本化妙宗の宗綱(総論)   
                                  
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 【1】 三大秘法の名義 【2】 三大秘法と五綱教判 
 
 【3】 三秘の原拠 【4】 三秘の結論
      

【1】 三大秘法の名義

 「本化妙宗」の宗旨は、全く「三大秘法」である。
 一に 本門の本尊 一乗妙法蓮華経の本體(本佛の実體)
 二に 本門の題目 一乗妙法蓮華経の信念(本佛の正智)
 三に 本門の戒壇 一乗妙法蓮華経の実行(本佛の妙相)

 この三ともに「本門」とあるのは、この妙義が佛教中ひとり「法華経本門寿量品」の教義より出たもので、普通佛教と撰を異にしている趣を示す対判の意で、「権教」に撰び、「迹門」に撰んで、特に「本門」とかぶらせたのである。
 「三大秘法」とは『三箇の大なる秘密の法門』ということで、「秘密」というのは、『隠れて見えない』という意と、『貴いから容易に示さない』という意味との二つがある。つまり『平凡ならざる深い法門』ということである。
 その本拠は如来みずから法華経の大力用をお挙げになられて『如来秘密神通之力』(如来寿量品)と仰せられた。この「秘密」ということが、即ち「三大秘法」の基づく所である。
 この文の「如来」に就いて、「三身」ということがある。

 一に 法身如来 無作本有真理実在の本體
 二に 報身如来 無作本有受用法楽の智性
 三に 応身如来 無作本有応化益物の慈相

 この「三身」が常住であるということを説いたのが、『秘密神通』ということである。故に天台大師は之を釈して『一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて蜜となす。又昔し説かざる所を名づけて秘となし、唯佛のみ自ら知ろしめすを、名づけて蜜となす』と言ってある。『一身でありながら、それが三身を具えている』というのが、秘妙の理であるから、これを「秘」となし、『三身であっても、その本は一つである』という処を「蜜」というのであって、その三一相即の不思議なるさま、いかにも凡智凡情の測り知る処でないから、称して「秘密」というたのである。又法華経以前に於いて、かってこの三身即一倶體倶用(互いに體となり用となる義)の理を説かないから、それが「秘」である。説かないけれども、佛に在りては「唯独自明了」とて、ご自分には明らかに照知照見せられて居るから、それが「蜜」というのである。

 今この三身即一の秘密を、法の上に詮し来たって、「三大秘法」と建てたのである。「法の上」とは、佛の一體に三身という資格がある故、三一相即である。而してその佛の「さとり」、佛の「意思」、佛の「所作」を説示するについて、この三身即一の意匠に則ってそれを「教法」に仕立てあげたるが「三大秘法」であるという意。
 一佛の三方面は即ち三の固有資格である。然れどもこれは単なる「佛」の上にての話しである。若しこれを法に引き直せば、「三菩提」とか、「三徳」とかになる。今単の人でなく、単の法でなく、全く複製的に人法の調製せられた点を、教理的実用に仕立て上げたのが「三大秘法」の宗旨というので、すなわち「法」より「教」、「教」より「宗」と、順次実際的に顕示したのである。
 さて、一言で「三秘」を総提すれば

 「本門の本尊」とは、『法華経寿量品』によりて顕れた『法界唯一の至尊たる久遠実成の本佛』を本尊として、吾人の絶対帰依處と定むべきものであるということをべ教える法門

 「本門の題目」とは、法華経の名に含まれたる深重広大なる意味、その中には佛の智慧が籠もり佛の護念の約束が籠もっている。その妙名を唱えて、佛の智慧と慈悲とを感起する所の行法とする。口に唱えるのは『心に念じ身に行うことを鼓舞鞭撻するの謂い』である。およそ人の思想も言語も行動も、一切みな此の大法の霊化のもとに開點(開会點眼の義にして、ものを活かして、深くその底の妙能を発揮すること)せられるべきものであることを教える法門

 「本門の戒壇」とは、『法華経を奉ずるの外、何ものをも信ぜず、持たず』という誓いを立て、それを実行する作法が「戒法」で、その「戒法」を受ける戒場が「壇」で、これは国家の一致力と活動力とを以て建てべきもので、あらゆる国家的威力勢力の一切を集中して妙法の宣伝護持に任ずべく、王法佛法の契合融一して、正法の威力を地上に実現すべきものであるということを教える法門。

 この「三大秘法」は、悉く「妙法蓮華経」の五字を體とするのである。即ち一法の三方面ということである。


【2】 三大秘法と五綱教判                  ページのトップ

 三大秘法と五綱教判の関係

 この「三秘」は宗旨、前の「五綱」は教判、教判で宗旨を見出すのであるから、その関係は能所で、「教判」は能詮、「宗旨」は所詮である。即ち五綱の教判で精密厳重にしらべあげると、法華経本門の実義というものが詮し出される。その信じ方修行の仕方、それの弘まるべき時、建てられるべき国、持ちて益をうくべき人、持ちて益を得たる姿、此の大法の顕るべき因縁次第等、すべて「五綱判」から割り出されてくる。故に宗(三秘)を鉱物とすれば、教(五綱)は鉱山の如く宗(三秘)を精金とすれば、教(五綱)は採掘冶金術の如きものである。


【3】 三秘の原拠                          ページのトップ

 一法に三面あることは、蓋し『開説の式』とでもいうべきものであろう。一つのものを理義を分けて示し始めると、必ず「三」の数になる。又三の数に出でて、理義も分明になるのである。『一は三を生じ、三は萬物を生ず』などと言い伝えて、古来事物の安住し照応する定数としてある。早い話が、「一」は無相の数で静止した形である。『萬物の端首であるち共に、亦萬物の終わり』である。然るにこの『静止点』より動き出して、みずからの内容を説こうという時、先ず上とか下とか、又は右とか左とか、両極を指示するに及んで、始めて「二」の数となる。ところが此の二の数を為した時、もはや既に「三」の数を為しているのである。いかんとなれば、一たび彼と此れとの両数を為せば、勢い必ずその両極の『中間位』を生ずるのである。其の中間を一つと取れば前の両極と共に「三」の数となるのである。事物を分別するに就いて、「三」という数は、たしかに『整える』『平均』『活動』を意味してある。故に之を『顕理の原則数』とする。

 「一」ではつぼみ過ぎて判らない。さりとて四五六七十百千萬と広げたのでは際限がない。煩ならず蒙ならず、極めて『程よい数』といえば、古来何の道の説明でも、必ず「三」に約してある。「天地人」の三才をはじめ、「智仁勇」の三徳、「上中下」の三品、「日月星」の三光、「主師親」の三徳、耶蘇には「三位一体」を説き、日本には「三種の神器」を伝ふる等の類枚挙にいとまあらざる程ある。翻って佛教に入ってみれば、さすがに理義最勝の教法だけ、三法開数の法門は、実におびただしいことである。而してこの三法が各門各種さまざまなる二拘わらず、その内容に自然の『共通點』がある。「同類的」にあるか、「類例的」にあるか、はたまた「相翻的」にあるかの異いはあろうがともかく互いに照らし合って、いるのである。故にこれを「三法流通」とも言っている。 その種々なる「三」の数で顕した諸法門の中で、最も原則的なのが(ことに此の三大秘法について)、佛の三身である。

 一に佛に三の身、「身」とは「積聚」の義というて、無相界の勢力より有相界に凝結して、一定の範疇を為したる資質をいうのである。最も有形と無形とに亘る。

 「法身」といえば、本法真理が意識的に結晶したというような具合で、早く言うと『真理のかたまり』である。「報身」といえば果報の身ということで、これはその真理の身に自然にその理を照らす智慧があって、その『智慧のかたまり』というような理合い。「応身」とは、物に応同して他を導く身、即ち『慈悲のかたまり』というようなもの、この「三」の資格が、その「三身」の内の一身のどれにも、皆相具わっている、それがそれぞれの必要にかぎられた時は、離れも合いもするように思われる、その実体は離れもしない、新しく合いもしない、常に合ってつ常に離れている、三身宛然として混淆しない歴々分明に三の別があるさりとて「三」が決して別種のもの離れたものではない。「一」の上の「三」である。例えば、「法身」は死なない。「応身」は寿命に限りがあって滅するとあっても、その死なない身が(法身)示した「応身」であるから、「応身」もやっぱり滅しないのである。滅する応身に即して不滅の法報二身がある。即ち「応身」に即する「三身」である。他の二身もこの通り、理體、智體、慈體、一の中の三、三の中の一、いずれからも離すことが出来ない。さりとて理義整然として一糸乱れずに「三身」おのおのその趣を別にしている。この調子が何とも言えない妙味である。

 すなわち天地の至法を顕すに、天地の至美を以てしたものであろう。 今『一乗妙法蓮華経』の根本大法を、理義情致の周到せる『乗法』として、宗旨的に建設するということに就いて、元来宗教の大目的は佛陀で、帰向所も、模範も、結帰も、仏陀を離れては全くの無意義であるから、原則をこの『佛の三身』に取ったのである。「本尊」は元よりのこと、「題目」も佛の智慧を持つのである。「戒壇」も佛の妙相を取るのである。「三秘」とも佛を離れることは出来ない。

 「三秘」の期する所も、その佛に成ろうというのであるから、上から見ても下から見ても、要するに佛を予想しての修行なり信仰なり法門なり教理なりである。『佛身の三資格』を宗法に複写して「三大秘法」を立てたのである。信仰した上は修行するという順序が、全く学問的形式ゆえ、宗法の三条件を「三学」と名づけたのである。即ち戒と定と慧との三である。いやしくも宗を立てるには、必ずこの三条件を具備すべきものと決まっている。而してその宗々によりて、いかなる戒、いかなる定、いかなる慧と、各々に相異なることは、その依る所の経教の大小権実偏円の相違によるのであるが、大なり小なり其の形式は備えねばならぬことになっている。

 今
「本化妙宗」の三学は、即ちこの「三大秘法」である。

 乃ち

 △本門の本尊ー定ー(心を一所に制止する義)
 △本門の題目ー慧ー(心を本體に安住する義)
 △本門の戒壇ー戒ー(心を中正に規戒する義)

 『戒以て之を捕らえ、定以て之を縛し、慧以て之を殺す』ということがある。「戒」で煩悩の賊を召し捕って、「定」で之を縛し、「慧」で之を殺して止めを刺してしまうと心の塵垢煩累が消えて、心地朗々として明らかになるの義である。故にこの『三学』を以て、衆生入真(信を起こして行を修し、以て正しき道に入る)の本作とするのである。

 而してこの戒・定・慧の「三学」をば、別々に習い伝えるのは、小乗又は権大乗に意であって、法華実教の円意にては、『三学倶伝』というて、妙法の中に渾然として「三学」を存している。それを具体的に完全に発揮したのが、「三大秘法」である。

 寿量品に『如来秘密神通之力』とある文を、佛の三身の依文とするから、これが「三大秘法」の根本依拠で、尚同品に妙法を大良薬に譬えて、『色香美味皆悉具足檮篩和合輿子令服』とある。この中の「色」は見て分かつべきもの故、「戒」の表に現れて規正する作法あるに譬え、「香」は目に見えずして薫を以て諸の余臭を斥くる故、「定」の心を一境に止めて諸の雑念余念なきに譬え、「味」は自ら味わいて自ら知るべきもの故、「慧」の自省自鑑して深く真理を照知するに譬う。即ち戒定慧三学の依文である。
檮篩和合も「三大秘法」の依文である。

 色ー戒ー本門の戒壇ー(檮)
 香ー定ー本門の本尊ー(和合)
 味ー慧ー本門の題目ー(篩)



【4】 三秘の結論                        ページのトップ

                其の1 事観と理観  其の2 事の一念三千

  其の1 事観と理観

 「三大秘法」は、教義を精錬醇化して、一層実際的に取要建立して、修行門と為すについての『帰着点』であるから、単に「教」とも謂えず、又単に「観」とも謂われない。要するに「教」を帯びたる「観門」であって、その仕上げについて言えば、むしろ「行」と名ずくべきものである。故に『事行の南無妙法蓮華経』といい、又『事の一念三千の観法』と称している。そこで「教」と相対した場合の「観」を、単純に『観察』『観念』などいう意味としてのみ見ることになると、其の弊必ず心証的(=心の上にのみ証悟することをむねと立てる修観座禅のようなもの)理論的に堕ちて、実際的(=人生の実際と直接交渉して、萬事佛教主義にて人生を処置すること)活動的(=これを心に得たる後は之を身に行いて、正しく社会の上に佛の洪化を光被せしむること)でなくなる。故に本化の教観論は、佛教中第一等進歩した論断に依り、「観」を実際化した『行』の意味に解し、それに「事」と「理」とを弁別して、撰んで「事」を正意と定めたのは、げに花も実のある宗教学的結論と謂わねばならぬ。  多くの場合に於いて、「観」というと「観念」「観察」の意義に解され、一転して「修観」とか「観法」とかいう場合には、モハヤ学問的にいう観察でなくて、座禅入定して観念観法そ修する禅定的に意味されるようになる。何々三昧という内容を「観」とつづめたぐらいの義になってくる。そうなると、理論的より猶一層奥まりたる心証的になってくる。即ち「法界観」だの「唯識観」だのいう様なことは修行的というよりは、分明に悟道的に解されている。法華でも「三観」といえば、明らかに観念であるから、之を検別して「理観」と片付け、その外に今一層深淵なる「事観」という異目を挙げる。故に法門としての三大秘法を、観行としてことわるときは「事の一念三千」と称するのである。

 所謂「三大秘法」は『口に唱えたり、身に礼拝したり、業に実行したりする法』であって山林空閑に静座して思惟観念する法でないのが論より証拠である。さりとて、三秘の外に、別に一念三千の観法を如何様に修せよという教訓は、聖祖の遺教にかってない。故に手っ取り早く言えば「観」ということを理論的心証的に用いるのを「理観」と名づけ、それを実際的活動的に用いるのを「事観」というのである。これが一番解りやすい。「理観」とはしかじかに観ずること、「事観」とはかようにこのように観ずることと無理やりに哲学化して論じたがるには及ばない。『本化の教観』とはそんあ不手際なものではない。 空假中の三観などいう、半無責任な議論を用いず、直ちに「三大秘法」という具体的事法を示して身心をこれに集中し妙用するの活法門を顕したのは、その根拠がまさしく「本門事円」の立脚地に在ったからである。但し天台でも「事」と「理」とは区別するのであるが、彼の所謂「事」は『迷いそのものを事として、悟りの體たる理に望めた意味のもの』である。当家の所謂「事」とは、迷悟を超脱した『本佛果上の事』のことで、「理」の修観的説明的なるに対して、本領的実際的の意味で「事」というのであるから名は同じでも、全く内容が違う。

 要するに『本佛より縁起したる法界』なるが故に、『本能的に本佛の法則に遵うべきものである』という根本断定より、一足飛びに『甚深之事』たる本佛の所作を修すべく、一意専心に「妙法蓮華経」を心身に持たせる。それを「事行」又は「事観」というのであって、決して「理観」のひそみにならって、『彼が斯く観じたる故、此は爾か観ぜよ』と、観念の上で天台の向こうを張るための「観法」ではない。彼は法華経を観法の上に扱い、此は法華経を人生の事実上に移し来たって、実際的解決を加えるという大異點があるのである。もっとも学語としての「事、理」は「理戒、事戒」などの例で、自ずから違うのであるが、ここにいう「事、理」は専ら「観」の上での「事、理」である。それは源と根拠が本門的なると迹門的なるとの相違から来たったもの故、『事理の異目』直ちに『本迹の異目』というてもよろしい。勿論「事観」としての哲学的論証は立派にある。けれども其れは付属であって、「事観」そのものではない。只「事観」を説明するための哲学的弁明であるというに過ぎない。「三大秘法」を直ちに「観」と名付けないことは、所謂「所観の體」であって、「能観」に約したのでないからである。然れども元と能所は一體であるから、その「観」の方面から見れば、即ち『事の一念三千の妙観』で「唱題」は即ち「観」、「信心」は直ちに「観」の要素である。


  其の2 事の一念三千                       ページのトップ

 『一念三千の観法に二あり』と判別を分けて、「事」と「理」とを立てた上は勢いその所謂「事観」なるものが如何に「理観」と異なり、且つ勝れているのかを述べる必要がある。そこで古来事観論の哲学的方面が、漸々開展されてきたのである。私は寧ろ此の意味に於ける哲理論証は、精いよいよ精、博いよいよ博ならんことを望むのであるが、只「事観」とは即ち『事観論』のことであると考えて、たかが権迹諸家の教理に幾分過上したぐらいの結論で終わるのを不可とするのである。一念三千の理を観想して、内智を研き、心証を高め、超世間的に行いすますのを「理の一念三千」と称し、一念三千の妙理を直ちに人生事実の上に発揮して、人を救い、国を治め、世を利してゆく所の活方面に応用するのを「事の一念三千」というのである。同じ一念三千でも、消極的と積極的との違い、自行的と化他的との違い、個人的と社会的との違い、即ち迹門的と本門的との違い、それが『理』と『事』の違いである。

 それでは其の『一念三千』とは全体どういうことかということを極々通俗的に申し上げますと、先ず「一念三千」という法門の目的は『十界互具ということを事実上に結論する』のにあります。是は天台大師が『摩訶止観』の講述に、始めて詳説された法華経の骨髄の法門である。即ち法華経は此の「一念三千」の法門があるから、十界の悉くが全くの成佛が出来るのである。語を換えて言えば、一切衆生に佛の性があるということを、少しの混雑も迂曲もなく、正直正銘に底を尽くし真を極めて説き顕した法門が、即ち『一念三千の佛種』ということである。

 尚一言にして概説すれば

『人の心には大善の佛から大悪の地獄まで、悉くその全面影全内容を尽くして具有しているから、わずかの一念にも必ず三千を具す』

と立てて、「性悪」の理を主張する。性悪とは『性(もちまえ)として善もある通り矢張り悪もある。佛はかたおちに善で、凡夫はかたおちに悪ということは無い』という法華独特の法門である。十界互具というて一界々々に十界を具えているとすれば、地獄にも佛を具していると同時に佛にも地獄を具している。仮に極善の佛と極悪の地獄との中間を、平均点として求めれば、丁度人間が其れである。而してその人間には善も悪も当分にある。一朝無明という煩悩から発生増長して行けば、堕落し悪化してゆく真理より発生増長してゆく法性縁起に従えば向上し善化してゆく。佛にさえ悪の性があるとすれば、吾等の悪性も善化しないことはない。されば悪人も善人になり、バカも智者になり、怠け者も勤勉家になり、卑劣なものも高尚な志を起こすは、必然の道理である。『法界は渾然として円融している。而も底には本佛の光が充ちている』いかなるものも成佛しない道理はない。三千即ち一念にありとすれば、我が一念の法界である。三千悉く我に具わるとすれば、我は法界の中心となる。その三千が元もと我が一念に備わり居るものとすれば、この法界なるものは、全く我がこの一念の現れたるものである。『三千が小さく入ったのではなくて、我が一念が無限に大きい』のである。  この道理を組織的に説いたのが「一念三千」の法門である。即ち三千の数の成立が実証的に之を説明している。

 先ず「三千」とは十界の一々が各々皆「十界」を具しているから即ち「百界」となる。この百界の一々に皆「十如是」があるから、乃ち「千如」となる。この一々の「如是」が、すべて「五薀世間」「衆生世間」「国土世間」の三つを具えているから、そこで「三千世間」となる。この「三千世間」が『一念の心』に具わっているということを「一念三千」というのである。是を天台大師が、観心の法門を盛んに談ぜられたなかに、『玄義』にも『文句』にも、『覚意三昧』、『小止観』『浄名疏』『次第禅門』『四念處』等にも明かさないで、最も持重して五十七歳の夏、荊州の玉泉寺で、弟子の灌頂に対して、『摩訶止観』を説いた。その第五の巻に至って、始めて明かした。所謂『大師の己心所行法門』と称する所のもので全く佛教解釈の新紀元を開いた一大教義である。
 この一大原理が開闡せられた為に、『法界は一大渾然の圓體であって、それが功徳的に向上し、罪悪的に向下し、苦楽迷悟の大活動によりて明闇を為して居るもの』ということが、根本的に把住されたから、これまで通漫に真如縁起や頼耶縁起などの平等観で、仮性的悟道(或は準備悟道ともいうべき)に住して居るものが、一時に根から底から悟を開いて成佛したのである。『佛教の尊いのは、法華経があるからである。法華経の尊いのは、一念三千の法門があるから』である。それを「妙法蓮華経」と名称して、『教権的』に奉持させるのが「三大秘法」である。

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