏教の様でも、実質内容が全然別のものであることをわきまえておかなければなりません。 この「わけかた」にかまわないで、仏教を扱おうとするのは、あたかも薬学を知らない者が薬を扱うようなものです。これまで仏教が、大きく深く立派な割合に、いかにも不得要領で、人を導き、世を善化して、向上進歩せしむる作用をすることが少なく、かえって世に害を与えることが多かったような奇観を呈したのも、その根源は全くこの「わけかた」を失って、消化剤と下剤を一つの同じものだとした結果なのです。
 日蓮聖人は『世間の罪過よりも、仏法の過失、即ち、仏法を解し損じて、誤りの説を立て、その結果、世を惑わし、国を誤るような過失が、世を悪化することが多い』となげかれ、何事よりも『世を安んじ人を救うの最大急務最大事は、インドより支那、支那より日本と、三国を経て、二千余年の間に、段々に誤り来たった誤解邪説を正して、仏陀の正意に根拠した正しい教えを興すの一事にある』と叫ばれた。今でも同じこと、世間よりも仏法よりも、最も大事にして、最も重きことは『仏自ら随自意己証本懐の法と名乗られる至法が即ち仏の本領にして、その法を主として立てるところの仏法の正統を尋ねあてて、それに帰入する』の一事であります。
 一つの仏法に、幾つもの宗旨があるということが、既に疑問であるべき筈なのに、なぜか、人はこの点に思慮を費やそうとしません。また、仏教家の多くは、いろいろの病に応ずるため、いろいろの薬があるように、人の機根もいろいろある故に、これに対する教法もいろいろあって当たり前だということをたてにして『いろいろに宗旨があるのは当然である』と、世の人々も間違いそうなことを言います。
 一仏教に種々の教法があるというのは「方便」のためであり、方便はもとより方便であって真実ではありません。真実でない以上は「偽り」であることは当然なことではありませんか。然るに何故に仏が『偽り』を説かれたかと言いますと、それは所謂変則で、或る特殊の場合に適応したものなのです。だから、仏自らが方便を用い、また、仏自らそれを捨てられたのです。
 仏の滅後の、今の世では、危険が多い変則に依るよりも『萬世不変の常経である真実義』に依るほうが、最も安全で、且つ正しい行き方なのです。仏陀は深く後世にこの誤解があることを憂慮為されて、特に痛切に厳明にこのことを繰り返されて
 「衆生の性欲不同なるを以て、種々に法を説く、種々に法を説くことは方便力を以てす、四十余年には未だ真実を顕さず」(無量義経)
と曰い、又、
 「十方仏土の中には唯一乗の法のみあり、二もなく三もなし仏の方便して説けるを除く」
                                            (法華経方便品)

と曰い、又、
 「我今喜んで畏れなし、諸の菩薩衆の中に於いて、正直に方便を捨てて但無上道を説く」                                                           (法華経方便品)
と断言せられているのを見ても、法は一つであることを知らなければなりません。しかるを、かくの如く幾宗も幾宗も流義流派がたち、種々に別れているということは、根本に於ける計算の間違いから、間違いだしたのであり、それは「教の権実をわけることを忘れた』という一事なのです。
 この根本的な間違いを打ち破らない間は、仏教の話をしても、とてもだめである。故に、日蓮聖人は、この根源からして正し始められたのです。


【2】 須らく先ず本化妙宗を知るべし        

 世の人は何を知らないでも、必ず先ず「本化妙宗」を知らなければなりません。人は自己の次に父母を知らなければならないというよりも、私達人類にとって『今一重深く立ち入った関係』がありますのが、この「本化妙宗」なのです。
 父母はこの世限りの父母ですが、本仏の私達に対する関係は、久遠の大昔から限りない憐れみ、限りない救いを垂れて、私達の身心を善導し、正化せんと励んでくださる大恩高義、世界の何ものを以ても比較することの出来ない無窮絶対の大慈悲のある『先天の父母なり、師なり、主君なり』であります。
 その深重広大なる恩人の心を『そのまま伝えた教法』が、即ちこの「本化妙宗」なのです。自己を知ると同時に、是非とも知らなければならない大関係の、切っても切れない、それこそ『先天の約束ある教法』なのです。然るに、世の人々はこれをよそ事のように思いなし、甚だしきは名さえ知らない人もいます。誠に人間界の一大事ではありませんか。
 八万法蔵の仏教、その中心が法華経で、法華経の中心が本門、本門の中心が妙法五字、この妙法蓮華経の五字は、モハヤ文字ではなく、義理でなく、全く直ちに仏の心なのです。法界の霊原です。我等一切衆生の最後の帰着所である大安住点なのです。これを魂とし主義として詮し出された教えが、乃ちこの「本化妙宗」なのです。
 予は此書の刊行に因て、一先づ吾国民を「本化妙宗」の名の下に聚らせ、尋で其教澤に浴し其妙益を亨て、一人残らず「妙の民」としたいと念ふ、斯くて日本先づ「妙の国」となったならば、世界の人類を人網に済ひ取って、「妙の人」「妙の世」とすることは甚だ易々たるものである、日蓮聖人以来六百有余年、吾等の同志先輩は、『一天四海皆帰妙法(世界全体がみな妙法蓮華経の三大秘法に帰依する時、寂光土実現す。是非ともこれに到達せずは已まずといふ日蓮聖人の大誓願)』を理想として、多数の反対者と奮闘し、随分と血を流して来たが、今にその実が挙がらないのは、畢竟吾等の誠意行願が足りないからであらう。石に齧り付ても此望を達せずには置かない、世人若し此書を読んでも、深く思慮を致さずに、尋常雑書の看を為すならば、予は深くその人を恨む、その代り解らないことがあるなら、予の力の限り御相談しよう、予は法を売り宗を強いんが為に、「本化妙宗」を勧めるのではない、「本化妙宗」は吾国民の根本性命であるのを、吾国民が知らずに居るから、それをもどかしいとして騒ぐのである。
 佛教を尊び重んずる心は、世人にも往々あると考へるが、徒に形骸を尋ねるよりは、その精神を把住するが、尤もちか道であらう、「本化妙宗」は、すべての點に於て、佛教の精神を盡したものであるから、此點に於ても至貴至要である。

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(一) 佛陀出世の本懐(釈尊が、真理の国より、人間の世に出られた、根本の意思、根本の因縁)、偏にこれを説かんが為なり。

(二) 法界の霊源、真理の本懐、佛陀證悟の内容なり。

(三) 一切衆生の善心道心美心眞心の根本種子なり。

(四) あらゆる佛菩薩天龍鬼神の霊護(佛法には、天龍八部といふて、天の神、龍神、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩喉羅伽、これを八部の衆といふ。夜叉已下は鬼神なり、これ等一切霊界の勢力あるものみな法華経によりて霊化せられたれば、其恩返しに法華を護るとなり)を集中す。

(五) 事物の根本性を発揮してその眞性妙用(真実の性徳と霊妙なる力用)を光揚す。

(六) 愚人は智と化し、悪人は善と化し、邪見は正となる。

(七) 真理の統一性を事物の上に移すが故に事理融一(理性の圓融なる如く、一切の事物みな圓足融通して理が事の上に現る)す。

(八) 事理の融合は転じて人心を統一し国家を統一す。

(九) 向上無限の統一力は遂に人類を統一せずんば已まず。

(十) 教も行も人も理も統一せられて始めて眞の活動生ず。

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 斯の如く広大を会して一実とし、一実を醇化して活用無限ならしめた「本化妙宗」は、『高妙深遠なる佛の智慧』をそのまま人間に翻訳して見せたものである。
 佛教経典中の大王たる法華経を本として、法華経の化身(法華経が生きて働いたともいふべき実行者)ともいふべき日蓮聖人によりて与えられた、『法華経の具体的發現』たる「本化妙宗」は、『佛教の正味であると共に、佛教のすべてである』といふことを知らねばならぬ。
 世人は佛教が世界での広大なる宗教なることを知って居ても、その佛教の大精神たる「本化妙宗」を知らないでは、つまり佛教を知ったものとは謂えない、近来宗教に対して冷淡に流れた吾が国民は、佛教の事に能く注意しないようだが、佛教を知らないといふことは、只知らないだけで済まない。世界の行く末にも、人生の目前にも、『これほどの大事件』はない。換言すれば『佛教を知る』といふことに於て、人間の大事は解決せらるるのである。さてその佛教を知るといふことが、元来至難事とされてある。然り 難事のである。されど、それは扱ひかたで二様の別があって、『横』と『縦』の相違になる。
 横に扱うと、その廣い間口に彷徨して、容易に入り口を見出すことが出来ないで、いつまでも落着がつかなくなる。それ故むづかじい。然るに之を縦に扱うと、その深さが、彼の廣さと同量であるから、素より易しいとは謂へないが、一本口だけに、その入り口にまごつくようなことがない。それで一度その口へ身を容れさへすれば、(退くことのない限りは)、横徑へまぎれる憂がなく、往くべきところへ往けるのである。詮する所、極めて廣く極めて深いのであるから、何方から往っても、至難いには相違ないが、深さの方から取ってかかる方が、まごつかないだけ安全である。即ち縦に扱って、『一直線に佛教の極意點に達する』のである。廣い佛教を研究して、その結果深奥の法華経に赴くといふことよりも、いきなりに佛教の中枢たる法華経を執って、高いところから、佛教を見渡すといふ構への方が、早途でもあるし、間違いもないのである。それで法華経に安着た暁、見渡すかぎりの佛教の広野に流れて居る河川の悉くが、皆水源を法華経より発して居って、つまり法華経の一味水の支流文脈たることが解るのである。故に法華経を知るは、佛教のすべてrを知るのである。知るといふのも、記号的に知るのでない、整理的に知るのである、得意的に知るのである。
 予は今此に『佛教を知る』と言ったが、この『知る』といふことに就いて、研究的に知るといふことと、信仰的に知るといふことと二つある。一は学問的、一は宗教的である。元来佛教は宗教として弘められたもので、学問として存在したものではないが、学問として研究することも出来る。学問としても、一切世間のあらゆる学問を総じて束ねたよりも、もっと大きく高く遠い量を有して居るのである。それは世のすべての学問思想に打ち勝って、その種々の妄想邪見を破すべき必要と、それから都ての人間の思想を引纏めて、それを統綜調和すべく処分する必要とによって、段々の思想の階級を餘さず説き収めたので、これは佛教の本領ではないが、『補助機関』として学問的要素をも含んで居るのである。
 肝心の正味たる佛教の大主義は、とても学問的に訴へて知るといふことは出来ない。否、佛には出来ても、凡夫には出来ない。凡夫は信仰的に體得するの外に途はない、ただ此信の一途ばかりが、細く狭いようだが、長く遠く洞通して、佛境界まで徹って居る、そうして此途は凡夫から佛境界に通うばかりでなく、『佛の方から凡夫に交通する』のも此途である、この途は常に佛境界からの光明で照されて居るから、闇に迷う憂ひがないのである。吾等の佛教に於けるや、その補助機関を知るのは、むしろ傍意であって、眞の目的でない、眞の目的は佛教の本領たる安心立命に到達するに在る、故に吾等は、学問的に知るのは、二の次にして、先づ信仰的に佛教を意識せねばならぬ。
以上の理由で、吾等は廣的研究を第二とし、先づ深的求道より入るのが順序であることを知らねばならぬ。而して此次に来たるべき問題は、正しく下の二つに結束る。
 第一 吾人人類は、何故佛教を知ることが、即ち自己を究むる所以であるか。
 第二 法華経を知るにあらざれば、佛教を知たと謂れぬといふ理由いかん。
 この二問題を決すれば、「本化妙宗」の能事は畢るのである、それと共に人間の萬事も、此一事で埒が開いて来る、「本化妙宗」は、幾んと此問題の解決の為に建てられた宗旨であると謂っても宜しい、それと共に本書の全部は、その説明であると解して可いのである。

【3】 本化妙宗の立名

 「本化妙宗」とは、本化の菩薩(久遠の元初に於て本佛の化導を受けたる菩薩を云ふ。)によりて伝へられたる妙宗といふことで、「妙宗」とは「妙法蓮華経宗」の略称であるが、面倒だから三河屋久左衛門を「三久」と略する例で「妙宗」としたのではない、法華経の所詮が「妙」の一字(妙法五字の首なり、釈して不可思議と云ふ、佛所證の真理此一字に収まる、絶対にして思議すべからず、天台大師は姑く経文によりて百二十重の妙を釈せり。)に帰するから、その精神を名に取って「妙宗」といふのである、同じ法華経でも、迹化の菩薩(久遠よりこのかた、その中途に於て垂迹の佛の化導を受けたる菩薩の事本化に対して迹化と云ふ。)の伝へたのと、全く別のものであるから、それに選んで『本化の妙宗』といふのである、然る上は、「本化」と「迹化」との区別をしるのが必要になって来た。

【4】 本化と迹化との別                      

 「迹化」とは途中から出来た弟子、「本化」とは本からの弟子。『本から』とは釈尊が天地法界の歴史を超越せる根元最初の大むかしに成仏した、その時分からの弟子で、どこから来たのでもない、その大昔から、やはり此の娑婆世界に生え抜きの弟子で、影の形に随うが如く、常に恒に法華経寿量品にあらわれた、測ることが出来ない永遠の昔に実修実行して、法・報・応の三身円満に具して、究竟真理中心の本体であり、勢力である本仏と一つになっていて、『必要な時だけ、いつでも出てきて、本仏の化導を布く』、全く本仏それ自身のような、高貴最尊の大菩薩、この菩薩は、いつでも久遠無始ともいうべき大昔、本仏が修行し証得した真理妙法を、何の混ぜものもなく説くところの仏法より外は弘めないのです。種々の方便や手段の混じった教えは、他の迹化の弟子が分担していて、それの相応する小部分の時代や人機に対して、局部応急の化導をする。

 本化の方は、仏教の大統化として、萬世不変の化導のために、仏教の真実義たる法華経の大法を弘めるといういよいよの場合、即ち『大権の発動』ともいうべき仏教の全権を握った総司令官として、本仏の威厳の下に世に出現して、唯一の仏乗を宣べると同時に、他の迹化以下の弘めた教法の始末をつけたり、又は種々の人師たちの間違いを糾明するところの大職務を帯びているから、仏が法華経法師品で、種々の世界に無量の法を説いたけれども、「已に説き」「今説き」「当に説かん」種々をくらべて、この法華経は最も第一であると定め、仏自らが宗を立てられた、その法華経には、是非この本化の菩薩が付きものになって、「本仏」と「法華経」と「本化」との三つは『一体に具わった三つの作用』というべき関係になっている。


【5】 佛の本迹                                


 仏陀の新古優劣を定めるのに、必ずこの『本化の菩薩の有る無し』で判けてゆく。即ち

迦葉(かしょう)・・浄行第一の大迦葉で、小乗教の付属を得た大阿羅漢、小乗教結集の主。

阿難(あなん)・・・多聞第一の侍者阿難で、常に仏に侍し、釈尊所説の経に於いて、通達せざる所のない大阿羅漢を左右に伴(つ)れている仏は、その弟子から推して、『小乗の釈迦』と判じ。

文殊(もんじゅ)・・・智慧をつかさどる菩薩にして、三世仏母ともいわれる。大乗経の結集の主。

普賢(ふげん)・・・・慈悲を主とする菩薩で、普賢色身を現ず。文殊と共に迹門最高位等覚の菩薩。
を帯びている仏は、前のに比べれば大乗の菩薩を従えているから、勝れた『大乗の仏』であるが、その文殊や普賢が、迹化の弟子であるから、是なお『迹仏』の分斉にして、未だ、法身・報身・応身の三身が久遠劫来一具して、常に十方世界の衆生を救う、常住の仏陀、即ち、三身常住の本仏とは言えない。

 本化の菩薩を従えた仏ならば、是はまぎれもない『久遠の本仏』である。久遠の本仏は、すべての仏や菩薩、又、神だの聖人だのの根本であって、この本仏の悟りたまえる『法界実相の極理』である真理を本法といい、その本法を土台として立てられ教えられた教法を要法というのす。即ち本化の菩薩は、仏の新古優劣をはかるべきものさしである。

【6】 佛と法の関係            

 弟子で師をはかるというのは、ちょっとおかしいようだが、仏の内容は尊高幽遠のして、他からは測り難いから、その化導の結果である弟子を目安として、仏の品位を決定するのである。
 付き人のお弟子を尺度として仏を計る、その計るのは又何のためかというと、勝れた仏には勝れた法が伴っているから、所詮は上もなき法を求めて、最勝の功徳に接したいというのが、求道信仰の大主意でもあるし、又仏陀が衆生を導くにも、主とするところは『自分と同じ証果に入れて、同じ貴さと楽しさを与えたい』と思し召すより外はないので、いきなり正真正銘の無上道を説きたいのはやまやまであったが、説いてもそれがのみこめない場合に、いそいで速やかに説くと、解らないうちに邪見をおこす虞があるから、先ずいろいろの方面から、イヤとも解ってくるように、道具立てを以て、相手の心をならして、『こちらも道具立てが整った。相手の心も訓練がたりてきた。いよいよ真実を明かしても差し支えがない』となった上でなければ、説くことが出来ない。

 その時節を待つまでの手段に、種々の方便が入用であったから、ならしのために、各方面から、形を変え品を替えて、かりに異説したので、畢竟真実に入れんが為である。仏陀みずからが本仏たることさえ、いきなりに説くと肝をつぶすほどのことだから、凡夫の当体が本仏だということは、なおのこと説きがたいものである。それどころではない。元来「仏」そのものの尊いことさえ知らない。熱いのに怖じて火を拝んだり、音の大なるに恐れて雷を拝んだり、高いのに感心して山を拝んだり、流動に敬服して河を拝んだりするような幼稚な思想には『万物を造った神』があると聞いたら、それこそ無限の尊敬をこれに移すのである。なかなかに神だの万物だのの根元を究めて、その力の無限絶大なることを認めるなどということは、かけても望めない。そこでこの妄想を破るために、かりに、西方の阿弥陀東方の薬師等、此の我等の住む現実の娑婆以外の仏国や仏陀に託して、力の根元というものが、偶然に存在するのではない、必ず整然たる『因果の法則』に依って発生するものであるという道理を、仮定の事実で示したのが、四十余年の間の経経で、種々の仏土や仏菩薩を押し立てて、したたかにその功徳を吹聴して『一切世間の何ものよりも尊い仏』というものを合点させて、人心最後の帰向を、此の集中点に引き寄せるようにした。 そうしておいて、彼の無因の力を崇拝する不道理心卑屈心を淘汰したのである。今世間の一番聡明な議論で、山よりも河よりも雷よりも蛇よりも、『その不思議なる恐るべきすべての物を造った神』というものこそ、一切万物の上に超絶した尊貴なるものであるときめた。

 然るにその神よりも幾十百階の上に位する無限の勢力を有した仏というものがって、現に存在して我等を救い護るべく温かい手を垂れて、我等を待ちつつあると聞いては、どのみち何ものかに下げ付けた頭だから、諺にいう『立ち寄らば大樹の陰』『犬になっても大家の犬』という習慣性に幾分の合理的信仰を加味して、衆河の海に入るが如く、世は始めて仏陀の最大尊貴なることを覚ってこれにあつまった。ただに勝れた帰依処を得た満足ばかりでなく、彼の卑くい神様でさえ、『神の株は独占で、人は神になる権利は有たぬ』とされてあるのに、それよりも尊い仏が、『元をいえば凡夫から修行して仏になったものだ』と聞いては、われわれ凡夫でも修行の功によっては仏になることが出来る道理、して見れば、仏の尊さと同じに尊いものは修行である。その修行は仏の教えに依るものであるから、仏の教えが、仏の尊いのと同じく尊い、それと同時に、修行さえ積めば必ず仏になれる我等も、『原質的』に尊い、修行力によって成仏し得られるとすれば、その修行力を有している我等は、また『効用的』に尊いものである。そのすべての尊さを保有するものは、仏の教法であるから、我等は仏を尊しとすると同時に、よく教法を守らねばならぬという覚悟が立ってきた。

 ここで利根なものは、ははあと極理を悟ったのであるが、それはほんの少数で、大部分は真実の仏法に接すべきしたごしらえとして、因果撥無の邪見より救い出されて、他日本因本果の道理を聞くべき準備的訓練を受けたのである。この訓練時代に『臨時雇い』に雇い入れたのが、他方の世界の仏や菩薩で、この手間取りの牽制力で、やっと『仏は善法勢力の根元なり』ということの総体議だけしあげた。この場合に於いて標榜され意識された仏は、迹仏というまでの程度であった。即ち、彼の文殊や普賢を伴っている程度の仏である。


 【7】 釈迦佛の顕本                     

 斯くの如く秩序的に準備を経由して、いよいよ真実を明かすべき時機に到達したところで、釈迦仏それ自身の顕本というて、『我は今日始めて成仏した仏でない、いつという限り知られぬ大昔からの仏である』というて、ご自分の本地を開顕なされ、この生身がそのまま絶対無限の本体と常住不滅の寿命と妙用自在の霊力との根元であると明かした。それが本仏というので、これは『釈迦仏自身の顕本にたくして、実は法界万物の顕本をせられた』ので、これで真理宣明の総勘定をつけられたものである。この大説法のおこりはというと、この本仏が成道以来、その初めより影と形との如く、声と響きとの如く、相伴っている本成の弟子、即ち本化の菩薩というものがある。生粋の仏法を弘める場合には、是非この菩薩でなくてはならないので、一つは『これを召し出して、末法に於ける法華経弘通を特別命令するため』と、一つは『この菩薩を召し出して来なければ、釈尊みづからの本地を証明的に説き明かすことが出来ないから』というので、仏大音声を以てこれを招き出す。

 その出現と共に、この菩薩の出処が問題となって、注文通り一会の大衆が疑いを起こし、弥勒菩薩が代表者となって仏にただすと、『これは我が本地の弟子である』との答えに、いよいよ疑いは大きくなって、『およそ菩薩の師たるものは、必ず仏でなくてはならぬ。然るに此の菩薩たちは、なかなか昨日や今日の出来星の菩薩でない。なんでもよほど古くからの菩薩に違いない。その徳容風采から推しても、大きい声では言えないが、釈尊よりも勝れた方らしい。それがなかなかの大数であるから、いよいよ変だ。失礼ながら今の釈尊は、仏には相違ないが、その仏に成られてからが、たった四十何年、いかに如来のお手際でも、ご自分よりも勝れた、こんな立派なお弟子を、かくも多数にどうしてこの短日月の間に造ったのであろう。あまりつじつまが合わな過ぎる。譬えば二十四五の若者が、百歳の翁を指して、これ我が子也というのと一般である。』と、『父少子老』という疑問を設けて、その満足なる解決を求めた。

 仏これを解決するために、『我は今の世で出来た仏ではない。太古からの仏で、その時分から手塩にかけて育てた弟子が、この本化の弟子であって、我が真実本懐の大道たる法華経を弘むるには、是非この者でなければならぬから、召び出したのである。』と。ここに始めて仏の本地が顕れ、それと共に久遠の本法が顕れ、今まで真実を隠していた仏の説には、やはり未だ真底の本面目が明かされていない。その仏の資格が浅新なるが如く、その説かれた真理も、どこかに欠けているところがある。随って其の不完全な教法で立てた修行は、円満な功を収めることが出来ないわけ、いかさま仏が法華経を説かせたまう初めに『四十余年には未だ真実を顕さず』と仰せられ、『是の故に衆生の得道差別して疾く無上菩提を成ずること能はず』とて、是までの経経を数え挙げて、自ら『無効だ』と宣告なされたことが、これで雲霧はらって能く解ったと、一会の大衆、始めて夢さめたる如く、真の仏境界を見ると共に、各自の本地もこの本仏につれて、三身常住の同一体なることを悟って、まことの成仏をしたというのが、法華経の中心点である。法華経の中心は、やがて全仏教の中心、仏教の中心は、即ち一切法の中心であるから、この『本仏開顕の一談道は、法華経の真価値なると共に、一切萬法に於ける黒白迷悟の死命をやくしたもの』である。 


【8】 本佛と本法と本化                    

 かくして本仏と本法と本化との三つが、離すことの出来ない一連の主要となっているのであるから、『本化を帯びた仏ならば本仏と知り、本仏ならば本法の覚体』と知って、ここに始めて仏教の真意義が光顕せられてくるのである。仏だけ本仏で弟子は迹化とか、仏だけ迹仏で法が本法とかいうことは、仏教化導の原則として、教法所詮の理路脈絡の系統として、教行縁起の関係、即ち教に依って行を起こす。教は即ち行の軌である。此の行に依って理に合うことを得る。故に人法ともに矛盾したことは成立しないから、決して決してそういう無秩序な不規律なことは出来ないのである。故に今ここに「本化妙宗」という名称のあらわすところは、最も大切なる義称であって、『名は体を顕す』の格で、「本化」と冠称しただけでも、この宗旨がただの宗旨でない、天竺出来や支那製の仏教でない。何等の歴史にも、人種にも超絶して、なべて人間の尺度や眼鏡の届く範囲で忖度のできない、絶対の大きい、古い、久しい、そうして深い、広い、高い、潔い、固い、強い、そして明らかなものであって、一切の霊の源たり、力の根元たるものだということが知れるのである。


【9】 本化妙宗の概要                       

 「本化妙宗」という宗旨は、本仏釈尊によって、証悟せられ大成せられ、且つそれを衆生に与えるために明らかに周到に説き明かされ、本仏同体の本化上行菩薩によって、少しも誤らずに本法を祖述し伝えて、且つそれを身に行って、実地に証拠立てて世に示され、地上不滅の光となり、人間無上の依止処として世界統一の原動力たるべく建てられたところの宗旨であって、その宗要は、法界の大真理を究め尽くして、それを少しもまぜものもなく、人間の血と肉に調和するように程よく調整して、すべての人々の日常生活の間に活現せしめ、無限絶対の真理正道と、何ものにも惑わされず、少しの苦痛煩悩のない安楽を得せしめ、斉しく此の浄楽に同帰して、先ず人より国に及ぼし、国より世界に及ぼし、遂に宇宙法界と共に、真正極美の境界に安住しようというのが目的で、釈迦仏もそのために世に出で給い、日蓮聖祖もそれで一生涯の大艱難をなされたので、この主張主義が、立派なる組織的教理となって、法華三大部と傍依の涅槃経の経文と日蓮聖祖の御遺文、御義口伝、日向記、註法華経の祖典とが、厳然と今日に存していることは真理正道の厳明なる本典であると共に、仏陀聖祖が常に恒に我等を救おうとして『くだかれた肝胆(かんたん)の遺片』である、『流された精血のしたたり』である、粗末に考えてはならない。
 さて以上の目的を達するために、釈迦如来はインドに於いて法華経を説かれた。この法華経を説くために、聴く者の機根を調える必要があって、その準備に

「華厳」・・如来成道の後、初めて法身の菩薩の為に色心融通の広大なる法門を明かし給へる経説

「阿含」・・華厳の後、下根なる二乗という人間を聴衆として専ら「戒」と「定」と「慧」の三を各々別々に説いて、仏教の輪郭を知らしめたる小乗経

「方等」・・阿含の教に満腹している人間仏徒の二乗の根性を破して、其の向上心をうながすべく仏と浄土との見本を説いた一般大乗経

「般若」・・法理の融通を説いて、法華開顕の準備をなしたる空門大乗の四十余年の説教があり、最後に法華の会座に漏れた人々の為に、拾遺として一日一夜の「涅槃経」の説教があって、それで大事既に終われりというので、八十歳で御入滅になられた。
  即ち釈尊の出現は法華経を説くためで、その法華経を説く必要は、人生救済の大目的の為である。
 故に法華経「方便品」にこの事を説いて、

「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまう、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまう、衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。」(法華経方便品)

かくて釈尊は目的通りに法華経を説いて、相手の者を悉く成仏させた、現在に於いては思い残すところは少しもないが、仏陀滅後の後の世のものどもを救うということが、今よりも大切である。

  仏の滅後
「正法千年」・・・仏入滅の翌日より一千年の間を「正法」の時という。教行証の三つが正しく行われし時代
「像法千年」・・・正法の終わりより又一千年の間を「像法」の時という。教あり行ありて、証するもの無き時、即ち形式的仏教となれる時代
以上二千年の間は、まだ幾らか修行もし、悟りもするものがあるが、その後の「末法」という悪時代になると、教えはあっても行ずるものが無く、随って証するものもない、煩悩悪業の最も盛んな悪世である。かかる大悪世を救うのが、もともと教法の本領であり、仏の目的なりである。
 仏陀出世の本懐たる法華経は、いうまでもなく此の悪世を救うのが大大目的である。故に仏は御弟子中ことに勝れた本化の菩薩を召し出して、特に末法の弘教を懇命せられ、末代の救済を全うすべく「塔中別付属」というて、特別なる付属があった。

 本化の菩薩この別名を受けて、「末法の初め」に、代々の諸賢聖に預言せられた「東方の小国にして而も一乗有縁の霊土たる日本国」に出現あり、経文の豫証の通り、「三類の強敵」に遭われ、打擲悪口、杖木瓦石、刀杖毒害、流罪死罪の諸難に迫害されて、この救世の大道を宣伝せられた。
 その教えの方はいかにというに、先ず破邪の方面には、三国二千年来のあらゆる諸宗を批判決擇(ひはんけっちゃく)して、法華経を奉ぜざる宗教はすべて権門邪教として、法華経を信じ持つことを、善中の大善とし、法華経を用いざるを悪中の大悪として善悪の大標準を、只此の一筋に集中し、醇要精化、法界唯一善の妙義をかがけ、天に二日なく国に二王なし、法は法華経の一法、仏は釈迦一仏、『枝葉はよし繁多なるべし、根本は必ず一ならざるべからず』と、確乎不抜の大信条に依って、大義名分の明教を垂れ、厳明なる『五綱の教判』に根拠し、彼の有名な『念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊の四箇の格言』を主張して、最後の良断を諸宗の頭上に下した。

 その顕正の方面には、法華一乗の正理を表彰するに『三大秘法』の大法門を以てし、法華経の教主を本尊とするの外、他のものを本尊としてはならぬ、法華経の教理を信ずるの外、他の教法を信じてはならぬ、法華経の戒を持つの外、他の戒を持てはならぬ、総じて法華経という理義から得た安楽でなくては真の安楽でない。法華経を離れた理屈は多少理屈らしく聞こえても、つまり究竟の道理ではない。所謂『盗人にも三つの理』の類である。世は天地の間には唯一の本仏、唯一の教法のみにして、この一本一要を失って、仏も法も中心を認めず機々により種々の教ありと執する衆本衆要主義に流れ、天に二日三日あり、国に二王三王あるが如き乱離を極めた間違いだらけの教法に率いられた為、我が国の如きもいつとはなしに国性を誤られ、民性を害し、士風をそこない、民族を枉(ま)げて、似ても似つかぬ『病的国民』となってしまったのである。世はいつまでも、かかる過失を繰り返して居るべきではない、人として大いに覚醒するの要あると共に、国としても大覚醒を為さねばならない。

 日本国がこの法華経に帰向せねばならぬことは先天的国家の運命ともいうべき約束である。そもそもこの国は、建国のはじめに於いて、すでに道義を以て世界を統一する目的で建てられたのであることは神武天皇の建都の勅宣に明らかである。

  法華経は『世界を統一すべき教』である、日本は『世界を統一すべき国』である。世界統一の聖業を以て建てられた国が、世界統一の教法を歓迎すべきは理の当然である。ここに於いて法国冥合の一大憲教たるべく、弘めもし持ちもするの必要がある。若しこの意義を離れて信じたのでは『国を離れた個人』『世界を離れた国』という意味に堕ちて、結局は孤立に終わるのである。孤立は破壊の素であって、建立の意義でない。全く建立に反するものは、すべて亡国破家の道である。国家が世界を度外し能はざるが如く、個人は決して国家を離れることが出来ない。即ち個人の成仏を積んで、国家の成仏とするのである。国家の成仏を期するわけは、必ず世界を道義の中に統一して、真理正道の実現境たらしめねばならぬと云うのが『本化妙宗』の主張、日本建国の天業である。これに進むべく歩し、これに合すべく集まり、これに安んずべく行い、これに住すべく努むる。それが我等の理想である信仰である。その意義を充たすべく法華経を信じる。この意義を発揮すべく法華経を行ずる。これを離れては信仰も修行も証悟も成仏もない。この願業を命として活きている。この活気精力によりて、少しでも世を利導し人を救済する。自己はどうなろうとも必ずしも気にかけるに及ばない。なぜならば、日本国が国体の外に国民なきが如く、法華経の外に我等はない。法華経の精神即ちこれ我等の精神である。法華経の目的、即ちこれ我等の目的である。法華経さえ立てば、真の我はその中に損じている

 日蓮聖人「開目鈔」に曰く

 「善に付け悪につけ法華経を捨つるは地獄の業なるべし、大願を立てん、日本国の位をゆづらん法華経をすてて観経等について後生を期せよ、父母の頸をはねん、念仏申さずば、なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり其の外の大難風の前の塵なるべし、我れ日本の柱とならん、我れ日本の眼目とならん、我れ日本の大船とならん等とちかいし願やぶるべからず」

 この三大誓願の聖文は、有名なる一大霊文であるが、この中に法華経主義の断固たる確信と、その公明なる理断とは、真に遺憾なく発表されてある。これが「本化妙宗」の概要である。

 即ち「本化妙宗」は、一切衆生を同一真理のもとに正化して、道義的に世界を統一するために、釈尊により首唱せられ、特に末法時代の必要として、本化の菩薩に濁世の弘教を別命し遺留せられたる正法にして、日蓮聖祖これを日本に伝唱建立して、退いては釈尊の本懐を満足し、進んでは事実の常寂光土を建設せんとて、三国二千年の旧仏教を批判するに「五綱の教判」を以てし、法華経の実義を我等実行の上に実現するために「三大秘法」の妙義を立て、「五綱」以て、他を判じて自を立し、「三秘」以て自を顕して他を利し、この「三秘」「五綱」を確信実行するを信行とし、その用意応用を願業とし、世界統一の宗綱に住し、「続種護法」の信条を確守するのが「本化妙宗」の概観である。


【10】 佛教の大統ー三国流伝     

 法華経の真理は、すでに釈尊の開説によりて、威厳ある大訓戒として、広く永く滅後末代の衆生を救うべくのこされ、下って代々の大論師大人師によりて、縦横深淵の解釈を附せられ、正しく大王経の面目を持して、三国に崇びもちいられたのである。上古にありては、印度の大論師たちで、法華経の釈論を造ったものが、五十余人もあるということで、勿論彼の龍樹菩薩も造ったのである。真に盛んなものというべきだが、惜しいことには此の方へ渡ったのは、天親菩薩の『法華論』一部だけである。しかし龍樹菩薩は『大智度論』の中に、『法華最勝』と決して、その真価を定めた。支那に在っては、開善寺の智蔵、光宅寺の法雲、嘉祥寺の吉蔵、慈恩寺の窺基等の諸大家が、天台大師に前後して、いづれも盛んに法華経の講述につとめたので、いかに法華経が重んぜられたかが解るであろう。尚講説のみでなく、実際、これを修行に経て、法華三昧の悟りを開かれた人は、北斎の慧文禅師についでは、南岳の慧思禅師である。天台大師はこの慧思禅師を師として、法華経の深義を悟り、ついに『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』等の大講説を開いて、空前の妙義を仏教大系の上に建設して諸宗の異説を残すことなく批判せられた。洪大の仏教始めて大帰を得、深邃(しんすい)の妙旨始めて光輝を揚げた。真に千古の大観である。『震旦の小釈迦』と称揚せられ、天竺から『天台の教迹を渡されたし』と申し来たったのも尤ものことである。

 この以後に於いて、支那の仏教は非常の旺盛を極め、華厳、真言、法相、禅等の諸宗、或いは勃興し、或いは新たに入り来たり、蘭菊の美を競って、法林いよいよ栄えたが、要するに卑きは天台におおわれ、高きは巧を天台に盗みたるに過ぎずして、仏教の判釈の大権は千古を空しうして独り天台大師に帰した。これとほとんど同時に、我が日本に於いては、聖徳太子が三経を講ぜられた時に、『法華経義疏』を撰述せられたのが、世に『上宮疏』と称して行われている。後に唐招提寺の鑑真和尚が来朝の時、天台の三大部を持ち来たったのを、伝教大師之を見て、『仏教の正統ここに在り』となし、遂に支那の天台山に到って、六祖妙楽大師の直弟道邃行満の二師に逢って、教観二門の法脈を承けて、帰朝の後、天台大師が未だ弘めなかった法華円頓の戒法までをも弘めて、日本の天台は、正しく三国の仏法を大成せるものとなって、内には三学整々として法統ますます栄え、外には、桓武の聖主ありて、王法仏法の冥合をたすけられたので、一たび仏教の天下を経王法華の下に統一したのは、非常な勲功である。

法華経は仏教の帝王である。法華経を度外視して弘めた仏教は統治の大権を失った乱世の状態である。法華経を宗奉して無上の法としたものは、即ち仏教の大統を復したものである。三国に亘って、真正なる法華経の行者は、これまでに四人あった。即ち印度の釈尊、支那で天台、日本で伝教、日蓮、の二師である。

 天竺で開宣せられた法華経が、支那で解釈を完成して、日本で実地建設に取りかかった順序は、いかにも味わうべきことである。時代は段々と落下して風俗が軽薄な末の世に成り行く、その反比例に法華経の解釈と応用とは段々に進歩してきた。所謂病が重くなるほど良薬を要するの理である。いよいよ進歩の極が、伝教大師の三学相伝で、ひとまず中絶した後、甘い果物には虫が多い道理で、解説の進歩は、遂に余りに解釈が巧みになりて、いづれが仏教の中心なのか、頭も尾もわからぬようになりて、いたずらに高尚幽玄にのみ走りて実行に疎くなり、諸宗統一の反応は遂に多岐雑乱の混濁となりて、人傑が出れば出るほど、理屈が多くなり、慈覚・智証・安然・慧心などの謀反人を出して、或いは真言に内応し、或いは禅宗に加担し、又は念仏を扇動する等、四海一統の大系は、ここに諸宗分裂禍機の根元となり、一大仏教の天下再び雑乱しまじりみだれて、どうにもおさまりがつかなくなった。この無政府の乱世に乗じて、伝教大師の入滅を待ちかまえて、『十住心論』を発表した弘法大師の真言は、はからざる慈覚智証の内応に、手もなく天下を風靡して、ひとたび日本を真言化すべくなった。その後に現れたのが、法然上人の念仏宗、これは叡山から出たので、慧心が俑を作ったのである。続いて円爾や道元の諸傑が禅宗を鼓吹した。これも叡山から出たのである。以上三宗の主張は、各々特殊な見地に立っているのであるが、法華経を度外したことに至っては同罪である。

 真言の弘法大師は、『大日経第一、華厳経第二、法華経第三』と立てて、あまつさえ『後に望むれば法華経は戯論である』としりぞけた。勿論これは天台の所立について言ったのだが、結局は法華経をしりぞけおとしたのである。念仏の法然上人は、『捨閉閣抛』(しゃへいかくほう)の四字を以て、絶対的に法華経を捨てた。禅宗では、『教外別伝』とたてて、法華経を閑文字としてしりぞけた。いずれも釈尊の金言に違背している。釈尊は、『法華経を第一とした』のに、弘法は『第三』とした、釈尊は『末法に於いては法華経の外、利益がない』と定められたのに、法然は『末法無益』として捨てた、釈尊は『法華経を以て吾が真正の法身である』と示したのに、禅宗では『閑文字』として度外に置いた。

 吾等たるもの、そもそも釈尊につこうか、法然弘法達磨等の人師につこうか、いやしくも仏弟子と名乗るほどのものにして、経教の取捨を決するに、仏の直判を指南としないというはずはない。いかなる智者でも大徳でも、仏とくらべれば何でもない。仏に背いたものは依用しないのが、仏道修行の原則だ。いづれの経も、皆『それを持てば利益がある』と説いてあるには違いない。それは其の経で救われるべき機に対していうからなので、釈尊みずからの本領を証したのではない。一代の経教を比較して、いずれに本意があるということを立証しての上で、此の経は我が本意なりと定められたのは、『その経限りの鼓吹』とは、全くおもむきを異にしている。機に対してこの経を持てというのは「当分」である。経と経とを較べて取捨を決したのは「跨節」である。「当分」はその経限り、その機限りでの推奨で、「跨節」は一代の諸経の中から選り抜いて正直に仏の真意の在るところを明かしたのである。「当分」は他の機情を目安とし、「跨節」は仏の自意を定木としての判断である。

 出世の本懐たる法華経であればこそ、他経と同例に誤られるのを恐れて、くどいほどにも念を入れて、必ず必ず『法華経を宗とせよ』と教えられたのである。何故に仏の親切を無にして、法華経を重んじないのであろう。その不明はとにかく、あまりといえば、仏の熱心を侮辱したものといわねばならぬ。

 中には、こんなことをいうものもある、『つまり宗教とものは、安心立命が主意であるから、法華経であろうが、何経であろうが、人心をよく調え導いていって、相当の効果がありさえすれば、それでよい。何も必ずしも法華経が勝れているの、何経が劣っているのという詮索をする必要はない』とこういう、常識万能主義な説が、昔から有る。今でもなおこの思想が跋扈(ばっこ)しているようであるから、ここで一つ教訓しておこう。およそ薬でも食物でも、その要素成分が確実でないものは、之を用いて確かな栄養にも治療にもならないと同じ道理で、たとえ一時口腹の欲を充たし、目前の小効能が有っても、根底の不確かなるものは、永いうちについに不良の結果を身に及ぼすのである。我々は船にさえ乗れば、それで航海の目的は達しおわれりとはいえない。方向を誤ったら、着くべき所へ着き得ない。それでは仕方がない。乗るばかりが船の能ではない。走らなければならない。浮かぶばかりが船の効能ではない。浮くのは半分以上は水の力である。浮いてしかも安全でなければならぬ。安全の保証には船の堅牢ということ、機関船具の整頓と船長船員の確実などということが具備しておらねばならぬ。吾等が宗教を信ずるということは、霊魂の為に療養摂生の薬餌として要求するのである。一時の効験一時の姑息に康んじて、永久の実効保安を無視するというのは、大体において既に宗教を要求する本志に背いているのである。

 もし仏教経典がどれも同じで少しも異説や衝突がないのならばであるが、『西へ行け』というのと、『東へ行け』というのと二つあったとすれば、どちらが本当であろうかと思案せねばならぬ。若しその西といい東というのは、見る勝手からこそ違え、その実は一つのもので、所謂「東家の西は西家の東なり」の理屈か、又は「難波の蘆は伊勢の浜荻」の轍で、名称だけの異なりであるというような、よく世間の半利口の人が常に言う通りのものならば、何で仏は丁寧にもしつこくにも『未顕真実』だの、『無得道』だの、『不受余経一偈』だの、『要当説真実』だの、『正直捨方便』だの、『唯此一事実余二則非真』だの、『唯有一乗法無二亦無三』だの、『已今当説最為第一』だの、『一切菩薩阿耨多羅三藐三菩提皆属此経』だの、『一切世間多怨難信』だの、『爾此経者如来現在猶多怨嫉』だの、『六難九易』だの、『十喩称揚』だの、『分身聚証』だの、『多宝来証』だの、『三止三請』だの、『重請許説』だのと、ほとんど一経の全体にわたって、他事もなく此の経の勝能を述べるのに全力を注いだものであろう。この尋常ならざる用意から推察しても『経の得失が、どれほど吾等の求道に必要なものであるか』ということは、少し血の気のかよったものならば、必ず心付かねばならぬ筈である。

 若し口の減らぬものがあって、『経経の勝劣は、到底吾等の知るところでないから、吾等は自己よりも智徳勝れた祖師先徳の指南に任せて、念仏でも、真言でも、自分自分の良いと想った宗旨で安心するより以上の才覚はない。そういうお前も法然上人や弘法大師ほどエラクはあるまい』と言うかも知れない。イヤ私はしばしばこんな話しを聞かされて、いつもいつも迷惑するのである。法然上人や弘法大師と私とどちらがエライ?・・・・・・・いうまでもない、私は無智無徳の凡愚である。もとより比べものにはなるまい。けれども若し釈尊に対した場合には、それを捨てて仏に就くのが当然だ。智徳の有る無しは此の場合の問題ではない。若し私を侮って、この誠ある言葉を蔑ろにするなら、私はその人に対して『法然弘法と釈尊とはどちらがエライ』と反問するまでのことである。どんな智慧でも神通でも、『一』を二と読み三と読むことは出来ない。故に私は此に於いて『弘法は智者なるが故に一を三と読む。我は愚者なるが故に一を一と読む』と返事しておこう。

【11】 世界の最大事実        

 法華経より外に仏法は無いときまって、始めて仏教の条理が整然と引き締まり、理義も修行も統一せられた円満の宗教となるのである。この焦点をはずしてしまって、散漫茫漠支離滅裂に、彼の此のと勝手な解釈を振りまわしていたのでは、仏教一定の主張がどこにあるのかトンとわからない。今日に及んでも、未だ仏教の真相が世に顕れていないのは、全くこれが為であるといわねばならぬ。仏教は世界で一番大きな宗教である。一番深淵な、一番博大な教法である。即ち『此の人間の世の中に、仏教が有るということは、人間界での一番大きい事実』である。然からば仏教の中心点が知れないで、その教理や行用の混乱不統一であるということは、仏教界の一大事であるばかりでなく、真に人間界の大事件である。故に日蓮聖人は「開目鈔」という御遺文において

「善に付け悪につけ法華経を捨つるは地獄の業なるべし、大願を立てん、日本国の位をゆづらん法華経をすてて観経等について後生を期せよ、父母の頸をはねん、念仏申さずば、なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり其の外の大難風の前の塵なるべし、我れ日本の柱とならん、我れ日本の眼目とならん、我れ日本の大船とならん等とちかいし願やぶるべからず」

との広大堅実なる信仰主張は、単なる聖人の慈念ばかりではない。全く「法華経」の教意、仏教の帰趣が然らしめた『自然の叫び』である。

 要するに法華経を中心とすることを忘却した仏教は、精神を失った人間である。柱を失った家である。いやしくも国を念い世を念うものの、決して黙して居れないところである。世人は古くより『中心を亡くした仏教になれている』から、この様な話に接すると、一時は驚くであろうが、それはまだ苦労がたりないからである。仏教の大統を正す事は、仏滅後における仏教の一大事件であって、同時に世界の最大事件である。「本化妙宗」の創唱は、全くこれが為である。堂々たる「五綱教判」、魏々たる「三大秘法」、その縦横不測の妙義、これより以下、扁を逐い條をついで叙説するから、上来の総要の注意を目当に、深く意を致して味わって頂きたい。